clear!! ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編8~clear!! ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編9~今回の種馬 ⇒ ☆☆☆~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編10~☆☆☆ ■ あまつ空へと 夜中に走った天からの流星は、この地に居る全軍の意気を高めた。 中には、興奮から冷めずに一睡も出来なかった者すら居た。 誰もが勝利を掴み取れると信じ、肉体を精神が凌駕したのか、これまでの戦の疲労すら感じさせないほど動きが鋭敏だった。 辺章も、天の旗を掲げたことから流星によって鼓舞されていると、敏感に自軍の様相を感じ取って、決戦の決意を固めた。 「韓遂、これを好機、と見るか」「どうだかね。 だが、ここまで兵が盛り上がっちゃ水を差すのは逆効果さ。 いっそ煽り立てて一気にぶち抜いてもらった方が賢い選択ではあると思うね」「やはり、そうか」「こうなりゃ利用するだけ利用するっきゃないさね。 1万ほど兵を貸しな」「今からか?」「ああ、ちょいとばかし小細工をしに出かける」 そうして、韓遂は一万ほどの兵を引き連れて、荒野へと向かった。 郿城に篭る官軍もまた、叛乱軍と同じような反応であった。 まだ記憶に新しい洛陽の決戦。 全兵といわずとも、その戦に顔を出した兵卒の数は多かった。 天に虹を架け、黄巾の賊兵のこと如く、意気を挫いた天代が味方となってやってくる。 まして、天の御使いが敵方に付いたという噂が昇っていただけに、自らの将が断言した"天我らに在り"という報せに、色めき立つ者は多かった。「賈駆殿、今のうちに兵を分けて休息と修繕の役割を当てよう」「ええ、相手の陣内も騒がしくなっている。 明日、何か仕掛けてくるとも限らないわ。 その対策も打つわよ」 叛乱軍にも物資に余裕はそれほどないのか。 兵数差に物を言わせ、粗末な攻城兵器と歩兵の突撃、ときおり思い出したかのように火矢を討ちこむ攻撃が主であった。 この事実は脅威であったのも、幸運であったのも確かである。 何せ、郿城に篭る者達は力に任せて群がる敵兵を追い返すので精一杯だ。 考えられる城攻めに当たっての対応策は何一つとしてしていない、というよりもさせて貰えなかった。 そして、篭城戦において最も忌避しなくてはならないのが、攻め手を城内へと侵入させてしまうことだ。 「皇甫嵩殿、この場の修繕は任せるわ」「賈駆殿はどこに?」「私は―――」 賈駆もまた、韓遂と同様に五千程の兵を率いて深夜に郿城を飛び出した。 そして、激突の時間は訪れた。 陽の光が郿城を照らそうと、大地の突端から顔を覗かせた。 朝焼けの真っ赤な光が黒の闇を打ち払い、郿城と荒野の間に一陣の風が吹く。 山沿いに面した郿城の西、黄河へと続く東から陽が照らし出されると、戦火の幕が上がった。 辺章が、戟を天に届けとばかりに突き上げ、『天』と『辺』、そして『馬』の軍旗が翻る。「夜天の流星、勝利を見たり! 我に、続け!」 皇甫嵩もまた、時を同じくして郿城の中央、決して破られてはならない門上に立つと腰から剣を引き抜いて垂直に掲げた。「胎から声を出せ! "天"が来るまで、一歩も通すな! 死守するぞ!」 水平に薙ぎ払われた一閃、それを契機に両軍から空を劈く雄叫びが上がった。―――・ 激戦区となったのは、中央門付近。 東西はどちらも散発的で、相手が取る戦法も、やはり兵数差を生かし多少の犠牲を厭わない力押しであった。 が、皇甫嵩と賈駆が詰める中央は、攻撃が止む事無く、常に動き回らなければいけない状態だ。 中央での弾き合いも、相手が力押しなのは変わらない。 ただ、集中する戦力と投入される兵数が群を抜いて突出していただけだ。「矢が切れただと? 届くまで少し待て! そこらへんにある物でも投げつけていろ!」「槌が来ますっ!」「まだ遠いぞ! ひきつけてからだっ!「門の守りは味方に任しておきなさい! こっちは斉射の用意、急げっ!」「賈駆様!」「なに!?」 兵の声に、賈駆は視線を正門の前に向けた。 捉えた視界には、僅かに間隔を空けて騎馬隊が。 その少し奥には歩兵が、それを追う形で追っていた。 考えなくても、何度も何度も何度も何度も受け続けた敵の攻撃手段の一つであった。 繰り返された、言わば馬鹿の一つ覚えのような攻勢に、賈駆も皇甫嵩も視界に捉えた瞬間に声を張り上げていた。 「騎馬隊は弓を持っているぞ! 火矢に備えろ!」「水は皇甫嵩殿が用意しているっ! こっちは竹筒を用意! 斉射に備えるわよ!」 号令一過。「今ぁぁぁっ!」 郿城に篭る槍を持つ者と竹盾を持つ兵が、隊列を組んで入れ替わる。 何処か遠くで、火矢は無いとの声が張りあがった。 敵騎馬隊の弓が軋みを上げて、郿城の空を覆う数多の矢が発射された。 青い空を埋める黒い針の群れ。 その間隙を縫うように、火達磨となった壷が飛び込んでくる。 誰かの伏せろと叫ぶ声が郿城の中央門に響いた。 竹筒の盾を貫く、小気味の良い音と、陶器が割れる音が耳朶に届くと同時、賈駆はここ数日ですっかり枯れ果てた喉元を押さえて口を開いた。「使える矢は回収急げ! 歩兵が突っ込んでくるわよ、弓と槍っ! 投げ込まれた火の消化ぁっ!」「入れ替わりだ! 急げ!」「箱の中の水を使え!」「周囲を濡らして火災を広げるなっ!」「敵兵来ます!」「来るぞぉっ―――!」「槍兵ぇぇぇっ!」 本格的に崩れかけたのは昨日の最後の突撃のみ。 この戦の中、防衛に徹していた機敏に富んだ官軍の行動は、しかし、大量の人の台を築いた叛乱軍の侵入を許すことになる。 駆け上り、あるいはよじ登る敵軍の侵入は今日だけで何度目になるか。 敵の攻城戦の錬度が増した、それも確かにあるだろう。 だが、賈駆自身が感じていたのは下から攻め上る敵軍の、突き上げるような意志。 勝利の二文字を確信し、戦うことのみに集中できている、その精神性が今までと比べて段違いに高かった。 あの流星を敵も利用したのがはっきりと分かる。 この時点で、賈駆は援軍の到着まで、この大攻勢を凌ぎきれるか如何かが大きな分かれ目であると確信した。 凌いだ後はもう、"天"がこちらにつくか、あちらにつくかだけの話となる。 昨夜の内に自力での撃退を目指し、幾人かの斥候を放って、叛乱軍の兵糧庫を探したものの成果はなしだった。 戦の趨勢を、自身の思考以外の所で決められる。 すなわち、文字通り主導権を"天"に委ねたという事実は、賈駆にとっては屈辱以外の何物でもなかった。 兵に守られるように囲まれた中で僅かに逸れた思考は、すぐ傍で発生した怒声の渦に巻き込まれて立ち消えた。 城砦の塀の上で指揮を奮っていた賈駆の下にも、数十人の敵兵が形相を確認できるほどまで近づいて来たのである。 自軍の兵が刀剣を持って迎え撃つその刹那、賈駆の視界の端に弓を引き絞る敵が飛び込んで来た。 周囲の喧騒に掻き消えている筈の、番われた矢の軋みが聞こえた気がした。「っっ!」 飛んでくる矢から、身を屈め―――半ば倒れるようにして必死に躱す。 背の数センチ上を掠めるように飛んでいった矢の先は、踵に引っかかって中空で弾かれた。 まるで中空で小石に蹴躓いたかのように体勢を崩して、冷たい石の上に身を沈める。 短い呻きを一つ。「賈駆様っ!」「囲んで守れっ!」「弓だ! あっちに―――」「お怪我は!?」 安否を確かめられた賈駆は、大丈夫だと声をあげる代わりにずれた眼鏡を手で押さえ、口を開いた。「ボクに構わないでっ!! 侵入された数は少ないわよ! 三人で取り囲んで屠れっ!」 叫んで立ち上がり、一歩進もうと足を踏み出したところで針を踏み抜いたような鈍い痛みに身体が泳いだ。 城壁の縁を掴んで、痛みを顔に出すまいと歯を食いしばる。 矢が刺さった訳ではないし、踵を打った衝撃が残っているだけである。 今は多少の怪我を覚悟しても、押してするべき事が賈駆にはあった。 誰でも構わないとばかりに、乗り込んで内部から突き崩そうと躍起になって襲いかかってくる敵兵はもとより、門自体を破壊しようと槌を叩きつけてくる部隊も数多。 これの対処は主に皇甫嵩が当たっているが、予想以上に攻勢が集中したせいか物資のやりくりに苦心をしていた。 余りの激しさに、東西の守りを固めている張遼・呂布の両将に兵を走らせたものの、未だに戻ってはこない。 兵の貸し借りも期待できず、ギリギリと言って良いほど瀬戸際の攻防を繰り返す現状を見て、危険を承知でこの場に立つことを決めたのだ。 それに、城壁の上に立って指示しようと門前で指示を出そうと、危険な事には変わりはない。 泣き言は吐けない。「弓隊が来ました!」「火です!」「竹盾を前! そこのアンタは門下に居る皇甫嵩殿に火の喚起、走りなさいっ!」 言い切ると同時に、青空に赤色が混じった矢が覆い、正門へと迫った槌が叩きつけられて郿城が揺れた。―――・ 城攻めというのはどれだけ兵数差があっても攻め手である自軍の損失は防げない。 そして攻め手に取れる戦法というのは限られている。 降伏を勧告する、敵将を調略する、相手の準備が整わない内に奇襲、電撃戦を挑む。 今挙げたこれらは、張遼や呂布といった勇名轟く将を釣り出す為に、叛乱軍側としては失くした攻めの手段であった。 もちろん、現況からでも降伏を促すことは出来るが、するつもりもないし、しても官軍に時間を与えるだけに終わるだろう。 そうなると、辺章や韓遂の立場からすれば、強攻で敵兵の意気を挫くか、城を破壊して突撃するしかない。「おっしゃ、そろそろだ。 辺章に次はあたしの部隊が前に行くって伝えな。 斉射後に突っ込むってね」「はっ!」 韓遂はこの戦闘が始まってから、馬上で戦況を眺めながら予想通りの推移にほくそ笑む。 城攻めにおいて邪魔なのは、高く聳える城壁である。 人間が最も守りにくいのは、頭上から降ってくる攻撃であり、出入り口となる門は一番守りが堅くなる。 城内に侵入しようと登っている最中は動きの制限も大きいし、何よりどれだけ人数をかけようと城壁をよじ登りきれる者は少ない。 この城壁という厄介な物を役立たずにしてしまえば、三倍の兵力差などなくても城を攻めきる事は出来るのだ。 それは、正しいものの見方だ。 城壁を無意味にするには破壊槌を用いて破壊するか、或いは地面を掘っても良い。 壁としての役割を失うような一撃を叩き込めば、この戦いは容易に勝つことができるのだ。 ひたすら機を窺っていた韓遂は、昼を過ぎた頃。 朝からひたすら兵数差で押しこみ、あからさまに動きが緩慢になったのが目立ち始めた官軍を見て決断した。 一気に押し込むしかないのなら、今が絶好。 「用意が出来ました!」「おうさ、合図をまちな。 辺章の部隊が下がると同時に行くよ」 一抱えするくらいの大きな麻の袋を抱えた部隊が並び立って、韓遂へと報告する。 彼女はその部隊を一瞥し、満足そうに頷いた。 昨夜の内に一隊を借りて準備した計画は、そんな大掛かりな考えではない。 長期戦を避けたいのは郿城で耐えている官軍もそうだが、叛乱軍も同じだ。 掘る時間が無く、城壁を壊せるような大掛かりな兵器も無い。 となれば、城壁を失くすには高低の差を埋めるしかないだろう。 辺章の攻め立てる部隊から、一際大きな怒声のようなものと、銅鑼の音が響き渡る。「合図が鳴った! 行くよっ!」「オオオオオォォォォ!」 腰から引き抜いた鉄の扇を振りかぶり、馬上で身を振って合図を出すと麻袋を抱えた一団は 攻め手を引いた辺章の部隊を目指して突撃する。 両手で抱えた袋の裾から、土が零れ落ちて地に落ちた。 ――――――・ 来たか! 屈みこんで弓矢の斉射を竹盾で防いだその隙間から、相手の行動を覗き見ていた賈駆は、隣の兵の肩を支えに立ち上がる。 城壁の上、火の玉のように攻め寄せていた敵が僅かに引いたその直後。 その後背を追い越すようにして武器も持たずに走りこんでくる部隊に、賈駆は確信した。 「水を運ぶわよ! 城壁に向かって梯をかけなさい! 皇甫嵩殿!」 踵を返して身を乗り出し、叫んだ賈駆に向かって皇甫嵩は振り向く。 彼女の大きな身振りで腕を振って指し示した方角に、皇甫嵩は即座に外の状況を理解した。 「梯を運べ! 用意していた箱を上げるぞっ! モタモタするなっ!」 手近に居た兵が走りこんで箱の端っこに縛られた綱を投げる。 長く伸びたそれを城壁の上で待つ部隊が手に取ると、次々に木の板が張られた梯が斜めに立てかけられていった。 土煙が上がって、皇甫嵩は思わず目を細めて咳を一つ。 「引けっ!!」 号令と共に箱を押す物、綱を引っ張り上げる者、全員が声を出して梯を昇り始める。 傾斜の勾配と、引っ張り上げる力によって箱の中に入れられた水が波打って零れた。 特に後ろから押し上げていた兵は、頭から被る格好になり、土のついた木板は滑りやすく 上に荷物を引っ張り上げるまでに滑り落ちるものも続出した。「積み上げろっ!」「援護だ!」 背後からの敵将と思わしき声に、賈駆は一瞬だけ視界を向ける。 