濃く立ちこめる霧の向こう側。山裾へと日は沈みきり、赤色に染まっていた霧は暗闇に色を変える。
周囲の闇からは威嚇のつもりか、それとも恐怖からか、じゃらじゃらと鉄の鱗を盛んにわめき立てて鳴らす迷宮主の気配。
「ふむ。やけに音を鳴らす」
闇の中、自然体で立ち右手に持つ大剣を下段に構え、左手には投擲用のナイフを逆手に持つ。
大剣は長さはケイスの身長ほどもあるが、先は細く根元は太め、厚さは薄い披針形でまるで柳葉のような形となっている。
あまりの薄さにケイスの動きに合わせて刃が揺れるほど。
黒色に染まる刀身は金属ではない。元は大イカの化け物、始まりの宮の迷宮主からケイスがはぎ取ってきた爪の1つだ。
(沼に浸かって熱を蓄えている。どうみる嬢?)
「己の体温を上げて一気呵成に一撃で決めるか、それとも逃亡を計る気か。どちらにしろ、奴に合わせるしかあるまい」
(体温を上げたことで体内の動きが見れなくなった。俺が熱感知をしていると察したようだ)
「少し手をみせすぎたか。まぁよい。居場所と体勢がわかり易くなった。ちょっと試したい技があるからやってみる」
沼には既に斬り殺した無数の大蛇の死体が横たわる。
巻き付き絞め殺そうと群がってきた蛇たちはケイスに取って絶好の餌。自分からこちらの間合いにきてくれた上に、無防備な腹を晒してくれるのだ。
鱗の隙間をぬって筋肉の筋を断ち、神経を斬りちぎり、突きと共に血管に小石を埋め込み血流を塞ぐ。
これもノエラレイド経由の熱感知によって、その体内構造を完全に把握するから出来る芸当だが、あくまでもそれはケイスの腕があってこそ可能な攻撃だ。
見られなくなったから斬れないでは、ケイスの目指す剣士ではない。
両手に剣があれば、自分に出来無い事は無い。殺せない生物、いや存在などいない。
ケイスを支えるのは、絶対的なまでの己の才能に対する自信。
額当てに埋め込んだ赤龍鱗が放つ赤色光もすぐに闇にのまれ、手の届く範囲程度しか照らせないが、元々己の手が届く範囲を、剣の間合いを己が世界とするケイスにはそれで十分。
耳を澄ませ、額に意識を向け、音と熱で迷宮主の動きを探りながら、その動きに合わせすり足で僅かずつ体勢を変えていく。
双頭の片頭を最初の接触で切り落とした為か、迷宮主は必要以上にケイスを警戒し、なかなか仕掛けてこない。
こちらから踏み込んでも良いのだが、そうすると沼の上で断つ事になる。それはダメだ。
斬った迷宮主が沼に落ちて沈んでしまったら、せっかくの獲物なのに食べられない。
事ここに至っては既にこれは戦いでは無い。
圧倒的捕食者たるケイスと、哀れにもその贄に選ばれてしまった大蛇という関係でしか無い。
今の時間は迷宮主に思い知らせる時間でしかない。
逃げることは出来ない。逃げようと背を見せれば、化け物は残った片頭を後方から抉り貫いてくるだけだと。
生き残るためならば、窮鼠は猫を噛むしかないと。
蛇の体温が、高熱を帯びる沼とほぼ変わらないほどまで高まった瞬間、迷宮主が覚悟を決め大きく跳ねた。
全身を覆う鉄の鱗を逆立て、その強烈な身体の一撃でケイスを叩きつぶそうと頭上からのし掛かってくる。
「邑源流石垣崩し!」
頭上から迫る蛇に合わせケイスは左手を鋭く振る。
雷光のごとく放たれた短剣は、鉄鱗に当たって火花を起こさないように鱗の隙間をぬってその下の大蛇の肉体に浅く突き刺さる。
それは大木のように太く頑強な身体を持つ大蛇からすれば、一本のちっぽけな棘が刺さった程度の物。
本来ならば何の問題にもならない攻撃。だがそのナイフにはケイスの闘気がこれでもかと詰め込んである。
ケイスの込めた闘気と蛇の身体に充満していた熱を帯びた闘気。
異種の闘気同士はぶつけ合い、互いを滅ぼそうと活性化し爆発的に膨れあがって、周囲の筋肉や血管を異常に肥大暴走させ、すぐに耐えきれない濁流となって、ナイフが刺さった箇所から大蛇の肉体を内側から弾かせる。
礫となって弾ける鉄の鱗は、地面深くまでにめり込み突き刺さり、周囲に生えた石柱木を叩き折り、飛び散る血肉が雨のように沼に降り注ぐ。
その熱を帯びた鉄と血と肉の雨の中、自らの四肢を掠める鉄鱗も、腕を焼く熱い血も、視界を覆う肉片も気にせず、地を蹴り蛇へと飛びかかる。
吹き飛ばした箇所は心臓のやや真下。内側から弾けた肉に埋まり躍動する赤黒い臓器が発する濃厚な血の臭いをその嗅覚に捉えながら、ケイスは左の空手を闘気を込めた拳へと変えつつ、右手の大剣をしならせ振りあげる。
上から落ちてくると大蛇と下から飛び上がったケイスが交差し、その両者が立ち位置を変えたときには、勝負はついていた。
その身を地面に横たわらせ、全身から血を噴き出して一瞬で絶命した双頭大蛇と、その大蛇から抉りだした心臓を左手に掴むケイスへと。
「あむ……うむ。コリコリして美味い。こっちは生だから、もう一つの方は、ここを出てから火で焼いて食べよう。鮮度が落ちるのが嫌だが、火が使えぬでは仕方ないな」
まだピクピクとしている心臓に時折かぶりつきながら、斬り殺した大蛇の腹に取り付き、抉りだした心臓とは別の位置にあるもう一つの心臓を取り出すために、ケイスは鱗を力任せに引きちぎって剥いでいく。
一見は深窓の令嬢然とした虫も殺せないような美少女だが、基本的に美少女風肉食系化け物であるケイスが、口周りや腕につく血を気にもせず心臓にかぶりつきながら、手に持った大剣で大蛇の腹をかっ捌いていくその光景は、控えめに言っても凄惨すぎる地獄絵図だ。
(娘。おまえの食性はもう諦めているが、最後の攻撃は何をした?)
