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No.24259の一覧
[0] ◇ 過去に戻って幼馴染と再会したら、とんでもないツンデレだった模様[ペプシミソ味](2011/01/13 12:55)
[1] ・第2話[ペプシミソ味](2010/12/07 13:03)
[2] ・第3話 【小学校編①】[ペプシミソ味](2010/11/19 08:16)
[3] ・第4話 【小学校編②】 [ペプシミソ味](2010/12/07 17:54)
[4] ・第5話 【小学校編③】[ペプシミソ味](2010/12/07 17:54)
[5] ・第6話 【小学校編④】[ペプシミソ味](2011/02/03 02:08)
[6] ・第7話 【小学校編⑤前編】[ペプシミソ味](2011/02/25 23:35)
[7] ・第7話 【小学校編⑤後編】[ペプシミソ味](2011/01/06 16:40)
[8] ・第8話 【小学校編⑥前編】[ペプシミソ味](2011/01/09 06:22)
[9] ・第8話 【小学校編⑥後編】[ペプシミソ味](2011/02/14 12:51)
[10] ・第9話 【小学校編⑦前編】[ペプシミソ味](2011/02/14 12:51)
[11] ・第9話 【小学校編⑦後編】[ペプシミソ味](2011/02/25 23:34)
[12] ・第10話 【小学校編⑧前編】[ペプシミソ味](2011/04/05 09:54)
[13] ・第10話 【小学校編⑧後編】 【ダンス、その後】 を追記[ペプシミソ味](2011/10/05 15:00)
[14] ・幕間 【独白、新江崎沙織】 [ペプシミソ味](2011/04/27 12:20)
[15] ・第11話 【小学校編⑨前編】[ペプシミソ味](2011/04/27 12:17)
[16] ・第11話 【小学校編⑨後編】[ペプシミソ味](2011/04/27 18:35)
[17] ・第12話 【小学校編10前編】[ペプシミソ味](2011/06/22 16:36)
[18] ・幕間 【独白、桜】[ペプシミソ味](2011/08/21 20:41)
[19] ◇ 挿話 ・神無月恋 『アキラを待ちながら』 前編[ペプシミソ味](2011/10/05 14:57)
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[24259] ・第7話 【小学校編⑤前編】
Name: ペプシミソ味◆fc5ca66a ID:710ba8b4 前を表示する / 次を表示する
Date: 2011/02/25 23:35
 ・第7話 【小学校編⑤前編】


 ◆

 強烈な熱気、生臭い血液の匂いが充満した狭いテントの中、オレは荒い呼吸を繰り返しながら、厚さ0.23mmのラテックス製手袋に包まれた指先を動かし続ける。
 真っ白なシーツへ飛び散った鮮やかな赤、目前の手術台に横たっている少年のカラダ。その肉体はガリガリに痩せて骨が浮き、髪はパサパサ、皮膚に張りは無くまるで老人のように見える。過酷な労働と、慢性的な栄養失調に犯されているこの国の子供達。
 だが……そのカラダの中でドクドクと脈打っている血潮だけは、人種、国籍など関係なく、火傷しそうなほど熱い。

「汗、それとモスキート直を、次にマチュー用意、2-0で」
「ドクターアキラ! こちら、ドゥルック<血圧>低下! プルス<脈拍>微弱です」 
「バソプレッシン40U投与! こちらを縫合後すぐに向かう。輸血はどれくらいでやってる?」

 様々な言語が飛びかう空間の中で、滝のように吹き出す汗を拭って貰いながら、必死で両手と頭脳を動かし続ける。
 エアコンなんて気が効いた物の無い、数人が入れば満員になるこの狭いテントの中で、オレは4時間くらい前からずっと指示を出し、診療を繰り返し、次々と運び込まれてくる患者のオペを行い続けていた。
 いや、手術<オペ>……なんて呼べるものじゃない。オレのやってる事はただ、必死で血を止め、心臓を動かし、呼吸を確保するだけの流れ作業。
 白衣の下に着ている服はトランクスまで汗でびしょぬれで、ズボンを通し床にまで汗が滴り落ちていく。あまりの暑さにひっきりなしに水分を補給しながら、ただ延々と手を動かし続ける。

