滅多にお目に掛かる機会のない、魂の光。その輝きは、醜い性癖と復讐の炎を微塵も思わせない、美しい宝石の煌きに似ていた。
石は砕かれ、研磨された。器に付着した邪魔な礫を取り除き、無二の魂は、生前の歪な形を物ともせず、宝石とも呼べる輝きを取り戻した。
宝石が見せる光は、人の持ち得る悪意など、簡単に飲み干してしまいそうな無垢な純白だった。
心に巣食う悪心など露とも感じさせないその輝きは、魂が何と純粋で、汚し難い物かと思い知らされる。
それと同時に、人の持つ悪意や欲望が、どれだけ矮小な物かと見せ付けられた気にもなる。
再度、魂を観察する。
憎しみの炎に己の身を焦した少女と、醜い欲望に心酔し、権力を振り翳した男。その二つの魂。
どちらも違う人生を送ってきた。片や貧乏で、片や裕福である。一方は加害者であり、一方は被害者だ。
蛋白質と幻想の器に包まれ、その輝きを披露する機会を失っていた魂は、今この瞬間、大翼を得た。今日まで黒い欲望に抑圧されていた魂は、その怨念から解放される。
もう一度、注視する。
どちらの罪が重いか? など論議にも値しないが、二つの魂は、殆ど同色の輝きを纏っている。
これが何を意味するのか――この純白の啓示は、私に語りかけてくる。
善人も悪人も、同様の魂を与えられ、この世に生まれ出でる。
無論、誰もが個性を持って生まれて来た。親の遺伝や成長過程、好き嫌いなどの嗜好もあるだろう。
しかし真意では、本質は個性など含んでいない。恐らく、生物である限り全てが純白であり、全てが輝ける魂だ。
それは、善人や悪人などのレッテル、罪と徳、天国と地獄。人々が考え出した、人を二分化する言語の数々が、須く無意味だと言う事を物語っている。
理性の副産物――死の恐怖への回避、民衆の扇動、他者を見下すことによる優越感。これらは知者に利用され、今日の人類の繁栄を確立した。
それらが如何に確約なき妄想だったのか。天国を信じて、人生を棒に振った人々が哀れでならない。
尤も、この世界にも実際に天国があるのかも知れないが。
№35「現実」 奏功
魂の結晶化。それは、この世界には無い、神々の世界の魔術。
結界で空間を凍結し、鏤められた魂を凝固、結晶化させる魔術。
今し方、レザードが詠唱した呪文は、その魔術の足懸かりだ。
実はこれは失伝魔法や、特殊な魔術という訳でもない。その分野に精通している者なら、誰にでも使える魔術だ。
しかし、誰にでも使えるからと言っても、このままでは意味が無い。あちらの世界の法則では、時間経過と共に消滅するという“いらないオマケ”が付属されていた。
言わば、この魔術はただの時間稼ぎだった。魂を結晶化させた状態のままでは、これは綺麗な宝石のままで、真価を発揮しない。
故に、この魔術の真骨頂は先にある。
この結晶化した魂を元々の魂の器とは違う、別に用意した器に鞍替えする。これこそが、魔導の真髄や本筋から外れた行いこそが、この魔術の本来の用途だ。
魂を結晶化させ、輸魂の儀によって、精神を肉体に定着させる。
これがレザードの考え出した、神ならざる身で神とは違った方法で人や神を造り出す方法だった。
其の為に、レザードは器を設える必要があった。最高神であるオーディンにも引けを取らない、神の名に相応しい至高の器を。
その器の原点こそ、現世に残された神の器、エルフだ。レナスの為にだけに危険を侵してまで攫い、ユグドラシルの管理者たるエルフを好き勝手に造り替えた。
罪深き妄想の成れの果て。それは、外見までレナスそっくりに造られた。
そして、その“余り”を譲り受けた私も自然とレナスの面影を残している。
光に波打つ青みを帯びた銀髪、絹の持つ柔らかな質感と陶器の乳白色を兼ね揃えた玉肌、何処までも深く、吸い込まれそうになる蒼穹の瞳。
真澄鏡に反映される私達の現し身は、人の心を浸蝕するには充分すぎるほどの美しさを放ち、惑わせる。
とはいえ、何時の世にも例外はいる。そんな美しさは飾りだと言わんばかりに、彼はレナスの内面に惚れたと仰る。私はそれを嘘だと信じて疑わなかったが、それは正しく彼の本心だった。
等しく同等の仮面を持つ私に、彼は欲情のよの字も表に現さなかった。
他人の皮を被ろうとも、結局は私は私なのだと言外に伝えられた。彼の良き商売相手にはなれても、色恋の対象にはならない。
