歴史は夜作られる、という言葉がある。
陰謀家というのは概ね夜行性だからだと思うが、それとは別に、寝ている間にいろいろな事が動くのも良くあることだ。
目覚めると、天蓋。
「……おや?」
どれほど寝ていたのかは知らないが、気付くと、そこは妙にふかふかしたベッドの上だった。
無意味に贅沢な天蓋の向こうに、瀟洒な天井が見える。
お約束なら『知らない天井』、ありがちなネタなら『知らない天丼』、ちょっと捻るなら『知らない天津丼』な気分だ。ちなみにカニ玉は私の得意料理の一つではある。
閑話休題。
どう見ても貴族のお屋敷。それも、ただのお屋敷ではない。公女だった私でも唸るほどの見事な意匠の建物だった。
どこだろう、ここは。
またぞろ悪い夢でも見ているのかと思ったが、五感が感じる気配は現実世界のそれだ。何が起こっているのやら。
『ディルムッド?』
念話を飛ばすと、嬉しいことにすぐに反応があった。
『主、お目覚めですか?』
『あまり快適な目覚めじゃないけど、状況が判らん。どこだね、ここは?』
『御説明にあがりますので、身支度をお願いいたします』
『構わないよ。気にせず入っておいで』
私みたいな凹凸皆無のガキっぽい女の夜着姿見たって、奴も面白くないだろう……と思ったらちょっとだけ泣けた。
でも、もし面白いとか言い始めたら即刻契約を解かねばなるまい。年下好みは多少は許容するにしても、私に女的な意味で刺激を受けるようでは人としてダメだと思う。もっとも、年齢だけなら私もそれなりにいい歳というのが難しいところではあるが。『とうの立った幼な妻』と言う哲学的な矛盾は成立しうるかと益体もないことを考えながら、自分の体調を確認する。
とにかくだるい。体が鉛になったような倦怠感だ。恐らく、10歩も歩かず息切れすると思う。さすがに無茶をしたせいか、内臓にかなりダメージがあるようだ。殊に、肝臓の機能の低下が著しい。だるいのはそのせいだろう。肌にも若干黄疸が出ている。
軍用の興奮剤だから効き目がすごいだろうとは思って加減したつもりだったのだが、もうあと数時間程度体が動くくらいで調整したつもりでも、ただでさえ発育不良なところにあのコンディションではちょっとばかり多すぎたようだ。それくらいの計算もできなかったとは、我ながら焼きが回っていたものだと思う。
イケナイ薬を使った事は、ほぼ確実に家の者にもばれているだろう。
泣かれるかな。前にもひどく心配かけたことあったが、性懲りもなくまた同じようなことしてしまった感じだ。それとも怒られるだろうか。もし怒っているとしたら、マチルダだけではなくテファも間違いなく怒っているだろう。でも、あの時ああしなければ、援軍到来までに力尽きる患者が少なからず出ていたと思う。できれば緊急避難措置として許して欲しいのだが、何となくそういう理屈は別勘定にされてしまいそうな気がする。そう考えるだけで、気分がどんどんダウンしていく。いっそ、このまま逃げてしまおうかしら。
逃走経路をどうしようかと思い窓を見ると、いささか手入れを怠った感じの、荒れた庭が広がっていた。
木々が自由にその生命を伸ばしているような、躍動感だけはある庭だ。庭と言うのは手が入っている間は調和が取れているが、一度制御から離れると種族間の獰猛な生存競争の場と化す。樹と言うものが、他者よりより高く伸張し、枝葉を広げることによって競争相手に降り注ぐ光を奪うことで己の種を生き残らせるという方向に進化してきた生命体である事を考えると、この庭が静かなる野生の王国に思える。食うか食われるかの戦いは、サバンナにおけるシマウマとライオンだけの物語ではない。動物も植物も、基本的にやる事は変わりはない。弱者を食らい、己を脅かすものは打倒し、己とその種を保存するために生きているのだ。
そんなことを思った直後、そんな感傷を消し飛ばすような勢いで入口の重厚なドアが荒々しく開いた。
「ヴィ~ク~ト~リ~ア~~~~っ!!」
人間の限界に挑戦しているような大音声と共に、しおらしさの欠片もない凄まじい怒気が飛んで来た。そこに二匹の夜叉の気配を察し、私はとっさに慌てて布団の中に潜り込んだ。
これはまずい。この世界の意思は『怒っている』シナリオを選択したらしい。このルートだと、どの選択肢を選んでもタイガー道場行きにしかならない気がする。テファのブルマ姿なら見てみたい気もするが、そんなことを言っている余裕は今の私にはない。今の私には、捕食者に襲われる力なき者の気持ちがよく判る。
「こら、出て来な、この考えなし!!」
「姉さん! 今回だけは許さないからね!」
びりびりと怒鳴り散らしながらマチルダとテファがぐいぐいと布団を引っ張るが、私も必死だ。
二人の後ろにちらっと見えた長身の騎士の姿を思い、急いでSOSを打電する。
『我が騎士ディルムッドよ、主命である。この二人を何とかせよ』
『主、申し訳ありませんが、今度ばかりは私もお二人に付かせていただきます』
最後の砦の予期せぬ反乱に、私は目を剥いて驚いた。
『な、何ですとー!?』
『此度の主の献身は誠に尊き事とは存じますが、長きに渡り苦楽を共にしてきた我々と致しましては、とてもではありませんが看過できぬ暴挙。御身に何かあった時、我等の悲嘆のやり場はどうなりましょう』
ディルムッドの念は平板ではあるが、それだけにその裏にある彼の黒い感情が感じられる。やばい、こいつまで怒ってるよ。
『然るに、お二人の憤りを受け止める事は、主の避けて通れぬ責務と愚考致します。ここは観念なさいませ』
『う、裏切り者~』
『否。私は従僕である以前に家族であるとおっしゃって下さったのは、他ならぬ御身。お二人の怒りを我が怒りと思い、甘受いただきたく存じます』
『ぬ、ぬう』
徹底抗戦に出たはずのヴィクトリア城は攻者3倍の法則をクリアした寄せ手の前にあっけなく落城し、体罰こそ勘弁してもらえたものの、3人に包囲されてこってり1時間もガミガミとお説教をいただく羽目になった。その間はひたすらぺこぺこする私。何だか一生分頭を下げたような気分だ。
ひとしきり私を怒鳴りつけて溜飲を下げてくれたのか、今後二度とああいうことはしないと杖にかけて誓わされたあたりで、ドアが叩かれて話を聞きたいと思っていた人物が入って来た。
「気が付かれて何よりです、殿下」
現れたのはパリー。高齢な上に彼自身も至るところに包帯を巻いているにもかかわらず、気にかけてもらって恐縮するばかりだ。
「すまない。面倒をかけたようだね」
「何を仰います」
さも心外と言わんばかりにパリーは渋面を作った。
「この度の戦いにおいて、殿下は一番手柄とも言うべき大仕事をやってのけたお方です。このような離れに押し込めている方が恐縮と言うもの。しばらくはゆっくり体を休められませ」