「ドクター! 血圧回復しました、が、銃創部より出血が止まりません。止血効きませんっ! ど、どうすれば!?」
「……よし、こっちは済んだ。すぐに向かう! 大丈夫だ、セリシール。まず落ち着いて術野確保を。ベバラッ、その子を出して次の患者を入れるんだ」

 今から2年前のオレと同じくらいパニックに陥っている、赴任したばかりの若い女医、セリシールへ指示を飛ばし補助スタッフにもフォローを頼む。まるで戦場のような騒がしさ。だが、近くのテントでも同僚のドクター達が必死で救命を行なっている。オレのチームが足をひっぱるわけには行かない。
 
 ――今から半日ほど前、医療キャンプを設置している街の学校近くで、突発的に暴動が起きた。それを鎮圧しようとする軍隊と反抗する民衆の小競り合いは、日頃の不満を火種として、あっという間に大きな騒ぎとなったらしい。
 この国では、隣国がずっと内戦を続けていた所為もあり、驚く事に一般市民が簡単に銃を手に入れることが出来ると言う。それも護身用の拳銃などではなく、軍隊で使用されるようなとても強力な兵器。
 そのAK-47という名前の自動小銃を互いに手にした軍隊と民衆は、街中であるにも関わらず、容赦の無い銃撃戦を始めてしまう。それに巻き込まれてしまった近くの学校の生徒達。
 結局、軍の戦車やヘリコプターが出動し鎮圧を行い、それから約30分後、半ば地獄と化したかのような血塗れの環境で、オレ達NGOは活動を始めた。
 どちらが悪い? とか、どうすれば防げたのか? 誰もが平和に暮らすためには? など様々に考えねばならないことはあるのかも知れない。
 だが、オレ達はただの医者で、――思想、宗教、貧富、体制、など全て関係ない。ただ消えそうになる命を救うだけの存在だ。例えそれが……死に対する無駄な抗いだったとしても。

「クーパー、それからこっちは意識レベル低下……挿管の準備! ――ッ! セリシール落ち着け、君の力が必要だ! 気道確保を」
「は、はいっドクターアキラ、すいませんっ」

 金髪、碧眼、整った繊細な顔立ち……ドラマなどで良く見る典型的な白人女性といったセリシールだが、その顔色はこの熱気の中でさえ恐ろしいほど血の気が無く青ざめている。パニック一歩手前でギリギリ踏みとどまっている……といった感じだ。
 休憩させるべきか? と一瞬迷うが、しかし圧倒的な人手不足だ、なんとか彼女に踏ん張って貰うしかない。それに、これはセリシールにとってもまたとない経験になるはず。ここは研修用の大学病院ではない。オレはあえて矢継ぎ早に指示を繰り出し、彼女に何も考えさせないようにしていく。

「挿管完了! くそ、出血性ショックだ。セリシール、ドーパミン投与急げ、いいか?」
「は、はいっ」
 
 2年前、日本の大学病院で研修医をしていた頃とは比べ物にならない、素早く荒っぽい診断。いや、でなければ間に合わない……と嫌になるほど肌で学習していた。ココと日本などの先進国の最も大きな違い……それは助かった後のケアだからだ。
 救命処置後、日本であれば清潔な環境、充分な薬、定期的な予後診療、栄養補給が当たり前で、それはつまりある程度の余裕があるという事。だからこそ、よほどの緊急でなければ診療に時間をかけ、アフターの事を検討し、例えば傷跡の残らない手術選択、できるだけ欠損の少ない手術などを行なうことが出来る。
 けれどこの場所は違う。何よりも優先されるのは『生き延びる事』それが全て。その為に余計な負担を肉体にかけるわけにはいかない。無駄に時間をかけ、肉体に負担をかければ、それだけ死亡率は高くなる。救命処置後に充分な薬投与、ケアなど期待出来ないのだから。
 だから『生き延びさせる事』だけを優先し、シンプルに、判断を迷わないように、何よりも素早く。

