今更隠す必要も無いのでぶっちゃて言うと、私こと佐久間加奈子は神崎祐樹が好きだ。
我ながらませていると思うけど、愛していると言っていい。同学年の女の子が男の子を好きになる好きとは一線を画していると自分では思っている。
家が殆ど隣同士だから、生まれたときから隣にいた少年。普段は殆ど喋らないけど、実はとても熱血さんで、尚且つ優しく大人っぽい子。
こんなカッコいい少年のそばにずっといたらそりゃあ惚れてしまう。
一度異性として意識してしまえば、もう後は簡単だった。自分の気持ちに素直な私は自分の欲望のままにゆーくんへ付きまとう。
例えば毎朝、私は彼が家を出るより早くに彼の家を訪ね、恭しく幼馴染を迎いにきた女の子になるのだ。
ほら、若干眠たそうにしながらもしっかりと手を振りながら家から出てきた。
母親から体操着を受け取り、今日はいつぐらいに帰宅するだの、夕飯は何が良いだのを話して私の元にやって来る。
これが私の一日の始まり。これが私たち二人の始まりなのだ。
「さっ、ゆーくん。学校にいこ♪」
さりげなく手を繋いで道を歩く。後からやって来た弥太郎から夫婦とからかわれようと、私はその手を離さない。
女の子にも意地というものがあるのだ。
まあ意地云々はさておき(全然良くないけど)手の平関係で一つ懸案事項がある。
それは明日に迫った県大会の話だ。
ゆーくんと繋いだ手の平に残された小さな痣。大塚健二とかいうオロナミンだかポカリだかそういったものを作っている会社の回し者見たいな苗字の少年。
彼の速球を受けたとき、恥ずかしながら左手を痛めてしまった。もちろんこのことは監督にもゆーくん達にも言っていない。もしそんなことを告白してしまえば明日の先発は立ち消えになる。
それだけは、何としても避けたかった。
そもそも私が野球をしているのは弥太郎と談笑を続けるゆーくんの側に少しでも一緒にいることだから、明日の県大会でベンチスタートになると全く持って無意味極まりない。
そんなことになるくらいなら、いっそのこと風邪でもでっち上げて休んでやろうと考えている。
もちろん余りにも刹那的過ぎる最終手段なので試合に先発して大人しくしているのが一番よろしい。
だから私は痛みを悟られないよう、敢えてゆーくんの手をいつも通り握って平静をアピールしているのだ。ま、握ってるだけなら痛みもそれほどじゃないんだけど。
とりあえず、さっきから夫婦夫婦五月蝿い馬鹿を蹴飛ばしてゆーくんの腕に抱きつく。
ああ。やっぱ好きな男の子の体温は気持ち良いなぁ。お腹がきゅんきゅんする。
これが私の幸せの原点なのだ。
大学四年生の時に、ドラフト四順目でとある球団に指名された。
観客動員数は常にトップを走り続けるリーグの人気球団だった。
指名会見の後、人知れずホテルのトイレで泣いたのは今では良い思い出になっている。それほどそのチームの選手になれたことが嬉かった。
当時の野球雑誌で見た自分に対する評価は『広角に打ち分けるシェアなバッティングと確実性のある守備』だったように思う。
結局入団二年目で故障を抱え、一軍への定着も出来ず、自由契約の恐怖と戦いながら得た場所は代打の代打だったが。
広角に打ち分けることも、ミートすることも出来なかったけど、左打者という一点だけで何とか生き残ることが出来た。
もちろんプロ選手として生きていくための努力はした。
一軍レギュラーの選手が祝勝会とは名ばかりの夜遊びに出かけている間も、自宅に戻って素振りを続けたし、珍しく打席が回ってきた日は試合ビデオをテレビ画面に穴が開くほど見つめていたものだ。自慢じゃないが同世代の選手の中ではダントツの練習量だった。
それでもスタメンなんて夢のまた夢。才能が無かったといえば諦めがつくのだが、なまじ故障を抱えていた所為で故障さえなければと自分の身体を恨むことも多々あった。
いつ出番が来るかも全く解らず、二軍で調子の良い選手がいれば直ぐに入れ替えられてしまう日々。
