九回裏の攻撃が始まる。先頭バッターは俊足の二番バッター。ここまでは四球を一つ選べているが、慎重になりすぎているきらいがあり、見逃し三振も一つしている。
彼は相手投手が投じたストレートをなんとかカットしながらも、臭いコースに投げ込まれる変化球に対応出来ないでいた。止めたバットの先に当たったボールはボテボテのファーストゴロ。
どれだけ俊足を生かそうとも、歩数にして二歩ほどの距離に陣取っているファーストと競り合うことは出来なかった。清祥ナインのため息と「どんまいどんまい」という空元気な声がグラウンドに響く。
心なしかスタンドの応援も陰りを見せていて、ナインの士気と怖いくらいシンクロしていた。
「祐樹!」
その様子をベンチの前で見ていた祐樹に弥太郎が声を掛ける。強心臓が評価されたのか、何かとチャンスで回りやすい六番に抜擢されている弥太郎のものだ。
彼は手早くバッティンググローブを装着しながら、祐樹の肩を叩く。
「相手投手は七回以降見違えるほど球威が上がっている。多分余裕が出来た所為だ」
ここまでのスコアは3-2の祐樹達から見て一点ビハインド。だが、たかが一点と侮ることなかれ。終盤の逆転されての一点ビハインドは何よりも思いビハインドだ。
ましてやイニングは最終回の九回。堅実にランナーを重ねなければホームランが出ても同点止まり。
延長は12回まで続けられるが、こうなれば七回にエースが降板し、三イニングもリリーフした加奈子を抱える祐樹達が不利となる。
さらに12回まで戦い抜いても、そこで引き分けになれば大会規定によって、去年優勝した相手チームが全国への切符を手にすることになっていた。
何処までも不利な状況であると理解しているからこそ、ナインの表情には焦りが見受けられる。
弥太郎はネクストバッターズサークルに向かう祐樹に己の持論を説く。
「だからホームラン狙いは止めろ。今日は逆風も吹いていて余程ミートしない限り飛んでいかない。さっきのホームランはライナー性だから入った。打ち上げたら押し戻されるぞ。だからお前はなんとしてでも塁に出てくれ。五番、六番を信じろ」
弥太郎の言葉を聞いて祐樹は空を見上げた。何処までも快晴な空。しかし弥太郎の言うとおり、微風ながらスタンドからグラウンドへの逆風が吹いている。グラウンドでは然程感じられないものの、スコアボードの上に掲揚された国旗のはためきでそれを知ることが出来た。
恐らく高弾道の打球が飛べば押し返されるほどの。
「…………」
だが祐樹はそれを確認しても、何か言葉を発することがなかった。
怪訝そうに弥太郎が口を開くが、突如としてスタンドを覆った歓声に掻き消されてしまう。
見れば、スコアボードに赤いランプが二つ。つまりたった今清祥のツーアウトが決定したと言うことだ。
二、三度の屈伸をしたあと、背中に回したバットに沿って伸びをしながら祐樹がバッターボックスに向かう。
その後ろ姿が、七回の健二のマウンドでの姿に重なって見えるのが、弥太郎にとって気掛かりだった。
日差しを遮るような大きな日傘を差して、咲下井塚はスタンドに腰を下ろした。それは丁度七回の表、ワンアウトの時だった。
別に誰かに誘われた訳ではない。
祐樹も健二も簡単な日時を伝えただけで、来てくれと頼むことはなかった。祐樹も健二も、井塚が野球を好いていないという事実に薄々気がついていたからだ。
彼女は作り置きしていた麦茶を傾けると、隣でメガホン片手に応援していた女子中学生に声を掛ける。
「今、どんな感じですか?」
柏木愛はとくに野球のファンというわけでも、野球部のスラッガーとエースの追っかけというわけでもなかった。
ただのミーハーな同級生に引っ張られて、休日にかり出された哀れな女子生徒の一人だったのだ。そんな彼女は飲み物を買いに行くとつげた同級生に取り残され、ひとり寂しくスタンドに座していた。
ルールもよく分からない、試合状況もよくわからない彼女は当然応援が面白いはずもなく、夏の日差しに嫌気を覚えながらだらだらと試合を見守っていた。
そんな彼女に転機が訪れたのはそう時間が経った頃ではない。
ふわりという擬音が似合うような、大きな日傘の影に一瞬覆われた時だった。
「今、どんな感じですか?」
一目見て上級生と分かったのはその落ち着いた雰囲気ではなく、彼女が来ていた制服の校章だった。清祥中学の校章は学年によって色が分けられる。柏木のような二年生は青、そして目の前の女子生徒のように赤は三年生と。
