移動という手段を講じる自体、私には新鮮な経験だ。憧れ、とまでも行かないが、当ても無く旅に出たいという考えを抱いた日もあった。
“旅”というたった二音の響きが、どうしようもなく自由を感じさせた。
「こちらの景色はいかがですか? アスナ王女」
冬の乾燥した空気に朝日が差し込む。黒塗りの高級車から見る、空の群青に灰白の雲。広がる木々の緑に同じ制服を着飾った学生達が音も無く流れて行く。
澄み渡る世界の光景に――不幸の兆候は感じられない。隅々まで行き渡る弛緩した空気は、平和の二文字そのものだ。
「とても穏やかで優しい気持ちになる、素晴らしい景色です。あちらにも負けず劣らず……いえ比べること事態が痴がましい、長所を持つ世界だと思います」
自然と口にするくらい軽々しくも簡単に、嘘を吐いた。確かに、何も心に抱えていなければ偽らざる本心としてそうやって言えたのだろう。しかし私の悩みの種を忘れさせるほどの効力は無かった。
易々と吐いてしまった嘘。これから私は、いくつの嘘をつくことになるのだろう。一体、何人もの人を騙し生きていくのだろうか。
「ふふ、良かった。気に入らないと言われても、こればかりは私共でも変えられませんから」
さっそく捻れた。それは印象であったり、私とこの人、ドネット・マクギネスとの関係性だと、悪魔が耳元で囁く。
坂を転がり落ちる石を止める手立てを私は持ち合わせていない。一度吐いた嘘が蝶の羽ばたきの如く飛び立ち、二度と手中に収まらないように、どれだけ手を伸ばしても取り返しが付かない。
私は嘘がどんなものなのかを知っている。それでも、私は私の為に成すべき志がある。ここからはもう戻れない。決心はもう付けた。あとは、演じるだけ。たとえ蝶の羽ばたきがどこかで嵐を巻き起こすとしても、止められない。
「そんな無理は言いません。あくまで私は、ただの留学生ですから」
「そうでした。では、これからは呼び方にも気を付けなければならないようですね。うっかり人前でアスナ王女なんてお呼びしてしまった日には、その日の内にオコジョ妖精にされてしまいます」
魔法世界からの案内役として派遣された英国出身の魔法使い、ドネットさんは時にユーモアを交えて私に語りかけてくる。
稀に苦笑が含まれるのは、この仕事に対して何か思う所があるからだろう。そう思いたい。
初対面の堅苦しい言い回しから、ようやく余裕が出来てきた。慎重に手探りで会話する姿に、私の抱いた感想は地雷原を無理やり歩かされた兵士そのものだった。
会話を重ねるにつれて、“彼女は”徐々に心を開いていった。彼女と私の共通項でありながらも、ただ少しだけ心の持ち様が違うだけの、些細な違いでしかない筈なのに、結果はこうも違うものか。
険の取れた今の彼女こそ、本来のドネット・マクギネスなのだろう。では私は? 私はちゃんと、笑えているだろうか。
「では“アスナ”と呼び捨てにして頂いて構いませんよ?」
こんなに鏡が欲しいと思う日が来ようとは、夢にも思わなかった。透けた窓ガラスを凝視していても、鏡の役割を果たさない。
うっすらと私の影が映るだけで、そこには何も写しはしない。遠く向こうにある外界の景色だけが色鮮やかに、私を磨耗させた。
手を伸ばせば届きそうな距離であるのにも関わらず、いつもいつも、何故こんなにもどうしても遠く、そして流れ行くのか。役に立たない鏡を下げ透明の壁を排すと、学生達の笑い声が風に乗って聞こえてきた。
今までを不自由無く生き、笑顔で語らい、これからを夢見て自由を謳歌するキリギリス。彼らのように、私はうまく笑えているだろうか。不自然ではない、偽りの笑顔を浮かべられているだろうか。
「またまた、ご冗談を」
午前八時ぴったりに車は目的地に到着した。麻帆良学園都市、最奥に位置する学び舎に。
№37「理想鏡」
「まったく」
やっとの事で自分の席に着いた。
朝の早くから委員長が絡んで来なければ、こんなに疲れる事も無かった。
ただでさえ、朝刊を配り終えた後で更に学校まで全力疾走した疲労が堪っていると言うのに、無駄な体力を使わせるじゃないわよ。ったく。
椅子を引き、席に座ると、私の髪を束ねていた赤の飾り紐から澄んだ鈴の音が鳴り、教室の喧騒の中、私だけに聞こえた。
――オジコン。さっきの言葉が、極細の針となって私の胸に優しく刺さる。胸を中心に――じわりと時間を掛けて――痛みが広がる。
