―ねぇ、覚えてる?ゴっちんと私が初めて出会った時のこと…-
「ねぇ、覚えてる?ジョルジュと私が初めて出会った時のこと…」
夜が更け、冷たい風が吹いてきた空に、ターニャの声が静かに響いた。声をかけられたジョルジュが振り向くと、彼の胸はキュゥと締め付けられた感覚を帯び、目はターニャの、一つ横の空間を向いた。
ターニャの隣には、同じ茶色の混じった髪をなびかせた女性が立っていた。忘れもしない、その女性は彼が呉作として生きていた頃に、心から愛した女性美代であった。
幻なのだろうか?
ターニャと美代は同時にジョルジュへと振り向いた。彼女たちの顔がジョルジュの方へと向き切る前に、美代の姿はスゥッと消えていった。
「ジョルジュ?」
ジョルジュの様子に疑問を持ったのか、ターニャは声をかけてきた。その声は、いつもとは違って少し、弱々しく感じられた。
その声に気づいたジョルジュは、ターニャの方へ視線を直し、少し苦笑いを浮かべながら言った。
「….ああ…覚えてるだよ…なんせ、初めて会った時に蹴られたんだから」
そう言ったジョルジュは、かつて彼女と知り合った、遠い過去を思い返した。
ジョルジュがジャスコの村で働き始めた頃、彼は自分が村に溶け込めないことに悩んだ。彼は転生した故、自分によそよそしい大人の雰囲気を、少年ながらに感じ取ってしまっていたのだ。
オラは邪魔なんだろうか…
ジョルジュはこの時ほど、貴族という地位が疎ましく感じたことはなかった。そしてある日、彼は重い心を引きずって村長の家に向かった。
家のドアを開いた瞬間、木靴の感触を持った蹴りが顔に刺さった。
蹴りの衝撃と、あまりの出来事に目を回して倒れたが、直後に大きな声が降り注いできた。
『遅いっぺさ!!領主さまの息子だからって、仕事に遅れてくるなんてなに様さぁ!?』
顔を上げたジョルジュの前には、髪を後ろでまとめた、幼い少女が手を腰に当てて立っていた。
ジョルジュはあまりの出来事に、まだ混乱していたが、おずおずと彼女に声をかけた。
『た、たすかぁ、オメェさん、村長さんの…』
『娘のターニャっさ!!今日からオメェさんの教育係になったさぁよ!!さあ立つだ!!やるからには容赦なくいくっぺよ!』
「あの時のターニャちゃん、怖かっただよ」
そういってジョルジュは腕を体に巻きつけ、身震いするマネをした。
その姿を見てターニャは微笑み、脇腹を指で突っつきながら言葉を返した。
「あら、それはアンタが時間に遅れてくるからじゃない?いくら子供だからって、時間は守らなきゃねジョル坊?」
ターニャは指で突っつくのを止めると、草が生えている畔に腰かけた。つられてジョルジュもターニャの隣に座った。
麦畑のために作られた畔には花がいており、黄色や赤色の花びらをつけた花が、夜の畑を鮮やかに彩っていた。
ターニャは横に置いた葡萄酒の瓶を持つと、ジョルジュの手にあるグラスに葡萄酒を注いだ。ジョルジュは一口飲んでからグラスをターニャに渡すと、ターニャは残りを一気に飲み干した。
「その言い方もターニャちゃんが初めてだっただなぁ…オラ、ターニャちゃんと同い年なのに「いつまでたっても半人前の坊やだっぺさ!」って理由でジョル坊って言うもんだからさ、村の人たちも面白がって「ジョル坊」、「ジョル坊」って言う様になったでねえか」