「盾ぇぇ!」 一度引いたはずの辺章の部隊が、舞い戻って弓矢を構えていた。 真下では走りこんできた韓遂の部隊が、袋を小刀で引き裂き、あるいはその袋を投げ捨てるようにして積み上げ、凄まじい勢いで土砂の道が築かれようとしている。 その間も、城壁をよじ登ろうとする者が当然居た。 手の開いている官軍の兵が、綱を引く者を守るように矢が多量に突き刺さっている竹筒の盾を構え並べた。 打ち放たれた矢の群が、構えた盾に、城の城壁に、兵に突き刺さり、最前線で踏ん張る官軍が僅かに衝撃に押される。 皇甫嵩の守る門に、郿城を揺らす衝撃音が鳴り響く。 まだ完成に至らない土砂の道を、叛乱軍の兵が我先にと城壁の上を目指し走り始める。「うぉおあぁっ!」「あああぁぁっ!」「ぶっ殺せ!」「守れぇっ!」 盾を構えていた官軍が、盾を捨てて腰の剣を引き抜き、叫び飛び込んで来た敵と矛を交える甲高い金属の音が郿城に響いた。 ―――やった! 韓遂は自軍の兵が城壁を半ばよじ登って突入していく様を見て、両手を握って身体を振った。 城攻めにおいて最も大きな障害を城壁だと考える韓遂は、これで勝ったと喜んだ。 今もなお、土は積み上げられていき、城壁との高低差を埋めていく。 たとえ、一人が抱えて来れるのが一袋分だけの土量であろうと、万人で積み上げれば高く広く道は作られる。 土を掘り返す事も出来ない。 壁を壊すことも時間がかかる。 梯を作っても、官軍に燃やされてしまう。 と、なれば後は土の道を作るしか方法は無かった。「いけっ! ここが勝負所だ、一気に押しちまえ!」 そして、奴等の息の根を止める道となれ! 韓遂は自覚しないうちに、前のめりになって鉄扇を振り上げて張り叫んだ。 その時だ。 郿城の城壁の上にのっそりと木の箱が立ち並び始めたのは。 韓遂がそれに気付くと同時に、その謎の箱は城壁の上から落とされた。 大量の水を、撒き散らして。―――・ 真横で剣戟を交える音を聞きながら、賈駆は引き上げきった水の箱を、順繰りに落とすように手を振った。 官軍の兵が、敵の積み上げた土を踏みしめて郿城に侵入させまいと、外で剣を振り上げているのも目端に捉えながら。 戦場の喧騒の中、鼻を突く血の匂いも厭わず、大きく息を吸い込んで、声を張り上げた。「落とせっ!」 声と共に、夜の内に兵を率いて黄河から組み上げた多量の水が、乾いた土に流し込まれる。 一気に水分を含み、粘り気を生み出した土は、城壁に向かう叛乱軍の、勝利への道筋を崩し始めた。 半ばまで昇った叛乱軍の兵の足を泥で絡め取り、中にはその身を泥の中に沈めるものも居た。 無論、侵入を防ごうとその身を盾に剣を振っていた友兵を巻き込んで。 梯や土砂を用意する可能性を予見し、読み勝ったのは良いものの、喜んでなどいられなかった。 今も郿城を守る門に打ち響く槌の音は止まない。 城壁を伝う振動が足を震わし、傍で耳朶を打つ叫び声が鼓膜を揺らす。 賈駆の真横で乗り込んでいた敵兵の呻き声が走り、飛び散った血潮が顔を濡らした。 肩だけを持ち上げて生暖かい液体を拭うと同時。「弓隊前! 足を取られた敵を射て!」 手を、敵に突き出すようにして叫ばれた賈駆の声は、城壁を揺らして劈く閂が圧し折れた轟音に掻き消された。 真下から、天を焦がすほどの軍勢の雄叫びが巻き上がる。 郿城砦の正門がこじ開けられた。「全員抜刀! 一歩も侵入を許すな! 半円で入り口を封鎖しろっ!」 「うろたえるな! 仲間を信じなさい! よじ登る敵に集中っ! てぇっ!」 皇甫嵩の檄が飛ぶ。 賈駆が最前線で命じた。 引き絞られて放たれた鈍い光を放つ矢が、郿城の空を再び覆う。 叛乱軍の多くにその死槍は突き刺さり、死体を盾に、官軍に落とされた箱を盾にしてやり過ごし――― 「―――突撃っ! 踏み潰せ!」 競いあう様に、軋みを上げて耐える穴の開いた門を目指して叛乱軍が走り出す。 破壊の音が聞こえた直後、辺章は自らが突端となって武器を抱えて走り出した。 半ばまで圧し折れた門の様相を視界に収め、上唇をなぞるように舐め上げる。 亀の殻が破れたならば、あとは中身を喰らい尽くすのみ。 戦場の喧騒を切り裂く唸りを上げて、辺章は自軍の兵を追い越して門を目指した。 城壁を追い越す動きから、突如として半開きで耐えている、破壊間近の門を目指す動きに変わった叛乱軍。 それに気がついたのは、郿城へと吶喊する敵将・辺章を見つけた賈駆だった。 彼女は先頭に立って防衛している皇甫嵩に喚起すると、聞こえているかを確かめる事も無く 弓隊として働いていていた部隊を皇甫嵩の増援に当てた。 ついでとばかりに運搬に使った梯を、即席のバリケードとして使うように指示を出す。 常では聞く事の無い、皇甫嵩の獣のような低い声が下から響いた。 「ウおおおぉぉおぉぉぉっっっ!」「雑魚が! 邪魔だっ!」「越えさせん!」 将同士でぶつかりあったか。 賈駆は振り返る事無くその場を動じず、手近の兵が居ないかと首を巡らす。 端に映った自軍を見つけ、指示を出そうと口を開き「あっ……!」 その声は驚きとなり変わって発された。 外から飛んできた矢に見つけた兵の首は貫かれ、声すら挙げずにその身を折る。 城壁の上、後方へ振り返れば、乗り込んできた叛乱軍が友軍の身を斬り落としていた。 開かれた門には目もくれず、あくまで城壁の上を目指していた敵兵に乗り込まれ始めたのである。 無論、最低限の守りに残した官軍の兵は阻もうと、自身を盾にして矛を重ねていたが、それは数差から終わりの無い戦いであった。 舌打ち一つ、心の中で弾く。 厳しい。 上も下も限界に近く、中を抑えるだけで精一杯だ。 これ以上は――― 賈駆の心中を言葉にするように、走りこんできた兵が叫ぶ。 ゆっくりと流れる賈駆の視界の中の景色が、敵兵の存在を捕らえた。 その場から動かず、賈駆は叫んだ。 「横っ! っっ!」「これ以上はもうっ、なっ――ガッ」 乗り込んできた敵が突っ込んできて、抱き合うように縺れあい、そのまま郿城の中に城壁の上から落ちていく。 兵を助けようと踏み出した足が、一歩目で止まって体重を掛けた方か賈駆の身体が崩れ落ちた。 踵の奥から突き上げる鈍痛が、足の甲を釘で刺し貫いたかのように賈駆をその場に足を止めさせていた。 痛みに堪え前を向く。 新たに乗り込んだ敵兵が、殺気立った視線で賈駆を貫いた。 城壁の縁を掴み、立ち上がって背後へと振り向く。 ぐるりと回る視界の中で、戟を打ち合う男達を捉えた。 後ろには、友軍を切り倒した敵が勝利の雄叫びを上げている。 怪我をしていない足が、一歩後ろに退がる。 突撃してくる男が、ゆっくりと刀を振り上げて、刀身に陽の光が煌いた。 その鈍い煌きの中に浮かぶ、青い空と白い雲が、賈駆の視界に広がった。 天つ空の中から。 耳朶を打つ声。―――飛べ! 確かに聞こえたその声は、何処か覚えがあった。 引き伸ばされた時間が戻って、時が加速すると、突撃する敵を前に身体の硬直は一気にとけた。 城壁の縁を掴んでいた手に、力を込めてその場を跳ぶ。 痛みの無い足で着地。 「―――!」 後ろから何かの叫び声が耳を震わす中、そのまま片足だけで中空へと両手を広げて身を投げ出した。 落ちる世界の中で、黄色に広がる地面に向かって、重力に引かれていく。 被っていた軍帽が宙に投げ出されて、お下げの二本の三つ編みが空に残された。 下から突き上げる風が全身をうって、黒いスカートが捲れ上がる。「詠ぃぃぃ-------っ!」 迫り来る地に"天"が走りこむ。 正門に飛び込んで来た金の鬣を揺らす馬が、速度を落とさずに突っ込むと、衝突するように馬上の男とぶつかった。 何かが胴周りを覆うような違和と、短い衝撃が身体を揺らす。 間を置かずに新たな、何かが間に入ったかのように振動が走る。 土埃が眼鏡の隙間を覆って、賈駆の視界を奪ったままグルリグルリと身体が回った。 たった数秒の出来事。 だが、彼女にとって何分にも感じた衝撃と回転であった。 体感でようやく終わったその衝撃に、無意識下で声が漏れる。「うっ……っはっ……」「大丈夫か! 良かった! 間に合った!」「あ……アンタっ……?」「怪我は!? どこも痛まないか!?」 背に回された手で起こされて、賈駆はその時初めて、自分を飛び込んで来た男の姿を認めた。 ぶれた視界の中に必死な顔をした一刀が居た。 一刻の猶予も無い、魔の手から逃れた以上、戦況を確認し自分の成すべきことをしなければならない。 そんな立場であるはずの賈駆は、このとき、ただ呆然と自分を力強く抱いた一刀を、見上げるばかりだった。「敵が入り込んでいる! とっとと追い出すぞ!」「はっ!」「華雄将軍に続けっ!」「続けぇ! 一人たりとも逃さずに蹂躙しろぉっ!」 一刀から遅れること数秒。 金獅の足に追いついた華雄の勇ましい声が、郿城砦に轟く。 華雄の視線が周囲を一瞥した。 賈駆と一刀が倒れこんでいる姿を目視、視界が移り皇甫嵩と辺章のつばぜり合いを見つけて。 華雄は唇を上げてニヤリと笑った。「そこをどけっ! 董卓軍一の"猛将"華雄が相手だ、肉だるまっ!」「華雄殿かっ!」「何!? ぐっおっ!?」「華雄将軍だ!」「援軍だっ!」 横槍に近い形で辺章は皇甫嵩から離れ、華雄の斧を紙一重で躱す。 構えた左腕の皮一枚を削いで、血飛沫が華雄の頬をうった。 門を破り、飛び込んで来た兵も、その華雄の剣気に押されて蹈鞴を踏む。 その光景に、賈駆の思考が戻ってくる。 戦意に熱くなった感情からか、紅潮した頬を一つ叩いて首を振った。 一刀を突き飛ばすように立ち上がると、現状を把握しようと一歩踏み出して止まる。 短い呻き、忘れていた痛みを思い出して眉間に刻まれた皺が、普段の数十倍深く刻まれた。「え、詠っ!」 揺れる体を支えるように一刀が腕を伸ばしたが、それは振り向いた賈駆の鋭い視線に防がれた。 いや、振り返ったまま左手で打ち払われ、真っ赤にした顔を向けて、そのまま右手が閃く。 バチンっ、と周囲の剣戟の音に負けないくらいに、平手の音が響いた。「ボクの真名を勝手に呼ぶなっ!」「っ! すまないっ…・・・」 一刀は打たれた左の頬を押さえ、謝罪と共に目を見開く。 賈駆の目尻から、ハッキリと涙の粒が零れ落ちていた。 目元を腕でぐいっと拭うと、一刀には目もくれずに援軍として次々と入城する兵に檄を飛ばす。 ふらつきながら、それでも賈駆は誰の手も借りずに歩いて。 城壁を登って乗り込む叛乱軍兵士が、華雄と共に乗り込んだ兵に徐々に押し出されて外に吐き出されていく。 首を巡らせば、敵兵が放ったのか、城内の一部に火の手が上がり始めていた。『"董の"、ミスったな』『はは、まぁ文句は言えないだろ? 無事だったんだから』「ああ……怪我、してるみたいだけど……」『だいぶ攻め込まれている、とっとと準備をした方が良い』(人員を借りられないかな、急がないと。 一人じゃ――)「分かってる……行こう!」 "董の"は軍帽を拾って被りなおす賈駆に視線を送り、一つ拳を握って微笑むと、所在無さげに突っ立っていた金獅を掴まえて跨った。 肩を痛めたのか、呻いて倒れる兵を捕まえて、一刀は声をかけた。「すまない! 俺に力を貸してくれ! 伝令と準備、それと董卓からの書状を―――!」 今は、言葉はいらない。 郿城に入り込んだ敵兵の排除をしなければいけなかった。 ■ 掴みとれ! 辺章は華雄に受けた一撃、それだけで武では叶わぬと判断し、自軍の兵を裂いて外に飛び出していた。 それもそうだ、名乗りに"董卓軍一の猛将"と断言した女だ。 董卓軍には呂布という赤い髪の、絶対に武では届かないだろう女が居たことを、辺章は知っている。 それよりも勝ると豪語したのだ。 生半可な腕ではない、少なくとも赤い髪の女と同等かそれ以上の武を持っていることになる。「糞! もう少し、手が届いた物を!」 荒い息を吐き出して怪我の具合を確かめるように腕を押さえる。 肉の外の皮がずるりと剥け、外気が槍となったかのように刺激を与えていた。 僅かに顔を顰めて、しかし、辺章は手当てをすることなく泰然とその場で戟を持ち直し、天に振るった。 如何に敵将が万当であろうと、それ以上の戦力で攻め入れば勝てるは必然。 自身が怪我をしたように、からくりでもない限りは人間である以上、体力も気力も限界値があるのだ。 長い闘争の歴史が、それを証明している。 辺章も勿論、それは存じており、勝利を得るにはこの機を逃して他にないと確信していた。 この一戦だけに留まらず、郿城砦へと何度も攻め立てた叛乱軍は、常にこの硬い守りに跳ね返されてきた。 愚直に矢を、槌を叩きつけて、ようやくこじ開けた門は、まさしく勝利へと繋がる空間である。 郿城に入り込んだ敵援軍の規模が、どれほどの物なのかは分からない。 しかし! 「総力を持って、漢を殲滅する! 全軍、中央へ寄れっ!」 辺章の手は正しかった。 今、この時、この場においての兵力の差は歴然である。 その彼の意を、周囲の兵卒は完璧に理解した。 辺章の檄に槍を構えて突撃し、或いは弓を取って矢を番えた。 武器を持たない者は、地に落ちた武器を拾って駆け出した。 