「縫合終了! バイタルは安定したか? なら……」
「すいませんドクター、こちらの子供、つい先ほど物陰から発見されて……心肺停止状態ですっ!」
「――ッッ!」

 テントの入り口からあわただしく運び込まれる新たな少年。その顔色、出血部位、創傷の状態、診た瞬間、それは絶対に手遅れだとわかる、わかってしまう患者。

「……手遅れだ。次の患者を入れて下さい」

 そういう時、オレに出来ることは止まらない事しかない。目の前の患者が絶対に救えないからこそ、せめてその次の患者は救えるように素早く動く。もしも、その次の患者さえ救えなかったとしても、更にその次の患者は救えるように。
 ――オレ達には、そうやってしか、死者に報いる方法は無い。

「セリシール、動きを止めるな。時間が無駄になる」

 きっとテントの外で、この少年の親は泣くだろう。努力せずに見棄てたと、オレを怨みさえするかもしれない。……けれど腕を止める事は出来ない、ここで挫ける事は許されない。動揺を指先に表さないように深呼吸を繰り返しながら、必死で次々と運び込まれる患者に処置を下していく。脳裏に浮かぶのは、このNGOに来て数週間が過ぎた頃、リーダーセルゲフに言われた言葉。
 
 ――2年近く前の事。今日と同じような突発的な紛争が起こり、その時のオレはほとんど何も出来ずテントの中で右往左往するばかり。
 その夜、日本とは比べ物にならない劣悪な環境、簡単に失われる子供の命、自分の技術のつたなさ、精神の情けなさにショックを受け、自室のベッドで独り嘔吐を繰り返しながら泣いていた。
 目を閉じれば、手足が引き千切れた小学生くらいの少年の姿や、血まみれの我が子を抱きしめる母親の姿がフラッシュバックして、オレの心を強烈に打ちのめす。
 吐く物はとうに無くなって胃液しか出ない。熱病に浮かされたように唇はカサカサ、奥歯がガチガチと鳴る。全身に震えが走り止らない。
 ……が、そんな状態でも、肉体、精神ともに限界を越えたのか、いつの間にかうとうとと浅く眠っていた。しかし数時間後、これ以上ないほど酷い悪夢を見て飛び起きる。パニックと己に対する情けなさで再び吐き気が起こり、ベッド脇に置いていたバケツに顔を伏せたオレの背中……それがゆっくりと、力強くさすられた。

「――!?」
「アキラ、私だ。落ち着いて深呼吸をしろ。いや、無理に話そうとするな。何も言わなくていい」

 大きな手がリズムよくゆっくりとオレの背中を撫で、セルゲフの低い声が部屋の中に響く。どうしてオレの部屋に? などの疑問が一瞬だけ浮かぶが、沸き起こる嘔吐感を抑えきれず、再びバケツへ顔を突っ込む。

「君が今日の事で自分を責めるのは勝手だし、慰めようとは思わない。私に君の感情を理解してあげる事は出来ないし、そのつもりも無い。確かに君は未熟で、判断も遅く経験も足りないからな」

 年月を積み重ねた巨岩のようなセルゲフの低い声……それが、オレの心に染みこむように響いた。背中をなでる大きな手の温もりと冷徹な言葉が、パニックを起こしそうだったオレの心を静めていく。

「だがこれだけは言える。アキラ……自分を責める暇があるのなら、あの時どうすれば良かったのか? と考え続けろ。苦しくて嘔吐しながらでもいい、どういう状態だと人は助からず、逆にどういう症例なら生き延びさせる事が出来るのか、と一つずつ症例を思い出して考え続けるんだ。これからも多くの人の死に直面する。それは医者として生きる以上、決して避けられない事だ。もっと悲惨な事だって沢山ある」

