時刻は早朝。ラグドリアン湖の水面を漂う浮き島の一つに設けられた、とある居室。
この場所は、あくまでも一時的な滞在の場であるからなのか。
それほど広さがない、質素な作りの部屋の隅に設置された、簡素な作りのベッドの上で一人の白髪の少女が目を覚ました。
あまり寝付きがよくなかったのだろう。大きなエメラルドグリーンの瞳の下部には、まるで木炭で線を引いたような“くま”が横切っていた。
平時ならばさらさらとしているセミロングの頭髪は、どうも手入れが行き届いていないらしい。睡眠中に手酷く荒らされてしまったようだ。
ふと、なんとなく己の髪に手を触れた少女は、思わぬそのごわごわとした感触に少々の驚きを覚えた。
普段、姉といるときならば。必要以上というか、とても気合を入れて丁寧に手入れをしてくれていたのである。それが、ここ二週間はなかった。
自分ではそれなりにきちんと髪の手入れをしているつもりではあったのだが……。
もっとも、本人が気づいていないだけで、そのやり方には大きく問題があったらしい。
幼い頃から姉に髪の手入れを丸投げしていたが故に、彼女本人は、そういった技量には欠けているのであった。
カーテンがしっかりと閉じきられた部屋の内部は薄暗い。朝日は既に地平線の彼方から顔を出しているというのに、ここばかりはその様子がまるで窺えない。
そして、そのとき。何を思ったのか、寝起き眼で意識がおぼつかない少女は、ろくに身の回りの確認すらせずにベッドを這い出ようとしたのである。
結論から言えば、その迂闊な行動とても大きな失敗だったと言わざるを得ないだろう。
なぜならば、彼女が這い出ようと移動したその先には……。
「あっ」
……どうしたことだろう? 今、自分の手の甲の下辺りから、妙な声が響いてきたような気がする。
手のひらに伝わってくる感触といえば、いつかのスポンジを思い起こさせた。しかし、微妙に熱を帯びたそれの中身は、決して石油製品などではないわけで……。
本来ならば一人でこの部屋を使うべき少女は、嫌な予感を滲ませながら、恐る恐る“本来いるべきでない人物”へと問いを投げかける。
「……アンリエッタ?」
そう口に出してみて、少女は自らの口内に違和感があることに気が付いた。それが一体なんなのかはまるでわからないけども、どうしてかそう感じたのである。
しかし。
その事案は彼女にとって特に重要なウェイトを占めることもなく、実にあっさりと脳裏から消え去って行った。
なぜならば、声をかけた次の瞬間には。先ほどまで少女が使用していた薄手の毛布から、一人の栗毛の少女が顔を覗かせたからであった。
アンリエッタと呼ばれた栗毛の少女の容姿は、毛布からはみ出している僅かな部分からでも、端麗に過ぎるものであると理解できた。
だが、恥ずかしげに視線を自分から逸らす。アンリエッタを見た白髪の少女の反応はといえば。どうにも萎えているというか、呆れたような態度を取るばかりだ。
小さくため息をつきながら。彼女は、相変わらず毛布から出ようともしない“友人”へと声をかける。
「昨晩仰っていたでないですか。今日は園遊会の最終日だから、朝から大事な用事があるって。こんなところで油を売っていていいのですか?」
「でもオルタンス。あなた、ここのところずっと元気がないじゃない。理由を聞いても曖昧な返事ばかりするし……。せめて元気付けてあげたいのよ」
「……ご好意はとてもありがたいのですけれど、毎日毎日わたしのベッドに潜り込むのは、やめていただきたいのですが……。かえって気が滅入ります」
「そんな!」
「信じられない」とでも言いたげなアンリエッタの言動に、オルタンスは今度ばかりはとても深いため息をついた。
確かにここ数日、オルタンスは自分でもあからさまに気落ちしていると感じてはいた。人前では気丈というか、普段と同じように振舞っていたのだけども。
