それは数年ほど前の出来事―――オルタンスの父が存命で、まだロマリアの下町で生活していた頃のお話。
オルタンスは、いつも男物の服装でロマリアの下町を駆けずり回るのが日課のようなものだった。
若い人間ではあまり見かけない、まるで塩のように真っ白な髪を振り回して、市街地をネズミのように通り抜けるのである。
この時点での彼女は、自身を女性であると認識はしておらず、またそのつもりもまったくなかった。
姉のオリンピアや母親が、一生懸命に自分へ女物の服を着させようとすることに強く反発し、兄のお下がりの服を勝手に持ち出しては街へ繰り出していたのである。
下級貴族の子供たちを集め、まるでガキ大将のような振る舞いを見せていたのも、そうした行動の一環であった。
このロマリアの市街地には、オルタンスやその手下である下級貴族の子供たちと、常々対立している組織が存在している。
それは孤児院にいる平民の子供たちが中心となった、いわばリトル・ギャングとさえ呼べる集団であり、その集まりの指導者たる少年とオルタンスは、まさに宿敵といえる間柄でもあった。
彼らは毎日のように、口うるさい聖堂騎士たちの目の届かない所で、お互いにちょっとした抗争を繰り広げていたのである。
もっともそれは、傍から見ていればただの子供の喧嘩でしかなかった。当人たちは至って本気だったが、大人から見ればそう大した事態だとは受け取られなかったのだ。
―――普段ならば多人数同士で遭遇することが多い彼らだが、その日は少しいつもとは様相が異なっていた。
“トラステヴェレ”の外れにある公園。人気はほぼなく、その場で向かい合う人影は二つほど。いつもの賑やかな光景とはやや異なる光景の中。
豊かな金髪の少年が、それぞれ色の異なる瞳を挑発的に歪めながら、手にした紙袋を天高く持ち上げる。
よくよく見れば、彼の頬の片側は、ある一種のネズミのように丸々と膨らんでいるではないか。どうも、彼は口に含んだ何かを咀嚼しているようだった。
「ジュリオ! 今日という今日は許さないぞ。よくもぼくのパンを盗んでくれたな!」
「ふん。大事な食べ物をベンチなんかに置いて寝ているのが悪いんだろ? 腑抜けめ。さっさと帰ってママのおっぱいでも飲んでろ」
「この……っ!」
行き着けのパン屋で購入したパンを奪われ、その挙句に挑発を受けたオルタンスは瞬く間に感極まり、ジュリオという少年目がけて思い切り殴りかかった。
だが、それはジュリオの方も予測した行動であったらしい。彼はパンを飲み込むと、すっと身を引かせる。
そしてあっさりと身をかわされた上に、オルタンスが殴りかかって体勢が崩れたところを足払い。結果、白髪の少女の身体は正面から地面に倒れこんでしまった。
実にあっけのない勝負の付き方だ。ジュリオは内心で嘲りながら、崩れ落ちる“少年”を足蹴にしつつ、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「ふん。口ほどにもないな。手下がいなけりゃ、お前はこの程度なのさ。どうだ? そろそろ諦めて、負けを認め―――うわっ!」
そうジュリオが口にした瞬間だった。オルタンスは地面に指を食い込ませて土を手に掬い、自分を踏みつけている少年の顔目がけてそれを投げつけたのである。
この行動によって生まれた僅かな隙。それでも、反撃するのにはあまりにも十分な時間だった。
オルタンスはジュリオの脚を掴み、それに噛み付く。悲鳴を上げながら金髪の少年が体勢を崩すと、今度は自身の体重を使って彼を一気に押し倒した。
そのままマウントポジションを取ると、オルタンスはとにかく力任せにジュリオを殴りつけ始める。
「いてっ! くそっ、やめろ! あたたたたっ! わかった、俺が悪かった! 悪かったから、やめてくれぇぇぇっ!!」
「断る!」
せっかくの美少年も台無しなほどに、ジュリオはボコボコに殴られていた。
そんな苦痛を受けながら、彼はふと思い出していた。
かつて初めてオルタンスと出会ったときも、自分が“彼”の持ち物を奪い、それが原因でかなり痛めつけられたことを。
華奢でひ弱そうな貴族の子供に追いかけられ、とび蹴りをお見舞いされるなどとはまるで考えていなかった。その後顔中が腫れるほどの制裁を受けるなどとも……。
やがて、一方的な攻撃が数分ほど続いた頃だろうか。
