左右、上下、前後。
軽やかにステップを踏みながらケイスは剣を縦横無尽に振るう。
右手の剣で打ち合わせながら崩し、左手で突きを放つ。
さらにそのまま膝を沈め、崩した体勢の勢いを乗せた右の凪払いを低く打ち込みつつ、左の刀身をその上に這わせ、跳躍と同時に剣を蹴り上げた威力重視の大技へと。
己が思い描く理想を形とし、両手に握る二振りの剣を用いた本来の剣技を開放し、目の前に出現する水人形を次々に一刀両断していく。
ここはラフォスが作り出した精神世界。
現実のケイスの身体は、今はレイソン夫妻と共にコウリュウの河口を渡る渡し船の中。
川と言っても、大陸を代表する大河であるコウリュウの河口ともなれば、知らぬ者が見れば湾と見間違えるほどの幅を持つ。
対岸まで到着に20分ほどかかると聞いて、身体は休めるために睡眠を取りつつも、短時間と言えど、寝込んでいて数日間も出来無かった鍛練を積むためにケイスはラフォスの世界を訪れていた。
「まったく。心配をかけおって。少しは自重せよ。このような時くらい身を休めぬか」
現実では未だ肉体のダメージが酷くまともに剣を振れないケイスにせがまれて、己の世界に招いたラフォスは、一心不乱に剣を振るケイスを見下ろしながら苦言を呈す。
末の娘の無理無謀は、愛剣として付き合わされているので、この一年あまりで骨身に染みるほどよく判っているが、それでも今回は無茶が過ぎる。
危うく死にかけ、さらに襲撃を受けたとはいえ、ほとんど戦えないのを自覚しながらも自ら戦いを挑んでいたとは……
「だからこちらで剣を振っているのではないか。現実では鍛錬をせず身体を休めているぞ。船での短い移動時間だけだが、それでも眠れるからな。それに剣士である私が剣を振るなとは、生物に呼吸をするなと言うのと同義だぞお爺様」
ラフォスの説教に対して悪びれる様子も無くケイスは剣を振りながら答える。
戦いこそ己が生き様。
剣こそが自らの言葉。
自らを剣士であると称するケイスらしい答えと言えば答えだ。
だがラフォスはどうにも違和感を感じていた。
ケイスが剣を振るのを好むことは知っているが、何時もなら標的を求めることも無く、只黙々と剣を振っているはずだ。
「何があった。何時ものお前らしくなかろう」
「何のことだ?」
「標的を求めるなど珍しいではないか。なによりお前が我の問いかけにすぐに答えることが、集中が出来ていない何よりの証拠ではないか」
一度剣を振り始めれば、数時間所か数日でも、己が納得するまで剣を振る剣術馬鹿なケイスが集中すれば、周りの声や状況など一切を気にしなくなる。
無理矢理に遮れば、一気に不機嫌になって斬りかかってくるのが平常運転のはずなのに、今日はラフォスからの問いかけに即座に返事を返すなど、普段より集中が欠けているのは明白だ。
「むぅ……少し気になって集中が出来ていないのはあるな」
ラフォスの指摘に思い当たるところがあるケイスは大きく息を吐くと、剣を止める。
「お爺様。私には知識が足りない。戦いならばどうにかなると思っていたが、人が絡むと純粋な戦い以外に外まで考えなければならないと思ってな」
獣や魔獸。
ケイスを喰らおうとする者が相手ならば、只喰らい返せば良い。
純粋無垢な弱肉強食な世界こそが、ケイスがもっとも好み得意とする戦闘。
しかし人が絡むようになれば、ただ相手に倒されず倒せば良い世界で割り切れなくなっている。
その事は以前より気にはしていたが、特に今回は自らの無知故にその裏に潜む悪意に気づくのが遅くなり致命的な結果をもたらしている。
死した者は決して生き返らない。
それはこの世における絶対のルール。
一度滅びたラフォスとて生き返ったと言うよりも、その骨の一部に残した魂があったからこそ活性化し、再び意識を取り戻したと言うのが正確。
それも龍という圧倒的な自我を魂を持つ存在だからこそで、他の生命では到底は真似できない。
「しかたあるまい。煩わしいか?」
「敵を全て殺せば終わる方が判りやすくて好きだ。だがそうも言っておれまい」
自分が気にくわない者はこの世に生きる資格など無い。
あっさりと語るケイスの言葉の裏側に潜むその傲慢すぎる狂気に、ラフォスは気づきながらもあえて指摘はしない。
他者の言葉では力では、己の意思を曲げない。