「情けない話だが、本当に力が入らなくてね。厚意に甘えさせてもらうしかないようだ。ヴィクトリアが恐縮していたと殿下にもお伝えして欲しい。それよりも、殿下のお加減はいかがか?」
「もう、執務に戻られておられます。治療師が言うには、最初の対処が適切であったために体力が温存できたと。回復次第、時を作ってこちらに伺いたいとも仰せでございました。その時にはウェールズ殿下自ら謝辞を述べられると存じます」
「これからは、そのような時間すら惜しい毎日になるだろうから、お気になさらずとお伝えして欲しい。それより、今の状況について聞かせて欲しい」
私のお願いに、パリーは話し出した。
聞けば、私が寝込んでいたのは1週間ほどのことらしい。私がトンだ直後にロサイスにおける神聖アルビオン滅亡の知らせが入ったとのこと。ガリアの両用艦隊の介入は史実通りに起こったようだ。その結果、指揮命令系統を失った神聖アルビオン軍は全面降伏。アルビオン戦役は終結した。
頭を失った神聖アルビオンの軍勢は総崩れとなり、街道は重い足を引きずって歩く兵たちの敗走の道と化した。戦争に負けるということは、人々を支えていた秩序が崩壊することと同義だ。平和の対義語は戦争ではなく混乱だという人もいたと思うが、確かに、戦争と言うのは確固たる指揮命令系統の下で行われる秩序だった行動ではある。その系統が失われれば、後に残るのは混沌の坩堝だ。ロンディニウムに行こうと思う者、途中の町や村に略奪に向かう者。故郷を目指す者。連合軍の兵士で魔法が解けて正気に戻った者。その柱を失ったアルビオンは一時的に大混乱に陥っていた。
そんな混乱の中、采を振るったのがこのパリーだ。彼はいち早く、アルビオン王国の復興をシティオブサウスゴータで宣言。本来年明けと同時に公布する予定だった宣言文書の原案を焼き直し、それを一斉に諸侯に向かってフクロウで飛ばしたようだ。諸侯に対してはかなり事前から根回しが進んでいたようで、事は思ったよりスムーズだったらしい。神聖アルビオンも、ずいぶん前から見切りをつけられていたようだ。
その号令を受けて諸侯は次々とウェールズ殿下支持を表明し、生まれたばかりで安定を欠く政権をサポートする名目で我先にロンディニウムに集まったとのこと。大方、王政復古後の椅子と権益に御執心な連中だろう。露骨なまでにさもしい連中だが、それくらいでなければ政治家は務まるまい。そんな彼らのバイタリティを上手く操縦して行くことこそが為政者に必要な資質だと思う。清濁併せ呑む、私にはできない芸当だ。撤退騒動で一度引き揚げた在トリステインの王党派亡命軍も順次アルビオンに帰還中だそうで、政権の安定度は日増しに高まっているらしい。ともあれ、これで私が茨の冠を被る羽目になる心配はなくなっただろう。その点については重畳だ。
足場が固まったところでウェールズ殿下はロンディニウムに竜籠で移動。気になっていた私の患者たちも次々にシティオブサウスゴータに落ちのびて来た水メイジの協力が得られて充分な治療が受けられるようになったらしい。昨日まで敵味方だった王党派と神聖アルビオンの連中も、今は同じ旗を仰ぐ形に収まっているそうだ。タイミングとしても、私が薬をキメて捻りだした数時間は無駄ではなかったようで、私が戦線離脱した直後から軍の水メイジたちが治療を代行してくれ死者は出なかったとのこと。手段の是非はともかく、彼らの命と言うバトンを何とか次の走者に渡す事が出来たことは良かったと思う。もう少しうまくやればもっと多くの命を救えたのではないかという思いも脳裏をよぎるが、彼らにあの世で会ったら、あれが私の限界だったと許しを乞おう。
才人は王室の客分として扱われ、ロンディニウムに運ばれて治療を受けられたらしい。神聖アルビオン7万を単身で食い止めたと言う功績もあり、その人気は兵たちの間でもかなりものなのだとか。叙爵は無理でも勲章くらいはもらえそうな感じだ。ついに歴史の表舞台に躍り出る黒髪の英雄。この辺が歴史のとおりで安堵するばかりだ。手柄については全部才人に押し付けて、ディルムッドの活躍について敢えて秘密にしたのは折衝に当たったマチルダだ。さすがは我が姉、言わずとも判ってくれている。ディルムッドの存在が世間に知られた日には、どんな生臭い連中が寄ってくるか判ったものではないだけにこの対処はありがたい。
私はと言えば、治療師からは過労と急性薬物中毒による昏睡だが命に別状はないと言われていたそうだ。1週間眠りっぱなしだったのも治療のための秘薬の副作用だったで安心していた家人3人は、私が目覚めたらとっちめてやろうと爪を研いでいたそうな。枕元でどんな物騒な話をされていたのだろうか。恐ろしいことだ。
治療については、ありがたいことにぶっ倒れた直後は軍の水メイジが、ここに着いてからは腕の立つ治療師が面倒を見てくれたらしい。解毒は早々に対処でき脳や神経も幸い無事だったものの、やはり用量超過の影響が深刻で、肝臓を中心に内臓にかなりのダメージが及んでいたようだ。組織が念入りに潰されているだけに、回復には少し時間がかかると思う。薬はやはり濫用してはいけないということを今さらながら思い知った。
治療師の診断ではあと2週間ほど安静にしなければならないとのこと。私の自己診断も同じ見立てだ。手配してくれた秘薬が高品質なものだからこの程度で済んでいるのだろうが、私がいつも使っている秘薬だったら1ケ月は寝込むコース、魔法がない前世ならば半年はベッドの上だったことだろう。
部屋の調度を見た時から何となく察しはついていたが、やはりここは、ロンディニウムのハヴィランド宮殿だった。厳密には、今私がいるのはその離宮になる。距離としては宮殿そのものからは歩いて10分くらいかかるところにある瀟洒な建物で、もっぱら国王の愛人を住まわせるために使われたらしい屋敷だ。伯父上には愛人はいなかったと聞くが、歴代の王様には側室は結構いたそうな。もちろんウェールズ殿下がそんな目的で私をここに押し込んだ訳ではないだろうし、恐らくはパリーあたりが気を効かせてくれたのだろうと思うが、何しろ、私は王軍に弓を引いた逆賊な上に尊属殺人者、しかも、内戦の際に最大級の叛徒であった北部連合の大物の血族だ。大っぴらに宮殿に出入りできない微妙な立場の私を隔離するには、なかなかいい場所ではないかと思う。
アルビオン国内の状況は概ね把握できたが、確かこの後がなかなか大変だったはずだ。
間もなく、戦後処理のための諸国会議と言うのが始まるはずだ。アルビオンは最大の当事者にしてホスト国。しかも、各国が遠慮なくその国益をむしり取りに来るであろうディフェンス側だ。その代表であるウェールズ殿下には、私などに関わっている時間などあろうはずがない。何より、ただでさえ私の存在は彼の迷惑になっているはずだ。
