馬車に揺られながら、私は窓の外を緩やかに流れて行く深い森を見ていた。
思い切って借りたブルームタイプの贅沢な馬車は軸受のクッション性能が高く、中でワインが飲めそうなほどの乗り心地だった。
きっと、バネに良い鋼を使っているのだろう。
向かいではティファニアとヴィクトリアが、景色を見ながらきゃいきゃいと騒いでいる。
そのはしゃぎ方はまるで子供のようで、とても働いて立派に身を立てている者には見えない。
考えてみれば、アルビオンから流れてきてからこの二人は驚くほど変わっていない。
ティファニアは外見こそ大人びてきたが、中身はほとんど変わっておらず、ヴィクトリアに至っては時を止めたかのように見た目も中身も出会った時からそのままだ。
何だか、私一人だけが歳を取っているような腹立たしい気持ちが湧いてくる。
冬の到来の前、私たちは一つの試練を迎えた。
ヴィクトリアが背負った、血の呪い。
彼女の生まれのしがらみが、遠くトリスタニアにまで追いかけてきた。
ヴァリエール公爵家に保護された私たちが祈るように待ち続ける中、明け方近くに公爵夫人のマンティコアが帰還した。
焦燥の表情を浮かべたディルムッドが抱える小さな姿に、一瞬何が起こったか理解できなかった。
感情が、物事の理解を拒んだためだと思う。
糸が切れた人形のように力を失った、全身が血塗れのヴィクトリアが使い魔の腕の中にいた。
あの時のティファニアの悲鳴は、まだ耳に残っている。
取り乱し、縋りつこうとするティファニアを私が冷静に抑えることができたのは、先に彼女がパニックに陥ってくれたからだ。
そうでなければ、私がおかしくなっていただろう。
公爵夫人はさすがに冷静で、凛とした声で次々に指示を飛ばしていた。
控えていた多くの水メイジたちがすぐにディルムッドに駆け寄り、ヴィクトリアを受け取って応急の治癒魔法をかけながら屋敷の一室に運び込んだ。
処置室であるその部屋の入口の前で、私たちは待った。
ディルムッドが、まるで幽鬼のような表情で瞬きもせずにドアを凝視していた。
忠義に篤い彼の心中は、察するに余りある。凄まじい自責の念が彼の中に吹き荒れているのだろう。
ティファニアは手を組み合わせ、固く目を閉じて一心に何かに祈っていた。
何かに祈りたいのは、私も一緒だった。
やたらに長く感じる時の流れを積み重ねた気がしたが、実際にはさほど時間は経っていなかったのかも知れない。
曙光が強さを増す頃、ドアが開いて、大きな侍医長が出てきた。
暗いその表情を見て、私は神と始祖に問うた。
これは何かの間違いなのではないかと。
沈痛な面持ちで事実を告げる彼の言葉が、耳を素通りして行く。
私の体の中と外で、事実と願望、現実と懇願が錯綜し、膝が崩れそうになった。
あの小生意気で、だらしなくて、ババ臭くて、でも、情に厚くて、優しい娘が、いなくなってしまう。
そんな考えたくもない未来予想が、私を打ちのめす。
大切なものが手のひらから零れ落ちるとき、運命のタクトはいつだって突然で無遠慮だということは知っているはずだったのに。
そんな、心が砂糖菓子のように砕けそうな私を助けてくれたのは、神でも始祖でもなく、私のもう一人の妹だった。
一緒に話を聞いていたテファは、話の途中で侍医長の脇を猫のようにすり抜け、ドアの中に駆けこんだ。
追いかけて室内に入ると、寝台の上に、シーツに包まれたヴィクトリアが眠っていた。
周囲の治療師たちが、既に片付けに入っている姿に理由もなく腹が立った。
ヴィクトリアの隣に立つテファの表情に絶望はない。今、私を支えているのはその彼女の表情だけだった。
テファはヴィクトリアの上に手をかざすと、意識を集中し始めた。
ルーンを唱える訳でもなく、ただ意識を指輪に集中すると、程なく彼女がつけていた指輪が輝き始めた。
彼女の母の形見の指輪だ。前に一度聞いたことがある、水の力が込められた宝玉が嵌った指輪。
テファの集中に呼応するように、その青い石が輝きながら溶け始め、光る滴になってヴィクトリアに零れ落ちた。
それは、美しいティファニアの姿と重なり、崇高な神事のような光景だった。
石が溶け消えるころ、土気色をしたヴィクトリアのその頬に、微かな赤みが差した。
固唾をのんで見守っていた侍医長が、ヴィクトリアの脈を取り、驚愕の声を上げて部下たちに太い声で指示を飛ばす。
ティファニアがもたらした奇跡の名残は押し寄せる侍医たちの活動に押し流され、私たちは再び部屋の外で待機となった。
その時間は、絶望に塗りつぶされそうだった先ほどまでと違う、希望を信じることができる時間だ。
