・ 幕間 【独白、桜】
◇
初めて兄さんから助けて貰ったのは人形だった。
――それは『兄さん』とまだ呼んでおらず『あきらくん』と言っていた頃の話。私は幼稚園の年長組で『あきらくん』が小学校1年生。
ある日、家の近くに小さな診療所とお家が完成して、誰かが引越しをしてきた。私の住んでいた地域には、周辺に民家が少なくって――農家のおじいちゃん、おばあちゃんのお家が数軒だけだった――すごく興味しんしん。
そして当日の夜にママと一緒に、そのお家へ行った。
小さくっておしゃれな玄関では、びっくりしちゃうくらい可愛い女のお医者さんが出迎えてくれていた。真っ白でコートみたいな上着――『白衣』という単語を知らなかったのだ――は天使の衣装みたい、そしてメガネのすっごく似合う可愛いお姉さんだと感じた。
しかも驚くことに、ママはそのお姉さん先生と親友で、私は興奮でうまく喋れなくて……。そうこうしているうちに、いつのまにか玄関先へあらわれていた静かな雰囲気の子が『あきらくん』だった。
「これからお願いね、桜ちゃん。アキラと仲良くしてあげて」
「う、うん……」
可愛い先生の隣に立っている子。むすっと硬く結ばれた口元、まっくろで強い感じの瞳。背は私より少しだけ大きくって、そしてぺこりと頭を下げられる。
「こんばんは。柊アキラです。よろしくお願いします」
「こ、こんばんは」
幼稚園にいる他の男の子たちとは全然ちがうって感じを受けた。今思えば、兄さんは紳士的ってやつだったんだろうけれど、男の子にそんな態度をとられた事がなかったあの頃の私は、むしろ少し怖かった。さんざんな第一印象だ。
「えっ、アキラ君って1年生でしょ? うわぁ、うちのと全然違うわ。やっぱりノゾミの教育ってやつ?」
「やめて。ね、アキラ。桜ちゃんに子供部屋を案内してあげてちょうだい」
外見どおりの優しそうで可愛い声。そして白衣を着て細いフレームの眼鏡をかけている『のぞみ先生』とママが小さな声で何かを話し出す。ボソボソとした声……大人の会話だとわかった。
「うん、わかった母さん。――桜ちゃん、こっちに来て。あ、ここに段差があるから注意して」
「え、う、うん」
――次の日から、私の世界は変わった。ママはバーを再開、先生はお医者様の仕事で忙しい。当然のように、私とあきらくんは新しいお家で過ごすことになった、2人っきりで。
「ねえ、あきらくん。なわとびしよ!」
「本よんでるからだめ」
「じゃあ、おままごとー」
「うん、あとでね」
なんて嫌なヤツだって、当時の私は思ったものだ。私の部屋とは全然違う、おもちゃひとつ転がっていない片付いた部屋の中、いつも本を読んでいる男の子。何を誘ってもそっけない態度。おやつを食べた後も自分で片づけをして、私の分までコップを洗うイヤミな良い子。
「いいもん。一人で遊ぶ!」
「うん」
退屈だった私はパパに買ってもらったクマのぬいぐるみや、女の子の人形を使って独りで遊び続けた。けれどそんな日常が1週間ほど続いたある日、それは一変する事になる。
「――っっ! ああっ!」
「……?」
森へ出かけた少女がクマに出会い、崖から落ちそうになった所を間一髪で助けられる……というシーンで遊んでいた私。TVで見たCMのように、クマさんが腕一本で少女を引き上げる――『ファイトー!』というCMが好きな変な子だったのだ――という所で、あまりに感情移入しすぎた私はクマの人形の手を引っ張りすぎて……。
「ムーさんの手が、手がとれちゃった!!」
レモン色をしたクマのぬいぐるみの腕は、根元から見事に引きちぎられていた。
元々散々に遊び続けたモノで、お出かけする時や食事時間、寝るときだっていつも一緒にいた人形だった。その所為もあったんだろうけれど、当時の私は納得なんてできるはずもない。ショックのあまり泣き叫び、周囲にあったこまごましたおもちゃを手当たりしだいに投げ散らかした。
いつも一緒にいてくれたムーさん。お仕事で忙しいパパとママの代わりに私と遊んでくれた大切なムーさんの人形が……。