「パリー。言葉を飾らぬに訊くが……私の取り扱い、殿下にとっては頭痛の種なのだろう?」
私の言葉に、パリーの表情が曇った。
図星か。国内の意思統一において私と言う凶状持ちの存在は、決して歓迎できるものではないはずだ。無理はないと思う。
それを見た家人三人も表情を硬くする。
「……ご明察にございます。今、殿下の処遇につきましては、上層部で議論が交わされております」
「追放の身の私が、抜け抜けと祖国に舞い戻って好き勝手やってしまったんだ、仕方がないよ」
「ですが、そのお方が次期国王の命を救済したとなりますと……」
黙殺したいけれど、そうはいかないということか。無茶をしないであの場を適当にやり過ごせていればこんなことにはならなかっただろうが、まあ、あの場は仕方がなかった。同じ状況になれば、恐らく私はまた同じことをするだろう。
その時の成果がどうあれ、私の場合は罪状が罪状だ。殿下の臣下にも、私に恨みを持つ者がいないとも限らない。その心情を考えた時、ウェールズ殿下もおいそれと私に恩赦を出すような軽はずみなことはしないだろう。良くて殿下救済の実績と勝手な帰国の事実を相殺、国外退去再びというあたりが落としどころだろう。
「今、こうして保護してもらっているだけでもありがたいよ。いきなりばっさりやられないだけ感謝しなくては」
「そのようなことになったら、あの世に行って亡き陛下に申し開きができません。その儀ばかりは、この私が許しません」
「心強いよ、爺」
「今少し、私にも力があればよいのですが、できる努力は惜しみませぬ。殿下に不安なお気持ちを強いるのは心苦しいのですが、今しばらくこちらにてご辛抱を」
「すまないね」
「それに……」
そう言って、パリーは妙に言いづらそうな表情を作り、やがて口を開いた。
「殿下はもとより、ティファニア様の処遇につきましても、何とか良い方向に向かうよう努力致しますので」
「テファ?」
いきなり出て来た意外な言葉に、私は面食らった。何でまたいきなり。そんなことを思いながら首を傾げる私にパリーが投げかけた言葉は、爆弾だった。
「さすがに……先住の魔法を使ったとなりますと、いささか問題が大きいので」
思考が停止した。
先住魔法? 何のことだ?
慌てて視線を向けると、マチルダとテファが、さも困ったような顔をしている。
「あ~、ごめん。言うタイミングを計っていたんだよ」
異変が起こったのは、私が寝込んだ3日後の事だった。
その一群は、馬に乗って現れた。神聖アルビオンの制服を纏い、とても崩壊した軍の軍人とは思えぬ覇気を漂わせてシティオブサウスゴータの私の野戦病院に押しかけて来たとか。その数、およそ20騎。
後で聞いた話だが、私が腕ずくで乗っ取った寺院の司祭は、当初こそ戸惑っていたものの、私が行っている活動についてそれなりに理解してくれたようで、治療師の援軍を確保するためにあれこれ動いてくれたようだ。問題は、その際に私の名前が独り歩きしていた事で、別に名乗った訳でもないのに噂が噂を呼んでモード大公の遺児がシティオブサウスゴータで治療活動をしている事は知らぬ間に結構広くに知れ渡っていたらしい。
その名前が、彼らの網にかかってしまったのだろう。
「何事ですか、方々」
治療に協力してくれていた街の者が応じようとするが、半ば力尽くで脇にどかされてしまう。
そんな剣呑な気配があれば、当然立ちはだかるのは我が忠臣だった。
槍を手に誰何の声を上げる彼に、騎士たちが威嚇の声をあげた。
「退け、平民」
「お断りする。まずは御用の向きをお伺いしよう。それとも、いきなり腕ずくと言うのが貴公らの流儀か?」
「おのれ、平民の分際で」
「まあ、待て」
そんな一触即発の雰囲気を、騎士たちの後ろから聞こえた初老の男が打ち消した。
騎士たちの壁から一歩前に出て、ディルムッドと対峙する。
「こちらに、モード大公の御息女、ヴィクトリア公女殿下がおわすと耳にして参ったが、その真偽や如何に?」
「それをお答えする前に、まずは貴公の芳名を承ろう」
「これは失礼仕った」
そう言って初老の騎士が名乗る。次いで、その後ろに並んで殺気立っている騎士たちが次々に名乗りを上げる。
一通り聞いたのち、ディルムッドは名乗り返して問うた。
「まずお伺いするが、貴公らのことを我が主は存じているのであろうか。貴公らのその気配、どう見ても穏やかなものではなさそうだが」
「我等の名を、殿下は知らぬであろうな。だが我等はこの4年、殿下のお名前を一日たりとも忘れた事はない」
黒い言葉。恨みが単語の端々まで籠ったような物言いだった。
「我等は、いずれも王軍の騎士として亡き陛下の命によって働き、その最中に殿下によって討たれた者の身内である」
サウスゴータからの逃亡の際、手にかけた多くの兵の親族や友人だろう。アルビオンに足を踏み入れて以来、遠からずそういう人たちが出てくるだろうとは思っていた。
「然るに、我々には杖を取るだけの充分な理由と、殿下に対する復讐の権利があるものと確信している。判ったらそこを退いてもらいたい。あの時、愚息は18歳。手塩にかけて育てて参った一粒種ぞ。家督を継がせ、嫁取りも決まり、これからというところで未来を断たれた倅の無念をこの手で晴らしてやりたく、それだけを心の支えに地獄のような内戦を生き延びて参ったのだ。そして本日ようやくその機会を得、本懐を遂げるべくこうして推参仕った次第。邪魔をする者は、誰であっても許さぬ」
殺人は、呪いだ。その恨みの連鎖は止まらないと言うが、そこまで純粋な悪意があることを、私は改めて見せつけられた。
そして当然ではあるが、ディルムッドがその種の脅しに屈する訳がない。
「貴公らの事情は承った。そういう事なら是非もない。この身はそのヴィクトリア公女殿下の従僕。よって、我が主を害する意思を持って主の元を訪れるというのなら、其は我が打倒すべき敵に他ならぬ。故に、この場は断固として通す訳には行かぬ。押し通ると言うのなら、俺の屍を踏んでから行くがいい」
槍を一閃させるディルムッドと、騎士たちの対峙が一触即発になった時だった。
病床から起き出した十数人の兵が杖を手にディルムッドの左右に並んだ。いずれも酷い怪我をした、傷だらけの兵たちだったそうだ。
「何だ、貴公らは」
初老の騎士に、兵の代表格が答える。
「我等は、貴公らが仇と狙うヴィクトリア殿下に命を救っていただいた者だ。今の話を聞いてしまった以上、殿下を害すると言うのなら、我等もまたここで貴公らが踏んで行くべき屍の一つとならねばならぬ」
「くたばり損ないは退いておれ。我等は4年も待ったのだ。邪魔立ては許さぬ」