龍とはそういう物だ。
ケイスが他人の言うことを聞くのは、あくまでも自分が認めた者達の助言だからであり、それが自分へ向けた好意による言葉だからだ。
それも自分の意思が勝れば、耳に入れず、ただ猛進する。
「これから向かう先で待つフォールセン殿は剣に優れた英雄であるが、それ以上にその深謀遠慮を謳われている。私が目指すべき道の先にいられる方だ」
「我が末の一人であったな。火龍王を倒した者か……我の知っている者とは違う若龍のようだがそれでも龍王を名乗るからには、人知を越えた力を有するであろうな。それを倒せる者はまた人知を越える者であろう」
フォールセン・シュバイツアーは龍王を葬り、ロウガを開放したあとは迷宮に挑むことは無くなり、新たに立ち上げた管理協会ロウガ支部長として、ロウガの復興にその尽力を尽くしたのち、要職から身を引き、迷宮にも挑まなくなったことで天恵の力が薄れ徐々に老化しながら、今はただ静かに余生を過ごしている。
それは世間で良く知られた事実であり、いつまでも地位にしがみつかないその生き様がより英雄視される事になる一因となっている。
「うむ。だが龍を倒した者はまた龍となる。しかしフォールセン殿は私と同じくお爺様の血を引く者で有り、赤龍王を倒した者としてその血を身に宿してしまっている。異種の龍の血をその身に宿したことで体調を崩されたが、それでもロウガ支部長となり、この街がここまで栄えることになる礎を築かれた後、引退していらっしゃる」
だがケイスは直接会ったことは無くとも、フォールセンとは深い縁を持ち、その身に起きた真実を知っている。
「私はあの方に剣を知恵を学びたいと思っている……だがあの方が要職から身を引いた真の理由は、大伯母様の死が強く影響していると御婆様はおっしゃっていた。私のこの身があの方には痛みで無かろうか。そして私はその目で見られるのだろうか。実際にこうやって面会する機会を得て、改めて思ってしまってな」
自分の髪を弄りながらケイスは、ラフォスが佇む水面に映る己の姿を見つめる。
大伯母である邑源雪を知る者は皆が口を揃え、生き写しのようにそっくりだという。
それは妹であった祖母や、恋人であった父でさえもそういうくらいだから、フォールセンも変わらないだろう。
「英雄と呼ばれる大伯母様に姿見が似ていると言われるのは、誇らしくもあるが、それは私自身をあまり見ていないという事であろう。父様など私を大伯母様様より一字頂いたスノーとしか昔は呼ばなかったからな。イラついて怒りのあまりに龍冠の崖から投げ捨てて、湖の底に叩きつけてしまったこともあるぞ」
「娘……やりすぎであろう。お主は昔からそうなのか」
「あの頃はまだ魔力が使えた上に、自制も出来なかったからな。だがやり過ぎかもしれないが、あれは父様が悪い。例えお大伯母様に似ていようとも私は私なのだぞ」
自尊心の高いケイスにとって尊敬する人物であろうとも、誰かを通してしか自分が見られないのは、実に腹立たしい。
龍の血を色濃く蘇らせたケイスにとって、己の心臓が生み出す龍の魔力とは己の心身を強く焼く劇薬のような物。
心臓を用いて魔力を生成すれば、今現在持つ力よりも遥かに強い力を生み出せるが、同時に制御できない感情の高ぶりで暴走する危険性もある。
あまりの怒りように、それ以来本来の名であるケイネリアスノーではなく、ケイネリアと呼ぶ者が大半になったほどだ。
ケイス本人としては、少しいらついた程度だが、それほどまでに龍の魔力は力のみならず、感情を増幅させてしまう。
心臓の力を封じ、魔力を捨てた今でも、追い詰められたときに時折起きるその抑制できぬ衝動をケイスは嫌う。
「ロウガの街には大伯母様を知る者がまだ生きている。先ほどのエルフのもその一人であろう。これからもそういう目で見られると思うと、少し気になる」
「しかし悩んでどうにかなる物では無かろう。お主はその者に師事を受けたいと願っている。お主がその意思を代えるわけは無いであろう」
「うむ……お爺様の言う通りだ。判ってはいるのだがな。私が強くなるためには、そして今交わしている約定を叶えるためには、あの方の元に向かうのが一番近道であろうとはな……お爺様。ありがとうだ。少しすっきりした」
