― 私はとても不幸な人間だ。 ―
雨が降っていた。
珍しくきれいに仕事が掃けた週の半ばの午後。
私は、工房のデスクで窓の向こうに見える雨に濡れる街並みを眺めていた。
机の上には地図。
今の私の最大の悩みは、先日ヴィクトリアが口走った骨休めの行先についてだ。
年長者ということで行先を調べる役目を請け負ったが、これがなかなか難しい。
トリステインや近隣の観光名所を調べているが、これぞと思うところが見つからない。
本当にゆっくりできるだけの時間を取れば、それこそ火竜山脈の湯治場なんかが選択肢に入ってくるが、ヴィクトリアはあまり診療所を長期間空けることは避けたいようなので選択の幅が限られてくる。
工房もそうそう長い休みを取るわけにもいかないからその意見には同意するが。
そんなわけで熱を帯びた頭を休めていた私のところに、不意に優雅な手つきで愛用のカップが差し出された。
「茶を淹れました。どうぞ」
差し出したのは工房の従業員にして私の右腕であるヴィクトリアの使い魔だった。
この工房において営業と接客はこいつの仕事なのだが、実はこの男、なかなかに接客対応の鬼だったりする。
営業に出ていない限りは受付に詰めているのだが、入ってきた客はまずこの男の面構えにやられる。
当人は意識してのものではないようだが、その微笑みはどこまでも甘く、涼しげだ。
殊に貴族相手の折衝においてはまさに無敵のありさまで、貴金属加工の仕事の時などはその男ぶりを生かして相手の御令嬢や奥方たちからかなり利のある仕事を引き出して来る。
およそ、この世の女の天敵とも言える男だ。
実にけしからん。
「だいぶお悩みのようですね、店長」
そんな私の思考をよそに、自分のカップを片手に対面に座ったディーは地図を覗き込みながら訊いてきた。
「ん~、なかなかいいところが思いつかなくてね」
私も地図に視線を落としながら唸る。
今のところ、ラ・ロシェールの先にあるタルブあたりが有力だ。
酒は美味いし地元料理も気の利いたものがあるようなのだが、宿と名勝についてはちょっと弱い。
私は、ふと思ってディーに訊いてみた。
「参考までに訊くけど、あんたはどういう場所が好き?」
「私ですか?」
キョトンとした顔でディーは訊き返してきた。
「私は特に希望は・・・主のいるところにお供するだけですので」
「それじゃつまらないじゃないか。あんたもアイディアを出しなさい」
「いや、本当に私は・・・」
「何かあるだろう? 見てみたい景色とかさ。自分の中の原風景みたいなものでもいいよ?」
「・・・困りましたね」
ディーは腕を組んで考え込んでしまった。
もうかれこれ4年の付き合いだが、この男がこうして悩む姿は珍しい。
4年。
そう、もうあれから4年だ。
ブルドンネ街の、職人街の一角に工房を開いてそれだけの時間が経過した。
思い返してみれば、慣れない作業ながら手探りで進んできた年月だった。
最初のうちこそ苦労はしたものの、今は固定客も付き、こうして暇しているのが珍しいほどの繁盛をしているのは我ながら意外だ。
『早いもんだねえ』
そんなことを考えながら、この店を開いたころを思い出す。
アルビオンにいたのが、もう遠い昔のことのようだ。
サウスゴータでの最後の夜。
今思い出しても苦い思い出だ。
外出していた私が戻ると、屋敷の敷地内には使用人や兵たちの死体がごろごろしていた。
原因はすぐに判った。
テファ親子だ。
大公からお預かりした、大切な客人。
エルフとか、そんなことはどうでもいい。
気の優しい、聖女のようなテファには、無条件で庇護したくなる何かがあった。
それがエルフの魔力だと言うのなら、私は喜んで地獄に落ちようとすら思った。
そのはずだったのに、先に地獄に落ちたのは私以外の家の者たちだった。
恐れていた日が、予想よりの早く到来したというわけだ。
私は杖を抜き、慌ててテファ親子の居室に向かった。
蹴り開ける勢いでドアを開けると、そこに泣いているテファを抱き締めている少女がいた。
お互いにとっさに杖を突きつけ合った。
恐ろしく冷たい目をした娘だった。
一瞬気押されたが、その伸ばしっぱなしのような無頓着な茶色い髪には見覚えがあった。
それがヴィクトリア・テューダーだった。
大公の娘にして、テファの腹違いの姉。
「あ、あんた…大公の」
「そういうお前さんはマチルダ・オブ・サウスゴータだね?」
幼い外見にそぐわぬ、妙にババくさい喋り方をする子だった。
この子私と歳は2・3歳しか変わらなかったんじゃなかったっけ?