「いや、退かぬ。貴公らの無念も理解はするが、我等にもまた、通さねばならぬ義がある。大恩ある殿下に杖を向けると言うのであればやむを得ぬ。恩義には身命をもって報いるが我等アルビオン騎士の騎士道なれば、今一度王軍相討つ愚を犯してでも我等はここを退くわけにはいかぬ」
「おのれ、売笑婦の娘ごときに籠絡されおって」
半ばヒステリックになった初老の騎士が杖に手をかけると、居並ぶ全員が一斉に杖を抜いて突きつけ合った。
そして、戦闘は不可避と判断したディルムッドが踏み出そうとした時だった。
一人の少女が、剣呑な空気をものともせずに両者の間に割って入った。
それがティファニアだった。
ディルムッドがこれまで見たこともないくらい、その面もちには黒い怒りに満ちていたと言う。
「何だ、娘?」
テファはその言葉には答えず、そのまま初老の騎士の前に立ち、短い杖を手にルーンを唱えた。
そのルーンの正体を知るディルムッドは、テファの意図を察した。
「テファさん、それはいけない!」
ディルムッドが止める間もなく、聞き慣れない緩やかで抒情的なルーンに皆が怪訝な表情を浮かべた時、テファの魔法は完成した。
振り下ろされた杖の前で、狐につままれたような顔をする騎士たちの表情に、既に殺気はなかった。
呆けたような面々が、首を傾げてテファに問うた。
「我々はここで何を?」
「あなた方は、本隊からはぐれてこの地に迷って来たの。このまま、街道を進めばロンディニウムに着くわ」
テファの言葉に騎士たちは顔を見合わせ、そして馬を返した。
「かたじけない」
そうして、騎士たちは去って行った。
仔細を聞き、事の次第は理解できたが、さすがに私は宙を仰いだ。
何てこった。いきなりハードルが高い事態収拾ミッションだ。周囲は見慣れぬ力にそれが先住の魔法ではないかと騒ぎだし、青くなったパリーによって即座に私達のロンディニウム移送が行われて今に至っている。言うなれば隔離だ。
私のことが知られているということは、当然ティファニアの情報もこの国の上層部には届いているだろう。エルフの血を引くモード大公の御落胤。そうなると先住魔法を使うと思われても仕方がないだろう。
「ごめんなさい」
申し訳なさそうなテファだが、終わってしまった事をあれこれ言っても仕方がない。ここは頭を切り替えるべきだろう。遅かれ早かれ、殿下に虚無の事でコンタクトを取ろうとは思っていたのだ。むしろ、テファの虚無のデモンストレーションをどうするかがこれで解決できてしまったのはプラスに考えるべきだ。状況はいささか不利ではあるが、そこまで掴みが済んでしまっているのなら、一足飛びに本ネタを持ちかけるしかないだろう。
「それで、ウェールズ殿下の方は何と仰っておられる?」
「さすがに大きな声では言えない話ですので、こちらにつきましても国の上層部で議論を重ねております」
テファの存在は、アルビオンにとっても下手をすれば国として致命傷になる重大な問題だ。うっかりした事を言うと事態がどう転ぶか判らないだけに、私の覚醒を待ったマチルダ達の判断は間違っていないが、こうなっては呑気に寝てはいられない。物事を知らない連中が私たちに対して捕縛、あるいは処断といったような性急な結論を出す前にテファの魔法の正体を知らしめなければならない。もたもたしていたら、またまた死体を積み上げなければならなくなって要らん恨みを大量に買い付ける羽目になりそうだ。
「パリー、ひとつ頼みがある。ウェールズ殿下に、お伝えしなければならないことがあるのだが、間を取り持ってはくれないだろうか?」
「それはもう」
「まずは書面で仔細をお伝えしたいので、紙とペンを。それと、一つだけ先にお伝えしておいて欲しい」
私は確認するようにゆっくりと述べた。
「この子が使ったのは、先住の魔法ではなく、失われた第5の系統魔法だとね」
その夜、私はベッドに半身を起こしてレポートを書き始めた。
出来る限り早く、ウェールズ殿下に正確な情報を知ってもらわねばならない。
決意はしたものの、さて、どうやってそれを切り出したものか。思考がまとまらず、ペンを持つ手は動こうとしない。
殿下に隠密裏に接触し、情報を小出しにしつつ、ある程度こちらのカードの価値を釣り上げてテファのトリステイン滞在を認めさせようという当初の目論見が崩れた以上、今は事態のリセットこそを最優先にしなければならない。
エルフの血は、ハルケギニアにおいてはタブーだ。それを払拭するには、まずは虚無の担い手というブランドを確立する必要があるだけに話の組み立てには細心の注意が要る。シティオブサウスゴータの事実を書いて『あれが虚無だったんですよ』と言って信じてくれればいいのだが、誰も虚無の魔法と言うのがどういうものなのか知らないだけに、その証明には工夫が必要だ。
無論、不利な材料ばかりではない。虚無は始祖の属性だ。錦の御旗とも言える担い手が手元にあるという事実は、ウェールズ殿下にとっては最高の切り札になり得る。ルイズの事は彼の耳にも届いているだろう。全く興味がない話ではないはずだ。
殿下の支配が盤石なものであればともかく、今のアルビオンは混乱期を脱したばかりだ。諸侯とて、腹に一物も二物もあるような奴らばかりだろう。神聖アルビオンに与した連中をすべて改易できればいいかも知れないが、現実問題としてそうはいくまい。僅かな腹心だけで治められるほどアルビオンは狭くない以上、改心し忠誠を誓うと言ってきた諸侯を突っぱねられるだけの余裕は殿下にはまだないだろう。そんな生まれたばかりの現政権にとっては、虚無の担い手はいざという時に自らの正統性を裏付ける事が出来るカードだ。それに弓を引く事はブリミル教がはびこるハルケギニア世界そのものを敵に回すことでもある。もちろん、ルイズと同様にすぐさま公の存在として宣伝することはないと思うが、冷遇される可能性はまずあるまい。
また、アルビオン戦役において、ロマリアは僅かの兵力しか出していないので諸国会議では事実上のオブザーバーに過ぎなかったと記憶している。外交交渉において、ロマリアのアルビオンに対する発言力は強いものではないだろう。
状況は私にとっては歓迎すべき方向に傾いているようにも思うが、そこをどのようにつつけばストレスなく事が運べるか。
乏しい文才をあれこれ捻りながら文面を考えている時、ドアが叩かれた。
「開いてるよ」
声をかけると、入ってきたのはマチルダだった。
マチルダは難しそうな顔をしたまま、黙って私のベッドサイドの椅子に腰を下ろした。
「ウェールズ殿下宛の書状かい?」
私は頷き、素直に自分の思惑を話すことにした。白いままの羊皮紙を置いて、話しながら状況を整理していく。
