食堂の時が止まった。
ケイスが一体何を言っているのか理解できない。
それがこの場にいる者皆の総意だ。
ラクトが好きになったから決闘を受けて、なおかつ勝てるための手助けをしてやる。
端的にまとめても、ケイスがいっている意味が判らず、それ以前にどうしてこの結論に至ったのか理解不能だ。
嫌いだと評した同じ口から、すぐさま正反対の好意が飛び出してくる心理変化の意味がわからない。
ケイスが心変わりするような何かがあったのかもしれないが、それが判るのは本人だけだろう。
「…………っざけんな! こっ! な、なんで俺がお前に教わらなきゃならねぇんだよ!? しかもお前との決闘に勝つためにお前に教えて貰うっておかしいだろ!?」
茫然自失としていた中真っ先に我に返ったのはラクトが声を荒げる。
決闘を申し込んだ相手であるケイス本人が、ラクトを勝たせるために訓練をつけると宣言するなど、馬鹿にしているのだろうか、もし本気だとしても正気を疑いたくなる提案だ。
しかしラクトの怒声に当の本人は満開のひまわりのような笑顔で答える。
「何がおかしいところがある。実に理にかなった提案だろ。子グマと決闘を行うのは私だ。古来より敵を知る事は戦の基本中の基本。そして私のことをこの世で誰よりも知っているのは私自身だ。だからことこの件に関して私が教えるのが一番の適任ではないか。それにお前は闘気の制御が甘い。今のような使い方では、今回のような危険はまた起こるぞ。だからちゃんと使い方を覚えた方がいい。その上で私に勝てるようにしてやろうと言っているのだ」
さも当然だと言わんばかりに胸を張って答えたその言葉がラクトを困惑させる。
ケイスが小馬鹿にしたような表情でも浮かべているなら、嫌味な性格のクソガキだと思えるのだが、笑顔の奥の目は巫山戯ているのでも馬鹿にしているのでもない真剣な色を帯びている。
その真剣さを感じさせる目の強さと、一点の嘘偽りもないと言わんばかりに堂々と宣う所為で、激高しているラクトすら一瞬頷き肯定しそうになってしまうあたりなおさら性質が悪い。
「あぁ……お、俺はお前に決闘申し込んだんだよ! 戦い方教えてくれとかわざと負けてくれなんて一切口にしてねぇだろうが!」
「ん。確かに言われてはいないな。でも私はお前を手助けしたい。つまり私の意思だ。お前の意思など知らん。時間が惜しいから朝食後すぐに始めるぞ。それにわざと負ける気などないぞ。そんな物は決闘ではない。私は正々堂々全力で勝利を得るつもりでやるぞ」
「だぁぁぁっ! い、意味判らねぇ!?」
ラクトの心情や拒否の意思などは一切考慮せず決定事項だと言い切り、さらには勝てるようにしてやると言いながら負けるつもりはないと矛盾した発言を平気で宣う相手にラクトは頭を抱える羽目になる。
「お嬢さん。俺はこの通り年寄りで最近の若い娘さんの考えている事が理解できないんで教えてもらっていいか。ラクトの何が好きになったんだね?」
このまま狂乱しかねないラクトをさすがに見かねたのか、この場で一番の年長者ファンリアが助け船を出す。
ともかく一度にあれこれ聞き出そうとしても意味不明なケイスの返答に混乱させられるのは必至。
交易商人として価値観の違う人種や偏屈な難物と関わってきた経験をいかして、ケイスの真意を一つ一つ確かめていこうとする。
「うむ。好きになった理由か。いくつかあるが子グマが私と同じで、そして敬意に値する奴だからだ」
ファンリアの問いかけに快く応じたケイスは、軽く頷きながら笑顔で答える。
共感や敬意は確かに人が好意を覚える感情の主たる物だが、ケイスの説明はあまりに舌足らずで真意までは読めない。
「クマ良かったな。お前は良い息子を持ったぞ。きっかけは勘違いとはいえ、お前の名誉を守るために、遙かに実力のかけ離れた私に決闘を申し込むほどの気概気骨を子グマは持ちあわせているぞ。そういった相手に決闘を申し込まれたら受けて立つのが剣士として当然の礼儀だ。それに私も父様が大好きで父様の名誉を守るためにこの地へと来たのだからな。いわば同士だ。子グマお前は好意に値するぞ」
それはそれは嬉しそうな笑顔を浮かべて頷いたケイスは、腕を取って拘束したままのマークスへと笑いかける。
その楽しげな表情に嘘偽りの成分は一切含まれていない。