他の所ではいい加減で、大雑把な彼が、レナスの事だけは真剣なのだと思い知った。
その事実に心底、安心したのは言うまでもない。
つまり、今の結晶化させた魂だけでは意味がない。
“魂には肉体を、器を用意してあげなければならない”。
剥き身の魂に安らぎの肉体を拵えて、自らの望む“個”を生み出す。
子を産めない彼には、ピッタリの方法だった訳だ。
「いやなにおい………血のにおい」
静けさを取り戻した質素な部屋には、肉の焼け焦げた匂いが充満し、黄色土の壁にぶちまけた赤い血潮が室内を二色に彩った。
魔法の爆発による熱風が原因だろうか。レザードは火照った顔を隠そうともしない。魔法障壁によって程良く軽減された暖かい風が、彼の情欲を煽り立てた。
彼は、コツコツと硬質な音を経て、私達との距離を縮める。その音が近づくに連れて、彼女の血の気の引いた表情は強張り、小さな囁きも、回数を増やしてゆく。
「こないで」
二本の足が震える。生まれたての小鹿の覚束無い足を真似たのかと思う程の震えが、彼女を縛る。
恐怖が全身に包み、脳の命令を跳ね除ける。過不足無く働いていた手足は自由を失い、誰に操られているでもないのに、圧力から逃れるため、彼女は地面にへたり込む。
すーっと、彼女の熱が失われる。今彼女が目撃した事実、そして、“彼女の経験した地獄の中で、絶対に感じなかった感覚が”彼女から熱を逃がす。
少女にも満たない可愛らしく柔らかい手は、凍えた。人の体温とは、恐怖で此処まで急激に冷えるものなのか。
「怖がることなんて何もないわ。アスナ」
この子の恐怖を少しでも緩和させようと、私は精一杯の笑顔を振りまく。
見上げた彼女の瞳に、欠片の希望が戻る。今にも泣きだしてしまいそうな彼女の顔に、ぎこちない無表情が蘇った。
私は、一本の柄を取り出すと、漂わせた銀色の魔法金属を変形させ、素早く柄に纏わせた。
あっと言う間に、私のもう片方の手には、両刃を拵えられた神器が姿を現す。
銀の意匠に精密な技巧は、記憶の中のそれと遜色無い。私のイメージ通りの形を成した銀の槍は、溢れ出る魔力が凍えきった雰囲気を溶かし、空間に余裕を持たせた。
対立の構図が出来上がった。彼女のひたむきに握る絆が、尚一層強まったのを感じた。
私は彼女の瞳を見詰め、もう一度、笑顔で言った。
「少し、チクッとするだけだから」
「いや!」
いやだいやだと、彼女は腕を引っ張る。
そして、そんな子供の駄々を捏ねる様子を微笑ましく見守る私達。
注射を怖がる子供の気持ち。私も幼い頃には、突き刺される恐怖を痛い程経験したものだ。
私のもう片方の手には、両刃の注射器が添えらている。少しばかり大きいが、きっとあの頃の小さな注射器よりも痛みを感じることはないはずだ。
私達の顔は、あの日の医師達に限りなく近く、そして彼女にはこの上なく邪悪な笑みに見えることだろう。
「はっなしてっ!」
彼女は瞳に涙を浮かべ、空いた手で私の束縛を解こうと躍起になっている。
私の指の一つ一つを剥がそうと、小さな手に満願の思いを込めるが、頑丈な鎖はびくともしない。
そんな恐怖に歪む顔は、近年稀に見る必死の形相だ。
こんな顔は原作でもお目に掛った事がない。これは非常にレアな場面かも知れない。
「嫌がることないじゃない。貴女が安心するだろうと思って、親切で貸してあげているのに」
無愛想よりはよっぽど愛嬌のある顔に、ついつい悪戯心の虫が騒ぐ。だが、私一人だけ愉悦を得るのを“非常に”不愉快に思う奴がこの場にはいるわけで。
「ククッ。拷問具をあくまで親切と言い切るとは、中々どうして。貴女を鉄にしたつもりはなかったのですが、どこかで入れ替えたのですか?」
ほらきた。
「貴方は黙っていて。それに、身も心も鉄の処女なんかにしていませんので」
「おや、つれないですね」
レザードとのくだらない冗談に付き合っていると、彼女の手から徐々に力が抜けていくのを感じた。走り続けたメロスが息切れし、疲れてへたり込むというより、「観念した」という言葉の似合う、力の抜き方だった。
「それでこそ、黄昏の姫御子。諦めるのが早い。いえ、高を括ると言ったほうがいいのかしら?」
「どういう意味?」
脊髄反射で切り返した彼女の疑問。頭の中で咀嚼することもなく吐き出された疑問は、実に味気ないものだ。
「言葉通りの意味よ。貴女はいつも諦める。それも簡単に。それを何故かと考えたことはあるかしら?
