僕はね、七回のマウンドが一番好きなんだ。
地区大会予選、決勝。一対ゼロで一点リードのまま進行した六回の裏。健二はこんなことを祐樹に告げた。祐樹は最初、どう返事したらいいのかわからず曖昧に返してやることしか出来なかった。
バッティンググローブを用意し、交代した相手校の投手を観察していた祐樹にしてみれば本当に突然の話題だった。
「いや、ラッキーセブンだとかよく言われるよね。七回の攻撃は。あれは大リーグの選手がインタビューで語ったエピソードが元ネタなんだけれども、理論的に考えてもとても利に適っている。先発している野手が三巡目に入るわけだから、先発投手の調子、球筋が読まれ始めるんだよね。さらに先発投手が疲れを感じ始めるのもこのイニングが多い。つまり投手有利で進んでいた前半戦に打って変わって打者有利の後半戦になるんだ」
まあ一概には言えないけれどね、と彼は付け加えた上で、
「もちろん投手はこのイニングをいかに押さえるかでエースかどうか判定されていく。六回無失点で降板した投手より、九回一失点まで投げた投手の方がエースぽいよね。僕はそんな投手を目指すべきだと思うんだ。何が言いたいのかというと、僕はエースの格が問われる七回の登板こそ完璧に押さえたいと思っているんだ」
健二との対談は祐樹がバッターボックスに向かったことによりここで終了した。バットを片手にグラウンドへ出て行く祐樹を大塚が見つめる。
彼は一つ肩を回すと、少し離れていたベンチで観戦していた加奈子に近づいてこう言った。
「ゴメン、佐久間さん。キャッチボールの相手してくれるかな?」
◆
放物線ではなくライナーで白球がスタンドに突き刺さった。ライトは呆然とフェンスの向こう側を見つめ、ダイアモンドを一周するランナーを見る。
怪物と称され、敵ながら自軍の監督が絶賛する選手だ。同じ中学生ながら、天と地ほどの差もある敵軍の右翼手を見る彼の目は暗い。それは嫉妬と畏怖が入り交じった不思議な視線だった。
そして視線を敵軍のベンチ前にやれば、のんびりとキャッチボールを続ける相手エースが見える。唸るような剛速球と巧みな変化球の組み合わせに彼は既に二打席連続三振を喫していた。これでもチームの三番を任されている彼は主軸打者としてのプライドも存在していたのだが、そんなもの早々に砕かれてしまっていた。
全てに於いて格が違う。
そう思わされるような相手のエースと四番に、彼は憎悪染みた台詞をこっそりと吐き捨てた。
「怪我でもすればいいのに」
◆
あれ、と疑問を抱いたのは祐樹が本塁打を放ったのと同時だった。
健二の球をキャッチボールで受けていた加奈子はボールの微妙な回転に違和感を覚えたのだった。いつもはプロペラが回るように飛んでくるボールが少し違う回転をしている。
彼の利き手である左方向に少し曲がる球。ただ加奈子は疑問を抱いただけでそれを健二に伝えることはなかった。何故なら大事な決勝戦の最中だったし、もし彼がそうなるように投げているのであればいらぬ気遣いというものだからだ。
それに健二なら何も問題はないというある一種の安心感が彼女をそうさせていた。
祐樹が打ち、健二が押さえる。そういった勝ちパターンに慣れきった彼女に今更疑問を抱けと言う方が酷なことだったのだ。
わー、と歓声が上がる。味方チームが攻撃を終えた。祐樹のソロホームランで二対ゼロにスコアが切り替わる。投手から見れば限りなく理想に近い中押し点だ。二点のリードというのはエースが投げている限りこのまま主導権を握り続けることが出来るスコアだった。
本塁打を打った祐樹が観客でもあり応援団でもある同校生徒から祝福の声を掛けられる。
黄色い声が多数混じった声援は加奈子を若干不機嫌にさせつつも、チームの士気はそれに比例するように上昇していった。