遠く―――公園の入り口の方から、オルタンスを呼ぶ少女の声が聞こえてきたのである。
「オルタンス! ドレスを着ろなんて今日はもう言わないから、そろそろ帰って来てよぉ!」
「……ふん。今日はここまでにしとおいてやる。もうぼくの物を盗むなよ」
どうやら、やって来たのはオルタンスの姉であるようだった。若干クセのある金髪を伸ばした彼女は、妹の姿を見つけるなり駆け出したのだ。
「ああ、また悪ガキなんかと喧嘩をして……。そんな汚物と関わってはいけないとあれほど注意したでしょう?」
「でも、姉さま。こいつはぼくのパンを奪ったんです。盗みを行った人間に制裁を加えるには当然でしょう」
「もう。あなたは乱暴なんだから。それと、パンならまた買ってあげるわ」
「本当?」
「ええ。だから、“こんなの”と関わるのはよしなさい。どんな病気を持っているかわからないわ」
地面に伏すジュリオを思い切り見下しながら、オルタンスの姉―――オリンピアは憎々しげに吐き捨てる。
彼女は常日頃から、目に入れても痛くないほどに溺愛している妹に、いちいちちょっかいを出すこの平民の少年を酷く嫌っていたのである。
身分がどうとかではなく、これはもはや生理的な嫌悪であった。彼女は妹に絡もうとするほぼ全ての男性を忌み嫌っていたのだ。特にジュリオなどは、その筆頭であった。
すぐにオリンピアは妹の手を引いて、公園から去ろうとジュリオに背を向けた。
相手は貴族だった。とはいえ、ジュリオとしてはこのまま馬鹿にされっぱなしでは気分が良くない。最後に一矢報いてやろう。そんなふうに考える。
そう思ったが早く、彼は仰向けに倒れこんでいた体を一気に起こす。そして眼前の“姉弟”が振り向く間もないまま、オルタンスのズボンに掴みかかった。
否、本当はズボンに手をかけるつもりなどはなかった。だが、何分手ひどく痛めつけられていたので、意図せずして体が姿勢を崩してしまったのだ。
崩れ落ちながらも、少年の手はズボンから離れなかった。それはつまり、彼の体が地面に向かうと共にズボンまでもが引きずり下ろされることを意味するのであり……。
「……え?」
次の瞬間。崩れ落ちたジュリオの視界に、決して見てはならないはずのものが飛び込んできた。
不躾にもそれをまじまじと見つめた後。空気が凍りつき、膠着状態となったその場で彼が発したのは、なんとも間抜けな一言だった。
「お前、女だったのか……」
そんなジュリオの台詞と共に、オリンピアが風のように行動。瞬く間にオルタンスのズボンを元あった位置に引き戻し、そのままジュリオに蹴りを叩き込み始めた。
無言で、しかし鬼のような形相で、金髪の少女は年下の少年に容赦のない蹴りを打ち込み続ける。
だがしかし、さすがに殺してしまうのはまずいと感じたのだろう。
ジュリオが地面を両手で叩き始めたところで蹴りを止めたものの、オリンピアの頬は紅潮し、息は大きく乱れていた。
次に、すっかり腫れ上がってしまった瞳で、ジュリオはオルタンスを見上げた。
一体自分はどんな制裁を受けるのだろうか。この人間のことだから、もしかしたらもっと痛い目に遭うかもしれない。そうは考えたが、体が動かないのでもうどうしようもなかった。
「……」
だがオルタンスは一切なにも口にせず、ただ顔を手で覆って俯くばかりだった。
見れば、彼女の耳は真っ赤に染まってしまっているではないか。やがて、彼女はなにも言わずに公園から走り去って行った。
オリンピアはそのすぐ後を追ってしまったので、後にはズタボロに痛めつけられたジュリオだけが残されたのである。
まさか長年(?)の宿敵が女だったなどとは露知らず。その真相を知った今でも、彼は訳もわからぬまま、ただ呆然と呟いた。
「見られたのが、そんなにショックだったのか……?」
そんな言葉を残した後、ジュリオの意識は掻き消えてしまうのだった。
―――件の事件から、一月ほどが過ぎた頃。
太陽が地平線の彼方に沈み込みそうになるころ、例の公園にて、ジュリオは再びオルタンスと対面することとなった。
彼女はいつものごとくパンの紙袋を手にしていた。そして、金髪のオッドアイの少年を見るなり、そのひ翡翠のように輝く瞳を細めたのである。
今まで、喧嘩でお互いに殴り合いを繰り広げて来た相手が女性だったと知り、ジュリオはどうにも気後れしそうになってしまう。
彼は本当に女性から好意を得るのが得意な少年で、それなりに場数は踏んできた。