ごめんなさい、愚問だったわ。でも貴女はいつも嘘を吐いている。貴女は貴女自身でも知らない部分で、貴女の人間性を偽っているの」
それがどれだけの事か。環境ゆえに、誰からも指摘されず、師事する人物もおらず、模倣し敬意を示す人物もいなかった、彼女の孤独の結果。
「嘘なんて、言ってない」
語尾に、今まで言った事もないと帯が付きそうな言い方で彼女は断言したが、それこそが、嘘だ。
彼女は断言した。だからこそ、自覚していない。
「本当にそうかしら?」
そんな彼女を見下ろし、私は言葉を続ける。
「今日まで幾星霜の月日が流れたのか、それは貴女しか知らないでしょうけれど、そこがまず可笑しい。
どれだけの時間を牢獄に費やしたの? どれだけの時間を殺して、貴女は生き永らえたの? そう、貴女が生きているという事に、貴女は何故、疑問を持たないの?
蔑みにあったのでしょう? 拷問にあったのでしょう? 心を壊されたのでしょう? だから、記憶を消すのでしょう?
――何故生きる必要が? 何故そこから逃げ出すのに最も簡単な方法、死を選ばない?」
私が彼女に浴びせかけるそれは、言葉ではなく、叱責でもない。
「諦める。口にすれば、傷つき、病んだ状態の貴女を現すのにぴったりの表現ね。座右の銘にでもすればいい。
だけど、貴女は一つだけ、その奥に隠している」
それこそが彼女を全否定する、彼女の吐いた嘘。
「貴女の諦観の下地、諦めのさらに奥にあるもの。それは“自分が殺されることがないと、高を括っていることよ”」
「そんなことない! 私はずっと閉じ込められて――」
「気の遠くなるほどの長い期間、閉じ込められていても、虐待を受けても、人として扱われなくても、非道な行いをその身に受け入れても、反発しても、諦めても、何をしても、それでも――死なない」
それが意味する所。それは――
「貴女は貴女の価値を知らなかった。でも、一つだけ経験則でわかったことがある。それは、このままでいれば“安全だと”いうことよ」
言い換えれば、生活できると言ってもいい。そこが如何に生き辛い地獄であれ、彼女には其処で生きるしかなかった。
そういう意味で言えば、彼女の選択は正当だ。地獄で生きるには、希望持たざる生き方は正解であり、何も感じず、時間が過ぎることだけを考えることのほうが、幾分か幸せだった。
そのほうが、早く慣れる。住めば都とは良く言ったものだが、その生活に慣れる時間は人それぞれ、人間模様は様々だ。
環境に適応する術を、人は生まれながらに持っている。それを最大限に発揮するためにも、それを阻害するものは早々に摘み取る。慣れるとはそういうことだ。
そして、早々とは行かなかっただろうが、彼女はそれを見事に達成した。
彼女は長い年月を掛けて、やっと適応したのだ。地獄に。
そしてそれを呆気なく捨てたのもまた彼女だった。
過去の経験や記憶を全て投げ打って、自分が元々いなかったかのように違う人物として開かれた未来を生きる。
嫌な過去から逃げる。消去する。その方法があれば、誰でも飛びつきそうな、机上の空論“だった”。
この世界にもそれがある。
それを本気で渇望する者達。それらの核心にあるものは何だ?