つらつらと述べるのは、私にとってもマチルダにとっても決して本意ではない事実たちだ。しかし、現状ではアルビオン政府に庇護を打診するのが最もテファの身の安全の担保になる事も確かだろう。
私の話を聞くマチルダの表情は、さすがに重い。テファが先住魔法を使ったと誤認された現状では、下手したら生きてアルビオンを出られない事はマチルダも判っているだろう。
「虚無の担い手が誰なのかを伏せたままで交渉できればまだ駆け引きのしようもあったかも知れないけど、現状だと素直に全部話さなくちゃ通るものも通らないと思う。テファの魔法が虚無だと証明できなければ、いつ討手が来るか判らないからね」
「だろうね」
「でも、逆に考えれば悪い事ばかりでもないと思うんだ。ウェールズ殿下を味方につけられれば、トリステインを縁とするより頼りになると思う。今のアンリエッタの実力じゃ、ロマリアに遊ばれて終わりだろうからね」
アンリエッタと言う人物が、まだ発展途上の女王様であり、権謀術数の攻防になった場合に不安がある事についてはマチルダも同意するところだ。アンアンをあてにできない以上は、消去法でウェールズ殿下に取り入るのが上策だと言う事についても理解してくれている。
何しろ、敵はロマリアのトップたる教皇ヴィットーリオだ。テファが阿らなかったら、何をするか判らない狂信者。つまらないちょっかいの阻止には、やはり信頼できる人物の後ろ盾が欲しい。ウェールズ殿下はいささか直情的な部分もあるが、物事を俯瞰的に見ることができる人物だ。
もちろん、虚無が欲しいヴィットーリオが宗教上の立場を振りかざして強権を発動するかも知れないが、当面のロマリアの障害は狂王ジョゼフの統べる大国ガリアになるはずだが、その両国の交渉は早期に決裂したと記憶している。いかにヴィットーリオとて、ガリアに加えてアルビオンまで敵に回すような振る舞いはそうそうできはしないだろう。いかに教皇でも、その座が世襲ではない以上は、言ってしまえば代えが効く存在だ。ヴィットーリオが虚無の担い手だと言っても、その基盤はハルケギニアで一番欲深い鵺たちが巣食うロマリアという国だ。何でも思うがままと言う訳にはいかないだろう。この世界のコンクラーヴェや教皇罷免のための公会議のあり方などがどういうシステムになっているのかは知らないが、ガリアとアルビオンを敵に回すような聖戦をぶち上げたら、ただでさえその強引な改革のせいで敵が多いであろうヴィットーリオだ、さすがに首が危ないだろうと思うのだ。
そんな情勢に鑑みるに、テファが一個人テファではなく、アルビオンのテファとなった場合、下手な真似をしていることが明らかになれば間違いなく国際問題だ。そこまでの博打はいくらヴィットーリオであっても打てないというのが私の読みだ。
テファをロマリアの野望から守れるというのなら、この際トリステインもアルビオンもない。どちらであっても、ヴィットーリオを牽制してくれるならば、それでいい。
私の言葉を聞き終わり、同意したような、そうじゃないような、微妙な顔でマチルダは考え込んだ。
「あんたが言いたいことは、判るよ。だけどさ……虚無の担い手というは、恐らく国にとっての王様並みに最重要人物だよね。そうなると、テファは間違いなくトリステインにはいられない。アルビオンとしても、後生大事に手元に置いておくだろうね」
当然だろう。恐らくはアルビオンの聖女として大切にされるであろう虚無の担い手だ。私なら宮殿付きにするか、大きな寺院か修道院の長のポストを用意して厚遇するだろう。国をあげて、その身柄の安全を確保するように手配すると思う。
「そうなってくれれば、この上なく安全だろうね」
やせ我慢しながら言葉を絞り出す私に対し、マチルダの言葉は容赦がない。
「それは安全だろうさ。でも、それだと多分、私たちは二度とテファに会えなくなるだろうね。違うかい?」
そう言ってマチルダは、ストレートに私が悩んでいるところを突いてきた。
目を閉じ、耳を塞ぎ、気づかないふりをしていた部分を抉り出す言葉だ。さすがに心が軋む。
王族の庇護下、しかもアルビオンにいるテファに対し、トリステインの王都で平民という立場で生きる私たち。
せめてトリステインにいてくれれば、何らかの手段をもって接点を持つこともできるかもしれないが、ここはアルビオン。果てしない虚空がその間に横たわる空の上の国だ。手紙のやり取りくらいはできても、追放の身の私は二度と会うこともできなくなるだろう。
現実を突きつけられると、さすがに奥歯が鈍い音を立てる。
でも、それはあの日に覚悟を決めたことだ。何を置いても、テファの身の安全こそを優先すると。
これは、泣いてでも演じ切らねばならない、終演の舞台なのだ。
「マチルダ……虚無の担い手はね、死ぬと始祖の血筋に連なる他の人に受け継がれるんだよ」
代えが効くと言うのは教皇だけではないのだ。虚無の担い手が命を落とした場合、その血に連なる親族に虚無は再び発現する。テファ亡き後、アルビオン王家の血筋に連なる誰に虚無が出るかは判らないが、当面は私とウェールズ殿下のいずれになると思われる。既に使い魔を持つ私に虚無が発現するかは知らないが、スペアがある以上、現時点でテファの命は奴らにとっては必ずしもかけがえのないものではない。
「だから、ロマリアの連中がテファを厄介者と考えたら、あの子を殺すくらいのことは平気でやりかねない。それこそ、国が後ろにいるような立場にいないと……あの子を守ってあげられない」
才人を平気で背中から撃とうとするような連中だ。こっちも必死にならなければならない。でも、自分に言い聞かせるように言ってみても、さすがにトーンが落ちてしまう。
静かに話を聞いていたマチルダが、ポツリとつぶやいた。
「テファ、独りぼっちになっちゃうよ……」
マチルダの悲しそうな顔が、胸に刺さる。そのことについては、アルビオンに来る前に私も考えた。孤独の辛さは、誰よりも知っている私だ。トリステイン預かりということが難しい以上、アルビオンにおいてテファに孤独を強いることは私が許さない。
「それについては、私なりに案があるよ」
「案?」
話すのは、私なりの苦肉の策だ。正直、私だってやりたくはない一手。だが、それはテファの心の安寧と身の安全のためには私が打てる唯一にして最大の対抗策だ。
だが、それもまた、大切なものを手放すに等しい方策だった。
案の定、話を聞き終わると、マチルダは俯いてしまった。
「良い手だとは思うけど……寂しくなるね、それは」
私のプランは、彼女にしても失うものは小さくないのだ。
「ごめんよ。本当にごめん。私の脳みそじゃ、これ以上の手は思いつけないんだよ」
疲れ切ったように、マチルダがため息まじりに宙を仰いで微笑む。彼女にも、代案がある訳ではないようだ。
「しょうがない、ね」