「ね、ちょっと見せてごらん」
「うううっ、……え?」
普段、無愛想でそっけない『あきらくん』。けれどその時の彼は、真剣な顔、まっすぐな瞳でじっと私を見つめていた。
「なに?」
「その人形。ちょっと見せてもらっていい?」
まるで、パパ――1週間に2日しか会えないけど――のような優しい笑顔と声だった。けれど瞳だけはキリリと真剣に輝いていて……。
「うん……」
痛々しく腕のとれた人形を私はそっと彼に差し出す。よだれやいくつものシミ、汚れが付着したムーさんの人形を、けれど『あきらくん』はやさしく抱くように受けてくれた。
そして、怖いくらい真剣な眼差しで外れた箇所を見つめる。口元は考え込むように結ばれ、太めの眉は少し眉間へと寄っていた。
――TVで見たアニメの『めいたんてい』のように。
「さくらちゃん。これなら直せるよ、たぶん」
「えっ、本当!!」
落胆から歓喜へのジェットコースター。今まであんなに気に食わないって思ってた『あきらくん』が、全然別人に思えた。
相変わらず真剣な瞳で、なんども取れた箇所を見つめている彼。その動作すべてに目を奪われて離す事ができない。
「中の綿がかなりよれてるから、うん……新しい綿を詰めて縫えば直る」
「やった!! それって今スグに出来るの?」
小さな体が震えそうな喜び。しかし、それは次の一言で無常にも打ち砕かれた。
「ううん、今は無理だよ。針と糸を勝手に使ったら母さんが怒るし、きっと悲しむ。母さんを悲しませるような事、ボクは絶対にしない」
「……え、でも」
歓喜から再びの落胆。望みを絶たれると書いて絶望と言うのであれば、これは幼稚園生の私が初めて味わったソレだろう。
再び涙があふれてくる。期待させるだけさせといて、結局『あきらくん』はヒドイって思った。しかも、そんな私を置いて彼はすたすたと部屋を出て行く。
「ううううううううっっっ」
時計はまだ夕方の4時で、先生が帰ってくるのは数時間後。もし、先生にも断られたら本当にママに頼むしかなくなる。
けれど仕事明けのママはすぐに寝ちゃう。なら、ムーさんが直るのはいつになるのか? そもそも壊しちゃった事で怒られるかもしれない。
悔しさと悲しみ、『あきらくん』に対する怒りと落胆。そんないくつもの感情があふれだし、次々と涙がこぼれる。すぐにでも大声で泣き叫びそうな、その時。
「だから、応急処置をしよう」
子供部屋の中に、静かな――でも力強い――声が流れた。
「ううっ、――っう? おーきゅーしょち?」
いつの間にか部屋へと舞い戻っていた『あきらくん』。右手にムーさん、左手には救急箱をしっかりと持ったまま、私を安心させるように笑顔を浮かべていた。
「うん、応急処置。だって、さくらちゃんが今夜寂しいと困るだろ?」
またもや胸にあふれ出す希望。言葉の意味はわからなかったけれど、それはどこか特別な響きを持って私の小さい胸を高鳴らせた。彼の落ち着き払った雰囲気がすっごく頼もしくて。
幼い私は絶望と希望、悲しみと喜びを何度も交互に味わってぐちゃぐちゃ。うまく喋ることだって出来ない。
「名札についてた安全ピンを使うよ。このままじゃ腕をなくしちゃうかもしれないし、綿だってはみ出るだろうからさ」
「う、うん」
何を言っているのか全然理解なんて出来なかったけれど、『あきらくん』の迷いがない動作だけはしっかりと見つめていた。
優しく床へ置いたムーさんの腕に小さな何かを刺し、小さくブツブツと呟きながら彼が救急箱から包帯を取り出す。一瞬の停滞もなくそれをハサミで切り取って……。
「ふわぁ」
くるくるくるっと、まるで魔法みたいだった。あっという間にムーさんは、千切れた右手と肩を包帯で固定されて、
「はい、さくらちゃん」
ポンっと私の腕には、包帯がきれいに巻かれたムーさんがいた。
言葉もない。体の奥から沸き起こる喜びが、小さな手足から背中、腰の奥、頭から髪の毛の先までしびれるくらいに広がっていた。
あきらくんは『めいたんてい』じゃなくって『おいしゃさま』なんだ!!
