十二国の中央、黄海の何処かに魔猿公なる猿が住まうという。
いつの時代から存在するのかは定かではないが、人界の記録によれば500年ほど前に人界に侵入、人の世を大いに乱し黄海へ戻ったとされる大妖魔だ。
この記録から分かる通りそこまで古い妖魔ではあるまいが、けれども神代の昔から存在する饕餮などの大妖魔たちに勝るとも劣らぬ妖魔だと言われている。
なぜならば、この猿は卵果を喰う。
しかも、この猿が喰ったのは野木の卵果のみに非ず、里木、路木を含み、更には最悪なことに女怪を退け捨身木に生った卵果、即ち麒麟を喰ったと言われている。
この猿は神通無比にして強力無双、天意に背き、現世を荒らすが故に民草はこの猿を魔猿と恐れ、また蓬山公を喰ったことより、公の尊称をつけ魔猿公と呼び習わしている。
とにかく、そんな風に恐れられているのが俺らしかった。
「ふん」
顎を掻き
「なるほど。それで? そんな猿に助けられた自分をどう思ってんのよ、人間」
「…………」
答えられずに男は沈黙した。
この男の名を李真という。才国の将で昇山の為に黄海に赴き、道を共にしていた者どもからはぐれ、死にかけていた愚か者だ。
たまたま外出中に行き倒れているのを見つけたので拾ったのだ。
「魔猿公、生憎と私は寡聞にして貴方が人語を解するなどと聞いたことがない。それに――」
李真は室内を見渡し
「これほどまでに学が深く、理性的であるとも」
そこに所狭しと並べられていた十二国の古今東西有名無名の書物を見た。
いやそれだけでない、外に出れば黄海にあることが信じられぬような田園風景がそこには広がっている――。
「貴方は何だ、魔猿公。唯の妖魔ではあるまい」
答えず、俺は近くにあった酒瓶を手元に引き寄せ器に注ぐ。
くい、と器を干すと李真に言った。
「俺はただの猿だよ。確かに世を荒らしまわったこともあったがね、蓬山公を喰った後はそんなことをせず、この黄海の片隅にて細々と生をつないでいるだけのつもりだよ」
そう、前世の意識に覚醒してより俺は猿としての自分の行状を恐れ隠遁した。
……いや、それは正確ではなかったか、正しくは真っ当な日本人の倫理観に照らし合わせれば、それまでの自らの行いを恥じるべきものと分かっているのにも拘らず、それを何とも感じられない自分自身こそを恐れたのだ。
それは猿から継続していた自分にとって正しいことであったのかもしれないが、しかし、日本人としての良識はそれを明らかに異常だと訴えていた。
だってそうだろう、人食いを何とも思わない人間なんて普通いない。
まあ、俺はもう猿なのだが。
「ではこれらの書は何だ。何故、近世の作の書物まで交じっている」
そんな思索を遮って李真は質問を続けてくる。有難いことだ、この話題を考え続けていると気が狂いそうになる。
「それは黄朱の民から頂いたものだ。何せ隠遁しているとはいえ、一人住まいでは暇で堪らん。晴れの日は田畑を耕せばいいとして、雨の日はすることが本当に無くなってしまう。だから、嗜み程度ではあるが読書などをさせてもらっているよ」
前世ではこんな難しそうな本は忌み嫌い、ひたすらゲームに走っていたというのに変われば変わるものだと内心笑った。
「黄朱の民、ですと?」
ぴくり、と李真の表情が一瞬だけ歪んだ。だが、気にしなかった。
「ああ」
頷き
「まあ、一部は変化して人界にて得たものだがね、多くは俺が育てている食物や薬草の類と交換に黄朱から得たものだ」
「では、なぜ黄朱の民は貴方を恐れない。よもや人界に貴方を招いたのは黄朱の民か」
「そんなことあるわけがないだろうが」
呆れ果てた、こいつはいったい何を言っている?