マチルダの言葉を聞くほどに、自分のいい加減な記憶がこの上なく情けなかった。
短絡的な手段は何度も考えた。テファを害しかねない連中を殺して回ろうかと真剣に考えたこともある。
作中でヴィットーリオが、アンリエッタに己の理想について説いたことがあった。その成就のためなら手段を選ばないとも言っていた。御立派なことだ。理想があること自体は結構なことだと思う。アンリエッタをたばかって、ルイズを手駒のように扱うこととて、ヴィットーリオの理想の前では些事に過ぎないのだろう。だが、その理想がテファの涙の上に成り立つものなら、その理想とやらをぶち壊すために私もまた手段を選ばない。
連中にとっては駒にすぎないテファではあるが、テファとハルケギニアを秤にかければテファが重い私だ。テファに何かあったら、当然ではあるが私たち主従は即座に行動に移るだろう。後先の事など知った事ではない。何があっても宗教庁の奴らは皆殺しだ。史上最悪の魔女の汚名を、私は喜んで頂くことになるだろう。
だが、現実は複雑だ。気に入らない奴がいるから殺してしまえ、で解決するようなことばかりではない。殺しても代わりが出てきては意味がないのだ。
確かに、やがて来る大隆起と言う災害の対処について、ヴィットーリオが最も現実的な行動に出ている事は知っている。他国ではできないリーダシップを、奴が取っていることも事実ではある。
その対策について、全てを包み隠さず全てを話してくれるなら、虚無の担い手だって体を張る意義があるし、私だって協力するにやぶさかではない。だが、今のロマリアの隠蔽体質は筋金入りだ。大義の名のもとに、平然と才人の背中を狙った連中の手法を考えると、とてもではないが無条件で力を貸す気にはなれない。
突き詰めれば、全てを語りもせずにテファが玩具にされることが、私は許せないのだ。
私の中にゼロの使い魔の物語の終焉の記憶が僅かでも残っていればいいのだが、今の私にはテファの守りを固めるしかできる事がない。
記憶なら、幾度も反芻した。ヤマグチノボルの著した『ゼロの使い魔』の一巻から最後まで、何度も記憶をたどってテファと虚無に関わるすべてを思い出そうと試みた。だが、その度に私の記憶は途中でスタックしてしまう。ジョゼットの登場、すなわちルイズの家出くらいまでは割としっかり覚えている。厳密な巻数は判らないが、タバサがローブを着たエルフに向かって魔法を放つ挿絵までは曖昧ならがらも記憶がある。
しかし、そこから先の記憶の中にデータがない。厳密には、私の随意で思い出すことができない。漠然としたイメージだけは、確かにある。テファが才人と一緒に攫われるのは知っている。話の流れからすればそこで才人が大活躍してテファを助けてくれるのだと思う。だが、ヴィットーリオの思惑の流れだけはどうにも読み切れない。美形の陰謀家と言う嫌味なキャラ付けが生理的好かないので斜め読みしていたのか、それとも妙なプロテクトが私の脳に働いているのか、はたまた思い入れの出来る悪役たるジョゼフの死を持って、私の中でこの作品が終わってしまっていたのか。
物語の行先が思い出せない今、私が何よりも必要といている肝心要の情報が欠落してしまっている。
聖地に一体何があるのか。
神の心臓・リーヴスラシル。記すことすら憚られると言われるその使い魔が一体何なのか。
せめてそれさえ判れば、対処法も考えられるのに。
結局、明け方近くまでかかって要点をまとめたレポートを書き上げ、朝一番でパリーを呼んでそれを手渡した。
これを読んだ殿下がどう出て来るかは、出たとこ任せだ。
殿下に送りつけたレポートが私たちにもたらす未来への不安と、体のだるさと戦いながら7日ほどが過ぎた頃、驚いたことに才人が見舞いにやって来た。あれだけの大怪我なのに、10日程度でここまで回復するとはすごいと思う。原作だとテファの指輪でも2週間くらいだったと記憶しているが、あの時よりダメージが少なかったのか、はたまた城で診てくれた治療師の腕がいいのか、いずれにせよ回復が早くて何よりだ。一体どういう治療を受けたんだろう。
若干傷や包帯が残るが、いつも通りに快活な笑顔を浮かべている才人を見て心底安堵する。何だかんだで、私もこいつの引力に捕まっている一人なのかも知れない。
そんな才人だが、困ったことが一つ。左手を確認したら案の定ルーンがなかった。やはり心停止は重大な契約解除要因になるようだ。そうなると、今頃ルイズはひどい状態なことだろう。可哀そうに。
そんなこんなで私の部屋に皆で集まり、わいわいと馬鹿な話をした後で才人は折り目正しく頭を下げた。
「とにかく、助けてくれてありがとう」
ストレートに言う才人に、ちょっとだけ罪悪感を覚える。本来なら、感謝される道理もないものだ。私が引っかき回しさえしなければ、予定通りにウエストウッドの奇跡によって命を取り留めただろうに、それを感謝されると言うのは恩着せがましくて居心地が悪い。
それはさておき、私としては、才人に通してもらわねばならない筋道があった。
「ところで少年、シティオブサウスゴータで私が言ったことは覚えているかい?」
「え?」
「二人で生き残れ、と言ったよね?」
「……ああ」
どうやら、私の意図を察したらしい。
「覚えているなら話は早いね。足を踏ん張って、歯を食いしばりな」
才人にそれだけ言い、マチルダに目で合図する。あいにく私はまだ力が出ないし、テファは優しすぎる。ディルムッドでは鉄拳が飛んで歯が折れてしまいそうだ。ここはマチルダが適任なのだ。
才人も覚悟はしていたらしく、何も言わずに大人しく肩幅に足を開いて運命と対峙していた。
あの時、確かにああしなければルイズは死んでいただろう。やむにやまれず、彼が剣を取ったのも知っている。でも、その事を言い訳にしないから、こいつはこんなにも人に好かれるのだろう。私たちがどういう思いで危ない橋を渡ったのかを、才人も判ってくれているようだ。
とは言え、ここでそのままにしておいては、私たちの間に妙な貸し借りが生まれてしまう気がするのだ。できれば、こいつとはこの先も仲良くやって行きたい。そのためにも、これは必要な落とし前だ。
ゆらりと、マチルダが才人の正面に立つ。
「何か言いたい事はあるかい?」
「ありません! 心配かけて、すみませんでした!」
不動の姿勢でそれだけ言うと、才人は歯を食いしばって目を閉じた。
「いい覚悟だ」
言うなり、マチルダの全力の平手が才人の頬で音を立てた。すごい音だった。ああ、こっちの心も痛いねえ。テファも目をきつく閉じて泣きそうな顔をしている。僅かに揺らいだものの、才人は私たちの気持ちを乗せたそれを受け止めた。
「もうあんな無茶するんじゃないよ。それと、今回の事については私たちはこれで許してあげるけど、私たち以外にもあんたを待ってる人がいるってことを忘れるんじゃないよ」
