ハルケギニア大陸の中部。西のガリア王国と東のゲルマニア帝国という大国に挟まれた位置にトリステイン王国は存在した。
その面積は地球の国家オランダとベルギーを合わせたほどの広さ。
地理的にはかつてブルゴーニュ公家やハプスブルク家が治めた“ネーデルラント”に相当する地域だ。
面積は西のガリア王国の十分の一ほどしかなく、それ故かトリステインの貴族たちは自嘲気味に自国を小国と称することもあった。
そんな小さな王国の首都トリスタニアを、ロマリアからやって来た四人の親子を乗せた馬車が走り抜けて行く。
彼らの親族であるマザリーニ枢機卿の遣した馬車は、がらがらと音を立てながら、白亜の王城を目指して狭い道が無数に走る市街地を進む。
それほど大きくもない、なんだか古びた馬車の中で。
長旅に疲れを見せる他の家族とは違い、白髪の少女だけが興味津々といった様子で座席から身を乗り出し、開け広げた窓からトリスタニアの街を眺めている。
ロマリアはかなり大きな都市だ。トリスタニアも規模はそれなりにあるが、ロマリアからすれば取り立てて大きいわけでもない。
白髪の少女以外の三人は、周囲の景色にあまり興味を持っていないようだった。
そんな車内。少女の隣に腰かけた金髪の青年が、ふりふりと揺れるお尻を眺めながら注意を促す。
「オルタンス。そんな風に窓から身を乗り出していたら危ないよ。ちゃんと座席に座っていなさい」
「あ、はい。わかりました。ポール兄さま」
青年の口調は随分と優しげなものである。それを耳にしたオルタンスという少女は残念そうに眉を下げ、座席へ座りなおす。
昔に比べてずいぶんと聞き分けのよくなった妹の真っ白な頭を、ポールというらしい兄がゆっくりと撫でてやる。
「こちらへおいでなさい。お兄さまのごつごつした手では痛いでしょう? わたしが撫でてあげるわ」
「大丈夫です、オリンピア姉さま。あまり気持ちよくはないけど、痛くもないです」
「オルタンス……」
ぴしゃりと容赦のない妹の言葉を聞き、悲しげに呟くポール。
そんなどこか哀愁漂う兄の姿に目もくれず。オルタンスは窓の外の過ぎ去っていく景色ばかり見つめていた。
やがて、馬車はトリスタニアの王城の近くにある屋敷の敷地内へと到着。
緑に包まれた、あまり大きくない質素な石造りの屋敷。どうやらこの建物がマザリーニ枢機卿の住まいであるようだ。
停車した馬車からマンチーニ男爵家――このとき、家督は長子であるポールが継承していた――がぞろぞろと乗ってきた馬車から降りると。
そこでは一人の男が待ち構えている。それは現マンチーニ男爵の母であるジェローラマの兄、ジュール・マザリーニ枢機卿だ。
彼はロマリアから派遣され、今現在までトリステインの宰相を務めている。それほど私欲がなく、その高い能力故に国王夫妻からの信認も厚い。
年は三十代の半ばだろうか。働き盛りといった風貌で、まだまだ鳥の骨などと呼ばれる段階にはないように見える。
母や兄と違い、幼少の頃に一度会ったきりのオルタンスからすれば、それなりに縁遠い存在だといえた。
事実上の家長となったポール、ジェローラマとオリンピアがマザリーニへ挨拶をしている。
ぱっと見た感じの枢機卿は物腰の低い、穏やかな男性という印象である。まだまだ若さを感じさせる容貌はちょっとばかり違和感があると思ってしまう。
やがてオルタンスも挨拶をするために前へ進み出た。
「ジュール伯父さま。この子はオルタンスですわ。伯父さまも一度だけお目にかけたことがあるかと……」
「おお、きみがあのときの……。ずいぶんと女性らしく、美しくなった。まだまだやんちゃ坊主だと思っていたのだがね」
「お恥ずかしい限りです」
おぼろげな記憶。幼少の頃に会ったとき、オルタンスはマザリーニに結構な粗相を働いていたような気がする。それを覚えていたようだ。
枢機卿は自分よりもずっと背の低い姪の頭を撫でた。彼の手に、さらさらとした白い髪の感触が伝わってくる。
「ジェローラマ。荷物は運び込んでおいたよ。私は普段あまりこの屋敷を使わないから、自由に部屋や使用人を使っていい」