“決まっている”
そんなものは、疚しさだ。自分の過去に後ろめたい事実が隠されているからに他ならない。
俺だった私だからこそ、言い切れる。
「ずっと閉じ込められていた。造物主に魔法の生贄にされそうになった。でもだからこそ、悟った。不遇の運命を歩もうと、どんなに辛い目に会おうとも、死ぬことは無い、と」
完全魔法無効化能力、王家の魔力。唯一無二の力、希少価値こそが彼女の命懸けの綱渡りを成立させるものだった。
それこそが、死の恐怖を柔らげ、己の身体を差し出すという暴挙にも耐えうる、揺るぎようのない自信に繋がっていた。
波立たない海の凪ぎに似て、心穏やかに、諦められた。
「それだけが貴女の骨だった。皮も肉も血でさえも抜き取られた貴女に、最後に残された骨子。
歩く死者に理性は働かず、自らを理解できていないにも関らず、本能は知覚していたのよ。生命の安全をね」
「そんなことない、そんなこと、ない」
「今まで簡単に死んでいった人々を前にして、貴女は何をしたの?
彼等の為に涙を流した? 墓前に手を合わせ死を尊んだ? 見て見ぬ振りをし続けたのかしら?
――違う。自分と彼等とは違うと区別し、他人の死を認識して貴女は“安心していた”」
「もうやめて!」
彼女の瞳の端に、涙が溜まる。心の器に並々と注がれた感情が、溢れ出てきたように。
「そして貴女は今、初めて感じた。だから暴れて必死になった。
……可能性を感じたんじゃないの? “もしかしたら死ぬかもしれないという”失命の可能性を」
「嘘、違う、やめて、私はそんなこと、ない!!」
彼女は泣き叫んだ。心の底から。
ガトウの死を前にして、命の理不尽に悲鳴を上げたように。
……地獄に留まっていれば良かったのに。そうすれば、こんな悲しみに浸ることも無かった。
心を殺し、何を見ても理解できないまま、興味すら湧かないお人形の人生のほうが、貴女にとって幸せだっただろう。
それでも、無理矢理に引き摺りだしたのは英雄だ、私達だ。戦争の道具としての生き方しか知らない彼女を憐れみ、救出した。
それが救いなのかどうか、彼等はまだ知らなかったのだ。彼女の置かれた状況が、どのような立ち位置で成り立っているのか。
囚われのお姫様を救う。物語の王道にして善行の象徴は、確かに正義の魔法使い達にとって何の疑いも無い純粋な善意だったのだろうが、私に去来した思いは、そんな物ではなかった。
これが、真の意味で彼女を救う事にはならないと知っていたのだから。
故に、私は彼女を利用することしか考えていなかった。彼女の記憶が消えること、彼女がガトウを好いていること、記憶を消した後、神楽坂明日菜が選ぶ未来も含めて。
だから、ガトウに忠告することもあえてしなかった。彼女の初めての激情を利用し、冷静な判断をさせる暇も与えず、選択の天秤を大きく傾けさせる為に。
……無駄な努力だったけど。彼女は迷う事なく私の提案を呑んだ。騙すような真似をしたが、それは必要だったからだ。
英雄達では根本の解決にはならず、完全なる世界は彼女を犠牲にしかしない。
誰もアスナを救えない。その証拠が、記憶を消すという何の解決にもならない下策であり、安全な場所で身分を隠し、他人として生きるという苦肉の策だった。
私は多くの事を知っている。そして、私ならば、彼女の呪われた運命から解放することができる。
いや、それだけではない。誰もが幸せになれる、正しく魔法のような解決策。
英雄達も、完全なる世界も、レザードも、そして、私が幸福を得る方法。
アスナだけは、絶対に幸せなるとは言えない。だが、神楽坂明日菜はまず間違い無く幸せになれる方法。
全てのピースが出揃い、後は当て嵌めるだけのパズル。難問を解く道筋は確立され、脳からの衝動は奴隷のように身体を突き動かす。
脳内物質は動悸を早め、熱の篭った血液は発汗を促す。確固たる信念は、後退や停滞の意志など元より存在しないかのように、前へ前へと歩を進める。
口元の綻びを抑えろとは、無理な話だ。
私は彼女を離した。少しの間、温もりを共有していた、血の詰まった皮製の手錠は外され、私達の繋がりは絶たれた。