力で強引に引き裂かれ、悲鳴を上げて抉じ開けられた門を見た荀攸は即座に動き出した。 自ら馬に乗り込んで、仕掛けの準備をしていた維奉の下へと向かう。「維奉殿っ!」「おおっ! ここに居るぜ!」「すぐに馬超殿や馬岱殿と合流し、叛乱軍と共に郿城の中央を攻めてください! 合図があればその場で逆撃を! こちらは私が引き継ぎます!」 郿城に篭る官軍はもとより、叛乱軍もまた大きな精神的抑圧を感じていたのを彼女は知っていた。 倍以上の兵数差で持って攻め立てた郿城は、やはり堅牢で犠牲は増えていく。 友人が死んだ者もいるだろう。 仲間を失って、激怒した人間の数は日増しに増えたはず。 この場に居る戦をしている者は全て人……感情があるのだ。 彼等は望んでいたのだ、武器を持って突き刺さした獲物が、悲鳴を上げて口を開けるのを、ひたすらに。 その口が開いた今、死力を持って全軍が突撃することは容易に想像がつく。 それは『叛乱軍に加担した馬家』もまた、同じことでならなければいけない。 了の叫びを返して、駆け出した維奉を見送って荀攸は門に向かって走り出す"友軍"へと視線を向けた。 重い痛みが胎の底からにじみ出て、そっと手を当てる。「時間が無い……」 漏れ出た言葉は、戦火の中に消えていった。 ―――・ まるで吸い込まれいくように郿城の中に消えていく自軍の様相に、韓遂は舌を打った。 西からも東からも、全軍が中央に寄っていく姿は滑稽とも思えた。 辺章や馬家が中央への突撃を叫んだ思考は手に取るように分かる。 戦いとは敵の弱点を攻める事が常道だ。 「っても、呂布や張遼も集ってくるだろうが」 何のために郿城に篭る将を釣りだしたのか、韓遂は辺章に文句をぶつけたくなった。 理想は最も厄介な呂布という将が戻る前に、郿城を攻め落とす事だった。 あの二人が戻った今、戦場を広げて武将の手が届かない様に戦線を広げる手を韓遂は打ったのだ。 門を抉じ開けた今では、この場に居る自分達だけでも十分に突破する事が可能なはずだと、韓遂は思っていた。 もちろん、辺章の考えも間違っているとは言えない。 貫ける機を逃さず、全軍でそこを狙い打つのは決して悪手ではない。 なまじ理解できるからこそ、韓遂はイラつきを抑える事が出来なかった。「韓遂様、我等も突撃しましょう!」「……」 預かった兵の声に、韓遂は鋭い視線を投げるように振り向いた。 気圧されたように、兵の足が後ろに下がる。 「か、韓遂様?」 戸惑うような兵の声に、韓遂は口元を歪めた。 中央に群がる自軍の兵。 官軍の立場になってみれば、これは恐ろしい事ではないか? 軽く万を越える規模の悪意の塊が、殺意を持って突撃するのだ。 黄巾の3万を一人で薙ぎ払ったと言われる呂布が居るとしても、一撃で兵が消し飛ぶ訳でも在るまい。 自分が郿城に篭っているならば、間違いなく中央以外は手が回らなくなる自信がある。 では、その間に命令を待つ兵力をもった自分が遊撃すればどうだろうか。 そう、中央ではなく、別の場所――― それは殆ど、思いつきのような策であったが不思議と韓遂は成功すると確信した。 左右に首を巡らして、聳え立つ郿城の全容を一瞥。 雪崩のように正門に突き進む中央の自軍と、東から中央に寄るように走りこんでくる"馬"の旗。 「馬家は先の釣り出した戦で勝利していたはずだ……官軍はやつらを放っておけねぇ」「は?」「ついてきな! アタシ等は西から行くよ! 目の前の餌に釣られてる阿呆の背後を襲う役目さっ!」「は、ははっ!」「ふふ、ふはっ、あっはっはっはっはっは!」 大声で鉄扇を振りながら馬の腹を蹴って駆け出した韓遂は笑った。 勝った。 戦の始まる前から敵味方の総意を巧みに操り、敵味方の意識を逆手に取って、石橋を叩いて叩いて遂に捥ぎ取った。 圧倒的な兵数差、仲間と言って良いはずの馬軍の反旗、いかに優秀な軍師だろうと覆しようの無い正門の崩壊、舞い降り閃いた戦術。 "天"は選んだのだ。 あの夜空を切り裂いて堕ちた星は、漢王朝の命運そのものだった。 この時、韓遂は郿城の戦いにおいて初めて驕った。 自軍の兵を置き去りに、突き上げる笑いを抑える事無く。 戦場で高らかに響く狂笑は、天を突き抜けるような轟音に掻き消された。 血走った無数の視線が、爆音の正体を確かめようと空を見上げた。 韓遂もまた、同じように。 そこは郿城の城壁の天辺。 皇甫嵩が鼓舞の為に立ったその場所、防護に使われる全ての資材、木材を取っ払って開かれていた。 翻るは"天"の旗。 鳴るは陽に照らされて輝く、巨大な銅鑼。 金色の鬣を揺らす金獅の背に跨り、北郷一刀は†十二刃音鳴・改†を掲げた。 刃を返し、煌きが地を走る。「天の御使い、北郷一刀! これより愚かにも漢王朝に刃を向ける賊軍を討つ! 天空から堕つ流星を見たか! あれぞ"天"の定めた星の趨勢! 夜天の星の声を聞いたか! 我が敵の堕とすべき者だと報せた、天命の声を!」「戯言をっ!」 誰かの叫び声と、風を切って唸る矢が一刀の顔の横を通り抜ける。 頬の皮膚を凪いだその一撃が、赤い線を残して通り過ぎた。 掲げた†十二刃音鳴・改†が振り下ろされて、戦場に似つかわしくない甲高い空気を揺らす音が奏でられた。 指し示された刃を伝って陽の閃光が、辺章に突きつけられる。 「叛乱軍総大将、辺章! その首、天の意に従い貰い受ける!」「オオォオオォォォオォオォォォオォオォオオォオオォオオオオ!」「笑わせるなっ! 天を獲るのは、俺だっ! 殺せっ!」 一刀の宣言が終えると同時、郿城砦の正門は揺れた。 歯を食いしばり、目を剥いた辺章が怒号を発して、叛乱軍の左翼が悲鳴をあげる。 天上に立つ一刀の刃が、東方に薙がれた。 辺章の顔が、東に向く。 渾身の銅鑼を叩く一撃が、空気を伝い戦場の轟音となって響きあがる。 その残響の最中、一刀が叫んだ。「翠っ!」 「うぉおおぉっっしゃっあぁらぁっ!」「いくでっ! 今までの鬱憤、晴らしぃっ!」 馬と張の旗が、叛乱軍の横腹に突き刺さっていた。 楔陣形となって突き進む兵馬の群れの中、先頭を立って血線を描いて槍を振り上げたのは、馬超。 城壁から無数の梯が掛けられて、流れ落ちるように張遼が滑り落ちてくる。 雪崩れ込んだ東陣を抉るように、一直線に辺章の下に向かって突き進んでいた。 悲鳴が伝播するように、辺章の耳朶に西から大きなどよめきがあがって視界が流れる。 銅鑼が鳴り響く。 刃がひらめく。「恋っ!」「行くっ……!」 真紅の呂旗が郿城の西に翻り、その旗に影を作るように人馬が中空に飛び出した。 首下から伸びる赤黒い衣を空に残して、二本の触覚が風に流れて尾を引いていた。 郿城の外、長大な獲物の方天画戟が振り落とされて大地を揺らす。 辺章の視程と足が、その場に留まって口は止まった。 「敵はうろたえたぞ! 天命に従い、賊を屠る!」「華雄っ! 暴れるなら今よ! 行きなさいっ!」 一刀の名乗りに便乗したかのように、皇甫嵩が剣を突き出して叫び命じた。 賈駆の声に華雄の戦斧が翻り、人馬が飛ぶ。 銅鑼が鳴る。 一刀の刀が空を切り裂いた。 甲高い音が刀から響き、辺章の背後から叫び声が上がった。 何も無い筈の自軍の後ろに、真っ赤に燃える炎の揺らめきが、熱風と共に肌を打つ。「勝利を掴みとれっ! 行くぞぉぉっ!」「オオォオォォオォオォォォオォオオォオオォオオ!」 一刀の剣が空に鳴いて、二度の叫喚と共に官軍が矛を振った。 辛苦の防衛線が終わった事を、彼等は自然に理解した。 "天命"を得た官軍は、この大号令を持って反撃に出たのだ。 ■ 命炎 一刀の大号令の後、陽が傾く頃に戦況は瞬く間に一変した。 昨夜の流星によって鼓舞された叛乱軍は自軍の勝利を信じていた。 "天"が我等と共に在ると、自らの総大将の言葉を信じていた。 大儀と言えるそれは、明確な野心を持たない兵等にとって、命を賭けて槍を持つ理由となる。 当然ながら、友を失った、自分の手足を失った者には私怨もあろう。 だが、大勢に影響するのは自分が立つ位置に在るはずの正当性なのだ。 流星を通じ総大将自身が宣言した"天" それを失ったのだと叛乱軍に知らしめるのに、一刀の大号令は十分であった。 漢という巨龍に刃向かった事実を受け入れた彼等にとって、この戦に於いて矛を持つ正当性を失う事は、意気を挫くに足りた。 同時、先刻まで確かに在った、勝利という文字が塗り替えられた事を悟ってしまったのだ。 濃厚な敗北の未来が見えた彼等は、何を持って戦い、何に勝つのかを見失っていた。 今まで終始、攻めてた筈なのだ。 守るのは敵で、殺すのが自分達のはずだった。 なのに、今は違う。 燃え盛る大地へ追い詰めるように、真紅の死神が迫っていた。 一緒に槍を、弓を持って戦っていたはずの馬家(仲間)が、獰猛な叫びを挙げて襲い掛かってくる。 抉じ開けて突き進むはずの門から、"天命"を受けて正義の兵となった敵が飛び出してくる。 なによりも。 "天の御使い"がその手に持つ刀で空を斬っただけで、地が燃え盛って彼等を囲んでしまった。「うあ……あぁぁ、ひぃぃいいいっ!」「わああああっっっ、ああぁぁぁあぁああ!」 叛乱軍兵士にとっての"事実"が恐怖と共に伝播していくのに、時間は掛からなかった。 身を縛り上げていた恐怖が、本能の叫びとなって足を動かし始めたのだ。 叫ぶ声がまた、誰かの叫び声を返して郿城に反響していく。 四方を囲まれて、逃げ出し始めた自軍の様相に、辺章はその場で動く事すら出来ずに眺めるしかなかった。 どれだけ鼓舞をして檄を飛ばしても、間近に居た兵ですら耳を失ったかのように恐怖の音を奏でるだけであった。 足は縺れて転びこみ、腰を震わせて大地にまろび、武器を手放し郿城から後退する。 決した人の流れにしかし、逆らうかのように足を止めて、辺章は微動だにしなかった。 理屈ではなく、肌で敗北を悟ったのは彼も同じだ。 現況に於いて彼の取るべき道は、檄を飛ばして平常心を取り戻させ、兵を纏めて逃げることであろう。 だが、そうはしない。 そうは出来ない理由があった。 最早、軍としての統制が取れない辺章は、群よりも個の我を貫き通す事を決めていた。 胸中に覚悟という二文字が自然に滑り落ちる。 狂騒の中で、瞼を閉じれば何時からか自分に全てを託す笑みを浮かべる姿が舞い降りる。 この敗走する自軍の中に、西へ敵陣深くに突っ込んだ女が居る。 この敗北の前に、理想を描いて自分の勝利を信じた女が居る。 そして、守り、逃げる道を切り開く兵を失った女が居る。 ゆっくりと瞼を開いて、世界を覗く。 世界で最も強くなったような力の漲りを感じた。 逃げ惑う兵馬の群れの中から、殺意の槍が懐に伸びてきたのを、辺章は捉えた。 彼の体躯が、一回り大きくなったかのように全身の筋肉が隆起する。「うおぉぉおぉぉおおぁぁあっ!!」 怒号一閃。 戟を振るう銀の閃光は、槍そのものを断ち切って相手の頭蓋を叩き割った。 その余りの豪腕に、官軍の槍を持つ手が、足が止まる。 怯んだ敵軍に怒鳴りつけるように、辺章は馬上で雄叫びを上げた。「どうしたぁっ! 辺章は俺だ! この俺の首を獲りに来たのだろうっ!」 囲む敵兵の輪が、怒声に押されるように僅かに退く。 「来い! この先、俺を滅せねば、通ることは叶わんっ!」「ならば! 貴様の首、この華雄が戴く!」 辺章の放った豪語に答えるように、兵を割って馬に乗り込んだ華雄が金剛爆斧を振り上げた。 戟と斧がぶつかり合う。 金属が打ち合ったとは思えない轟音が響き、両者の跨る馬が沈む。 衝撃が武具から伝うように全身を震わし、華雄と辺章の体が僅かに泳ぐ。 先に体勢を戻したのは、馬の足の力が先に戻った辺章であった。 未だ下方に沈み込む華雄に向けて、両の手を握り締めて掴んだ戟を真上から振り落とす。「オオオォォォォッ!」「ちいぃっ!」 華雄の短い舌打ちが耳朶を震わす。 片手だけを翻し、半円を描くように頭上へと振り込んだ戦斧が、辺章の渾身の一撃を膂力のみで押し返した。 その頭上からの一撃を逸らされて、辺章は唇を曲げた。 圧倒的とまでは言わないが、武の差は歴然。 技を持たぬ己が膂力で負けていれば、目の前の豪傑に叶う道理は無かった。 だが。「ふはっ、ふははははははっ! 董卓軍一の猛将が俺の首を獲るかっ!」「何を笑う!」「容易くは無いぞっ!」「ほざくなぁっ!」 だが、一角の将で在ると自負する辺章は、己の命を武技に乗せていた。 最初の一撃と同じような轟音が戦場に木霊する。 切り結んだ数は3。 武器そのものが軋みを挙げて打ち震え、流れた身体同士が磁石で引き合うように接近する。 4度の激突。 水平に薙がれた戦斧が、辺章の左手首から先を斬り飛ばした。 そこで辺章は馬首を返した。 斬り飛ばされた自身の手首に構わず、馬上で揺らめいた視界の中で捉えた影を追って。 多量の出血を地に撒き散らし、一直線に駆け出した。「逃げるかっ、辺章っ!」 後ろで叫ぶ華雄の声を置き去りに、辺章は右手一本で戟を持ち直して馬の首を掴むと、強引に馬首を返し、金色の馬を追跡した。 今や、敵軍の総大将と言って良い"天の御使い"が、逃げる自軍の背を追っていたのだ。 