見渡す限りの緑が風に揺れている。
小川のせせらぎを受け、カラカラと廻る水車。
ここは存在し得ぬ天上楽土、現世に苦しむ民草どもが夢見る桃源郷。
この地の主である俺は庵から少し離れた場所に存在する東屋にて煙管を吹かしていた。
「ん?」
くん、と鼻を動かす。
奇妙な感覚があったのだ。
この地では嗅ぎなれぬ、けれどもよく知った筈のそれ。
それは妖魔であるこの身を昂ぶらせる芳香、災厄としての我が身が好む闘争の香りである。
であると同時に、この地で嗅ぐことのない筈の異臭だ。
この奇門遁甲の張られた異郷には、この身が許した相手しか侵入することが適わない筈だからだ。
魔猿公の奇門遁甲の監視を逃れうる可能性は二つ、それに引っ掛かることがないほどに脆弱であるか、あるいは正面から破ることができるほどに呪いにおいて俺の腕を上回っているかだ。
前者は有り得ない、そもそも我が庵のは魔境の果てに存在する。
元より黄朱の民すら侵入をためらうような魔境に奇門遁甲にすら反応しえないほどの脆弱が侵入することは叶わないからだ。
では結論として後者、我が奇門遁甲の網を潜り抜けることのできる相手が侵入者ということになる。
「…………」
ブンと如意自在の妖術を用い、煙管より復元した鉄昆を振るう。
侵入者は恐らく天仙以上の相手、それがこちらに悟られず侵入したとあればその目的は決まっている。
この猿の首を狩りに来たのだ。
「随分と甘く見てくれるもんだ」
にぃと口元を歪ませる。
捻くれた笑み、見る物が見ればあまりの禍々しさに恐怖する妖魔の嗤い。
「そっちが凶手を送りつけようとも、逃げも隠れもせん。正面から喰らい尽くしてくれよう」
装いを改める。
常に着ている襤褸ではなく、劇の演者が着るような派手な服装に。
それは酷く動きを阻害する。
であるからこそ、天仙どもには痛苦であろう。
この様なふざけた相手に敗北するなどと、驕慢なる奴らにとって許せることではあるまい。
全く警戒せず、悠々と血臭を辿る。
それは何が来ようとも無問題であるという驕り高ぶった行為でありながら、この黄海にて最強者であるという自負の裏打ちが伴った余裕である。
「……?」
往くこと暫し、奇妙な臭いが血臭に交じっていたのを嗅ぎわける。
あれほど騒いでいた闘争本能が沈静化してくるのを理解する。
「よもや、そういうことか? 侵入者は俺の命を取りに来た神仙ではなく――」
魔境を越えることによって半ば死に体となった半端者であるというということか。
余りにも珍しい、珍しすぎてそのような事例がありうるということが考えにも上らなかった。
物見気分で死気を漂わせる侵入者の元に向かう。
そこには死にかけの体の女、背後に死に体の妖獣を打ち捨て、幽鬼の様に歩んでいた。
ふむ。
「もし、そこの女人。何を必死になっておられる?」
それに初めてそこに何者かがいるかを気付いたかの様に女が目を見開く。
生気のないその視線がこの身を捉えた瞬間、力を持つ。
「私は戴極国にて将軍を拝命している、劉李斎と申す――」
どろりとした異形の光、劉李斎と名乗った女の眼差しに宿るそれに俺は呑まれた、呑まれてしまった。
「ッ!?」
今何を思った?
女の気迫に呑まれたと、そう思ったのか?
如何なる神仙妖魔の類にも敗北を喫したことのないこの猿王が?
若き麒麟が数多の妖魔を調伏した力ある視線を以って、この身を従えようとした時も鉄塊を以って報いたこの姫公孫が?
「魔猿公にお願いしたい儀があって参上いたしました」
止めろ、そう思う。
止めてくれと。
今の自分は普通ではない、常ならば顧みることもない言上を食い入るように聞いているのがその証だ。
「どうか――どうかお願いです、我が国を御救い下さい」
血反吐を吐くかのように、渾身から吐き出された祈り/呪い。
似たようなそれを600年近く拒絶してきた。
「了承した。必ずや、御身の願いを叶えよう」
だというのに、今自分は何を言っているのだろう?