なのに、ことオルタンス相手となるとその経験を生かどうにも生かせなくなってしまうのである。
まして、先日“あんなこと”があった後である。自分が、異性相手に暴力を働いていたという事実に対する気後れもあり、彼が黙して俯いていると。
突然、彼の顔面に革靴がめり込んだのだ。
とてつもない威力だった。鼻から血を噴出しながら、ジュリオは思い切り後ろに向かって吹っ飛ばされた。そして、したたかに背中を地面に打ち付ける。
「げほっ、げほっ……。ぐっ、この……、いきなりなにをしやがるんだ!」
「この前のお返しだ。生憎、自分に男のズボンをずり下げる趣味はないんでね」
抗議をしつつ、よく見れば、オルタンスは短パンの上にスカートを穿いている。
これまでは男物の服装しか着ていなかったのに、今はかなり女性的なファッションをしているのだ。
「ふん。女だってバレた途端にそれか? 手加減してもらえるとでも思ってんのかよ」
「それはないな。ただ……、きみのおかげで、『自分が女だということ』は嫌というほど痛感させられたよ。礼を言う」
礼を言うという台詞と共に、地面に崩れ落ちたジュリオに向かって勢いよく踵が落とされる。しかし、それは寸でのところで回避された。
夕暮れ時の光のせいなのだろうか。彼女の頬に、若干の赤みが差しているようにジュリオからは見えた。
「礼が踵落としかよ。これはまた粗暴な女だぜ」
「ふん。その粗暴な女ごときに敗北を喫してきたのは自分だろうに」
「言うなぁ。ちょうどいい、お前がいなくて腕が鈍っていたんだ。今日は本気でやらせてもらう。“白い悪魔”さんよ」
「なんだ、それは」
「知らないのか? 孤児院の連中の間でお前に付けられたあだ名さ。その老人のような髪の色、悪鬼のような振る舞い。まさにうってつけだろ?」
「……っ」
オルタンスが常日頃から自分の髪の色を気にしていることはジュリオも知っていた。しかし、あえてそれを口にすることで彼女を挑発したのである。
「……ふん。そんな減らず口を叩いたこと―――後悔させてやる」
「それはかませの台詞だぜ。ぶっ飛ばしてやるよ、三下が」
そして、二人は何事もなかったかのように争いを始めた。
喧嘩はその後もしばらく続き……。それが終焉を迎えることとなったのは、ジュリオが若き枢機卿ヴィットーリオ・セレヴァレ付きの神官となる日の前日のことだった。
*
―――どれほどの時間が過ぎ去ったのだろうか。ジュリオが目を覚ましたのは、見慣れない部屋にあるベッドの上だった。
ふと周囲を見回してみると、すぐにベッド脇に置かれた椅子に腰かけた少女の存在が目に飛び込んでくる。何を隠そう、それはオルタンスだった。
彼女は本を読んでいる途中で眠ってしまっているようであり、ジュリオにその無防備な寝顔を見せつけている。
まったく、普段はしかめっ面ばかりしているくせに、寝顔は可愛いものだ。
男が同じ室内にいるというのにこんなにすやすやと寝入っているとは、あまりにも警戒心が薄いのではないか。そんなことを考える。
「ここにぼくという男がいるのにね。男は皆オオカミ……とは誰の台詞だったか」
小さく呟きつつ、ジュリオはベッドから抜け出した。そして椅子で眠りこける少女の元へと忍び足で近寄り、その寝顔をまじまじと観察する。
さらさらとした白い髪。長いまつ毛。小さな造詣の鼻。ほんの少しばかり開いた、淡い色の唇。そのどれもが高い精度で生み出された造形物のようだった。
それらがあまりにも無防備なまま放置されているのだから、思春期の少年にしてみれば手を出すなと言う方が無理だった。
無意識に、ジュリオは腕を上げた。そしてその手をオルタンスの顎に向かって伸ばしたとき―――不意に、背後から気配を感じたのである。
「……気配を消していたのか?」
「いや? わたしはずっとここに座っていただけですよ。神官殿」
ジュリオが慌てて振り向いたとき。背後では、金髪を短く切りそろえた女……アニエスが、なんとも言い難いニヤニヤとした笑みを浮かべて座していたのである。
……馬鹿な。自分が他人の気配に気が付かぬはずがない。もしや、オルタンスに夢中になっていたせいで見逃したのだろうか。
オッドアイの少年は、努めて冷静な、心臓がバクバクと鼓動している自身の状態を決して悟らせぬよう、慎重に振舞う。