「……なにからなにまで本当にありがとう。兄さんがいなかったら、わたしは今頃この子たちを連れて路頭に迷っているところだったわ」
「はは、なに。お前やこの子たちはわたしの大切な親族だからね。それを見捨てるなんて非情なことはしない」
そんな会話の後、マザリーニは政務に戻るために王城へと戻っていく。去り際にオルタンスたち兄妹は彼に頭を下げるのであった。
部屋に荷物を運びいれ、自分の手で荷解きを行う。
マザリーニの屋敷の使用人は数が少ない。なので、オルタンスは自分の分は自分でやると申し出たのだ。
荷物を整理しつつ。母や姉が見繕ってきた、フリルがたくさんあしらわれた可愛らしい洋服を手に取る。
オルタンスも、昔はこういう服装に拒絶反応を示していたものだ。普段から男物の服ばかり着て、わざわざ新しい服を用意した母を落胆させたりもした。
それが今となっては当たり前に着こなせてしまうのだから、人間とは環境で随分と変わるものだ。
とはいえ、彼女自身としてはたまに男物の服で過ごしたくなるときもある。
やがて、片付けもほとんど終わりかけた頃。
たまたま荷物の中からスラックスを見つけたオルタンスは、久々にそれを穿いてみることにした。
「……うん。サイズは問題ないかな」
大きな姿見を覗き込みながら、体をよじったりしてみる。
シャツはたくさんの種類の中から、なるべくシンプルな男性の着るものに見えると思ったものを選んだ。
そして、鏡を見ながらすっかり伸びた髪の毛を頭の後ろで結い上げる。
そうすると、まだまだ体が女性になりきれていないオルタンスは女顔の美少年のような姿へと変貌するのである。
男装をするのは久しぶりのこと。なんだか、この恰好のままトリスタニアの市街地へ出てみたくなる。幸いにも荷物の整理はほぼ終わっている。
マザリーニが帰って来て晩餐会を開くのは日が暮れて遅くなってからだと聞いている。
ただ、初日からそれをやるのは早計である。何日か後にすべきだろう。ここは我慢すべきだ。
そう思い、彼女は着ていた服を脱ぎ出すのであった。
それからしばらく。マザリーニを交えた晩餐会を終え、オルタンスはすぐに眠りについた。
もうしばらくは枢機卿としての仕事が忙しいらしく、何日かは屋敷で待機してほしいとのこと。
これはオルタンスにはチャンスであった。彼女はずっとトリスタニアという町に興味を持っていたのだ。
白亜の王城はもちろん、アングラ臭漂うブルドンネ街や魅惑の妖精亭。デルフリンガーを売っているだろう怪しげな武器屋にピエモンの秘薬屋。
彼女が昼間にトリスタニアの街中を熱心に見つめていたのは、いろいろと町を見て回りたいからだった。
翌朝起床した彼女はさっそく男装をし、母の元へトリスタニアへ出るという報告へ向かった。
「おはようございます。母さま」
「あら、オルタンス。……どうしたの? 久しぶりじゃない、男の子の恰好なんて」
「荷物を整理していたら偶然見つけました。大きさが合ってたから着てみたのだけれど……。どうでしょう?」
自分ではそれなりかなぁと思っているのではあるけれど。人から見たらどうなのだろう。オルタンスは不安げな様子で問いかける。
なんだか懐かしい気持ちになりながら、ジェローラマは微笑みかける。
「似合うわよ、とっても。ポールよりもずっと格好いいわ」
「……そうなのかな?」
そう言いながらシャツの袖を引っ張る少女の姿は可愛らしい。
男装のオルタンス。見ようによっては少年だが、そんな仕草をしていると少女にしか見えない。
「ええ。すっかり女の子らしくなったと思っていたけれど、まだまだどちらでもないのね。あなたは。……と。長くなっちゃったわね。行ってらっしゃい。気をつけるのよ?」
「はい。行ってきます」
せっかく憧れの王都へとやって来たのだ。辛いこともあったのだし、少しくらいは自由にさせてあげよう。
そう考え、母は娘を送り出してやるのだった。
*
王都を無数に走る道は曲がりくねっていてとても狭い。それは無秩序に都市を拡大してきたからでもあるし、また外敵からの防衛のためでもあった。