悩みが解決したわけではないが悩んでも進むべき道は変わらない。
自分がそれが良いと思っているのだから。
ラフォスの後押しをする言葉にケイスは無邪気な笑みを浮かべて頭を下げた。
「私はお前の剣だ気にするな娘よ。それよりもやはりまだ仇討ちを諦めてはおらなかったか。どうするつもりだ?」
相変わらず傲慢な癖に妙に素直なところも時折見せる末娘に呆れつつも、ラフォスは今後の方針を尋ねる。
今の怪我を負った様態で、まともに戦えず、さらに言えば正体が判らぬ黒幕を探すには、ロウガの街に訪れたばかりのケイスには些か荷が重い。
龍であるラフォスからしても、それならこの街を知る者に、警備隊に全てを任せれば良いと思うのだが、ケイスはそうは考え無いであろう事は判っているし、言うだけ無駄とも知っている。
「第一に怪我の療養。平行してこの企てを図った者に、当たりをつけて機会を窺う。ロウガ支部の上層部にいる者が関わっているであろう捕り物となれば大きな騒ぎとなるだろう。その時に斬りにいく」
「騒ぎの隙を見計らって斬るか。相も変わらず先を見ぬなお主は。管理協会とは大きな力なのであろう。よほど上手くやらねば、お主が罪に問われるぞ」
「うむ。私の行く道を汚してくれおった輩に掛ける慈悲など無い。何よりあの牧場主には世話になった。しっかりと仇を討ってやらねば、残された家族に会わせる顔が無い」
「まったく……そろそろ船が岸に着く。怪我の療養を優先し剣を振るな。必要とあればこちらでいつでも用意してやる」
「ん。さすが私の剣だな。だからお爺様は好きだぞ」
咲き誇る花のように可憐な笑みを浮かべて頷いたケイスが目を閉じる。
姿がぼやけていき現実世界へと戻る末娘を見ながら、ラフォスは嘆息する。
掛け値無しの好意を見せて、それを口にするなら、こちらの心労も少しは考えて行動を自重する気は無いのだろうかと。
「レイネ。そろそろ着くぞ。ガキは?」
「まだ眠ってますね。元気そうに見えても、怪我で体力が落ちていますから」
渡し船の座席に腰掛け、自分にもたれかかってすやすやと寝息を立てているケイスの顔をのぞき込んで、レイネは答える。
白みかけたばかりの早朝の日に照らし出される、始発渡し船には人の姿はまばらだ。
「襲撃されたってのに剛胆な奴だな。話半分に聞いてはいたが、そのままか、これで結構の手練れだってんだからな。存在自体がでたらめな奴だな」
幼いながらも目立ちすぎる美貌のためにフードを目深に被って顔を隠しているケイスは、その姿だけを見れば外見通りの子供にしか見えず、正体を知らなければガンズも気づきはしないだろう。
「起こすぞ。どこで見られるか判らないから早めに動いぅおっ!」
しゃがみ込んでケイスの顔をのぞき込んだガンズがケイスの肩に手を伸ばそうとした瞬間、眠っていたはずのケイスの両目が見開き、怪我を負っていない左腕を抜き手で、顔面に向かって打ち放ってきた。
予想外の不意打ちに対して、ガンズは少しだけ声をあげたが、素早く上げた右手でその手を押さえる。
「誰がでたらめだ。人が眠っていると思って失礼な事を言うな」
「起きてたのかよ。いきなり攻撃をしかけてくるな。危ないだろうが」
「今起きたところだ。それに完全に防いでおきながら何を言うか。あなたなら大丈夫だと思ってやったまでだぞ。当たらない攻撃など攻撃にもならん挨拶代わりだ」
体術ならば自分はこの男の足元には及ばないとケイスは判断する。
防がれるのが判っているから攻撃では無く挨拶という、些か乱暴な理屈を堂々と語る。
「本当にギン坊の言ってたとおり物騒な奴だな。俺は構わないが、横を見てからやれよ」
ガンズの指摘でケイスが横を見ると、にこりと微笑みながらも、目が怒っているレイネがケイスを見つめる。
「ケイちゃん。当たる、当たらないじゃなくて、いきなり人に攻撃しちゃダメよ。判った? 怪我をしたらその人が困るし、偶然でも当たって怪我をさせたらケイちゃんも嫌でしょ」
ケイスの反論など端から聞く気が無いと伝える気だったのか、ケイスの唇をつねって口を塞いだレイネが説教を始める。
小さな子供に対する躾のような説教だが、身体も幼いが、世間知らずで精神的にはさらに幼いケイスには丁度いいくらいだろう。
「ぅぅぅぅぅん」
声を出せないからケイスは何度も頷いて判ったと行動で返す。