オジコン。おじさんコンプレックス。普通とは掛け離れた年上の男性を好きになる、特殊な性癖。
委員長はただ純粋に私を罵る為だけにその言葉を選択し、そして声に出して発した。お相子だから、其処に変な因縁を吹っかける心算はないけど、彼女は少し勘違いをしている。
あの時、委員長の思考には高畑先生の虚像が浮かび上がった事だろう。それなら、オジコンは正しくない。それはブラコンっぽい物で、もしガトウさんを脳裏に浮べたのだとしたら、それはファザコンに似た何かだ。
「おはよー」
教室には、二人掛けの机が三列、均等に並んでいる。その中心の列、後ろから二番目が、私とこのかの席だ。
今、私の隣にこのかはいない。学園長の呼び出しが長引いているのだろう。
二人分の長さを持つ机に、鞄を置いた。この繋がった机は、何気にこのかとの意思疎通が必要な代物だったりする。
私が何かの拍子に机を揺らせばその分、筆記をしてるこのかの字が歪んだり、机の中に教科書を置きっ放しで帰ったりすると、自然と隣のスペースまで圧迫する。
色々と面倒な制約がある机だ。『他の人の迷惑になる行為はやめましょう』このかと、そんな約束を取り付けたわけではないけど、それは暗黙の了解というもので、事実このかは私に迷惑になるような行動は起こした事が無い。
細かい所まで、気を配れる優しい友達。近衛 木乃香。私は、彼女に何をして上げられるのだろうか。
「よっ」
そして、対岸の隣。このかとは真逆にいるこのクラスメイトも、私の友達。
このかとは又違う、気心の知れた仲だ。
「貸したCDどうだった?」
出席番号七番。柿崎 美砂。出席番号が私の一つ前の彼女は、中学生らしい青春を送っている。
チアリーダーとして部活に励みながらも、クラス内で判明している唯一の彼氏持ちでもある。
青春謳歌。いつも釘宮や桜子と一緒に遊んだりしているのに、一体何時、彼女が彼氏なんてものをつくったのか、少しだけ、ほんの少しだけ、興味がある。
「あー、まだ聞いてないや。あれ、すぐに返したほうが良かった?」
そんな彼女とも友好な関係を持てたのは、神楽坂と言うこの苗字のお陰だったりする。
中学一年の頃だ。その頃、最近までは小学生だった私達は、与えられた新品の制服に袖を通し、周囲を窺っていた。
小学校とは違う雰囲気に、期待と不安を同様に抱えていたあの頃。顔見知りの友人以外に声を掛けるのは、少々勇気がいる行為だった。
先生の指示に従い、出席番号順に席に着く。先生は、教科書を取りに職員室に戻ると言い、それに付き従うように、委員長が手伝いの名乗りを上げた。
教室から去る委員長を見て、期待と不安のバランスが崩れた。
しょっちゅう喧嘩していただけの、たった一人の知り合いが、暫くの間席を離れるだけで、こんなにも不安に思うとは。当時の私は相当のバカに違いない。
それでも、当時の私はそれが一大事だった。不安に傾いた私の心は、少しずつ期待を侵食していく。
待っていれば、自然に解消される心配事なのに……私は世界で置いてけぼりにされたように感じた。
『ね、名前なんて言うの』
そんな時に、私の心を知ってか知らずか、話かけてくれたのは彼女だ。一つ前の席から半身になった身体で、私の席に肘を着く少女。その姿に、不安は見られなかった。
返答に困った私を無視して、ぺらぺらと自己紹介を始め、質問攻めをする少女。私も彼女の勢いにつられて、気がついたら会話を交わしていた。それは先生が帰ってくるまで続いて、入学早々、二人して怒られた。
先生には悪いが、怒られて反省する気持ちも、委員長がいなくなって感じた不安も、あの日眠る頃にはどこかに飛んでいった。あるのは、これからの期待感だけ。それが、胸を一杯にしてくれた。
あの日の、うつむいていた心を救ってくれた、何気無い一言。彼女は、覚えているのだろうか。
「ん? いんやー、全然」
「ちょ、柿崎。じゃなんでそんな事聞くわけ?」
私は、彼女を美砂とは呼ばない。呼ぶときは、柿崎で定着している。
あの日からずっとこの呼び方で、そしてこれからも変えるつもりは無い。
「ふーん。じゃあ土曜日に街に行った?」
「は? 行ってないけど?」
急に話の道筋が変化した。どうして、貸りたCDと土曜日に街に行く事が繋がるの?