手をぷらぷらさせながらマチルダが笑うが、その声と視線は穏やかで、優しい。それなりに私たちの気持ちを受け入れてくれたのか、才人は鼻声で何度も謝罪の言葉を紡ぐ。
「ルイズ、きっとすごく泣いてると思うから、早くあの子のところに帰ってあげてね」
最後に、テファが優しい声を才人にかけた。
恐らくは、今頃悲しみのどん底に落ち込んでいるであろうルイズだ。身投げすら考えた彼女が、才人の無事を知ったらさぞ凄いことになるだろう。原作ではシェフィールドの襲撃のどさくさに合流してたが、才人にとっては今回は正々堂々、正面から立ち向かわなければいけないと言うハードルの高さだ。気の強いルイズのことだ、どんなことになるか想像もつかないが、才人にしても男を見せなきゃ立つ瀬があるまい。
しかし、それに対する才人の反応は意外なものだった。
「でも、俺、もうルイズに会う資格がないから……」
何のことかと唖然とする私以外の3人。そうだった。この馬鹿はこの時期勝手に煮詰まって自己完結してたんだっけ。
「どうして?」
テファの問いに、才人は左手を示して寂しそうに言った。
「ルーンがないんだよ、もう」
消えてしまったガンダールヴのルーン。それをルイズとの絆と信じていた才人の気持ちは判らないでもないが、それだけがルイズとの縁でもあるまいに。
「あん? それがないとお嬢ちゃんのところに帰れないのかい?」
マチルダが不思議なものを見るような目で才人を見つめている。
「はい。俺、もうルイズのこと守れないし……」
訥々と、ルイズと一緒にいる資格を失った心情を語る才人。誰かを守ると言うことについて原作ではアニエスにお説教されてたけど、黙って聞いていたら才人のあまりの考えの足りなさに私は少し頭痛を覚えた。こいつ、どこまでルイズの気持ちを判っていないんだろうか。それはともかく、今は悲壮感に酔ってないで周りを見るべきだと思う。才人の話を聞くうちに、皆のこめかみに浮かぶ井桁模様。自分がどういう連中の前でその種の泣き言を言っているのか判っていないようだ。
才人の言葉を一通り聞き終わり、マチルダは深くため息をついた。
「あんた、ちょっとは気の効いた馬鹿かと持ってたけど、正真正銘のただの馬鹿だったんだねえ」
「え?」
そして、呆気に取られる才人の胸ぐらを掴んで手を振り上げた。
「この甲斐性なしがっ!」
平手再びか、と思ったあたり、私もまだ甘い。
響いたのは、機関銃のような音だった。
目にもとまらぬ往復ビンタを雨あられと見舞うマチルダ。見ているだけでパンチドランカーになりそうな容赦のない平手の乱舞だ。マチルダお姉様、一応そいつ怪我人なんですが。
都合20発はひっ叩き、アンパンマンみたいに顔を腫らして気絶した才人を軽々とディルムッドに向かって投げ渡す。
「ディー、あんたの管轄だ。しっかり気合いを入れておやり」
これ以上気合いを入れたら死んでしまうと思うが、白目を剥いた才人を受け取ったディルムッドが首肯した。
「面目次第もございません。しかと言って聞かせておきますので」
何と言うか、容赦がない連中だなあ。工房だと毎日こういうやり取りがあったのかしら。
仕方がないので事の次第を書いた手紙を一筆したためて侍女を呼び、一番早い便でトリステイン魔法学院のルイズ宛に送るよう頼み込んだ。フクロウを使えば早々に届くだろう。そこでルイズがサモン・サーヴァントを行えば才人をフネに蹴り込む手間も省ける。
ついでに才人のトリステイン送還の承諾をもらえるよう手配をお願いする。アルビオンにしてみれば大切な賓客かも知れないが、才人の立場はルイズの使い魔だ。引きとめることはメイジの道義に反すると言えば納得してくれるだろう。
数日後、目の前に現れた鏡に才人は驚いていた。
「はい、荷物」
ぷんぷんという擬音が似合いそうな顔で怒っているテファが、タイミングよくデルフを持って来る。それでもなお渋っていたところをマチルダに怒鳴られて逃げるように鏡に飛び込み、英雄は慌ただしくトリステインに帰還して行った。一応、手紙でルイズには頑張った才人を褒めるようお願いしてあるが、歓喜と涙の抱擁が待っているか、はたまた血の雨が降るかはルイズのみぞ知ることだ。
才人の尻をひっぱたいて送り返した日、深夜に喉が渇いて水を取りに立った時だった。
体はまだ重いけど、立って歩けないほどではない。
薄明りだけが灯った廊下を自室に戻る時、通りがかった窓の外、中庭のベンチに月明かりに映える金髪を見た。
「テファ」
話しかけられ、テファはびっくりしたような顔で振り返った。
「もしかして起こしちゃった?」
「いや、喉が渇いてね」
手にした水差しを見せながら、私はテファの隣に座る。
「いい月だねえ」
見上げる双月は、トリステインで見るそれよりもくっきりとしていて大きかった。高度が高いのと、空気が澄んでいるからだろう。
「ねえ、姉さん」
テファが呟くように言った。
「何?」
「ごめんね。勝手なことしちゃって」
「ん?」
「あの人たちに魔法を使った事」
シティオブサウスゴータでのことらしい。
「あの場では、最適な選択肢の一つだっただろうさ。それより、どうしていきなりあんな思い切った事をしたんだい?」
後にも先にも、私が知る限りではテファが『忘却』を使った事は一度しかない。アルビオンから脱出した際に、私たちを運んでくれたフネの船員たちに対してかけただけなはずだ。未来が見通せなかったあの当時、テファに虚無のことを言うのは憚られたため原作通りに『不思議な力』としか教えなかったが、今のテファはあれが虚無の魔法だということを知っている。そして、それを人の目があるところで使うことが何を意味するかも、恐らく判っているはずだ。
そんなテファが、私の言葉に口ごもりながら答えた。
「許せなかったの」
テファが、己の中の黒い何かを吐き出すように言った。
「あの人たち、姉さんのこと一方的にひどい人だって言ってた。お母さんにあんなことした人たちなのに、姉さんが喜んで殺したみたいに言ってたの。私、それがどうしても許せなくて。姉さんのこと何も知らずに酷い事を言わないで欲しくて……」
確かに、話を聞いた時はそいつらのあまりに一方的な物言いに、私もいささかトサカに来た。
あの時、あの連中を手にかけたことを悪と言うのなら、私は大悪党で一向に構わないと思っている。あの時、私たちと対峙したのは騎士の誇りなど欠片もない連中だったからだ。シャジャルを蹂躙した連中だけでなく、逃げる私たちを追撃してきた連中も、妙齢のマチルダに好色な目を向けながら、彼女だけは生け捕りにして役得にあずかろうと笑っていたような奴らばかりだった。そいつらにとっては良い身内だったのかも知れないが、女をああいう目で見るような輩はそれだけで私の敵なのだ。