自分より年下の選手が次々と活躍し、ファンに囲まれてサインをねだられている光景を遠目からいつも見ていた。そこに嫉妬が無かったといえば嘘になるけど、やはりまともにプレイできない悔しさとチームの役に立てないやるせなさが胸を貫いていた。
気がつけば、逃げるようにして人目を避ける自分がいた。
端的に言えばもう限界だったのだろう。バットを握ることが時が経つにつれ億劫になったし白球を見れば吐き気が止まらなくなった。
何度か実家に電話しようと思ったけれど、親に心配を掛けたくない一心で出来るだけ連絡は取らないようにした。
そして何時の間にか自宅での自主練もしなくなって暇さえあればどうして野球なんて始めたのか、どうして野球なんてしているのかを延々と考えるようになった。
チャンスで打てなければファンにも監督にも罵倒されスポーツ新聞では面白おかしく報道される。
どんな思いで毎日プレイしているのか考えたこともない癖に翌日のスポーツニュースでは能天気な声色で球界の大御所がケチを付けてきた。
昔はこんな悩みとは全くの無縁でそして全くの無心で白球を追っかけていた。
気の会う仲間と草野球をした小学生時代。学区のエースとして君臨した中学生時代。そして甲子園のスタメンとしてチームメイトと涙を呑んだ高校生時代。
大学野球も仲間と勝つことは勿論、日々のプレーが充実することだけを願っていた。
あの頃は野球が出来るだけで幸せだった。意味もなく白球を見つめることだけが生き甲斐だった。
神崎祐樹として二十二年間積み上げた野球人生はそれはとても素晴らしく、美しい日々だった。でもそれはたった五年間のプロ生活で鈍色に塗り替えられ絶望と嘆きの毎日に摩り替わってしまう。
とにかく野球を恨み、こんな思いを抱いてしまった自分を憎み続けた。
最早バットを握るのもおこがましく、白球を見るのも全てに対する冒涜だった。
でもそんな腐りきったプロ野球人生で唯一、全てのプレイヤーに胸を張れる打席が一つだけあった。
日本シリーズ第五戦。勝てば日本一のあの試合。
十二回の裏、ランナー三塁。ツーアウト。
もちろん周囲から望まれて、増してや自分から望んで挑んだ打席ではない。だが間違いなくあの打席では己が主役だった。
リリーフエースとして君臨し、自分とは全て対極にいた同輩に食らいついていた最高のステージ。
あの時の興奮は今でも手に取るように覚えている。手が震えるような錯覚、剛球をカットしたときの目の覚めるような打撃音。全てが静寂で、全てが色を持って、勝っても負けても決して悔いの残らないような夢のカケラ。
今までの野球人生を全部チャラにしてくれる最後のチャンス。
だがそれも自打球を頭部に受けることで全て不意にしてしまった。
失ったものは余りにも大きく、悔やんでも悔やみきれない。
そのまま死んだことよりも、あの打席の結果を知ることが出来なかったことだけがとても惜しい。
神崎祐樹は野球を続ける。
多分それは、前の世界で失った野球の面白さをあの打席を再現することで取り戻すため。
そしてもう一度、心から野球がしたいと思えるような、そんなプレイヤーになるため。
彼の戦いはまだまだ続く。
リトルリーグ県大会は最大で三試合戦うことになる。初戦と準決勝、決勝といった具合だ。
その内、チームのエースである佐久間加奈子の先発は初戦と決勝が予定されていた。
球場に到着し、ウォーミングアップが終了した時点で監督からオーダーが発表されたのだ。
「やっぱ四番はお前か。まあ打率が六割超えてるもんな」
ベンチで靴紐を結ぶ六年生がぼやいた。祐樹の前を打つ“元四番”である。祐樹はただ曖昧に笑って見せた。
昔、奪われ続ける立場にいた身としては安易な励ましは掛けたくなかったし、自分が活躍することでこの六年生が報われる何て綺麗事を唱えるつもりもさらさら無かった。