そして、その言葉を聞いてどうして目を見開くのか……わからない。
「……間違いない」
むむ、と唸って読んでいた雑誌を食い入るように見つめる柿崎。
偶に私の顔を凝視すると、また雑誌を見る。少しの間、それを繰り返していた。
「何よ、人の顔を見て眉間に皺寄せるなんて、変な物でも付いてる?」
柿崎は、はぁと溜息をつくと、洗いざらい話してくれた。
まず、手に持つ薄い雑誌の「マホラスクープ!!」を見せてくれた。
びっくりマークが二つも付いた、熱の入れよう。
麻帆良大学から発行されている雑誌で、胡散臭そうな麻帆良の噂を集め、記事にしたものらしい。
柿崎はこういった怪談や噂話が好きで、得意だ。
あんたも本当にゴシップ好きね。と呆れ顔で言葉を浴びせ掛けるが、
そんな事はどうでもいいのよ、と彼女はたくさんの付箋の貼られたページから一つを選び、私に見せる。
その記事とは「怪異・ドッペルゲンガー!!」と題された物で、細かい文字の羅列が読む気力を奪う、活字による精神兵器だ。
「ドッペルゲンガーよ!」
表題を熱く語ってくれた柿崎が言うには、今週土曜日に、仲良し三人組で街まで繰り出すと、私に良く似た人物を見かけたらしい。
良く似たと結論付いたのはついさっきの事で、柿崎は貸したCDを気に入ったと思い込んでいたらしい。それで態々自分用のCDを買いに来たのだと。
勿論、私は土曜日に街には行ってないので、それは誤解だ。CDもまだ未聴で、タイトルも正確に覚えていない。
話は続く。柿崎は、親切にもお店まで案内しようと声を掛けてくれたそうだけど、そのそっくりさんは、無視して先へと向かい、人込みに紛れてしまった。
釘宮や桜子も見ていたから間違いないと熱弁する柿崎を見て、毎日顔を合わす友人の柿崎でさえ間違えてしまうほど似ている、と言う事は理解できた。
けど、
「ドッペルゲンガーねぇ。まあいいけど、私が無視したとか思わなかったの?」
そう、私が三人を無視して撒いた可能性だってある。
「アスナが私を無視? うーんそうね、そんな事したら後でシメれば良いだけだし」
けらけらと笑う柿崎を見て、ふっと肩の荷が降りた気持ちになる。
これは、信じてくれていると思ってもいいんだよね?
