龍とはこの世の全てを凌駕し君臨する。
絶大な力は他種族だけで無く、自然ですらも強大な魔力によって変貌させ、ひれ伏させる。
灼熱の溶岩があふれ出て地を覆う獄炎を住処とする火龍。
その火龍達によって占拠された暗黒期。
ロウガ一帯の地上は、草木の一本も生えない不毛の地に熱と毒を含む霧に覆われ、豊かな水量を誇ったコウリュウは枯れ上がり、乾いた大地が延々と続く地獄と化していた。
しかしそれは昔の話。
火龍と火龍達の長である赤龍王が倒され、暗黒期が終わると共にロウガの街は、龍殺しの英雄の元に少しずつだが復興していき、トランド大陸でも有数の国際貿易都市としての往年の姿を取り戻している。
コウリュウを挟んだ東岸側は、火龍による地形変更の影響が少なかったため初期復興時期に作られた旧市街の建物が歴史ある佇まいを見せる観光地としての人気を博し、川岸から続くなだらかな丘陵地にはロウガ名産の茶畑がずらりと並ぶ緑豊かな耕作地としての顔も見せる。
一方西岸側の平野部は、狼牙時代には街の中心地ではあったが、多くの探索者や火龍が倒れ臥した決戦地でもあった為、残留魔力除去や濃厚な魔力につられ迷宮から姿を現す魔物退治などで復興が遅れた事もあり、新市街として本格的に稼働を始めまだ半世紀ほどしか経っておらず、日々新しい建物が建ち、市街地が外に拡大していく拡張期をまだまだ迎えていた。
落ち着いた情景の古き都市と、躍動する活力に溢れた新しき街。
大河を挟んで全く違う顔を見せる。それが今のロウガである。
『どうする? このままいけば入り口で見咎められるやもしれんぞ』
まだ夜も明けきらぬ暗闇の中、ロウガ新市街へと入場するための街道に面した大手門には煌々と辺りを照らす光球の元、完全武装した衛兵の一団の姿が見えた。
新市街は市街地が手狭になるごとに、新たな外壁が旧外壁の外側に作られて、その間に新しく建物が建てられている。
迷宮隣接都市である為に、外壁にはモンスター侵入対策で探知結界が張り巡らされ、正規の出入り以外はすぐに感知されてしまうだろう。
だがロウガほどの大都市となると、日々行き交う人の人数や荷物の量を考えれば、市街地への入場検問を一人一人にじっくりと行う事は時間も手間もかかりすぎて現実的では無い。
市民登録した者であれば出入り記録のみ。
他地域からの来訪者であっても、よほど怪しげだったり、大荷物を抱えてでもいない限り、名前や目的確認など簡単な質疑応答のみとなる。
だが今のケイスの状態では呼び止められるのは確実だ。
満身創痍で明らかな刀傷を負った子供。
衛兵達に保護され治療を受けられる可能性も高いが、同時に不審に思われ色々と詮索される可能性も高い。
追っ手があるかも知れない今は、少しでも目立つわけにはいかなかった。
「……あぁ……ぐっ……だがあの数は突破はできん……この傷では川を潜って侵入するのも……な、なんとか通るしかぐっ……っぁぁ」
息も絶え絶えなケイスは街道沿いの大木に寄りかかりながら、震える手を背中側に伸ばし、固く歯を食いしばって右肩に刺さった矢を無理矢理に引き抜く。
毒によって変色した肉片がこびりついた鏃を忌々しそうに睨んでから、藪の中に投げ捨てたケイスは、ついに力尽き膝をついて木に背を預けて座り込む。
羽の剣を硬化させるだけの僅かな闘気さえも、既にケイスには余裕が無く、しおれた布のようにだらんとなった剣は腰のベルトに引っかけてある状態だ。
腹部の痛みや頭痛は、時間が経つごとに酷くなる一方で改善の兆しは無い。
痛みに耐えながら下腹部に力を入れ丹田から生み出した極々僅かな闘気をもって、血流をコントロールし麻痺毒の含まれたどす黒い血を傷口から排出してから、手持ちの布で縛り上げ止血する。
脇腹と肩の傷口からは、じんわりと血が滲みそこから熱が逃げていくのか、身体が冷えていく。
もっと早めに治療をしていればマシだったかも知れないが、夜の山道で血の臭いをさせていれば、その臭いをかぎつけた獣を呼び寄せる恐れが高い。
何時もなら獣の襲撃は、ご飯タイムとして大歓迎だが、今の状態では逆に食われるだけ。
街の側まで来れば獰猛な獣はほとんど出没しない。
それが簡易治療さえもせず、傷を押して夜通し移動してきた理由の1つだ。
もう1つの理由は、敵の探索網を完全に出し抜くため。
これだけの深手を負ったケイスが、一夜のうちにロウガまで移動しているとはそうそう思わないだろう。
『夜明けまで待つか? 轍の跡から見るに通行量はかなり多い。人が多くなってくればすり抜けやすいかもしれんぞ』
「時間が過ぎればこちらに手を回される可能性が……先に……抜けてしまいた……中に入ればこれだけ……大きな街だ……傷が回復して……治療が終わるまで……」
