№34「幻日」 序奏
過去にも似たような感覚を経験をした事がある。
それに最も近い感覚が、俗に言う“ひらめき”といった脳の電気信号だ。
奇抜な発想を思い至った発起人や、神の啓示を受けたとしか思えない直感、神来。
全てのピースが出揃い、後は当て嵌めるだけのパズル。難問を解く道筋は確立され、脳からの衝動は奴隷のように身体を突き動かす。
脳内物質は動悸を早め、熱の篭った血液は発汗を促す。確固たる信念は、後退や停滞の意志など元より存在しないかのように、前へ前へと歩を進める。
絶対に成功するという自信。未来を予感しただけで、胸の鼓動は収拾が付かなくなる。
口元の綻びを抑えろとは無理な話だ。これから起こる喜劇の出来は、私が一番理解している。
「さぁ、着いたわ」
魔法陣が送り出した場所は、薄暗い部屋だった。
長く広い木の机に、乱雑に積み上げられた本の数々と、綺麗に配列された本棚。
部屋の隅には、一つのランプが備え付けられ明りを灯している。しかし、それだけが唯一の光源で、辺りは薄暗い。
そんな薄闇の中でも一際目を引くのは、室内の最奥に設置された透明で大きな円筒だ。円筒に内蔵された液体が、僅かな光を得て反射している。これの中身が液体のみであれば、少しは部屋の雰囲気も和らいだだろうが、内蔵された物体は液体だけに留まらない。
液体と共に見えたのは、ほっそりとした白い幹のような物。貧相な根元は、自重を支えられるのか不安になる程の細さで、幹の中腹には節を思わせる一つの膨らみがある。そこから空に向かって成長した茎は、徐々に太く育ち、柔らかな線を描いていた。
一目見れば、それが何なのか理解した。その幹は美しく鈍ましい工芸品だ。見る者の血の気が失せる、狂気の傑作。
その幹から伸びる全体像は想像に難しくない。あれの正体に少しでも心当たりがあれば、直ぐに思い当る代物なのは間違いない。
しかし裏を返せば、その知識が無い者は気にも止めないという事だ。
その証拠に、アスナはあれを視界に収めているはずなのに何の感情も抱いていない様子だった。終始落ち着き無く、そわそわとはしているが、可愛げの無さに変わりない。
透明な円筒の中身に興味も無く、その正体に微塵も気が付いていないと言う事は、彼女の態度を見れば一目瞭然だ。
まぁそれもそうか。あれが一体何なのかなど、彼女の心にはそんな些事が入り込む隙間は用意されていないだろう。
ならば、この薄気味悪い部屋に更なる明りを灯すのは少し待ったほうが良い。
今すぐに――と焦らずとも、否が応にも注視せざるを得ない未来に、あと少しで到達するのだから。
……しかし、こんな気味悪い人形を背後に、自身の研究と妄想に駆られていたのかと思うと、もはや称賛に値する。
決して住み心地の良い住居とは思えないが、蓼食う虫も好き好きとはこの事だ。“こんな”でも、好む生物は万物の霊長たる人類にも一人はいたようだ。
噂をすればなんとやら。薄闇を照らす魔方陣の輝きが、地面に描かれていく。
「ようこそ。お待ちしておりました。オスティアの姫御子」
反響する、歓迎の含みを持った声。この声の発生源こそ、部屋の意匠を仄暗い狂気に染め上げた張本人にして、この部屋の主人。
黒衣の外套を羽織る人影。部屋に同化した黒塗りの外見は、露出した白面を引き立たせる。浮かび上がる得意顔は男のそれだ。尤も、こんな場所でなければ、注目を集める事も無いだろう。道端ですれ違おうとも、目で追いかけるような容姿ではない。それどころか、目つきの悪い三白眼は、忌避される部類の物かと思われる。
しかし幸運な事に、愛用の縁の丸い眼鏡によって険しさは少しだけ軽減されていた。その為、幾分か賢い印象を“初対面”の人間に与える。
だが、それは偽装に他ならない。彼の妄執に少しでも触れてしまえば、その印象は嫌悪の型を取る。そして、彼の具備した賢さが、黒い欲望に裏付けされた毒と知るだろう。
彼こそ、稀代の錬金術師にして、不死者をも操る死霊術士であり、欲しい物の為ならばそれが何であろうと躊躇はせず、その過程で行われる自らの暴挙にも、罪悪感を感じることは無い冷徹な偏執狂。
己の欲望の、忠実な僕。
「我が名はレザード・ヴァレス。刹那の出会いに歓迎はいたしますが、覚えて頂く必要はありませんよ」
レザード・ヴァレス、その人だ。
「誰?」
アスナの至極真っ当な疑問だ。端的に述べた疑問は、眼前の彼にではなく、私に対しての質問だった。