六年生は面白くなさそうに鼻を鳴らすと、ドスドス足音を響かせて試合プランを伝える監督の下へ歩いていった。
「嫉妬してるんだよ。あの上級生は。ゆーくんは沢山練習して来たんだから堂々としてればいいの」
そんな祐樹の脇では加奈子は髪を纏めていた。ポニーテール気味にヒアバンドを止め、尾っぽを野球帽の中に仕舞う。
この小さなエースは試合前だというのに緊張感の欠片も無かった。まあそれは向こうで下級生相手に馬鹿をやっている馬鹿(弥太郎)も同じことだったが。
「誰かが言ってたじゃない。スポーツは実力主義だって。私はまさにその通りだと思うな」
祐樹は同意しなかった。彼は六年生にやったようまた曖昧に笑った。それでも加奈子は何を勘違いしたのかにこー、と微笑んでくる。今の自分には勿体ないほど可愛い女の子だと祐樹は思った。
試合がもう直ぐ始まる。
祐樹は思い出しそうになるうだつの上がらない昔の自分を抑えて、グラブの甲で頬を叩いた。彼の横では加奈子が真似をして同じことをしている。弥太郎も目ざとくやって来ては、加奈子のデコを叩いて平手を食らっていた。(流石にスパイクを履いているので蹴りはしない)
異色の四年生トリオは共に駆け出すと、守備の為にグラウンド――それぞれのポジションにつく。
加奈子はマウンドへ、弥太郎はホームベースへ。
祐樹は外野の芝を踏みしめ右翼のポジションについた。背後ではしっかりと応援席を確保した両親と妹が声援を送っている。プロ時代に見ていた外野スタンドに比べると何とも貧相なものだが、今のほうが断然彼の力になった。
生前、守りたくても守れなかった守備。
祐樹は自分の定位置を、聖域を守るように芝を蹴る。空を見上げれば雲ひとつない青空があった。絶好の野球日和に目を細める。
「プレイボール!」
審判のコールが響き、加奈子が振りかぶった。
祐樹は空を見上げたまま白球が飛んでくるのを待つ。今はこうするだけでも、野球の楽しさがわかるような気がした。
「さあ、野球をしよう」
呟きは鈍い打撃音と、自軍の歓声に掻き消される。
◆◇◆◇◆◇◆
程よい疲労感が全身を包んでいる。ベンチで二回戦――事実上の準決勝を眺めながら私はスポーツ飲料の入ったペットボトルを傾けていた。
「加奈子、決勝は投げれるか?」
監督が私に聞く。ベンチに備え付けのスコアボードを見れば、既にうちのチームは十点以上リードしていて準決勝突破は確実だった。
「大丈夫です。それほど球数は多くないです」
私の言質をとって満足したのか監督は控えが座ってる反対側のベンチに向かった。大方主力温存の為の守備固めを打ち合わせに言ったのだろう。
私は監督が去った後、痣が残った手の平を見た。利き腕でないのが救いではあるが、投球で揺さぶられている間に痛みがぶり返してきた。何よりさっきの試合で小さなピッチャーライナーを捕球したのが致命傷だった。咄嗟にグラブを出してしまった自分を呪うしかない。
「どうしよう……」
集中力の乱れはあるものの、投球自体にこの痛みは関係がない。だがもう一度ライナーを取る自信はない。それどころか平凡なゴロですら痛くて取ることが出来ないだろう。
顔を上げれば我が軍の戦況が映る。丁度うちの六年生ピッチャーが投げたボールがライナーとなって弾き返されていた。
ヒット性の当たりだったが、飛んだ場所が良かった。
右翼前方に飛んだライナーはライトの手前に落ちるか落ちないか。それでもそこにいる少年は敢然と猛ダッシュを仕掛けて、殆どスライディングに近い形で白球に飛びつく。
球場が一瞬静まり返り、そして保護者や応援席の拍手に包まれた。起き上がったゆーくんのグラブには見事白球が収まっており、審判が甲高い声でアウトをコールした。
そのあんまりな結果に、打った打者はとぼとぼと自分のベンチに引き上げていく。
私も手を叩くことは出来ないけれど、精一杯の賛辞をベンチから贈った。
もう一度自分の手を見る。私は、私が野球をする理由を考える。