稲妻にうたれたような感情の中、その確信だけがグルグルと胸の中をめぐる。
「あ、ありがとうっ」
「いいよ、べつに」
再びそっけない態度を見せながら、私が投げ散らかしたおもちゃを片付け始めるあきらくん。今までだったら、その様子を横目で見ているだけだったけれど……。
「さ、さくらも手伝うね!」
「あ、うん」
私は彼のあとをついておもちゃを片付ける手伝いをした。胸の中は感動と感謝、そして言葉にできない不思議なもやもやでいっぱい。
そこには『あきらくん』への悪感情など、ひとかけらも残っていなかった。
――そうしてそれからの日々は、退屈とは無縁の楽しい時間となった。
良く言えば元気、ありていに言えばお転婆だった私は、壊れたおもちゃを沢山――しかもママが捨てようとすると泣きわめいていた――持っており、次の日から『あきらくん』に『おーきゅーしょち』をしてもらうのが日課となった。
「きょうのかんじゃさんはコレだからね!」
「……うっ」
毎日、毎日、よく兄さんは相手してくれたものだと感心するけれど、しかし『あきらくん』も結構楽しんでいたんじゃないかな? と少し思う。
当初は面倒くさそうだったけど、いろんなおもちゃの構造を調べたり、分解して組み立てたり、兄さんはそういった細かい作業が好きそうだった。
「ね、直る?」
「ん……、たぶん。ね、ここ持ってて」
「うん!」
ちょっと咳払いなんかしながら、真剣な瞳でおもちゃを調べる『あきらくん』。その横顔、器用に動く指先、うまく直せた時の嬉しそうな口元……全部、全部見ていた。
それは、今も続く恋心の始まりだったのだろう。
そうしていつのまにか『あきらくん』は『兄さん』に、『桜ちゃん』は『桜』『バカ桜』へと変わっていった。同じご飯を食べて、お風呂で泡だらけになって遊び、疲れ果て同じベッドで眠る。本当の兄妹みたいに、いつも一緒の時間を過ごした。
――けれどその呼び方、関係が一晩だけ元に戻った夜がある。忘れもしない、兄さんは小学5年生で私が4年生になり立ての4月。
その日の事を思い出す度、いつも私は泣きたくなる。もっと『何か』を兄さんに伝えるべきだったと、胸の奥が後悔でズキズキと痛む。
未だに『何』を言えば良かったのか? それはわからないけれど。
◇◇
4月、私の名前と同じ花びらが咲き誇る大好きな季節。その夜、私はママの本棚から勝手に持ってきた漫画を読んでいた。兄さんが勉強しているのを時折横目で見ながら、ベッドに寝転んで。
漫画の内容は私たちと同世代の少年少女達が突然、何もない砂漠のど真ん中へ教室ごと移動していた……という話で、めちゃくちゃ怖いのに、でもぐいぐいとストーリーに引き込まれてしまう。
普通は10時くらいに眠る私だけれど、その時はもう夢中になっていて時間が経つのを忘れていた。
「ん? おい、バカ桜! もう12時じゃんか。いいかげんに寝ろよ」
「う、うん」
そんな兄さんの声にさえびくっと震えてしまい、半ば照れ隠しのように毛布へと入り込んだ。やれやれといった感じでため息をつく兄さんを見つつ。……が、その時にふと思い出した。
明日は学校へ鍵盤ハーモニカを持っていかなければならないことを。
「に、兄さん」
「なんだよ?」
間が悪いことにその週は日直で、翌朝に家へ寄って準備する時間はなかった。いや、兄さんよりも早くこの家を出て用意すれば十分に間に合うのだけれど、そうすると一緒に登校できなくなる。
「ちょっとお家に行きたいんだけど……」
「ん、行ってくれば?」
こういうそっけなさは昔と何一つ変わってなくって腹が立つ。が、今まで読んでいた漫画の怖いシーンが脳裏に張り付いて離れない。
「一緒に……お願いっ」
「は? 何でだよ」
兄さんは眉をひそめながら面倒くさそうに言う。確かに私の家までは歩いても5分とかからない。わざわざ2人で行く必要なんてない……けれど、どうしても怖かった私は必死に頼み込んだ。いや、駄々をこねた。
「ああもうっ、バカ桜! わかったよ、この……うるさいから黙れ」
「にひひ。やったっ」