ラフォスの問いにケイスは何とか答えるが、痛みを感じながらもだんだんと意識が遠のいていく感覚を覚える。
今の簡易治療で残っていた闘気を全部使い果たし、身体強化が切れ、その為にギリギリのラインで守っていた肉体がついに限界を超えてしまった。
度重なる死地を乗り越えてきたその明晰な頭脳が、このような状況下でも正確な答えを即座にはじき出す。
対策はただ1つ。
今一度丹田に力を入れて、僅かでも良いから闘気を生み出して肉体強化をするしかない。
今にも途切れそうな意識の元でケイスは下腹部に力を入れようと、
「ぁつあ! …………」
動かそうとした丹田に奔る最大の激痛。
小さな悲鳴を上げたケイスは、そのまま横倒しに倒れてしまう。
体中から力が抜け筋肉が弛緩し、開いてしまった腹部と肩の傷口から血がとくとくと流れ、地面を染め始める。
『娘!? 馬鹿者が! しっかりせんか!』
「……っぁ……ッ……」
大丈夫だ。そう強がろうとするが声にならない。
痛みはますます酷くなるのに、力が抜けていく、気力が続かない。
街道を進んできたがらがらと鳴る車輪の音が耳に届くが、今のケイスにはそれに反応するだけの力は無い。
規則的に聞こえてくるその音に導かれるように、ゆっくりと意識を手放した。
額に当たる冷たい感触。
外部からの刺激に防衛本能が刺激されケイスは声にならない呻き声をあげながら瞼を開く。
視界が霞み、全てがぼやけて見える。
背中に伝わる柔らかな感触。どこかのベットに寝かされている。
だがそこがどこか、そして今何故自分が寝ているのか、朦朧とするケイスは思い出すことが出来無いが、体調が最悪なのは判る。
全身に楔が打ち込まれたかのように手足が重く、酷い頭痛と腹痛で周囲の気配を探る事すら出来無い。
本質的には野生の獣であるケイスにとって、身動きがほとんど出来ず状況も判らないこの状態は受け入れることが出来無い。
無理矢理に起き上がろうとすると、
「…………」
誰かの声と共に手が伸ばされ起き上がろうとするケイスの体を制した。
己の意思、行動こそがこの世において、自分がもっとも優先すべき至高の存在。
傲岸不遜、唯我独尊なケイスにとって、他者の行動によって自分の行動を妨げられるのは、受け入れがたい物がある。
ましてや今は弱り切った状態。だからなおのこと、押さえつけられればより強く抵抗する。
しかし今はそういう気になれなかった。
押さえてきた手に素直に従い、全身の力を抜き、ただ身を横たえていた。
「…………」
頭が朦朧としていて音として聞き取れるが意味を理解が出来ない言葉。
それがどこか懐かしくて、逆らいがたい物があったからだ。
この声の感じ。手の優しさ……それはケイスには覚えがある物。
かつて過ごした日々。
ただ迷宮を脱出するために全てを費やした日常。
ケイスの成長に合わせ、より凶悪に、より強大になっていく迷宮を、全身全霊をもって逆に食らいつくして、化け物じみた成長を遂げた過去の記憶。
僅かにあった穏やかな日の記憶といえば、傷ついた身体を癒やす日がほとんど。
その時の記憶が、ケイスから抗うという本能を忘れさせる。
諸事情があって何時でも一緒にいることは出来無かったが、それでもその人は、ケイスにとって安らぎを覚えられる数少ない存在の一人だった。
母を思い出させる。そんな声と手だった。
「か……母様か? ……心配……する……な……私は……大丈……夫だから……」
かすれた声でケイスは答える。
母は既に亡くなっている。
そんなことは今の虚ろな状態でも判っている。心の底にくっきりと刻み込まれている。
だがケイスはその言葉を口にした。
この手を持つ人に対して……自分を気遣ってくれる人に対して、ほかに伝えるべき言葉を思いつかないからだ。
例えどれだけ傷つこうが、死の淵に立とうが、自分は絶対に死なない。負けない。弱音を吐かない。
神に弄ばれる運命に捕らわれ傷つき、変貌していく娘を心配する母の心労を、少しでも和らげるために、ずっと続けてきた言葉。
自分の好きな者を。自分が愛する家族や周りの者を、決して悲しませたくない。
その想いこそがケイスの原点であり、力及ばずとも、決して折れず、挑みかかれる理由。
この世界のみならず、あまねく全ての世。
三千世界に住まういかなる者を敵に回そうとも、世界の全てが敵であろうとも、ケイスは絶対に屈することが無い。
常に最強であろうとする為の芯たる心。
そんな明らかな強がりを言う娘に、少しだけ困った表情を母は何時も見せていた。
「…………」
母と同じ手を持つ誰か知らぬ人は、そんな時に母がしてくれたように、汗で顔に張り付いた前髪を梳き取りながら言葉を紡いだ。
『無理しないで』だろうか?