好きな男の子に褒めてもらいたいから。
少しでも側にいたいから。
私はとても自分勝手な理由で野球をやっている。でもそこに嘘偽りはない。
がやがやとベンチが騒がしくなった。見れば守備を終えたナインの皆が引き上げてくる。私は無意識にゆーくんの姿を探した。彼は弥太郎の馬鹿にファインプレーを褒められながら(だからってミットで頭を叩くな)皆に囲まれて帰ってくる。
私は自分の飲みかけだったペットボトルを差し出した。
「さんきゅ、加奈子。次の試合は頼むぞ。やっぱ加奈子じゃないと守備のしやすさが断然違う」
きゅん。
笑顔で答えるゆーくんはやっぱカッコいいし、大好きだ。彼は自分が考えている以上にこっちが参ってしまうようなことを言ってくれる。
私はさっきまで悩んでいたのが嘘みたいに親指を立ててこう言った。
「まかせて!」
不安も痛みも何もかも吹き飛んで私は幸せで一杯になる。
◆◇◆◇◆◇◆
昼休みを挟んで決勝戦が始まった。祐樹たちが所属するチームは無事準決勝を勝ち進み、今もこうして試合前のミーティングを開いている。
監督は相手チームのメンバー表に目を通しながら注意すべき選手やチームの特徴を説明した。
「……あー、バッターはこれで終わりだ。一回戦で当たった所に比べれば打力は低い。だが問題は投手力だ。次の先発が予想される六年生エースは実力も十分だし、何よりこのチームにはこいつがいる」
監督がメンバー表を指差し、スタメンの野手全員に見せた。息を飲んだのは弥太郎と祐樹だったか。二人はメンバー表の最後に書かれた控え投手の名前を知っていた。
「大塚健二。四年生でエースを務める実力派だ。この少年はリトルリーグ界ではかなり有名でな、何でも地方の名門校から既にスカウトの息が掛かっているらしい」
監督が健二について概要を説明していく。だが祐樹と弥太郎はそんな説明を聞かずとも痛いほど健二の実力を知っていた。
実際、弥太郎は健二の剛球の前に一度もバットをボールに当てることが出来なかった。
「大塚は幸い準決勝を投げていて、先発してくる可能性は低い。だがリリーフでの登板が予想される。皆頼んだぞ」
監督の激励を終えて、各人がグラウンドに展開する。今回も後攻側。控えのキャッチャーに投げ込んでいた加奈子と弥太郎が合流し、先ほどのミーティングの内容を伝えていた。
祐樹は一人ライトに駆け足で向かって、複数ある定位置を行ったり来たりしながら試合開始に備える。
流石に決勝となると球場の雰囲気も別のものに入れ替わっていた。
「センター!」
加奈子の球が弾かれ、センターに飛んでいく。ただ、ずん止まりな当たりの所為で何事もなくセンターフライに終わった。
「ふう、あぶねえ……」
弥太郎はアゴを伝う汗を手の甲で拭い、マウンドで白球を握る加奈子に目線をやった。球のノビは申し分ないが、さっきからコントロールが甘くなっており、今のようにバットへ合わせられることが多くなっていた。
「疲れてんのか?」
内角低めを要求しミットを構える。加奈子が一つ頷き投球モーションへ。
カッコいいからという理由で始めた振りかぶりと、一瞬だけ上げた足を止める動作。
そして巻き取るように伸びてくるスリークォーターの腕。
パシン、と小気味良い音を立ててボールがミットに収まり、球審がストライクをコールする。
「よし、この調子だ」
次は外角高めのボール球。空振りが取れれば恩の字。カウントを作るための捨て球だ。
だが、
「馬鹿!」
要求よりボール二個は内角に入ってくる完全な投球ミス。マウンド上の加奈子もしまった、と顔を歪ませており、狙って投げたものではないと弥太郎に伝えている。
やはりと言うべきか白球は弥太郎のミットに納まらず、右バッターが差し出したバットの先に弾かれてライト方向に良い当たりが飛んでいった。抜ければ長打コースだ。
「祐樹!」
