扉の向こうで戦闘態勢に入る少女を、フォールセンは感じ取る。
突き刺さるように荒々しい気配は警戒心を高めさせた。
まるで強大な野生動物がいるかのような気配に、周囲の使用人達が思わず後ずさり壁際に背をつけるなか、フォールセンは扉を見据える。
少女とフォールセンの間を仕切るのは、固い樫の一枚板で出来た扉。
この屋敷が元々は管理協会支部だった事もあり、防火、防音も考えた作りになっているので扉は分厚くで頑丈になっている。
並の剣士であれば、剣を打ち込んでも扉の途中で刃が止まってしまうだろう。
だが少女が並みではないと、フォールセンはその気配で見抜く。
少女の正体が、もし自分が予想する血筋の者であれば、その身には強大な魔力と何よりも剛剣無双な剣技、邑源流を持つはず。
この両者があれば、どれだけ分厚い扉であろうと、薄紙よりもさらに脆い存在でしかない。
(剣士としてくると宣言した以上、魔術はないだろう…………扉を突き抜けるならば逆手双刺突系。こちらの攻撃を迎撃するならば御前平伏か)
少女がどこまで体得しているかは判らないが、考え得る最善にして最大の手をフォールセンは思考する。
突撃技の逆手双刺突で扉を突き破るか?
それとも対大型モンスター迎撃用の御前平伏で、剣ごとフォールセンを叩き伏せるか?
前者は派生技をもつ基本技の一つ。
後者は邑源流の奥義である極めの技。
どちらの方が習得が容易いか、どちらの方が身体に負担が少ないか。
それは比べるまでも無い。
少女は怪我を負っている。
身体の状態、そしてなによりも少女が発する今にも飛びかかってきそうな猛犬じみた気配。
どちらが少女を選ぶかその当たりをつけたフォールセンは、全力を持って迎撃するためにゆっくりと息を沈めていった。
消しおったか……我が使い手よりやりおる。
つい一瞬前まで感じていた扉の向こうのフォールセンの気配が完全に消えている。
息づかい、心臓の鼓動、筋肉の収縮音。
生命とは基本的に音を出す存在だが、微かに空気を揺らすその反応すらも消失している。
剣へとその身を変えたラフォスは、刀身で受け止める空気の流れで周囲の状況を把握するが、感じ取る大気の中には音のみならずフォールセンの体臭すらも消失している。
気配遮断の魔術を使えば同様のことも出来るが、その場合はいかに上級者でもコンマ数秒ではあるが不自然な魔力の乱れを発生させてしまう。
ましてや剣に身を変えようとも、ラフォスの本質が龍である事に変わりはない。
己の外側である外界への干渉を行う魔術にもっとも長けた生物の超感覚を、いくらその血を引いていると言えど誤魔化すことなど不可能。
となればフォールセンは内界を、己の精神、肉体を操る闘気の力のみでこれを成し遂げた事になる。
一方のケイスはといえば、既に意識は極限集中状態に入っているのか、扉を見つめて、どう斬りかかろうかと窺っている。
だがその高鳴る心音や早い呼吸音、上気した頬や羽の剣を握る掌にはうっすらと汗が滲み日なたのような匂いをほのかに漂わせて己の存在を主張している。
そして何よりケイスの心に合わせて激しくうごめきだした闘気が体中からあふれ出し、野生の獣じみた圧迫感をもって周囲の空間に放射されている。
ドラをかき鳴らすように盛んに己の存在を知らしめているケイスの一挙手一投足をフォールセンは扉越しで見抜いているに違いない。
こちらからはフォールセンの気配はたどれず、逆に向こう側からは透かすようにその位置を捕まれている。
剣を交える前から、すでにフォールセンとケイスの歴然とした力の差は明白となっていた。
(お爺様。合わせろ)
その実力の差を知っているのか、それとも知った上でさらに燃えたぎったのかは判らないが、ケイスは小さく心の中で囁き、左手で握った剣を逆手に持ち変えると、扉に向けて水平に持ち上げて構えた。
『逆手双刺突でいくのか? だがあれは直線的に打ち込んでこそ最大の威力を発揮するのであろう。どうやって捉える』
逆手に構え切っ先を相手に向けて突進をかけ、突き込みと同時に開いた右手で柄頭に打ち込み威力を高める逆手刺突と呼ばれる一連の体系技は、ケイスが好む威力重視の大技にも繋がる。