ジョルジュの言葉にターニャは目をキョトンとさせ、そのあと目を細めてフフフと笑い声を出した。笑い声がおさまると、指で眼尻を少し掻きながら言葉を返した。
「あら?そのおかげで村の人たちとも打ち解けたじゃない。感謝されど、恨まれることはしてないわ」
二人はその後も、葡萄酒を飲み合いながら、お互いに出会った頃の思い出を語った。それはジョルジュにとって、とても心地よい時間であり、このまま時間が止まってくれないかとさえ思えた。
やがて二人の思い出話は、13歳の頃の話になった。
「あの時のアンタ、おかしなこと言ってわよね~。「記憶」がどーのこーのだとか、「大切な人」がどーのこーのだとか…まだ子供のクセに変なことばっか言う様になったから、頭が変になっちゃったかと思ったわ」
そう言いながら、ターニャはジョルジュの肩をバシバシと叩いた。ジョルジュは「いや、あの時はあれだよ。特有の厨○病だよ。てかターニャちゃん痛いだよ」とターニャに弁解し、ターニャは「なによその胡散臭い病気は?」と語気を強めながら、今度はジョルジュの背中をはたき始めた。
ジョルジュは背中の痛みを感じながら、当時の事を思い返した。
夜も大分更けて、畔には、土の甘さと花弁の清涼とした香りが満ちていた。
あの時からだろうか―
前世の記憶が薄れてきたのは。
正確には友の顔が思い出せなくなってきたは。親の、妹の、そして愛した人の顔が思い出せなくなってきたのは…
呉作として、彼らと食卓を囲んだ記憶、大学のキャンパスを歩いた記憶、そして雷に打たれて倒れた時の記憶、それらの記憶にいる彼らの顔にうっすらと霧が出始めたのは。
その霧はやがて濃くなってきて、代わりにジョルジュとしての記憶が埋まってきたのは。
食卓には父バラガンや妹のステラ、サティが座っており、かつての親友の顔は白い霧に包まれた。
大学の風景は西洋風の村に変わり、ニッキーやエマン、そして村の子供たちが歩いている記憶に変わった。
ジョルジュはかつての記憶を忘れていくことに恐怖を覚えた。それはまるで、前の自分がいなくなるような感覚だった。
誰かに出会う度に、誰かの優しさに触れる度に、かつての記憶は隅に追いやられ、大切な人たちがいなくなっていった。
そんな恐怖と闘っていた時だった…
『あんたさあ~最近どうしたのよ?なんだか仕事にも集中してないじゃないさ。何か悩んでるの?』
畑仕事の手伝いが終わり、一人村のはずれにいた時であった。今と同じような、双月が昇った夜に、ターニャは話しかけてきた。
『タ、ターニャちゃん…ターニャちゃんはさ…大切な人のコトを忘れたってことはねーだか?』
『はあ~?アンタ私と同じ13でしょ!?もうボケでも来てるの?』
『いや…違うどもさ….だどもさ…例えばだよ!?例えば、親とか兄弟や、好、好きな人との思い出が段々となくなっていったら…ターニャちゃんは、どう思うだ?』
その瞬間、ジョルジュの背中に衝撃が走った。
その後、蹴られながら大きな声で怒られたコトを覚えている。
ゲシゲシゲシゲシゲシゲシゲシゲシッ….
