「むお?」
朝目覚めると、たいてい私は変な声を上げる羽目になる。
寝相が悪いところに延ばし放題の髪が絡みついて、ベッドの上で一人緊縛ごっこになっているからだ。
しかも髪の量が多いのでちょっとした変死体のようになっている。
いっそバッサリ切ってしまいたいのだが、何故かテファがそれを嫌がり、結果として毎朝ひどい目に遭うことになっている。
乱れないように毎晩寝る前に丁寧に編み込んでいるのに、朝になると金田一さんの見つける死体みたいになっているのは何故なのかは自分でもわからない。
バサバサと手ぐしを入れ髪のラインを整えるが、後ろから見ると何だか茶色い髪と相まってゴキブリのようなシルエットになるからちょいと鬱になる。
寝巻のまま玄関ドアを開け、牛乳受けから牛乳を取り出し、道行く人を眺めながら朝の一杯をいただく。
この至福、知らない人には判るまい。
「ちょっと、ヴィクトリア!」
ぐい~っと煽ったその時、その憩いのひと時を邪魔する声が飛んでくる。
見ればビジネススーツに身を包んだマチルダがメガネの奥から鋭い視線を向けてきている。
「おはようマチルダ。今日は早い時間から商談かい?」
「ああ、おはよう・・・じゃない! あんた、何回言ったらそれやめるんだい!?」
「それ?」
「若い娘がキャミソール一丁で玄関先で仁王立ちで牛乳一気飲みなんて、御町内のいい笑い物だよ!」
随分心外なことを言う女だな、こいつ。
「一日のスイッチを入れる儀式なんだ。ほっといとくれ」
「い~や、家人として断固直してもらうよ!」
「うるさい子だね。小姑みたいな」
「誰が小姑だい。さあ、さっさと着替えてきな。まったくもう。今度やったら許さないよ」
「わかったわかった」
キッチンに入ると、エプロンをつけたディーがテファの手伝いをしながら朝食の配膳をしていた。
「おはようございます、主」
「ああ、おはようさん」
こちらもマチルダ同様にスーツに身を固め、その上からエプロンをつけている。
ちなみにイメージは『Fate/hollow ataraxia』のクー・フーリンが紅茶専門店で働いていた時に着ていた制服をモチーフにしている。
デザインはもちろん私だ。
ついでに言えば、マチルダのスーツも私のデザインで、こちらのモデルはバゼットだったりする。
トリスタニアでは浮くと思ったが、何故か妙に溶け込んでいるから結構不思議ではある。
基本的に我が家では朝食と夕食は皆で摂る。
昼食だけはマチルダの工房があるのがブルドンネ街なので、なかなか一緒に摂ることは難しい。
そのためにテファが二人のために弁当を作っており、それを工房で二人で摘む。
「最近はどうだい、仕事のほうは?」
パンをちぎりながらマチルダに訊くと、瓦版を見ながらマチルダは言った。
「ん~、おかげさんで順調すぎて困るよ。お昼食べる時間もないくらいだわ」
その腕前もさることながら、影で行われているトリスタニアの美女コンテストで第3位に食い込むいろいろとダイナマイトなマチルダである。
誘蛾灯に吸い寄せられる蛾のように世の中のおぢさんたちがせっせと工房に仕事を回しているに違いない。
ちなみに美男コンテストは2位に大差をつけて我が使い魔が連勝記録を更新中だ。
そんな二人が経営する工房が暇なわけがないものの、見ればちょっとお疲れ気味のマチルダ。
張り合いがあるのはいいけど、目は輝いていてもお肌は正直だ。
化粧ののりが良くないのは見ていてもわかる。
考えてみれば、私もマチルダもテファもディーも、トリスタニアに流れてきてから休暇なんか取ったことなかったな。
「冬が来る前に、一度どっかに羽を伸ばしに行かんかね?」
「羽?」
瓦版から顔を上げてマチルダが奇妙な顔をする。
「どこかの田舎でのんびりと命の洗濯をするんだよ。旅籠にでも泊まって美味いワイン飲んで、美味しいもの食べて」
マチルダはやや視線を漂わせ、その光景が想像できたらしくニカッと笑った。
「いいねえ、どこにしようか」
「何、何の話?」
脇からティファニアが割り込んでくる。考えてみれば、この子は生まれたときから籠の鳥で、レジャーなんてものは経験したことなかったはずだ。
テファの初めてのレクリエーション。
うん、我ながらいいアイディアじゃないか。
「みんなでお休みを取って、ちょっとどこかに旅行しようという話さね」
「旅行!?」
「のんびりしたところで美味しいもの食べて、ゆっくり体と心を休めるのさ」
テファはしばし考え込み、そしてスイッチを入れたように笑った。
「素敵だわ。すごく楽しみ!」
「どこか行きたいところがあったら考えといておくれ。ディー」
私が呼ぶと、食卓の端に座ったディルムッドが即座に応じる。
「は、留守はお任せください」
「馬鹿言ってんじゃないよ。お前さんも行くんだよ」
「い、いや、しかし」
「女だけの道中なんて物騒じゃないか。忠勇な騎士が一緒に来ないでどうするんだい」
考えてみれば、マチルダがいれば盗賊だの追剥だのがいても怖くもなんともない。
むしろマチルダの性格からすれば狩る者が狩られる者になるだけだが、ディルムッドも私たちの家族だ。おいてきぼりという選択肢はありえない。
とはいえ、忠義に篤いこのフィアナの騎士は、事あるごとに私を上に置こうとする。