そんな道の一つ。とたとたと軽い足音が建物で跳ね返って響き渡る。
その音の根源はフードを目深に被った小さな人間だった。灰色の布から覗く手足は細く華奢なものだ。
ちらりと垣間見える大きな青い瞳は、このじめじめとした暗い路地にあってなおさんさんと輝いている。まるで大きなサファイアのようだった。
もうかなり走り続けているのか。白い肌には汗の玉が浮かび、小さな形のいい唇からは苦しそうな息が漏れ出している。
小さなフードの人物の後方からは、男たちの怒声が聞こえてくる。複数人いるようだ。
「どうしてこんなことに……」
呟かれるその人物の声は高い音だ。どうやら少女のようである。彼女はハイヒールを履いたまま疾走し続ける。
少女が両親や侍従に内緒の“お忍び”で城下町へ出て来たのは、ほんのついさきほどのことである。
彼女は昔からかなりのお転婆娘だと言われて育ってきた。
幼友達であるルイズ・フランソワーズとはしょっちゅう取っ組み合いの喧嘩を繰り広げていたし、城を抜け出したのもこれが初めてではない。
簡単にぼろを出すような真似はしないのだ。
今の今まで、彼女がトリスタニアの市街で厄介ごとに巻き込まれたことなどなかった。
だから、油断があったのかもしれない。露天のアクセサリーにうつつを抜かして余所見をしていたのが不味かったのかもしれない。
普段なら絶対に近づかないような、昼間から酒を飲んで酔っ払った男たちの集団に、彼女は知らず知らずのうちに近寄ってしまっていたのだ。
そして偶然にも男の一人にぶつかってしまい、驚いたらしい男は手にしていた酒瓶を地面に落としてしまう。
少女は必死に謝ろうとしたのだけれど、男は激昂するばかりだった。
ところが。
彼女が見目麗しい可憐な少女だと知るや否や、男は一転して態度を変え、彼女にただ酒の弁償を迫ってきたのだ。
しかし、少女はエキュー金貨もスゥ金貨もドニエ銅貨も持ち合わせていない。困り果てた様子を見せた彼女に、男の中の一人が言う。
「金がないのなら、お前の体で払ったらどうだ」と。
それを聞いた他の男たちも「そうだそうだ」「やっちまえ」と煽り立てる。
最初はそういう気持ちではなかったようだが、そのうちに気がそちらへ向いたらしい酒の持ち主は、少女へずいと脂ぎった醜い顔を近づける。
もう駄目だった。お転婆娘とはいえ、筋金入りの箱入りとして育てられた彼女は男たちへの恐怖心で一杯になってしまったのである。
だから、少女は逃げた。
それを見た男たちが怒声を上げるのを肌で感じた彼女は、もう泣き出しそうになってしまったのだ。
暗い路地。もう何度目かわからない行き止まり。湿った地面に腰を下ろして、ついに少女は泣き出してしまった。
「もう、嫌ですわ……。お父さま……お母さま……」
ちゃんと侍従のラ・ポルトの言い付けを守ればよかった。くだらない好奇心に突き動かされて、勝手に城を出て。最後はこのザマだ。
そこへ容赦なく追い討ちをかける男たちの声。
どんどんとその声は近づいて来る。もう動くことすら出来ない中で、少女は体を震わせながら縮ませる。
迫る足音。どたどたと落ち着きのないその音に、心臓が破裂しそうなほど心拍数を上げていく。
「来ないでください……。お願いですから、来ないでください……」
少女は震える手を合わせながら。必死に、自分の遠い先祖である始祖へと祈りを捧げる。
だが、始祖への祈りは届かなかったようだ。
やけに静けさを取り戻した路地裏に違和感を覚え、閉じていた目を開けば―――もうそう遠くない距離で、男たちがにやにやと品のない笑みを浮かべている。
「お嬢ちゃん。人の酒を台無しにしておいて逃げちゃあいけねえよ。ちゃんと謝らねえとさ」
「そうだぜ。まあ、俺たちは慈悲深いからよ。お嬢ちゃんが泣いて許しを請うってんなら、許してやらねえこともない」
「泣かせるのは俺たちだけどなぁ!」
ぎゃははと不快な笑い声が路地裏に響く。
少女は助けを求めて路地に接した家の窓を見上げるのだけれど、その瞬間に開いていた窓が住民によってぴしゃりと閉められる。