倒そうとした訳ではない。 万が一倒せたとしても、自分も死ぬ。 戦況は膠着しても、決して覆らない事はもう分かっている。 辺章が華雄に背を向けたのは、一刀が赤い髪を揺らして敗走する韓遂を追っていたからであった。 手首を斬られ、視界に入ったのはまさに僥倖。 むしろ華雄には感謝の念すら抱いていた。 辺章は唸りを上げて猛然と突き進み、一刀の横合いから飛び出してきた。 「うおおおおぉぉぉぉぉっっっっ!」「金獅っ!」 右方から飛び出した辺章を、一刀は速度を緩めて回避する。 左の手首から先を失った男が、右手のみで手綱を引っ張り挙げ、馬首を再び返して背中を追った。 金獅と辺章の馬が勢いを殺し、再び加速した。 戦場に二つの土煙が上がる。 僅かに体勢を速く戻した辺章が、一刀の横ばいに追いついた。「追わせんっ!」「邪魔をするなっ! そんな怪我でっ!」 戟が進路を塞ぐように一刀の前方に突き出され、そのまま薙ぎ払われた。 一刀は眼前に迫り来る銀の刃を、盾にするように剣を構えて防いだ。 辺章の剛打に、前に行く身体が押し戻されて、金獅が一刀を振り落とさせまいと蹈鞴を踏んだ。 笑みを浮かべて雄叫びを上げる辺章。 腕の痺れを押して、振り上げた†十二刃音鳴・改†が奇音を鳴らして辺章の戟と交錯する。 弾かれ、戟を持つ右手が泳いで、辺章の胴に隙を作り出した。 一刀の刀が翻り、辺章は左腕を苦し紛れに振るう。 中空に散った血の滴が礫のように迫って、一刀の片目を塗りつぶした。「ぐっ!?」「貰ったぁっ!」 視界を失った一刀が中途半端に刀を振り落として、馬上に突っ伏した。 その隙は、辺章にとって金獅ごと首を刈り取るに十分であった。 天から地に落すように、戟閃が振り落とされた。 風を切る武具の音が、辺章の耳朶に響く。 右手に走る衝撃。 それは、人肉を切り裂く物ではなく、岩へ振り落としたような衝撃であった。 狩り獲るはずの一刀の首も金獅の首も、唸りを上げて存命を誇示していた。 視線を落せば握りこんでいたはずの右手に戟は失く、手の甲が赤く腫れあがっているだけ。「一刀っ!」「っ……れ、恋っ!」 声の方向に、一刀も辺章も首を巡らした。 辺章は即座に現状を察知、腰から短刀を右手で引き抜くと、一刀の首を斬り落そうとした時に鳴った風の音を捉える。 真っ直ぐに顔面へと向かってくる黒い何かを咄嗟に弾き返し、衝撃からか盾にした刀身が真ん中で圧し折れた。 のけぞった辺章の目に、拳大の石が地に落ちるのが見えていた。 一刀は石を投擲した恋の姿を確認すると、この場は十分であると判断し韓遂を追跡するべく金獅の腹を叩く。 辺章はもう、助からないと断じたのだ。 手首を失い、そこからの多量な失血は命に関わる物だ。 今から手当てをしても、間に合わない。 致命傷だ。 なにより、恋がこちらを見据えて突っ込んでくる。『韓遂が逃げるぞ!』『この場は任せよう!』「っ、分かったっ!」「ガアアッッ!」「っっしゃおらぁぁっ!」 踵を返して韓遂を追いかけ始めた一刀に、辺章は獣のように叫びその背へと飛び出した。 馬を足場に跳躍した直後、辺章の真横から鈍い光が走りこむ。 十字に象られた銀の槍が、首筋を刺し貫いて中空に浮いた辺章が、地に転げ落ちた。 もんどりうって倒れこんだ辺章の瞳に、青い空と飛び上がった人の影が映りこむ。 飛龍偃月刀が煌いた。「終いやっ!」「がっ―――」 何かを言いかけた辺章の首が飛んだ。 最後に映った光景は、天が土煙を上げて愛する者を追う姿であった。 血飛沫を上げて浮かせようと上げていた身体が、頭を失って倒れこみ、数瞬の間を置いて地に首が転がる。 隣り合って息を弾ませる張遼と馬超。 お互いに僅かに視線を交わし、自らの獲物を掲げると同時に声を上げる。「叛乱軍総大将・辺章! 西涼の錦、馬孟起が討ち取ったっ!」「叛乱軍総大将・辺章! 神速の張遼が討ち獲ったでっ!」 言い終わるが早いか、お互いに睨むように顔を突き合わせる。 「ちょっと待ちぃ! どう考えてもウチが首獲ったで!」「ふざけんなっ! 横からいきなり現れて何言ってやがる! アタシが殺ったっ!」「あほかぁっ! 討ち漏らしてたんのを刈り取ってやったんやっ! 寝言は寝てから言えやっ!」「眼が腐ってんのかお前っ、首を抉ったんだ! あれで死んだっ!」 二人がこうして争ったのは、様々な事情があった。 翠は一つでも多く、この場で戦功を重ねて『埋伏の毒』となった事を証明し、馬家の正当性を上げたかった。 もちろん、流れの中でとはいえ韓遂を一刀に譲った手前、共謀者と考えており、この叛乱軍の実質的な総大将である辺章で溜飲を下げたいという思いも存在した。 一方で張遼も辺章を討つというのは特別な意味を持っていた。 釣られたとはいえ、自分の率いる一隊を失ったのは叛乱軍、すなわち辺章のせいであり、失った自分の兵への仇となるのだ。 同じ董卓軍の華雄や呂布に手柄を譲るのは構わないが、その仇の一端と言っても良い馬超に戦功を奪われるのは気に入らない。 たとえ、一刀が描いた策の一部であったと理解しても、仕える主君・董卓が認めたとしても、だ。 戦場のど真ん中でお互いに顔を突き合わせ、ぎゃあぎゃあと騒ぎ始めた二人を尻目に、ようやく追いついた華雄が辺章の転がった首をチラリと見て「ちょっと待て! ずるいぞお前ら! 私が首を貰うはずだったんだぞっ!」「乗り遅れは引っ込んでろっ!」「そやっ! 華雄はすっこんどきっ!」「なにぃっ!? 誰が乗り遅れだとっ!」 その喧騒に加わったそうだ。 ■ 濁を呑む 韓遂は呂布が郿城から飛び出した瞬間から、この戦における全ての戦いを放棄し馬首を返して逃げ出した。 大地から火の手が昇り、呂布の方天画戟が人馬を中空に吹き飛ばした時、何処へ逃げればと周囲を見回し そして、呼び止める大声に足を止めた。 「韓遂様ぁっ!」「貴様はっ!?」「僅かですが兵を纏めております! 火の手が薄い場所も! こちらへっ!」 焦り促し示す青年の兵の声に韓遂は首を向けた。 火と兵の包囲の中にぽっかりと開かれた空間。 呂布、張遼と言った猛将から逃げてくれと言わんばかり不自然な安全地帯。 「待ちな! あそこは罠だ!」「しかしっ、何もおりません!」「馬鹿がっ、誰にだって分かる兵法の基本だ! 死兵にならないよう包囲の一箇所を開ける! 逃げ出した兵を刈り取る場所に選ばれた空白地帯さ! 死にたいならそっちにいきな! アタシは火を突っ切るよ!」 そう言って韓遂は近場の瓶をひっくり返し、水で全身を濡らすと兵を置き去りに走り始める。 纏められた兵は、僅かの逡巡のうち、大半が韓遂の後を追うことをやめて視認可能な安全地帯へと走り始めた。 誰もそれは責められない。 目の前に広がる猛火を突っ切ることなど、死にに行くようなものとしか思えなかった。 それでも、韓遂の、将の言葉を信じた者達は飲料の水を身体に被ると、馬を駆って火の中に飛び込もうと先を行く韓遂を追った。 自分に付き従い背を追う兵を肩越しに覗き、韓遂は舌を打った。 期待こそしていなかったものの、その数は数秒で数え終わるほどの小勢。 自らの盾となるには余りに小ない。 逃げる韓遂と西涼の兵の後ろから怒声が上がったのはその時だった。 「韓遂―――っ!」「っ、アイツっ!」 金色の鬣を揺らし、猛然と走りこむ一騎の影。 それを認めた直後、韓遂は目前の火中に向かって躊躇なく飛び込んだ。 その姿に何を見たか。 西涼兵もまた、恐怖を振り払うように雄叫びを上げて彼女の背を追って突っ込んでいく。 数人の悲鳴が火中に響いて、火達磨となった人影が地面に転げ出た。 「逃がすかよっ!」『変われッ!』 まったく速度を緩める事無く、韓遂が飛び込んだ場所へと一刀は突っ込んだ。 木片を足場に、機微に手綱を操って金獅が跳躍する。 真っ赤になった一刀の視界は一瞬で裂かれ、青と緑の景色が開かれた。 中空で韓遂の姿を認め、人馬が引き連れた火の粉を背に着地と同時に腕を振る。 緋の壁を飛び越えた韓遂と一刀に、いち早く気が付いたのは叛乱軍との乱戦を演じていた維奉であった。 荀攸の指示で彼の束ねている50余名を率い、郿城へと突撃を仕掛ける最中に逆撃の合図が上がったのだ。 馬家と合流する間も無く、維奉達は後背に取り残されその場で乱戦となったのである。 火の手と共に後背を脅かし、謀らずとも最後方で彼は戦っていた。 「また無茶してやがるっ! これだからあの人はよぉ!」 部隊に大声で指示を出して、維奉もまた一刀の背を追った。―――・ 郿城の西から先は、険しい山間の道となっていた。 獣道に近い藪と木々の隙間を縫って、矢のように走る韓遂。 彼女が切り開く道を追うことこそが、助かる道と信じて必死に走る叛乱の徒。 大乱を招いた黒幕を逃すまいと、金色の背に捕まる一刀と、それを追う維奉達。 上下に揺れる山間のあぜ道に、突き出た枝やその棘に肌を裂かれ大小の切り傷を刻みながら、長蛇となって追走撃は続いた。 韓遂は徐々に疲労が濃くなった自らの乗る馬の状態を敏感に察知していた。 手綱を振る腕に手応えがなく、馬のハミを噛む力が失われていき、急な勾配に差し掛かれば左右に身体が振られていく。 条件は同じでも、追っ手から逃げ切るのは至難だと思えた。 山の中に開かれた平地、左右に広がる山の谷間。 そんな少し開けた場所に辿り着くと、その場で速度を緩めて韓遂は空を見上げるようにして山間を覗いた。 雑林の隙間から赤く染まり始めた山中に、当初の逃走経路から離れていることを認めざるを得なかった。「くそっ、最初から後方で構えてりゃ……」 愚痴を零しながら、周辺の地理を頭の中で描く。 この地から逃げるにしても、正確な地形は判らなかった。 馬を休ませ、自分の大まかな位置の確認を終えた頃、韓遂の下に敗走した兵等が追いついた。 「かっ、はっ、韓遂様っ!」「随分減ったな」「う、馬が潰れて足を失った者が……それと、我等を追っている者は100に満たない数です」「そりゃ嬉しい報告だね、だが、時間が経てばもっと増えるだろうさ。 この辺に詳しい者は?」「郿城の周辺を探らせていた斥候の兵が居たはずです」「来てるのか?」「はい、しかしまだ追いついてません」「それに、韓遂様…・・・我等の馬も限界です、地理を把握してもこの山道では……」「っ、人馬が通れる場所も限られております。 このままでは」 一人、また一人と韓遂を追って逃げ出した兵が合流する。 中には追いついた矢先から力尽き、倒れる馬の姿もあった。 ようやく韓遂の欲した現地に詳しい兵が現れると、頷いて話し始めた。 ここからそう遠くない場所に黄河に向かう川を挟んで、山を繋ぐ橋と渓谷があるらしい。 山間の隙間を縫った谷間、綱と木板で繋がれた簡素な橋、それは地元の人間が使っているそうだ。 上手く金子などを渡して交渉すれば、地元の人間の住む軒先を借りて。追っ手から身を隠す事も不可能ではないかも知れない、と兵はそう締めた。 韓遂はその話に頷き、馬の背に跨った。 「よし、すぐに向かうぞ!」「お待ちを!」「なんだ?」「韓遂様はお一人でお逃げください、我等がこの場で足止めをします」「大勢で行っては見つかってしまう道です。 単騎で向かった方が確実でしょう」「敵の数が多ければ、装備と馬を捨てて山の中に我等は潜みますよ」「はははっ、それは良い。 官軍の無能どもに西涼の夜の山は酷だ、見つかりっこないぞ」「此処で騒ぎ立てれば、韓遂様に目は向かなくなるな!」「それに陳倉から向かった者達もいる。 山を越えて彼等に合流するっていうのはどうだ」「ハハハ! 妙案じゃないか!」「どうせ我等は天に嫌われて、賊軍となったのだ! こうなったら悪名を大陸に轟かせてやろうぜ!」 何か覚悟を決めたかのように、彼等は笑みすら浮かべ、途中からは韓遂がその場に居ないかのように肩を叩きあって話し合う。 ある意味、ここに来て彼等は平常心を取り戻したといえよう。 大儀を失った兵達がこの土壇場に来て、目上の人間を生かす事を思い出したのだ。 軍兵において、自らが命を預ける将を失うことこそが敗北となる、そんな誰もが知っている事実を。 彼等の声に、韓遂は呆けたようにその場で見やっていた。 韓遂にとって、この郿城での戦は成功すれば儲け物であり、もしかして届くのではとも期待したものであった。 失敗をしても、何度でも決起して、漢王朝という巨龍に牙を突きたてるつもりなのだ。 その為には、自身が畜生に堕ちようとも構わなかった。 使える者を使い倒し、好きでもない人間を煽て、宥め、時には己の身体で垂らしこみ、利用した。 "奴等"を滅する為だけに、今の自分が在る、そうなろうと決めていた。 ならば、彼等の申し出は渡りに船である。 とっとと踵を返し、教えてもらった間道を抜けて、橋を渡り、荒野の雲の中に隠れてしまえば良い。 そう頭の中で弾き出した彼女は、しかし、何故か必要も無いのに口が開いていた。「アンタ、名前は……?」 韓遂に橋の在りかを教えた青年は、唐突に投げかけられた彼女の声に僅かに驚きつつ口を開いた。 周囲の喧騒も、韓遂の問いかけに自然と止み、夕焼けの山中に虫の声のみが音となって反響する。 