とても15歳の子には見えないほど子供子供した子だったが、その落ち着き具合はさすがに王族の威風を備えているように思えた。
彼女の視線が私を素通りし、私の背後に向けられる。
「ディルムッド、この者は敵ではない」
ヴィクトリアの言葉で、初めて私は背後に男が立っていることに気が付いた、
左右の手には二本の槍。
あのまま魔法を使おうとしていたら、恐らく私は知らぬ間に貫かれていただろう。
その槍兵が、今は私の右腕として働いているというのは妙な話だ。
互いの立ち位置が確認できたところで、私たちは脱出の段取りを話し合った。
どこに逃げるにしろ、この国にティファニアの居場所はない。
そして、その討伐部隊を縊殺したヴィクトリアにも未来はないだろう。
情報が流れるより早くどこかの港にたどり着くか、どこか人目が付かないところに身を隠す必要がある。
私たちは脱出を選んだ。
時間が無かったと言うのに、ヴィクトリアはテファの母を弔うことを主張した。
貴人には貴人に相応しい礼を、と言って魔法を振るって彼女の体にこびりついた男どもの穢れを洗い流した。
服はドレッサーから私が選び、着付けた後で丁寧に化粧を施した。
最後にテファにお別れを促し、発火の魔法で家に火を付けた。
あの時の葬送があったから、テファは自分の心に折り合いをつけられたのではないかとも思う。
その後、紆余曲折を経て今に至る訳だが、太守の娘のこの私が今では異国で工房の主をしている。
思い返してみれば、これもヴィクトリアに言われて始めたものだった。
何故かヴィクトリアは大公の娘などというお姫様のくせに、妙に世渡りを心得たところがあった。
アルビオンを脱出する時の手際や、比較的人口密度が高いトリスタニアを塒とすること、ギルドや商工会への顔つなぎ等、年上の私を差し置いて、まるで世間にもまれた経験があるかのような振る舞いで生活基盤を確立していった。
一体誰に教わったのやら。
訊いたら『診療所を開業したことのある知り合いから教えてもらった』とか言っていたけど、どこまで本当なのかは判らない。
そんな流れの中で、私にあてがわれたのがこの工房だった。
確かに私は土のメイジだし、診療院にいても手伝えることはたかが知れている。
人材の有効活用と言う意味では確かに有効かもしれないが、商売の基礎も知らない世間知らずの私にいきなり店の切り盛りを押し付けるあいつもあいつだと思う。
まして相手は平民たち。
今までろくに接したこともない、ある意味貴族とは別の価値観を持つ生き物だ。
そんな私にヴィクトリアが提示したのが『鉛筆』だった。
何でも、経営において重要なのはいかに市場が求めている潜在需要を見つけ出してそれを満たす商品を売り出せるかだそうで、最初に送り出したそれが軌道に乗ればあとは何とでもなるとか何とか。
鉛筆は、黒鉛と粘土を使って芯を作り、その回りに木を張り合わせて作る。
やや細めのチョークみたいものから、細いペンみたいなものまでいろいろと作った。
芯を作るのは私の『錬金』でも少し苦労したが、構成さえ理解すれば最終的には魔法を使わなくても芯が作れるようになった。
最初はこんなものが売れるのかと悩んだが、商人に卸してみたところ、ものすごい勢いで売れた。
聞けば、こすると落ちるチョークと違い、書いたら消えないと言うことで大工や石工などの職人方面から大好評だったらしい。
目新しさもあってか作った分だけ売れるという状況がしばらく続き、私は嬉しい悲鳴を上げ続けた。
社会的な消耗品として落ち着いた時点で大手の工房に製法を売り、そのパテント料が工房の基礎的な運転資金になった。
基盤ができたら、あとは個別対応だった。
鉛筆の伝手で、あんなのはできないか、こんなのはどうだ、という感じで仕事が舞い込み、それをこなしているうちに徐々に信用が得られるようになってきた。
装飾品や日用品、武器やちょっとした小物に至るまでできる範囲で注文を受け付けているが、出来栄えに対する評判はまずまずのものと自負している。
正直、今は毎日が楽しい。
頑張った分や手を抜いた分が、そのまま自分に返ってくる今の仕事は私の性分に合っていた。