どこまでも上から目線で脈絡の無い発言を連発しているが、この顔を見るとラクトに好意と敬意を持ったのは間違いないと納得せざるえない。
ただそれでも唯一納得できない人物がこの場にいる。
ほかならぬラクトだ。
「だっ! 誰が親父が好きだ!? 武器屋の誇りだなんだいつもは偉そうに講釈たれてるくせに、散々にこけにされたお前には、ホイホイしっぽ振って武器渡すようなふぬけ親父なんか嫌いに決まってんだろうが!」
ラクトくらいの年頃の子供からすれば親。
特に同性である父親はただでさえ反発の対象となりやすい。
自分が勝手に武器を拝借しているとすぐに怒声と鉄拳が降ってくる。
それなのに公衆の面前でケイスにいいようにやり込められ、武器屋としての矜持をぼろぼろにされ自棄酒まであおっていた父親が、ここ数日は手のひらを返したようにケイスへと次々に武器を貸し与えている姿は許容できる物ではなかった。
「お前は誤解しているぞ。私はクマを愚弄したことなどない。クマはむしろ私が知る中ではそこそこによい商人だ。というよりも私は生まれてから一度たりとも根拠無く人を愚弄したことなど無い」
自信満々の表情で清廉潔白だといわんばかりのケイスの態度がラクトの神経をさらに逆なでする。
「なっ! わ、忘れたなんて言わせねぇぞ! ラズファンの市場で親父のこと散々馬鹿にしたんだろ! そ、その場で見てたファンリア爺ちゃんから聞いてんだよ俺は! だぁつ! はぁはぁっ!」
ルディアの薬で多少は調子が戻ったと言えラクトの体調は最悪に近い。
怒鳴り続けて最後の方は息切れし、ゼエゼエと苦しそうに肩で息をしながらも、強い敵意の籠もった目でケイスをにらみつける。
ラクトがまだ少年といえどその怒りは本物。
それなりの威圧感があるのだが、ケイスには全く通用しない。
「クマお前に口止めされていたが、些細な行き違いだとやはりちゃんと話した方がいいぞ。おかげで私が無駄に嫌われたでは無いか。離してやるからちゃんと説明しろ」
むぅと不機嫌そうに眉をひそめ頬を膨らませたケイスは、拘束していたマークスへと拗ねたような声で文句を言ってから、手首を押さえていた左手を離した。
「……だっ!?」
いきなり拘束を外されたマークスは不自然な体勢であったために蹈鞴を踏むはめになった。
自分の体が全く思い通りにならないというのがここまで気持ちの悪い感覚だと思わなかった。
右手を開いたり閉じたりしてちゃんと思い通りに動くことを確かめてほっと息を吐く。
体が動くなんて当たり前のことなのに感謝したくなるほどだ。
ついいつもの親子喧嘩の感覚で先ほどまで死にかけていた息子を殴りそうになったのを止めてくれた事は感謝するが、もう少し穏便な手段は無いものだったのかとも思う。
しかし未知の感覚で肝を冷やしたおかげか、頭に上っていた血はそれなりに下がり冷静な判断も出来るようになっていた。
「クマ。どういうことだ。俺も聞いてねぇぞ」
ケイスとマークスとの間に二人しか知らないやりとりがあった事を察したのか、ファンリアのこれ以上ややこしいことになる前に話せと促す視線に、頬を掻きながらマークスは口を開く。
「わりぃ親方。そのなんつーかあんまりに嘘くさい上に、自慢話になりそうなんで吹聴する類いじゃ無かったんだよ…………あのなラクト。信じられないかもしれないけどな、ケイスは今言ったとおり俺のことを馬鹿にしてるつもり一切無いんだよ。それどころか真逆なんだよ」
「…………親父。意味わかんねぇんだけど」
ラクトはあまりに予想外の話に父親がどうかしてしまったのかと疑うような目を浮かべている。
ケイスにその真意を聞かされたときの自分も、目の前のこいつは何を言っているんだろうと同じような表情を浮かべていたんだろうと思いながら、マークスはため息をはき出す。
年若いという言葉も生ぬるいほどに幼いが、ケイスほどの技量を持つ剣士に認めてもらえるのは、武器商人として正直嬉しいとは思う。
だが高評価なら高評価でもう少しわかりやすくてもいいんじゃなかったのかと、どうしても思ってしまう。
「ケイスが言うには、ラズファンの自由市で武器を扱ってた商店の中じゃ俺の店が最高評価だったんだとよ」
むろんマークスも手に入る限りの質のいい商品を取りそろえていると自負はある。
