走り去る馬車を見送りながら、私は大きく息を吐いた。
隣にいるテファが泣きそうな顔で私を覗き込んできた。
「・・・姉さん、大丈夫? 顔色ひどいよ?」
「ああ、大丈夫だよ」
テファが先生ではなく姉さんと呼ぶ時は、仕事モードから離れた時だ。
身内としての心配が先に立つからには、さぞひどいありさまなのだろう。
私は一端診察室に戻り、部屋の片隅にある洗面台で顔を洗った。
鏡を見ると、水に濡れた自分の顔が見えた。
目が落ち窪み、疲労がこびり付いていた。
精神力をぎりぎりまで消費したのだから仕方がない。
ひどく疲れる一日だった。
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経験というのは恐ろしい。
脳みそはパニックになっているにも関わらず、体は事態に対応するために機械仕掛けのように動いた。
崩れるカトレアを支え、すぐにレビテーションを唱え、意識が飛んだカトレアを処置室のベッドに運び込んだ。
「テファ!」
大声で呼ぶとテファが慌てて処置室に入ってきた。
「ひとっ走り大通りに出て、この人の馬車を探して来とくれ」
恐らくワゴンタイプの馬鹿でかい動物園馬車を使っているのだろう。
「急変ですか?」
「何がどうなっているのか判らんが、こっちは何とかやってみる。まずは御者からこの子の家に連絡を入れてもらうようにしとくれ。ついでに王城にも連絡しとくれな」
ヴァリエールの名前を出せば、宮廷の水メイジの応援を確保できるかもしれない。
「判りました」
問題のカトレア女史はと言えば、息が乱れ、非常に苦しそうな気配。
取り急ぎ着衣を剥ぎ、聴診器を当てる。
呼吸音にひどいラ音が混ざる。
次に目をこじ開けて瞳孔と目の動きと粘膜を確認し、次に喉を覗き込む。
この急変はアレルギー性のものではないと思うが、念のための確認だ。
アレルギー性の喉頭浮腫でも出ようものなら挿管か気管切開せにゃならんところだが、とりあえず扁桃炎が見えるだけで喉のあたりも大丈夫。
続いて検温しながら触診で各部を診察し、私は思わず声なき悲鳴を上げた。
なんぢゃこりゃ!
体の至るところが炎症を起こしている。
熱は39度8分もあった。
これでは立ってるだけでも辛かろう。
よく平気で歩いてきたな、こいつ。
急いでスピッツで血液を採取して魔法でもって検査する。
病理検査がルーン一つでおっけーと言うのがこの世界のいいところだ。
何と言うチート。
検査して驚いた。
複数の細菌に感染しているではないか。
細菌感染なら打つ手はある。
取り急ぎ秘薬を取り出し、念のためのパッチテストをしてから点滴の形で体内に送り込んだ。
私のオリジナルの薬で、細菌の分裂を抑える効能がある。
抗生物質のそれに近い代物で、大した副作用なく細菌皆殺しと言う優れものだ。ちょっと便秘するが。
抗生物質と言えばペニシリンが有名で、漫画なんかでペニシリンを中世レベルの技術で作る話や青カビをそのまま食べさせたりするヨタ話があったと思うが、そこまでしなくても似たような薬が作れたから私はこっちを利用している。
魔法耐性菌なんてのがそのうち出てくるかも知れんが、その時はその時だ。
とりあえず、まずは炎症を止め熱を下げねばならない。
治癒の魔法を重ねがけして、あとは秘薬頼み。
解熱すら魔法で足りるからこの世界は素晴らしい。
ネギを買ってこなくて済むことは始祖に感謝だぞ、カトレア嬢。
次に調べるのは原因だ。
本当はあまり深入りせずにこの場を凌いで王城か公爵家の水メイジにバトンタッチしたいが、更なる急変を起こされてはかなわない。
魔法というのは恐ろしいもので、うちみたいな零細病院でもある程度の三次救急クラスの患者に対応可能だが、今回のような原因不明な患者の場合はある程度原因を調べておかないと、突然時間切れになる可能性がある。