この場所で自分を助けてくれる者などいないのだろうか。そう感じずにはいられない。
無慈悲にもじりじりと男たちが距離を詰めて来る。少女は後ずさろうにも背後の壁に背がついてしまい、もう下がれないことを思い出した。
杖。とっさに体をまさぐってみたのはいいものの、肝心のこんなときに限ってそれを忘れてしまったことに気がついてしまう。
少女が絶望するのに、もうそれほどの時間は必要がなかった。
だが。今になって始祖に願いは通じたのか―――あるいは偶然なのか。
少女と男たちの距離が三メイルも無くなったとき。
唐突に地面が“破裂した”。
ぱらぱらと舞い上がる土煙。強烈な力によって抉り取られた地面。少女も男たちも呆然となり、路地の出口に立つ人影を凝視する。
「卑怯だとは思わないのか? 情けなくないのか? いい年の男が三人がかりで女の子を虐めて」
「ま、魔法! 貴族か!」
現れたのは白い髪の少年だった。いや、日の光を受けてきらきらと輝くその髪は、あるいは白銀の輝きを放っているようにすら思える。
大地に芽吹いたばかりの新芽のような新緑色の瞳は真っ直ぐに男たちを捉え、威嚇するかのように手にした杖が威圧感を放っている。
男たちは顔を見合わせる。相手が貴族である以上、迂闊に反抗することは死すら招きかねない。慎重に行くべきだ。
「坊ちゃん。貴族の坊ちゃん。俺たちは決してこの娘っ子を理由もなく追い掛け回しているわけではないんですぜ」
「そ、そうだそうだ。元はといえば、この嬢ちゃんが俺の酒瓶を……」
「……いくらだ?」
「え?」
「その酒とやらはいくらなんだ?」
弁明を始めようとする男たちを遮り、ほんの少し考えるようなそぶりを見せていた少年は鋭く言葉を発する。
自分よりもずっと大きな体の相手にまったく臆することなく対峙する見たことのない人物。少女は唖然としたままその姿を見つめ続ける。
「坊ちゃんが代わりに弁償してくださるってんで? ……三エキューでさぁ。俺としては大枚叩いて買ったんで、壊されちまって……」
「嘘だな」
そう言うや否や、少年は杖を振り下ろす。それと同時に男たちのすぐ横の地面に置かれていた樽が、接していた建物の壁ごとはじけ飛ぶ。
あまりに不可解な光景。男たちは目を見開いたまま唖然と立ち尽くすしかなかった。
「こ、こいつ、物覚えが悪くて! ほ、本当は三十スゥでしたぁ!!」
「そうか。“物覚えが悪いなら仕方ないな”」
勢いよく土下座をかました男の一人に向かってそう言いながら、少年はスゥ銀貨を三十枚数えて袋に詰める。それを地面に放った。
「そいつを持ってさっさと失せるんだね。さもなければ……」
冷徹な視線を持って、白髪の少年が言い放つ。手にした杖の先はばらばらになった樽を指し示し、それが無言の圧力となる。
情けない声を上げながら袋を手にした男たちは一目散に逃げ出した。
その後ろ姿を内心ひやひやの心境で見送った後。少年は地面でへたり込んだままの少女へ近寄る。
「大丈夫?」
「……」
返事がない。いったいどうしたのだろう。心配になった少年は目の前の人物の華奢な肩を叩きながら呼びかける。
「きみ?」
「あ、は、はいぃ!?」
へたり込んだ少女が突然素っ頓狂な声を上げる。物凄い勢いで立ち上がり、その拍子に深く被ったフードが捲れ上がった。
灰色の布の下から現れたのは、栗毛を肩まで伸ばした碧眼の少女だった。
どこか見覚えのある顔だ。ただ、それが誰なのかまで正確に思い出すことが出来ない。
そんなことを考えながらじっと少女の顔を見つめていると、大きく目を見開いていたその顔が急に真っ赤に染まる。
ぼっという音が聞こえそうなほどの狼狽ぶりだった。
「あ……。あの。そんな風に見つめられると、恥ずかしいですわ……」
「ん? そうか。ごめん」
恥ずかしがっているのに気がついたのか。少年の体が離れていく。
見たところ目の前の人物は貴族のようだ。だが、こんなに綺麗な少年は見たことがない。今日はたまたま領地から出てきたのだろうか?
