1人、孤独な旅を続ける。
恩人を見捨てた命、もはや自分のものではないらしいそれは日本に帰ることで終わりを迎えるのだと猿の形を持った妖魔がそう告げた。
わたしはどうするべきなのだろう。
船より降り立った街は活気に満ちて明るいというのに、陽子の心は曇天のように暗かった。
かけられる筈のない声がかけられたのはその時だった。
「陽子?」
振り返る。
そこに灰茶の毛並みを見つけた。
「……楽俊」
それからしばし、陽子は見捨てた恩人と話をした。
恩人は陽子に見捨てられたというのに変わる様子もなかった。
針鼠の様に自分を護るしかなかった陽子は、柳のようなしなやかな強さを感じさせる楽俊を素直にすごいと思った。
「あのね、楽俊」
だからだろう、陽子は心中にわだかまっていた言葉をぽつりと告げた。
「倭に帰る方法が分かったの」
灰茶の毛並みを持つ獣人は一瞬何を言われたかが分からないかのように目を瞬かせた。
そして、理解すると破顔――人とは違う顔立ちだから本当にそうであるかは分からなかったが――させた。
「ああ」
感嘆。
「よかったなあ」
万感を込めた寿ぎの言葉。
ああ、この人に会えて本当に良かったと思い、だからこそ、その果てに待つ結末を聞いてこの人がどう思うかを知りたいと願った。
「でもね」
血反吐を吐き出すかのように。
「でも、帰れても私は死ぬらしいの。ケイキの主になった私は故郷に帰ると死ぬんだって」
酷く空疎な顔で陽子は言った。
「なんだって?」
信じられぬことを聞いたかのように楽俊と聞き返した。
「そりゃまた、どうしてそんなことに……。いや、待て陽子、おまえ、誰からその話を聞いたんだ?」
「あの日、楽俊を見捨てた後、出会った妖魔がそう言っていたんだ」
「妖魔が?」
「うん、これまでの妖魔と違って見かけはただの人の服を着ただけのお猿さんだったんだけどね。正直、半獣にしか見えなかったけれど、でもあれは妖魔にしか思えなかった」
「……ちょっと待ちな」
楽俊があわてたように手をあげた、尻尾までが陽子を押し止めるようにあがる。
「猿の妖魔だって? それも半獣にしか見えない?」
「だけど。知っているの?」
「知っているも何も……、そいつは多分、マエンコウだ」
「マエンコウ?」
どことなく大仰に感じる音感だ。
あの場は彼の怪猿に呑まれていたから何も感じなかったが、あのどことなくおかしさを感じさせる猿を表すには不適切に感じられる。
けれども、目の前の半獣は畏怖を込めて語る。
「魔猿公、おいらだけじゃない、誰もが知ってる伝説の大妖魔だよ。だけどどうして? 遵帝亡き後、魔猿公は黄海に引っこんじまったはずなのに……」
訝しげに語る楽俊を眺めながら、あの異形の夜を陽子は思い返す。
あの時、魔猿は何と言っていただろうか?
そう、
「意趣返しだって言ってた」
「え?」
うん、そうだ。
「わたしを殺させようとした相手に対する意趣返しだって」
「殺させようとしただって? 陽子、そいつは……」
「たぶん、楽俊の考えている通り、妖魔を操ってわたしを襲わせようとした相手だと思う」
沈黙。
楽俊は自分の髭をしごきながら何事かを考えている。
時折、まさかやそんなことは、などと漏らしながら。
「陽子」
まっすぐ陽子の目を見て楽俊は問いかける。
「他に何か魔猿公は言ってなかったか? なんでもいい、考える材料が足りない」
「…………」
しばし中空に目を彷徨わせる。
記憶に焼きついたあの夜、猿の妖魔は何と言っていただろうか。
そうだ、確か。
「確か、わたしのことをケイジョオウだから暗君が大逆の的に選んだとか、巧に居る限り命を狙われ続けるとか言っていた様な……」
「ケイジョオウ、だって?」
陽子が頷くと楽俊は思い悩むように髭を何度か上下させた。
「陽子がケイジョオウ……」
足音が途切れたことに気が付いて振り返ると、楽俊が二、三歩離れたところでじっと陽子を見あげている。ひどく途方にくれたように見えた。
「どうかした?」
「……した」
首をかしげる陽子を見あげたまま楽俊は呟く。
「ケイキはおまえを主と言ったんだよな?」
「うん」
頷く。
「ケイキがおまえを主と言って、魔猿公がケイジョオウと言ったのなら、おまえは多分景王だ」
「え?」
「慶東国王、景」
陽子はしばらくぽかんとする。あまりに隔たりのある言葉にうまく反応することができなかった。
「おまえは……慶国の新しい王だ」