世の中には滑るようにキレがあるストレート、差し込まれるようにノビるストレートとあるが、彼の投じるストレートはそのどちらとも違った。痛いくらい握り込まれたボールが爆発するかのようにキャッチャーのミットに向かって飛んでいく。
球筋は唸りを上げ、バッターのスイングに勝ること本の一瞬。三振の山を築き上げる。
ブラスバンド部と応援団の歓声が響く中、最後の一球が投じられた。
マウンドで弾けるように振り下ろされた腕から飛び出したボールは内角高めを抉り込み、ストライクバッターアウトのコールを審判から引き出して見せた。
珍しく健二が拳を突き上げる。それは一週間前に見た練習仲間の仕草を失敬したモノだった。
105球二安打15奪三振 完封勝利。
マネージャの女子が記録するスコアシートにはそう刻まれた。最早名実共にエースと化した健二を打てるバッターなど同チームにしか存在しない。その唯一の例外である神崎祐樹は6打数5安打4打点と相変わらずの怪物っぷりを発揮していた。
エースとスラッガーの二枚看板を掲げる清祥中学の野球部は快進撃を続けていた。全ての試合で二桁得点、三失点以下を続け圧倒的な強さで予選トーナメントを勝ち進んでいる。まさに向かうところ敵なしで遂に決勝まで駒を進めた。これを無事勝ち抜けば関東地区大会への切符を手にすることになる。
野球部結成以来の快挙に自然と応援にも熱が入っていた。
蝉の声も死に絶えた9月半ば、予選決勝の日が差し迫った夕立降りしきる日だった。野球部の練習はお流れとなり自主的トレーニングとして幾人かの部員が廊下で短距ダッシュを繰り返していた。その中にいつもの四人組の姿は見えない。祐樹は加奈子を伴って市内の方へ買い物に向かい、弥太郎は弥太郎で夏期実力テストの補講を受ける羽目になっていた。
ならば大塚健二は、というと、雨粒ぶつかるガラスが続く薄暗い廊下を一人して歩いていた。
彼が足を止めたのは校舎の外れにある図書準備室だった。
「……失礼します」
ちょうどノックを二回、返答が帰ってくる前に扉を開けた健二は中で読書に勤しむ女子生徒の姿を目にした。まるで一つの彫刻のように洗練されて、それでいて生き生きとした血色を称えた女子生徒の名は咲下井塚という。
「おや、珍しいですね。君がここに来るなんて。私のことが嫌いだったんじゃないですか?」
からかうような口ぶりと裏腹に目線を上げた井塚の瞳は冷たかった。いつも祐樹に向けている親愛の色など微塵も感じさせない、他人に無頓着な彼女そのものの瞳だった。
だが健二はその瞳の色に何一つ怯むこと無く、彼女の対面に置かれていた椅子に腰掛けた。締め切られたカーテンの向こうから雷鳴が轟き、校舎のどこかで女子生徒の悲鳴を引き出している。
「……いろいろと言いたいことは前からありますけどね、今日は少しまじめな話ですよ。咲下先輩」
「あら、いつから私はお悩み相談所になったのかしら。ゆーくんもそんな感じだし才能あるのかもね」
けらけらと笑い声を上げる井塚とは対照的に健二は何処までも静かで冷静だった。いつもの彼らしくない真剣な目つきを見たら、いつもの三人組はおそらく目を剥くだろう。井塚は己の挑発に最初から何も期待していなかったのか、すぐに笑い声をやめ健二をすっと見据えた。
「本当はうちみたいな小さな診療所じゃ無くて大きな病院の方がいいんだけどね。それにこういうことは父に聞いて欲しいな」
井塚が立ち上がって私物として勝手に持ち込んだコーヒーメーカーからコーヒーを注ぐ。いつも祐樹には麦茶を出していたが、自分一人で飲む場合はコーヒーと決めているのだった。
「生理痛にはね暖かい飲み物がいいの。自分の体温と同じものが一番体によく作用する。あなたも同じよ、健二君。オーバーワークによる筋肉の発熱は余計なモノしか生み出さない」
ことり、とカップが置かれる。カップの縁に着いた桜色のルージュの跡がやけに生々しく、健二は目の前の従姉妹から逃げ出したい気持ちに駆られていた。自分と一つしか歳が変わらないはずなのに、昔からこの人物は健二を圧倒し続ける。