「彼は……そうね、正直な人」
噴出しそうになる私の心を、寸前で我慢する。折角、格好をつけて現れたロマンチストの台詞は、アスナには理解されなかったようだ。
ここで私が笑い出してしまえば、色々と台無しだ。彼も機嫌を損ねるだろうし、此処は我慢だ。
「……答えになってない」
納得行かないと首を傾げた少女に、私は優しく諭した。
「いえ、これでいいのよ。これでね」
益々訳が分からないと言った体のアスナに、私は彼女の手を取り、後を付いてくるように促した。
「さぁ行きましょう。私達の幸せの為に」
壁に等間隔に設置された蝋燭を頼りに、通路を進む。固く握り締められた互いの手を、私もアスナも離そうとはしない。
――繋がれた絆は、決して断ち切れない。
何故か。簡単な話だ。彼女は生まれてから今まで、己の宿した力に振り回されて生きて来た。そして、その環境から逃げ出せない人生を歩んでいた。
物心付く幼少の頃から、普通とは言えない生活を過ごしてきた。
盾として利用され、道具として心を殺され、人に非ず故、蔑まされ生きていた。そのお陰で、彼女には主体性や、人として備わっているはずの心の機微が欠けている。
その為、いつも誰かに言われた事を――他者から命令された事しか、行動に移せなかった。
誰かの言いなりになる事に、反感の意志を抱かない。人としての尊厳を奪われた、彼女の深なる部分には根が蔓延っている。彼女の根底に根付く理念。それは、諦観だ。
希望の光が届かない、暗く冷たい井戸の底。力も知識も無い幼い子供に、反り立つ壁は高すぎる。更に、希少価値という束縛の錘が、彼女には絡み付いていた。
辛くはないだろう。彼女は、枕元で聞かされる夢物語や御伽噺の類さえも知り得なかった。
彼女は知らない。力の使い方も、知識の有用性も、戦争の成り立ちも、夢も、希望も。
希望を知らぬ者は、期待を胸に抱かない。それが彼女の諦観の正体だった。
――届かないはずの光。だが、その井戸の底を掬う存在が現れた。
掬う所ではなく、全てをぶち撒け壊すだけで、一向に悪びれず、傍若無人な振舞いを行う乱暴者達だったが、確かにアスナは救われた。
さて彼女は――必然的に――晴れて自由の身に至るわけだが、絶望の淵から一転、自由と希望を手に入れた人間が、再び自ら井戸の底に戻ろうと思うだろうか。
井の中の蛙は大海に躍り出た。ならば、もう戻ってくる事は無い。籠に守られていた事など終ぞ知らず、鳥や蛇の餌食となって消え行く運命だ。
そして彼女は覚悟を決めて、我が身を餌にした選択を行った……正確にはそうなる様に私が押し付けた訳だが、それは彼女にとっても本意ではない。
願わくば広い海の中、伸び伸びと泳ぎたいだろう。狭い世界に押し込まれ、加護と言う名の虐待を受けていた彼女にとっては、尚更だ。
其処に、隙がある。大海を経験した彼女に湧いた、ホンの小さな隙間。そこをちょっとつつけば、砂上の楼閣は支えを失う。
――眩しい光は、中毒を齎す。一度の経験は、彼女を一生苦しめる。
覚えてしまった希望の味を、イキモノは忘れない。
――仄暗い闇は、恐怖を促す。過去の経験は、彼女を不安に貶める。
今までの食事が毒だと知った時、イキモノは、それを二度と口にしないだろう。
彼女が知ってしまった、些細な欲望。それを刺激してあげれば、ほら、簡単に掌で踊る。
――繋がれた絆は、決して断ち切れない。
アスナにとっては不安の、私にとっては期待の、私達の思惑が詰まった諸手は、奇妙な相互関係を生み、強固な鎖と化した。
「ここは何処なの?」
そんな不安に塗れた彼女の心境は、手に取るようにわかる。
こんな摩訶不思議な環境に突如連れて来られた、不思議の国の王女様は、もう一度――いや何度でも奇跡を願うだろう。
そんな彼女の心境を無視して、行動に移しても一切構わない。のだが、今日は実に機嫌が良い。
冥土の土産に教えて進ぜよう。
「此処はレザードの館。彼の研究や実験を遂行するために独自に作り出した、境界の狭間よ」
「境界の狭間?」
「そう、誰にも知られない――秘密の空間」
境界? 秘密? とアスナは呟いたが、それっきり彼女は口を閉ざしてしまった。どうやら彼女なりに言葉の意味を吟味しているようだ。
そんな彼女の涙ぐましい姿勢も、隠さずに言えば全くの無意味。大体、こんな事を聞いても何の意味も無いし、助けを期待しても無駄だ。彼の築いた空中楼閣は蜃気楼の如く、招かれざる者の侵入を阻む。