束の間の呪縛から解放され、彼女は手を摩る。痕が残る程強く握ったわけではないが、彼女からして見れば、大嫌いな手枷に繋がれた気分だったかも知れない。
「どう?」
少女は頬を紅潮させ、乱れた息を整え、立ち上がった。そこには、無愛想で可愛げのない少女はいない。
「……何が」
ぶっきらぼうな物言いは、無感情だった数分前とは明らかに違う。明確な拒否感を持って、短く私に伝えられた。
そんな彼女の嫌悪感に、私は心を込めて返答する。
「笑えるでしょう?」
彼女は息を呑んだ。それと同時に、彼女を包む恐怖は影を潜めた。それは、霧散する氷霧と同じく、完全に消え去ったわけではない。
いつかまた、氷点下の夜に凍える風が世界を包めば、明け方の細氷と同じくして現れる、自然の摂理。
隠し切れない動揺が彼女を通して浮かび上がる。涙に腫らした頬や瞼は赤く色付き、恐怖に怯えた身体は人肌の温かさを忘れる。肺は今にも呼吸を止めそうだ
けれど、今この時だけは、夜明けの太陽が氷霧を払った。
それを証明するかのように、数瞬の思索の後、彼女は口を開いた。
「わたしは長い間、みんなと違うと思っていた」
彼女の言葉は続く。
「わたしだけが、道具だって言われて、化物って言われて。そのうち、思うようになった。道具だから化物だから、苦しいんだって。それで、ずっとじっとしていた。鎖が重くて、動くのも辛かった。
じっとしているとね? わたしがわたしじゃなくなるの。痛さとか辛さとかから、わたしは切り離されて、わたしのわたしだった物が、一つずつ無くなっていくのを感じた。
じっとしている事が辛くなくなったころ、ナギ達に出会った。それから、急に変わった。モノの扱いじゃなくて、化物と呼ばなくなって。……それがよくわからなかった。わたしは道具で化物なのに、なんでって」
一斉に喋り続け、ふぅ。と一呼吸置いた。それと同じ量の空気を吸い込むと、彼女はまた話し始めた。
「ナギに聞いたら、そんなことねーよって笑ってた。アルは聞き取れないほど話が長くて、ゼクトは何か悩んでた。
えーしゅんは辛そうにしていたし、ガトーさんは頭を撫でてくれた。そういえば、アンには聞いてなかった」
その時に聞けば、貴女の人生は変わっていたかも知れない。ほいほいと私の後を付いて来ることもなく、少しは、警戒したのかも。
「結局、誰に聞いても、よくわからなかった。わたしは道具で化物だとずっと言い続けた人達と、
少しの間しか会ってない強くて優しいあの人達は、それは違うと言う。もう、よくわからなかった……わたしが何なのか。でも、今日、少しだけわかったことがある」
すぅーっと、深呼吸。肺に空気を溜めに溜め、覚悟を決めて、彼女は自分の内なる思いを吐き出した。
「わたしは、あなたの言うこと“は”認めたくない。違うって、言いたい」
「私の言う事が違うとでも?」
アスナはコクリと頷いた。今までの小さな動作ではなく、大きく力強い動きで、意志を現した。
随分正直に物を言うようになったと思う。彼女は、ナギとは違った意味で、私に心を開いてくれたようだ。
「……違う、ね。真っ向から否定できる存在ができて、そんなに嬉しいの? 此処にいる彼なんて、否定という言葉が形を成したような生き物よ?」
「これは手厳しい。ですが、その否定の存在から生まれ出た貴女も、否定の申し子だと言う事です」
「なら、これは必然ね。私達は元より、誰かに肯定される為に生きている訳じゃないもの」
「待って下さい。私と貴女を一緒にされては困ります。私は、私を肯定するであろう愛しき者を手中に収めるべく、生きているのですから」
「あぁ、そうだったっけ。じゃあその愛しき者とやらに、嫌われないように努力することね」
「言われるまでもありません」
少し俯き、眼鏡の位置を修正する変態。垂れ下がった前髪が、彼の表情を覆い隠した。
どこか満足げな彼と私の他愛の無い話。暫くの間これがなくなると思えば、私の心は晴れやかだ。
「何の、話をしているの」
会話の矛先を真後ろに変更され、アスナは困惑気味だ。決め台詞が滑った時の感覚に近い物がある。