「じゃあ何で溜息なんて吐いてたのよ?」
「決まってるでしょ、捕まえれば一躍時の人だったんだから。あの時、無理してでも後を追えば良かったー」
もう一度、盛大な溜息を吐くと、彼女はもう一度雑誌に視線を落とした。
ドッペルゲンガーの特徴を脳内に刻み込む作業をしているようだ。私は、邪魔しては悪いと思い、静かにこのかの帰りを待った。
「んふふ~」
私の予想に反して、帰って来たこのかはご機嫌だった。いつもニコニコが平常運転のこのかが、更にご機嫌だ。
「どうしたの、そんな弱みを握ったときの朝倉みたいな笑い方」
「うん~? ふふー教えたってもええんやけどな、もうちょい待っとったらわかるから、お楽しみや」
お手、おかわり、待て! このかの命令どおりに右手と左手を交互に出し、最後に待ての合図で固まってしまう私。
最後まで律儀に付き合ったが、このかはそれ以上何も言ってこない。お楽しみを教えてくれるのかと思ったが、違うらしい。
「なにこれ」
「ふふ、アスナはうちのご飯にメロメロやからな。勝手に他の家に行ったらあかんえ?」
このかがこてんと首を曲げると、黒髪がさらりと流れた。白い肌とのコントラストが妙に合っていて、映える。
綺麗に細工された工芸品にも見劣りしない、生きた芸術。これで器量も良いとなれば、そりゃ世の男性はほっとかないだろうな。
「なによそれ、私飼われてたの?」
今、勝手に他の家に行く可能性が最も高いのは、あんたじゃない。
とは口が裂けても言わないが、そんな心配とは裏腹に、このかの笑顔が伝染する。
このかの楽しそうな気配が、優しく繋がれた両手から伝わって来たからだ。
「そやな、うちが毎日世話しとるわけやし。ここは飼い主様の為に一肌脱いで、首輪にリードを括りつけて、朝とか引っ張ってもらうとか、どやろか?」
大型犬みたいに、四つん這いになって通学路を疾走する私。その手綱を握り締め、ローラースケートで滑走するこのか。
想像してみるだけで、エクソシストが必要な事案だと理解できた。そんな鬼畜な行いをこんな可憐な少女が実行するとなると、
一躍麻帆良怪奇現象のトップに躍り出るスクープになるわね。題名は『犬として育てられた少女・ASUNA』……柿崎や朝倉が泣いて喜ぶに違いない。
「――っ、今すぐ朝食吐いてくる」
悔しいが、そんな恥辱を受けるわけにはいかない。今正に、消化が終りかけているであろう胃の内容物をトイレでぶちまける為に、席を立った。
けど、このかが本気で止めにかかったので、まだまだ暫くは、美味しいご飯を堪能できるらしい。
このかのご飯に胃袋をがっちりと掴まれている私には、耐え難い選択だったけど、何とか現状維持のままで生活ができるようだ。
そんな他愛の無い話をこのかと繰り広げていると、微妙に隙間の開いた教室の扉が、均等な間隔で二回叩かれた。
隙間が開いているのは、私の馬鹿力の所為で扉が歪んだ……わけではなく、その原因は少し視線を上に向ければ、簡単に見つかった。
扉の頂点に仕掛けられた黒板消し。先程美空から奪い取ったあれだ。それが僅かな隙間を作り、奇妙な違和感を生んでいる。
新任教師の歓迎にと、軽い冗談のつもりでトラップを仕掛けたのだろうけど、此処日本において、あんなあからさまに開けられた扉を不審に思わない大人などいない。
せっせと楽しそうに何かしていると思えば、こんな悪戯だったとは。視野の狭い子供――例えば双子ちゃん達のような背丈の人なら兎も角、普通引っかかるとは思えない。
――この時は、確かにそう思っていた。しかし、その考えは間違えていて、でも少しだけ、正しかった。
「失礼しま……す?」
どこか気弱そうな声に、クラスの皆が注目する。
それは、カゲロウの声よりも乏しく、毎朝聞く大人の余裕を感じさせる低い響きじゃない。
いつもの優しい笑顔はそこには無く、居たのは、緊張で顔を歪ませた先程の少年だった。
――様々な疑問が浮かぶ。けど一瞬では、到底思考が追いつかない。
何故、何で、如何して。そればかりが、私の狭い脳を占める。それにより、更に容量の足りなくなる悪循環。
私の脳味噌はもうポンコツ寸前で、幾ら考えようとも、明確な回答は見出せなった。
