「なぁにぃ? ガルアーノがやられただと?」
ミルマーナ軍本部。戦線が開かれる前は海上に浮かぶ白亜の城として名高いその場所も、今や最新鋭の兵器群が顔を並ばせる鉛色の城と化していた。
緑と友愛をこよなく愛するミルマーナ国王が何物かによって謀殺されて久しく、軍を統括する将軍となった男が玉座に腰を下ろして随分と時が流れてしまっている。
その男。軍人というには肥えた体格とスキンヘッド。そして何よりも下賤な欲望に満ちた瞳をぎらつかせるのがヤグンという男だった。
「はい。ロマリアにあるキメラ研究所にアークが攻め込み、善戦するも……」
「…………くく」
緑色のベレー帽を被った部下の報告を聞くなり、ヤグンは職務中だというのにテーブルの上に散らばる酒瓶から封の空いていないものをつかみ取り、グビグビと喉を鳴らして呷り始めた。
その瞳には歓喜と嘲りが込められていた。尚も報告を続ける部下のことなど気にもせず、ゲラゲラと笑いながら酒を飲む。彼の隣をいつも陣取っているペットの子ザルも、とても小動物とは思えない声色でギャッギャと鳴きはじめた。
その余りの光景に、灰色の身体を持っているはずの部下でさえも顔を歪めた。
「ようやく死んだか。あの三下」
「将軍?」
「ああ? 何だ、貴様も笑わんのか。あの穴埋めとして四将軍の名に連ねられた勘違いが死んだんだ。これほど傑作なことはあるまい」
いつになく上機嫌の、それこそ戦場の兵をゴミのように散り飛ばすかのような恍惚とした表情を浮かべたヤグンは、聞いてもいないのにガルアーノに纏わるくだらない話を部下へと話し始めた。
「所詮四将軍などという名も、後から付けられた通り名に過ぎん。アンデルは御方のために動き、ザルバドは本国を守り、そして俺は侵略する。くくっ、ではガルアーノとは何だ?」
「それは……」
「たかが一研究者の馬鹿が俺と同じ将軍と呼ばれるなど、それこそ馬鹿な話だ」
日ごろから下と思っていた人間が同格として存在することに苛立っていたのか、ヤグンの矢継ぎ早に話される悪態に部下は無表情で通した。ここで余計な口を挟んで『粛清』された軍人は少なくない。
暴君の話が途切れる瞬間を狙って、部下は咳払いと共に話の先を続けた。
「それと同時に本国で他将軍様方との会合が求められているようですが」
「誰からの話だ、それは」
「アンデル様です」
「ちっ、これからが面白いことだというのに」
先ほどまでの機嫌から一転して顔を歪めたヤグンの態度に、部下は強張る表情を見せぬよう震える右手を後ろ手に組み左手で押さえつけた。
やがてヤグンは立ち上がり、軍服に飾られた幾つもの勲章をじゃらじゃらと鳴らしながら出口へと歩を進めた。その歩みはとても軍人のものとは思えないほど緩慢であり、そして武術を嗜む人間から見れば余りにも隙だらけなそれ。ただ殺戮と恐怖のみを以てミルマーナに君臨する暴君は、常に我欲のままに生きている。
その有様に震えた部下は、思い出すかのようにもう一つの報告を叫んだ。
「ヤグン様! その、グレイシーヌから和睦の使者が来ておりますが……」
「殺せ」
「は?」
二言目もなく、ヤグンは背中越しの部下に言い放った。
「尋問し、拷問し、薬を与えてグレイシーヌの情報を吐かせろ。そしてことが終われば挽肉に変え、グレイシーヌへ送り返せ」
「しかし、それは……」
「貴様も一緒に死肉の箱の中に入るか?」
もはや部下は歯をガチガチと鳴らせることすら隠せなかった。
「くたばるか、ひれ伏すか。それしか残っていないとグレイシーヌに教えてやれ」
暴虐のヤグンは、未だ世界を侵しつつある。
ヤグンの肩に乗る耳触りな子ザルの鳴き声が、いつまでも響いていた。
◆◆◆
自然豊かな国として広大な熱帯雨林が広がるミルマーナではあったが、ヤグンが国を操るようになってからだいぶその姿も様変わりしていた。
それも恵みの精霊という、この地一帯を守護する精霊の力が衰えているためではあるが、それと同時にロマリアより持ち込まれた大量の科学兵器がそれを加速させている。
