・第12話 【小学校編10前編】
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NGOでの滞在期間があと半年になった頃、チーフセルゲフが一時フランスへと帰国した。キャンプへ帰還予定は3週間後。
パリにあるNGO本部――オレは行った事はないが、質素な作りの建物らしい――で予算交渉の後、プライベートの用事もあるそう。他ベテランスタッフに拠れば、彼が5年前にリーダーへ就任し初めての帰国だという。
「3週間という短い期間だが、チーフ代理として派遣されたロビン・ハウスマンだ」
外科ミーティング室の中へ、堂々とした低いバリトンの声が響く。中肉中背で眼鏡をかけた40歳くらいの白人男性、帰国したセルゲフの代理としてNGOへ赴任してきたロビン・ハウスマンへ部屋にいる全員が拍手を送る。
初めて会うスタッフにも全く物怖じせず、堂々と胸を張った立ち姿。癖のある黒髪で、顎から口の周りへ髭が生え揃っている。その体からは強い自信と威厳が感じられた。まるで俺たちを威圧するかのような。
が、それくらいでないとココではやっていけない。特にチーフ代理ともあればなおさらだろう。現に、外科チームのスタッフからいくつかの質問が飛び出す。この男の実力と経験を知る為に。
「ところでドクターハウスマンはNGOでの経験はおありですか? それに、ここに来るまではどちらで勤務を?」
手術看護士として頼れるナース、ベバラの野太い声が響く。現在56歳で計6人も子供を育て上げた女傑。がっしりした体型通りの大きな声。
が、ハウスマンはベバラの質問にも全く動じない。黒い顎鬚を触りながら、淡々と口を開く。
「東南アジアで計10回ほどNGOの経験がある。あとは軍医。――そして以前というか、この期間が終わればまた戻るのだが……フィラデルフィア小児病院で胸部心臓外科助教授として勤務している」
「――!」
部屋の中へ声にならないざわめきが広がっていく。スタッフ全員が驚きを隠せずにハウスマンの姿を見つめる。
――フィラデルフィア小児病院。それは世界最高峰の小児病院として名高く、ノーベル生理学・医学賞受賞者を何人も輩出し、新しい術式の開発や治療法の確立にも確固たる足跡を残している。
そして、小児病院での心臓外科医という意味。体の大きな成人に対し生後僅かな小児は――当然ながら――心臓が凄まじく小さい。更に体力も僅かしかない為に、恐ろしいほどの技量が要求される。
つまり、ハウスマンの技術は想像を絶するレベルにあるという事。
「凄い……」
オレは無邪気に喜びながら口の中でそう呟いていた。チーフセルゲフのジェネラリスト――総合医――として、あらゆるトラブルの可能性を考慮しつつ、手術全体のフォローと組み立てをする技術と知識はオレの憧れだ。
が、このハウスマンのスペシャリスト――専門医――としての技術への期待にも胸が高鳴る。フェラデルフィア小児病院の外科助教授……世界最高レベルの外科医だと言っても過言じゃない。
「どうしてこんな人が?」
隣で呟いたセリシールの声も耳に入らない。オレはこれからの3週間、一つでも多くの事をハウスマンから学びとろうと決意していた。
それがあまりにも無邪気な思い込みだとは知らずに。
「では質問も無いようなので解散。ああ、今日はすまないが見学させて貰う。皆、よろしく頼む」
「はい」
堂々としたハウスマンの声に、皆返事を行いそれぞれの予定へと戻っていく。オレもセリシールと2人で、第2救急外科テントへと並んで向かって進もうとする。
が、ミーティング室から出ようとした直前、オレ達はハウスマンから呼び止められた。
「ドクターヒイラギ。そしてドクターロリス。少しいいかね?」
「はい」
「なんでしょうか?」
手術着へ着替える為に、長い金髪を邪魔にならないよう一つ結びにしようとしていたセリシール。ハウスマンの声に振り返りながら、手早くゴムでポニーテイルに縛っている。
その様子を視界の隅にとらえながら、オレもチーフ代理へと正面から向き合う。眼鏡の奥に見える、自信に満ち溢れたハウスマンの黒い瞳と視線が交わる。
「君の手術資料を見た。弓部大動脈全置換術を2時間弱で終わらせていたな……見事としかいいようがない技術。スタッフとのコミュニケーションも良好のようだ。そうだろう、ドクターロリス?」
「ええ、先輩はとても優れた医師だと思います」
「いえ、そんな。皆に助けられて貰っているだけで……。オレなんか全然……」
突然の褒め言葉――しかもオレなんかより遙かにレベルの高い医師から――に動揺を隠せない。日本人独特の謙遜はこういう場面では、自信のなさの表れと受け取られると解りつつも、照れくささから言葉を濁してしまう。
そんなオレの右腕へ軽く触れてくるセリシール。青色の瞳がどこか悪戯っぽく、けれど優しく光る。
「チーフハウスマン。先輩はこの通り……普段は優柔不断っぽいですけれど、手術中は怖いくらい優秀です。私も何度も泣かされましたから」
「おい、セリシール」
「うむ、その謙遜は医師として生きる以上、あまりプラスにはならないだろう。が、ここで呼び止めたのはそんな事じゃない。ドクターヒイラギ、君はここの期間が終わったらどうするつもりだ?」
「え?」
ハウスマンの問いへ咄嗟に答える事が出来ない。
医学部を卒業、研修医期間が終わってすぐにココへ来たオレには、日本で知り合いの医者なんて数えるほどしかいない。その数名の知人に頼み込み、どこかの病院に非常勤バイトとして潜り込むくらいしか……。それとも一旦、義母さんと桜の顔を見たらココへ戻ってくるか?
