・第9話 【小学校編⑦後編】
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原初の大地アフリカ、そのNGO医療キャンプへオレが赴任してきて2年と数ヶ月。まだまだ短い期間だけれど、それでも日本ではありえないほど多くの臨床を経験してきた。
最近では、赴任してきた当初と比較すれば、少しはスキルや精神面で成長できたかな……と思える瞬間もある。
――だが未だに、声無き悲鳴を上げながら目を覚ましてしまう夜があった。真っ暗で狭い個室の中、ムッとするほど蒸し暑いベッドの上。全身から汗を流し、まるで死体のように冷え切った己の体を両手で抱き、ガチガチと奥歯を震わせて。
脳裏に浮かぶのは救えなかった多くの患者たち。
安易に自分を責めるのは止め、少しでも『次』につなげる為にしっかりと受け止めよう……と思ってはいるのだが、ふとした瞬間や夢の中で、まるでナイフで胸を抉られるような痛みを感じる。心が壊れそうになる。過ぎてしまった時を、どうしようもなく悔やむ。
――もしかしてあの時、もっと別のアプローチを行なえばあの子は救えたのではないか? ひょっとして、患者の優先順序を間違えていたのではないのか? そもそもオレじゃなく他の医師の技術ならあの親子を救えたかもしれない……。
そんな様々な思いが胸にあふれ出し、暗闇の中で独り、懊悩を繰り返す。明日の手術の為に眠らなきゃいけないと解っていても、波のように押し寄せる後悔の念がギリギリと胸を締め付け続ける。
「……桜、母さん」
先進諸国の高度救命救急センターでさえ10%以下の Probability of Survival value(予測救命率)しかない症例が途切れなく運び込まれる日常。
肉体に重大な創傷をいくつも負った(重症多発外傷)患者が同時に何人も運びこまれた時、誰から、そしてどの創から処置を始めるのか? それはほとんど賭けに等しい。賭けるのは患者の命。
命を背負う恐怖とプレッシャーがギチギチと精神を蝕んでいく。
『ボク、大人になったら、母さんみたいな立派なお医者さんになるんだ!』
『アキラ……』
鼻の奥に蘇るツンとした消毒液の匂い……幼い日の記憶。義母の膝枕の上で優しく髪を撫でられながらこぼした言葉。オレが医者になる……とそう告げた時、あまり嬉しそうな表情をしなかった義母の顔を思い出す。
そう、母と同じ医者になった今ならその顔の理由が解る。どこか困ったような、そして悲しそうな顔をした理由が。
――母も医者として、この血を吐くような苦しみを抱きながら日々を過ごしていたのだ、と。
「義母さん……」
迷っても、判断が遅れても、優先順序を間違えても、刻々と変化する状況を把握できなくても、スピードが足りなくても――簡単に患者は死ぬ。それは今にも千切れそうな細い細いロープを渡る綱渡りのよう。精神を振り絞り、出来うる限りの最善を尽くしても、目の前で消えていく命は数え切れない。
きっと、オレが医者である限り……この無力感、自己嫌悪から逃れる事はないのだろう。それでも『次』は助ける……と信じながら足掻き続けるしかないのだ。
オレはあきらめない。決して医者を辞めたいとは思わない。たとえギリギリの綱渡りの連続でも、後悔する事だらけだったとしても、少しでも命を救う手助けが出来るのなら。
「桜……」
ここで挫けたら、アイツが目を覚ましたときにきっと殴られる。桜、そして大切ないくつかの事、を捨てて医者になったオレがここで諦めたら、いったいどんな顔をしていつか目覚める幼馴染に会えばいい?