それはミルマーナ首都であるアジャールでも変わりなく、街にはヤグンの圧政に引きずられて横暴を振るう軍人たちが闊歩し、自然と人の営みがほどよく混ざった涼しげな街も鉄の匂いを漂わせるようになってしまっている。
人は、その心に闇を纏い始めている。
闇とは負の感情、ありきたりな憎悪や悪意といったものだけではない。諦め、絶望、悲しみ。ヤグンが国を取り仕切るようになってから国民の顔にはいつも影が差すようになった。
だからこそヤグンは、ロマリアは力を増す。悪意によって人を見出し、絶望によって人を堕とす。
であればロマリアにおけるヤグンの立ち位置は世界に恐怖をばら撒くにはうってつけの役割であった。
数年前にミルマーナ国王の謀殺からこの国の軍拡を強行に進めてきたヤグンの欲望は、やがてロマリアの目的と同じく世界に向け始めていた。近辺の小国を落とし、あるいは消滅させ、殺戮の限りを尽くしてきた軍国ミルマーナはやがて大国グレイシーヌにさえも手を出し始めた。
国を治めるつもりなどなく、ただ屈服させたいが故に。
「酒持ってきやがれ!」
今日もまたアジャールにある酒場には多くの兵隊たちが屯っており、碌に金も払われない、もはや野盗のそれと同等以下と化した者たちに人々は虐げられいた。
その光景を見ながら、ひとりの清掃員が酒場の端っこで暗い瞳を覗かせていた。手に持った掃除機で人の眼に付かないよう黙々と掃除に勤しんではいたが、常にその眼は兵隊の方へ向いている。
男の名はヨアン。
平和だったミルマーナにてただの兵隊見習いであった男。
七三分けに整えられた髪型と少々痩せこけたものをみせる細身の体は、とても元軍人というにはほど遠く、厚めの丸縁眼鏡はその頼りなさげな有様を後押しするようだった。
だからこそ軍人たちの眼には止まらない。おどおどと自分たちを見やる若い男の有様に、少しだけ自尊心を肥やすだけだった。
ヨアンは胸中に大望を抱いて生きてきた。
あの自然豊かなミルマーナを生き返らせてみせると。
それはこの国に住む人々が無意識に抱く希望であり、そして意図的に捨ててきた願いだった。いったい誰がこの現状を打開してきれるのか。いったい誰が解き放ってくれるのか。
長く虐げられてきた心はもはや自ら反抗する気概を持てない。少し前に起こったヤグンへのクーデターの際に、そのリーダー格が街の前でヤグン自らの手でただの肉塊と変わった時、確かに人々の心は折れたのだ。
ただ唯一、ヨアンだけは折れなかった。
その身を清掃員として偽り、数年にも渡るスパイ活動を続け、どこかに反抗の種はないものかと泥を啜りながら生きてきた。その過程で知り得た一つの希望。
王女が生きている。あの心優しきミルマーナの王女が。
(まだ、耐えるんだ)
ウェイトレスとして雇われている酒場の幼い少女が兵達に乱暴に腕をつかまれた。その光景を見てもヨアンは動かなかった。口の中に溜まる血が喉を流れてもまだ、乱暴に服を裂かれたウェイトレスを横目に見ただけだった。
その少女を心配する前に、スパイ活動をしている自分の情報が流れるのではないかと、人でなしの思いを抱いたことにヨアンは薄く自嘲した。
「あ、あんたらっ」
止めに入った酒場の店主は銃底で殴られた。血が舞う。苦悶の表情を浮かべながら店主の男は倒れ伏した。兵たちが引き金に手を掛けた。ウェイトレスの、店主の娘の悲鳴が上がった。
それを、傍から聞く。
娘が店主を庇い涙ながらに何でもすると言った。兵たちはあざ笑った。店主が震えながら娘の肩に手を掛けた。もはや幾度も見てきた悲劇の形。これが悲劇だったのか日常だったのかさえもはや定かではない。
これが、嫌だから、自分は。
ヨアンは灰色に白けた瞳でファンの回る酒場の天井を見上げた。
遠い日の記憶を思い出す。
未だ軍服さえまともに着られなかったあの若き見習いの日々、ミルマーナらしい褐色の肌をした利発そうな少女に出会った。ただの迷子かとも一瞬思ったがその身に纏うのは王族が着こなすようなお召し物だった。彼女はそれでお忍びだという。
初めて目の前に現れた王族という人種にしどろもどろになりながらも、たった一日だけ優しき少女と知り合えた。この国が大好きだと。守りたいと話す強気な王女の姿。