 セルゲフの言葉で、再び脳裏に様々な人の死が浮かび上がる。跳弾がめり込みぐちゃぐちゃになった内蔵。逃げ惑う人々に踏まれた赤子。触診をするオレの指先で、どんどん体温がなくなっていき、まるでゴムのようになっていく肌の感触。
 あらゆる死の映像が脳裏に浮かぶ。自分に対する嫌悪、無力感、生きている意味、存在している意味などがぐじゃぐじゃに脳を掻きまわす。

「いいかアキラ、私たち医者は誰よりも多く人の最後を診る。それはまるで、自分が死神になったような最悪の気分だ。だがな……だからこそ、それを教材として、次に生かすための経験として受け止めねばならん。自分は無力だ、情けない、可哀想だと己を責めて泣くのは簡単だ。……だが、それだけでは先に進めない。人の死をしっかりと受け止め、分析し、次の人を救う為の糧とするんだ。でなければ……人々の死が本当に無駄になるぞ。理解できるか?」

 セルゲフの静かな声に、鼻水と涙を流し、唇に胃液をつけたままのオレは何度も頷いた。自分を責めるのは簡単で、肝心なのはそこから先に進む事。それこそが唯一、死んだ人達に報いる方法になる……と。
 ――正直に言えば、その時のオレはリーダーセルゲフの言葉の意味がぼんやりとしか解らなかったし、2年が経った今だって、きっと完全にはわかっていないんだろうと思う。けれど、その言葉にどこか救われた、心が楽になった。
 自分を責めて泣きわめく暇があるなら、それを正面から受け止めて未来を目指す事。オレは今も、人の死に向き合いながら、必死に足掻き続けている。

「全身麻酔を行う。硫酸アトロピン0.5、導入急いで! いいぞセリシール、君はよくやってる、引き続きフォローを頼む」
「……は、はいっ、ドクターアキラ。フォロー入ります!」

 涙で目を真っ赤に腫らし、唇を噛みしめ、それでも必死に動くセリシール。それから、オレの指示で動くスタッフ達。彼らの努力を無駄にしない為にも、オレはもっともっとスキルを磨く。
 まだまだオレには経験が足りない……いや、きっと医者に完全な経験なんてモノはないんだと思う。ただ一瞬、一瞬を無駄にしないように、ギリギリまで人を救う事。そして救えないなら、その次こそは救えるように。
 そして、いつか『オレ』の技術と経験を誰かに受け継いでもらえるように。人はどんな死に方をしても、きっと無駄じゃ無い。そう信じて頑張っていくと覚悟を決め、NGOでの嵐のような日々をオレは過ごし続ける。
 
  

 ◆◆


 「うう……」

 枕元に置いた目覚まし時計に手を伸ばし、『ピピピ……』となり続ける電子音を叩き止めた。何か……くっきりとした、まるで現実のように濃い夢を見た気がする。
 ここ数日……ボクはずっと夢見が悪い。学校での授業中や、家での勉強時間、常に臓器のデッサンや救命処置のイメージトレーニングをしているからなのかもしれない。
 いや、それだけじゃなく、数日前『オレ』から知識を譲られた事が関係しているに違いないと思う。毎晩、夢の中で強烈な体験をしている……というぼんやりした記憶がある。夢を見るたび、何かボクの心へ大切な経験が重ねられていく充実感があった。
 しかしその代償としてだろうか、夢の内容は一切思い出せないけど、寝起きとは思えないくらい倦怠感がある。それに今日の夢は一段とハードだったんだろう、寝汗が酷くパジャマがびっしょりと濡れていた。

「ふわぁ……、おい、桜。起きてるか? って、そっか……」

 二段ベッドの上段で背伸びをしつつ、下段で眠っているはずの幼馴染へ声をかけ、そこでボクは気付く。
 今日は金曜日……つまり明日は休みで『ボク』と『オレ』が結びついた不思議な夜から数日が過ぎ、ようやく初めての週末が明日へ迫っていた。