脳裏へ義母さんと桜の笑顔を思い浮かべながら、オレは再びベッドへ潜り込む。少しでも精神と体を休ませなければならない。明日、またギリギリの選択を迫られる瞬間が必ずある。その時、少しでも患者にとって良い選択が出来るように。
◆◆
新江崎さんが仰向けになって横たわっている場所を見る。周囲は少し平らになっていて、危険は無い……と判断。
「新江崎さん!!」
大声を発しながら側へ駆け寄るが返事は無い。隣に膝立ちになり、彼女の額から流れている血を見ながら、手首の少し上――橈骨動脈――へと指を伸ばしつつ呼吸を確認する。新江崎さんの整った顔立ちへ垂れている鮮血。しかし、それは大した出血量ではない。
何よりもまず心臓が動いているか? 自発呼吸をしているか? の確認が最優先。
「よしっ……脈はある。でも!!」
ボクの指先に触れる細い手首の脈。それは若干弱かったけれどドクドクと動いていた。
しかし、呼吸が明らかにおかしい。ピンク色だった新江崎さんの唇は少し青ざめ、呼吸はハッハッハッといった感じで早く浅い。
「新江崎さん!! 聞こえる?」
「……」
美しい顔を苦悶にゆがめている彼女。頭部を打っている為か呼びかけに反応しない。華奢な両肩を上下させながら、浅い呼吸を繰り返している。
……不味い。ボクは大声で何度も彼女の名を呼びかけ、右手で喉を触診しつつ左手で彼女の口を開く。が、呼吸を阻害しているような異物は見えないし、喉に何かが詰まっている様子も無かった。
「気道は通っている、なのに……もっと通りやすい角度にするか? いや駄目。頭を打ってる、頚椎が傷つく恐れが」
パニックにならないよう自分の行動を確認する為に呟きながら、肩に背負ったバッグを下ろし、素早くジッパーを開く。LEDペンライト、ハサミ、包帯、テーピングテープ、ガムテープ、定規を何本か、スポーツ用携帯酸素缶などを急いで取り出す。
額の傷からすると――出血はたいした事がないけれど――滑落途中に頭部を打ったのだと推測される。今すぐに命へ関わることはないが、絶対に頭部は動かせない。下手に動かして頸髄損傷になった場合、取り返しのつかない事になる。
頚椎を固定するように新江崎さんの首へ定規を折り曲げたモノや周囲に落ちている木の枝を沿え、そこから血管を押さえないようにしてテーピングテープでしっかり固定する。運搬しても頚椎に頭部の重みがかからないように。
「よし、すぐに母さんの所へ運ぶ」
この場所からリサイクルセンターへ走り連絡、大人の力を借りて彼女を車に運んで乗せる。そこから山道を抜け、母さんの診療所まで20分といった所か。この場所から動かす時間を含めれば全部で30分はかかるだろう。
心臓は動いている。出血はたいした事が無いが、呼びかけに応じない事から結構強く頭部を打っている恐れがあった。急性硬膜外血腫の可能性もある。早く頭部のCTスキャンを撮影しなければならない。
いやしかし……と足が止まった。何かがボクを引きとめた。気がかりなのは呼吸。この症状は……。
「えらばなきゃ……どうする?」
ここで二つの選択肢があった。すぐに施設へと走り、大人を呼んでくる事。または、今すぐに新江崎さんを診断する事。どちらか迷っている時間は無い。どちらを選ぶにせよ、時間だけは過ぎていく。
「いや、やっぱり呼吸だ。何よりも呼吸を優先、この症状は危険だ」
急性硬膜外血腫の疑いもあるが、しかしまず呼吸が優先。頭というのは案外頑丈なもので、時間的な猶予はある。救命で最も優先されるABC、Airway(気道確保)、Breathing(呼吸)、Ciruculation(心臓マッサージ)に沿って動くべきだ。
普段、無意識のうちに何気なく行なっている呼吸という行為。しかし、呼吸が停止してたった5分経過すれば脳細胞は死に始める。いや、それより前に呼吸が停止すれば、数分以内に心臓停止を併発してしまう。
CPA(cardiopulmonary arrest)心肺停止状態になれば3分くらいしか人間はもたないし、命は助かっても脳に一生消えない傷害が残る。
普通の子供なら大人を呼んで病院に運ぶしか手段は無い。だがボクは違う、違うはずだ。……それに病院に到着するまで彼女の命は保つのか?