時折別の食感が欲しいのか、切り開いた蛇の腹肉を噛みちぎっていく末の娘の悪食は、今更どうしようもないと知るラフォスは、大蛇を絶命させた一撃について尋ねる。
ケイスが最後に放った一撃は、まず拳をぶち当てて蛇を絶命させ、その刹那の一瞬に早業で心臓を抉りだした流れはラフォスにも判ったのだが、問題は打ち込んだ拳だ。
いくらケイスと言えど、この巨体の蛇を拳1つで殺せるわけが無い。
そんな遠い遠い昔の祖先であるラフォスからの疑問に、
「ふむ。あれだお爺様。私も散々苦労させられた青龍の闘気を、拳に乗せて闘気浸透で心臓に打ち込んでみた。あれは暴走状態では、血管を氷の刃が流れるような冷たさを感じて、実際に内側から血管をずたずたに切り裂くであろう。試しでやっていたら上手く行ったな。今度は赤龍の闘気で燃やしてみても良いかもな」
ケイスは事も無げに答えてみせる。迷宮で戦えば戦うほど、迷宮主を喰らえば喰らうほど、ケイスの強さは天井知らずで上がっていく。
そしてそれに比例、いやそれ以上の勢いで非常識さは増していく。
(……ラフォス殿。青龍の闘気は物理的に外界へ作用する物であったか?)
(青龍に限らず、他者の肉体、外界に干渉するそれは魔力の分野だと貴殿も知っておるであろう。娘の非常識は真面目に考えるなと忠告しておこう。身を持たない我等ですらも疲れるだけだ)
前であればケイスの非常識さに、ラフォスは一人悩まされた物だが、今は同じく魂だけになった同類のノエラレイドがいる。
自分以上に困惑して理解でき無い者がいるおかげで、多少は冷静さを保てる幸運をラフォスは感謝しつつ、自分が至ったケイス絡みの対処方を伝授する。
すなわち何をやってもケイスだからと思考を放棄して、結果のみを受け入れろと。
(諦めが肝心と言うことか。ご忠告痛み入る。さすがは前青龍王殿。的確な対処だ)
「むぅ。二人とも失礼だぞ。闘気浸透を用いた心打ちの派生型なのだから出来て当たり前だぞ……ん。そうだな。技名を派生闘氷心打ちとでもするか。よい名だな。うむ」
他の生物からみれば非常識の塊である龍達ですら呆れさせた当の本人は、自分の心の中で会話を繰り広げる二人達に頬を膨らませ文句を言っていたが、すぐに新しい技に名前をつけて満足げに頷いて、心臓発掘作業を再開する。
ケイスの使う古武術の心打ちはあくまでも対象を麻痺させる技法であって、物理的に絶命させる技ではないという事実をさておき、実にご満悦だ。
そのまま鼻歌交じりで大蛇の死骸を捌いて身体をのめり込ませながら、ケイスはもう一つの心臓があった位置を発見し手を伸ばすが、すぐに眉を顰める。
発見した心臓があったであろう位置を手探りで触ってみると真四角ですべすべした何かがあったのだ。
その心臓の代わりにあった物を両手で持ち上げ、顔の前に持ってきたケイスが目をこらしてみる。
「……宝物(ほうもつ)化しているのか。むぅ、これでは食べられないではないか」
それはどこかの下級神の神印で封が施された迷宮の宝である稀少な品々、宝物が入った箱だ。
普通の探索者なら、迷宮主を倒して得た莫大な天恵に合わせて、宝物まで得たその幸運を神へ感謝するのだろうが、既に味付けをどうしようかと楽しみにしていたケイスは僅かに頬を膨らませ、不満げなため息を吐き出した。