残りイニング三回。これを押さえれば関東代表として夢にまで見た全国に駒を進めることが出来る。
普段は祐樹と健二を疎ましく思っていた三年生もこのときばかりはそんなことを忘れていた。彼らはたとえ後輩に負んぶ抱っこでも全国レベルのチームに在籍しているという誇りに酔っているのだ。
健二が静かにマウンドへ上がる。
エースの登場に場内の歓声が一際大きくなる。彼は腕を振り上げ一球目を投じた。
内角高めのストレートは見事打者の空振りを誘い、ストライクのカウントを一つ刻んで見せた。
彼らの夏の集大成が今始まる。
健二は弥太郎のリードに首を振ったりはしない。
それは弥太郎のリードを信用しているという証拠でもあったが、何より自身のストレートに絶対の自信を持っていたからだ。いくら爆弾を抱え込む理由になった魔球とは言え、己の野球人生はこのストレートと共にあったと言っても過言ではない。
強肩の祐樹ですら健二の投げるストレートは真似できなかったし、真似させるつもりもなかった。
何れはこのストレートが何処まで通用するのかやってみたい。
投手というキャリアに祐樹が野手に対して抱くほどの固執は見せていないが、彼は自分のストレートだけは認めていたのだ。
だが違和感がある。
左バッターの内角に切り込まれたストレート、それは弥太郎のリードから見て少し逆球気味になっていた。
本来なら大した意味は無い。ただのコントロールミスだと笑ってみせるところだが、咲下から告げられた台詞が脳裏からこびり付いて離れない今、嫌な汗を内心彼は流した。
幸い弥太郎や外野にいる祐樹が気づいた節は見受けられないが、健二自身が事の重大さをいち早く感じ取っていた。
弥太郎からボールが返される。
縫い目に指を掛け少し息を吐く。
正直言って打たれる気はしない。
でも、何処かで二球目を投げるのが怖いと思っている自分がいる。
弥太郎が真ん中高めにミットを構えた。高めのストレートをもう一球見せて、フォークで打ち取ろうという作戦なんだろう。定石と定石と言えるリードだが別に悪くない。むしろ今の試合展開を考えてみるに、定石のリードはむしろどんどんしていくべきである。そして、確実に勝利を掴まなければならない。
健二は腕を振り上げた。オーバスロー特有のモーション。足を振り上げ意識をボールを握り込んだ手先に集中する。
イメージはいつもと同じ。
軌跡を頭に描いて、そこを貫くように投げるだけ。
なのに今日はやっぱり何かがおかしい。
肘が綺麗に回らない。いつまで立っても握り込んだ指がボールから綺麗に離れてくれない。
健二から見て左、つまり利き手方向への回転がリリースの瞬間始まる。
思い描いていた軌跡を貫くはずだったボールが少しずつ軌道を逸れていく。一度手から離れたそれを止める術はない。
あ、と声を上げたのはバッターだったのかそれともキャッチャーである弥太郎だったのか。
ともかく健二は声すら上げる暇がなかった。ただ振り抜いた左腕に鈍痛を感じ、眉根を歪ませるだけだったのだ。
バッターの脇腹に白球がめり込んでいく。痛みで身体を縮込めてしまうバッターだったが、その表情は健二とは対照的だった。痛みに眉根を歪ませた健二とは違い、バッターは理由がどうであれ塁に出られる喜びを感じていたのである。
絶対的な支配者だったエースから生じた小さなほころび。
バッターはバットを控えに手渡し、小走りで一塁に向かう。掛かるコールは「デッドボール(死球)」
健二がロジンパックを握り、マウンドに静かに落とした。マウンドに上がってこようとする弥太郎を制して、静かに次のバッターを見据える。
内心掻いていた冷たい汗は現実の肉体から嫌に成る程吹き出し、ユニフォームを濡らす。
呼吸が速くなって、今の自分の投球を振り返る余裕もない。
ただ確かだったのは、彼にとって人生で一番長い七回の表が始まったということである。