女性のような整った顔つき。背筋を伸ばしたすらりとした細い体つき。上品さがわかる、良い躾けを受けてきた証である身のこなし。
白馬に乗った王子さまではなく、髪の白い王子さま。そんなことを考える。
「あ、そ、その。危ないところを救っていただいて、本当にありがとうございます!」
「いや。ぼくが勝手にやったことだから……。それより、大丈夫?」
「はい、大丈夫です。少し汚れてしまいましたけれど、この程度なら」
「そっか」
安心したような声音で少年は言う。浮かべた微笑みは本当に本当に綺麗で、でもどこか儚くて。少女は思わず見とれてしまう。
「……? どうしたの?」
「あ、いえ! なんでもないんです!」
訝しげに眉を下げる少年。それを見た少女は慌てながら手を振り回す。
「大丈夫ならいいんだ。もし不安なら、家まで送って行くけど……」
魅力的な提案といえばそうかもしれない。だが、少女は周囲に黙って勝手に町へ出て来たのだ。この貴族の少年に真実を話して連れ帰ってもらおうにも……。
両親や侍従からの叱責を恐れる彼女は首を振った。その提案を断ってしまう。
拒否の返答を受けた少年は少し残念そうな顔をしながら、しかしやはり魅力的な笑顔を見せる。
「きみは地元の子みたいだから、お話を聞きたかったんだけど……。それならしょうがないね。気をつけて帰るんだよ? ああいう危ないのがいるから」
「は、はい……!」
少年は道に迷っていたので、本当は彼女に道を尋ねたいところではあったのだが。
最後に少女の頭を撫で―――白い髪の少年はその場から去っていく。後姿を見ていても様になっているのが、なんともいえない感情を喚起させる。
いつまでもいつまでも、栗毛の少女は“白い髪の王子さま”に魅入っていた。
名を尋ねることを忘れてしまうほどに、夢中だった。
―――夕刻。
オルタンスがマザリーニの屋敷へと戻ると。自分に割り当てられた部屋に置かれたベッドで、姉のオリンピアが腰を下ろして本を読んでいた。
本の表紙は夕日の影に隠れてしまっていて、タイトルがなんなのかはわからない。
「あら、お帰りなさい。どうだったかしら? トリスタニアは」
「ね……、姉さま……」
ぞくり。男装少女の背筋を冷たい感触が走る。姉の瞳が凍りつくように怖いのだ。
オリンピアはにこやかに微笑みながら、オルタンスへと近づいて来る。
妹のものと同じ端整な顔が近づく。耳に熱い吐息が近づいて―――瞬間、耳が何かに包み込まれるような生暖かい感触。
「……!? ね、姉さま、なにをっ!?」
ばっと飛び退き、頬を真っ赤に染めたオルタンスは大きな声を上げた。
そんなあからさまに動揺する妹をからかうような、妖艶な表情でオリンピアは見つめる。
「ふふ。冗談よ。ちょっとしたお茶目ってところね。今のあなたとっても可愛かったから、わたしに黙って出かけたことは不問にしてあげるわ」
「……も、もう! からかわないでよっ!」
耳まで熱を持つことを感じながら。オルタンスは部屋から出て行く姉を怒鳴りつけた。
ぱたんとドアが閉まったとき。わずかに垣間見えた姉の横顔は、どこか寂しそうなものだった。自分と同じエメラルドグリーンの瞳が少しばかり暗く見えた。
姉に黙って出かけてしまったのは悪かったかもしれない。
明日は彼女が望む限りは一緒にいてあげよう。今さらながらにそう思うオルタンスだった。