マザリーニ邸はトリスタニアの北側、白亜の王城から程近くに建てられている。
それゆえ、川を隔てた対岸にある市街地を賑わす民の喧騒もほとんど届いては来ない。
常緑樹の森に囲まれた屋敷の敷地内は、なんだか妖精でも現れそうな、人気のない物静かな雰囲気が漂っている。
金髪の青年、マンチーニ男爵ポールはそんな敷地内の一角でキャンバスを広げて何かを描いている。
そんな彼に近寄る影があった。肩甲骨の辺りまで伸びた白い髪をそよ風に揺らしながら、その人物はゆっくりと青年へ歩み寄る。
何者かが近づいてきている―――ポールがそう感づいたとき、彼の肩に小さな頭が乗せられた。
「兄さま。これはなにを描いているのですか?」
「うん? ああ、ここは見晴らしがいいからね。街の景色でも描いてみようかと思って」
誰かと思えば。それは二番目の妹オルタンスであった。
彼女は体ごとポールに寄りかかりながら、大きなエメラルドグリーンの瞳を見開いている。
首を肩にもたれかけさせたまま、白髪の少女はなにやら唸りながらキャンバスを覗き込む。
そのうち顔を黒炭で描かれた線画へ近づけ出したので、彼女のまだまだ薄い胸の感触がセーター越しにポールへ伝わってきた。
なんだかとてもとても幸せな気持ちになりつつ。青年は黒炭で線を引いていく。
そのうち、オルタンスの視線はポールが座る椅子の隣におかれたパンに向いた。不思議そうな顔で、兄の耳元で問う。
「兄さま。このパンは……」
「これはキャンバスの黒炭を消したいときに使うんだよ。別に食べるわけじゃないんだ」
「なるほど。それは知りませんでした」
ちょっと自慢げな様子でポールは妹に白いパンの使い道を教えてやる。
もっとも彼が木炭画を始めたのはつい最近の話しだし、話した知識を得たのもつい数日前のことではあった。
この可愛らしい妹を前にしては僅かにでもいいところを見せたい。そんな考えからつい出た一言だ。
しばらくは黒炭で線を引く作業を食い入るように見つめていたオルタンスだったのだけれども、そのうち飽きて眠くなってしまったらしい。
まぶたが下がり、長いまつげがくるりとカールしている様子を見て、ポールは彼女を寝床に運んでやることにした。
ふにゃふにゃと口を動かすオルタンスの背中や膝の裏を持って彼女を抱きかかえる。
妹の体は思っていたよりも少し重く、体温は高めのようだった。石鹸の香りもかすかに鼻へ入り込む。
すやすやと眠るオルタンスの顔を見つめつつ。ポールは屋敷の母屋へと妹を運んで行った。
*
トリスタニアへやって来てから一週間。
この日オルタンスと姉のオリンピアは伯父であるマザリーニに連れられ、トリスタニアの王城の内部を進んでいた。
なんでも、姉妹とアンリエッタ王女と顔合わせをさせるつもりであるらしい。
その真意は掴みかねるものの、オルタンスとしては未だ目にしたことのないこの国の王女と会うことができ嬉しいという想いの方が強いのである。
廊下を随分と歩いた頃。
目の前の突き当たりには大きな扉があって、それを守るかのように衛兵が番をしている。
マザリーニがそのうちの一人に声をかけてしばらく話し込むと……やがて頷いた衛兵が大きな扉を開けた。思ったよりも軽い音が廊下へ響く。
手招きをされ、姉妹は伯父の後に続いて扉の向こうにある白亜の床へと足を踏み入れた。
そこは渡り廊下になっているらしい。何本もの柱の外側は中庭になっていて、空から陽光が差し込んでくる。
「わかっているとは思うが、相手はこの国の王女だ。粗相はないように」
「肝に銘じておきますわ」
「わかりました」
最後にマザリーニは二人の方を振り返って注意を促す。そして、ゆっくりと目の前にある扉を押し開けた。
その向こうにはやはり白い壁と床が広がっており、いくつかの部屋へ通じているだろうドアが見られる。どれがどこに繋がっているのかはわからない。
次に二人が通されたのは、どうやら応接間かなにかのようだった。
部屋の中央に大きなテーブルが置かれ、座り心地のよさそうなソファーがずっしりとした存在感を放っている。
そしてすぐ。
オルタンスが入って来たドアとは反対にある入り口から、真っ白なドレスに身を包む一人の少女が現れた。
肩の辺りまで伸びた、少し濃い栗色の髪。青い目は海のような深い色。おしろいでも塗ったかのように白い肌。見るからに柔らかそうで、先日見た兄の白いパンを彷彿とさせる。
彼女の視線はゆっくりとマザリーニやオリンピアを捉え―――最後にオルタンスのところまで来たところで、王女は大きく目を見開いた。
それはオルタンスとて同じ。なぜなら、その姿はトリスタニアへやって来てすぐに出会った少女とまったく同じものであったのだから。