ヴィクトリアの帰りを待つ、少しだけ心が軽くなった時間だった。
奇跡は起こったものの、それから数日、ヴィクトリアは生死の境をさまよった。
急所に傷を受けており、多量の失血が彼女の生命力を奪っていたらしい。
ヴァリエール公爵家の侍医団がいなければ、恐らく助からなかっただろうと思う。
ヴィクトリアの病室は屋敷の離れの一角に設けられ、ありがたいことに私たちはそこへの出入りを許された。
私たちは交代で日参したが、その合間を縫って日々の生活を回すのは思ったより大変だった。
特に、診療院はヴィクトリアがいなければパフォーマンスの低下は目を覆うばかりだ。
長く助手を務めてきただけに、軽い症状の患者に対してはテファでも処方する薬が判ったが、そのストックも程なく尽きた。
もちろん、秘薬はヴィクトリアじゃないと作れない。
長期休診もやむを得ないかと思っていたそんな時に、救いの手が差し伸べられた。
「お邪魔するよ」
頭をつき合わせて今後について悩んでいる私たちが玄関に出向いて見ると、そこに大きな箱を抱えたピエモンがいた。
ポーカーフェイスの老人は私たちの様子を確認するように見ると、運んできた大きな箱をドスンを下ろした。
「さしでがましいとは思うが・・・」
彼が持ってきたのは、大量の水の秘薬だった。
用途のバリエーションこそ限られるが、よほどの患者じゃない限りは充分に対応できる品々だった。
「院長不在では秘薬の調達もままなるまいと思ってね。値段は君たちの売値でかまわん。使ってくれ」
見ていたようなタイミングの援軍に、私たちは驚いて目を丸くした。
「助かるけど・・・でも、本当にいいのかい? こんな高価なものを・・・」
ヴィクトリアが作るものと違い、素材からして一流の物を使う彼のところの秘薬は本格的なものだ。
まともに買えば平民の年収くらいは軽く飛ぶような物を素直に受け取っていいものかどうか、私は逡巡した。
しかし、ピエモンは当然のように答えてくれた。
「トリスタニア町内会は互助組織だ。困っている御近所を放っておく訳にはいかんよ。それに、君のところの院長だって、私が困った時は飛んできてくれるだろうからね」
年の差を忘れてクラッと来そうなくらい男前のピエモンの助けもあって、とりあえず、私たちのヴィクトリア抜きの日常は何とか軌道に乗せることができた。
私はお得意さんたちに事情を説明して回り、しばらくの間工房の営業を縮小して、できる範囲でヴィクトリアに付き添うことにした。
工房のお客は待ってくれるが、診療院の患者は待たせるわけにはいかないので、ティファニアは診療院の切り盛りに従事してもらう。
寝ぼすけなヴィクトリアが目を覚ますまで、3週間かかった。
元から薄い肉が削げ落ちてしまって痩せこけてしまった姿は見ていて痛々しいが、それでも命があったことは何物にも代えがたい。
覚醒の連絡をすると、ティファニアは取るものを放り出して駆けつけてきた。
侍医団が診療を終え、入室を許されるやヴィクトリアの首に抱きついてまるで駄々っ子のように大泣きした。
それが落ち着いたところで、ディルムッドが入って来た。
その姿に、さすがにヴィクトリアは言葉を失った。
やつれ果て、憔悴しきった使い魔は、どこか幽鬼のようだった。
その忠臣は伏し目がちに主に寄るや、手にした青い水晶の杖を差し出す。
ヴィクトリアが眠っている間に、彼が現場に出向いて探してきた彼女の杖だ。
しかし、彼の表情は重い。
その表情そのままの言葉を口が紡ぐ。
「この度は、使い魔にあるまじき不始末・・・もはや、お詫びする言葉も見つからず・・・」
等と言いだし、いきなり平身低頭した。
ついには『この責につきましては一死を持って贖いたく、自裁の許可を』とか言い始めたので、ヴィクトリアはなけなしの体力を振り絞って使い魔を叱りつける羽目になった。
私の知りうる情報でも、彼は彼なりに精一杯やったものと思う。責任の所在云々については、誰にあるものでもないだろうに。
すったもんだのやり取りの挙句、ついには『ひどいじゃないか。お前、こんな私を捨てるのか』『いいえ、そのような』と男女の修羅場のような展開になってようやく男泣きするディルムッドを宥めることができた。
ヴィクトリア回復の報を聞いたのか、翌日に公爵夫妻がやってきた。
私たちも居合わせた午後に、二人きりで部屋に現れたのだが、部屋に入るなり公爵が杖を振るい、サイレントの魔法をかけた。
どうやら『そういう話』になるらしいと思い、私もティファニアも姿勢を正した。