あと半年しかないっていうのに、何も考えていなかったオレは返事さえ出来なかった。
「その様子だとまだ他の引き抜きはきていないのか? ……珍しい。まあいい、君さえよければ私の関連大学病院の局員として推薦してあげよう。どうだね?」
「先輩っ」
「え……いや、それは」
あまりに唐突すぎる内容に面食らってしまい口ごもる。そもそもオレは、ここで人を救う事だけを考えて生きてきた。これから先の人生について、深く悩む事なんて一度も……。
「突然すぎたか? ふん、少し考えておいてくれ。では話は以上だ。呼び止めてすまなかった」
「はい、失礼します」
「失礼します」
今度こそ助手と2人で廊下へと移動する。隣に立っているセリシールが、何か言いたそうにチラチラとこちらを見つめる視線を感じ、オレは無言のまま視線で言葉を促す。
「先輩っ、すごくいい話だと思いますよ。フィラデルフィア小児病院の助教授からの推薦だなんて……。私も頑張らないと!」
「うん……」
まるで自分の事のように喜んでくれているセリシール。にっこりした微笑みを浮かべ、青い瞳で優しく見上げてくる。
が、オレは決断できない。もちろん良い話だと理解しているけれど、どうしても踏ん切りがつかなかった。
「先輩、どうかされましたか? うかない表情ですけれど……」
「いや、何か現実味がなくってな。この場所に比べて、あまりに違いすぎる環境だと思ってさ」
きっと世界最高峰の病院は、色々な設備が整っているんだろう。一台しかない人工心肺装置の順番待ちで悩む事も無いし、壊れる寸前の医療機器での誤診に怯える事も無い。夜、遠くから聞こえる自動小銃の音で目覚める事も無ければ、暴動を恐れつつ緊急の医療行為を開始することも無くなる。
休日は今よりも多いだろうし、給料も大幅に増えるだろう。義母さんへ僅かでも恩返しが出来るかもしれない。
「先輩?」
「でも……、迷っちまう。ま、優柔不断って事か。怖い助手の指摘通りにさ」
「もうっ!」
セリシールは頬を膨らませて、軽くオレの肩を叩いてくる。そんなスキンシップを行いつつ、手早く白衣へと着替えて手を洗う。
この時のオレはまだ何も知っていなかった。医療にどれくらいの金がかかるものか。ただ人を救いたい……という願いだけでは、医者なんて成り立ちはしないのだ、という事を。
この数日後、ハウスマンの助手としてシフトに入ったオレはその残酷さ、医師という職業の難しさを、嫌というほど学ぶ事になる。
◆◆
「兄さん! アキラ兄さん!!」
夢と現実の曖昧な境界。
医療、人を救う行為に関わるどうしようもないジレンマと、幼馴染のボクを心配してくれる声の間でギリギリと奥歯を噛み締める。
結局、目覚めたら全てを忘れてしまうと解っている。しかし『オレ』の経験からほんのわずかでも学び取り、未来へつなげなければとも思う。苦しい無力感に支配され、正解なんてない事もわかる。綺麗なモノだけでは生きていけない、と。
「兄さん! 兄さん!! しっかりしてよ。お願いっ、お願いだから!」
フランス語で叫び、胸の奥から慟哭を吐き出し、どうしようもない現実に打ちのめされる。全身が燃えるように熱く、自分が学んできた事、人を救ってきた事の意味を思う。
結局、何もかもが自己満足。日本で眠ったままの桜を、オレが言い訳にしているだけなのか?