「では、何故貴方と黄朱の間に繋がりがあるのだ」
「お前は馬鹿か?」
心底呆れ果てた目で見てもまだ理解せぬと見えて続けていった。
「今のお前の現状、これそのものが答えになっているだろうが」
「ああ!」
ポンと手を叩き――次の瞬間、李真は土下座していた。
「申し訳ない!」
「は?」
「貴方と黄朱の民に勝手な妄念からありもしない嫌疑をかけるところであった」
「いや、黄朱は確かに無罪だがね、俺はちゃんと人界を荒らしたぞ?」
何を言っているんだろうか、俺は。
「それでも」
ガバッと李真は顔を上げ俺を真剣な目で見据える。
「貴方は私の言葉に不快感を得たであろう!?」
「そりゃ、まあ……」
黄朱の民には色々お世話になっているのだ、その彼らにありもしない疑いを持たれたら嫌な気分になるのは当たり前だろう。
「私は貴方に助けて頂いた身であるというのに、その恩を仇で返すところであった。この身の不徳、誠に申し訳ない!!」
「頭下げんな、男が下がる」
そんな頭を下げられても不快感が募るだけだ。
ましてやこの男に好感を感じつつあったのだから、それはなおさらのこと。
「許して下さる、というのか?」
「許すも糞もないだろうが。あんたは才国の将軍様だろうが、そのあんたが俺と黄朱の関係性に不安を覚えるってのはこれはまあしょうがないことだろう。国の為だ、まあ、本来そういうのをすべきであるのは文官であるが……、武官がしちゃならないって訳でもなし、むしろあんたが良く国のことを考えていることが分かるよ」
「…………」
「さてと」
席を立つ。
「そろそろ湯が沸いた頃だ。薬湯を入れるからしばらく待ってな」
そしてそれから数日間李真と過ごした。
それは決して長い時間ではなかったが、けれども濃密な時間であった。
楽しい時間ではあった、けれども、それは楽しいだけでは終わらず互いにぶつかり合うこともあったそんな時間、かつて人間だった頃は当たり前にあってけれども人付き合いというものが煩わしくて避けようとしていた時間、それを失った今になって黄金のように感じていた。
「それでは、李真気をつけてな」
「公もお気をつけて」
「この俺に何を気をつけろというんだ」
苦笑、李真の肩を叩いた。
「全く、俺は天下万民に悪名を轟かす魔猿公様だぞ。その俺を気遣う愚か者などお前ぐらいだ」
「ええ、でもそれは当たり前のこと。だから、私はそれができない民草のことを憐れみたい」
李真は目を伏せた。そして顔を上げると俺をまっすぐに見た。
「もし私が王になったら、魔猿公、私に仕えてくれぬだろうか?」
「はっ」
失笑する、何をバカなことを言っているのだ、この男は。
「あり得ん、そんなことは民草が許さんし前例もない。そして何より、お前じゃ王にはなれんだろう」
「何を根拠にそう言われる?」
「先程の妄言を根拠に。そのような愚か者を天意は王とは認めんよ。この身は天地を荒らした大妖魔、猿の中の猿たる魔猿公よ。その俺を臣下に入れたいだ? バカを言え、妖魔を臣下に入れるなどという妄言、聞いたこともないわ」
「ああ、だからこそ私が先駆けとなる。貴方はただの妖魔と違い理性を持ち、そして理知的だ。そんな貴方が死にかけていた私を助けてくれたのだ。――他の昇山者と異なり、このような出会いのあった私が天意に選ばれていない訳がない」
そう戯言を真剣に告げる李真に頭を振った。
「自前の剣も鎧も失くした将軍風情が良く言った。あんまりにも馬鹿すぎるから、その剣の代わりにこいつをくれてやろう」
腰に帯びた剣を奪い取り、妖術を使い耳穴に入れていた鉄塊を一尺五寸ほどの長さへと戻し放り投げた。
「これは?」
「世に言う魔猿公の如意自在棍、女怪を撃ち殺した鉄塊だ。まあ、実際は伸縮自在と言われているのは俺が如意自在の妖術を心得ているからであって、そいつはただの鉄塊に過ぎんがね」
ニヤリと笑う。
「ただ、こいつは蓬山においてはたまらないほどの不吉だ。そいつを持っているだけで麒麟はお前を避けることだろうさ。それを持ってなお、斎王となるようであれば、臣になるというのも考えんでもない」
まあ、なる気はないがな。
「還す必要は?」
「ない。王になろうがなるまいが、そいつはくれてやる。なんせ、そいつはただの鉄の塊、代替品なんていくらでもある」
「大切にさせてもらう」
「そんな必要もないがね。まあ、さっさと行くがいい。俺はこれから収穫作業なんだ」
あっち行けと追い払う動作をした。
李真は苦笑して
「ではまた会おう、魔猿公」
蓬山へ向かって歩き去った。
力強く、一歩一歩と。