彼女はその事を理解できない。そして私が失伝魔法の理を詳しく説明する心算も無い。そんな彼女には、私の説明など異国の言語と同等に聞こえるだろう。
理解し合えない者達の雑談。そんな彼女の為に、空気を振動させる労力を惜しまないのは、偏に私の自己満足でしかない。
自身の成果を誰かに認めてもらいたい。それが話の伝わらない蛮族であろうとも、滑らかになる口を止める理由にはならない。
今の私は、案山子にも自慢げに話す事だろう。
「さぁ、着きました」
そうこうしている内に、目的の場所に辿り着いた。
私達の会話に横槍を入れなかったレザードは、ここぞとばかりに口を開いた。
「御覧なさい。王女よ、此処が貴女の墓場となる」
「え?」
彼女の声は、あからさまな空虚を伴い、真実を受け入れられずにいた。
それは彼女が、現状に追い付いていない事を如実に現している。
レザードから告げられた宣告も、確かに一因ではあるだろうが、変化に疎い彼女の人生に、現状が性急すぎるのも又事実だ。
「むー! むー!」
「……」
其処は、黄土色の実験室。簡易的に造られたその部屋には、猿轡を嵌められ、身体の自由を奪われた本国の高官と、生気を失ったように目の焦点の合っていない、薄汚れた一人の少女が居た。
高官は敷居の高そうな服に身を包み、肥えた身体を右に左に動かし暴れる。身体中ぐるぐる巻きにされた縄を断ち切ろうと努力するが、労力は泡と消えた。
その高官と反比例するかのように、薄汚れた少女の着る服は、布着れ一枚と奴隷の証たる首輪のみ。細々とした四肢は、まず第一に栄養が足りていない。彼女は縄に繋がれていないが、立ち上がるのも辛いのか、地面に腰を下ろし、足を抱え震えていた。
その光景を目の当たりにしたアスナの身体は硬直した。これを見て、これから起こる未来を彼女なりに思案したはずだ。
――確実に、良い方向には向かわないと想像できるこの状況で――いつかアスナは暗い経験に囚われる。
その時に垣間見える彼女の選択。選ぶのは光か、闇か。どちらに転ぶのかを思い浮かべ、傍から見定めるのも悪い気はしない。
我が身に降りかからない災厄の粉、傍観せし劇場。椅子があれば文句は無い。
交わるはずの無い運命の交差。
本来、関わるはずの無い五人の運命は接触し、錯綜した。
戸惑い、困惑する彼等はどのような未来を私に見せてくれるのか。
私達の思惑通りに事が進むのか。それとも、予期せぬ出来事が私達の前に立ちはだかるのか。
前奏の指揮杖を持つレザードと、私の視線が重なる。始まりの合図は、無言で遂げられた。
「人が死に、魂となって彷徨うのであれば、その魂と生きる神とは一体何なのか。私は考えていました」
説明も何も無く、幕開けは唐突に訪れた。呆気に取られる少女達を置き去りに、レザードは誰に語るでも無く、等しく平等に聞こえるよう、高らかに演説するかのように声を張り上げた。
「私は私なりの考えに至り、私の心のままに行動してきたのです」
其の声は天に向かって語り掛けられた。まるで其処に誰かが存在しているかのように。
「しかし、人や魂のように、真実もまた生きている。それは移り行く今を反映し、世界の変移を意味している」
不意にレザードは杖を振った。誰も予期していなかった彼の行動は、私達の視界を青と赤に染め上げる。
「クールダンセル」
三柱の氷の精霊は、順を追い踊るように刃を突き立てた。
衝撃は、役者達に襲い掛かる。
一人は恐怖に慄き、頭を抱える少女。災厄が頭上を通り過ぎ、降りかかる不幸に怯える矮小な存在。
一人は硬直を解き、口を塞いだ王女。鮮血が舞う不測の事態に、現実を直視仕切れない寸劇の主役。
一人は驚愕に震え、目を見開いた男。突き立てられた三つの剣に、崩れる体を支えきれない道化役。
「いや、いやあぁぁぁぁっぁ」
擦れた声で、小さな悲鳴を上げる奴隷の少女。次第にそれは嗚咽に変わるが、それが悲哀だけでなく、歓喜の感情が含まれている事を私は知っている。これこそが彼女の望みで、唯一の幸せ。
「何を嘆き悲しむと言うのです。これは、貴女の望んだ未来ではないのですか?」
両手を広げ、外套を靡かせる死霊術士は、三白眼を見下ろし、黒い弦月を形成した。
「なんで……」
誰に聞いたわけでもない、もう一人の少女の呟き。