しかし数多くの露店が集まっていたラズファン自由市で自分の店が一番だなんて、商売文句は別にして名乗る度胸はなく、さらにケイスがそう評価したからと言って同じキャラバン内にも武器を扱っている商人は幾人かいるのに、それをことさら自慢げに話す気もない。
だからケイスに真意を聞かされても、口止めしていたのだがそれが仇になった形だ。
「簡単に言っちまうとな、ケイスは武器商人としての俺を高く買ってくれてるんだよ」
「……………………………はぁっ?!」
しばらく考え込んでいたラクトは声を上げたかと思うと、唖然となり口をぽかんと開けている。
ルディアやボイド達も顔にいくつも疑問符を浮かべて、理解できないという目線をケイスへと飛ばしていた。
「あーお嬢さん申し訳ないが、これもあんたの口から説明してくれるかね」
どうにも信じがたいのか半信半疑の表情を浮かべているファンリアが、ルディア達の探るような視線にぶすっとした顔を浮かべるケイスへと尋ねる。
どうやら自分の本意が誰にもわかってもらえてないのが不満のようだが、それは無茶な話だろ。
ケイスが見せた言動からマークスを高評価していると察しろというのは酷だ。
「私は剣士だ。剣士にとって大切なものは日々の鍛錬。そして信頼できる武器だと私は思っているしそう教わっている。その私が自らが認めていない商人から自分の命を託す武器を買うわけがないだろ。当然の事だ。何故それが理解できない」
なんでそんな単純な事が判らないんだと、頬を膨らませてケイスは拗ねる。
その理屈自体は確かに当然と言えば当然だが、規格外の化け物が常識を口にするのは何とも理不尽なものがある。
傲岸不遜な普段の態度からすれば、自分の技量ならどんななまくら刀でも名剣に勝るとでも言っている方が合ってそうだが……
「ち、ちょっと待ちなさいあんた。マークスさんの所の商品をそこそことか、人を見る目が無いとか罵倒したって話よね」
泥酔していたマークスに絡まれその時のことを散々愚痴られたルディアが、ケイスの説明に納得できずに突っ込んでみるが、
「罵倒した気はないぞ。むしろ私が剣を買ったという事実。これこそが最高の賛辞じゃないか。私ほどの才の持ち主が自分が振る剣として選んでいるんだぞ……でも確かにルディが言うとおりに言ったのは事実だ。だがそこそこなのは本当だし、子グマが言った暴言とは助言だ」
「いやあんた。助言ってどこをどう取れば」
「ふむ。クマが私に武器を売ることを拒んだ理由である、私くらいの体格では、あの長さ重さのバスタードソードは不向きだというのは確かに一理ある。しかしそれは常人の話だ。先ほども言ったが私は天才だ。私のような規格外も世には多い。これらを一目で見分ける目を持つのは、一流の武器屋として大成するのには必須だろ。私はクマにはそれだけの商人になる可能性があると思っている。だから良い剣だったことに感謝して助言を与えたまでだ」
「臆面も無くそんな堂々と天才連発すんな………っていうかさっき一番って言った舌の根も乾かないうちに、そこそこって評価どうなのよ」
どういう育ち方をしたら、ここまで自信過剰という言葉も裸足で逃げ出すほどの傲岸不遜で唯我独尊的な思考になるのか。
後で胃薬と精神安定剤をいくつ用意する必要があるかとルディアは真剣に考え始めていた。
「それなケイスの判断基準の平均値が異常なんだよ。ケイスお前が良いって思った剣もう一度あげてくれるか。手短にな」
「ん。良いぞ。最高の物はちょっと訳あって言えないが、とりあえずはレイジング工房の刺突剣か。あそこの独自の製錬技術で出来た剣は、丈夫な割りによくしなるから軌道を読ませにくくていいぞ。それに岩石竜の大剣シリーズ。特にランドグリア国産の背骨から取った物だな。大きさの割りには扱いやすいぞ。ここら辺が良い刀剣だと思うあたりの最低基準だ。ドワーフのエーグフォラン国七工房は第一と第七工房製の品なら、大抵は好きだが、主鍛冶師によって出来のムラが激しいからあまり一概には言えん。素材だけで言えばミドライト鉱石の武器も好きだぞ。ともかく頑丈だからな。あぁそうだ。あとな…………」
ため息混じりのマークスの頼みにケイスは不機嫌から一点嬉しそうな笑顔で頷くと、いくつも剣の種類をあげ嬉々として語り出した。
その様は幼い子供が好きな人形やお菓子を聞かれてニコニコと列挙するときの笑顔のようだ。