死にかけの所を助けてもらった上に、こうやって色々と面倒を見て貰っている恩人に対しては、さすがのケイスも力尽くでどうにかというわけにはいかないのか、されるがままだ。
「この調子で大丈夫なのかこいつ? あそこのガキ共所か、フォールセン元支部長に対しても攻撃しかねないぞ。相当の戦闘狂で稽古と称して現役探索者とやりあうのが好きなんだろ」
「ルディアちゃんの話じゃ、言葉使いなんかの礼儀作法は壊滅的だけど。一応最低限の敬意とか持ち合わせているから大丈夫ですよ。大先生の所ならこういうやんちゃな子も多かったですから」
ケイスの唇から手を離したレイネは、にこりと笑って答えてみせる。
今絡む交う屋敷内で併設されている孤児院育ちで家族が多かった所為か、包容力の大きいレイネらしい言葉だ。
「これをやんちゃっていうな……ケイスって言ったな。お前これから行く先で迷惑をかけるなよ。色々と多感な連中が揃ってるからな」
一方でガンズの方は、ルディアやウォーギンから聞いたケイスの言動に些か不安を覚えている。
なにせ話半分で聞いても生粋のトラブルメーカーで、実際にロウガに訪れたばかりだというのに、既に大騒動に巻き込まれているというか、原因になっている位だ。
孤児院にいる子供達と見た目は同じくらいでも、ケイスの中身は全く違う。
子犬の群れの中に、小型ケルベロスをいれるような物だと心配していた。
「心配するな。助けて頂いたのにお二人の顔を潰すようなことをするわけが無かろう。それに怪我人だぞ私は。療養に専念するにきまっているであろう」
ガンズの言葉にケイスはむくっと膨れて答える。
自分の過去の言動を知れば他人が心配に思うのは当然事だろうに、それらを全て棚に上げたケイスが胸を張って答えていると、接岸して船が微かに揺れていた。
大河コウリュウの東岸に広がるロウガ旧市街地。
街を囲む復興初期の重厚な石造り防壁には、いくつもの爪痕が刻み込まれている。
ロウガ解放後も何度もモンスターの襲撃を受けて傷ついたという大門をくぐり、船着き場から繋がる主要通りの坂道をケイス達はゆっくりと上がっていく。
まだ早朝だというのに、既に開いた店がいくつも見えるのは探索者達が多い迷宮隣接都市独特の光景だ。
季節、時間によってその内部構造を変える特殊迷宮もある永宮未完に挑む探索者達は、昼夜の区別などあまりなく、挑む迷宮によってその活動時間を変化させる。
そんな探索者達のニーズで合わせて、各種店舗や宿屋、酒場、神殿なども、どの時間帯でもどこかの店がやっているという形になっている。
街のメインは広い土地を持つ西岸に移っているが、旧市街である東岸側は管理協会ロウガ支部の重鎮達も多く屋敷を構える高級住宅街がある。
これから向かうフォールセンの屋敷もその一角にあるという。
「ずいぶんと人が多いな。こちらは旧市街なのだろう」
フードを被り顔を隠したケイスは歩道を行き交う人々の多さに警戒の声をあげる。
街中で襲撃を仕掛けるというかなり乱暴な手を使ってきた連中が相手。
警戒してしすぎという事は無い。
「これでも西に比べて少ない方だ。こっちには歴史もある高級な宿が多い。今は始まりの宮まで戻ってる奴らが多いから、騒がしいのを嫌ってこちらに来る連中も多い」
そう答えるガンズもさりげなく周囲へと視線と飛ばし、警戒をしている。
今は迷宮が封鎖されて内部への侵入が不可能となる自然閉鎖期と呼ばれる『始まりの宮』前。
普段ならば迷宮内で借り拠点を構えて、長期探索や狩りを行っている者や、遠方の迷宮へと遠征している探索者達が、拠点であるロウガに戻っている。
そんな探索者達だけで無く、彼らの持ち帰ってきた迷宮資源を取引したり、武具、道具を販売する商人達も多数集まってきており、彼らに娯楽や食料を提供する者達も商機と考えてロウガに行商に来ているので、一時的に人口が倍近くなっている時期だ。
「人が増えて活気も出るんだけど、治安も悪化して喧嘩や強盗なんかも増える時期だから、子供は一人で外出禁止になるの。だからケイちゃんを匿ってもらうには良いかもしれないわね。東側はまだ治安が良い地区だからあまり五月蠅く言われないから出歩こうとする子もいるけど、誘われても断ってね」