「ランナーが二人で点差は二点ですか。なかなかスリリングな展開ですね」
上級生はスコアボードを一目見て、そう嘯いた。柏木は内心面白くない、と眉間に皺を寄せた。試合展開を聞かれたときはどう答えれば良いのか、たった数秒の間に考え抜いたのだが、目の前の上級生はそんなこちらの気持ちを冷やかすように呆気カランと試合を分析してみせたのだ。
だから返しの言葉の口調はややきつかった。
「好きなんですか、野球」
上級生がこちらに振り返る。
彼女は眼を細めて笑った。睫の長い美人だな、と柏木は思った。
そして美人はその小さな唇の薄い歯を見せて、言葉を告げた。
「まさか、大嫌いに決まっているでしょう」
渡された答えが意外すぎて柏木の時間が止まる。呆気にとられて動けずにいると、スタンドが地震のように揺れた。空を見上げると何かがこちらに飛んでくる。
反射的に身構え、その場から飛び退こうとした柏木だったが、上級生にそれを押さえつけられた。
すると、逃げようとした方向で白球がベンチに衝突し、かなりの音量を立ててバウンドする。またもや驚きに満ちた表情で柏木は上級生を見た。
「ほら、危ないでしょう? あそこにいる人たちはここにいる人のことなんて何一つ考えていないの」
それが咲下井塚と、柏木愛の初めての出会いだった。
上級生は井塚と名乗った。彼女は手にしていた水筒をまたもや傾ける。
ちなみに柏木の同級生は健二が逆転スリーランを打たれた時点で帰ってしまっていた。残された柏木は何故かこうして井塚と試合観戦を続けている。
「飲みます?」
差し出された水筒にかぶりを横に振る。彼女の手には同級生が買ってきていた炭酸が握られていた。もともと炭酸もあまり好きな方ではないが、彼女は同級生に押しつけられたそれを仕方なく口にする。
「先輩は――――、あの大塚君と従姉妹って本当ですか?」
マウンドから利き腕を押さえて降りていったエースは九回の表になっても帰ってくることがなかった。代わりに投げているのは同じクラスの加奈子という少女。美人というよりかは可愛い系の女子で、目の前の井塚とは対極的な人間だった。
「そうですね。確かに私は彼の従姉妹です。それが何か?」
「いえ、心配じゃないんですか? 彼、出てきませんよ」
野球に詳しくない柏木でも、健二を何かのトラブルが襲ったことに気がついていた。ならば目の前にいる健二の従姉妹とやらはもう少し心配しているそぶりを見せても良いのではないか、と思った。
なのに井塚は時折麦茶を口にするだけで、健二のことには一切触れていない。まるで興味がないかのように。
果たしてその推測は正しかった。
「私は彼に警告しました。父の口からでは駄目だから、私を通じて何度も警告しました。その代償が今更来たのです。知ったことではありません」
涼しげに答える井塚に対して感じたのは、怯えというよりかは、寒気だった。
だが不思議とそれが不愉快だとは思わなかった。目の前にいる人物がそういう人間なんだな、と納得した瞬間、彼女は井塚のことを少なからず理解した。
それにもともと興味のない連中が、興味のない試合をしている場に無理矢理連れて来られたのだ。柏木の中で、グラウンドで戦っているナイン達は所詮モブのようなものだった。
柏木は井塚の顔を覗き込む。こちらを見ていない彼女は覗かれていることに気がついていない。
そして柏木は気がついた。
一瞬だけ、本の一瞬だけ井塚のミステリアスな視線が、はっきりとした人間の色を持つ瞬間を。
今までとは明らかに違う視線の色を確認しながら、柏木は井塚の目線を追った。
炎天下の中、応援のマーチに体揺さぶられる中で柏木はグラウンドを初めてまともに見る。
井塚の視線を一心に受けていたのは一人の選手。バッターボックスに立った彼は左バッターで、やや高身長、やや痩せ形。
顔はヘルメットでよく見えないが、彼が何を見ているのかはよくわかった。少なくとも彼はこちらを一切見ていない。それは井塚の言った通りだった。
彼が見ていたのはマウンドに佇む、一人の投手。
柏木は自身がペットボトルを強く握り込んでいることに気がついていない。もちろん左バッターに釘付けになっている井塚も。
半開きだった蓋が弾け飛ぶまであと十秒。
前二人は呆気なく凡退した。
祐樹はそれに対してとくに感情を抱かなかった。期待していたわけでもないし、期待していなかったわけでもない。
ただ何となく、ランナーのいない状態で、正真正銘の投手とのワンマン勝負になることだけを予想していた。