最も語っている物はその美少女然とした風貌とは全く不釣り合いな剣なので、そんなほのぼのした物では無い。
しかも良い刀剣としてあげている理由が、肉を抉ったときの感じが良いだの、骨ごとたたき切れるほどの重さが良いだの、脳天から唐竹割が出来るほどの切れ味だの、何百切っても刃こぼれし無いだのだんだんと物騒な理由になっていく。
「判った。判った。もうそれくらいで良いから」
嬉々として語るケイスの様子にこのままでは延々と話し続けかねないと思ったマークスはもう十分だと遮る。
「むぅ。そうか。好きな剣はまだまだあるんだが」
重度の武器マニア気質というか刃物キチガイな一面は、周囲が引きそうになるほど濃く重い内容だったのだが、ケイス自身はまだ語り足りないようだ。
「稀少品も多いから薬師のルディアじゃエーグフォラン以外の名はぴんとこないかもしれねぇが、ケイスの挙げた刀剣類ってのは、どいつも共通金貨で数百枚単位で取引される高品質高級品だ。そこら辺と比べて俺の店の品揃えをそこそこってのは、かなり……破格の高評価だな」
ケイスの上げた刀剣類はどれも名のある騎士団に採用されていたり、領主の証として王から下賜されるような高級品や、上級探索者達が迷宮外で帯刀する類いの高品質品。
高価すぎてあまり一般に出回っていないが、武器屋としてマークスもいつかはそれらも扱えるような大店の店主になりたいと憧れる品ばかりだった。
現役探索者達であるボイド達や長い商売歴を持つファンリア。
そして父親であるマークスから武器知識をいろいろ仕込まれているラクトの驚きは言うまでも無い。
「うん。本音を言えばもっともっと良い刀剣もほしいが、あの時は手持ちがあれだけだったからな。その中で最も良い剣を買おうと思って、安くて良いものが入る所をラズファンの警備兵に尋ねたらあの市場を薦められたんだ。それで下見に一日おいて武器を扱っている全ての店を吟味した。その中から5店くらい選んで、次の日にもう一度見て最も良いと思ったクマの店を選んだ。だから誇れクマ。お前の店があの時市場で一番だった。私がそう認めたのだから間違いない」
己の目利きに間違いは無いと、マークスが一番だったとケイスは笑顔で断言する。
どうやら好きな刀剣の話をしているうちに、先ほどまでの不機嫌はすっかり吹き飛んだようだ。
しかしケイスの言葉に誰もが口をつぐんでしまう。
ケイスの指し示す全ての店とは、まさか文字通り”全て”なのか。
使用料さえ払って許可証をかねた看板を掲げれば誰でも好きに商売が出来るラズファン自由市に建ち並ぶ店は、最盛期では五桁にも達するという。
その数から武器屋だけとはいえ、一日で下見を終えるなど到底無理な話だ。
「全部の店ってのは、あー……その比喩表現かい」
主立った店だけ見たとかそういう類の意味であってほしい。
だがそんなファンリアの願いをケイスはあっさり食い破る。
「違うぞ。下見した日に武器を扱っていた店2328軒は全て見たからな。クマの店があった武器屋通りはもちろん市場全体を見たぞ。良いのがほしかったからな。それで店頭に置かれた武器の質や手入れから、大まかに篩をかけて気になった店を選別した。ほかにもいくつか気になる店はあったが、クマの店は値段が判らなかったのが気になったが、それ以外は質や手入れで勝っていたから選んだ」
「………嘘くさい話だけど確認してみたら、下見した日に開いてた店と並んでた商品。店主の特徴まで全部覚えてんだよ。ほれ親方も知ってるだろギゼットとバッド。あいつらの店の場所は知ってたから、ケイスに確認したら、あいつらの顔の特徴から、扱ってる商品のラインナップまで正確に答えやがった。ケイスを拾ったのは偶然だからウチの情報を下調べしてたってのは無いだろ……信じがたいけどマジなんだよ」
どういう記憶力してるんだかと、マークスはぼやきながら頭を掻く。
最初聞いたときは、さすがに疑わしいのでマークスも他キャラバンの知り合いの店などをいくつか挙げて確認してみたのだが、ケイスはすぐにその店の店主の特徴や並んでいた商品をずらりと列挙して見せた。
マークスが覚えている限りの店を次々にあげてみても、どれも正確に軽々と答えてしまうので、ケイスの言う全ての店を見て覚えているという荒唐無稽な話も信じざる得なかった。