「何って、ねぇ?」
「単刀直入に申しますと、貴女を試していたのです。オスティアの姫御子」
「ためす?」
「追い詰められた時、貴女がどういう行動をとるのか。最後の最後に、折れるのか、耐えるのかを、それを判断したかったのです」
「じゃあ」
「ええ、酷いことをしたわね。謝るわ。でも、今しかできないことだから」
私はアスナに語りかけたが、アスナは私に無言を返し、私との会話を拒否した。構築された敵意は、そう簡単には崩れないらしい。
「それもこれでおしまい。さぁガトウの元に帰りましょう」
しかし、その言葉にだけは律儀に反応した。
「本当に?」
アスナの疑いの声には当然だ。私の言葉は何の説得力を持っていない。一度騙されている彼女では、警戒を解かない。
私は腕を振り上げ、武器を放り投げる。重厚な槍の風を切る音が静かに響いた。軸を持たない、二枚羽の風車が廻る。
くるくると回転しながら、放物線を描きながら後方に飛んでいく針。
恐怖の対象であった武器を手放すした事で、アスナは、ほっと肩の力を抜いた。
「本当よ」
頂点に達した物体は落下を開始する。喜劇の幕を降ろすかのようにゆっくりと羽は舞い降りる。
この羽が舞い降りる時、この喜劇は終幕を迎える。
演者達は終幕を目で追い、観客の万雷の拍手で送られ、満面の笑みで舞台を後にするのだろう。
その姿は誰もが幸せで、不幸を思う者は誰もいない。
そうして、幕は落ちる。彼女の胸に。
アスナの身体が小さく揺れた。波紋が流れるように、胸を中心とした震源から衝撃は広がった。
胸に抱くのは、恐怖の代名詞か、軽やかな風車の羽か、はたまた、終了を告げる幕か。何れも、同じことだが。
神器を模った槍は揺らめく魔力を放出しつつ、アスナの胸から生えていた。
見るからに即死で、助かる見込みも無い。だが、神器は血を撒き散らすような穢れた方法ではアスナの息の根を止めなかった。
切っ先は確かに心臓に届いているはずだ。けれど、薄い胸を貫いてもいない。
傷口からは、重力に引かれて、地上に流れ落ちる紅血の変わりに、蛍火の揺らめきを持った魂が天上へと駆け上る。
「レザード」
「わかっています」
彼は先程と同じ呪文を唱えた。奴隷の少女と醜い男の魂を凝固させた、あの呪文を。
「とりあえず、一段落ね」
「えぇ。ですが、よかったのですか?」
少女と、男と、アスナの、都合三つの魂を抱え、レザードは私に疑問を投げかけた。
「勿論。彼女は鍵なのよ? 一応、英雄の私が、盗み出してそのままという訳にも行かないでしょう?」
「鍵ですか。だから、一つは返すと?」
「そっちの方が、疑われないでしょう。それに彼等は、記憶を消すとも言っていたわね。
それもこちらで済ましましょう。迷惑かけた、オマケでね」
「良くそんな事が言えますね。自分に都合が良いからでしょう?」
「そうとも、言うわね」
槍は私の元に戻ってきた。横たわるアスナの胸には、縦に広がる裂傷などは無い。
見た目には無傷で、今にも起き上がりそうな、綺麗な身体のままだった。
しかし、その中は空っぽだ。何も入っていない。
彼女だったものを片手で抱きかかえ、彼に手渡した。レザードは慣れた手つきで、亡骸を宙に浮かす。
あの時の緑茶のように、乱雑に扱うことは無かったが、それでも、彼の中での価値は、あれと然程変わりないのだろう。
「では、手筈通りに参りましょう」
「ええ」
変わりに私は、一つの結晶をレザードから受け取った。渡される時「どちらにしますか?」などと彼は聞いてきたが、彼なりの皮肉は相変わらず、聞く価値が無い。
無造作に奪い取った一つを持って、再び彼女の元に戻る。
「やりかたは、復習しましたね?」
「えぇ、先生。練習するのに苦労しましたけど、何とか物にしました」
「よろしい。それでは、換魂の法を始めましょう」
換魂の法。
魂の結晶化と同じく、誰にでも扱える魔法でありながら、結晶化よりも広く伝播した、等価交換の魔術。
効果は読んで字の如く、魂を変換するもの。ただし、生きている者の魂を入れ替えるという意味ではない。