ボクのこの知識は何の為にある? 人を救いたいとどうしようもなく願うからではないのか。
「新江崎さん! ごめん、シャツを切るよ!」
ハサミを使い、躊躇なく彼女の白いフリルシャツ、そしてその下、ツルツルした手触りの白い肌着を切る。いちいちボタンを外す時間は無い。現れる薄いピンク色のブラに少し動揺しつつ、それさえ素早く切った。
「……目立った外傷は無い。だたし右胸部に内出血あり。そして汗が」
彼女の真っ白な肌一面に汗が浮いている。呼吸はあい変わらず浅くて速い。いまにも呼吸停止になりそうな気配。その原因、新江崎さんがここまで苦しそうにしている要因は……。
焦る気持ちを落ち着かせるようにツバを飲み込みながら、両手を彼女の両わき腹、肺の上へと這わせていく。
「くそ……。右胸部に皮下気腫あり。まさかこれは」
新江崎さんの大きめの乳房の横に這わせたボクの指先に触れる独特の感触。血とは全く異なる、何ともいいようのないボコボコとした感じ――皮下気腫――皮膚の下へ空気が入り込み、まるで腫れ物のようになっていた。
この症状は傷などから空気が入り込む事でも起こるけれど、視認できる創傷は無い。ならば、彼女の呼吸異常と合わせて考えると……。
聴診器が無いのがもどかしい。歯噛みしたくなる気持ちを抑えながら、彼女の胸へ耳をつけて指先で叩くように打診していく。ボクの指先に反応し、彼女の肺からかすかに聞こえる反響音……それを聞き逃さないように全神経を集中。
「右肺が、間違いない……打撲による緊張性気胸」
――気胸とは、簡単に言えば肺から空気が胸の中へ漏れだす病気。様々な要因はあるが、今、新江崎さんに起こっているのは外傷性のものだろう。滑落した際、右胸部を強く打ったのか。
手近に置いてあったスポーツ用の酸素缶の封を開け、彼女の青ざめた唇へと押し当てる。
気胸では無理矢理に空気を送り込む人工呼吸は絶対にしてはいけない行為になる……が、高濃度の酸素を自発的に吸わせる事は気休め程度の効果がある。医療用ではなく、あくまでスポーツ用の酸素缶でどこまで効果があるか解らないけれど……。
「これじゃ、母さんの所までもたない……か?」
緊張性気胸は劇的に進行する。吸い込まれた空気は新江崎さんの右肺の外で延々と膨らみ続け、すぐに健康な左肺のみならず心臓まで圧迫してしまう。母さんの診療所までの30分……それまでの間に、緊張性気胸による圧迫で心停止が起こる可能性が高い。
「くそっっ!! どうする?」
グズグズしている暇はない。ここから施設に大人を呼びに行っても、病院に到着する前に新江崎さんの命は失われてしまうだろう。目の前でどんどん青ざめていく彼女の顔。
もしここが病院で、手元に16ゲージ(約1.2ミリ)の注射針がついた注射器があれば、すぐにでも胸腔穿刺を行なわなければならない状況。
――胸腔穿刺――まず鎖骨の中央から真下に線を引き、すぐ下にある第2肋間の隙間に針を刺しこむ。胸壁を越え、注射器によって肺と胸との隙間から溜まった空気を抜く医療技術。
「何か、何かないか?」
新江崎さんの美しい顔は青ざめ、スポーツ用酸素をほとんど吸い込むことさえ出来ていない。迷う……迷っている時間は無いのに、どうしても迷ってしまう。
ここでグズグズしているなら、すぐに大人を呼ぶべき? けれど、注射器を持っている人などそうはいないだろう。車で出発し、母さんのいる診療所まで新江崎さんがもつのかどうか? 駄目だ、間に合わない。奇跡に願う、あまりに確率の低い選択だ。
バッグの中をかき回し、何かないか? と必死で考え続ける。