目紛るしく変わる世界に、未だ思考が追い付いていないと思われる。それも仕方無い事だろう。馴染まない環境に四苦八苦するのは、誰でもあり得る事だ。
そんな悪夢と言っても過言ではないこの状況で、アスナが地に足をつけ大地に降り立って入られるのも、過去の体験が有るからに過ぎない。繋いだ手を、有らん限りの力で握り締めるアスナの小気味いい握力は、確かな変化を私に伝えていた。
「簡単な話よ? あの男はそこにいる少女の村を襲ったの。戦後の紛争と混乱に乗じてね。そのお陰で、少女は家を失い、親を殺され、姉は弄ばれた。そして自分は奴隷として、憎き男の世話をさせられる。
そんな少女の心に宿る物が何かなんて、考えるのが億劫になるくらい簡単な物じゃない? 私達は、彼女の願いを叶えてあげたのよ。復讐と言う名の、願いをね」
アスナは私を見上げた。彼女より頭二つ分ほど高い私の背丈だが、そこには歴然の差がある。
「それを、本当にあの子が望んだの? 無理矢理従わせることだって、できる」
ふむ、経験者は語るか。でも貴女のように、全ての人に白馬の王子様が現れるわけじゃない。
「そうよ? このままでは、彼女の未来には暗雲しか立ち込めていないもの。嬲られ、犯され、飽きられる。其処には、救いなんて無いわ」
貴女とは違う、もう一つの真実。少女の家族は既に送られた。それは森羅万象に遍く不変の死ではなく、彼等にとっては、魂の消滅に違いない。
「……そうかも知れない。でも貴女達なら、きっともっと違う方法で救える!」
何を馬鹿なことを……私達は全知全能の神ではない。土台、できたとしても――
「はは、そんな事に何の利益があると言うの?」
――有象無象の一つに、そこまでの価値など無い。
「……見ていなさい。これはまだ始まりに過ぎないのだから」
「プリズミック・ミサイル、シャドウ・サーバント…………バーン・ストーム」
次々と放たれる死の化身。それは、既に息をしていない、肥えた死体に向かって繰り出されていた。
破裂し、磨り潰され、焼却される肉体。過剰な攻撃は、一片の肉片さえ残さず命を塵に変えた。
充満する焦げた匂いと舞い散った血痕。それだけが、つい先程まで生存していた一人の男の存在を証明していた。
「行きますよ」
間髪入れず、呪文の詠唱を開始するレザード。その呪文は先程までの無詠唱魔法とは趣の違う、冷厳なる物だ。
「大気と冷気の精霊よ! 我、橋渡しとなり願うは婚礼の儀式。汝ら互いに結びつき、其の四方五千において凝固せよ!」
魔力流が立ち昇る。その呪文の詠唱は願いだった。様々な意味を内包している願いだ。神の冒涜と命の傀儡。そして、魂の具現でもある。誰もが願う、霊柩への抗拒とも言える。
呪文は止まらない。誰も阻止しない。――僅かな懸念は消えた。少女達はただ眺め、終わりが近づくのを待つだけだ。
呪文の進行と共に、微細の粒子がレザードの翳す手の先に集まる。それは結晶となり、次第に大きくなって行く。
やがて、研ぎ澄まされた剣と剣が重なり合うような、澄んだ音が響いた。そんな錯覚を起こしてしまいそうな、綺麗な音。
それと同じくして、悲しみも、喜びも、怒りも、全てを払拭する白光が周囲を照らした。それは、うつつとまやかしが交差し乖離する一瞬。
「……眩しい」
アスナの率直な感想は現状を確と現していた。瞳を焼くかと思われた圧倒的な光は、暫くの間、私達の色を奪った。
「さぁ、目を見開きなさい。素晴らしき日を、祝福しなくてはなりません」
一拍置いて聞こえてきた声。それは至近距離で光を浴びた、一番の被害者であるはずの術者の声。だが、届いた声は光に堪える事も無く飄々としていた。
色を取り戻した世界。私の瞳に映るのは、レザードに掌握された魂の結晶だ。鮮やかな光を放つその結晶は、レザードの手に“二つ”握られていた。
「ほらね、私の言ったとおりでしょう?」
余分に増えている結晶は、代替の品をもって変換されていた。
代償の少女の姿は無く、彼女の痕跡は幻に消えた。そんな少女は最初から居なかったと、記憶からも消し去るような綺麗な消失だった。
「ええ、正しく。これで、私達の勝利は磐石の物となりました」
序曲の演奏は盛り上がりを見せ、暫く暗幕に伏せられる。次曲の期待を胸に幕開けを待つ観客は、束の間の現実を味わった。
あとがきぃ
遅くなりました。今回のこれは前編です。
次回の後編にて、過去編は終了し、次々回より原作時間へと進みます。