果たして叫びは届いたのか、回り込むように走りこんだ祐樹が一歩ジャンプして白球を捕球した。本日二度目のファインプレーに場内が沸き立つ。それでも弥太郎と加奈子のバッテリーは気不味い雰囲気のまま、この回三人目の打者と相対した。
今日の加奈子は何かおかしい。
弥太郎は漠然とそう感じながらも、加奈子の不調の原因がてんでわからなかった。
やばいやばいやばい。
頭の中でやばいがゲシュタルト崩壊を起こすぐらいやばかった。
鈍痛だった手の痛みが回を追う毎に加速している。さっきの回なんか痛くて痛くて全然指に力が入らなかった。
大した怪我じゃない筈なのに身体を動かすたびに刺すような痛み。もしかしたらライナーを捕球したとき、完全に傷めたのかもしれない。
私は周りに怪我を気取られないよう、グラブをはめたまま戦況を見守った。
そうでもしないと、余計なことを弥太郎当たりに詮索されるのが目に見えていたのだ。こっちも熱心に応援している限り誰も声を掛けてこないだろう。
私はグラウンドを見やる。
すると目に飛び込んで来たのは、ここまで自分を痛めつけながらも、私がマウンドに立ち続ける動機をくれる少年だった。
「行けー! かんざきー! かっ飛ばせーっ!」
チームメイトの野次にも似た応援に小さく手を振る。バットを手にし、いつもの左打席へ。内野の守備位置を確認し、バットを頭上に掲げた独特のフォームで相手ピッチャーを見据えた。
自然と、私の目線は彼を追う。
「プレイボール!」
ピッチャーとバッターの一騎打ちが始まる。ここまでゆーくんの成績は二打数二安打。長打も一本打ってるけど後が続かなかった。因みにチームスコアは0-0のイーブン。
バッテリーはやはり警戒しているのか、まともな勝負を避け外角の一辺倒の攻めを始めた。
それを見て私と――私の女房役である弥太郎は思わず笑みを浮かべた。
そう、その攻め方は私たちが一年も前に通った道。
ゆーくんに弱点のコースなんてありゃしない。彼を討ち取りたければリトルリーグで禁止されている変化球を交えて緩急を付け、打ち損じを狙うしかない。
今の相手バッテリーのように外角に同じ速さのボールを続けると――、
水平軌道から繰り出されたのは芸術品にも似たレベルスイング。
外角低めを打ち据えたのに、バットの軌道は乱れることなく白球に吸い付く。
バッターの手には芯で捕らえたという感触のみが伝わった。
弾けるように、バットを振り切る前に打ちあがった打球は失速を知らない。
ナインの頭を次々と越していった打球は外野フェンスを越えて、観客席に飛び込んでいった。
「よっしゃー!」
弥太郎が拳を突き上げる。私も痛みを忘れて飛び上がっていた。
先制のソロホームラン。私と弥太郎が予感したとおり、ゆーくんはやっぱりやってくれた。
ダイヤモンドを一周し、皆に祝福されながらゆーくんがベンチに帰ってきた。弥太郎がミットでゆーくんの頭を叩いて(今だけは許す)馬鹿みたいに喜んでいる。
そんな手厚い歓迎をされたゆーくんはベンチに腰掛ける私の目の前まで来た。
「何とか一点取った。頑張ってくれよ、加奈子」
うん、と気の抜けた声が口から漏れる。
メットを脱ぎ、守備用の野球帽に着替える少年を惚けた眼差しで見つめた。
三度自分の手を見る。
痛みはあった。でも、それ以上に胸の高鳴りが私を支配している。私は次のイニングの準備をするゆーくんに後ろから抱きついて、背中に顔を埋めた。
外野が悲鳴にも似た声を上げるけど私は気にしない。
「頑張るから、ゆーくんも私を助けてね」
応、と力強い返事が聞こえる。イニングはまだ三回の裏。守備回は後二回残っている。
私は絶対に負けるもんか、とゆーくんの背中の上で意気込んでいた。
彼が私を褒め続けてくれる限り、彼が私のそばにいてくれる限り私は投げ続ける。
随分と男らしい内心だな、と思いつつも決意は変えない。
やっぱ大好きな男の子のために頑張る少女というのは、存外乙女だと思うのだ。
さあ、野球をしよう。