お互いに硬直したまま見つめあう。
不意に、王女の頬が赤く染まる。
それを不審に思ったらしい枢機卿が何か言い掛けたとき。唐突に動きを取り戻した栗毛の王女が慌てて口を開いた。
「よ、ようこそお越しくださいました。既にご存知かとは思いますが、わたしはアンリエッタ・ド・トリステイン。この国の王女です」
なんだか妙な雰囲気ではあったものの、それを問いただすものはいない。
オルタンスとオリンピアもそれぞれの自己紹介をし、さっそくアンリエッタと向かい合って応接間のソファーへと腰かける。
ちなみに、マザリーニは侍従のラ・ポルトとなにか話し合うと言って退出してしまった。
向かい合って腰かけるアンリエッタは完全にどこか上の空で、ぼうっとした表情のままオルタンスの顔を見つめている。
そんな様子を訝しげに見つめるオリンピア。なにを思ったのか、彼女は王女へと声をかける。
「殿下。どうされたのですか? あまりお体の調子が優れないのでしょうか?」
「……え、ええと。そういうわけではないのです。ただ、少し気になることがありまして」
「それはどういったことでしょうか? わたしでよろしければ、わかる範囲でお答えできますが……」
オリンピアの言葉を聞いて少し悩むらしいアンリエッタ。だが、すぐに顔を上げる。
「はい。あの、あなた方に年の近い男性のご兄弟はおられますか? 白い髪で、緑色の瞳の……」
「いえ……。兄はおりますが、わたしと同じ髪の色です。髪が白いのは、このオルタンスだけですわ」
「そうですか。ありがとうございます」
そういい、何かを思い起こしているらしいアンリエッタ。やがて目を開き、申し訳なさそうな口調で告げてくる。
「オリンピアさん。申し訳ないのですけれど、少しオルタンスさんと二人にさせていただけないでしょうか?」
「……? は、はぁ……。わかりましたわ」
思いがけない王女からの要望に、少しばかりの疑問と残念さを滲ませながら。オリンピアは応接間を出て行く。
そして王女は“確信にまで至った表情を浮かべ”、固まったままのオルタンスへと声をかけた。
「お久しぶり―――でよろしいのでしょうか? まさか、あの路地で出会った殿方の正体があなたのように可憐なお方だとは思いませんでした」
「そ、それは。なんと言いますか……。えっと、そのごめんなさい。まさか王女殿下だとは知らずに無礼な口を……」
「ふふ。いえ、いいのですよ。あのときはありがとうございました。あなたが来てくれなかったら、わたしはどうなっていたかわかりませぬ」
あたふたと慌てるオルタンスを見て微笑みながらアンリエッタがそう話す。
アンリエッタがなぜたった一人で王都にいたのか。どうしてオルタンスが男装などしているのか。お互いに詮索するようなことはしなかった。
オルタンスがどうしたものかと曖昧な笑みを浮かべていると、突然アンリエッタがソファーから立ち上がってそばへ近寄ってくる。
妙に熱い視線を浴びているのを感じて、白髪の少女は困惑したように眉を下げる。
「……まさか、一目惚れをしてしまったお相手が同性の方だったと思うと……。でも、それでも良いような気がしてきましたわ」
「で、殿下?」
なんだろう。
アンリエッタの目がヤバ気である。小さく呟いた言葉の前半部分はよく聞き取れなかったのだけれど、不穏な気配が伝わってきた。
お互いの吐息がまだ熱を持つほどに密着した距離で、青い瞳が緑の瞳を食い入るように見つめている。
いったいどうしたのだろう。何か粗相を働いてしまったのか。
嫌な予感が頭を過ぎったオルタンスがごくりと生唾を飲んだとき。不意に王女の顔が離れていく。
なにがなんだかわからない少女を尻目に、アンリエッタは先ほどまで腰かけていたソファーへ座りなおした。
「……いえ。これからよろしくお願いしますわ、オルタンスさん」
「は、はい。よろしくお願いします」
テーブルの向こうでにこりと微笑むアンリエッタはもう普通の様子。つい今までの怪しげな雰囲気はどこかへ消えてしまっていた。
そして、戻って来たオリンピアと共に。三人はお茶を飲みながら談笑することになるのであった。
*
王女との顔合わせから数日後。
なぜかオルタンスは男装をして、アンリエッタに手を引かれながらトリスタニアの市街地を歩いていた。
今日も今日とてトリスタニアの市街地はさまざまな場所からやって来た人々で溢れかえっている。
時おり見える貴族のマント。巡回をしている衛兵。狭いブルドンネ街の道を余計に狭くしている露天商たち……。
活気に満ちた街の化身のような少女はずいずいと道を進む。
どうしてこんなことになってしまったのだろう?
