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・幕間 【独白、新江崎沙織】
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昭和初期から新江崎家へ従えてくれている一族、水仙原家。その現筆頭であるみづきさん――ママの第2秘書兼、図書館の司書でもある――の運転するロールスロイスが、ゆっくりと庭を出て行く。私は深いため息をつきながら、その車をこっそり見送った。自室の窓から見えるロールスロイスのテールランプ、あの後部座席には彼が乗っている。
――柊アキラ。私のファーストキスの相手。
「……バカ」
だんだんと遠ざかる車体を見送りながら、胸にあふれだす泣きたい衝動を押し殺す。30分くらい前……、信じられないくらい恥ずかしく、そして夢のような幸福感に浸されていた時を思う。
彼にお酒を飲ませてしまった負い目――そう、お詫びだ。決してあんなヤツに膝枕をしたかった訳じゃない。うん、そうに決まってる――から始まり、ついにはキス……をしてしまった。
「私の、ファーストキス……」
ブンブンと赤く火照りそうな顔を振る。違う、キスは強引に奪われた……。そう、あの馬鹿がよりにもよって、この私のファーストキスを奪ったのだ。決して、私から彼に捧げた……なんて事は無い。
キスしながら彼を抱きしめた時の、泣きたいほど幸福だった気持ちが胸に蘇り、ぎゅっと心臓の上を掌で押さえ込む。思い出しただけで鼓動が高鳴り、叫びだしそうだったから。
「あれは事故、事故のようなモノよ。だって、そうでも思わないと……」
シルクに包まれた指先で、そっと自分の唇をなぞる。それだけ……たったそれだけなのに、ゾクゾクと全身に甘い痺れが広がっていく。彼の頭が載っていた太もも、そして、キスだけではなく舌で舐められてしまった首筋、背中がジンジンと甘く、泣きたくなってしまう。彼に触れられた場所が燃えるよう。
――なのに、どうしても胸の内は暗い。
「だって柊クン……、私の事なんて、どうも思ってない」
それは当たり前……自業自得だと、胸の内で意地悪な私が囁く。私のような高飛車な女を、好きになる男がいる訳が無い。
――しかも、彼は柊診療所、私のママが散々に嫌がらせを行なっていた女医の息子なのだから。
「……」
どうしてもっと素直に彼に「ありがとう」と言えないのだろう。彼のほんわかした笑顔を前にすると、何故か冷たい言葉しか出てこない。
育ってきた環境の所為?
子供の頃から、周囲に理想を押し付けられてきた日々。私の周りに、本当の友人と呼べる者は誰もいなかった。期待に応える為、幼い頃から必死に胸を張る生き方を続け、気づいた時には素直に笑えなくなっていた。
パパ以外の誰にも心を許せず、唯一の例外といえば司書のみづきさんくらいだったけど……それでも、何もかも打ち解けている訳じゃない。
「何で、こんな嫌な性格になっちゃたんだろう……」
素直になれない。どうしても、想いを正直に口へ出す事が出来ない。そう……満足に、笑顔一つ浮かべる事さえも。
チラリと見た、柊クンの幼馴染が浮かべている蕩けるような笑顔。それに神無月クンの笑顔、あんな風に天真爛漫に笑った事なんて一度も無い。
こんな、いつも不機嫌そうな私が……。
「好き……になってもらえるハズないよ」
あふれ出しそうな涙を必死に殺し、赤いドレスの裾を持ちながらソファーへ腰掛ける。ついさっき、ここで背後から彼に抱きしめられたのだ……と思う。少しの息苦しさと圧倒的に甘美だったあのひと時。
けれど……甘く、優しかったその記憶が、何よりも鋭い刃物となって私の心へ突き刺さる。
「柊クン……」
ポトリ……と、頬を涙が落ちる。彼の名前を呼ぶだけでどうして涙がでてしまうのか。期待しては駄目だと、私は新江崎家の跡取りなのだから、と。
「助けて」
ママの操り人形に過ぎないと、解っている、解っている筈なのに。
彼なら、強引に救ってくれるのではないか? と期待してしまう。誕生日パーティーで、1人孤独に立ちすくんでいた私をダンスへ誘ってくれたように。
胸の奥、あふれだしてくるズキズキと痛く甘い感情。これは恋、よりにもよって彼に恋してしまったのだ……と、私ははっきり自覚した。どうしようもなく、彼の事が好きなのだ、と。
――決して叶わぬ想いなのに。
「ごめんね……」
今夜のパーティー。大勢の挨拶を受けながら、彼の事をずっと見ていた。会場の端で、つまらなさそうに黙々とご飯を食べていた姿。きっと、居心地が悪かっただろう……心無い一族に陰口を囁かれ、辛い思いをしていたのかもしれない。
それが予想できていたのに、どうしても招待したかった。私は、誰よりも柊クンに誕生日を祝って欲しかったから。
「ごめんなさい」
私は何て自分勝手で嫌な女だろう。ポロポロと頬を涙が伝う。あの診療所でも、彼はずっと私の手を握り締めてくれていた。なのに、私はいつも意地悪で我儘ばかりで。
――やっぱり、こんな私なんかが彼に好きになってもらえる筈がない。
「ごめん、ごめんなさい」
胸にあふれ出す自己嫌悪。部屋中に飾られているバラ――ママの好きな花――が、どうしようもなく神経に障る。この無駄な見得こそが新江崎家。一体、どれほどの人を傷つければ気が済むのか?