『アホかあんたは!!そんなことこの歳で気にしてたら人生やってられんだっぺさ!!ええっ!』
『痛いだよターニャちゃん!!てか口調が元に戻っとるだよ!!せっかく訛りが取れてたのに』
『いい!!アンタの記憶力がどのくらいなのか知らねぇけどさ、忘れたことは気にすんなっぺよ!!ホラ!!行くだよ!』
『ううう…『それにね…』??』
蹴られたダメージで起き上がれなかったジョルジュに、彼女は手を差しのべながらいった。その声はどことなく、今までの彼女からは若干考えられない優しさを含んであった。
『もしアンタが…その大切な人を忘れてしまったなら、私がその大切な人になってあげるわよ。二度と忘れられないようにずっと隣にいてあげるから….』
『ターニャちゃん…』
その時からか、ターニャと美代の姿がダブって見えるようになった。
歳はかけ離れているにも関わらず…その茶色の黒髪が、その目が、そして彼女の動きが、かつて愛した女性と重なっていたのだった。
そしてそれは、ジョルジュに恋心を抱かせるコトとなった…
その後も二人は常に隣に立ち、畑作業をやっていた。ジョルジュが父バラガンから譲り受けた畑の作業にも、ターニャは手伝いにきてくれた。
やがてジョルジュは、かつての記憶を忘れることを恐れなくなった。代わりに彼の心には、ターニャが住むようになっていた。
そして、ターニャを美代と重ねながらも、彼女を一人の女性として好きになっていったのだった。
「私はね...アンタといろんなことしているのが楽しかったし、好きだった」
ターニャはそう言いながらグラスに葡萄酒を注ごうとしたが、中にはもう葡萄酒はなくなっており、2.3度便を振ってからグラスと瓶を地面に置いた。だいぶ冷え込んできたのか、ターニャの体がブルッと震えた。
ジョルジュは腰にさした杖を抜き、魔法を唱えた。休んだおかげである程度魔力が回復したのか、ターニャの周りを暖かい空気が包んだ。
ターニャに「ありがと」という言葉返され、しばらくの間、辺りは沈黙に包まれた。
しばらくして、彼女は再び喋り始めた。その声は、まるで泉に湧く水のように透き通っていた。
「それが普通だと思ってた…昔から、あの時も、そしてこれからもって思ってたわ…だけどね、あるとき気づいちゃったんだ…私はあなたの隣にいることが出来ないっ…てね。皮肉よね…願うほどに、それは出来ないことが分かってきちゃうんだから…」
「・・・・・」
「アンタが魔法学院に行くことが決まってからさ、確信したんだ…私はアンタの隣には入れない…アンタがいくら私達と同じことをしていても、私達とは世界が違うって」
ターニャの言葉に、ジョルジュは胸が強く締め付けられ、目の前が少し滲んだ。ジョルジュは大きな声を出して、ターニャの言ったことを拒否しようとした。
「そんなことないだよ!ターニャちゃんは、ターニャちゃんは…」
ジョルジュはその後の言葉が出てこなかった。言いたいことはあるのに、なぜだか口にはできない。
まるで、言わせんとばかりに、小人が彼の口を押さえているかのようであった。そんなジョルジュの口を、ターニャの人差し指が触れた。
「何も言わないでジョルジュ。アンタが一番分かってるはずよ。いくらこのドニエプル領であっても、貴族の息子が農民の娘と結婚できるわけないでしょ?」
ジョルジュの眼には涙が浮かんだ。学院に入る前には気づいていた。ターニャとは別れることになると、愛した女性がやがては結婚してしまうことも。だからこそ…彼には言いたいことがあったのだ。
しかしそれをジョルジュが口に出す前に、ターニャは再び口を開いた。
「私には分かるわ。アンタにはもう、いるはずよ…私じゃない…隣に立つべきヒトが…ちょっと変わったアンタを支えてくれるヒトが…」
そう言われたジョルジュの頭にふと、自分を見つめる女性が浮かんだ。
それは美代でもなく、ターニャでもなかった。
土のような茶色と黒の髪ではない、金髪の女性が立っている。
ジョルジュは知らず知らずのうちに涙を流していた。
自分は心のどこかで、彼女を諦めていたのかも知れない…好きになった女性を、自分から諦めて…
涙を流すジョルジュに、ターニャは両手をジョルジュの顔に当て、流れてくる涙を拭いた。ターニャはジョルジュの顔を見て微笑むと、やはり透き通った声でジョルジュにいった