まとめた白い髪をぶらぶらと揺らしながら、男装の少女はこうなった経緯を脳裏に思い浮かべた。
―――王女から急に呼び出されたのは朝のこと。
兄に起こされ、寝ぼけ眼でオルタンスが王城へ向かうと。そこではなにやら微笑むアンリエッタ王女の姿があった。
彼女はどこから持ってきたのか、男物の服装を取り出した。そしてそれを着ろという。
まだ頭が覚醒していないオルタンスはふにゃふにゃとおぼつかない様子でもぞもぞと服を脱ぎ出したので、王女の命を受けた侍女が強引に着替えさせる。
それからじたばたと暴れる少女と侍女たちの争いが起き。
あっという間に侍女たちに下着まで蹂躙されてしまったオルタンスは、大きな目に涙を浮かべながら男性用の服に身を通すこととなったのだ。
「うう……。酷い……」
床にペタンに座り込んでしまうオルタンス。少々強引な手法を使った侍女を睨みながら、彼女はアンリエッタに要件を尋ねる。
「これはいったいどういうことなのですか?」
抗議するかのように問いを発する。
男装姿をうっとりとした様子で見つめていたアンリエッタは、静かに口を開いた。
「……今日もお忍びで街へ出ようかと思いまして。あなたにはその護衛をしていただきたいのです」
なんてことを言うのだろう。彼女は先日も襲われたばかりではないのか。
もしこの前の男たちに見つかってしまったら、自分だけではなくアンリエッタまで報復を受けてしまうかもしれない。それは避けたい。
あのときは相手が少人数でわりとあっさりとビビッてくれたから良いものの、次も上手くいくとは限らない。
むしろ、良い方へ向かうとは考えにくい。
だからオルタンスはなんとかアンリエッタを諭そうとしてみるのだが。
「ご、護衛ですか? しかし、先日も暴漢に襲われたばかりではありませんか。おやめになられた方が……」
「だから貴女に来ていただいたのですわ。ぜひともわたくしを守ってくださいまし」
可憐に、しかし豪快にアンリエッタは言い放つ。
有無を言わせない口調。六千年続いた王族の威厳がそこにはある。とても男爵家の次女如きが抵抗できるオーラではない。
……そんな大層なものをこんな状況で使ってほしくないと思わないこともないのだけども。
結局逆らうことが出来ず、オルタンスはアンリエッタがいつも使っているという抜け道を使ってトリスタニアの王城を出ることとなったのだ。
ちなみに、町ではアンリエッタのことを単に『アン』と呼んでほしいらしい。
「わぁ。すごく綺麗ですわ」
オルタンスが物思いに耽っていると、不意に前方からアンリエッタの声が聞こえてくる。
彼女が覗き込んでいるのは街角の小物屋だ。ショーウィンドウに並べられた色とりどりのガラス細工が日の光を受けてきらきらと輝いていた。
それを見つめるアンリエッタの瞳もきらきらと輝いている。
「こんなガラス細工よりもきみの瞳の方が綺麗だ」
なんとなく、どうしようもなく臭い台詞が脳裏に浮かぶのだけど、オルタンスはすぐにそんな思考を振り切った。首をぶんぶんと回す。
まったく恥ずかしい。そんな茹ったような台詞を吐けるのは、相当頭のゆるい人間くらいなものだろう。
自分の頬が意思に反して熱を持ってしまうのを誤魔化すべく。オルタンスも窓の中を覗き込むのだった。
ブルドンネ通りはトリスタニア最大の道。しかしながら、その横幅はせいぜい五メイルしかない。
おまけに露天商やらせり出した店舗の天幕やらたむろする連中やらで、余計まともに歩ける場所が狭まっている。
日本では人もまばらな四メートル道路ですら狭く感じるのだから、いかにこの通りが人で埋め尽くされているのかがわかる。
そんな人ごみの中を、相変わらずアンリエッタに手を引かれたままのオルタンスは歩いて行く。
前回来たときは道に迷ってどうにか帰ることばかり考えていた。だから、あまり周囲を見て回ることは出来なかったのだ。
今回はアンリエッタと一緒なのでその心配はない。安心して――もっとも、警戒を怠ることはできないが――いろいろと見て回ることが出来る。