「ありがとうね、テファ。私のために怒ってくれて」
手を伸ばしてテファの黄金細工のような髪をなでなでする。これぞ神の造形と言わんばかりの、絹のような手触りだ。私のような小っちゃい奴が妙齢のテファの頭を撫でている構図と言うのは、人が見たらかなり珍妙に見えることだろう。
「ねえ、姉さん」
テファが視線を落としながら、言葉を探すように言った。
「あの時から、姉さん、ずっと私の為に頑張ってくれてきたよね。サウスゴータで助けてくれた時も、お母さんのために本気で怒ってくれたし、逃げる時も追いかけてきた人たちから私たちを守ってくれた。トリスタニアに着いてからも、何時だって私の事を気にかけてくれて。本当に、感謝してる」
ふいに投げかけられたあらまった言葉に、一瞬言葉を失った。それがテファの心からの言葉だというのが判った。
「あ~、どういたしまして、ってのも変だね。まあ、その、かっこつけて言えば、妹を守るのはお姉ちゃんとして当然だからね」
やや冗談めかしていう私に対し、テファは柔らかく微笑んだ。
「姉さんは優しいけど、姉さんだってたくさん我慢しているの、私知っているよ」
「ん?」
「あの時、お母さんに酷いことしてる人たちが言ってた。姉さんは親殺しだって。でも、姉さんがそんなことするくらいなんだからよっぽどの事があったんだと思う。それに、姉さんお姫様なのにあんなひどい恰好してて、手も顔も傷だらけだった。自分のことだって大変だったんだな、って思ったよ。でも、そんな大変なはずな姉さんが、私の為に一生懸命になって私を助けてくれたよね」
テファが冷静にそこまで見ていたことを知って、私は正直驚いた。あの日のことが、昨日の事のように脳裏に蘇ってくる。
『ティファニア! 無事ですか、ティファニア!』
必死に叫んでクローゼットを叩く私に、少しだけクローゼットの扉を開けて、テファは弱々しい声で答えたっけ。
『あなたは、誰?』
露骨なまでに不安そうな声に、私は考え込んだ。目の前で騎士たちを惨殺した私だ。怯えられるのは仕方がない。まずこの子の不安を解いてあげなければならない。警戒されるような言葉遣いはやめるべきと思い、お姫様言葉をやめて、できるだけ気の置けない感じに口調に切り替えた。そして僅かに開いたクローゼットの奥で震えているテファに、精一杯の笑顔を作って手を伸ばした。
『はじめまして、だね。私はヴィクトリア。ヴィクトリア・オブ・モードと言えば判るだろう。お前のお姉ちゃんさ。お前を助けに来たんだよ』
そんな回想をしている私の隣で、テファがポツリを呟いた。
「私……もう、トリステインにはいられないんでしょ?」
その言葉に、私は即座に反応できなかった。
「まだ、判らないよ」
虚勢を張る私に、テファは笑った。
「マチルダ姉さんの言うとおり、姉さん、嘘が下手だね」
「何が?」
「知ってた? 姉さん、嘘つく時、左下に目線が行くんだよ」
「……」
知らないよ、そんなこと。
「でも、ありがとう。嘘でも、気持ちが嬉しい」
そう言って微笑むテファの表情が、あまりにも痛々しくて、私は俯いた。
そして、一つだけ、淡い可能性として残っている微かな活路を口にした。
「ねえ、テファ……逃げちゃおうか」
「え?」
「東方。サハラを越えて皆でさ。エルフくらいなら何とかなるよ、きっと」
半分だけ、本気の提案だった。ハルケギニアに拘りさえしなければ、私たちは離ればなれになる必要などないのだ。しかし、そんな私の言葉にテファは首を振った。
「ありがとう、姉さん。でも、ダメだよ。サハラを越えて東方を目指したら、多分、皆すごく大変な目に遭うと思う。もしかしたら、誰かが死んじゃうかも知れない。そんなの、絶対にダメだよ。それにね……」
「それに?」
「私、ずっと考えてたんだ。私にできることは、何なのかって」
語られたのは、初めて聞くテファの本音だった。
「私は、マチルダ姉さんみたいに何かを作ったりもできないし、姉さんみたいに誰かを治してもあげられない。ディーさんみたいに戦うのだって無理だよね。頑張って診療院の手伝いを一生懸命やってきたけど、今のままでいいのかな、って思ってた。いつまでも、姉さんたちに頼ってばかりでいいのかなって。でも、あの時、患者さんの治療を任されて思ったの。ああ、私ができる事はこれじゃないな、って。どんなに頑張っても、患者さんがどんどん具合が悪くなって、結局手に負えなくなって姉さんに患者さん回さなくちゃいけなくて。姉さんだって目一杯頑張っていたのに、そのせいで姉さん倒れちゃった」
別に私がひっくり返ったのはテファのせいではないのだが、彼女の中では少々歪な解釈がなされているようだ。
「それは違うよテファ。ああいう場では、全てを助けられる事はありはしないんだよ。戦争というのはそういうものなんだよ」
「でも、最後に後ろに姉さんたちの支えてくれる手があるっていう状況で頑張っても、それじゃダメだと思うの。それだと、いつまでたっても姉さんたちに甘えてしまう。もう、私のせいで姉さんたちが大変な思いをするのは嫌なの。一番年下だし、力もないけど、いつまでも姉さんたちに頼りきりじゃ、やっぱりダメだよ。私も、独り立ちしなくちゃいけないと思う」
意外な言葉に、私は息を飲んだ。
そう言って微笑むテファが、あまりにも儚げで私は何も言えなかった。
「虚無の担い手っていうのが、どういう意味を持つのかまだ判らないし、何ができるのかも判らないけど、他の人にはない力を持つということは、恐らくそこに私にしかできない何かがあるんじゃないかって思うの。姉さんたちと離れ離れになっちゃうのはもちろん嫌だけど、でも、できれば私も、私に出来ることを見つけてみたい。そうなって初めて、姉さんたちの妹だって胸が張れると思う。私がアルビオンに残らなければならないとしたら、それはきっと、私が頑張らなくちゃいけない時が来たっていうことだって思うの」
「テファ……」
「だから、もし私がアルビオンに残らなくちゃいけなくなっても心配しないで。私、きっと頑張れると思う。姉さんたちの、妹だもの。大丈夫だよ」
テファが言ってくれた、決意の言葉。
それが、テファの精一杯の強がりだということが判ってしまうことが、無性に悲しかった。
泣きたいのを我慢して、一生懸命笑顔を作って、少しでも私の心の負担が軽くなるようにと自分を偽ってくれているテファ。
だから、私も精一杯の笑顔を作ってテファの頭を撫でた。
被りたくもない、笑顔の仮面を被ったままで。
今夜だけ、テファの優しい嘘に騙されるために。
宮殿からの呼び出しが来たのは逗留して3週目、ヤラの月の末、諸国会議開催の5日ほど前のことだった。