思い出せば、ヨアンは惨めになった。
今の自分は何をやっているのだろうか。この目の前の光景が許せなくて、あの日の誓いを遂げたくてこうしているというのに。
そう思えば行動は一瞬だった。
手に持っていた大型の掃除機を振り回し、今にもウェイトレスに襲い掛かろうとしている兵隊の側頭部を殴りつけた。
相手は四人。殴りつけられた兵隊はそのまま沈んだためにもはや3人。だがこちらを睨みいきり立つ屈強な兵隊を前にヨアンは覚悟を決めた。
もう、生きられない。
◆◆◆
ヨアンはぼうっと霞む視界と定かではない意識が絶え間なく続く中、腹に激痛を覚えた。次いで胃の中から吐瀉物が這い上がり、酸っぱい匂いと錆びた臭いに意識が覚醒された。
げほ、と赤が混じった固形物を吐き出す。覚醒した視界だというのに右目は見えず、眼鏡をかけていない裸眼は目の前の状況さえ把握しきれなかった。
「起きろ」
ドスの利いた声が耳に届く。首に走る痛みを抑えながら顔を上げれば、ヨアンの視界には自分を見下ろす何者かの顔が三つあった。
ようやく思い出す。哀れな正義感の末路を。脳内の記憶を巻き戻し、ヨアンは原型の残らないほど殴られ晴れ上がった顔をにへらと歪めた。
ヨアンは熟練の隠密としてスパイ活動を続けたわけではない。見習いのままヤグンの手に落ちたミルマーナに彼の居場所などなく、自分を指導してくれた僅かの生き残りもすでに粛清の手で消えた。
だからこそ自分の頼りない見てくれを利用して彼は少しずつ情報を集めてきたのだ。ゴマを擦り、ろくでなしを演じ、相手の自尊心を満たすように……。
であるならば酒場で起こしたものは蛮勇に他ならなかった。
すぐに叩き伏せられ、引きずられ、やがて街の外れまで連れていかれた。
そこから始まったのはただのリンチだった。僅かの反抗として拳を振るってみるものの物の見事に兵隊たちには避けられ、哀れな獲物の抵抗は却って兵たちの嗜虐心を満たした。
蹴られ、殴られ、折られ……それでも彼らは背に背負った銃を使おうとはしなかった。
すでに陽は沈みかけ、自分の身体は夕日の明かりと血で真っ赤に染まっていた。
(早く、終わらないのか)
諦めない。ただのその心を芯にミルマーナの復興を願ってきたヨアンですら、その内には諦めが蔓延していた。絶え間ない暴力に叫び声をあげることも出来ず、どこが痛くてどこが痛くないかさえ分からない。
そうすれば兵たちの興味がなくなるのは当然だというのに。
「おい、もう反応しねぇぞこいつ」
「くたばったか? いや、まだ息があるぞ」
「でもつまんねぇよ。殺しちまおうぜ」
ヨアンは血が詰まって聴力の落ちた中でも聞こえたその言葉に安堵した。これで終われる。
だが自らの言葉に疑問を投げかけたのは他ならない自分だった。これで、ここで終わっていいものか、と。
(サニア、様は……生きてる)
言い訳染みた言葉。次いで湧き出たのは憤怒だった。
あの幼い少女に。今も恐らく一人で戦っていらっしゃるあの王女一人にすべてを託すのか。この広大で美しい自然の国を。その人々を。
今しがたヨアンの首に手を掛けようとした兵隊の手を、力のない動きでつかみ取る。手弱女よりも弱いその力だったが、決して離そうとはしなかった。
「おっ?」
「死ね、ない」
死んでたまるものか。祖国のために。民のために。あの王女のために。まだ自分には出来ることがあるはずだ。
目の前でゲラゲラと笑い下卑た貌を浮かべる兵隊たちに向けて、よろよろとヨアンは立ち上がった。
「食っちまうか、こいつ」
しかし兵隊の一人が零した言葉にヨアンはわが耳を疑った。
やがて兵隊たちはその身を変化させ、真っ赤な血に染まったような鎧を着こみ死臭を漂わせる鬼のようなモンスターへと転じた。
「魔物……」
呆然としながらヨアンはつぶやいた。
スパイを続ける中で突き止めた情報の中に、ロマリアから送り込まれたキメラ兵なるものを彼は知っていた。だがその運用法までは未だはっきりとせず、であればヨアンは戦場でのみ運用されるものと思っていた。