いつ何時何が起こるか判らないだけに、カトレアの体に潜んだ爆弾の正体と、その導火線の具合くらいは掴んでおいた方がリスクが低い。
そんな打算を考えながら体を詳細に探っていく。
高位の風のメイジは心音で敵の位置を悟るというが、水の高位メイジは触診で人の体の状態をミクロのレベルで把握しうる。
これでも水のスクウェアの端くれ、それくらいの芸当はできる。
両手を彼女の素肌に密着させ、ソナーのように血液やリンパ液の流れを探っていく。
正直、ここまでひどい患者も珍しい。
至るところで炎症を起こしており、そのためか内臓の働きが弱い。
呼吸器は間質性肺炎に気管支炎が少々。
循環器は概ね健康だが、心臓はやや発達不良。運動不足のせいだろう。
腎臓、脾臓、膵臓はよし。
カトレアの病気については以前の私の予想は1型糖尿病だったが、ランゲルハンス島は元気にインシュリンを生み出している。
消化器では腸炎を確認。
肝臓の炎症を調べている時には小さな腫瘍が確認できた。
診察の途中でテファが戻ってきた。
息を切らしていた。
いろんな意味で走るのが苦手なテファだが、全速力で駆けまわってくれたのだろう。
「どうだったね?」
「広場にヴァリエール公爵家の家紋の入った馬車はありましたが、御者はゴーレムだったので、急いで速達郵便で公爵家に詳しいことを書いた手紙を出しておきました。王城の方は、ディーさんに応援を頼んで連絡に行ってもらっています」
テファという娘は穏やかなように見えて、こういったアドリブは結構利く子だ。
フクロウが運ぶ郵便なら、夕方にはヴァリエール公爵家に書面は届くだろう。
それより先に王宮から水メイジが来てくれればそちらに引き継げる。
「上出来だ。すまないが、患者の容態をしばらく診ていておくれ」
テファにカトレアを任せて、私はさらに深いレベルの検査に取りかかった。
採取した血液をより詳細に調べて行く。
床に結跏趺坐の姿勢を取って瞑目し、意識の集中を図る。
Empty your mind, be formless,
shapeless - like water.
Now you put water into a cup, it becomes the cup,
you put water into a bottle, it becomes the bottle,
you put it in a teapot, it becomes the teapot.
Now water can flow or it can crash.
Be water, my friend.
意識を極限まで研ぎ澄まし、血液の深みにイメージを落としていく。
赤血球、白血球、血小板を『視』ながら、その機能を掘り下げる。
意識の触角が、ザラりとした感触を覚えた。
神経をより先鋭化し、その感触の奥へ精神を差し込んでいく。
精神の視野は、血球細胞の観察を意識下で映像化していく。
神経が焼き切れそうな作業だが、病魔の尻尾を掴みかけた感触に持てる力を振り絞る。
程なく、異常の正体に行き当たった。
免疫機能の要とも言えるリンパ球である、T細胞の数が少なすぎるのだ。
私は全身に冷や水を浴びせられたような感覚を味わった。
易感染と、白血球の異常。
信じたくない思いを抱えながら、次いで胸腺に検査の手を進める。
一つ一つ、石を積むように丁寧に原因を紐解いて、核心に向かう。
引き延ばされた粘つく時間流の中で、私は黙々と検査を進めた。
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王城から水メイジが駆けつけてくれたのは夕方だった。
お役所仕事と言うつもりはない。
情報の伝達から人選まではそれなりに時間がかかるのはやむを得ない気がするからだ。
幸いにも秘薬が効いたようで、更なる急変もなく処置室のカトレアは穏やかな寝息を立てている。