「金曜だから、桜はアッチか」

 ポツリ……と呟きながら、ベッドの階段を下りていく。毎週末になると幼馴染は実家で過ごすのが日課。桜のお父さん――とある工場に単身赴任をしている笑顔がとっても温かい人――は日曜日から木曜日までという勤務形態で、毎週金曜日になると帰ってくるからだ。
 桜のお母さんである『ママ』とは大学の同級生だったらしく、偶然東京のバーで再会し、それが縁になって結婚。すぐに桜が生まれる事になって、実家のあるこの町へ自宅兼バーを建てた。なんでも『ママ』が暇すぎるのが嫌だと駄々をこねたらしいが……。
 なんにせよ、幼馴染の家では週末、親子水入らず三人で過ごすのが日課。まあ、ボクも母さんに急患が入った時なんかは、いつもとは逆でお呼ばれする事も多いけど。

(そっか、放課後どうしようかな)

 てきぱきと登校の準備をしながら、ボクは今日の放課後の事を考える。今まで毎週末は騒がしい桜がいない為、自宅で静かに勉強を行なう日々だった。真っ直ぐ帰宅してから、食事と入浴以外の時間はひたすら参考書に噛り付くだけの日々。
 けれど、今の『ボク』にはそこまでする必要性が無い。なら、今度はデッサンを続ける? それとも桜の家にお邪魔する? それもいいけど……しかし。

「……図書館、行ってみよっかな」

 この数日、町立図書館に行ってみたいとぼんやり思っていた。理由として、学校の図書館へ絶対に置いてないような、高度な医学書が蔵書されているだろうから。大量の本を寄贈した新江崎家というのは由緒正しい医者の家系だし、色々な医学書が読めるかも知れないと思うと期待で胸が高鳴る。
 そう……それがドイツ語や英語で書かれていても、今のボクならなんなく読める。しかも、普段ならそんなモノを読んでたら桜に見つかって、もの凄く不審に思われるだろうけど、今日は都合のいいことに幼馴染はすぐに帰宅するはず。
 つまり一人きりで、心ゆくまで読書を楽しむことが出来るという事だ。

(うん、そうしよう)

 考えれば考えるほどいいように思える。特に桜とは数日前、……あの『ぞわぞわー』ごっこをした夜以来、ボクはなんとなく気恥ずかしくて――桜は何とも思っていないどころか、むしろどこか子悪魔っぽく、積極的になったような気がするけど――顔をあわせ辛い。
 それに幼馴染の両親に申し訳ないような、気後れするような不思議な気持ちもあった。この週末くらいは桜と離れて過ごし、モヤモヤしたような訳の解らない不思議な感情をスッキリ整理したい。

「よしっ、いってきまーす」

 母さんは早朝の往診に出かけていて誰もいない自宅。けれど元気良く挨拶をしながら、ボクは今日の第一歩を踏み出した。とりあえず桜を迎えに行って登校。昼休み、放課後まで普段通りに過ごし、帰りは町立図書館で独りじっくり医学書を読む。我ながら完璧な週末の過ごし方だと思う。
 ――まあ、この見通しが甘すぎた……と後でたっぷり反省する事になったのだけれども。


 ◆◆◆


 『針のむしろ』ということわざが世の中にはあるけれど、このことわざを思いついた人ってよほど辛い思いをしてきたんだろうなぁ……と、ボクは半ば、現実逃避をするように考え続けていた。
 それというのも、シーンとした恐ろしいほどの静寂が支配している町立図書館の中、ボクのすぐ目の前には新江崎さんが座っているからだ。もしも視線というものに物理的な力があったなら、彼女の視線はボクの胴体を貫通していたに違いない。
 堂々と胸を張り、まさにあだ名通り『姫』の如く椅子に座っている新江崎沙織。ツン……と普段通りの澄ました表情で、本に顔を埋めるようにしているボクを睨んでいた。細く整った眉は左目の方だけが少し上がって、唇は不機嫌そうに固く結ばれている。とても不穏な雰囲気。
 けれど、ボクの前から新江崎さんが立ち去る気配は無い。

(……な、なんで、新江崎さんがボクを睨んでるの?)