かつて医療事故を起こしたパパの病院。院長として責任を取り……それを償おうとしたパパだったけれど、しかし新江崎家は勝手にミスの隠蔽を断行した。それでも独力で、遺族へ慰謝料を払おうとしたパパに対しママが行なったのは離縁、追放。
全て新江崎家の名誉の為。こんな田舎町で、いつまでも王女として君臨したいママの欲望。
「こんなっ、こんな花!」
立ち上がり、涙をこぼしながら飾られている大量のバラへ近づく。私の退院祝いだと贈られたはずのこの花たち……それに、誕生日のお祝いとして今日貰った品々。それらは全て私にではない……新江崎家当主であるママへ贈られたモノだ。
そして、私は次期当主。かつて崩壊しつつある地域医療を護る為に頑張っていたパパの背中。それへ追いつく為に私は医師になり、いずれこの町の医師になるのだろう。
ママの望み通り新江崎家の当主として、この町の新たな女王となる。嫌なのに、それでも私の医師へなりたい気持ちをママは見透かしている。
――笑えない、どこまでいってもママの操り人形。こんな私、笑顔一つ浮かべられない私が、柊クンに好きになってもらえる筈がない!
「柊クン……」
激情のままポロポロと苦しい涙をこぼし、がっくりと絨毯へ膝をつく。この想い、彼を愛しく想うこの気持ちは毒だ。殺そう……感情を胸の奥に沈め、今まで通り無愛想で嫌な女の子でいよう。これ以上、彼の事が好きになったら……きっと、きっと、私は壊れてしまうから。
「……?」
その時、涙でにじんだ視界の端へ何かが映る。真っ白で、賞状などを入れる筒のような円柱状の物。赤いリボンが綺麗に結わえられているのが見えた。
「これ……もしかして?」
震える指先でその筒を掴み、ゆっくりと封を外す。結わえられた赤いリボンについていた小さなカード。そこには『誕生日おめでとう 柊アキラ』と書いてある。
何度も唾を飲み込む。こんなに好きになるのは止めよう……と思っているのに、どうして私の胸は高鳴るのか。どうして、こんなに、こんなに嬉しいのか……。
「あっ……」
ようやく取り出した筒の中身。それは真っ白な画用紙に描かれたデッサンだった。丁寧に描かれている……とても小学生には思えない精妙な絵。彼にこんな才能があったなんて知らなかった。
でも、それよりも今は、その絵に書かれていたモノが私の心を揺り動かす。
「バカ、バカッ、こんな……」
見覚えのある病室のベッド――柊診療所の安物のベッド――そこに腰掛けている私がいた。あの時と同じパジャマ姿で……そして、とても綺麗な笑顔を。
「笑ってる……、絵の中の私、私、笑って……」
シワにならないように大切に、何よりも大切に、画用紙を胸へ抱く。こんな優しい笑顔が出来ていた……と胸に温かい気持ちが広がっていく。強烈な照れくささと、全身が震えるような嬉しさ。
ああ、また助けられちゃった……と、思う。どうしてアイツは、いつもいつも私を助けてくれるんだろう。
「もっと、好き……になっちゃうじゃない。バカ……」
小さく呟く。明日からきっと頑張れる。そして絵の中と同じ、優しい笑顔が出来たら……と、強く願う。いつか、そう……彼の隣で優しく微笑む事が出来たら。
胸の奥からわき起こる想い、胸の痛みと甘い喜びがない交ぜになって全身へ広がっていく。
「柊クン」
小さく呟いてゆっくりと立ち上がった。自宅療養は今日で終わり、明日から学校が始まる。また胸を張って凛と生きていこう。
きっとこれからも頑張れる。画用紙を胸に抱きながら、私はそう強く思った。