そんな私の憂いを他所に、黒板消しは少年の頭上を目指し、落下を始め――
「あ」
皆の思いを代弁してくれた、このかの呟きは泡と消えた。
妙にスローに見える黒板消しは、ゆっくりと少年に襲い掛かる。数分前まで委員長が丹念に白粉を纏わせて、私が少しだけ散らしたあの黒板消しが。
誰もがその光景を見守る他、成す術がなかった。幾ら私の足が速くても、あれには追いつけない。つまり、万事休す。
美空達の悪戯は、ある意味クラス全員の虚を突き、意外性に満ちた結果をもたらした。それは一人の何も知らない少年を犠牲にしての結果だ。
そう、こんな事にならないと大見得切って、この有様だ。
ああはならない。こうなるはず。いつも自分の都合の良いように片付けるから、何時まで経っても馬鹿なんだよね。私は。
あの時、美空に注意の一つでもしておけば、こんなことにはならなかった。
単に子供が、トラップの餌食になるだけ。それはそうかも知れないけど、そうじゃなくて、私は小さな事にも、気を配れるようになりたい。
このかのように優しく、委員長のように賢く、柿崎のように気さくになりたい。
そうなる為には、馬鹿な私は彼女達よりも、気を使わなければならない。いつかそれが当たり前になるほどに習慣付け無ければ、私の理想には到底追いつけない。
人よりも劣っているからこそ、人よりも頑張る。……たったそれだけの事が、できない。
瞬きするほどの時間も与えず、物事は進んでいった。少年は盛大に粉を吸い込み、咽ながらも笑顔でゴニョゴニョ呟いている。
咳と声が入り混じり何を言っているのかわからないが、その後もまた悲惨なものだった。
連鎖するかのようにトラップに引っ掛かる少年。ロープに足を取られ転げ周り、タライの代わりに仕掛けられたバケツを頭から被り、おもちゃの矢を数本射られる。
「あらあら」
付き添いに来たのだろう。しずな先生は苦笑し、クラスのみんなは大笑いしているけど、彼は泣いてしまわないだろうか。心配になるほどの酷い有様だった。
一通り笑いが収まると、被害を受けたのが少年である事に気が付いたみたいだ。心配そうに駆け寄る数人の中に、私も混じった。
「えー子供!?」
わっとクラスがざわめき出す。少年を中心に半円を描くように周りを取り囲む姿は、私と委員長が喧嘩するときの定位置に似てなくもないけど、比べるまでもなくその距離は近い。
「ごめん、てっきり新任の先生かと思って」
皆が騒いでいる中、真っ先に委員長が少年に向けて謝罪を述べた。何故だか、その姿にちくりと胸の辺りが痛む。
そして、委員長の言葉に反応を示す人物がいた。
「いいえ、その子があなた達の新しい先生よ。さあ、自己紹介してもらおうかしら」
そんな皆のてんやわんやしている姿が面白いのか、しずね先生はくすりと微笑んだ後、衝撃の事実を告げた。
「ええと、あの、今日からこの学校で英語を教えることになりました。ネギ・スプリングフィールドです。三学期の間だけですけどよろしくお願いします」
一瞬の静寂の後、教室は崩壊した。
「キャーーーー!!」
「か、かわいいーーーーー!!」
「何歳なの!?」
「どっから来たの? 何人!?」
「今どこに住んでいるの!?」
怒涛の勢いでネギ先生の周囲を取り囲み、包囲網を形成すると――飛ぶわ飛ぶわ、質問の嵐が。女子校特有の黄色い声に矢継ぎ早に繰り出される質問の数々にネギ先生はたじたじだ。
「ホントにこの子が今日から担任なんですかーー!?」
「こんなかわいい子もらっちゃっていいのーー!?」
もみくちゃにされるネギ先生の勢いそのままに、その余波はしずね先生にも飛び火した。
「コラコラ、あげたんじゃないのよ。食べちゃダメ」
流石にしずね先生がもみくちゃにされることは無かったけど、皆の速射砲的質問にも、一人ずつ丁寧に受け答えしている。
遠巻きにネギ先生を眺めていたしずね先生は、生徒に色々と問題のありそうな発言をしつつも、時折、ちらちらと教室の外を――つまり廊下のほうを伺っている。
何かあるのだろうか、と視線を追ってみても、そこには扉しかなく、その視線の意味は窺い知れなかった。私は再び先生の方を見た。