 何か、とんでもなく厄介ごとに巻き込まれそうな気がして、ボクはどうしてこうなってしまったのか? を順序だてて思い出していく。そう……途中まで、学校が終わるまでは普段通り、順調だったんだ。
 
 ――ようやく今週の授業が全部終わった放課後、委員長、神無月恋と明日土曜日に隣町へ買い物に行く約束をしたあと、ボクは当初の予定通り町立図書館に向かった。桜が「一緒に帰ろうよ!」と散々ごねたけれど、いくら大事な家族と言っても、いつもいつもアイツの我儘に付き合ってばかりもいられない。
 ふくれっつらをしてしぶしぶ家に帰っていく桜を見送ったあと、ボクはちょっと興奮しながら改築されたばかりの図書館へ入った。

「おお……」

 改築、増築されたばかりの図書館は入り口で綺麗な司書さんが微笑んでいて、噂で聞いていた話よりずっと素晴らしかった。図書室を取り囲む大きなガラス張りの壁が、外光を柔らかく取り込むようにデザインされており、読書するのにとても良い明るさを提供してくれている。
 豊富に飾られた観葉植物のグリーンが美しい、入り口にはパソコンも置いてある2階建ての大きな建物。所々に柔らかそうなソファーが設置され、ゆったりと読書を楽しめそう。
 蔵書も、沢山の大きな本棚に様々な種類の本がキッチリと並べられており、もっと早くくれば良かった……とボクは心から悔しく思った。

「えっと」

 それで、目的の医学書は……? と広い館内を見物しながらうろついていたボクは、肝心の医学書だけが全く見当たらない事に気付いた。その時、ボクはあっ……と気付く。
(もしかして、閉架書庫なのかもしれない)
 ほとんど利用されることが無い本や古くて貴重な本は、閉架書庫として図書館の倉庫に収められている事がある……と、図書委員の桜に聞いたことがあった。確かに医学書は普通の人は読まないだろうし、新江崎家が寄贈したモノなら希少で貴重な本も多いんだろう。
 だけどここは町立図書館だし、司書さんに言えば普通に読ませてくれるはず……、そう考えをまとめ、ボクは入り口で微笑んでいた綺麗なお姉さんに頼んだ。

「じゃあ、ここに名前と年齢、学年、あと住所と電話番号を書いてもらっていい? 利用者カードを作ったら呼ぶから、少し待っててね」
「あ、はい」

 お姉さんに言われるまま必要事項を書き込んだあと、手近な本を抜き取って椅子に座る。カチャカチャとキーボードを叩くリズムの良い音を聞き流しながら、ゆったりとした座り心地の良い椅子の感触を満喫する。
 こんなゆったりした放課後の過ごし方もいいなぁ、とボクは本にぼんやり視線を泳がせながら思う。最近、夢ですごく疲れていたし、桜はなんだか意地悪な小悪魔っぽくて胸が変な感じだし、恋は笑ってばっかだし……こんな安心できる環境って、なんだかとても……とボクの気が緩んでいた瞬間。

「あら……柊クン? 貴方がココに来るのって初めてね。他所者の秀才さんが、何の御用なのかしら?」
「――あ、新江崎さん? いや、別に」

 後ろから突然かけられたささやき声。その小さな音が、元々艶のある彼女の声を更に強調しているように感じる。
 美少女……としか言いようの無い美貌。あい変わらずのブレザーの制服姿で大きめの胸元を飾る赤いリボン。短いスカートからスラリと伸びた足は黒いタイツに包まれて、腰まで届く黒髪は濡れたように妖艶。なんというか……強烈なインパクトだ。