「桜……、桜!!」
「兄さん!? ここだよ!! 私、ここにいるから!! ずっと兄さんと……」
両手が強く握られ、頬へと熱い雫が落ちてくる。心から「オレ」を案ずる声。その響きが意識を現実へと押し上げてくれる。
このまま医師を目指すのであれば、必ずボクが立ち向かう事になる未来から、幸福な今へと。
「……桜?」
「兄さん……」
うっすらと目を開けると、ぼんやりした視界に飛び込んできたのは幼馴染の泣き顔。幼いながらも母親譲りの整った顔立ち。
けれど今は、涙でぱっちりした瞳は赤く充血し、すっきりした鼻筋からは透明な液体、ピンク色の唇はヒクヒクと痙攣し嗚咽を抑えている……といった酷い顔。パジャマ変わりに着ているピンク色のタンクトップには、いくつもの涙の跡がある。
でもボクの目には、とても可愛らしく映った。
「ぅぅう、良かった……兄さん、良かった……」
「ごめんな」
ボクをこんなに本気で心配してくれたんだ……という感謝の念、そして照れくささが沸き起こる。周囲を見るとまだ薄暗く、真夏――夏休みに入りたて――という事を考えれば、4時くらいだろうか?
昨夜、義母さんは診療室へ泊まりこみで桜と2人、11時前にはベッドへ潜り込んだけれど……どうやら夢にうなされたようだ。既に、どんな夢だったのかを何一つ思い出せないけれども。
「すごい汗かいてる。拭くね」
「う、いや、いいよ!」
「駄目、兄さんはじっとしてて!」
未だにひっくひっくと僅かに肩を動かしている桜の雰囲気におされ、思わずコクンと頷いてしまう。尋常ではないコイツの様子からして、相当酷くうなされていたのか。
下手すると「義母さんを呼ぶ」と言い出しかねないのが怖くて、素直に従う事にする。夢でうなされた程度で、義母さんに苦労をかけたくない。
「兄さん、勉強のしすぎ……。体こわしちゃうよ」
「大丈夫だから」
「そればっかり。ね、痛くない?」
首の周りから胸、背中まで優しくタオルで拭かれていく。すねたような幼馴染の声へ曖昧に返事しつつ、ボクはぼんやりと最近の勉強について考える。
全く受験勉強はしていないけれど、医学のスケッチだけは欠かした事が無かった。この頃ではイメージトレーニングや、新江崎さんから借りた本を参考に指を動かし続ける日々。
桜に怪しまれないよう、幼馴染が眠った後に行なっていた為、確かに睡眠時間が足りていないのかもしれない。それに眠ったとしても……。
「兄さん、今日さ……。勉強の事は忘れて、どっか遊びにいこ?」
「ん?」
「私、お弁当作るから。2人で公園とかいこうよ。駄目……かな」
どことなく怯えがちな声の響き。昔から桜はこういう所がある。ボクの予定、勉強を第一に考えて遠慮をする部分が。
甘いモノが絡んだ時や、理由不明な所で爆発する事もあるけれど、基本的にコイツはボクを立ててくれる。本当に家族、妹みたいな感じだ。親しいけれど、互いを思いやる気持ちが根底にある。
桜のこんな部分に、今までどれだけ癒されてきたか……とても数え切れない。
「駄目なわけないだろ。一緒にボートとか乗りたいな」
「うんっ!」
桜はパァ……と花のような笑みを浮かべ、ゴシゴシと強くタオルで擦ってくる。充分に汗が拭き取られたっていうのもあり、少し痛い。
その小さな両手を握り、無理やり動きを止める。
「痛いよバカ。ほら、じゃあさっさと寝よう……つか、起こしてごめんな」
「ふふっ。いいよ兄さん、特別に許してあげるね」
軽く微笑み、ポンと当然のようにボクの隣へ寝転ぶ幼馴染。桜の二重瞼や長い睫毛がはっきりと見える。どことなく甘い吐息さえかかるくらい顔が近い。
「ったく、暑いから下で寝ろよ」
「だって、また兄さんがうなされたら面倒くさいじゃん! なにか文句ある?」
「う……」
間近からジト……とした視線で睨まれて、何も言い返せない。桜が着ているピンク色のタンクトップからのぞく首筋には、ほんのりと汗が浮いている。