さすがにマザリーニの目は誤魔化せなかったらしく、「しっかりと休養を取りなさい。何か悩みがあるのなら、誰かに相談するのだよ」と釘を刺される始末だった。
自分が落ち込んでいる理由。それについては、とうに見当がついている。というか、もう一つくらいしか思い当たる節がない。
ただ、それを認めてしまうことは出来ずにいた。いくらなんでも、自分の裸を異性に見られたから落ち込んでいた、とは表立って言い出せるはずもない。
“それ”に落ち込んでいる自分の心境すら、彼女自身にとっては完全に理解できるものではなかったのである。
自意識過剰といえば、そうなのかもしれない。自分がいつまでも気にしているのがおかしいのかもしれない。
あるいは、“こんなもの”がおもいきり視界に入ってしまったウェールズこそ迷惑であったかもしれない。
あの視線も、はしたない所業を働いていた自分を咎めるものだったのかもしれない。項垂れつつ、自らの年齢相応な体躯を視界に入れながら、思案する。
やはりというのか。大したことではない、と考えれば考えるほど、頭の中がこんがらがっていくような感覚を覚えるばかりだった。
「どうしたの? 本当に具合が悪いなら、診てあげましょうか? 応急処置くらいなら……」
「……いいえ、違うんです。本当、ただわたしがナイーブなだけで……」
「? ……とりあえず、無理はしないでくださいまし」
「はい。心得ました」
ふと考え込んでしまったからだろう。座り込んだまま、アンリエッタはオルタンスを心配そうに見やっていた。
同年代の、少しだけ年下の少女の小さな手を取る。それはひんやりとしていて、またどこまでも儚げだった。
いつかのトリスタニアで、暴漢へ勇敢に立ち向かって行った“彼”と同一人物であるとは、到底信られじようがない。そう感じずにはいられなかった。
だけども、それが人間というものだ。
強い人間とて弱点はある。むしろ無い方が不自然だし、弱点のない人間など、御伽噺の中ですらめったに存在しないのである。
普段はそれなりに態度を取り繕っているオルタンスが、そういう面を自分だけに見せてくれる。それはアンリエッタにとって非常に喜ばしいことだった。
出来ることなら、一方通行ではなく。自分も頼って欲しいと考えていたのだ。
「……言葉遣いだって、普通にしてくれて良いのに」
「え?」
「いいえ。なんでもありませんわ。それより、そろそろ時間です。今日で園遊会も終わりですから、あともう少し頑張ってくださいね」
小さな呟きを耳にした少女が、小さくこくりと首を傾げる仕草。アンリエッタはそれがどうにも無性に愛おしくなってしまう。
思わず眼前の少女を抱きしめようと、体が無意識に動きそうになりつつも。直前に自分が告げた言葉が、それに待ったをかけた。
いつまでもこうしていたのは山々だけども、やはりそれは許されない。王族としての務めを果たさねばならないからだ。
少しばかり名残惜しく感じつつも。アンリエッタは、そそくさとベッドから足を下ろした。
「それでは、また後で」
「殿下もお気をつけて」
「あら、また殿下と呼ばれちゃったのね」。
口には出さず、そんな言葉を脳裏で抱きつつ。のそのそと着替えを始めた少女を置いて、アンリエッタは歩き出すのであった。
*
園遊会も最終日。
この日も、オルタンスはマザリーニに連れられ、いつものように貴族と引き合わされていた。
背筋を伸ばし、顎を引く。会話中に笑みは絶やさず、どんなものだろうと相手の話をしっかりと聞いて相槌を返す。
これまでの幾百もの会話の中で彼女が積極的にやって来たことと言えば、その程度だった。
王族でもなんでもない彼女に、王女のようなパフォーマンスを期待する者はいない。最低限、マザリーニの足を引っ張らぬようにすることだけ考えればいい。