「わたしはなにも見てはおりませんぞ。神官殿がオルタンスの顎に手を添えて、くいっと顔を自分の方に向かせようなどとしようとしていたとは知りませぬ」
「……全部見ていたんじゃないか? まったく、食えない人だ」
「はっはっは……。ま、わたしは見ているだけです。若い男女の色恋は傍から眺めているだけで十分です」
「貴女だって、十分に若い……というか、まだ十代じゃないんですか?」
……妙に老けた女だ。そんな感想を抱きつつ、ジュリオはベッドに腰を下ろした。
そういえば、自分はあのオリンピアに飛び蹴りを食らったはずだがと思い、顔にぺたぺたと手を触れてみる。しかし、目立った外傷はないようだった。
「神官殿の傷は、オルタンスの母君が癒してくれましたぞ。いやはや、やはり魔法というものは便利ですな」
「そうか。後でお礼を言わないといけませんね」
聞いてもいないのに、この女性はよく答えてくるものだ。さっきからずっとニヤニヤしっぱなし、というのがどうにも気に食わないところではあるが。
「ん……」
「おや、眠り姫のお目覚めのようですな。それでは、若い男女で御緩りとすることです。はっはっは……」
椅子の上のオルタンスがゆっくりと瞼を開くと共に、アニエスはそんな台詞を残して部屋を出て行ってしまった。
「げ……。もう起きていたの。あれだけ吹っ飛んだのに」
「はは。昔きみに散々食らった蹴りに比べれば、あの程度どうということはないさ」
「……ふぅん。じゃあ、もう何回か蹴るように姉さまに頼んでみようかしら」
「それは勘弁してくれ」
「嫌なら嫌だって、最初からはっきり言えばいいのに。無闇に格好つけて……」
一旦立ち上がり、本を椅子の傍にある棚に置きながらオルタンスは言う。そして彼女は再び椅子に腰掛け、脚を組んだ。
「……で、体が治ったのなら、さっさと帰ることをお勧めするわ。姉さまを押さえるの大変だったんだから。さすがに神官殺しなんてしちゃったら即異端審問だろうし、それは避けたいのよ」
「きみはお姉さん想いだね、昔から」
「それは、ね。自分の姉だから」
「その愛情の一片でもぼくに向けて欲しいものだが……、駄目かな?」
「調子に乗るな」
きらりと真っ白な歯を見せながらのジュリオの言葉を、オルタンスは実にばっさりと切り捨ててしまった。
それを見たジュリオは一旦落胆の色を見せ―――しかしすぐに、表情を引き締めた。先ほどまでのおちゃらけた雰囲気はなりを潜め、一気に空気が張り詰める。
この様子を見た白髪の少女は“何か”重大な話があるのだろうと感じ、半眼になっていた目を元に戻した。
そして眼前の少年が口を開く前に、彼女の方から静かに問いかけるのだ。
「……なにか、話があるようだけれど」
「うん。実を言うとね、今回トリスタニアへやって来たのは、大司教への御遣いの他に、もう一つの目的があるからなんだ」
オルタンスの内心の予想通り、ジュリオは彼女に用があったらしい。それはそうだ。ただの御遣いなら、わざわざジュリオを出してくる理由はないのだ。
となると。ここで考えられるもっとも大きな可能性とくれば……、それは、もう一つしかないのは明白だった。
オルタンスが黙してジュリオを見つめていると。オッドアイの少年は若干気後れした様子ながら、しかし明確な口調でその言葉を発するのである。
「その目的というのは……、きみに求婚することだ!」
「帰れ」
一閃。ジュリオは瞬く間に蹴り飛ばされ、そのまま廊下へと放り出された。部屋のドアは堅く閉じられ、もう人力で開けることは不可能でさえあるようだった。
先ほどまで自分がいた部屋はどうも客間であるらしい。一瞬だけオルタンスの部屋でないかと期待したが、それは考えが甘かったようだ。
立ち上がり、ぱたぱたと服についた埃を払い落としながら、オッドアイの少年は小さく呟く。
「やはり今はまだ早いのかもしれないよ。アンリエッタ王女とも懇意にしているようだし……。そうだな。聖下だって、きっとわかってくれるさ」
その言葉と共に、彼は屋敷の廊下を進んでいく。
やがて彼の姿は廊下の曲がり角の向こう側に消え、そのまま、彼の姿はどこにも見えなくなるのだった。
*
翌朝のマザリーニ邸。
母親の『スリープ・クラウド』で強引に眠らされていたオリンピアが飛び起き、オルタンスの私室へと突入してから数分後。
未だネグリジェ姿でウトウトとしたままの妹を抱きしめながら、彼女は延々と妹の体に異常がないかどうかを調べ上げていた。
