交代は静かに告げられた。七回の表、二対三のスコア。逆転のスリーランホームラン。
最悪の展開に陥った決勝戦のなか、健二は静かにマウンドを降りていく。弥太郎が静かに健二の背中を叩くが、返答はない。ただ彼は左肘を押さえたまま幽鬼のようにふらふらで、ベンチの奥に姿を消した。
観客席から飛ぶ拍手の雨も今の彼には届かない。七回までの力投といえば聞こえはいいが、いわば彼は敗者。エースとしての責務を全うできなかった、勝負に勝てなかった人間なのだ。
己の弱さと身勝手さ、そして歪さをまざまざと見せつけられた彼がベンチに戻ることはない。非難する人間など存在しないことを知っていても、彼自身が自分を許せなかった。
ごめん、とはいわない。
大塚健二、ただ一度の敗北しか知らなかった少年の、人生で最も大きな挫折だった。
「……佐久間、いけるか?」
監督に声をかけられた加奈子は「はい」と短く答える。
ベンチから試合を見続けていた彼女は、監督の言葉の意味を痛いほどに理解していた。
「うちの攻撃イニングは残り一回だ。後は神崎に託す。……だがそれまでに相手を零封する投手が必要だ」
加奈子はグラブをはめた。肩はもう出来ている。もともと速球派ではない彼女の生命線はコントロール。
「頼む、健二を、全員を全国に連れて行ってくれ」
もともと、野球を始めた理由は幼馴染みが原因だった。片思いを続ける男の子が恋しくて、少しでも一緒にいたくて始めた野球だった。けれど少しだけ、ほんの少しだけ加奈子の野球に別の意味が付いた。
散々先輩にいびられて、男子女子の体力差に絶望して、けれど甲子園であのピッチャーを見て、
「わかりました。任せてください」
髪を結い、帽子を目深にかぶる。二、三度屈伸をして場内の雰囲気に体を慣らす。逆転した相手チームの士気はまだまだうなぎ登り。ここで追加点を許すような展開になれば、チームの勝利は絶望的なものへと変わる。ここは何が何でも無失点で切り抜けなければならない場面。
マウンドに上がった彼女はこちらに手を振る弥太郎を見た。そして背中側の延長線上にたつ祐樹の存在をそっと感じる。
いける。
彼女は唇を一つ舐め、バッターボックスに立つバッターを見た。彼は相手チームの主砲。料理するには歯ごたえのありすぎる選手だが、怖じ気づいている暇はない。
投球練習もそこそこに、彼女はマウンドの上で白球を握る。
確かに清祥中のエースは大塚健二だ。だが、清祥中の投手は彼だけではない。
弥太郎がコースを構えた。ストライクゾーンからボール一個分しか余裕のない、無謀とも言えるゾーン。だが加奈子はそれに対して特別な反応をすることなく、淡々と投げ込んだ。
平凡な速度、全く存在しない球威。
だが問題はない。弥太郎の構えたミットに正確に投げ込むことなど、彼女が悩む恋に野球にと比べるべくも無い。
全ては簡単なことで、全ては難しいこと。
快音とは言い難い、軽くミットを叩く音が球場に響き渡る。だがバッターは手を出すことが出来ない。あまりにも臭いところに投げ込まれたボールに彼はスイングを躊躇してしまっていた。
「さあさあ、見てばっかりなら見逃し三振だよ」
健二の戦いは終わった。だが試合はまだ終わっていない。
加奈子の戦いは今始まる。長い長い夏の集大成が今始まる。
外角高めのコース。ボール一個ずれればスタンドインオメデトウ。
笑い事では済まされないコースに二球目を投じる。狙い通りの軌道を描いたストレートは痛打されながらもファールゾーンにしか飛ばなかった。
大丈夫、タイミングが合っていない。
弥太郎とアイコンタクトを結びながら、加奈子は次の投球動作を開始する。ボールを返球されてから一呼吸置く間もなく、彼女はテンポ早く投げ込んでいく。これは彼女が彼女なりに試行錯誤した独自の投球スタイルだ。
つまりコントロールのみでタイミングを外させていることを、相手に考えさせる間もなく投げていくのだ。
真っ向から攻めることが苦手な彼女は搦め手で打者を支配しようとする。それは彼女がこの夏で生み出した孤高の投球術。至高に届かなくても、孤高なら手が届く。それが加奈子の結論だった。
三球目は一球目二球目とは真逆の内角高めのコース。外角に意識が跳び、特に落ちる玉を警戒している打者に効果的な一球。裏を完全に掻かれた四番はそれを苦し紛れにカットする。
これでいいと思う反面、このままでは千日手になりかねないと弥太郎にサインを送った。