これは、死者に対して行なわれる魔術であり、生者が命を投げ打って、死者を復活させるという魔術だ。
人が生まれながらに所有している平等の価値を持つ魂。それを犠牲にすることで、他者を一度だけ生き返らせる。
人に一度だけ許された奇跡の魔術。それが、換魂の法。
「彼女も幸せね。奴隷からお姫様になれるなんて。普通に生きていたら、在り得ない幸福だわ」
「しかし、何も覚えていないのですよ? 差し詰めそれは、生まれ変わりと言ってもいい。ならば、来世に生まれ出れば良いだけです」
「でも幸福が確定している。何の確約も無い来世に身を委ねるほうが、酷よ」
「そういう物ですかね?」
「そういう物よ。それとも、前世が不幸だったから、来世は幸福になれるとでも?」
「彼女ならば、そうするでしょう」
「きっと偏見よ、それ」
神槍を右手に備えて、水平に構える。
結晶は左手に備えて、アスナの身体に押し当てるように。
瞳を閉じて、魔力を集中させる。魂の結晶をアスナの身体に合わせるように変換し、魂の認識を改めさせる。
奴隷の少女から、黄昏の姫御子へ。虚を現に。
青白い魔力光は私の背中に一対の翼を形成し、空へと体を浮かす。
それが成功の合図だった。彼女の空っぽだった期間は半刻にも満たずに終わり、アスナは黄泉の国より舞い戻った。
「記憶と、それを送り届けること。あと、この魂に見合った身体を私に渡す。何か質門は?」
アスナの魂は、他の二つと遜色なく輝き、その輝きは、まるで麗らかな春が大地に陽光を与え、在りもしないはずの花の香りが、風に薫るようにも感じられた。
この世界には存在するはずの無い魂の結晶。遥か彼方の異世界の術を用いた、神代の異物。
これからの私達を左右する未来への布石。世界に影響を及ぼす、不可欠の鍵。
「いえ、ありません。しいて言えば……」
「何よ?」
「その手は何ですか?」
私は彼に向かって片腕を突き出していた。掌を上に向けて、くいくいっと指を曲げ、何かを渡すアピールも忘れずに行う。
「私は約束を守ったわ。今度は、貴方が約束を守る番でしょう?」
「約束ですか? 一体何の約束でしょうか」
「決まっている。私は私なりに、強くなった。これでもまだ、満足できないの?」
顔では、笑顔でにこやかに、彼に詰め寄る。
「あの造物主の掟の中には、有限ではあるけれど、それでも大量の魂を保管してある。
その数は今も尚、増えているわ。何時までも誰かの手にあるより、私達の手で有効に活用すべきじゃないかしら」
「あぁ。そういえば、大昔にそんな話をした覚えがあります」
「まさか、忘れていたの?」
もしレザードが、この話を忘れていましたで済ます心算なら、此方にも考えがある。
目的の物が手に入らない悲しみに暮れた、骨折り損の空虚の掌には、別の物が握られることになるだろう。
「いえ、渡すのを、忘れていました」
「はぁ?」
彼は虚空に向かって手を伸ばす。その掌に光の粒が集まり、やがて中心には煌めく閃光が出来上がる。
それは一瞬の出来事だった。私が疑問の声を上げる間に、彼の手中には、黒光りする一本の鍵が握られていた。
「創造主と同等の力を秘めた、この世界の最後の鍵。これが、貴女の望む物でしたね」
「そうね。でも、今はそんな事よりも、――何で、今になってこれを出したの?」
これは、重大な違反だ。私と彼の、契約違反。
私達は互いを信用していない。これは私だけでなく、彼も同様に推察しているであろう事実だ。
だからこそ、私達は最初に出会ったあの時から、ルールを示し、それを遵守することで、建前の平和を守ってきた。
互いに利益を齎す関係、それが私達の距離だったはず。私も彼に不利益を齎す疑惑を抱えているが、彼もそれは折り込み済みの契約だった。
そうだと思っていた。
それを今、隠蔽するのではなく、私の眼前に曝け出した。
何故態々、私達の関係に罅が入ることを、今からというこの時期に、暴露したのか。
「何、簡単な話ですよ。これを今貴女に渡しても、無意味だと思ったからです」
彼は本心から嬉しい時、こんな顔で、こんな回りくどい話をする。