馬車で駆けつけた王宮の水メイジを処置室に招き入れて状況を説明し、施した措置と投薬の内容を説明する。
点滴は既に終わっており、すぐにでも移動が可能だったので水メイジが乗って来た馬車にレビテーションで保持しながらカトレアを王城の医務室に移送することとなった。
そこで私は何とかお役御免となった。
とりあえず、最悪の事態は脱することができた。
後の面倒は王城が見てくれることだろう。
肩に載った大きな荷物を下ろせたものの、正直、私は疲れ果てていた。
泥のように重い体を引きずりながら、白衣を脱いで診察室の椅子に投げた。
テファがドアから首を出して声をかけてくる。
「夕食、できてるから」
「ああ、すまないね」
キッチンでは、既に帰宅していたマチルダとディーが待っていた。
「ちょっと、大丈夫かい?」
「ああ。今日は二人ともありがとう」
私の顔色が余りにひどいのか、マチルダもディーも心底心配そうな顔をする。
今年で二十歳ではあるが、精神力の成長に比べ、私の体は発育が不十分だ。
それだけに体力は見た目に比例しており、たまに来るカトレアのような重篤な患者の場合はギリギリまで体力を削られることになる。
精神力とて、最後にそれを支えるのは体力だ。
食事を口に運びながら、私は今日の事を反芻する。
結論から言えば、カトレアの病気について、私はその根源に辿り着くことができた。
免疫不全症候群。
それが私の所見だ。
恐らくは生まれつき造血幹細胞に異常を持つために、免疫担当細胞であるT細胞の数が少ないことに起因する症状と思われる。
これでは幾ら水の秘薬で治療をしても治らないのは当然だろう。
体の芯から良くないとはよく言ったものだ。
多少の水の流れを変えても治らないのも頷ける。
罹患と治療のいたちごっこになるのも仕方がない。
残念だが、ハルケギニアの医療では彼女を救う術はない。
以前にも述べたかもしれないが、治癒魔法や水の秘薬は免疫や自己修復機能をベースに原状回復をもたらすものだ。
その効果は地球の医療以上のものがあり、その気になれば癌でもAIDSでも狂犬病でも治すことが可能。
しかし、大元の遺伝情報に異常があっては幾ら手を施しても意味がない。
恐らく、公爵家ほどの治療体制がなければ間違いなく乳幼児期に死亡したであろう重病だ。
むしろ、彼女が今も息をしていること自体が完成された奇跡とも言えよう。
かかった費用や手間暇は、想像を絶するものであったに違いない。
彼女の両親の愛の深さを見る思いだった。
そんなことを考えていたためか、せっかくの食事だったが正直あまり味が判らなかった。
自分で思ったより疲労が深刻なのも原因かもしれない。
それでも食べなければ体力が回復しないので無理やりに胃袋に押し込んだ。
幸い、テファが気を回してくれたのか、夕飯は消化のいいメニューだったので胃もたれは避けられそうだった。
食事が終わるころ、風呂が沸いたとディーがキッチンに入って来た。
いつもは私が魔法で沸かすが、きちんと釜もあるので燃料でも沸かすことができる。
今日はディーが沸かしてくれたらしい。
マチルダの勧めもあり、私はありがたく一番風呂をいただいた。
湯につかると、自覚のなかった体中の緊張がほぐれていく。
湯のぬくもりを感じながら、私は思う。
前世の知識があっても、やはり人一人でできることには限界がある。
今日とて、とてもではないが一人では荒波を乗り越えることはできなかっただろう。
家族がいることが、無性にありがたく思えるのはこういう時だ。
三人の家族に深い感謝の念を抱き、心地よい湯温に身を委ねながら、私はあっけなく眠りに落ちた。
そして、長湯を心配して様子を見に来たマチルダにちょっとだけ怒られた。
そんな私のところに、ラ・ヴァリエール公爵家から召喚状が届いたのは4日後のことだった。