健二は努めて冷静でありながらも、内心の何処かでそういった焦りと戦っていた。
対して井塚は内心の形を決して悟らせること無く台詞を続けた。内容こそ怒りを伴っているものの、そこに抑揚は無い。
「野球選手っていつもそう。ねえ、そこまで自分の体をいじめ抜いた先に何があるの? あなたたちはこの先の人生を考えたことある? 今使い潰し続ける体の資産てどれくらいだと思う? あなたもゆーくんもどうしてこれがわかってくれないのかしら」
返す言葉など見つからなかった。井塚に責め立てられた健二は静かに次の言葉を待つしか無かった。そして井塚は全く同じ調子でこう続けた。
「左腕に抱えた爆弾、基本的に悪化しかしないわ。爆発したら最後。もう二度と投げられないわよ」
もう何度も聞き続けた最後通牒の内容は、以前から全く代わり映えしていなかった。
違和感に気がついたのはもう随分と前だった。彼が魔球と称されるストレートを会得したのと同時、常に左腕に違和感がつきまとうようになった。最初は筋力変化か何かだと勝手に判断していたが、親類である井塚の父親に検診されたときから状況は一変する。彼が魔球と引き替えに差し出していたのは左腕の命そのものだったのだ。
過剰に付きすぎた筋肉が幼い体の関節を締め上げた故に生まれた、負の資産だった。
「それを抱えたままそこまで成長したら、もう切り開かない限り治らないと父は言っているわ。この前大学病院への紹介状を送ったでしょ」
「冗談はやめてください咲下先輩。そんなことをしたら野球が出来なくなる」
「ふん、だからあなたたちは馬鹿なのよ。別に野球を馬鹿にしようとは思わないけれど、それでも優先順位ってものがあるわ。君のはね別に選手生命が終わるだけじゃ無いの。文字通り左腕が死んでしまうのよ」
もう幾度となく聞かされた井塚の説教に健二が答えを用意することは未だ出来ていない。彼はいつも通りに口を閉ざし、そして表情を若干絶望に染めながら井塚の前を後にする。
「もう何度来ても結果は同じ。次検診に来たときは紹介状じゃ無くて強制的に治療させるかもよ。医師としては最低だけど親類としてなら私も父も躊躇わないわ」
図書室を去る健二の肩は小さい。
それは到底、完封と三振の山を築く怪腕エースの姿には見えなかった。
夕立はまだ止みそうに無い。
試合当日は快晴だった。前日まで降っていた夕立はアスファルトに残った水たまりでしか無く、水はけのよいグラウンドはちょうどよい湿り気を帯びていた。外野で相変わらず黄色い声援を受け続ける祐樹と、守備体系に指示を出し続ける弥太郎、そしてマウンドの上で土を踏みならす健二がそこにいた。
プレイボールの合図と共に増した熱気の中、清祥中学は着実にゲームを組み立てていった。初回の守備はエース健二がきっちりと三者凡退に抑え、次の攻撃では祐樹が放ったタイムリーで見事先制を果たした。理想的なゲーム展開に応援団もプレーする選手もボルテージが上がっていく。
「いっけー! 三塁行ける行ける!」
四回の表、ここまで順調にゼロ失点を続けていた清祥にチャンスが訪れる。スコアは1-0。中盤の中押し点が欲しいイニングでの出来事だった。この回、ツーアウトから打席に立った祐樹がライト線を突き破るスリーベースヒットを放ったのだ。外野がもたつくうちに彼の俊足が遺憾なく発揮された。
「へえ、やっぱり彼は凄いね。今ので三つ行くのか。これは何としても返さないとな」
バッティングローブにメットを装着してバッターボックスに立ったのは5番の健二だった。彼はピッチングはもちろん、卓越したバッティングセンスを持つ中軸を打てる選手だった。黒いバットをスタンダードに構え、ツーアウトからのピンチに動揺する相手投手を見据える。
「……キツイよね。こういう場面て。でもここを押さえてこそエースだよ」
一球目は内角高めのストレート。魔球のストレートを持つ健二からすれば児戯にも等しいストレートだった。だがコースが良い。苦しいピッチングを続けながらも、決勝まで投げ続けた相手チームのエースの意地が窺えた。