視線が絡み、初めて韓遂は目の前の兵がまだ、年若く成人もしていないような人間であったことに気がついた。「姓を閻、名を行と申します!」 閻行と名を告げた青年から視線が外され、韓遂は馬上に乗ったまま隣の壮年の兵に目線は移った。 男は自然に両手を顔の前に合わせ笑みを浮かべて答礼し、声をあげた。「我が名は郭堆でございます!」 この男の名乗りから先は早かった。 誰もが礼の形を取り、次々に我が名を叫び、山中に反響する。 五十に満たない人馬が、礼をして韓遂へと名を告げ終えると、韓遂もまた両手を合わせて頭垂れた。 この答礼を最後にしたのは、果たして何時だったかと彼女は胸中で呟いた。 数秒に満たないその答礼は、この場に居る敗走した西涼兵の心を一つに纏めるのに足りていた。 言葉も無く、韓遂は踵を返して山の中に消えていく。 直後、まるで山の中で居場所を報せるかのような、雄叫びが彼女の背後から沸きあがった。―――・ まるで勝ち鬨を上げるような歓呼が山の中に響いた。「な、なんだ!?」『歓声……か?』 その声の正体と、韓遂の姿を一刀が見つけたのは疑問を吐き出した直後であった。 山の中では珍しく開けた平地の空間に、数十人の西涼兵が腕を振って沸き立っていた。 同時、山の中にただ一人消えていく韓遂の後姿も。 西涼兵の様相は先ほどまで追走していた顔と比べて、明らかに精悍であった。 目はぎらつき、全身が戦意に溢れていた。 過去、そして今に至るまで、数多の戦場での経験が、一刀に大きな警鐘を鳴らしていた。 もはや本能と言っても良い、その警告に従って一刀は金獅の手綱を緩めた。 「来たぞ! 敵の追っ手だ!」「"天の御使い"だっ!」 呆然とした一瞬、それが悪手となった。 敵兵の誰かがそう叫び、一刀は雷に打たれたかのように手綱を引っ張った。 命を懸けて、覚悟を決めて、そうして難事に立ち向かう人間は実力以上に力を発揮する。 ましてや、それが逃げた韓遂の―――誰かの為に想うものとならば、その精神から来る底力は一刀だけではどうにも出来ない人の壁の完成であった。 金獅が獣道となったあぜ道を飛び出して、木々の立ち並ぶ斜面に進路を変えた。 途端、木々に突き刺さる矢と、投擲された石が一刀の背を追うように音を鳴らす。 首を巡らす。 夕陽の照らす勾配道の木々の隙間から、数人の男達が武器を構えて一刀の視界に入り込んできた。『本体っ、前だっ!』「うっ――!?」 脳内の警告に、咄嗟に視線を向ければ進路を塞ぐように枝木が伸びて、咄嗟に頭を下げる。 潜り抜けた瞬間、目の前に現れた別の枝木が投擲された石に砕かれ、木っ端が舞った。 それが金獅の視界を塞いだのか、急制動をかけられて、一刀の体が前方につんのめって、空に投げ出された。 頭を抱えて山の中を転がる。 草と葉が一刀の顔の直ぐ横で舞い上がった。 好機とみたのだろう。 徒歩で、或いは騎馬で、西涼軍の兵達が夕陽を背に一刀目掛けて走り出した。 藪を突っ切り、茨を掻い潜り、殺到してくる人馬の群れ。 咆哮するような怒声が一刀の頭上に降ってくる。 「抜刀! 突撃!」「天の御使いの首を獲れっ!」『やばい!』『やられるっ!』 脳内の切迫した金きり声が頭の中に響く。 打ち消したのは、一刀の背後、叛乱軍に負けないくらいの怒声だった。「……―――ォォオォォオオオオッッ!」 上から降り落ちてくる人馬の横腹に、叫びと共に一直線に突き刺さった。 官軍でも董卓軍でも馬超軍でもない。 持っている獲物もバラバラ、鎧すら着ていない物も居た。 沸いて出たような横撃に、駆け下りた勢いのまま吹き飛ばされて木々に胴を圧し折られる。 或いは、中空に飛び出して山の底へと跳び出して転がっていく。 馬も、人も、突然の敵に山の森の中腹で蹈鞴を踏んだ。 途端に乱戦となり、槍と戟が打ち合い、馬が走った。 「速く行っちまえっ! どうせ止めても行くんだろーがっ!」「片腕がよくも邪魔をっ! "天の御使い"を殺せ!」「させねぇぞ!」「アニキさんっ!」「行けよっ! こんな奴等っ、片手で十分だってんだっ!!」 剣戟を交えて叫ぶ維奉の声に、一刀は立ちあがって金獅の下へと走る。 ほぼ同数の争いはどちらに転ぶか分からないが、確かに一刀には追うべき人間が居た。 傾斜の激しい山間の木々の中、走る剣戟音と叫喚を残して一刀は走った。―――・「はっ……はっ……はぁっ……っ!」 荒く息を吐き出して、視界に流れる木々の隙間をひたすら走って橋を目指す。 途中、力尽きた馬を捨てて荷物も持たずに山道を駆け上がっていた。「くそっ!」『どっちだ!?』『馬を捨てたかっ!』『真新しい足跡だ、こっちに続いてる!』『ナイス"南の"』 まるで死んでしまったかのように倒れ伏し、過呼吸に陥ってる馬を見つけた一刀も、総力を挙げて韓遂を追う。 赤い髪を振り乱して走る韓遂の姿を捉えたのは、夕陽が沈もうとし、夕闇が空を覆うとしていた頃であった。 「韓遂ぃぃーーーーっ!」 一刀の声に、韓遂は振り向くことなく走り、山間を抜けた。 はるか眼下に広がる谷、その底を流れる黄河へと続く川。 一つの山を裂いて、二つに別れたかのような深い渓谷となっていた。 崖淵に突き当たり、数十メートル離れた場所に、今にも崩れそうな橋がかけられ対岸に繋がっていた。 一も二も無く視界に収めた直後、重い足を叱咤して走り出す。 突っ張った橋木の際に手を掛けて強引に姿勢を制動し、転びそうなほど足を縺れさせて橋の最中で膝を付く。 それでも韓遂は地に滑り込むように対岸に辿り付いた。 同時、一刀も崖の淵にて金獅の馬首を強引に返して橋に向かっていた。 逃げ切れた。 肩で息を吐き出しながら、韓遂は確信した。 どれだけの駿馬であろうと、数十メートルの距離を一瞬にして詰め寄ることなどできない。 まして、人の何倍も重量のある馬が綱と風雨に晒されて脆い木材だけで作られた橋を渡ることも。 韓遂は最後まで手放さなかった鉄扇を腰から引き抜いて、橋の綱目掛けて振り落とした。 「は……はっ、……っ、あ、はっはっははは、残念だったねぇっ!」 いと切れた人形のように、刃を当てただけで橋はその役目を終えた。 ブツッと音を立てて、重力に引かれ綱と木々が中空に舞う。 それでも。 それを見ても、一刀は速度を落とさなかった。 いや、むしろ上げていた。 手綱を両手で必死にしごき、山道を休みも無く走り続けた金獅に全てを託し。 そして地を蹴った。 肺に溜め込んだ息が、一気に押し出され、口から声が突いて出る。「ッッハッアッ!」 堕ちゆく夕陽に、人馬の影が中空に重なった。 韓遂はその姿を見ることしかできなかった。 踵を返して逃げ出すことも、先のように笑いを浮かべる事もできずに。 深く底を流れている渓谷など、無かったかのように空を追い越して、一刀と金獅は韓遂の真横を通り過ぎた。 慣性に逆らわず、徐々に速度落としてようやく立ち止まると、金獅が大きく嘶いた。 「……」 一つ首筋を叩くと、一刀はゆっくりと金獅の背から降り立ち、韓遂へと視線を向ける。 蛇に睨まれた蛙のように、振り返った韓遂はその場で硬直し、顔を逸らした。 ピーッと甲高い音が鳴る。 弾かれたように、韓遂は一刀へと視線を戻す。 一刀が†十二刃音鳴・改†を正眼にして構えていた。―――・「待てよ……」 一刀の耳朶に、韓遂の掠れた声が聞こえてきた。 未だに武器を構えない韓遂をしっかりと見据えて、じりじりと間合いを計るように、徐々に足を摺り寄せる。 お互いの武器が一歩踏み込めば届く場所までゆっくりと近づいた。 一刀の刀と韓遂の鉄扇、腕を伸ばせば触れ合うほどの距離で初めて、背後に崖を背負った韓遂は構えた。 馬を捨てて自らの足で走ったからか、その足元が震えていた。 かつて牢屋越しに突きつけられた鋭い気は完全に失われている。 だが、一刀は知っていた。 いや、教えてもらった。 この世界において武とは、見た目で全てを判断することなどできないのだ。 たとえ自分よりも小柄であろうと、膂力は数倍も持ちえている可能性だってある。 女性だから、小柄だから。 そういう見た目ほど当てにならない事を一刀は知っていた。 目の前の韓遂が、どれだけ体力を削られていようと、どれだけ己の本来の実力を発揮できなくても、北郷一刀の武を凌駕している可能性はある。 油断無く、一刀は韓遂の隙が生まれるのを見定めよとしていた。 「ま、待て……」 この言葉が契機となった。 韓遂が片手で構えた鉄扇が、山間を抜ける強風に煽られて僅かに揺れた。 「うおおおおおーーーっ!」「きゃあああああっ!」 真っ直ぐに突き入れられた刀が、韓遂の篭手を打った。 まるで後ろに下がるように腰を引いたせいで、浅かったその一撃はしかし、韓遂の手から鉄扇を落す事に成功した。 いや、違う。 むしろ韓遂が自ら手放したかのようだ。 緊迫した一瞬の交錯のせいか、一刀は息を荒く吐き出し、倒れこんで片腕を抑える韓遂を見下ろした。 尻餅をついて、頭を守るように丸まって顔を伏せる韓遂に、一刀は刀を振り上げた。 風を切って、甲高い音が鳴る。 その状態で、一刀は両腕に力を込めて歯を食いしばった。「なんでだ!」「っ……!」「なんでこんな事をしたんだっ!」 何時でも振り下ろせる、何時でも首を獲れる、その状態のまま一刀は叫んだ。 この西に芽吹いた大乱の全ては、目の前の韓遂から始まった。 彼女は言った。 武威の地で牢屋で過ごす日々の最中、一刀の下を訪れて彼女は言ったのだ。 中央から排されて、腐敗しきった漢王朝に切り捨てられた、哀れな子羊だと。 自分と同じだから、あの日一刀へと接触したのだと。 両手で刀を持ち上げたままの状態で問われ、韓遂は視線を上げて一刀を見た。 怪我をした腕を押さえながら、唇を震わせて声をあげる。「わか……分かるだろうがっ、あんたと同じさ! "奴等"に追い出された、利用されるだけされて、馬鹿をみたんだよっ!」「ふざけんなぁぁぁっーーー!」「キャアアアアアアッッ!」 まるで激情を叩き付けるように、一刀は刀を振り下ろした。 硬い地面に獲物がぶつかり、鈍く低い音が一刀の掌の中に反響した。 再び頭を抱えて金きり声を上げた韓遂の胸倉を掴み、一刀は引き倒すようにして左腕を振り抜いた。 一刀の握りこんだ拳に、肉塊を打ち抜く衝撃が走る。 うめきを上げて転げた韓遂を追いかけて、一刀は襟首を引っ張り上げた。「ふざけるのも大概にしろよっ! 一緒!? 同じだって!? 一緒にするなよっ! 俺とお前を一緒にするなっ! なんなんだよ、お前っ!」「っ……ふざけてるだ……!? あたしゃ、アタシは大真面目さっ! ああそうだよ、アタシはね、見ての通り弱いんだよ! お偉い天の御使い様みたいに剣を振るうことなんて無理なのさ! 良かったじゃないか、あんたの勝ちさ! さぁ、殺しなっ!」「っ……お前ぇぇぇっ!」 煽るような言葉に、一刀は腰から引き抜いて短刀を振り上げる。 だが、振り下ろさなかった。 目を硬く瞑っていた韓遂は僅かに開き、一刀を詰る。「やらないのかっ、ハッ、お笑いだねっ! あんただって心の奥底じゃ分かってるのさ! 同じなんだよ! アタシとあんたはね! さんざん利用されて、勝手に祭り上げられて挙句の果てに追い出されっ―――」「うおおおおおおおおおおっ!」 まるで開き直ったかのように罵る彼女の声を打ち消すように、一刀は握りこんだ拳を叩きつけた。 腰を身体に乗せて、馬乗りになって彼女の顔へと、二度、三度と歯を食いしばって殴りつける。 鈍い音が何度も鳴って、韓遂の鼻や口から赤い飛沫が舞った。「ぅあっ……」「一緒にするなぁっ!」 一刀はもう一度叫んだ。 韓遂を殴打する腕を止めて、彼女の顔を睨みつけながら。「俺を、お前達と一緒になんかするんじゃねぇよっ! 酷い仕打ちを受けて宦官のやつらに追い出されたのは俺だってそうだ! 自棄になるのもムカつくのも、共感できるさ! 武威の牢屋で、アンタに誘われた時は正直言って心も揺らいだっ! "奴等"に仕返しが出来るなら、ねねを置いて洛陽を追い出されるならっっ! ああ、仕返しをするなとは言わないっ! でもっ、でもなっ!」 でも、違うのだ。 このやり方は間違っているのだ。 今だからこそ、一刀は韓遂の内心が手に取るように理解できる。 宦官に、いや漢王朝の人間にかつて韓遂は一刀と同じような酷い裏切りを受けたのだろう。 それが何かは分からないし、分かりたくもない。 だが、それが契機で韓遂という女は漢王朝を見限ったのだ。 それだけは間違いないと一刀は確信していた。 そして、失意の中で彼女が選んだ道は、漢王朝を滅ぼし、利用し騙した"奴等"への復讐だ。 "奴等"の存在が、そのまま漢王朝という国と繋がってしまったのだ。 それは、逃げだ。 そうじゃないのだ。 漢王朝は"奴等"だけで成り立っているわけではないし、帝だけで成るわけでもない。 数千人に及ぶ官吏でもない、まして、民だけでもない。 それら全てを含めて、初めて漢王朝は成っているのだ。 国というものの成り立ちも、かつて官吏として名を連ねた彼女は知っているはずだった。 