それは同時にそれだけの数があった店から ケイスがマークスの店を選んだということの証明でもあった。
「ふむ。当然だ。私は見聞きしたことは基本的には忘れないからな。ファンリア。お前の事もちゃんと覚えているぞ。お前の店の前を偶然だが通ったからな。クマの店の近くの西地区44番路のd区画3番、香辛料がメインの店だ。私が前を通ったときは、お前は客の応対は息子に任せて、奥の座椅子で煙草を吹かしながら新聞を読んでいた。たしか一面の見出しは、カンナビスゴーレムの解析技術を用いた新作ゴーレムの性能展覧会がこの船の目的地であるカンナビスの街で行われるという内容だったな」
詰まる様子も見せず目撃したファンリアの様子をケイスはすらすらと話して見せた。
ファンリアの手からぽとりと落ちたスプーンが、ケイスが言っていることが事実だと告げる鐘のように響く。
「「「「「………………」」」」」
床を転がったスプーンの音が鳴り止むと、食堂を不気味な沈黙が覆った。
目の前の理解不能な存在に尋ねたい事、気になる事はいくらでもあるのだが、これ以上常識という概念が崩壊するのを防ごうという自己防衛本能か誰も口を開こうとしない。
「先代。それにあんたらもそろそろ開店なんだけどな。まだ掛かりそうか? 飯が冷める……入り口の連中も入りにくそうにしてんだがよ」
沈黙を破ったのは料理長であるセラギの声だった。
カウンターに立つセラギが手に持ったお玉で指し示した入り口には、朝食の第一陣であるキャラバンの者や船員達が集まっている。
どうやら食堂の雰囲気に近寄りがたい物を感じていたのか、空きっ腹を抱えて入り口で待っていたようだ。
「ん。ご飯か。今日は子グマにいろいろ教えなければならないからおなかが空きそうだ。たくさん食べるぞセラギ。大盛りにしてくれ」
「お前はいつもだろ。ほれよこせ。大盛りだな」
食事と聞いたケイスが嬉しそうな声を上げると、呆気にとられ固まっていたルディア達を気にもせず、左手でトレーを掴んでカウンターに駆け寄うとセラギに催促する。
どこまでも自由奔放と言うべきなのか、自己中心的と思うべきなのか。
「ー…………おれらも飯にするか。これ以上は無理だろ」
ファンリアが言うのは、すでに食事へと興味が移ったケイスからは話を聞き出すことが無理と判断したのか、それとも聞き手側の精神が無理だという一同の代弁なのか…………あるいはその両方か。
どちらにしても誰からも異論はでない。
特にラクトなどケイスに売った喧嘩の発端となった父親に対する暴言が、ケイス曰く”行き違い”であった事に、力が抜け魂が半分抜けかかったような脱力状態になっているが、それも仕方ないだろう。
あの暴言とも思える言葉の真意が、賛辞から生まれた物など誰が想像できるだろう。
「あぁそうだルディアお嬢さん。ラクトの坊主は飯を食べても大丈夫なのか? ケイス嬢ちゃんの稽古に付き合わされるんじゃ、ちゃんと食ってた方が良さそうなんだが」
手からこぼれ落ちたスプーンを拾ったファンリアが、何気ない顔でとんでもないことを言いだし、ラクトが我に返る。
「ち、ちょっとファンリア爺ちゃん!? お、俺、嫌だぞ!」
いつの間にやらケイスのペースに乗せられ話が横道にそれまくっていたが、ラクト自身はケイスの師事を受けるなんて一度も了承していない。
それなのにケイスどころか、ファンリアまですでに決定事項のように話し出すとは思っていなかったようだ。
「ほれさっきお嬢ちゃんも言ってたが、お前さん闘気の使い方覚えたのは良いがちゃんと使えてないから危ないっての確かさ。決闘云々はともかくとして、闘気の制御をその道の天才が無料で教えてくれるってんだ受けとけ。それにあの様子じゃ覆りそうもないわな。下手に断って暴れ出しても面倒だ。まぁ取って食われはしないだろ。いいなクマ?」
制御が出来ずまた同じようなことが起きては危険だともっともらしい理由をファンリアは上げはしたが、その本音は隠しきれず下手に断るとケイスが何をしでかすか判らないからだと白状していた。
「諦めろラクト……ケイスに絡んだ段階でお前の負けだ」
どれだけ信じられない話でもラクトだけには話しておくべきだったか。
マークスは深い同情と死ぬなよという激励を込めて、これからしばらく振り回されるであろう息子の肩を叩いた。