最大威力で打ち込めば鉄盾や石壁すら突き破り相手を貫き通すことが出来るので、色や木目からして樫の木で出来たとおぼしき分厚い部屋扉といえども、易々と打ち砕けるだろう。
だがその反面大技であるため外した際の隙も大きく、フォールセンの姿を捉えきれないこの状況では躱される可能性は極めて高い。
(いや、違う技でいく)
ケイスもそれは判っているのか否定すると右足を引き、グッと身体を沈め溜を作り、頭の中に己の剣戟を描きラフォスへと伝えてくる。
『……また曲芸じみた真似を……練習もなくやれるのか?』
それを技と呼んで良いのかと思いつつ、ラフォスは呆れて尋ねる。
一拍の後れも間違いも許されない綱渡りな剣技を、ぶっつけ本番でやろうというケイスの無謀さには一年近い付き合いではあるが慣れる物ではない。
(何時ものことであろう。私の才でねじ伏せる)
気負うでも無く自信を持って答えるでも無くケイスはただ一言純然たる事実を持って断言する。
己は剣の天才である。
ならば出来無いわけがないと。
『……よかろう。いくぞ我が剣士』
「参るっ!」
ラフォスに答えるために。
フォールセンへと宣言するために。
己の高まりを全身で表すために。
裂帛の気合いと共にケイスは強く床を蹴る。
扉に向かって真正面から一足跳びに向かいながら、空中で剣の柄を握り、形状を変化させる。
たわんだ刀身がぐにゃりと折れ曲がり、真っ直ぐに扉を目指していた剣の切っ先が横にずれた。
ずれ込んだ切っ先が目指すのは扉と壁の境界線。
上下に設置された蝶番だ。
ケイスは剣を高く上げ切っ先を隙間に滑り込ませる。
同時に切っ先と柄が極限まで重量を増して、軽量なケイスの身体は剣に振り回されて空中で前に倒れ込み始める。
重量と硬度を増した羽の剣は金属製の蝶番の上段をあっさりと破砕する。
勢いに任せて下段の蝶番も切っ先に切り崩されたとき、ケイスは完全に上下逆さ状態になっている。
荷重をカット。
自由を取り戻した両腕を引きつけつつ背中を丸めて前宙を行いながら、両足を扉上段に向けて振り抜く。
音をたてながら扉へと着地したケイスの勢いをうけて、ドア枠がミシリと音をたて壁材から剥がれて、廊下側に傾き始める。
扉へとぶち当てる勢いで剣を振り下ろしつつ再度荷重。
勢いと同時に重量を増していく剣の一降りは投石機で投擲された巨石のような物だ。
頑丈な扉にヒビを入れるだけでは飽き足らず、完全にドア枠諸共に廊下側に勢いよく吹き飛ぶ。
獲物を捉えようと目を見開くケイスを乗せたままに。
たなびく黒髪が数本、ドア枠の上段に引っかかりぷつりと音をたてて抜けるが、身をかがめたケイスはギリギリでドア枠をくぐり抜ける。
倒れ込む樫の木の扉は、今やケイスにとっては壁ではなく、盾であり大地。
扉ごと廊下側に仕掛けることでフォールセンの迎撃を防ぎつつ、回転の勢いを持って先の一撃を打ち込む。
それがラフォス曰く曲芸じみたケイスのはじき出した最適解。
己の肉体のみならず、硬度変換と重量変化を行える羽の剣が持つ力を最大限に生かしたケイスが今行える最大の一撃だ。
倒れ込む扉の上側に目をこらしていたケイスは、フォールセンの白い頭髪を視界に捉える。
だが視認もした近距離だというのに、鋭すぎるはずのケイスの感覚を持ってしても、そこにフォールセンが存在するという確信を抱く事が出来ない。
まるで夢幻かのようにただ見えるだけだ。
かまうことか。
ケイスは躊躇しない。
見えた瞬間に、考えるまでも無く剣の切っ先をフォールセンに向かって合わせる。
唯々剣を振る。
生まれ持ったその本能のみで動くからケイスの剣は早く、そして本質を切り裂く。
迷いも躊躇も無い。
捉えたなら須く斬るべし。
最大荷重。
扉で切っ先を隠したままケイスは剣を突き込、
「扉だけで無くドア枠も修理が必要だったか。メイソン、手間をかけるが頼む」
フォールセンの呆れ声が響き、ケイスは気づく。
いつの間にか自分が床に倒れ伏していた事に。
見れば盾として使っていたはずの扉はすでに廊下に倒れて、周囲には無理矢理ドア枠を引き剥がした所為で、木くずを含んだ埃が舞っていた。
何が起きた?
少なくとも2、3秒は意識を消失していたと思われる。
状況を確認しようと身を起こそうとしたケイスだが、身体が動かない。
力を使い果たしたか?