対する健二は投じられたボールを無理に打ち返すことを恐れていた。痛みも痺れもない左腕だが、ここ最近の検診でわかった悪化具合を考えれば嫌でも慎重になる。まだこの故障のことは井塚とその父以外には知らせていない。祐樹という最高のライバルがいるから、弥太郎というベストパートナーがいるから、加奈子という切磋琢磨できる投手がいるから、彼はこうして野球を続けている。
健二はふと、今となっては懐かしいとある原風景を垣間見た。
そのとき自分は泣いていた。
リトルリーグのレギュラー争いにも負け、チームメイトにも馬鹿にされ続けた彼は涙していた。
「サウスポーだからあいつは投手をやらせてもらえる」
同級生の心ない一言が彼を苦しめ、傷つけていた。
本当は投手なんてやるつもりは無かった。彼が憧れたのはテレビの画面の向こうでバットを振り回す強打者達だった。彼らがバットを振るえば投手の投じたあらゆる球が消滅し、気がつけばスタンドに突き刺さっている。
その姿は幼い健二の目を釘付けにし、彼を野球の世界に引きずり込んでいった。
でも彼は不幸なことにサウスポーだった。入団したリトルリーグでは自然と投手といポジションに着かされた。野球におけるサウスポーというのは、野手の分野では形見が狭い。内野守備では味方の足を引っ張り、まともに守備できるのは外野と一塁だけだ。
だが投手という場にサウスポーが立った場合、状況は一変する。普段見慣れないコースから飛んでくる球は小学生の心を惑わせる。まだ技術もパワーも無い年頃なら、サウスポーというのは強力なアドバンテージなのだ。
だからこそ彼は投手をやらされた。そして失敗してしまった。
一言で言い表せば、彼は祐樹が羨ましかった。
堂々とスラッガーを名乗ることが許され、そして最強野手へと成長していくライバルが妬ましかった。
確かに投手として健二が築き上げたものは最早誰にも得ることの出来ない資産だった。それでも彼はそこに大した価値を見いだすことは出来なくなっていた。
「なら、投げるのも止めたら良いのにな」
二球目がキャッチャーのミットに突き刺さる。ストライクがコールされ、スコアボードに彼が追い込まれたことを伝えるカウントが刻まれた。健二は息を一つ吐き出すと、もう一度投手を見つめた。
そして、左のバッターボックスから三塁に佇む祐樹を見据えた。
「本当なら僕もそこに立ちたかったよ。神崎君。怪我を押してまでここに立ち続ける意味は、もしかしたら君のところにあるのかもね」
三球目が飛来する。三振狙いの落ちる変化球だ。健二はその変化球を見逃せばボールであることを知っていた。投手としてのキャリアが一枚も二枚も上手の彼は容易に配球を読んでいた。
だが彼はバットを出した。それもハーフスイングではなく、大振りのフルスイング。
一番恐れていた無茶なバッティングだった。
もしかしたら、原風景を垣間見てしまったときから少しおかしくなっていたのかもしれない。
三塁からこちらを見つめる祐樹に自然と自分を照らし合わせていた。
それは今となってはもう手に入らないスラッガーの幻影。
エースという呪縛に縛られ、スラッガーという夢を見ることが出来なかった健二の少しばかりの抵抗。
バットは見事空を切り三振が告げられる。
相手チームからは歓声、自チームから失望の声が上がるが、健二はそんなことどうでも良かった。
すでに一点を憎い憎いライバルからプレゼントされている。あとはいつも通り球界までゼロを重ね続ければ良いだけだ。
夏の死骸のような日差しがバットを持った健二を映し出した。彼が見た地面に伸びる影はテレビで憧れた強打者のようだった。
バットを振り切った状態から、少しだけ放り投げてみる。
すると存在しない綺麗な放物線がスタンドへ吸い込まれていくのが彼には見えた。
左腕が痛い。健二は一つだけ朗らかに笑うと、「ごめんね」とベンチに頭を下げるのだった。