ぱたぱたと走るアンリエッタの後姿を眺めつつ。オルタンスは微笑んだ。
「わぁ。美味しいですわ」
貴族向けの高級菓子店で買ったチョコレート菓子をつまみつつ。アンリエッタは感嘆の声を上げる。
チョコレート。ハルケギニアには『東方』から移入されたという触れ込みで広がっており、わずかながらトリスタニアなどの大都市で流通している。
当然お値段もそれなりにする。平民が買えるようになるのはいつの時代だろうか。
そんなことをほんの少しだけ考えつつ。オルタンスも異世界で味わう懐かしい味に舌鼓を打つのであった。
ちょっとした間食の後。中央広場へとたどり着いた二人はこれからどうするか話し合っている。
「わたくしはオルタンスさんにお任せしますわ」
「いえ。そういうわけにはいきません」
お互いに決定権を投げているので、なかなか話しがまとまらない。そのうちにサン・レミ聖堂の鐘がなってしまう。もう正午だ。
さっきから背伸びしたカップルの痴話騒ぎにしか見えない光景を眺めていた平民たちも、いい加減に飽きてしまったらしい。次々と場を去っていく。
そんなときだ。オルタンスの視界に、とある建物が飛び込んでくる。タニアリージュ・ロワイヤル座だ。
確か、この建物の中ではいろいろな寸劇が行われているはず。
とりあえずここに入ってみよう。
「じゃ、じゃあ。とりあえずあの劇場に入ってみようか」
そう言って、今日始めてオルタンスは自分からアンリエッタを先導する。手を引かれて行く王女はどこか幸せそうに見えた。
チケットは平民でも購入出来る程度の金額だった。それでもそう何度と足を運べるものではないが。
座席へ腰かけ、これから始まるであろう劇への期待を込めつつ壇上を眺めていると。
不意に場内が暗くなり……幕が上がる。壇上には青年役の男性俳優が膝立ちで手を上げ、大仰な仕草で声を張り上げた。
次に舞台裏から長い褐色髪の少女が現れる。ふわふわの髪を肩の腰の辺りまで伸ばした彼女は悲しげに顔を歪めながら、青年へと自分の想いを打ち明けるのだ。
しかし少女は貴族であり、対する青年は平民である。身分が大きく異なり、おまけに歳も離れている。
お互いに結ばれぬ運命だと知りながらも、二人は愛を誓い合う……という内容のようだ。
アンリエッタはその様子を食い入るように見つめていて、はらはらと舞台の登場人物たちの行く末を固唾を飲んで見守っている。
オルタンスもこういった話が嫌いなわけではない。隣に腰かけた栗毛の少女ほどではないが、この先の展開を見逃すまいとしている。
そしてこのとき。彼女たちの背後でとある大物貴族が座席に腰を下ろしていたのだが、それは少女たちの知ることではなかった。
物語はラストを迎える。
お互いの強い想いを改めて確認しあった青年と少女が、当てのない逃避行のために少女の実家を脱出しようとする場面だ。
二人の計画は事前に少女の父の伯爵に知れていたという事実が発覚する。そして、杖を構えた伯爵の魔法によって青年は命を奪われてしまうのだ。
失意の底に落ちた少女も最後には自らの命を絶ち……そこで、物語は終幕を迎えた。
幕が下りるのを見守っていたアンリエッタの表情が大きく曇る。少女が迎えた非業の死を、彼女の境遇を自分と重ね合わせているのかもしれない。
アンリエッタは正真正銘この国の王女である。政略結婚の駒となることは決まっているも同然。己が好いた人物と結ばれることはほぼないだろう。
こうして好き勝手に街へ出て仮初めの自由を謳歌していても、いずれそれは終わる。
どこか見知らぬ大貴族へ嫁がされたアンリエッタは一生を籠の鳥として過ごすのだろう。
もしかしたらそれはゲルマニアの皇帝かもしれないし、あるいは……。
それはマザリーニ枢機卿の姪であるオルタンスも同様かもしれない。彼女も政略の駒とされてしまう危険性は十分にあるのだ。
もし自分がどこかの家の嫁がされたら。まず初夜が待っている。とても痛そうだ。次に出産が待っている。我慢出来ないくらい痛そうだ。男児を産めない。姑に突かれるだろう。