実際、控えめな箱入りの少女然として振舞ってさえいれば、決してボロを出すことはなかったのである。
もっとも、そうして付け焼刃で慣れぬ振舞いを続けることは、少なからず彼女の心身に負担を与えてはいたが……。
あっという間に時間は過ぎ去り、段々と日が落ち始める。いよいよ、園遊会もクライマックスへと近づいていく頃合である。
このとき、オルタンスは一人で行動していた。アンリエッタやルイズ、マザリーニの姿はない。
もう貴族と引き合わされる予定はなかった。かといって、王族であるアンリエッタはまだ忙しいし、マザリーニもそれは同様だった。ルイズの姿も見えない。
顔なじみの人間とことごとく引き離されてしまったが故に、彼女はただ一人でさ迷うしかなかったのだ。
ゆっくりと、大勢の貴族たちで溢れかえる湖上の舞踏会場を、オルタンスは一人で進んでいく。
特に目的もなく、視線をたゆたわせていると。ときおり、見覚えのある顔の人物の姿が散見された。だが、いずれも己に向けられた視線には気がつかない。
人一人がやっと通ることが出来るだけの狭い空間を、白髪の少女は静かに通り抜けて行った。
これだけ多くの人間がいるというのに。どうにも、自分は孤独であるように感じてしまう。どこか疎外感のようなものを覚えるのだ。
あらゆる意味で、彼女は“異質な”存在であるからなのか。ここに集う人間たちと、根本部分で何かが異なっているのか……。
あるいは、それは周囲へ溶け込む努力をしない自分の甘えなのだろうか。
いずれにせよ、この空間は今のオルタンスにとっては、あまり馴染みやすい空間であるとは言えなかった。
そのまま、誰とも顔を合わせることはなく。彼女は人ごみを抜け、人気のない方向へと歩みを進めて行った。
少し歩くと、会場施設の突端部分へとたどり着いた。この付近にまともな照明はなく、ただただ周囲は闇に支配されるばかりである。
転落防止用の木製柵に身を預け、オルタンスは小さくため息を吐いた。
そのたった一回の吐息に、今日までの二週間に体験した出来事に関する、様々な思いが詰め込まれていた。
慣れない場所での、慣れない貴族たちとの面会。自分を品定めする、ずっと年上の貴族たちの不躾な視線。そして、家族と離れての生活。
それらが一気に吹き出ていくのである。
……だが、あまりそういうことを考えるのはよくないだろう。もう園遊会は終わるのだ。そうすれば、またいつもの日常へと戻ることが出来る。
ポジティブに行こう。くだらないことで気を病んでも仕方ない。過ぎてしまったことは流して、先々のことへ視点を移そう。
「……そろそろ、戻ろうかな」
時間にして十分ほどだろうか。柵に寄りかかったままぼうっと過ごすのをやめて、彼女は一人呟く。そして、歩き出した。
この場所が薄暗い理由の一つに、ちょうど船室が会場の明かりを遮ってしまっているのが挙げられる。つまり、双方の視界も遮られているのである。
ちょうど、曲がり角にまで到達したときであっただろうか。船室の向こう側から、何か大きな物体が飛び出してきたのだ。
ぽふっと軽い音立て、オルタンスは見事にその人物へと突っ込んでしまった。
「あっ、す、すみません」
「いや、余も余所見をしていたな。謝ろう」
「……余?」
恐る恐る、オルタンスは顔を上げる。そして、目を大きく見開いた。
彼女がぶつかってしまった相手は、どうも背の高い三十男のようであった。特徴的な青い髪に、がっしりとした筋肉質な肉体。そして美髯を湛えた面。
そう。突如としてオルタンスの眼前に現れたのは、“あの”ガリア王ジョゼフであった。
将来的にルイズたちが立ち向かうことになる、最大の敵と言ってもいい、あの無能とはいえない“無能王”だ。
確かに、この園遊会にも参加していたとは聞いていたが。
まさか、こんなところで遭遇することになろうなどとは。オルタンスは微塵も考えていなかったのである。