加奈子はストレートで相手打者を打ち取ることは出来ない。だからこそ彼女の四球目は浅い握りから繰り出される。
イメージされるのはストレートと同じフォーム。スリークォーターから違和感なくそれを投げ込むには、前に引っ張っていかれる体のベクトルを修正しなければならない。
極限のバランスと感覚に裏打ちされた投球モーション。ストレートと寸分違わず繰り出されるそれは一度空を見上げた後、止まったように落ちていく。
加奈子はこの球に逃げる。
だがそれは自分から負けて逃げるのではない。この球に逃げることこそが彼女の勝利に繋がるのだ。
重力に逆らわず落ちていくのは美しい軌道のカーブ。打者はストレートのフォームから繰り出される変化球にバットを泳がす。振り切ることは出来ない。だが止めることも出来ない。
ハーフスイング気味で止められたバットに場内が一瞬静まりかえる。だが審判が高らかに「バッターアウト」を叫んだとき、割れんばかりの完成が場内を揺らした。
「すごいよあの女の子!」
「やべー、めっちゃ可愛い!」
女性投手という珍しさにまず喜び、そしてその実力に舌を巻く。加奈子は自らに降りかかる歓声に身を任せながらマウンドを下る。
そして感じた。
ああ、ここが帰ってくるべき場所だったと。
「健二!」
イニングが切り替わる幾ばくかの時間、ロッカールームにはチームメイトが押しかけていた。そこでは学校から連れて来られた保険医と主催者が用意したスポーツ外傷専門の医師が健二を診断していた。
「ああ、みんな本当にすまないね。油断しちゃったよ」
いつも通りの、まさに優男といった口調でも表情は優れない。むしろ痛みに耐え続けているせいか脂汗さえ浮かべている。
それだけで、ナインはエースに何が起こったのか理解してしまった。
「悪いのか?」
問いただしたのは現キャプテンである三年生だった。彼は健二たちに主力の座を奪われた一人だったが、そんなことも臆面にも出さずにプレーしていた数少ない上級生だった。
「すいません。もうしばらくは投げられませんよ。肘が回りません」
アイシングと止め木で固定された左腕は痛々しい。健二は少し押し黙った後、徐に祐樹を見た。
「神崎君、君が作ってくれたリードなのに台無しにしてしまったよ。だから頼む」
フライアウトを捕球できなかったことを、健二は責めなかった。もう少し判断が速ければ、もう少しスタートが早ければ取れていたであろう打球。祐樹だからこそ健二はそれを信じていた。
そしてこれからもそれは変わらない。彼は台無しにしてしまったリードを、作り出してしまったビハインドを、祐樹なら書き換えてくれると信じている。
「おう、まあ任せとけ」
安請け合いに聞こえるかもしれないが、二人の間ではそれだけで充分だった。
もともと敵チームのエースとスラッガー。二人のこの関係だからこそ、言葉にしなくても伝わるモノは存在する。
「清祥中学の皆さん! そろそろベンチに戻ってください!」
負傷者治療の為に与えられた時間が切り上げられる。ナインがそれぞれベンチに戻っていった。そして最後、祐樹と健二が拳を付き合わせる。
「頑張って」
快投を続ける加奈子を援護したい清祥ナインだったが、エースでもあり強打者でもあった健二が抜けた穴は大きい。
息を吹き返した相手投手に祐樹以外は凡打の山を築き、一向にビハインドを覆すことが出来ない。
だがそんな状況下でも投手である加奈子は七回以降、ヒットを一つも許すことのない完璧なピッチングを披露して見せた。そこには祐樹と再び野球をしているというシチュエーションがプラスに働いていた。彼女は四年前の再来を願って、祐樹が相手投手を打ち崩してくれるのを待ち続けているのである。
「ストライク、バッターアウト!」
そして九回の表、相手チーム、最後のバッターのスイングが見事空を切る。
加奈子は拳を叩き、マウンドで飛んで見せた。
女性投手だからと、奇異の目線で見続けられた二年間を精算してしまうような、そんなピッチングだった。
加奈子はライトから帰還する祐樹とハイタッチをかわす。
残された攻撃のイニングは残り一回。
でも打順は最悪祐樹に回る打順だ。
ここまでアベレージ六割強、本塁打も四本放っている強打者ほど頼もしいものは無い。
ナインはまだまだ勝利を諦めていなかった。
彼らは舞台から去らざるを得なかったエースの分まで、白球を追いかけ続けるのである。