二回三安打三失点。
言い訳はしないと決めている私だけど、余りにも作為的な先輩のリードに文句の一つも付けたくなっていた。
そりゃあ、球威が格段に劣る私の球筋が悪い。でもその球筋を克服するために精密なコントロールを私は持っている。少しでもゆーくんと野球をするために磨き続けた私だけの武器だ。
その武器さえ生かすリードをしてくれれば、私はまだまだ打たれる気がしない。
だが、いらぬ嫉妬や侮蔑を買っている今の私では、目の前に立つ打者を打ち取ることは出来なかった。
単純に実力が及ばないならともかく、まともに投げさせてもらえなかっただけ苛立ちが沸き立つ。
それに大好きなゆーくんが怪我で休みというのも私の精神上芳しくは無かった。
別に慰めてもらおうとはこれっぽっちも思っていないものの、上級生たちを叩きのめすあの圧倒的なプレーをこの目に焼き付けたかったのだ。
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涙を溜めた瞳を洗面所で乱暴に拭う。
更衣室のロッカーに放り込んでおいた制服に着替えて制汗スプレーを振った。未だ立ち込めるやるせないイライラを振り払うように私は廊下に飛び出す。
すると見知った同級生たちが歓談している様子を見つけた。それぞれ運動部のマネージャーを務めている女の子たちだ。
会話の内容は主に何部の何先輩がカッコいいだの、好きだの、女三人集まればなんとやら、姦しいとしか言いようのないものだった。
そして、そういった席で自らの思い人の名前が挙がることなど最初から予想できていたことだった。
「ねえ、野球部の神崎君、彼かっこいいよねー。カレシにするならあんな感じ?」
一々抑揚に飛んだ口調に閉癖しながらも、私はそっと耳をそちらに傾ける。
こんなもの聞かなければいいのに、どうしても耳を欹ててしまうのはやっぱり悪癖なのだろう。
「でもさー、神崎君もう彼女持ちらしいよー」
別の女の子が返した合いの手に私の身が強張る。それはもしかしてあれなのだろうか。まだまだ噂だけど他生徒には私がゆーくんの彼女ということになってしまっているということだろうか。
これは彼是十年近く付きまとった甲斐があったというものである。ゆーくん本人がその説を否定してもこれをダシに外堀を埋めていけば良いのだから。
先輩の嫌がらせに対する鬱憤は何処へやら、私は静かに己の感情が昂ぶるのを感じていた。
それは後から考えてみたらある意味で中学生活で一番幸せな瞬間だったかもしれない。
けれど。
世の中がそんな都合の良いように進むのなら、この世界から紛争や飢餓はなくなるのである。
女の子はこう告げた。
「この前陸上部の先輩が言っていたんだけど、彼、二年の咲下先輩と付き合ってるらしいよ」
……。
…………。
……………。
…………………。
………………………へ?
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振りかぶって、投げる。
振りかぶって、投げる。
振りかぶって、投げた。
加奈子が投じた白球は、弥太郎のミットを大きく反れて見事明後日の方向に飛んでいった。
「つっ。おいおい! 何そんなに荒れてんだ! 大体スカートでキャッチボールとか馬鹿じゃねえの! せめて私服に着替えろよ! ライトグリーンかよ!」
「うるさい! 死ね!」
咄嗟にスカートを抑えるものの、直ぐに弥太郎の返球を力いっぱい投げ返した。今度は何とか彼のミットに納まったものの、球筋も無茶苦茶で決して褒められたホームとは言えなかった。
加奈子は怒りの形相で弥太郎を睨み付ける。久しぶりに怒りの感情をぶつけられた弥太郎は「ひっ、」と情けない声を上げることしか出来なかった。
「……僕も見えたんだけどねえ……。そもそも夏場にそんだけ無茶したらもう透けてるし……」
欠伸を一つ遠慮なしにしながら、二人の様子を健二が見守っていた。彼は自販機で買ったスポーツドリンクを足元に三本置いている。うち二本は加奈子と弥太郎のためだろう。
彼は加奈子の怒りの原因を友人から聞いていた。それは同学年の女子生徒の無責任な発言が原因らしい。だが健二がその発言を耳にしたとき、はじめに感じたのは違和感だけだった。
「神崎君は今日病院に言ったんだよな? 何で付き合ってることになってるんだ? 面識があるなんて聞いてないぞ」
そう。二週間ほど前にファミリーレストランで咲下井塚の連絡先を祐樹に教えた健二だったが、アレから祐樹がそこへ連絡していないのは今の状況の通り事実だった。もしそこで連絡したのなら故障者リスト入りの噂など流れるわけが無い。
ならば二人に面識がないと考えるのが普通だったが、友人からの話を聞く限り井塚と祐樹が恋人同士というのはかなり信憑性のある話らしい。
何故なら本人がそのことを認めているというのだ。
「けど祐樹君は決してそんなこと言わないだろうし。……言ったらどうなるかなんて火を見るより明らかだもん」