ただただ驚きをもって、少女はまじまじとジョゼフを見つめる。そこには驚きこそあれど、この園遊会の参加者のほぼ全員が向けてきた、ある感情が存在していない。
優秀な弟を追いやっての即位。魔法の才を持たない王。それに対する、侮蔑。軽視。
それら全てがなかった。あのアンリエッタ王女ですら、ジョゼフとの面会時には、若干の不信感を持って当たったのである。
それが、ジョゼフが見下ろしている少女からは感じられなかった。興味を抱きこそすれど、悪感情というものは伝わって来なかったのだ。
……それは、ほんの少しの時間であったのか。あるいは何分もの間であったのか。
いずれにせよ、その澄んだ瞳でジョゼフを見つめ続ていた少女は、何かに気が付いたらしい。恥ずかしげに、急に視線を逸らしてしまった。
「す、すみません。じろじろ見てしまって。失礼します」
「待て」
「!?」
その場から走り去ろうとするオルタンスの肩を掴み、ジョゼフは彼女をその場へと押し止める。振りほどこうにも、少女の力では大柄な男性に抗う術はなかった。
ほんの一瞬だけ、逃げようと頑張ってみるのであるが……。早々にそれを無理だと判断し、オルタンスは逃走を諦めた。
やむなくジョゼフへと向き直り、自分よりもずっと背の高い男性を呷り見る。
オルタンスは、表向きは平静を装ってはいるものの。内心では、心臓が破裂しそうになるほど鼓動を速めていた。一体何を言われるのか、それが恐ろしくてたまらなかったのである。
それでも、なんとか彼女は堪えた。あくまでも毅然として、開き直った態度を取ったのである。
しばらく、翡翠色の瞳を食い入るように見つめたあと。どうにも腑に落ちない様子で、オルタンスの肩を掴んでいた手を離し、ジョゼフは唐突に口を開いた。
「……いや、余の思い違いであったようだな。行っていいぞ」
「え?」
あまりにもあっけない一言だった。それきりジョゼフはオルタンスから興味を失ったらしく、一方的につかつかと歩み去って行ってしまった。
何が起きたのか理解できず、ただただ、白髪の少女は唖然と立ち尽くすしかなかった。
―――しばらくの後。オルタンスの視界から外れたころ。人気のない場所でジョゼフは立ち止まり、己の顎に手を添えながら独りごちる。
「ふむ、おかしいな。一瞬だけ、あの娘から『同類』のような気配を感じ取ったのだが……。いや、しかし……」
“無能王”は、珍しく真剣な表情で考え込む。、蔑称からは想像も出来ないほどの、理知的な光を瞳に灯しながら。天に輝く双月を呷り見つつ、呟いた。
「嫌になるほど澄んだ瞳だ……。まるで、あいつの……。シャルルのように……」
彼は何を思うのか。舞踏会の会場へ戻る道中の少女は、ガリア王の心情など知る由もなかった。
夏の夜は更けていく。まだ誰も、この先に待ち受ける重大な出来事など知りもせず。ただただ宴に興じるばかりであった。
*
それから、数時間後。
園遊会は無事に終了し、今夜がラグドリアン湖で過ごす最後の夜となった。
自らに割り当てられた部屋で王女が休んでいると、そんな彼女の元へ、いつものようにオルタンスが現れた。
アンリエッタはといえば、ベッドでうつ伏せになって、ぐったりとしてしまっている。それはそうだろう。最終日ということもあって、今日は多忙を極めたのだから。
ちなみに、オルタンスは暖められたミルクの注がれたカップを手にしていた。侍女の女性が気を利かせたのである。
「あぅ……。オルタンス……。お疲れさまですわ」
「で……。アンリエッタこそ、お疲れさまでした」
ネグリジェ姿の王女は酷くだらしない様子で、自分の元へとやって来た友人の名を呼んだ。しかし、どうにも威厳がない。
横になり、ふにゃふにゃとしたあやふやな口調で言うのだから当然である。舞踏会では気張っていたためか、どうにもギャップが大きい。思わず、笑みがこぼれる。
「どうして笑うんですの?」