それに、貴族をやってた時は笑い合いながらも相手の腹の底を探るような毎日だったが、職人連中と飲んで騒ぐ時にはそんな変な気苦労はまったくないのもいい。
何か新しいことに取り組む時に下請けを頼む職人連中と頭をつけ合わせて悩むのも、この上なくやりがいを感じる。
天職、っていうのはこういうのを言うのかもしれない。
最近では結構評価してもらえるようになったし、『工匠』なんていう二つ名を言われることもある。
大げさな二つ名だが、腕を褒められるのは悪い気はしない。
そんな毎日の中、今みたいにちょっと時間が空くと、思うことがある。
もし、あの時ヴィクトリアに出会っていなかったら私やティファニアはどういう今を生きていただろうか。
世間知らずで、手に職もなかった私だ。
食べていくには泥棒にでもなるか、男の袖を引くくらいしかなかっただろう。
ティファニアだってどこかに隠れ住むことになったに違いない。
世の中、何がどうなるのか判らないものだと思う。
いろいろあったけど、今は誰に問われても胸を張って『頑張って生きている』と答えられるような充実した毎日だ。
テファやヴィクトリアやディーと馬鹿な話をしたり、アニエスとご飯したり、仕事仲間の職人連中と真面目な話したり、商売敵みたいな関係なのに妙に気の合う武器屋の親父と技術交換したり、お得意さんのジェシカと仕事そっちのけで女同士の内緒話しててディーに怒られたり、そしてたまに皆で集まって『魅惑の妖精』亭で酒飲んだり。
もちろん、ままならないことだって幾つもある。
ヴィクトリアは何回言っても玄関で仁王立ちして牛乳を飲むのをやめないし、テファはテファで風呂に入ると長湯してのぼせるし、ディーは営業先のおかみさんたちの茶の誘いを断るのがいつまでたってもうまくできないし・・・。
うん、悪くない。
こういう生活は、悪くない。
地に足をつけて生きている、という気がする。
恐らく、今の私が本当の私なのだろう。
飾りも、背伸びもしない、ありのままの自分。
それを受け止めてくれる相手が、家族がいることの、何と喜ばしいことか。
そう、私はとても不幸な人間だ。
こんなに幸せなのに、私はまだまだ足りないと思ってしまう。
いつまでも心が潤うことなく、見えないゴールを目指して今日も足掻き続ける飢えた獣だ。
欲張りはいつかしっぺ返しを食らうと判っていても、こればかりは止められない。
我ながら、因果な性分だと思う。
「ここなどいかがでしょうか?」
そんな思考の海に沈んでいた時、ディーの言葉で私は我に返った。
「ん、どこ?」
指差された先にあるのは、ガリアとの国境に位置する大きな湖だった。
「あら、ラグドリアン湖?」
「聞くところによれば、ここは王族の園遊会が催されるような景勝地とのこと。それなりの宿もあることでしょう」
「・・・いいねえ」
私は頷いた。
ここならば距離もそんなに遠くないし、ディーの言うとおり宿もそれなりのところがある。
湖畔でのんびりというのはいいアイディアだと思う。
「うん、いいね。ここにしよう」
「そ、そんなにあっさり決めてよいのですか?」
「いいのよ。あんたと私がいいと言っているんだから。あの子たちだって特に拘りがあるわけじゃないみたいだし」
ヴィクトリアの目的は酒飲んでのんびりすることだし、テファに至っては旅行そのものが目的だ。
秋のラグドリアン湖ならば異論はないだろう。
工房の入り口が開いたのはその時だった。
「うひゃー・・・ちょっとごめんよ」
聞きなれた、鈴のような声が聞こえた。
見れば、傘を畳みながらヴィクトリアとテファが工房に入ってきた。
「どうしたのさ、あんたたち?」
「往診の帰りなんだが、雨脚が強くなってきたんでね。ちょっと宿らせておくれな」
「そこのカフェでクックベリーパイ買ってきたよ」
テファが嬉しそうに手にした包みを掲げてみせた。
私はひとつため息を付く。
「おやおや、これはちょっと豪勢なティータイムだね。ちょうどいい、骨休めの行先、私たちの提案を聞いてもらおうかしら」
「え、どこ? どこ?」
目を輝かせるテファに私は笑った。
「まあ、話すからまずはお座りよ」
私は新たに2つのカップを棚から出し、家族たちのためのお茶を立て始めた。