いやそれは無い。最後の最後に叩き込むつもりで残していた力はまだ身体に残っている。
だが身体が動かない。
そこまで来て闘気の流れが不自然に断たれていることにケイスは気づく。
闘気とは肉体操作の力。
指を一本動かすのにも闘気は微量だが使われている。
それらの無意識で行っているはずの行動さえも今は出来無い。
倒れ込んだ視界の先を見れば先ほどまで一体化していた羽の剣も、ぐにゃりと折れ曲がった状態で最大まで注ぎ込んでいた闘気の欠片も感じ取れない。
「む……闘気の流れと意識を斬られたのか?」
声を出すことは出来る。
四肢へと繋がる闘気の筋だけを断ち切られたようだが、フォールセンの剣筋やいつ動いたのかが全く判らなかった。
「我が剣は万物を斬る剣であるからな。まさか剣士殿がドア諸共くると思わなかったので、ドア越しで少し狙いが荒れおったが、その様子では上手くいったようだな」
「うむ。お見事だ。私は負けるのは大嫌いだが、これは負けなどではない。今の私では相手にすらならなかった。負けという言葉すらも当てはまらん」
倒れたままケイスはこたえる。
強い。強すぎる。
この自分が何も出来ず、何も判らず、そして地に倒れ伏したというのに何も悔しくないとは。
唯々気分がいい。
「私からも一つ聞きたいのだが、扉の蝶番を斬ってこちらに突き込もうとしたのは剣士殿の技か?」
「うむ。回転斬りで威力を高めるのはよくやるのだが、今回は扉が足場として使えるので速度重視で突き技として使うつもりであった。そこに行く前に落とされるとは思わなかったな。名をそうだな……剣を軸に回転するのだから『刃車』とでもするか」
「つまり状況に合わせて、私を相手に今思いつきで技を作って使ったと……剣技のみで無く、その思い切りの良さには驚かされるな」
「そうか? 私のほうが驚いたぞ…………うむ驚いた! 面白い! よいぞ! うん! いい! さすが私が憧れた剣士! フォールセン殿だ! こうでなくてはいかん! 私の才能を持ってしてもたどり着けるとも知れぬ道があってこそ私は突き進める! 絶対いつか我が剣を届かせて見せようと滾れる!」
床に倒れ伏したままケイスはだんだんと可笑しくなり、そして心がわき上あがり上機嫌に笑い始めた。
自分の全力を持っても、絶対に届かない相手がここにいる。
自分が全神経を集中していても、なにをされたかすらも認識が出来なかった剣がある。
天才を自負し、天才たる自分でも、見えぬ領域がここにある。
自分が目指す道は、世界最強は、この先にあると。
「このような状態で失礼だが改めて挨拶しよう! 私はケイス! いつか貴方を越える剣士を志す者だ!」
完膚無きまでに敗北したというのに、ケイスはまるで自分が勝者のように堂々と名乗りをあげ、自らの挨拶とした。
「先生。いいお年なんですからあまり無茶はしないでくださいね。それにケイちゃんもあれでも大怪我してるんですよ」
「すまんなレイネ。ケイス殿につられて、ついつい年甲斐も無くはしゃいでしまったな」
肩を揉むレイネがあげる非難混じりの声にフォールセンは頭を軽く下げて詫びを入れる。
あの後しばらく高笑いを続けていたケイスだが、傷も禄にふさがっていない所に全身を無理矢理に使ったアクロバティックな剣を振るった所為で体中の傷が開いたのか、すぐに全身から血がにじみ出して、血の海を生み出す惨劇めいた光景を作り出していた。
だというのに血塗れな本人は上機嫌でニコニコしているのだから軽い悪夢だ。
今は再治療をした上で、別室のベットに比喩抜きで頑丈なローブで縛り付けたうえに、薬で深い眠りに強制的につかせていた。
「あの馬鹿は……なんであの状態で今から稽古を始めようと思うんだよ。申し訳ありませんフォールセン様。あんな剣術馬鹿を匿ってくれなんて無茶を頼んで」
いきなり全開で暴走しだしたケイスに関してはガンズは平身低頭しか無い。
結果的にはフォールセンが勝ったが、あの瞬間ケイスが全力で殺しに掛かっていた。
おそらくケイスの事だ。本気になって、状況や相手のことなど全てが吹き飛んだのだろうとガンズは息を吐く。
「気にするなガンズ殿。あの鮮烈な闘気に当てられ、久しぶりに私も剣士としての心や技を思い出せたのだ。よい気分転換となったよ」
「……それなら良いんですが」
本気で言っているのか、それとも社交辞令なのか、判断が着きかねるのかガンズが不安げな顔を浮かべるが、フォールセンは静かに微笑むだけだ。
今の感覚を説明しようとしても、他者には判らないだろうとフォールセンは心に留める。
フォールセンにとって、ケイスは新しい存在であった。
今日会ったばかりだからの目新しさでは無い。
もっと深い意味でのだ。
その見た目は、メイソンが言う通りにフォールセンがよく知る姉妹に似通っていた。
おそらくその血を色濃く引く存在であるのは間違いない。
感じる青龍の血が、その生まれに何かしら深い事情を持つと気づかせる。
だがケイスを見ていれば、剣を交えれば、それら全ては些細なことだと思い知らされた。
ケイスと名乗るあの少女は、剣士ケイスなのだと。
百戦錬磨のフォールセンすらも予想しない無茶な攻撃を仕掛け、しかも今考えついたと平然と言ってのける。
身のうちに巨大な魔力を抱えているはずなのに、レイネの話では、魔力を一切持たない、生み出せない変換障害者だという。
全てがフォールセンの予想外。想定外。
ケイスと出会う前。
ケイスと剣を交える前。
フォールセンが抱いていたはずの、過去の思いから来る暗く深い闇を思い出させる容姿だというのに、ケイスには一切纏わり付くことが無い。
唯々純粋に前に進むがゆえか。
それとも剣のことしか頭に無い剣術馬鹿ゆえか。
扉を壊してフォールセンの前に降り立った剣士は、フォールセンの長い人生の中でも初めて遭遇する珍妙な剣士である事に変わりは無かった。