「あなたが泣く必要ないわよ...それでいい…その人を大事にしてあげて…アナタが見つけたヒトだもの…イイヒトに決まってる。私は、あの人の支えになるわ…妻として…」
そう言うと、ターニャは腰を上げた。草の切れ端がついた部分をはたくと、顔をあげて月を見上げた。双子の月は、相変わらずお互いが寄り添いながら、二人を見つめていた。
しばらくして、ターニャは地面に置いたグラスと瓶を持つと、ジョルジュの方を向いた。
その目にはうっすらと、涙が見えていた。
「もう帰らなきゃ…明日、結婚式だもの…花嫁が寝坊したなんて…みっともな…」
ターニャは最後まで喋れなかった。彼女はジョルジュから顔をそむけると、村への道を静かに歩き始めた。
そんな彼女をみたジョルジュの頭には、ターニャとの思い出を再び思い返された。
―おめぇ違うっぺさ!!大鎌も使えちょらんのか!!―
―みんな、紹介するだ!!今、わたすが教育しちょるジョル坊だっぺさ!!みんなバシバシと仕込んでくれさ!―
―あの花を…私が結婚するときに、アンタがあの花を摘んできなさい!!あの花をドレスに着けて、アンタんトコロに嫁いであげるから―
―もしアンタが…その大切な人を忘れてしまったなら、私がその大切な人になってあげるわよ。二度と忘れられないようにずっと隣にいてあげるから…―
「ターニャちゃん!!!!」
ジョルジュは大きな声を出して立ち上がった。ターニャはその声にビクッと体を震わせ、振り向いた。
ジョルジュの目からは大量の涙がこぼれてきたが、ジョルジュはそれを拭こうともせず、自分が言いたかったコトを、彼女に伝えたかったコトをターニャへと振りしぼった。
「オラ!...オ゛ラずっとターニャちゃんの事がずきでした!!オラにいろいろ教えでぐれて...!皆の仲間に入れでぐれてッッッ!!隣にいでぐれて…ッ!!」
ジョルジュはすべてを言い尽そうとした。かつて思いを告げず、別れてしまった時のように…悔いを残したくなかった。
「ありがどおッ!!オラ、ターニャちゃんにいっぱい感謝しとるだよ!!結婚前の花嫁に、こんなコト言っちゃなんねぇどは思うけど…!!オラ、オラ!ターニャちゃんのコトあ…」
最後の言葉が口から出る前に、ジョルジュの唇をターニャの指が塞いだ。目の前にターニャは、ジョルジュと一緒で、大粒の涙を流していた。彼女の手にあったグラスと瓶は、地面に倒れて割れている。
しゃっくりが出そうになるのを我慢するかの様に、ターニャは一度噎いだ後、震える声を出した。
「アンタがそれを言っちゃだめ…それを聞かせるのは…私じゃなくて別の人…貴方の心にいる人に…言ってあげて…そうでしょ?ジョルジュ…」
お互いの顔は涙で濡れていた。
お互いが想いを押し殺していた。
ジョルジュも、ターニャも、互いにこれまで溜めてきた感情があふれ出てきた。
ターニャはジョルジュの唇を押さえた指を離すと、その指を頬にはわせ、手の平をあてながら言葉を続けた。
「ジョルジュ、約束して…明日の昼には結婚式は挙げられる…私はあの人に愛を誓うわ…少し頼りないけどとてもイイ人なの…だからこの結婚に後悔はない…だからこそジョルジュ、あなたには笑って見送ってほしいの…今みたいに涙を落とさず、笑顔で愛を誓わせて…」
既にジョルジュの顔は、涙でくしゃくしゃになっていた。
彼の心には、様々な感情の波が、まるで嵐のように混ざり合っていた。
そんな彼が、涙を流しながら話すターニャの言葉に、コクリと一度だけ首を下げた。
ターニャはそれを見てまた涙を流した。そして一度、大きく深呼吸すると先ほどよりはしっかりした声をだした。
「ありがと…ジョルジュ…そして後一つだけ、私のお願いを聞いてくれる?」
ジョルジュは答えることは出来なかった。ただ「うん…うん」とだけ頷くことしか出来なかった。
「一晩だけ、一晩だけ私に誓わせて…ブリミルにも、精霊様にも誓わない…あなたにだけ誓う…あの月が沈んで、朝日が…朝日が昇るまでの間だけど、あなたに誓うわ......」
そしてターニャはジョルジュの頬から手を離し、流れてくる涙をぬぐった。いつの間にかジョルジュの顔からも涙は止まっていた。
くしゃくしゃになった顔を腕の袖で拭き、涙が出るのをこらえながらターニャの言葉を待った。
ターニャは大きく息を吐き、それからジョルジュの目を見つめ、
一晩だけの誓いを口にした。
「愛してます」