……それは十分近くも続き、とうとうその魔の手が下着へ伸びたところで、ようやく意識を覚醒させたオルタンスが姉の手をばしっと振り払ったのである。
「朝っぱらからなにをしているのですか、オリンピア姉さま」
「ああ! だってわたし、心配で心配で……。わたしが眠らされてしまった後、あのろくでなしにあなたが悪戯されていないか心配なのっ!」
「ご心配なく。なにもされていませんよ。ふざけていたので部屋から追い出したら、そのまま帰ったようです」
睡眠中に乱れたらしい髪へ手を触れながら、オルタンスはうんざりとした様子で言った。
するとオリンピアは、妹へすがるように、じっとりと額に汗を浮かべつつ問いかけるのだ。
「ほ、本当?」
「……わたしを信じてくれないのですか、姉さま」
「あ……! う、ううん! そんなことないっ! お姉ちゃんはあなたを信じているから! たとえ世界中があなたの敵になっても、わたしだけは最後まであなたの味方だから!」
……どこまでも暑苦しい姉だ。
実際問題、ジュリオよりこいつの方がよほどオルタンスにとっては脅威なのである。先ほどだって、この姉は妹の下着に手を突っ込もうとしたではないか。
姉として妹のことを心配してくれるのは大変ありがたい話ではあるが、この人物の場合は少しそれが行き過ぎだと思うのだった。
そんな感情を込めながら、じっとオリンピアを見つめていると。急に、彼女はなにかを思い出したかのように顔を上げた。
「……あ、あのね、オルタンス。お姉ちゃん、あなたの拳銃を取り上げたでしょう? 今思うと、やっぱりああいうことはよくないと思ったの。だから返すわ」
そう口にしつつ、彼女はずっしりとした重い拳銃をオルタンスに手渡す。それは昨日彼女が妹から取り上げたコルトM1991A1であった。
「いいの? 姉さまはわたしにこういう物を持たせたくないようだけれど」
「いきなり取り上げるのはやりすぎたわ。でも、出来ればわたしはあなたに武器なんて持ってほしくないのよ」
「……魔法が使えない以上、自衛の手段は必要なんです」
オルタンスは『爆発』を使うことはできる。ただ、それは正式な魔法とは呼べないし、できれば使わずに過ごしたいという思惑もあった。
だからこそ、アニエスに剣と銃の使い方を習ったのだ。もっとも、さすがに近代的な拳銃はさすがのアニエスでも使い方がわからなかったようだが。
「だったら、わたしが守ってあげるわ。ずっとお姉ちゃんと一緒にいましょう?」
「それは嫌です。今は涼しいからいいですけど、夏だったらとっくに突き飛ばしてますよ」
「そ、そんな……」
いい加減、いつまでもくっ付いていてほしくはないものだ。ぴしゃりとオリンピアを制したオルタンスはベッドから立ち上がり、いそいそと服を着替え始めた。
背後から熱い―――暑苦しい視線を感じてはいたが、もういちいち突っ込むのも面倒なので、とりあえず放置することにした。
「はぁ……」
なんだか背後からそんなため息が聞こえてくるが、一体何を見てそんな感嘆のため息などついているのかなど、オルタンスは考えたくもなかった。
……やがて着替えが終わると、オルタンスはとりあえず朝食をとるために食堂へ向かうことにした。
オリンピアも同行するつもりのようで、さっさと服を着替えてしまっているようだ。一体いつ着替えたのだろうというほどの早業である。
「今日の朝食はなにかしら。昨日のお夕飯は食べ損ねてしまったから、お腹がぺっこぺこなの」
そんなことをオリンピアが口にしながら妹の肩に体を寄せ、それを無視するオルタンスが部屋のドアへ向かおうとした、そのときのことだった。
誰かが廊下を慌てて走る音と共に、急に何者かが二人がいる部屋へと飛び込んできたのである。そしてそれは、長兄してマンチーニ男爵のポールだった。
「た、大変だ、オルタンス! ……ああ、やっぱりオリンピアもここにいたのか!」
「……どうしたのですか、ポールお兄さま。そんなに慌てて」
「こ、これが慌てずにいられるか! いいか、落ち着いて聞けよ!」
まず兄さまが落ち着いたらどうなのだろう。オルタンスはそう思ったが、なにやらただならぬ様子であるため、決してその言葉は口にしなかった。
そして、二人の妹たちが見守る中。ポールは、努めて冷静な声音でその言葉を口にした。
「今日の未明、陛下が―――国王陛下が、王城で息をお引き取りになられたそうだ」