死んでしまう……ついさっきまで、あんなに美しく、悠然としていた彼女が。滑り落ちそうだったボクの両手を掴み、鋭い瞳で心配してくれた新江崎さんが……死ぬ。
怖い、命の選択、決断がとてつもなく恐ろしい。そして、新江崎さんが死ぬのが怖い。どうせ怖いのなら! 少しでも助かる道を。
「くそっ、駄目だ。新江崎さんっ!! 絶対に死なせない、死なせないっ!!」
バッグの中から、どこにでも売っているうがい薬、メス、小さなラジオペンチ、アルコール――図書館に置いてあった手指用殺菌アルコールを詰めた物――が入ったプラスチック製のボトル、小さなサイズのドライバー、そして……牛乳パックについていたストローを取り出す。
それらを清潔なガーゼの上へ置き、バシャバシャとボトルのアルコールを全て振り掛ける。ボクの両手にも振りかけ、簡易ではあるが殺菌を終わらせた。
「ごめんね、新江崎さん」
彼女の右胸、鎖骨の真ん中から下へ勢い良く茶色のうがい薬を塗布する。茶色のうがい薬の成分はポビドンヨード――外科手術で一般的に使用される消毒薬と全く同じ――だ。
助けるにはこれしかない……と覚悟を決めつつ、ヨードの殺菌作用が発揮されるまでの30秒間を、メスを持ったままじっと待つ。
「呼吸微弱……」
ハッハッハッという感じで辛うじて続いていた彼女の呼吸。しかし、それはボクの目の前でみるみるうちに弱くなっていく。
「25、26、27……」
が、まだ彼女の心臓は止まってない。左手指先に触れている新江崎さんの右腋の下、腋窩動脈は弱いけれどしっかりと脈打っていた。まだ生きている。彼女のカラダは全力で生きようと足掻いている。
「29、30! 手術開始!!」
そのまま、彼女の体を抑えつけるようにして、躊躇わず右手に持ったメスを振るう。
「――ッッッ!!」
勢いよくビクンッッ!! と跳ねる新江崎さんの体。激痛が走っているのだろう。抑えつけているボクの左腕を越えて、左肩へ爪を立ててくる。が、これはいい兆候だ。痛みに反応するという事実……それは頚椎に傷が無い証拠だし、なによりも肉体が生きようと足掻いているのだから。
ボクは左肩に彼女の爪が食い込み、ミリミリと皮膚が破けていくのに構わず、一気にメスを動かす。右の乳房の少し上辺りを切開し、第2肋間腔までドライバーが到達するためのトンネルを作っていく。
そのまま、ラジオペンチで切開した部分を開き固定……、
「痛いだろうけど……、でも、絶対に死なせないから!!」
細めのドライバーへストローをかぶせた物を、勢い良く刺し込んだ。ミチミチという筋肉や組織が抵抗する感覚……それが、ふっと軽くなるポイント――胸壁を越えた、肺から漏れた空気が溜まっている場所――へと向かって。
「ううううっっっうぅぅぅううううううううううううッッッッ!!!」
「新江崎さんっ、新江崎さんっ!! 頑張ってっ! 頑張って!!」
時間にすれば1、2秒の事だろうけれど、まるで5分くらいのように感じられた苦痛の瞬間は、しかし唐突に終わった。
スッ……抵抗が軽くなり到達した手ごたえを感じ、ストローだけを残しドライバーを引き抜いていく。その瞬間、ストローから勢い良く空気が漏れだすシュウシュウとした音。
そして新江崎さんの呼吸が、深くしっかりと再開されていく。口にかぶせた酸素缶を自発的に吸い込んでいる。
「よし、胸腔穿刺……終了!」
薬局で購入した抗生剤入り軟膏を塗り、ガーゼを切開した部分にあてテープで強めに固定。差し込んだ状態になっているストローが曲がらないように、細心の注意を込めつつ包帯を巻いて行く。