『なんだかんだ言っても兄さんはちょろい』というのが私の根底にはあった。今までどんな無理難題や困った時も、兄さんはいつも力になってくれる存在で……まあ、甘やかされてたって事なんだろうけど。
「あ、でも静かにね。ママに見つかるとめんどくさいから」
「うん」
ママはバーで『ママ』をしている時、娘の私から見ても綺麗だと思うけれど、けっこうおしゃべりで絡んでくる。兄さんに対しても、『好きな子はいる?』『うちの桜ってどう思う?』『私とお母さんってどっちがキレイ?』などなど、途切れることなく質問をする。
この時間なら間違いなくお酒を飲んでるだろうし、静かに裏口から入って部屋へ行き、鍵盤ハーモニカだけを持って逃げるのが最上だと思う。
「……兄さん、ここで待ってて」
「……うん」
あっという間にたどり着いた家の裏口から侵入し、兄さんをバーへと続く通路へ置き去りにして2階の自室へと向かった。
――どうして、一緒に部屋へ行かなかったのか。この瞬間を私は、今でも悔やむ。
手際よく目的の鍵盤ハーモニカを持ち出し、1階へと降りた。が、そこに居たはずの兄さんが見当たらなくて……。
「兄さん、どこ……?」
返事はなく、暗い廊下に私のささやき声だけが響いた。
なら、ひょっとして何かの拍子でママに見つかってしまい、兄さんは店で絡まれているのかもしれない……。そう考えた私は真っ暗な廊下に一歩、足を踏み出した。
その瞬間に聞こえてきた声。今、思い出しても体が震える。兄さんはどんな気持ちで、その声をきいていたのだろう、と思うと。
「だから! そんなのノゾミの考え過ぎでしょ! アキラ君とアンタが血がつながってないからって、それが何なわけ!? ノゾミは立派に母親してるわよ、私なんかよりずっとちゃんとしてるわ!」
「うるさい、うるさい! アキラの我侭ひとつ聞いた事がない。こんなのが母親してるっていうの! 私、私ばっかりが……いつもあの子に救われて。参観日も、運動会も行った事がない、誕生日だって祝ってあげた事なんてないのよ。なのにあの子ったら……、不満ひとつ……。こんなの、こんなのが母親だって言えるの!」
――時間が凍りつくかと思った。ううん、むしろそれを望んでいたのかもしれない。通路の奥、バーの場所から聞こえてきた声は間違いなくママと先生のもので。
その内容のあまりの残酷さ……衝撃が私の心を強くうった。これは絶対に兄さんに聞かせてはいけない!
あんなに先生を誇りに思い、お母さんが大好きな兄さんがこの会話を聞いたらどうなるのか? 一瞬の茫然自失の後、私は兄さんがこの真っ黒な廊下へ居ませんように……、と半ば祈るように呟いた。
「兄さん……」
けれど祈りはどこにも届く事はなく、彼はそこに居た。真っ黒な通路へ、兄さんは座り込んでいた。
声も立てず、泣きもせず、何の身動きもせずに……。
「兄さん……」
今すぐ無理やりにでも、ここから兄さんを引き剥がそう。二人でベッドへ潜り込み、全てが悪い夢であったという事にしよう。
そう願うけれど、兄さんのあまりの様子に私の体は動かない。まるで石になってしまったかのように、足先から首までガチガチに固まってしまい、ただ……大好きな彼を見つめている事しかできなかった。
「ノゾミ! いい? 友人としてこれだけは言っとくわ」
何も聞こえなければいい、時間が止まってしまえばいい、と願うのにバーからは相変わらず2人の声が響いてくる。
「良く考えなさい! アキラ君は医者になるってあんなに頑張ってるでしょう? それはノゾミがしっかりとあの子に……」
「何もしてない! 何一つしてあげられてない! こんなの……アキラのご両親に申し訳なくて……。」
――そこからどうやって家まで帰り着いたのか、はっきり覚えていない。ただ覚えているのは、兄さんがまるで糸の切れた人形のようだったこと。4月だというのに、その体が恐ろしく冷たかったこと。そして、ベッドに潜り込むまで必死に声を押し殺していたこと。
「……っっっ」
同じ毛布にくるまりながら、兄さんのブルブルと震えている体を強く抱きしめていた。何も言葉が出ない。何かを言おうと思うのに、それは叫びにしかならなそうで……。