ストレス発散のキャッチボールにつき合わされている弥太郎を見て健二は一人納得していた。そもそも恋愛感情を抱いているかは全くの不明だが、祐樹は基本的に加奈子の味方だ。そして祐樹自身は加奈子の好意をある程度認識しているようなので、火に油を注ぐような真似をする筈が無かった。
と、すれば。
「問題は咲下さんか。何を考えているんだあの人は」
加奈子ほどではないものの、微かな怒りを覚えながら健二は携帯電話を手に取った。もちろん通話先は井塚である。
だがまだ昼過ぎだというのに、電話口から聞こえてきたのは「電源が入っていない」という携帯会社お決まりの台詞だった。
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あれはいつの頃だったか。
故障に悩んでいた祐樹にコーチが勧めた病院があった。都内のオフィス街に戦々恐々としながら足を運んだことは覚えている。なにぶん上京してから初めて東京らしい場所に来てしまったのだから。
もう少し先輩や監督が催す食事会に出席していればと後悔したものだった。
そして地図を片手に訪れた病院は、医療機関というより理容室と言った方がしっくりくるようなお洒落な内装で、受付の女の人も綺麗に着飾っていた。
決して自分だけに向けられる笑みではないと自覚していても、受付に立った瞬間、顔が火照るのを感じていた。
だがそこまで来るのに「やっと、」としていた祐樹に止めを刺す出来事が発生する。
看護婦に呼ばれ、診察室に足を踏み入れた時。
白衣を着こなし、ボールペンを無名ポケットに刺した色白の女。
彼女は祐樹に薄く微笑みこう告げたのだった。
「こんにちわ。神崎祐樹さん。東京ジャイアンツの方ですね。お待ちしておりました」
その笑みは彼を捉えて離さない。
「これからゆーくんと呼んで良いですか?」
咲下井塚との出会いは、そうして果たされたのだった。
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これが悪夢ならさっさと覚めてくれと願う。
十年近く唾を付けていた思い人が、ぽっと出の女に寝取られるなんてあってはならないことなんだ。
肩の痛みと、目に溜めた涙で何も見えなくなったとき、私はついに地面に座り込んだ。
そういえば、いつだか試合中に駄々を捏ねてこうして泣いたことがあった。
今思えば幼かったと笑っていられるが、よくよく考えれば今もあんまりかわってない。
でもこんなとき、私の大好きな人はそっと私の頭に手を置いて慰めてくれた。
私のヒーローは決して私を置いていかず、いつでも私のことを助けてくれたのだ。
そう。
だってほら。
今だってこうして頭に手をやって慰めてくれる。
嬉しい。
とても嬉しいんだけど……。
何でだろうなあ。
どうしてゆーくんじゃなくて、弥太郎なんかに慰められてるんだろう。
ごめんなさい。
当り散らして本当にごめんなさい。
だからもう少しだけ私を慰めて。
ついに泣き出した加奈子を弥太郎はそっと頭を撫で続けた。正直当り散らされたときは迷惑千万だったがこうなってしまっては、出来ることなど唯一つだと思う。
惚れた弱みはなんとやら。
弥太郎は随分と複雑な気持ちで、加奈子の涙を見守ったのだった。
「私はね、あなたがそろそろ来るころじゃないのか、って当りをつけていたんだよ」
待合室で手渡されたのはグラスに入った麦茶だった。少し古びたソファーに腰掛けた祐樹の隣に井塚は同じように腰を下ろす。そして瑞々しい薄くルージュが塗られた唇で一口グラスを傾けた。
「他の学校の監督があなたのことをここで噂していたの。西南中の神崎は深刻な故障持ちだって。でも同じ学校に通ってる私はそんな話聞いたこともないし、何より健ちゃんから軽症だって聞いていたから」
健ちゃん――おそらく健二の事だろう。どうやら二人はそれなりに面識があるらしい。祐樹が前世から背負う呪縛の二人が知り合いだったとは何たる皮肉なのだろうか。
祐樹は手渡されたグラスを傾けることなく、早く外先診断とやらに出かけた医院の主が帰って来ることを願っていた。
「でも驚いたな。実際こうして見てみると君のイメージが私の中で抱いていたものと全然違うの。周りからチヤホヤされて――、健ちゃんからは才能の塊って聞かされていたからもっと自信満々な、堂々とした人間だと思ったんだ」
遠回しに覇気がないと言われた祐樹はその通りだと一人納得していた。この世界では自分のほうが内心は年上で、尚且つ実力も伴っているのだからもっと堂々と彼女に振舞うべきなのだ。だが前世からのイメージの所為か、それを実行することは出来ない。
そしてその様子を観察し続けていた井塚は、そっと祐樹に顔を寄せた。
まるで恋人がそうするかのように。
祐樹の身体が思わず強張る。
彼女は祐樹の耳元でこう囁いた。
それはきっと、悪魔の囁きに違いなかった。
「ねえ、一体何でそんなに怯えているの? 久しぶりの再開なのにつれないね、ゆーくん」
その時、祐樹の中で全ての時間が止まった。
◆◇◆◇
おまけ
佐久間 加奈子(13) さくま かなこ
右投げ右打ち スリークォーター
球威 13
変化球 13
コントロール 18
スタミナ 14
守備力 14
合計 72
変化球 シンカー1 特殊能力なし