『喋らないで寝てなさい』だろうか?
そんな言葉を口にした母と同じように少しだけ困った顔を浮かべているのだろうか?
いかんともしがたい苦痛のなかでも、懐かしさとすこしだけ安らぎを覚えたケイスは、ゆっくりと夢さえ見ない深い眠りの中に意識を沈めていった。
「まだ熱は高いけど峠は越したから大丈夫そうね」
額の上にのせていた濡れタオルを代えた一瞬だけ目を覚ました少女が発した言葉に、女医レイネ・レイソンは安堵の息を吐く。
10代前半くらいの少女に母親と間違われるとはと思いつつも、考えてみれば自分もそろそろ三十路も近い。
数年前に結婚した夫との夫婦仲は良好だが、共働きで互いに忙しいから、まだ子供はいない。
だからこの年くらいの、しかも貴族の令嬢然とした美少女に母様と呼ばれるのは、悪い気はしないが、少し慣れないのでくすぐったい物がある。
そんな可憐でか細く見える少女が、とても強い意思を持つことにレイネは、少しばかり驚いていた。
一瞬目を覚ました少女の声は弱々しく、意識ももうろうとしていた。
だが誰に傷つけられたかは判らないが、明らかに敵意を持った者につけられた刀傷や矢傷を負っているのに、少女の瞳にはおびえや恐怖の色が皆無で、黒檀色の目は生きる意思をはっきりと宿した力強いものだった。
「話は聞いてたけど……強い子みたいね」
その瞳の強さでレイネは確信する。
噂に聞いていた少女。
この娘がケイスと名乗る少女だと。
ゆっくりと髪をなでつけてやると、苦痛に蝕まれたケイスの表情が少しだけ和らいで見える。
管理協会ロウガ支部傘下のロウガ医療院に所属するレイネが、二日前に近くの村での出張診療の帰りに、外壁近くで倒れていたケイスを拾ったのは、まったくの偶然だった。
木の陰に隠れるように倒れていたケイスの身体から流れ出て、辺りに漂う僅かな血の臭いに気づけなかったら見過ごしていたかもしれない。
脇腹の大きな刀傷は内臓には達していないが相当な深手で、肩の矢傷も鏃を無理矢理に引き抜いたのか抉れていた。
そして何より全身から流れ出る出血量が酷く、身体が冷たくなっていた。
その場で急ぎ応急処置を施していなければ手遅れだった可能性が極めて高かったくらいだ。
しかし所詮は応急処置。本格的な治療を施すには、機具も薬も足りない。
ロウガへと連れて行くにしても、自分の職場でもある医療院が一番最適だったろうが、レイネはそれを避け、ケイスを自宅へと連れ帰って治療を施していた。
全身に負った傷から何らかの事情を抱えている事は明白だったのもあるが、同じ孤児院出身の幼馴染みから、頼まれていた言付けがあったからだ。
やたらと軽くてグニャグニャと曲がる大剣らしい物を持った、偉そうな口調でクソ小生意気な黒髪の美少女を見かけたら教えてくれという物だ。
幼馴染み曰く、矢鱈滅法に強いが、トラブルメーカーで、何かの騒ぎを起こして医療院に搬送される怪我人の山を作るか、自らが担ぎ込まれてくるかも知れないからとの事。
その何とも限定されそうな条件に、レイネの目の前で寝ている少女は、全て当てはまる。
少女が倒れ込んだ横には、大剣の形をしているが剣とは思えない軽さと柔らかさの物体が落ちていた。
苦痛に歪んでいてもそれでも愛らしいとよべる整った美貌とは裏腹に、激しい戦闘で付いた傷を全身に負っている。
そしてその身につけていた外套のポケットには、少女の物ではない他種族の青い血でべったりと染まったロウガ支部発行の探索者向けの仕事仲介書が一枚と、怪しい事この上ない。
普通なら衛兵に連絡をして対処してもらっているところだ。
「でも……ギン君が言ってたみたいに悪い子じゃ無さそうよね」
ケイスの状態から、明らかに何らかの犯罪絡みの臭いがする。
しかし保護欲を刺激されると言うべきなのか、それとも先ほど一瞬見せた子供らしい強がりの表情にほだされたのか。
幼馴染みのウォーギン・ザナドールから聞いた話はどうにも誇張混じりで信じがたいと思っているが、かなり変わっているが根は悪い奴ではないという人物評もある。
「とりあえずはギン君に本人確認してもらおうかしら」
せめて意識が戻って、事情が聞けるまではこの少女を匿っていようという気にレイネはなっていた。