コイツも暑いって事だろうに……、しかし今夜はボクが悪い。あきらめてため息をつき、幼馴染から少し離れた場所――ベッドの端ギリギリ――へズリズリと移動する。
「にしし、素直でよろしい」
「うっせ。涎垂らすなよな!」
どこか甘い桜の体臭を意識しないようにしながら、再び目をつぶる。せめてあと数時間だけは、うなされる苦しい夢を見ないように……と願いつつ。
「おやすみ、兄さん」
ゆっくりと伸びてくる幼馴染の手を軽く握る。まるで互いに支えあうように。
「うん、おやすみ桜。ありがとう」
「別に……いい」
低学年の頃から、どれくらいの夜をこうやって過ごしただろう? 義母さんの帰りを待つ心細い闇の中で、どれほど桜の手が温かく、嬉しかったか。
照れくさくて、感謝の言葉なんて一度も口にした事が無かったけれど……。ボクは言葉に出せない感謝の想いを伝えるように、そっと桜の指を撫でる。
すぐ隣で眠る幼馴染の小さな吐息を聞きながら、ゆっくりと瞳を閉じた。
◆◆◆
駅からバスに乗って30分ほど山道を進むと、高速道路の乗り口近くに公園が見えてくる。そこはダム湖――といっても小規模なモノだけど――の開放に伴い、隣接して造られた公園だ。
釣り場や貸しボート、大きな滑り台、アスレチック、キャンプ場などから安い町営温泉まであって、そこそこ利用者で賑わっている。まあ、田舎の更に山奥の事……夏休みとはいってもたかが知れているけれど。
「兄さんってば、いっつもソレを持ってるよね」
「あ、うん。救急箱みたいなものだよ」
バスの中、隣の座席に大人しく座っている桜が、ボクのバック――自称サバイバルグッズの入ったモノ――を見つめながらポツリと言う。確かに幼馴染の言うとおり、どこに行くにもボクはこのバッグを持ち出していた。学校や後橋市へいくときはもちろん、ほんの少し出かける時でさえ。
けれど、幸いにも――と言うべきだろう――役に立った事は、新江崎さんの件を除けばほとんど無い。
「ふーん。兄さんって、変な所でコダワリがあるよねー」
「うるさいよ。それよりお弁当、ちゃんと食べられるモノを入れてきた?」
「あーひっどい! 後で絶対に驚くんだからっ」
デニム生地ミニスカートにパープルのカラータイツ、薄手でフード付きオフホワイトのパーカーを着ている桜が頬を膨らませながら怒鳴る。髪は邪魔にならないようにだろう、2つの団子状にまとめ小さな頭を白リボンで丁寧に飾っていた。
バスの棚にある、桜の持ってきたリュックサック――大きめでピンク色の可愛いデザインのモノ――をチラリと見つめながら、互いに軽口を叩き合う。
「はいはい。あまりの不味さに驚くかも」
「うぅ、死ねっ」
「あははっ」
ふくれっ面の桜と座席に座ったまま、互いに突いたり、くすぐったりを繰り返す。が、そうしているうちに、周囲の景色がどんどん濃い緑へと変わっていく。到着間近なんだろう。
「バカ桜、もうすぐ着くからきちんと座れって」
「うう、すぐそうやって兄さんは……」
ぶつぶつ文句を言いながらも、桜は隣へ深く座りなおす。そうして、二人でなんとなく窓の外の森を見つめる。
こうやってすぐ側で森を見ると、不思議に圧倒された。どこまでも続いているような濃い緑と、地面の土の色。夏の暑い陽射し。
照葉樹林……その濃緑は地球の全ての生命を育む揺りかごなんだと思う。普段、エコロジーなんてあまり考えないけれど、言葉では上手く表現できない荘厳ささえ感じる。
「兄さん……。あらためて見るとさ、森ってきれいだね。地球って感じがする」
「あ、うん」
車窓を眺める幼馴染の声に、少し驚きつつ言葉を返した。全く同じ事を考えていたのが、妙に気恥ずかしい。
緑を見つめている桜のほっそりした白い首筋が、やけに気になってしまう。そんな視線に気づいたのか、急に振り向いて見つめてくる幼馴染。
「なに? どうせ、桜の癖に似合わないコト考えてるなぁー、とか思ってるんでしょ!」
「い、いや。別に……」
頬を怒りでうっすらと紅潮させ、キツイ視線をぶつけてくる桜。小さな手で、柔らかくボクの胸を叩く。