「いえ……。もう“見慣れている”けど、人前で取る態度とあまりにも違っているなって」
くすりと目を細めるオルタンスの姿を目にして、アンリエッタは憤慨した様子で口を開いた。
「それはそうですわ。わたくしだって人間だもの。四六時中気張っていたら、いつか倒れてしまいます」
「ん、それはそうだよね。ミルクがあるから、まずは起きてくださいな」
「体が言うことを聞きませんわ。どうか口移しで飲ませてくださいまし」
「無理言わないでください」
王女の無理な要求な軽く切り捨て、オルタンスは呆れ顔でベッドへと腰掛ける。すると、観念したのかアンリエッタは身を起こし、隣へと並ぶ。
礼を言ってカップを受け取りると、やけに熱いミルクが注がれていたことに顔をしかめる。湖上で陸地より気温が低いとはいえ、冬場とは違いそれなりの気温があった。
ふと横の少女を見ると、熱いカップを両手の先で掴み、一生懸命になってミルクに息を吹きかけている。
その仕草と来たら、わざとやっているのではないかと勘ぐりたくなるほどに“くる”ものがあった。思わず抱きしめてしまいたくなる。
だが、それを実行に移すことは出来なかった。
カップが並々と満たされた状態でそんなことをすれば、次に待っているのは大惨事だ。
……ミルクまみれ、というシチュエーションもあるにはあるが。このときの王女殿下はそれを知らず、また思いつきもしなかった。
やがて、ようやくミルクを飲み干した頃になって、もう一人の訪問者であるルイズ・フランソワーズがやって来たことで、ハグ計画は完全に破綻したのである。
アンリエッタの脳内はかなり妙なことになっていたが、それに負けず劣らず変なことを言い出したのはルイズだった。
「姫さま。お疲れでしょう。マッサージして差し上げますわ」
などと宣言するなり、ルイズはアンリエッタを無理やりベッドへ横にさせた。そして、自分は腰の辺りに飛び乗ったではないか。
……と思いきや、いきなりアンリエッタが着ていたネグリジェを剥ぎにかかったのである。無論、これにはアンリエッタも抵抗した。
「る、ルイズ? なにをしているのですか?」
「姫さま。お疲れでしょう? この間、父が寝室で母にしてあげていたのですわ。きっと、布越しじゃなくて直にした方がいいのでしょう。母もとても気持ち良さそうでした」
……それは、本当にマッサージなのだろうか? オルタンスは“その”光景を想像してしまい、思わず赤面する。
そんなことを考えている間、孤軍奮闘を強いられていたしアンリエッタはとうとう折れ、服を捲くるだけならと承諾した。
こうして、一方的な宣言の下、ルイズは親指でアンリエッタの背中を押し始めた。ときおり肩甲骨の周囲を押したり、首筋まで押すこともする。
「ん……」
最初はあまり乗り気でなかったアンリエッタも、自分の体が思っていたよりもこっていることに気が付いたらしい。今は目を閉じて、ただされるがままになっている。
本来こういうのは侍女の仕事なのだろう。だが、アンリエッタは、ほとんど毎日いろいろな貴族と顔合わせをしている。
そして就寝前の時間は、人払いをしてオルタンスとルイズを部屋に招き入れているので、そういう時間がなかったのであろう。
手持ち無沙汰になってしまったオルタンスも、ルイズに倣って作業を始めることにする。むき出しになっていた素足を手に取ると、適当に指で押し始めたのだ。
もちろんどこがツボだとか、そういう知識はなかった。あまりに適当にやるので、そのうちアンリエッタがくすぐったそうな声を上げてしまう。
「お、オルタンス。くすぐったいわ。……その、あまり足をくすぐらないでほしいの」
「だめかなぁ……」
オルタンスはお役目御免となってしまった。しかたなく、部屋の中に置かれたチェアーへと腰掛けた。そして、身を埋める。