今現在食卓で一緒に食事をしているが、それだって紆余曲折が凄かった。
頑として食卓を共にしようとしないので、
「食卓を共にできぬというのであれば雇いを解く。どこへなりとも消えるが良い」
と前田慶次ばりの最後の切り札を使う羽目になった。
彼の信条的に受け入れがたいところを突くあたりは、私もケイネス・アーチボルトを悪し様には言えない外道だと思う。
ちなみに、ディルムッドの召喚については純粋にサモン・サーヴァントの術式によるものであって、聖杯システムのそれとは違うらしい。
実際、私の体には令呪は刻まれていない。
何故に聖杯の力も使わないで英霊を呼び出すことができたのかは判らない。
触媒だってあの時はなかったし、何より、使い魔召喚でまさかこんな霊格が高い存在を呼び出せるとは思ってもいなかった。
おかんの宝石箱の中に場違いな工芸品のように何か彼に縁がある品でも入っていたのかも知れんが、素人の私にはよく判らない。
もしかしたらの話だが、不完全ながらも前世の知識を持った私がここにいることから推測するに、聖杯システムとサモン・サーヴァントのシステムの他に、どこかの誰かが作った転生システムのようなものがあってそれらが混線したのかも知れない。
万が一それがマキリ・ゾリンゲンとやらのデザインしたシステムだとしたら、ブリミルと妖怪ジジイの同一人物説をまじめに考えたくなる話だ。
閑話休題。
正直ありえないこと、判らないことだらけだが、ここにこの高潔な騎士がいてくれて、私にはもったいないほどの忠義を捧げてくれていることは事実だ。
彼が望む誉と勲ある戦いを提供してあげられないは私の不徳の致すところではあるが、できればそんな戦いはないに越したことはないとも思う。
これでも君子の端くれのつもりなのだ。
そんな穏やかな会話が紡がれた朝だけに、穏やかな一日が穏やかに流れるものと私は思っていた。
その時までは。
季節の変わり目は結構体調を崩す人が多い。
贔屓目に見てもハルキゲニアは平民の医療が発達しておらず、多くの場合は民間医療を中心とした自己免疫で治すのが主流のようだ。
お金をかけて病魔と対峙するという感覚が希薄であり、いよいよひどくなって初めて水メイジに高いお金を払って頼み込んで治すというのが定番である。
地獄の沙汰も金次第というが、お世辞にも裕福とは言えない平民の生活において、医療に回すお金は潤沢ではないらしい。
私の仕事が成り立つのもそういう土壌あっての話ではあるが、やはり根付いた感覚はなかなか払拭することがきず、今なお来院する人は二進も三進も行かなくなった重篤な患者であることが相対的に多い。
それだけに、来院した患者には懇切丁寧に原因と病気との因果関係を説明し、予防に努めるよう指示している。
その甲斐あってか、最近は定期的に健康診断に来る人や、些細な違和感でも来院してくれる人も徐々に増えてきた。
あとは暇を持て余したお年寄りが診察時間後にだべるためのサロン化する傾向が顕著だ。この辺は世界が変わってもあまり変わり映えしないらしい。
また、『昼』の町内会では毎度公衆衛生について一席ぶち、その甲斐あってか徐々に街がきれいになってきているので感染症のようなものは今後段階的に減ってくるものと思われる。
何だかんだでトリスタニアの衛生事情は徐々に向上しているようである。
ここしばらくは夏の疲れから風邪をこじらせて肺炎まで起こしている患者が多かったが、幸いにも今日は至って平和であり、診察が終わったお年寄りが、水筒や菓子を抱えてのんびりと待合室で歓談しているような午前中であった。
私もただ問診をして触診し、対処法を伝えるだけで終わってしまう診察を幾人か繰り返すだけで時が進む穏やかなひと時だった。
異変が起きたのは、診察時間が終わろうとしている昼前のことだった。
聴診器で呼吸器の音を聞いていると、何だか待合室の方が妙に静まりかえっている。
先ほどまでは町内お達者クラブな方々がさえずっていた筈なのだが、今はしわぶきひとつ聞こえない。
まるで森の小動物が猛獣に怯えて逃げ出した後のような気配すら漂っているのに気がついた。
はて、今日はこの患者さんで最後なのか?
そんな様子を気にしながらも目の前のお婆さんの診察を終え、カルテに所見を書き込んで受付に声をかける。
「次の人~」
「は、はい」
何故かテファがどもった。
明るく朗らかなテファにしては珍しい。
この時になって、ようやく私の心の中に嫌な予感というのが芽生えた。
野生のジャングルでは私は生き残れないに違いない。
ドアが開いて、次の患者が入ってきたとき、私はすべてに合点がいった。
第一印象は桃色だった。
仕立てのいい、腰がくびれたドレスを着こなし、羽飾りがついた大きな帽子を被っている。
その大きな帽子の下から、思わず引き込まれそうな愛嬌ある美貌がのぞいていた。
ありえん。
真っ白になった思考の中で、私は太ゴシック体でそう思った。
今日の朝から続く穏やかさが嵐の前の静けさだったとしても、この嵐はあんまりである。
むしろ、頭を下げて耐えていれば去ってくれる嵐のほうがまだ可愛げがある。
「はじめまして、カトレア・イヴェット・ラ・ボーム・ル・ブラン・ド・ラ・フォンティーヌと申します」
花のような微笑を浮かべた災厄の化身が、にこやかに自己紹介した。