「どうせ自分でも恥ずかしいコト言っちゃったなぁって……」
「いや、ボクも同じ事を考えてたから、ちょっと……驚いて」
「――っ」
大きめの瞳を更に見開いて、ますます頬を染める幼馴染。しかし、その口元はほんの少しだけ、嬉しそうに弛んでいるようにも見えた。
――まあ、錯覚だろうけど。
ボクは大切な幼馴染を真っ直ぐに見つめる。今日、この豊かな緑を間近で感じれたのも、少し癪だけど朝に誘ってくれた桜のおかげだ。
「な、何よ! 急に黙っちゃって。お、おんなじコトを考えてたからって……、ううぅ別にその」
「うん、やっぱり家族だもんな」
「――っ! 兄さんの馬鹿っ!!」
一際大きい桜の罵声と同時、バスが駐車場へと入り、ガクンッと停車する。そのまま憤懣やるかたないといった様子で立ち上がり、棚のリュックを取り出す幼馴染。
そしてミニスカートから伸びる細い足を仁王立ちといった感じで開き、強引にピンク色のリュックをボクへと押し付けてくる。
「ほらぁ。兄さんがリュック持ちなさいよ。か弱い女の子にこんな重いモノ持たせるな!」
「ちょっ、って重い! お前、何がこんなに入って……」
「うっさい。代わりに兄さんのバッグは私が持ってあげるわよ。さっさと立って!」
言い放った後、桜は小さな団子頭を動かし、ドスドスと出口へ向かって進んでいく。ボクもため息をつきながら、仕方なくその後を追っていく。毎度の事ながら、幼馴染の怒るポイントがわからない。
――まあ胸の事に触れてはいけない、とだけはわかるけれども。以前、セリシールちゃんに「ツルペタ」と言われてから、桜が毎日変なエクササイズをしているコトにボクは気づかないフリをしている。
無駄ってこういう事をいうんだろうなぁって、時々思わないでもないけれど……。
「……兄さん、今むかつくコト考えてなかった?」
「い、いや。別に……、ほら行こうぜ」
日差しの強い駐車場に立ちジトリと睨んでくる桜の視線から逃げるように、公園へと早足で向かう。背後からパタパタと聞こえてくる足音を聞きながら、徐々に見えてくる大きな湖面を見つめる。
「うわぁ……」
「うん」
久々に見る公園のダム湖は、夏の太陽に照らされて澄んだ水面が遠くまで広がっていた。いくつものボートやアヒルの姿が見える。周囲の濃い木々と風景がマッチして、まるで写真のように美しい景色。
しばし無言のまま二人でゆっくりと足を進める。湖面からふいてくる風はさわやかで、夏の暑さを忘れさせてくれた。
「兄さん、ボート乗りたい!」
「いきなりかよ」
さっきまでのふくれっつらはどこへやら、ニコニコと微笑む桜。その笑顔を見つめながら、ボク達は手をつないでボートの管理場所へと向かう。夏休みだけれど、今日は平日の為に家族連れは少ない。あまり待たずにボートに乗れそうだ。
幼馴染はオフホワイトパーカーのフードを帽子がわりに浅くかぶり、待ちきれなそうなソワソワした雰囲気。足元のスニーカーでトントンとリズムを刻みつつ、チラチラと何度もボクを見つめる。
「何?」
「ん、何でもないっ。にひひ」
天真爛漫な微笑みを見つめつつ、ボクはピンク色のリュックサックを背負いなおす。今からボートで遊んだ後、お弁当を食べるんだろう。鮮やかで豊かな自然の中、かなりのんびり出来そう。
――将来、ボクが医師になって色んな苦しみを味わう事になっても、必ずこんなささやかな幸せが支えてくれる。夢の中での記憶は忘れてしまうけれど、少しずつ『何か』がボクの中へと折り重なっていく。
その『何か』がこういった平凡な生活が、最後には自分を助けてくれるのだ、と教えてくれる。
「……桜」
「ん?」
つないだ小さな手の感触。桜の横顔、つややかな唇や、小悪魔っぽい瞳、細い眉、スレンダーですっきりとした体を見つめる。
「やっぱ、何でもない」
「えー、なによソレ」
いつもどおりに小突きあいながら、順番が来たボートの管理室へと進む。桜との平凡な安らぎ。その幸せを感じつつ。
※※
・色々とあって更新が遅れました。ごめんちょ。完結目指してがんばる