ルイズはルイズで一生懸命にやっているものの、素人なので動きはかなりでたらめである。
しかし、なぜかそんなルイズのマッサージは意外と効き目があるらしい。アンリエッタは思いのほか気持ち良さそうだった。
もしや、ルイズにはマッサージ師の才能でもあるのだろうか。恐らくは、まったくの偶然なのだろうけども……。
しばらく、ルイズはアンリエッタの腰の上に乗り続けた。額に汗を浮かべながらも腕を動かしている。
それから、三十分ほどした頃……。
ふと、アンリエッタの顔を見ると、彼女はすやすやと寝息を立てていた。どうやら、途中で眠ってしまったらしい。
ルイズもルイズでうつらうつらとし始め、ものの数分後にはアンリエッタに覆いかぶさるようにして寝入ってしまった。
やれやれと呆れ顔になりつつ。オルタンスはベッドへと近寄って、両腕でルイズをごろんと転がして位置を調整した。そして、二人に毛布をかける。
このときになって、初めて気が付いたのだが。どうもルイズから酒の臭いが漂ってきた。いきなりマッサージなどと言い出したあの一連の行動は、酔いが原因であったらしい。
まったく、この年の少女に酒を飲ませるような真似をしたのは一体誰なのだか……、と思う訳である。
やがて、一仕事終えたオルタンスも、そろそろ自分の部屋へと戻ることにした。
そして、部屋の明かりを――魔法のランプは、普通のメイジならば杖の一振りで消せるが、彼女は手動でやらねばならない――消し、王女の部屋を後にする。
帰るとはいっても。実は、三人に割り当てられたそれぞれの部屋は、数メイルほどの距離しか離れていない。
オルタンスの部屋は、廊下を少し行った曲がり角の向こうにある。
「じゃあね、おやすみ」
最後に小さく、眠り姫たちに告げて。オルタンスは、アンリエッタの部屋を後にするのであった。
*
―――翌日。
オルタンスたちが起床し始めたころのトリステイン王国上空を、数隻の船が航行していた。
それは、アルビオン王国から王族や大貴族を連れてやって来た船団であり、彼らは空に浮かぶアルビオン大陸への帰路を行っていたのである。
そんな船団の旗艦。船室の内部で、若きアルビオン王家の王太子と、その父であるアルビオン王は、紅茶へ口をつけながら空の景色を眺めていた。
「……どうしたのだ、ウェールズ。ラグドリアンで良いことでもあったのか?」
既に老体と言ってよい年齢に達していた王は、億劫そうな様子でそんな問いを発した。ここ最近のウェールズと来たら、会うたびにそわそわとしていて、やけに上機嫌なのである。
ラグドリアンからの出立前には、なぜか若干落ち込んでいたものの、今は落ち着きを取り戻しているようだった。
父から、そういった問いかけをされたのを意外に感じたのか。少々の沈黙の後、ウェールズはカップをソーサーに下ろして、答える。
「良いこと、といえばそうでしょうね。ぼくにとっての、どんな宝の山にも変えられない人を見つけたのです」
「ウェールズ。……まさか、トリステインの」
「はは、まさか。彼女は従妹ですよ? 兄弟のようなものではありませんか。確かに彼女は可憐な少女でした。ですが、ありえません」
「……そうか」
「トリステインのアンリエッタ王女ではなかろうな」と疑念を告げようとしたジェームズだったが、それはウェールズによって即座に否定された。
そうなれば、後はもう特に言う事もない。よほどの問題を孕んだ相手でさえなければ、いくらでもやりようはある。
それに、この息子は、己の身を、立場を弁えない愚かな人間ではない。年齢的にも、わざわざ自分が注意するような必要はないだろう。そう考える。
一方で、何かを思い出すかのように。ウェールズは窓の外を眺めつつ、地上にいるであろう少女へ想いを馳せた。そして、自分にしか聞こえないような声で呟くのである。
「オルタンス・マンチーニ……か。いつかまた、彼女に会うことができるのだろうか」