虚言を弄し、国を捨てて、他人を巻き込んで大乱の華を咲かせ、全部、全て、何もかも自分を捨てたヤケッパチの行動だ。 そうでなければ、まともな人間では、こんな大それた事などできやしないのだ。 犯した罪は、人心を失わねば出来ないことだ。 それこそ、一刀や韓遂自身が憎む、"奴等"のように! 「信用してくれた人を平気で裏切って、裏でほくそ笑んで、あいつらと何処が違うんだ! そうだろ!? 間違ってるか俺が!? "奴等"に同じ事をされたなら、分かっていたはずなのにっ! 何で同じ事をしてアンタが笑ってるんだよっ!」「っ! 勝手なことを! アンタにあたしの何がっっ、何をっ、分かったつもりで怒鳴るんじゃねぇっっ! 信じる方が馬鹿なんだよ! 裏切られてから気付いたって、全部遅いんだ、そういう時代がっ……っ!」「だから漢王朝を潰すのか! 奴らと同じところまで堕ちて、今を必死に生き抜こうとしてる皆を裏切って! 時代のせいだって、言い訳をして、お前それで良いのかよっ!」「……っ!」「答えろ韓遂っっ!」 韓遂は言葉に詰まった。 一刀の声は、確かに彼女の心中を穿っていた。 脳裏に閃くは、命を賭して名を預けて身体を張って逃がしてくれた彼等の姿。 そして、自らが捨てたはずの、答礼であった。 「平気じゃないんだなっ!」「―――それ、はっぅ!」「平気じゃないんだろっ! 言えよっ!」 首を絞められるかのように、襟を持ち上げられて、韓遂は呻く。 じわり、と目尻に涙が浮かんだ。 目の前の男の叫びが、彼女の心を騒がせていた。 "天の御使い"はなんと言う愚者なのかと、声を大にして叫びたかった。 時代のせいに決まっているのに、どうして言い訳などと断じるのか意義を唱えたくて仕方なかった。 漢王朝は死ぬ。 それは"奴等"を前にして得た手痛い教訓なのだ。 自分が立ち上がったのは決して私怨だけではない。 これ以上自分と同じような人間を産ませない為の、そう、彼女なりの覚悟でもあった。「こんな、こんな国なんて早々に亡くなった方が良いんだ! とっとと新しい国を作ったほうが、皆幸せになるんだっ! そうさ! その手伝いを、私は復讐がてらにしてあげてるんだ! いけないのかい! それを志に掲げちゃ……覚悟を決めたんだ! あたしはっ……アンタにそんな覚悟っ……」 一刀の強い意志の篭る視線は、そんな事は無いと彼女に語りかけていた。 その視線に溶かされるように、韓遂の言葉尻は消えていった。 まるで太陽が、眼前に現れたかのように直視できなくなってしまったのである。 自分の覚悟が、目の前の相手に比べてどれだけ卑屈な覚悟なのか。 このとき、韓遂の心に掲げたものの壊れていく音が、彼女には聞こえた。「……殺せよ」 そう呟いたのはどれだけ時間が経ってからか。 韓遂の声が、陽が落ちて薄闇の降りた山中に響いた。「俺の覚悟が不足なのか」 そして、絞り出すように殺せという韓遂の声に答えたのは、そんな一刀の呟きだった。 今までのような叫びではないはずの、小さな声は何処までも響き渡るようであった。 絡み合う一刀の瞳に、陰は何処にも差していなかった。「韓遂、俺に賭けろ」「……賭っ、け?」「賭けだ、俺が中央に戻ってアンタを認めて馬車馬のように"漢王朝"で働かせてやる。 出来なかったら、好きなだけ暴れろよ」「―――それで……アンタ、な、何を?」「俺に手を貸せ、出来ないなんて言わせないからな。 俺は貴女が裏切らない限り約束は守る、信じてくれて良い」 韓遂は真正面から見据える一刀の視線に押された。 まともに顔を合わせて話をしたのが牢の中、つい今しがた、それだけだというのに、この男。 自分を信じろと言っている。 許さない、敵だと断じた相手に何を期待する。 吹っ切ったはずの中央への未練は、目の前の眩しい男のせいで火がついてしまった。 自分は裏切らない。 "漢"も取り戻す。 そんな自信がどこからくる。 根拠の無い未来をどうして信じられる。 さんざん利用されて、お人よしかつ優しすぎるこの男の目指す道は漢王朝の復興だ。 今回の仕打ちは何回自分を殺しても気がすまない出来事のはずなのだ。 なのに、北郷一刀という男は飲み込んだ。 韓遂の濁った非を、自分の力に取り込み、一刀の正道を敷き均すため、私心を殺して生かすことを決断した。 それが分かった。 そこで彼女は思いだす。 ああ、そうだった、と。 コイツは間抜けだったのだ、と。 私と同じで、間抜けだから"奴等"に良いように利用されたのだ。 太陽のように眩しいと感じたのは、立っている場所が違うからだ。 陽の当たれる場所に帰れる……いや、帰る為に努力しているから。 そんな努力をせずに、自分は闇の中に立ち止まって彼をみているから、眩しかった。 今更だ。 そう思うのに、また期待をしてしまう。 覚悟が足りないのは、どちらかなど言うまでも無かった。 思考を打ち切らすように、ダンっ、と大きな音が韓遂のすぐ横で響く。 一刀が地に拳を打ち付けて、山中に木霊するように叫んだ。「逃げるなよ韓遂っ! 俺がお前を呼び出して扱き使ってやる、それまで大人しく待ってろっ!」「……………………わかっらわ……」 大きな逡巡の後、韓遂は血で詰まる鼻柱を押さえて答えた。 しかりと、一刀に目を合わせて。 お互いに荒い息を吐き出しながら、一刀は韓遂の上から腰を浮かした。 ふらつきながら、地に手を付いて起き上がる韓遂は、力なく鼻から流れる血を拭う。 一刀はそんな韓遂から視線を外して、荒い呼吸を落ち着かせようと必死だった。 握り締めた拳から、赤い流線が滑り落ちるのを、彼女は見た。 木々を支えに山道を歩き、立ち去ろうと進めていた歩を止めて、韓遂は一刀へと口を開いた。 「韓約……」「……?」「宮中に勤めていら時のアタシの名。 今日からまた、それを名乗るよ……」「……行けよ」 それは韓遂が、一刀の約束を守ると言ったに等しかった。 一刀はそんな韓遂の姿が山の奥に消えていくのを見送り、所在無さ気に草土を食んでいた金獅へ視線を投げた。 踏み出した足が、すぐに止まる。 一刀は頬が揺れた。 口が自然に開き、鼻の奥に熱い刺激が走る。 目尻からはもう、止めようも無い程の涙が突き出て、頭の奥が痺れていた。「ウオオオオオオオオオオォォォォォォォォォッッッ!」 †十二刃音鳴・改†を掴み上げると、一刀はすぐ傍の木々に力任せに振るった。 発狂したかのように木へと剣を打ちつける。 何度も、何度も、体力の続く限り。「ちくしょう! ちくしょう!ちくしょう! ちくしょう!ちくしょう! ちくしょう!ちくしょう! ちくしょう! ちくしょぉぉぉーーーーーーー!」 無念が口を突いた。 何度も叩きつけていた剣が半ばで折れて、中空に投げ出され、放物線を描いて落下する。 一刀の背後、数メートルのところで地に突き刺さった。 一刀は折れた刀剣を地面に突き刺し、その柄を杖のようにして身体を支えて、慟哭した。 韓遂のせいで、見殺しにした彼女の志が夕闇に消えてしまったかのようだった。 自分の大志の為に彼女の志を、今は蔑ろにしたことへの懺悔であった。「ごめん……ごめん、耿鄙さん……俺はっ」 何時か来る、未来への大乱。 反連合の為には力が必要だった。 韓遂を得ることは、一刀にとって決してマイナスではない。 西涼の大乱を起こし、人の、そして組織を相手取って成功させた謀略、その知は本物だ。「俺、頑張るから……俺……頑張るからっ……!」 連合が結成されれば、話し合いに持ち込む事は生半可な事では難しい。 一刀の目指すところは話し合いに持ち込むことだが、だからこそ目的を達成する為には力が……すなわち、軍事力が必要なのだ。 董家、馬家の二家が協力をしてくれても足りない。 この両家が、必ず一刀の側に立つとも限らない。 未来を見据えた西平の軍というメリットを獲って、一刀は私心を押し殺したのである。 一刀の嗚咽が、西涼の山間に響いていた。 脳内の誰もが、本体に声をかけることは出来なかった。―――・「ごめん……金獅、待たせたね」 こんなに泣きはらしたのは何時振りだろうか。 待ちくたびれた様子で地に伏せて欠伸をかましていた金獅の下に近づいた。 そんな暢気な愛馬の姿に、一刀はふっと笑みを浮かべた。 まるで一刀のことなど気にしていない様子が、逆に気分を落ちつかせたのである。 韓遂に、いや韓約にあれだけの大言を吐いたのだ。 落ち込んでいる暇は、確かに無い。「郿城に戻ろうか……」『そうだな』『姿がないと、まずいもんね』『ああ、早く戻らないと怒られそうだ』 あの大号令は、一刀の立ち居地を決定付けるものだった。 あの瞬間、確実に官軍にとっての御旗となった、すなわち総大将になったのだ。 脳内のみんなが言うように、早く戻らねば命の危険すらある。 例えばそれは、心配をかけた呂布の手加減の一撃とかだ。 金獅の口輪を掴んで立ち上げると、その背に跨る。 馬首を返して、手綱を握りこんだところで、藪の中から葉を揺らす音が響いた。 敗走した敵兵か、と腰の短刀を引き抜く。 だが、闇夜に紛れて現れたのは維奉であった。「アニキさんっ!」「おうっ! 無事だったかよ!」 跨ったばかりの金獅の上から飛び降りて、一刀は維奉へと駆け寄った。 すると、奥の方から数人の男女が維奉の後ろから顔を出す。「まさか対岸に居るとは思って無くてよ、迂回して来るのが遅れちまった。 すまねぇ」「そんな……構わないよ、姜瑚さんも無事で良かった」「無事で良かった……って、あんた、そりゃ俺らの台詞っすよ」「あはははっ、そうそう、一人でバーッと走ってっちゃうから、追いかけるの大変だったんですよー!」「はは、それは……うん、ごめん」 維奉と姜瑚の明るい声に、一刀は苦笑して頭を下げた。 そうして、一刀はその場で維奉達の状況の報せを受け取った。 あの後、一人の青年兵を残して西涼軍の兵を全滅させたものの、逃した青年兵によって維奉の部隊を大きな損害を受けたそうだ。 生き残った維奉の部隊は、今、一刀の目の前に居る7名のみ。 40名近い者が、敗残兵を追いかける際に逆撃を受けて全滅したという。 その話が終わると、今度は一刀が彼等に韓遂との決着を伝えた。 自分を支えてくれる維奉に対しては、隠し事など無いのでそのまま全てを。 一刀の赤く腫らした目元の原因に得心すると、維奉は自分の太腿を手で打って威勢よく言った。 「おしっ、おう、任せろっ! 韓遂、あぁ、今は韓約だっけか? あの野郎は俺がちゃんと見ててやらぁ! 約束を破らねぇようによ!」「……そうだね、俺も彼女を信頼しているわけじゃない。 でも、危険かもしれない」「大丈夫だって! 俺等が見ててやるからよ、なぁ!?」「うぃっす!」「おっす!」 維奉の声に答えるように、生き残った全員が不敵に応を返した。 「ありがとう。 じゃあ頼んで良いかな?」 控えめに問う一刀に、維奉は声を出して笑った。 腰掛ける一刀の前に一歩出ると、恥ずかしそうに鼻を啜って、そっと一刀の肩に右手を置いた。「俺はよ、天代っつか、北郷一刀って人を支えるって決めたんだ。 ずっとよ、プラプラしてたクズだったし、頭の良いアンタの悩みなんか一つも解決できねぇかもしれねぇけどな」「維……奉さん」「でもよ! 俺ぁ最後の最後まで、アンタに付き合うぜ! いや、つき合わせて貰う! 俺の全てを賭けるっ! 役立たずかもしれねぇけど……そう決めたんだ!」 宣言のような声に、一刀はそっと肩を掴まれた維奉の手に自らの手を重ねた。「ありがとう、アニキさんのおかげで、俺はまた立ち上がれるよ……韓約の事、全面的に頼む」「お……おうよ! 任せろよっ! へへっ、あんな女、ちょちょちょい、だぜ!」「ははっ、心強いな!」「それじゃ、俺達はこのまま韓遂の野郎を追うって事っすね」「だな、御使い様、こっちは任せてくだせぇ」「よし、話は決まったぜ」 維奉が自分の部隊の人間に振り返って頷くと、一刀の前に全員が歩み寄って、一人ずつ両手を重ねて礼をする。 一刀もまた、彼等に感謝を込めて答礼した。 最後に残った維奉が、片腕だけで手を振り、肩を竦めてから頭を下げた。 横柄とも言えそうな態度であったが、一刀はしっかりと維奉にも返礼し、彼等の駆け去っていく姿を見送った。「……行くかっ!」 掛け声一つ。 一刀は金獅に跨ると、必要以上に大きな掛け声を出して、郿城へと走りだした。―――・「ああは言ったもののよぉ、姜瑚ぉ……野郎は頭良さそうだよなぁ。 俺じゃあ口で騙されちまいそうじゃあねぇか。 どうすりゃいいんだ?」「ねぇ奉ちゃん~、いい加減、言い出してから考えるのやめなよぉ~」「だってよぉ」「あはは、まぁそういう所が格好良いんだけどさ! 元気だして奉ちゃん?」「姜瑚……ありがとよぉ。 なぁなぁ、どうすりゃいいかな俺はよぉ? 御使い様を騙した狡いアマだろぉ? 今から勉強しても果てしなく無意味じゃねぇかと思うんだよな」「そだね。 奉ちゃんじゃ無理かもなぁ……頭、悪いもんねぇ……」「だよなぁ」 しみじみと呟いた姜瑚の声に、維奉は顔を歪めて同意した。 自分の事ながら、少々情けない気分を抱きながら。「あ。 そうだ、私の親戚にね、まだ小さいんだけど、頭の良い子だーって噂の子が居るの!」