物凄く嫌だった。
嫁に出される前に修道院へでも逃げ込もうか。しかし、それはそれで場所によっては大いに乱れているという噂もある。
……と、自分が変なことを考えているのに気がついたオルタンスが首をぶんぶんと振り回す。
そんなオルタンスの横では相変わらずアンリエッタが落ち込み、なんだか気の毒なことになってしまっている。
可憐な少女が顔に影を落として落ち込む姿はあまりに痛々しい。オルタンスはそんな王女になにか声をかけてあげたくなった。
「そんなに落ち込まないで。もし殿下が自分の意思に反して変な貴族と結婚させられそうになったら。わたしがあなたを守って差し上げますから」
「……本当ですか?」
「はい。絶対にです」
「水の精霊に誓っても?」
と。ずいとにじり寄ってきたアンリエッタがそんなことを言うのである。
その夜のラグドリアンの水面を思わせる青い瞳に浮かぶ焦燥の色に、思わずオルタンスは首を縦に振ってしまった。
それを見たアンリエッタは満足そうに頷きながら、小さく呟く。
「必ず守ってくださいね。わたくしの新しい大切なお友だち。そして騎士さま……」
本当に微かな声量でしかなく。それが少し自分の行動が浅はかだったかと悩む白髪の少女へ届くことはないのも、また道理であった。
やがて二人は歩き始める。二時間ほどの劇を全編通して見終えたためか、もう太陽は若干ながら傾き始めていた。
街娘のような服装に身を包んだアンリエッタは、男装の少女の腕に手を回した。首を傾げ、自分と同じように細い肩に頬を乗せる。
少しばかり恥ずかしがるオルタンスの反応を楽しみつつ、アンリエッタは白百合のような笑みを浮かべた。
しばらく歩いた頃。唐突にアンリエッタが尿意をもよおしたらしい。お手洗いに行くからオルタンスも来てと言われたのだけども、それは丁寧にお断りする。
近くのお店でトイレ――トリスタニアでは上下水道がある程度整備されている――を借りるために走り去っていく。
そんな彼女の後姿を見送りながら。
オルタンスはそばにある建物の壁に背をついた。なんとなく空を見上げてみると、ゆっくりと雲が流れていくのがわかる。
この空がロマリアの空と繋がっている。その事実がなんだか不思議で、また世界は同じ空の下にあるのだという安心感もある。
地球とはまるで違うこの世界で初めて自我を得たときは途方にくれたものだ。
“光の国”の廃墟で混乱していた彼女に最初に声をかけて来たのは、確かジュリオだったように思う。
いきなり男扱いしてきて無礼な事をしたので、思いきり引っ叩いてやったものだ。思えば、それがあの月目の少年との因縁の始まりかもしれない。
あの日もこんな風に青く雲の少ない空の色をしていた。
空を見上げつつ少女がぼうっとしていると。
いつの間にか、彼女の目の前が大柄な男たちによって囲まれていることに気がついた。
「よお。また会ったな。貴族の坊ちゃん。捜したぜ」
そうオルタンスに声をかけてきたのは。先日出来損ないの魔法で追い払ったチンピラ集団だった。
ただ、今日は三人ではない。屈強ながたいのいい男を五人ばかり連れている。メイジではないようだが、その鍛え上げられた図体は酷く威圧感がある。
先日の三人組みの一人が顎でオルタンスを促す。どうやら、これから自分はリンチされてしまうらしい。
どうする。隙を見て逃げるか。いや、駄目だ。アンリエッタがいる。
自分の役割はあくまでも王女を危険から守ること。ならばここは少しでもこのチンピラ共を引き離さなくてはならない。
出来損ないの魔法もこの場では使えない。誰の目があるかわからないし、一人を倒している間にやられるのがオチだ。
ならば、もっと自分にとって戦いやすい場を選ぼう。
そう考え、オルタンスが男たちについて行くと首を振ろうとしたとき。
「―――っ」
「ひゅぅ。柔らかいもんだ。まるで女だな」
男のごつごつとした拳が勢いよく突き出され、オルタンスの腹部を捉えていた。