その間にも、あんなに青ざめていた新江崎さんの顔色がどんどん回復していく。頬に赤みが差し、穏やかで平常の呼吸へ戻りつつあった。とりあえず、呼吸に関しての危機は脱したと思える。
手術中に感じていた痛みも、きっちりと固定された今ではあまり感じないはずだ。まあ、下手に触ると激痛だろうけれど……。しかし、新江崎さんのカラダが痛みを感じて反応するというのは、とてもいい兆候だ。
「よし、あとは……、新江崎さん、ねぇ聞こえる? 聞こえたら目を開けて!!」
「うぅ……、パ、パパなの?」
脈拍、呼吸の安定を確認。頚部交感神経が麻痺していないかを調べる為、瞳孔反射のテストをしようとLEDペンライトを握り確認。どうやら大丈夫なよう……きちんと反応がある。呼びかけにも反応しているし、少し見当識――今がいつで、ここがドコなのか? ――に混乱があるようだけど、いますぐ危険という訳じゃない。四肢の麻痺なども無いようだ。
ほっと……ひとまずの安堵のため息を吐いた、その時。
「アキラー、どこー?」
「恋!? 恋、ちょうど良かった! ここだっ! 先生と大人を数人呼んできて。新江崎さんが大変なんだ」
「えっ、何……って、うわっ!!」
ガサガサと木の枝をかきわけ、姿をあらわした親友。色々と走りまわったのか、オレンジ色のTシャツは汗で恋の素肌へ張り付いている。そして、ボクと新江崎さんの姿が見えたのか、驚いたように口に手をあてて絶句している。
「アキラッ!? 左肩! な、なんだよそれ。血だらけじゃんか!! だ、大丈夫なの?」
「は? 何を言って……いいから先生を」
「えっ、姫まで倒れて……って、うわっ、包帯っ! そ、それに、お、おっきい……じゃなくって、なんで姫は服を着てないのさ」
真っ赤に染めた顔をそむけ、あらぬ方向を見つめながら話す恋。その言葉でボクは少しだけ日常に戻る。
そう……新江崎さんは今、上半身が裸(右胸は包帯が巻かれているけど)で、その……小学生とは思えない立派な左胸が剥きだし。綺麗な桜色の突起までしっかりとボクの視界に入って……いや、それどころか触診の時には、その柔らかな膨らみを触っていたはずで……。
「うわわわわわっっっ、ど、どうしよう。そうだっ、とりあえずボクのTシャツを……」
「きゃうっ! あ、ちょっ……、やっ……、馬鹿アキラ! ボ、ボクの目の前で脱ぐなよぉ! や、うわわわっっ、もう」
恋の悲鳴を聞きながしつつTシャツを脱ぎ、新江崎さんの胸へとかける。そしてボクが切ってしまった白いフリルシャツとガムテープでくっつけた。その時、ズキズキと左肩から腕に鋭い痛みを感じる。見れば、そこにはくっきりと新江崎さんの爪の痕が残っていた。
「そっか、痛いはずだよ。でも、ま、どうでもいいや。それより恋、頼むから早く先生を呼んできて。新江崎さんが滑落してたみたいで、早く病院に運ばなきゃいけないんだ」
「あっ、う、うん。わかった……、い、行ってくる、ね」
チラチラとボクの胸を見た後、これ以上ないくらい真っ赤な顔で駆けていく恋。その後ろ姿を見送り、ボクは散乱している道具などを全部バッグへ入れる。
とりあえず、今出来ることはあまりない。新江崎さんの脈を念のため触りつつ、彼女の額に流れていた血(ほとんど止まっている)をウェットティッシュで拭き取ろうと近寄った。
「パパ? うぅ、冷たい」
「ごめんね、新江崎さん」
額の傷をウェットティッシュで優しく拭いた時、うっすらと瞳を開けて呟く彼女。少し混乱しているのだろう。ボクをお父さんと間違えているようで、とても柔らかな微笑みで見上げてくる。いや、それどころか甘えるように手を伸ばし、その白くて長い指をボクの指へと絡ませてきた。