「いや、姜瑚、だから俺ぁ勉強なんてよぉ」「違うってばっ、手伝って貰うのさ。 その子ならもしかしたら……えっと、麒麟児って呼ばれててね? ほら、奉ちゃんにも一回話したけど―――」 ■ 郿城の勝ち鬨 郿城に戻った一刀は、戦禍の残る城内に入ると大きな歓呼を持って迎え入れられた。 この盛大な歓声が、郿城の戦の激しさを物語っていた。 盛大に火が焚かれ、まるで昼のような赤い光の中、正門を金獅と共に潜り抜ける。 勝利の勝ち鬨がそこかしこで上がり、郿城は戦とは違う意味で喧騒が鳴り響いていた。 「あ~ん~た~はぁぁぁぁぁぁぁっ!」 一刀が城内に入って僅か三秒。 眦が危険すぎる角度にまで下がった少女が、憤慨を隠さずに杖を付いて歩き詰め寄ってきた。 董卓軍きっての鬼謀を持つ少女、賈文和であった。 怒られる理由が全て理解できる一刀は、少女が突撃しきる前に両手を合わせて頭を下げた。「す、すまない!」「謝るなっ!」 下げた頭に、竹簡の束が振り落とされた。 パチンっ、と小気味の良い音が室内に響く。 中々に痛い。「総大将でしょうがっ!」「で、でもっ」「でもぉ!? 総大将が戦場に飛び出す!? 血気盛んなのは良いけど、それでアンタが討ち死にしたらどうなるの!?」「け、けどっ」「けどぉ!? 敵将を刀振り回して追うのは何の真似よっ!? 挙句の果てに、敵将を追って森に突っ込むなんて猪の方がまだマシだわっ!」「だ、だが……」「だが……じゃあなぁぁぁーーーい! ボクの真名まで勝手に呼んだ! それも忘れてるんじゃないでしょうねっ!」「そ、それはゴメ―――っ!」「謝るならするなぁっ!」「っっ、いってぇぇぇ!?」「痛くしてんのよっ!」 今度は左右から竹簡が迫り、一刀の頬を打った。 明らかに威力を増した竹簡サンドで、一刀は両頬を押さえてかぶりを振った。 悪いのは自分だと分かっていても、一刀からすれば自分が総大将との実感は限りなく薄かったのだ。 流れの中で"天の御使い"を名乗っていた虚名が、副次的な要素を産んで担がれたに過ぎない。 いや、どちらかと言うと自分から担がれていた神輿にジャンプして乗り込んだのは否めないが、それも偶然の産物である。 痛みを堪えて目を開けば、喉下を押さえる賈駆が柱を支えに呻いていた。「う'ぁ'ー……言いたこ事は山ほどあるのに、喉が痛い……っ」「あ、あの……すまなかったよ」「良いわよ、ボクの真名のことも、月の書状を受け取る前に策を走らせたことも、みんな全部、文句は後回しにする」「そうしてくれると、うん……」「分かったら、とっとと行って!」 そう言って賈駆は一刀にズビシと突きつけた指を、大げさに振って階上を指し示した。「やるべき事を終わらせてきてっ!」「……?」 彼女の指に釣られて視線を巡らした一刀の首が、斜め四十五度にひん曲がる。 示された場所は何処かの部屋のようだった。 今、自分がすべき事があの部屋にあるのだろうか。 理解していないような一刀の表情に、賈駆の額の血管がじわりと浮き出る。 先ほど言われた言葉が、理解できないのだろう。 振り上げた腕が、一刀の後頭部に再度走った。 素晴らしい快音が、一刀の頭から奏でられた。「っっ、痛いんですけどっ!?」「そぉぉたいしょぉぉぉでしょうがぁぁ! アンタが勝利の鬨を挙げないでどうすんの!? あんな大号令ぶちあげたせいで、ボク達じゃ格好がつかないのよっ!」「あ、ああっ、そうかっ、分かった! すぐにするよ! だから叩くなってっ!」「誰のせいっよぉぉっ!」 一刀は風を切って唸る竹簡を必死に避けた。 竹のささくれが、一刀の頬の肌を薄く切り裂き、黄色に赤の線が走る。 しかも、獲物が軽いからか、振りが素早く避けづらかった。 韓遂よりも数倍手ごわい。 必死に避ける一刀を救ったのは、皇甫嵩であった。 ブンブンと振り回す少女の腕を取って、わざとらしく二度、三度と咳き込む。「あー、若い者のじゃれあいを邪魔するのは性分ではないが、先に締めていただけないか、賈駆殿もそのへんで」「誰がじゃれてるのよっ!」「す、すみません、助かりました皇甫嵩さん、俺には勝てそうもなかった!」「くあぁぁぁぁぁっ!」 捨て台詞を残し、その気も無いのに賈駆の感情を軽く逆撫でして、階段を上る一刀。 昇っていく一刀の姿を納めて、賈駆は両手で頭を掻き毟り、痛まない足で器用に地団太を踏んだ。 その際に取り落とした竹簡が、地団駄の蹴りこみの嵐に巻き込まれ、敢え無く分解の憂き目に合う。 やがて、深呼吸を繰り返し、賈駆は腰に手を当てて大きな溜息を吐いた。 気に喰わない。 一刀が来た事で戦況が覆ったのも、親愛する月と二人っきりで会っていたのも、馬家を止められなかったのも。 遡れば、韓遂の計略が馬家に及んでいたことに気付かなかった事、追撃の命令を安易に出した自分の不明。 他にも怪我をしたこと、救われた事、真名を勝手に呼んだ挙句、それが不思議と嫌ではない自分の感情。 その全てが、北郷一刀という人間と接して気に喰わないが、しかし。―――"天の御使い"が宣言する! ここに居る全員で掴み取った、万金に値する勝利であるとっ! 建物そのものが地震で震えたかのように、城外の歓呼が郿城の地を包み込んだ。 一刀が儀礼用の剣を持って高く夜天に掲げていた。 賈駆は城壁に続く、一刀の入っていった扉の前で背を預けると、小さく呟いた。 その隣に居た皇甫嵩も、扉の奥へと視線を送って頷く。「天の御使いっていうの、本当かも知れないわね」「うむ……確かに、北郷殿が真に天からの御使いかはともかく、天は彼を愛しているようだ」「虹が描かれたのも、星が流れたのも、まるで天が英雄を作り上げていくようだわ」「……偶然というには出来すぎている気はするな、天の生んだ英雄か……漢王朝にとっては皮肉な物だ」 皇甫嵩の渋面と苦笑。 共に吐き出さた言葉に、賈駆は押し黙った。 天の生んだ英雄。 その通りだと、客観的に見てそう思えた。 英雄の作る軍は、その英雄が消えた時に潰える。 それは北郷一刀という個人の英雄を漢王朝が失った時、巨龍はくずれ落ちるのでは無いかと連想させた。 だが、同時に勢いを感じさせる。 まさしく、龍が天に昇るが如く、一刀の功績を積み上げていくように。 それは賈駆にとって、大きな悩みを抱えさせる事になっていた。 北郷一刀という"天代"が追放された時、彼女は漢王朝から距離を取るべき、と断じた。 全て、仕え愛する主君、董卓の事を思った結果である。 漢王朝に関わるいざこざに、月を巻き込みたくはない。 沈むと分かっている泥舟にわざわざ乗り込む必要は無いのだ。 そして、来るべき乱世において、董卓という少女が持つ"優しさ"という美徳は致命的な欠点となり得る。 判断一つで未来が閉ざされるかもしれない時代に、甘えは許されない。 なまじ先を見据える力を持った賈駆だからこそ、北郷一刀という存在をどう受け止めれば良いのか悩んでいた。 気に喰わない。 気に喰わないが、何とかしてしまう。 天運なのか、それとも実力なのかも分からない。 泥の船が、外側だけで中身は黄金で建造されているようにも思える。 賈駆にとって推し量る事のできない男、それだけは確かだった。 それと一つ。 間違っていない、疑いようの無い事実がある。 覆しようの無い、既に起こった出来事。「……北郷、一刀」 呟いて、賈駆は肩越しに振り返って官軍、董卓軍、馬超軍の全員の歓呼に手を振って答える一刀を見やった。 時折笑顔で、時に恥ずかしそうに"天の御使い"として振舞う男の背中。 そう、北郷一刀は賈文和を助けたのだ。 郿城で必死になって防衛していた官軍だけではない。 自分自身も。「助けてくれて、ありがとう……」 口に出してから、賈駆は頬を掻いて首を振った。 これはちゃんと、本人に伝えるべきで、今、こんな場所で口にすることじゃないと。 溜息を吐いた自分へと突き刺さる視線をふと感じて、顔をあげる。 皇甫嵩がニヤついていた。「……っ! 先に戦後処理に戻るからっ!」「そうですな、私もそう致すとしよう」「言っとくけどっ! 良い!? 勘違いしないでよっ!」「大丈夫だ、私は恋沙汰に首を突っ込まないことにしている」「っから、それが勘違いだって言ってんのよっ! いたったたたっ!」 足の痛みに蹲った賈駆に、皇甫嵩は優しく手を差し伸べたが、生き残った竹簡で追い払って、赤い顔のまま一室に消えていく賈駆。 皇甫嵩は苦笑を一つ。 自ら口に出したように、戦後の処理を行うべく階下へと身を翻した。 ■ お返し 勝利に沸いた郿城の熱も、深夜となって冷えてきていた。 翌朝まで続くのではという喧騒も、激しい闘争の残した疲労を拭い去る事はできなかったのだろう。 もちろん、まだまだ騒がしさも残り、警戒をする兵馬も居るのだが心配はもうさほど無い。 一年近く悩まされた西涼の乱は、終わりを告げたのだ。 一刀はそんな静けさを取り戻しつつある郿城の中を、ゆっくりと歩いていた。 「……」 勝利。 そうだ、確かに勝った。 韓遂の描いた策を覆し、叛乱軍の総大将を討ち取って、郿城に迫る万の兵馬を追い返した。 これ以上は無いといえる戦功であろう。 絶対に勝たねばならない、短期決戦で、なおかつ信頼する荀攸の言葉に抗って。 そうした戦をこの手で掴み取った。 これは一刀にとって喜ばしいものに、違いないのだ。 だが、一刀の胸中は喜びに満ちてはいなかった。 維奉に託した今でも、韓遂を殺めなかった事が本当に正しかったのか判らなかった。 自分を信じてバックアップに全力を尽くしてくれた維奉達は、一刀が韓遂を逃がしても文句の一つも言わなかった。 それどころか、一刀の意を汲むように、彼等は戦の後だというのに韓遂を追いかけていった。 一刀の為に、多くの仲間の犠牲を出したというのにだ。 彼等こそ、一刀の中では英雄であった。 そうした色々な事実が、一刀の心中を曇らせていた こんな気分ではいけないと思っても、どうしても考えずにはいられない。 勝ち鬨を上げたあの場を離れ、誰にも会わずに郿城の中を歩いてきたのは、そんな一刀の心情故だった。 もっと上手くできなかったのか。 韓遂が馬家を動かす前に、自分は防げなかったのか。 何故、荀攸からも注意するように促されていたのに、彼女の動向に気付く事が出来なかった。 自分を支持すると言って、力になると声を掛けてくれた耿鄙を、見殺しにする事の無い道があったのでは。「馬鹿っ、こんなんじゃだめだっ」「……ん?」 一際開かれた中庭のような場所に差し掛かると、一刀は声を上げて首を振った。 その一刀の声に、気の抜けた声が返って来た。 人が居るとは思わなかった一刀は、騒ぎ立てて邪魔をしてしまったかと誤ろうとして、口を噤んだ。 首を巡らした先に居たのは、恋であった。 寝ていたのだろうか。 柱に背を預けて、頭を揺らしていた恋は、呆然と立つ一刀に気が付いてゆっくりと眼を合わせて言った。 「……一刀?」「恋……」 月明かりが差し込む中庭で、一刀と恋はお互いにぼんやりと見詰め合った。 時間にしては数秒。 それでも、やたらと長く続くような錯覚。 視線が絡み合って、離れずに、沈黙が長く降りた。 引き裂いたのは、恋の声だった。「一刀、泣いてる?」「え……?」 ぼうっと見上げていた恋は立ち上がり、僅かに首を傾けてそう言った。 一刀は恋の声に、すぐに答えを返せなかった。 泣いたといえば泣いた。 泣いたし、叫んだし、せっかく治してもらった刀も再び圧し折った。 でも今は、泣いていなかった。「……ん、こっち」「っ、ちょ、恋っ!?」 逡巡している間に、恋は一刀の頭を掴んで自分の胸元に引き寄せていた。 柔らかな胸と、肢体の感触に一刀は咄嗟に離れようとしたが、それは叶わなかった。 圧倒的な力で抱き込まれ、胸元に顔を埋めるしか無かったのだ。「な、なぁ、恋。 どうしたんだ、いきなり」「……お返し」「え?」「恋が泣きたい時、一刀が居てくれた。 だから、お返し……」 優しい声が、一刀の耳朶を打っていた。 脳裏にかつての思い出が蘇る。 今際の際の丁原に彼女を託されて、華佗の介抱虚しく天寿を迎えて彼は旅立った。 その彼の遺言に従って、恋は一刀の下にやってきたのだ。 その時、一刀は言った。 泣きたい時は、泣いても良いと。 そう言って、恋に胸を貸したのだ。「……恋」「やだ?」「そんなこと、ないんだ……全然っ、そんな……ことっ」 託された丁原の声が一刀の中に渦巻いた。 ―――「漢王朝の未来は、明るいですか?」「俺、不甲斐なくてさっ……駄目なんだ…っ」「ん……恋も悲しかった」「ああ」「ねねも居なくて、一刀も居なくて」「ああ、っごめん……」「でも会えた。 これで少し、お返しできる。 それは……恋は嬉しい」「ああ……俺も、嬉しい。 ありがとう」「……一刀」「うん……」「分かった。 恋は一刀が好き……こうしてると、安心する」「俺もだ、こうして泣けるのは、恋やねねだけなんだ……」「うん」「恋…・・・」「ん」 今日はもう駄目だ。 一刀は心の底からそう思って、この暖かな胸を盛大に借りることを良しとした。 目尻から零れる涙を拭くこともせず、抱える恋の胸の中に頭を埋めて、口を震わせた。 