「災難でしたな、殿下」
公爵の言葉に、ヴィクトリアが低頭する。
「この度はとんだご迷惑をおかけいたしまして申し訳ありません。名高き『烈風』殿直々に御助勢をいただいたばかりか、家人ともども命まで助けていただきました。この御恩、生涯忘れるものではありませぬ」
この屋敷に逃げ込み、勢いに任せて助けを求めたのは私とティファニアだが、ヴィクトリアは我が事として首を垂れた。その所作はまさに大公家の姫君そのもので、日頃街で下世話な話にも平気で割り込む彼女からは想像がつかない気品があった。
「何、お気になされますな。娘のために働いていただいている大恩の幾ばくかをお返ししたまで」
「ご厚情、痛み入ります」
そんな謝辞のやり取りののち、公爵は核心に切り込んできた。
「それで、殿下は今後はいかがなさるおつもりでしょう?」
「はい」
ヴィクトリアは、少しずつ言葉を選びながら話し始めた。
アルビオンの政変について、王族の係累として干渉する意思がないこと。
トリステインの王家や貴族に対しても迷惑をかけるつもりはないこと。
ヴァリエール公爵家に対しても、これまでと同様の距離感で接したいこと。
そして、できればこのまま静かにトリスタニアで暮らしたいこと。
ヴィクトリアの言葉を、公爵夫妻はただ静かに聞いていた。
次いで私たちに向けられた視線に、私もティファニアも、ヴィクトリアと同意見である旨を述べ、首を垂れた。
私はサウスゴータ太守の娘として。
ティファニアもまた大公の娘として。
もはや貴族に未練のかけらもない私たちが望むのは、平穏だけなのだから。
やや間を置き、公爵は告げた。
公爵家としては、私たちの意思を尊重し、これまでと対応を変える意思はないとのこと。
しかし、政変が起こっているアルビオンの状況によっては看過できない事態がトリステインで起こる可能性は否定できないため、もし何かがあった場合は大人しくトリステイン王家の管理下に入ること。その場合は後見人として公爵家が立つこと。
そして、カトレア嬢のために尽力しているヴィクトリアに対する、それが精一杯の感謝の代わりと結んだ。
それは、私たちの生活がアルビオンとトリステインの関係がこじれない限りは安泰となり、万が一の場合も公爵家が後ろ盾になってくれるという夢のような申し出だった。
公爵に政治的な思惑があったとしても、この場においては破格の条件だ。
ヴィクトリアは私たちを代表して深い感謝の意を述べ、公爵と握手を交わした。
ヴィクトリアの治療は、思ったより長引いた。
体に刺さった魔法の矢は全部で四本。
奇跡的に持ち直したのはいいのだが、ダメージはやはり洒落にならなかったらしい。
問題なのが骨盤に食らった一本が神経を傷つけ、下半身に麻痺が出ているのだそうだ。
ヴィクトリア自身も言っていたが、神経の修復には時間がかかるのだそうで、リハビリと合わせて治療プランを組み立てていかなければならないらしい。
トップレベルの治療師たちの治療を受けられたからこそこの程度で済んでいるのだそうだが、結局麻痺が取れるようになるまで一冬を要した。
その間、面倒を見てくれた公爵家には頭が下がるばかりだが、満足に動けず床についたままだったヴィクトリアは、公爵領から王都に住まいを移しているカトレア嬢にとっては格好の遊び相手になっていた。
新方針の治療プランが始まったためか、最近は床に臥すことも減ってきた彼女はエネルギーを持て余しているらしい。
午前中に工房の仕事を片付けて午後に見舞うと、そのたびに髪を弄り回され、化粧まで施されたヴィクトリアを見ることができた。
何でも、朝食後に必ずカトレア嬢とのカードゲームに付き合わされるが、勝てたためしがないのだそうだ。
その賭けの代償として、毎度玩具にされており、カトレア嬢の命を受けた彼女の侍女たちも楽しそうにあれこれ試しているのだとか。
ヴィクトリアは素材がいいだけに着飾ると見栄えはするし、私としても、照れたように嫌がっているヴィクトリアを見るのは楽しかった。
ヴィクトリアのもとをよく訪ねてくるのはカトレア嬢だけでなく、侍医団の若手や侍医長もしばしば訪れてきており、医療技術のディスカッションを繰り返していた。
殊に、水の魔法や秘薬を使わない治療術についてはさすがのヴァリエール公爵家の侍医団の中にもヴィクトリアの右に出る者はないので、その点の講義を聞きに多くの治療師たちが訪れていた。
動けなかったヴィクトリアが介助を受けながらも立ち上がり、杖を突きながらも歩けるようになるころには季節はすっかり冬になっていた。