「ちょっ、新江崎さん!?」
「パパ……、やっぱり私の誕生日のお祝いに来てくれたんだ。嬉しい……本当に、本当に嬉しい」
心の底からの笑顔。木漏れ日に照らされた新江崎さんのその表情はとても美しくて、ボクは思わず何も言えずに押し黙る。
しかし、新江崎さんの笑顔はそのみるみるうちに消え、そして寂しくて堪らないように哀しげな顔になった。
「ああ……パパ。私ね、私……頑張ってるよ? 毎日、すごく辛くて……泣きたくて堪らない。でも……、でも、頑張ってる。毎日お仕事頑張っていたパパの娘だもん」
彼女の顔……それは普段のように張り詰めた表情ではなく、まるで幼い子供のよう。涙をうっすらと瞳へ浮かべながら、ボクへ必死に語りかけてくる。何も言えない……ボクはどう返事していいかもわからず、ただ無言のまま、彼女の手を握り締めた。
「だから……だから……お願いだから帰ってきてよパパ。もう、お仕事で遅れても文句言わない。また私の誕生日を忘れていても怒らないから。勉強だってもっと頑張る。お稽古だって……。お願い……パパ。私、私……辛くて、寂しくて堪らないの。お願い……お願い、パパ」
「新江崎さん……」
小さな子供のように幼い声。ボクの胸が締め付けられるように痛い。桜と知り合う前、独りきりで母さんの帰りを待ち続けた夜の日々を思い出す。あれと同じ寂しさを……いや、良家の子女というプレッシャーがある分、新江崎さんのほうが辛かったのだろう。
それに、今、彼女には不仲だという噂の母親しかいない。一見完璧で勉強、習い事と優秀すぎる彼女は、しかしあやういほどギリギリで頑張っていたのだ。
「新江崎さん、大丈夫だよ。友達になろう? これからはボクも一緒に頑張るから」
聞こえているかどうかも解らず、しかしボクは必死で叫ぶ。目の前で泣いている少女、その涙を止めたくて。強く手を握り締め、優しく血で汚れた髪をなでる。
そのボクの言葉が届いたのか? 彼女は涙を浮かべつつ、弱々しい微笑みを浮かべた。
「……でもね、最近気になる人が出来たの。ふふ、パパに少し似てるかな。決めた目標には何があっても進んでいく不器用なヤツ。憎たらしいって思っていたはずなのに……でも、私だけが頑張っている訳じゃないんだって……教えてくれた。最近、彼の事を思うと少しだけ……寂しくなくなるの」
彼女の頬を伝い落ちる涙をゆっくりと拭き取る。そして、遠くから聞こえてくる複数の慌てた様子の足音。
「パパ……大好き。また、会いにきてね、ありがとう」
「新江崎さん、貴女を助ける事ができて……ボクは、本当に嬉しい」
最後にそう呟いて、ボクはゆっくりと立ち上がり、救助にきた先生たちを大声で呼び続けようとする。が、酷く消耗していたのか、フラフラと木へ寄りかかってしまう。脳の奥が沸騰するように熱く、とても立っていられない。
「助けられて……よかった」
ズルズルと木の根元へ座り込む。眠い……とてつもなく眠い。しっかりとバッグを抱きかかえたまま、ゆっくりと瞳を閉じていく。
スルスルと暗闇へ意識が滑り込む。遠くからぼんやりと聞こえる恋の声や、慌てた大人の声を聞きながら、ボクは眠りの中へと落ちていった。
※※注意※※
・まあ、当たり前ですがこれはフィクションです。症状は嘘に決まってるし、私はNEETで付け焼刃の知識です。真実よりもドラマ性を重視しています。しかし、こんな注意書きって野暮だよね。でも、一応書いておきます。