意地の悪い顔をしている。そんな彼の顔を見るのを飽きるくらいには、彼との付き合いも短いとは言えない期間にまで達している。
彼がこの顔をする時は、彼の中で全ての話の道筋が出来上がり、後は淡々と話を詰めるだけの時に良く見られる、自信に満ちた顔だ。
彼は笑う。私が手にしても無意味だと。私の心中にある思いも全て理解して、無意味だと言う。
「無意味ね。考えられる事としては、それは造物主から奪い取ったものではなく、一時的に貴方に預けられた物であり、それは何時か返却しなければならない。
つまり、今私に渡しても、直ぐに返すから、無意味だと?」
「そうとも言いますが、違いますね」
鍵を空中に浮かせ、腕を組み、私の上から物を言う。
私の建前とは違う、嘘偽り無く本当の意味で無意味だと言っている。
そして尚且つ、彼は簡単な話だと言った。本当の意味で、簡単な話なのだと。
「――簡単な話ね。私にそれは扱えないって事?」
「その通りです。これは造物主、そして王族のみに扱う事を許された魔法具。おいそれと誰にでも扱えれば、私などに預けないでしょう?」
確かに、その通りだ。完全なる世界の中で、この魔法具を使えない人材は彼に限られる。
何時かの未来のレプリカならいざ知らず、根源であるこの魔法具では恐らく、何かしらの使用許可が必要であると考えられる。
故に、レザードは扱い方も熟知していないだろう。何せ使えないのだから。私だけでなく、彼もまた、手に入れても無意味だった代物なのだろう。
それでも、造物主は彼の偽りの忠義に報いる為に、この鍵を預けた。
私が、これを手に入れることを願ったから。
彼もまた、これに興味を持ったのだろう。
そして造物主にとっても、都合の良い褒美だった。
レザードに鍵は扱えない。そんな彼に鍵を預ければ、彼だけを特別視していると思わせることも可能だ。そして、他の人形達にも彼が重要な人物だと思わせる。
そんな思惑があったのかも知れない。これは只の空論だが、そんな何かの理由があって、彼の手中に鍵はあるのだろう。
「王家の魔力。これは誰にでも与えられるものではありません。そこにある魂以外は、の話ですが」
「成程、鍵と鍵が合わさって、初めて世界が意のままに操れる。二重に鍵を掛けるなんて、何とも厳重なことね」
「それだけで良い、と考えるべきではありませんか? 現に私達は二つ共、我が物とする事ができたのですから」
私は、燦然と輝く魂の結晶を手に取る。仄かに暖かい結晶は、心臓のように鼓動する事は無いが、それでもこれは、生きているのだと実感させる。
「じゃあ何の問題も無いわ。恙無く、私達の計画は進んでいる」
「よろしいのですか? これを獲得する事だけに、心血を注いでいたのでしょう?」
「いいのよ。この子が扱えると解っているだけでも、マシだと思わないと」
「ふむ、そういう物ですかね?」
「そういう物よ」
彼はそれだけを告げると、足早に部屋を後にした。あの部屋で見た白く細いホムンクルスを実験台に、魂の輸魂を試すのだろう。
その為には、早く面倒事を解消したいはずだ。即日中にアスナは、いや神楽坂明日菜は、麻帆良学園に転送されるだろう。
「無意味、か」
私の今までの行動全てを、彼は否定した。
戦争も救済も略奪も、全てが無意味だったと、彼は言外に言っていた。
ふふ、ふふふ。あはっ、あはははははははははは!!!!
「くふっ、くふふふ。何処が無意味なものか。此処にあるじゃあないか」
そうだ、王家の魔力は此処にある。そして、その魔力を私が手に入れる事は、とても簡単だ。
「そうよね、我が主。早く、貴女の顔を拝んでみたいわ」
あとがき
お待たせしました。って忘れられとるなこれは。
エタったのではなく、完全に実力不足です。それを証明するのが、この前後編の長さの違いです。
後編長くなりすぎて、ちょっと遅くなりました。でも、これでアンジェラが何をしたかったのか、ちょっとは解ったのではないでしょうか。
さて、次回より原作開始です。手早くエヴァ編、京都編、学園祭と繋げればいいなーと思っていたりして。