立ち上がれさえすれば、多少足が不自由でも生活に支障はないので帰宅を望むヴィクトリアだったが、カトレア嬢と侍医団が首を縦に振らなかった。
それでも、さすがに降誕祭の時だけは外泊の許可が出た。
屋敷街からチクトンネ街までは結構な距離があるが、ディルムッドに抱えられることなくヴィクトリアは慎重に杖を突きながら歩みを進める。
久々に感じる大地が、この上なく愛おしいような顔をしている彼女と一緒に、私たちはゆっくりと家路を辿った。
「おかえりなさい、先生」
診療院にたどり着くと、何故かジェシカが腕を組んで仁王立ちしていた。
その脇には『魅惑の妖精』亭の女の子たちが並んでいる。
「やあ、久しぶりだね。長く留守にしちまってすまなかったね」
ジェシカはそれには答えず、芝居がかった動作で指を鳴らした。
それを合図に女の子たちが声を上げて一斉にヴィクトリアに走り寄ると、あっという間に担ぎ上げてしまった。
「さあ、そのまま運んでちょうだい」
私やディルムッドが止める間もなく、ヴィクトリアの悲鳴を残して一団は走っていく。
「な、何事よ!?」
運び込まれた先は『魅惑の妖精』亭だったが、中に入るとそこに街の主だった面々が揃っていた。
ピエモンや武器屋や馴染みの商店主たち、私の仕事仲間の職人連中までが並んで私たちを待っていた。
ティファニアからヴィクトリアの一時帰宅の話を聞いたジェシカが企画したようで、要するに、降誕祭兼ヴィクトリアの快気祝いの酒盛りをやろうという趣旨だったようだ。
今回のヴィクトリアの長期離脱については周囲には事故による怪我として皆に説明していたが、これほどにその話が広まっているとは思い至らなかった。
店から溢れるような数の人々がヴィクトリアのもとを訪れ、口々にその身を案じ、無事を喜ぶ言葉を述べていく。
そんな話題を肴に宴が始まった。
侍医長から禁酒を言い渡されていたヴィクトリアはちょっとだけつまらなさそうだったが、事の次第を適当にごまかして説明するのは神経を使うので、もとから飲むつもりはなかったようだった。
夜半になって宴もたけなわな時間に、ヴィクトリアは店の裏手に呼び出された。
ディルムッドと一緒について行って見ると、何やらいかつい強面の連中がずらりと並んでヴィクトリアに対し、その快気を祝う挨拶をしている。
どいつもこいつも、絵に描いたようなあっち側の住人だった。
恐らくはマフィア。それも各組織の若頭や幹部、代貸クラスが揃っていた。。
応じるヴィクトリアも迫力では負けていなかったが、筋者から慇懃な挨拶をされるあたり、一度こいつのサイドビジネスについては問い質さねばならないと思った。
ホールに戻れば、客の数がさらに増している。
いつの間にか、トリスタニアという街で、ヴィクトリアの存在はこんなにも大きなものになっていたようだ。
同居人として誇らしくもあり、また、同じメイジとしてはいささか向上心を刺激される話でもあった。
皆で遅くまで飲み続け、最後にはヴィクトリア主導で新年最初の朝日を見るまで宴は続いた。
そんなことを思い出していると、御者台で手綱を取っていたディルムッドから声がかかった。
「間もなく見えてくると思います」
その言葉に、ヴィクトリアが歓声を上げながら馬車の扉を開け、魔法を使って屋根の上に飛び上がった。
次いで、レビテーションでティファニアを浮かせて隣に招いた。
「マチルダ、あんたもおいでな」
一瞬その通りにしようと思ったが、馬車の屋根に3人はさすがに厳しかろう。
「私は御者台にするよ」
「・・・また体重増えたのかい?」
「ヴィクトリア、あんた今日ワイン抜きね」
「えー」
益体もないことを言いながら、ヴィクトリアに倣ってレビテーションを唱えて御者台にいるディルムッドの隣に移る。
ややあって、曲がったカーブの向こう。
「うわ~!」
広がる光景に、ティファニアが歓喜の声を上げた。
ラグドリアン湖。
それは、自然の美しさを凝縮したような、宝石すら霞む景観だった。
これは恐らく、生涯忘れ得ぬ景色だろう。
そんな私の周りにはティファニアがいて、ディルムッドがいて、そしてヴィクトリアがいる。
この湖には精霊がいて、誓いを立てれば面倒を見てくれると言うが、そんなものは必要ない。
私は、私の意思を持って、今と言う時を大切にしていこうと思う。
いつか父に会いに行く日が来たら、きっとこう報告しよう。
私は、とても素敵な人たちに巡り会えたのだと。
春の日差しに輝く、ようやく辿りついた約束の湖を見ながら、私はそう思った。
【DISC1 END】