自然と、しずね先生と目があった。ある意味あたりまえ。何故なら先生もこちらを見ていたのだから。私が先生を見れば、自ずと視線はかち合う。
視線が合い、時間が重なる。ただ無意識にこちらを眺めているだけでは、こういう目はしないのではないか。何かの意思疎通を図るようでありながら、哀れみを浮かべる藍色の瞳。それが、私を見ていた。
一秒にも満たない静かな時間だった。しずね先生は哀愁をあっけなく捨てて、またも優しく微笑むと口を開いた。
「はい、みんな席に着いて! まだ紹介していない人がいるのよ!」
何度もその言葉を連呼し、教室に浸透させるしずね先生。
騒ぎが収束するまでに暫く時間が掛かったものの、その言葉の意味を理解した私達は更なる期待に胸を膨らませ、しずね先生のお小言を貰いながらも席に着くのだった。
教壇ではネギ先生が緊張した面持ちで周囲を監視し、教室の外へはしずね先生が向かった。
ざわつく教室は一応の沈黙を得た。一応っていうのはつまり、外面上は、という事だ。
右と左と後ろを向けば、皆一様に目が輝いている。それって要は、思う所はみんな一緒だってことでしょ。
前の席にいるクラスメイトまでは窺い知れないけど、結局は、此処にいる殆どの人間が、期待に胸を膨らましているんだと思う。
新しい担任がウチのクラスに来たってだけでも(しかも子供)一大事なのに、更に転校生が来るかもしれないっていうこの状況。
毎度お騒がせなこのクラスに、燃料をこれでもかって投下するようなもんで、今は燻ってはいるけどいつ爆発するかわからない……って感じかな。
そういえば……このかのお楽しみってこの事だったんじゃ?
自我の流れに誘われ、私は隣の友人を覗き見た。
ありえない話ではなかった。つい先ほど学園長に会いに行ったこのかなら、ネギ先生の事や件の転校生の姿を一足早く知り得たのではないか。
あの孫大好きのおじいちゃんならば、得意げになって孫に在る事無い事ぺらぺら喋っていてもおかしくはないし、なにより新任教師の紹介とはこの子供先生の事で間違いないのでは。
じーっとこのかを見つめると、視線の圧力に気が付いたのか、このかは薄く笑い、掌を差し出した。
これはなんだろう。と、頭にハテナを浮かべている私に、このかは私の右手を掴むと、その手を自らの掌に乗せ優しく包むと、そのまま上下にゆっくりと動かした。
あ、なるほど。お手か。
つい先ほどの犬の真似を思い出す。そういえば会話中のおふざけでこんなことをやっていた。
その時の会話とはモロに“お楽しみ”の事。つまり、私の疑問は正しかったわけだ。このかの言いたい事が解り視線を返すと、このかはうんうん頷いていた。
それにしても、私は馬鹿か。表面上は静かなこの教室で、私達だけ公然と会話に勤しむなど出来るわけが無い。
それを上手く伝えてくれたこのかに、頭が上がらない。
「う゛ー」
それが恥ずかしくて、小さく呻いた。それがちょっとだけ犬の鳴き声に聞こえたと、後でこのかが笑いながら話してくれた。
「さあ入って」
そんな他愛の無く音の無い会話に勤しんでいる時に、しずね先生の声が響いた。
声を張っているわけでは無かったけれど、その声は酷く澄んでいて、高音は静かにも良く響いた。
からからとレールの音がする。扉を運ぶ銀の桟はこう扱うのだと見習うべきなのだろう。顔が暑い。
ぱたぱたと手を仰ぎ風を産む。その風は私の火照った顔を癒してくれたが、その手は凍りついた。
それだけではない。火照った顔は一瞬で血の気が引いた。私は今日、血の気が引く音という物を初めて聞いた。
上げて落とすという落差が、それをより一層知覚させたんだと思う。けど、そんな些細な事は後回しでいい。
黒のローファー赤いチェックのスカートに臙脂色のブレザー。麻帆良学園女子中等部の制服に身を包み、腰まである橙の長い髪を一本の三つ編みに纏めている。
すらっと伸びたシルエットは細く長く、瞳は青く切れ長で表情は硬い。そのどれもが知性を感じさせる出で立ちで、ただ突っ立て居るだけのはずなのに、それは立つとは言い難く、言葉に当て嵌めればそれは君臨しているというのがお似合いの姿。
そこに居たのは、私だ――いや違う。私が理想としている、夢の中の私が、私の前に現れた。