彼は打席に立って、バットを構える。今まで何度も何度も繰り返してきた動作を今更意識することはなかった。だが、彼は何処か言葉に出来ない焦りを感じていた。
それは、
「くそ、グラウンドってこんなに広かったか?」
前世の最終打席、スタンドと自分の距離は限りなくゼロだった。浴びせられる応援が、罵声が、全て彼とシンクロしていた。
それに比べて今はどうだ? ばらばらに演奏されるマーチの一つ一つが耳に残って仕方がない。時折聞こえてくる応援の文言も頭の中でぐるぐると回る。
何より投手との距離が遠く感じられた。
それまで感じていた約一八メートルと、今感じる一八メートルは全くの別物だ。
投手の一つ一つの動作がよく見えない。遠く感じるからこそ、祐樹の眼にははっきりと写らない。
言葉に出来ない焦りを振り払うように、祐樹はバットを一回振った。唇を舐め、相手投手が投球動作に入るのを待つ。
球の出所は祐樹から見て左側。外から入ってくるボールはそれほど球速のないストレート。彼を打ち取るには球威も伸びも足りない平凡なストレートだった。
だが祐樹はそれに手を出さない。
コースが臭い、と自分に言い訳を繰り返しながら、審判のストライクコールを聞く。キャッチャーからピッチャー(投手)に返球された白球が祐樹の視界の後ろから飛び出てきた。それを見るだけで、祐樹の精神は揺さぶりを受ける。
「次はフォーク」
ピッチャーが第2球を投じる。それは祐樹の読み通り、空振り狙いのフォークだった。だが降りさえしなければただのボール球。カウントをイーブンに戻すため祐樹は余裕を持って見送った。
しかし、
「ッストラーイクッ!」
審判のコールに祐樹は思わず振り返った。見ればキャッチャーのミットが地面を叩いていない。何とも不運なことに投手の投じたフォークは握りが浅かったのか、それとも力みすぎたのか、殆ど変化することなくキャッチャーミットに到達していた。それを見た審判がストライクと判定したのだ。
意図せずして追い込まれた祐樹は慌てて視線を投手に戻す。
すると彼は既にキャッチャーとサイン交換を始めていた。完全に相手の間合いに飲み込まれていると祐樹は気がつくがもう遅い。
彼はバットを再び構えて、ただボールを待った。
「ゆーくん!」
加奈子の声が聞こえる。
「祐樹!」
弥太郎の声が聞こえる。
「神崎くん!」
スタンドの声が聞こえる。
黙ってくれ、と思った。
自分に打たせたいのなら、静かにしてくれと祐樹は思った。
第3球目が投じられる。一球目と同じ、臭いコースのストレート。祐樹の中にもう見逃すという選択肢はなかった。
グリップを強く強く握り込み、バットを振る。軌道は完璧、寸分違わずストレートの飛来するコースにバットは出現した。
だが彼の焦りが、苛立ちが、ミートの瞬間バットを通じてボールへ確かに伝わっていた。
手元のペットボトルの蓋が弾けたと思ったら、ボールも弾けた。
再び打ち上がった打球は真っ直ぐこちらに向かってくる。だが柏木は逃げようとしなかった。隣に腰掛けている井塚が動かないというのもあるが、何より彼女自身が、あのボールが危険ではないと判断していた。
そう、つまり――――。
やや後退していたライトはフェンスに自身の背中がついたことを知った。
これ以上はもう下がれない。あとはボールが落ちてくるのを待つだけ。きわどい辺りはふらふらと逆風に押し戻されながら高度を下げ、どんどん近づいてくる。
ライトがグラブを構える。そして一瞬ボールがグラブによって消される。だがその後に感じた軽い衝撃がこの試合の結果を彼に知らせた。
井塚は言葉を発しなかった。ただ二つの瞳に涙を讃えながら、バッターボックスで膝をつく打者を見ている。
右飛とスコアボードに表示された。同時にアウトカウントを示す赤いランプの三つ目が点灯する。スタンドの一部分から歓声が弾け、一部分からは失望の声が漏れた。
膝を屈した打者は自力で立ち上がれないのか、ベンチから飛び出してきた少年と少女に肩を支えられてやっと立ち上がった。
柏木はスコアボードに刻まれた清祥の四番打者の名を見た。
「神崎、祐樹」
彼女が人生で初めて観戦した野球の結果は、己が所属する学校のチームの、呆気ない逆転負けだった。
マウンドの上でカーブに逃げたモノ 完
次回中学編のエピローグ。
次は高校野球編です。ブリジットよりも先にこちらを投稿。そしてオリジナル板に移転です。