かつて要請されてきたそれとは異なり、まず間違いなくこの身に返るものはないというのに。
詰まる所、これは天意にすら服することのない獣が敗北したというだけの話。
最強の猿に打ち勝ったのは、半ば冥府に足を突っ込んだ唯の人間の地金だったというだけのつまらない話だ。
「不可能だ」
傷口に包帯を巻きながら李斎に告げる。
李斎より現在の戴の状況――王と麒麟が行方不明となり妖術を使う偽王が国を滅ぼさんとしている――を聞き終えた果ての出した結論だ。
「俺には戴は救えない」
「え……」
放心したかのように李斎の眼差しが揺らぐ。
「どうしてですか、前は救って下さると……」
「能力がない、足りない」
「え?」
意外なことを聞いたという目で李斎はこちらを見つめてきた。
それを見返す。
「御身はかつて俺が才でやったようにすればいいと思っておられるのかもしれないが、あれとこれとでは状況が違う」
「どういう、ことでしょうか?」
「地力、国力の差だ。当時の才は未曾有の繁栄を遂げていた。そもそもの備えが万全の上での対処だ、現在の戴国で同じことをしても結果が出ない。俺の能力は万全の備えがあった上でやっと現状維持ができる程度のものだ」
否、現状維持すらもが仕切れていなかった。
あの時、見た目ではまるで分からなかったが、間違いなく見えない部分ではじりじりと才は沈みつつあったのを俺は覚えている。
「同時に阿選とか言ったか、その偽王を倒すこともまた難しい。無論、阿選本人を殺すことはできると思うが」
だが、本当にそれで万事解決するかと言えば首を傾げざるを得ない。
偽王阿選は地仙でありながら妖術に通ずる。
少なくてもそう思わざるを得ないほどに、彼の行いの結果が不思議に満ちたものであることは間違いない。
であれば、たとえ彼を殺せたとしてもそれで終わるとは思えない。
阿選という肉は殺せようとも、偽王の消失が思い浮かばないのだ。
あるいはそれは阿選ではない黒幕の存在か、またあるいは阿選の後継かは知らないが。
それに。
「あり得ないとは思うが、俺が阿選に取り込まれる可能性もある」
これまで多くの戴の百官が突然変心してきたように。
「そんな……」
絶句。申し訳ないとは思うが、しかし、そうとしか言いようがない。
ただ、これだけは告げておかねばなるまい。
「御身に告げたように俺には戴は救えない。だが、約定通りに御身の願いを叶えよう。これは御身らが遵帝と知るかつての我が主にして友たる李真にかけての誓いだ。必ず果たす」
矛盾した言葉、そんなことは分かっている。
「どうして」
零れるように李斎は疑問を告げる。
「どうして、あなたはそうまで私に良くして下さるのだ。花影、私の友人ですが彼女の話によれば、あなたは遵帝以外の出仕の要請を拒んで来られた筈なのに……」
「…………」
李斎に敗北したからだ。
敗者である自分は勝者である李斎の願いを全力で叶える義務がある。
これは至高の猿としての矜持だ。
もしもその義務を果たさなければ、あっという間に唯の獣へと零落することだろう。
その予感がある。
だが、高すぎる誇りが素直に認めることを拒んでいる。
だから、俺にはこう答えることしかできなかった。
「気まぐれだ。俺は妖魔と言え、所詮は猿だからな、その業からは逃れようがない」
矛先がこちらに向く。
それは警戒と敵意がこちらに向いているということだ。
けれど、それらを無視して悠然と告げる。
「景王君にお取次ぎ願いたい。我は魔猿公、もしも巧州国で行った我が行いに御身が恩義を感じているようであるのならば、微力でも良い、力を貸して頂きたいとそうお取次ぎ願いたい」
困惑。
閽人たちの間に困惑が広がる。
それを唯、黙って待つ。
無論、金波宮に侵入し、直訴することは容易い。
けれど、今の行動原理は己のものでない。
勝者の願いを、最も良い形で叶えるためにここに居るのだ。
待つこと暫し、王命が下ったのか、金波宮へと招きいれられる。
案内された場所にいた景王はかつて見た時と随分印象が違っていた。
猜疑に苛まれる獣から脱却し、大きく成長したことを感じさせるその姿、それに感嘆した。
「御身にお会いしたのは、巧国以来であるが、随分と器が大きくなられたとお見受けする。まずはそのことに寿ぎを申し上げる」
「ありがとう、と素直に受け入れさせてもらえばいいのだろうか」
少年のようにも見える女王は苦笑し、
「あなたは私に何か願いがあると聞いたのだけど、それを伺ってもいいだろうか?」
無論、受け入れられるかは分からないが。
そう言った景王の姿に頭を垂れる。
「自己満足であった行為に見返りを求める無礼百も承知なれど、謹んで景王君に願い奉る。貴君は延王君と親しいと聞き及ぶ。どうかご紹介願えないだろうか」
それに景王は目を瞬かせ、
「延王に?」
「然り」
「何故、と聞いても良いだろうか?」
「主上!」
焦ったように麒麟から静止が飛ぶ。
けれども、彼女は俺から目を離さなかった。
「どうだろうか?」
「構わないが、聞いてもあまり意味はないと存じ上げる。それでもか?」
少女は頷いた。
「ああ、確かに意味のないことかもしれないけれど、あなたが延王にどうして会いたいのか知らなければ、紹介する訳にはいかない。私の行動は私だけに完結する訳じゃないから」
「ふむ」
まじまじとかつて飢狼の様だった少女を見つめる。
「本当に良い成長を成された」
まさしく王器、唯でさえ難しい状況、しかも後々知ったことであるが壊すことを留めた宝重は悟りの怪を本性とする疑心暗鬼を助長する代物、その上でこれほどまでに成長するということは奇跡に近い。
期待を持った。
「先程の質問にお答えする。此度、俺が延王君に面会を願わんとするは即ち、戴の救済のため。真実の泰王君を除き、その権を奪い悪逆非道の限りを尽くす偽王より民草を救う手立てを求め、謁見を願い奉るのだ」
その瞬間、慶の百官が目を見開く。
それも当然だろう、魔猿公を従えたのはもはや伝説の域にある最後の斎王君遵帝のみ。
故に魔猿公が動くとすれば、才の為のみである筈だったのだ。
事実、遵帝登霞後600年近く、如何なる国の出仕の要請も謝絶し黄海に隠れ住んでいたのだ。
その大妖魔が何故か戴の為に動く、これを驚くなという方が不思議だろう。
「主上との語らいに口を挟むは無礼と承知して問う。魔猿公、何故あなたは戴の為に動いているのだ?」
いかにも怜悧な男が口を挟む。
その問いかけには正しくなくともこう答えるしかない。
「気まぐれだ」
と。