「……」

 しかし彼女はそれ以上の言葉を発さず、ボクの前の椅子に腰掛けた。つまらなそうな、どこか怒ったような表情で、長い足を組んだポーズのまま、ジ……とボクを睨み続ける。
 ボクとしては、元々図書館の中で会話は控えなければならないと思うし、特に新江崎さんに話す事も無い。はやくカードが出来たって声がかからないかな? と願いつつ、居心地の悪い思いをしていた。
 が、中々お姉さんからの呼び出しが無い。背後でさっきからカチャカチャとキーボードを触る音が鳴っているけど、そのままジリジリとした時間が過ぎていくだけ。
 ――それが今の状況で、さっきまでの穏やかな気分が嘘のように、とても居心地が悪かった。

「…………私にお願いしなさいよっ」
「え? な、何か言った?」

 数分間の沈黙を破り、何かブツブツ……といった感じで新江崎さんが口を開くが聞き取れなかった。が、その表情は理不尽な事に、怒っているようにしか見えない。ジト……とした鋭い視線、赤くなった頬。

「もう、いいわ! 医療関連の本が見たいんでしょ? コッチよ。ほとんどパパの私物で、医学書だけは寄贈じゃなくて新江崎家が町に貸し出してる形式なの。ほら、グズグズせずに早く来なさいよ、ああ、それから、これが貴方のカードだから。私が受け取ってあげてたの。か、感謝しなさい」
「え!? ええっ?」

 ポンといった感じで無造作に投げられたカード。それを慌てて受け止めたボクは、新江崎さんの勢いに飲まれるように、彼女の後を追い、別のスペースへ移動していく。そんなボクを見送るように、ニッコリと微笑みながら手を振ってくれる司書のお姉さん。
 頭の中は何が起こってるのか? 状況が全くつかめず混乱するばかり……でも、新江崎さんの入った場所へ足を踏み込んだ途端……。

「うわぁ……すごい……」
「どう?」

 図書館の奥、増築された部分の更に隠された場所にあった倉庫。そこには壁一面に様々な医学書が並べられていた。快適な湿度と温度に保つ空調設備が完備され、更に奥にはゆったりとしたソファーや机、パソコンやコピー機まで置いてある。
 置いてある書籍は古そうな本から、新しい物まで様々だったけど、どれも大切にされていると一目でわかった。

「本当はね、ママが捨てるって聞かなかったんだけど……捨てたら医者になるの辞めるわって言って……ここに造らせたの」
「凄いよ……、こんなに沢山。新江崎さんのお父さんって、すごく立派なお医者さんだったんだ。ほらっ見てよこれ、こんなにボロボロだけど、すごく丁寧に直して書き込みが……」
「――――ッ!? あ、当たり前でしょ? わ、私のパパなんだもの。失礼だわって、きゃうっ」

 ボクの背筋をゾクゾクした興奮が駆け抜ける。手近に抜いた本には細かい部分に色々な書き込みがあって、かつてこの本を使っていた人がどれだけ真摯に医学へ取り組んでいたか一目で解った。
 新江崎さんの手首を握り彼女へ見せ付けるようにして、同じ本を覗き込みその書き込みを示す。ページをめくる度、持ち主への尊敬の念が沸き起こる。

「見てよ、ここなんてさ……ほら」
「あっあぅ、そ、その……柊クン。か、顔が、お顔が近い……その……あ、あの……」

 ゾクゾクとした興奮……母さんはボクの前であまり必死に勉強してる様子を見せた事がなかった。だからあまり解っていなかったけど、こうやって他の医者が勉強していた形跡を見ると、ボクが今まで勉強に打ち込んでいたことは間違っていなかったんだって……肯定されたような気がした。
 そして、ボクももっと勉強して技術を磨かなきゃならない……と強い決意を抱く。
 ――そう救われたように感じたボクは、他の本も読んでみようと我に返って……、新江崎さんの手首を掴んだまま、メチャクチャ顔を近づけていた事に気付いた。

「うっうわわわっ、ご、ごめんなさいっ」
「――――ぅぅぅ!!」

 メチャクチャに怒っているんだろう。顔を恐ろしく真っ赤にした新江崎さんは、何も言わずに勢い良くドアを開け外へ出て行く。そのパタパタと遠ざかる足音を呆然と聞きながら……ボクはゆっくりとため息をついた。  



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