つい数時間前まで平和だった世界が突如、ドロリとした残酷な本性をあらわしたような気がして。
「桜……」
「に、兄さん……?」
どれぐらいそうやって抱き合っていたのか、ポツリと兄さんが呟いた。暗闇の中でさえ、うつろだとわかる真っ黒な瞳で私を見つめながら。
「母さんに……義母さんにさ……。さっきの事、言わないで」
「え?」
小さいささやき声と共に、私の背中に回された兄さんの手に力が入る。まるで赤子のようにギュッとしがみつきながら彼は呟く。
「だって、ボクが知った事を気づいたら……きっと母さんは、義母さんは悲しむから」
「――っっっ!!」
その時に胸を走りぬけた激情は、今も何だったのかはっきりとはわからない。怒りなのか、悲しみなのか、同情なのか、哀れみなのか。
ただ私に出来たのは、彼の震えている頭を強く、強く胸に抱きしめる事だけだった。私の鼓動で彼の凍りついた体をとかそう……とでもいう風に。
「桜?」
「泣いてよ! あきらくん! 自分自身の為に! 誰かのためじゃなくて、自分の為に泣いていいんだから! 泣いてよ。あきらくん、お願いだから!」
きちんとそう言えたかどうか覚えていない。ただポロポロと涙をこぼしながら、私はぎゅっとあきらくんの頭を、全身を抱きしめていた。
「あきらくん。あきらくんはバカだ。私より、ずっと、ずっとバカだよ。泣いてよ。自分の為に。お願いだから! あきらくん、あきらくん!」
怒り、悔しさ、悲しみと愛しさ。私ではどうやっても先生の代わりにはなれないって痛いほどわかる。でもその時の私ができる精一杯の『おーきゅーしょち』だった。
「――っ」
静かに、声を押し殺しながら『あきらくん』が泣く。熱い涙がゆっくりと私の胸を濡らしていった。暗闇の中で、『何か』を言わなければいけないって思うのに、どうしてもその『何か』が見つけられなくて。
「さくら、さくら……母さん、お母さん……」
「あきらくん。あきらくん……」
ずっと側に居ようって、その時改めて固く誓った。静かな……悲しいくらい静かな泣き声を聞きながら。
◇◇◇
ゆっくりと机から身を起こし、ジンジンと痺れた腕に苦笑しながら私はアクビを一つした。
「なんて夢」
我ながら赤面しちゃうくらい懐かしい記憶。私が住むこの看護大学女子寮……ここから見える桜の木の所為だろうか?
あの時と同じくらいピンク色の花びらが綺麗で……。
「あきらくん……だって」
兄さんも今頃、医大生としてこの桜の花びらの下で頑張っているんだろう。かくいう私もあと1年でここを卒業し、念願の看護士になるのだけど。
兄さんが東京の中学へ進学してから、すっかり離れ離れになった。けれど胸の奥から兄さんの姿が消えた事は一度もない。
あの時の誓いは――わずかも色あせることなく――いまも胸の中へドクドクと息づいている。
「んっ」
背伸びを一つしながら立ち上がる。外出にはちょっとラフすぎる格好だけれど、すぐ近くのコンビニだから問題ない。
時計をチラリと見れば、夜の7時。夜食とちょっとスイーツなんかを買って勉強しようと決める。
「……」
とんとんとスニーカーを履いて、髪を後ろに縛りながらゆっくりと玄関を出る。幾人かの友人と後輩へ軽く手を挙げて挨拶。
ハラハラと舞い落ちてくる花びらに、少し浮かれながら足を出す。風が強く、もうすぐ来る夏を予感させるように少し温かい。
「ふふっ」
元気に横をすり抜けていく子供。兄妹だろうか? きっと目的地は同じコンビニに違いない。仲良く手をつなぎながら、互いに何かを言い合いつつ走っている。まるで、幼い頃の私と兄さんのようで……。
「?」
コンビニはすぐそこ。この横断歩道を渡れば5メートルもない。やっぱり兄妹と目的地は同じみたいで、遊歩道で並んで経って待つ。なんだか少し嬉しい。
――けれど、そこで私は見る。信号が変わった直後、待ちきれずに駆け出す兄妹と、それに気付かずに右折してくるトラックを。
そして、私は…………。
・ 幕間 終
※※作者つぶやき※※
次は恋と司書の微エロ予定で。リハビリがてら。ちょっと本編が重いので。すまぬ、すまぬ。