周囲の者に親子連れと思わせるためにケイスの手をとって引くレイネは、のんびりと散歩を楽しむ様な素振りで小声で語る。
なるほど言われてみれば行き交う人々の服装がすこし高級だ。
探索者らしき者達も武装は最低限で足取りにも警戒している様子が見受けられない。
「判った。心配するな。私はやることがあるから外を散策している暇など無い。地理を覚えるのは地図にしておく」
今ひとつ外れた答えを返しながらケイスは、頭の中に特徴的な建物を叩き込んでいく。
あとで地図で覚えるにしても、実際の位置関係を目にしておけば、その理解度は違う。
ここが戦場になったときに、どこに身を隠せば良いか、どこで斬り合えば有利になるか。
既にケイスの意識は戦闘に向かっている。
黙りこくって一見大人しくなったケイスをみて、レイソン夫妻は目配せをする。
見た目で誤魔化されないでと、別れる前にルディアから散々忠告をされているからだ。
気品ある儚げな顔立ちと、細めの幼い体で、言う事を聞いて殊勝なことを言っていても、その中身は化け物。
全然別のことを考えている可能性が高いと。
そこはかとも無い不安を抱く夫妻と、その不安が見事的中しているケイスは10分ほど歩いて、丘となった住宅街の中腹までたどり着く。
このあたりには高い塀と、大仰な門と門番らしき者達が目立つ屋敷が建ち並んでいた。
塀や門には侵入防止用の魔術でも施されているか、飾りでは無く実用的な魔術文字を刻み込まれた魔法陣がいくつも見える。
この辺りに住む者が上流階級に属する者達である何よりの証拠だろう。
背後を振り返ってみれば、今登ってきた坂道と、その先のコウリュウが朝の日差しに照らし出され、キラキラと光っている。
光に照らし出される街を見下ろしながら、大まかな路地とその位置関係を確認。
あとで地図を調べて名称と照らし合わせればすむレベルで覚えておく。
「疲れちゃった? それとも傷でも痛むの?」
足を止めたケイスに気づいたレイネが立ち止まると、ケイスの顔をのぞき込む。
「きついならおぶってやるぞ。それでも怪我人だろ。どうする?」
先を進んでいたガンズも足を止めて、ケイスを気遣う。
どうにもこういう風に、すぐに心配されるのはくすぐったい。
だが悪い気はしない。
むしろ自分を心配してくれる気持ちが正直心地よい。
「ん。大丈夫だ。少し街を見ていただけだ。私はロウガは初めてだからな」
すぐに歩きだしたケイスはレイネの手を握ったまま、先に進んでいたガンズへと足早に追いつく。
生理からくる痛みはレイネの鎮痛神術で押さえ込まれているから、少しだけだが闘気を生み出せる。
生成した闘気を全身の治癒力強化に向けているので、十分に動くことは難しいが、普通に歩いたりする分には問題は無い。
「そういやケイス。お前。探索者になるためにわざわざロウガを目指したんだってな。どこ出身なんだな? お前くらいの年の奴が一人旅ってのは無いわけじゃ無いが相当に珍しいからだろ」
この辺りではそうでも無いが、他地方では戦乱が続いたり、野盗が跋扈し、著しく治安の乱れた地域もある。
そういう地方出身の子供が、生きるために探索者になろうとするのはよくある話だ。
「ん。すまんがそれは答えられない。別に先生達を信頼していないとかでは無く、願を掛けているからだ。大願を果たすまで家名も、出生も全て封じるとな」
「家名って……お前どこかの名家出身か? 普通はそういう大仰な物言いはしないぞ」
「だから言わんと言っているだろう。今の私は剣士ケイスだ。それで十分だ」
疑いの目を向けるガンズに、ケイスは胸を張って答える。
そう今の自分はケイスだ。
剣と共に生きる者。剣士だ。
それで十分だ。
自分の見た目や出生はこれから先には一切関係ない。持ち込まない。
頼るのは己の剣技と体技のみ。
自分が目指す探索者とは、その身で遥かに上の怪物や龍も神すらもねじ伏せる者。
すなわち世界最強。
決意を新たに顔を上げたケイスの目に、大きな門を持つ一際大きな屋敷が飛び込んでくる。
己の身に流れるラフォスの血か。
それとも高ぶる心の囁きか。
自分と同じく龍の血を引き、そして剣の源流たる流派の創設者。
祖母や母の話で何度も聞いてきた大英雄があの屋敷にいる。
誰に言われるでも無く、ケイスは目指すべき者の影を感じ取っていた。