だが実際はどうだ。ミルマーナの誇りある軍服を纏い、民に頭を下げさせ、そしてこの国を我が物顔で徘徊している。
「ギザマラッ!」
ヨアンは潰れかけた喉で吠えた。
祖国が人ではなく、もはやただの魔物共に犯されていたという事実に勘弁がならなかった。
だが現実は遠く、近く。幾人もの血を吸ったであろう斧を振り上げた魔物がそこにいる。目の前まで迫っている。死神の鎌はもう、そこに。
夜と昼の境目。最後の逢魔が時。消える夕日に紛れて、ヨアンは赤黒い影を見た。
「あ?」
いつになっても振り下ろされない斧に身体が固まったのは、ヨアンだけでもなく目の前にいた魔物も同じだった。
気がつけば赤の鎧からは幾枚もの漆黒のカードが突き刺さっており、そのどれもが魔物の身体から鮮血を浴びて赤黒く光っていた。
「な、んだ、こ……」
やがてそのカードは不可思議な光を放ち始め、盛大な音を立てて爆発した。
突如吹きさすぶ突風にヨアンは尻もちを付き、やがてはバラバラになった魔物の身体が降ってくる。ピチャリと頬を伝う魔物の血に、ヨアンは何が何だか分からなくなって唖然としていた。
魔物たちの怒号ですら、今はどこか遠い。
「どこのどいつだ!?」
「出てきやがれっ!」
キョロキョロと辺りを見回す魔物たちをあざ笑うかのようにして、暗がりの中で黄衣が翻った。
どこからか現れた小柄な影が魔物の首筋を沿うかのようにカードを奔らせ、鋭利なそれで裂かれた魔物の首から血が噴き出す。
「遅いわよ」
影が零した声は少女のそれのように甲高い音を残し、ヨアンのぼやけた視界にようやく映った姿は、ミルマーナでもよく見られる少々露出の多い黄衣を着た少女らしき姿だった。
バラバラになった魔物と首を切られて物言わぬ躯となった魔物を踏みつけ、少女は腰まで届く茶髪をかき上げるようにして残った一体に向けて言い放つ。
「この国の人々に手を出すなら、死すらも生ぬるい」
とても少女の声で言えるものではなかった。だがしかしその声にはあまりにも怨嗟の念が込められていた。とてもその容姿には、小さな体には収まり切れない憎悪の念が。
だがしかしその声が途絶えるや否や、突っ立っていただけの魔物が勝手に倒れ込むようにして地に伏した。
そしてその陰から出てきたのは、また違う影。
「口上を垂れる暇があるなら殺せ」
「いちいち五月蠅いわよ」
唐草色の外套。全身を白の包帯で巻かれた姿。右手に持つ血に塗れたナイフ。ヨアンは無意識のうちに恐怖した。あれはいったい何なのだと。
憎悪に身を焦がす少女。恐怖をまき散らす木乃伊。
ヨアンは何が起こっているのかも分からず、ただひっそりと意識を閉じた。
◆◆◆
勇者は裏側の知勇を帯びて飛翔する。
世界各地に撒かれた闇の種を刈り取るために。
悠久の大地が広がる戦火間もないひび割れた国、ブラキア。
戦士は捨ててきた過去と相対する。逃れられぬ運命を捻り潰し、まだ見ぬ未来をつかみ取るために。
偉大なる戦士はいつだってこれしか知らない。だが未熟な父はそれを知っている。
――――私を、お前の父と名乗らせてくれ――――
僅かな希望、僅かな縁。それを信じた故に、闇はそれを奪い去る。
たった一つ。少女が振り絞る勇気は、今こそ人を解き放つ。
人間は、弱くない。
――――手を繋ごう。まだ、やり直せるから――――
天高く聳え立つ神の居城。その地に人の罪は甦る。
古の闘争を置き去りに、機神は化け物と対峙する。
貴様は敵か、味方か。
――――我は機神。人を護る物。化け物を、屠る、物――――
砂の舞うかの地へ少女は戻ってきた。消えた過去が胸中を乱す。
私はだあれ。私はなあに。
幼い手から零れ落ちた雫が答えを出す。
――――我儘が言える。我儘を許してもらえる。貴方はもっとその価値を知るべきだと思う――――
世界は終わりに向けて走り出す。
精霊も、魔物も、人間も巻き添えにして加速する。
終焉の時は近い。
化け物。彼はいつだって変わらない。
罰の時。復讐の時。彼はいつだって変わらない。
――――邪魔だ。死ね――――
全てを前にして彼は言う。
<あとがき>
暇つぶし。