体重を掛けて本格的に甘え出した一刀に、恋はゆっくりと先ほどまで眠っていた場所に腰を降ろした。 もちろん、一刀は抱いたまま、彼女は離す事をしなかった。 優しい恋のお返しは、確かに一刀のささくれ立った心を溶かした。 気が付けば、月の光も雲に包まれ、郿城の片隅で二人して寝息を立てていた。 韓遂の謀略から生まれた郿城の戦いはこうして幕を閉じた。 未来を目指す一刀の羽を休めるように、恋の腕が優しく包んでいた。 ■ とって返し その姿を最初に認めたのは、荀攸と張遼であった。 一眠りから目を覚ました張遼は、一刀が帰還していることを知って彼の姿を探していた。 また、同じように荀攸も一刀を探していた。 郿城での戦いを前に、この一戦限りとの約束を果たした、荀攸は別れの挨拶をしたいと思っていた。 このまま一刀の背を支える事も考えた。 あの日の朝に出した決断にしたがって、一刀との縁をこれまでとする事も考えた。 そうして彼女の出した結論は決別だった。 そうして一刀を探そうと郿城を歩く荀攸を見つけて、張遼は彼女の肩を強引に引っ張ってきていたのだ。 理由は単純。 主君である月の書状がある限り、彼女も心情ではともかく事態の推移は理解している。 とはいえ、理性では分かっていても、感情はそう上手く収まりはしなかった。 馬家に対してのわだかまりは、ある。 その馬家に軍師として従軍していた荀攸は、韓遂の謀略の正確な情報を持っていると踏んだのだ。 掴まえた荀攸は、張遼の言葉に得心し、それならば謀略に巻き込まれ中心ともなった一刀とも一緒に説明した方が良いだろうと答え 張遼はその案に納得し、こうして一刀を探してきたのだ。 きたのだが。「恋……」「ん」 あろうことか、その一刀は董卓軍に身を寄せる天下に名高い飛将軍といちゃこらしていた。 胸に顔を埋め、時折甘い言葉を囁いて、たまに胸元に寄せた頭を動かす。 その度に、飛将軍の恋から甘い吐息のような声が漏れ出ている。 背後から窺っているせいで、張遼と荀攸の視点からは胸部に吸い付いているようにしか見えなかった。「あっちゃ……お取り込み中かいな……」「あ、あ、あの人は……な、な、な、何を……」「荀攸?」「何をしてるんですかっ!?」 小さな声で怒鳴るという実に器用な技術を用いて、荀攸は憤った。 その顔は真っ赤に染まっている。 いや、確かに在り得る話ではある。 戦は血を滾らせて、誰もが非日常の世界に高揚する。 その結果、男性も女性も、戦の後は性に対して開放的になるという統計が出ているのだ。 知識を手当たり次第に吸収してきた荀攸にとっても、その情報は知っていた。 つまり、これは戦の後ではありえる光景なのだろう。 一方、豹変した荀攸の様子に張遼は思い出したかのように頷いた。 そうだったのだ、彼女は一刀へと 『愛の手紙』 を渡していた。 それも張遼の目の前で手渡すという、ちょっと彼女からすれば大胆だと思える告白をしたのが荀攸だった。 愛してる男が、目の前でよその女とキャッキャウフフしてるのを見せられて胸の内が騒がない奴は居ない。 少なくとも、張遼自身がそんな状況に陥れば、気分がモヤっとすることは間違いないだろう。 これは、時機を見誤ったか、と張遼は後悔した。 それと同時に、荀攸への申し訳なさも募った。 自分が強引に引っ張らなければ、行為に至る前に一刀を呼び止める事が彼女には出来たのかもしれないのだから。「あー……そやったな。 うん、荀攸の怒りも分かるで」「別に怒っていません」「いや、無理しなくてもええで。 ウチは一から十までまるっと分かっとる」「別に無理してませんし、絶対わかってません」「怒っとるやん」「怒ってませんよっ!」「あ、ちょっ……まぁええか……」 踵を返した荀攸に、張遼は小さく溜息を吐いてその背を追った。 別に今すぐ、話を聞かなくても困りはしない。 それに、そう。 あの数ヶ月を過ごした邑の中で友誼を結んだ友人を、少しばかり、からかって過ごすのも悪くないだろう。 馬家に加担していた荀攸への、文句も兼ねて。「んでも、荀攸も難儀な男に惚れたもんやな」「霞、待って下さい……なんでそうなるんですか?」「ありゃ色男やでぇ。 種馬に近いもんがあるし」「そうですね……ええ、種馬っていうのは言い得てますね。 想い人を洛陽に残しているのに、あの節操の無さは彼の特徴の中でも特筆すべき部分でしょう。 桂花ちゃんも悪い男に引っかかった物です」「嫉妬してるやん」「してませんよっ! さっきから何ですかっ、第一ですね良く考えてください―――」 いちゃこらしている一刀に一瞥もくれることなく、二人は小声で言い争うという高等技術を用いて、来た道をとって返した。―――・ 同様にその姿を見た者は、賈駆であった。 些事な指示を夜間を警備する兵等に出し終えると、すぐに取りかかるべき仕事が一通り終わって、手が空いたのである。 中途半端に時間が出来たせいで、疲労が酷いことを自認し、足の痛みも疼き始めた。 少し仮眠を取ろうかと、落ち着いてきた郿城の様子を観察しながら自室に向かっていた時だった。 幸か不幸か、賈駆は二階から中庭の様子が一望できる場所を通りかかった。 そこで一刀がフラリと歩いてくるのを目撃する。「あ……」 表情の欠けた一刀の様子に、つい言葉が漏れ出る。 先ほど、自分と出会った時。 彼に勝ち鬨をするように促した時とは、まるで別人のような無表情であった。 まるで、騒ぎ立てる兵に笑顔を振りまいていたのが嘘であるかのように。 賈駆はふと思い出す。 郿城での戦いは確かに、黄巾の時の決戦以来の激しいものであった。 下手をすれば、あの時よりも。 少なくとも、賈駆にとっては黄巾の決戦よりも激しく、辛い戦いだったのは間違いない。 正直に言えば、何度も泣き言を漏らしたくなった。 当り散らして、叫びたかった。「……あの時も、支えてもらってた、か」 辛い時、彼女を心を支えたのは。 月を絶対に守ると決意した事もそうだが、黄巾の決戦で官軍の総大将として檄を飛ばし続けた一刀の背中もそうであった。 無表情を貼り付けてたった一人で歩く"天の御使い"を見て、彼女は英雄の本質を見た気がした。 賈駆と同じ人間なのだ。 味方に疑われて自棄にもならず歯を食いしばって戦う事が、苦しくない訳が無い。 そういえば、黄巾と当たる前の彼も、郿城での戦いの前の彼も、内部からその在り方を疑われていた。 敵になるのではないか、と。 結果としては、そうで無い事が証明されたが、果たして北郷一刀の内心はどうなのだろう。 あの時から今まで、彼はずっと疑いの最中に放り込まれ、疑念の道を歩んでいる気がした。「……っ、たくっ! 何でボクがあんな奴の事を気にしなくちゃいけないのさっ!」 面倒くさそうに頭を掻いて、しかし、賈駆は階下に下りる階段を目指した。 これは、そうだ。 英雄となった、自分達を勝利へ導いたと言って良い男の、精神的な一助に過ぎない。 それに、自分の大好きな月も、彼とは仲良くしてやれと書状にして送ってきたほど気にかけている。 主君が気にかけているのだ、そう、これはつまり、命令だ。 主君の命ならば仕方ない。 その命令を遂行するついでに、助けてもらったお礼をすればいい。 なんだ、完璧ではないか。 心の整理が終わった賈駆は、改めて階下を覗き見た。 何故か、自軍の飛将軍と名高い恋が、一刀に抱かれていた。「……あ?」 疲労だろうか。 どうも幻覚が見えたような気がして、賈駆は一度自分の目元を指で擦った。 改めて覗き見る。「恋……」「ん」 やはり押し倒している。 胸に顔を押し付けて、左右に首を振る一刀に合わせて甘い言葉を囁き、吐息を漏らしている。 なるほど。 それはそれは、無表情になるはずだ。 まさか、自軍の将兵と逢引の約束をしていたとは。「ふっ…ははは……」 短く漏れた笑いは中空に消えた。 なんだか足の痛みが消え去っている。 それが脳内物質の分泌と親密な関係を持っている事を、彼女は知らなかった。「寝よ」 こうして賈駆もまた、呆れた表情を隠しもせずにスタスタと歩き、その場をとって返した。―――・「ん」 甘い声が聞こえていた。 それはもう、間違う事なき、つまり、その、あれだ。 丁度、恋の視界の正面、柱の陰に隠れた二つの馬の尾が揺れていた。「ねぇ」「だまってろ蒲公英」 一刀の頭が揺れる。 甘い声が漏れ出る。 男のくぐもった、恐らく真名を呼んだであろう甘い声。 「ねぇ」「だまってろ蒲公英」 柱の死角で気配を完全に殺して息を潜める翠が、ガン見していた。 蒲公英から見てもそれは、かつて無い程に完璧な穏行であった。 時代が時代ならば、『西涼のNINJA』と絶賛されたことだろう。 或いは、まだ見ぬ周泰という武将から敬意を表されたかもしれない。 彼女達がこうして息を潜める事になった経緯は簡単だ。 馬家の疑いが完全に晴れたと言っても良い今、一刀へ改めて礼をするために探していたのである。 ところが、一刀を見つけた時には、既に二人は行為に及んでいた。 流石に翠も、一瞬―――というには多大な時間―――呆然としていたが、頭が現況を理解すると素晴らしい身のこなしで 蒲公英を物陰に引きずり込んだという訳だ。「ねぇっ!」「なんだっ! 今良いところ……って、蒲公英っ!? お前何やってんだっ!?」 流石に喧しくなったのか。 視線を一刀達から蒲公英に向けると、服を肌蹴させて胸部を手で押さえた妹が恨めしげに翠を見上げていた。「何って、お姉さまが強引に引っ張るからじゃん! もうっ、これ一刀と一緒に買った奴なのにひっどい! びりびりーっって破いちゃうんだから!」「一刀と一緒に!? そんなの、何時買って来たんだお前っ!」「論点そこ!?」「いやっ、て、ていうか蒲公英! どうする、一刀がほらっ!」「どうするって……じゃあ呼ぼうか?」 柱の陰から頭を出して覗き込んだ蒲公英。 視界に飛び込むは、ついに恋を押し倒して寝技を仕掛け始めた天の御使いの姿であった。 呼び止めようと口を開き、手を振ろうと突き出したところで翠の左手は神速で舞った。 半ばまで舌を噛みかけて、曝け出した胸元を隠すこともせず呻く蒲公英。「いっっっ、たいよっ!?」「馬鹿っ、そんな顔を出して覗き込む奴がいるかっ!」「もうっ! じゃあお姉さまはどうするのさ。 このまま出場亀するつもり?」「でばば、そんな破廉恥な事するかっ!」「じゃあとっとと用件済ませようよ~」「あ、あ、あほっ、それじゃその……なんていうか、悪いだろ」「ん~……分かった! 一緒に混ざるってこと―――っったぁぁぁぁいっ!」「そんなことするかっ! 何考えてんだ蒲公英っ!」「ちょっとした冗談じゃん! 殴ること無いのに酷いよっ! もう蒲公英知らないもんっ!」「あ、おいっ!」 本気で怒りました、と顔に出して憤慨した蒲公英が柱の陰から飛び出す。 翠はこの場に一人で取り残される事を嫌って、ほぼ条件反射で蒲公英の服を引っ掴んだ。 そう、破いた服を、膂力のある武将の馬孟起が再度引っ掴んだのである。 背中から尻にかけて、盛大な布の引き千切れる音が郿城の中庭に反響した。「っっっあ~~!」「あ」 月明かりだけでも十分に、蒲公英のたんぽぽが露になるのが分かった。 瞬間、何故か一刀が顔を上げて周囲を探り始めた。「……」「一刀?」「ごめん、なんでもない…・・・でも、不思議だ、何かすごく気になるんだ」「……?」 注がれた視線の中、柱が作り出す深い陰影が二人の姿を隠していた。 一刀の瞳が闇の中を見据える。 何か居るような気がするが、どうにも判らなかった。 一刀にはまったく見えていないものの、二人の場所からは一刀の顔すらハッキリと見る事が出来た。 それはある意味で、非常に少女の羞恥を刺激するものであった。 蒲公英は顔を赤くし、むき出しになった身体を隠すように身を捩る。 布が摺れる音が、中庭に響いた。「ば、ばか、動くな蒲公英。 一刀と呂布に見つかるぞっ」「だって見てるもん、一刀が見てるっ、恥ずかしいよっ!」「見えてないっ! 見ろ、エロエロ魔人に見えてたらもっと目を剥くはずだ。 一刀は細めてるだろっ、大丈夫だっ!」「見えてて細めてるかもしれないじゃん、もうやだ! 逃げていい!? いいよね!?」「ばばば、オチケツっ! 今逃げたら丸見えだ、丸見えっ!」「ケツとか言わないでよっ! お姉さまのせいでしょー!?」「言って無いっ!」 もはや半分涙目になって小声で言い争う翠と蒲公英。 それでも暗闇の中で身動き一つせず、二人の姉妹が抱き合うようにして穏行を続行するその姿は天晴れであった。 遂に一刀の視線が恋の元に逸れると、蒲公英は音も無く立ち上がり、与えられた居室に向かって走り出した。 速い 中庭につむじ風を巻き起こすほどの疾走であった。 流石に蒲公英に悪い事をしたと、やや平常心を取り戻した翠も、一刀に気付かれない内に『とって』返すことにした。 これも早い。 二つ目のつむじ風は、中庭に吹いた強風となったやや甘い匂いを、一刀の鼻腔に届けていた。 韓遂の謀略から生まれた郿城の戦いはこうして幕を閉じた。 未来を目指す一刀を取り巻く少女達に、少々ふしだらな印象を添えて。 ■ 外史終了 ■