部屋に入って来た艶のある緑髪のお姉さん――マチルダに対し、クライフが「ミス·サウスゴータ」と呼んだら「私も貴方をクライフと呼ぶから、マチルダと呼んで構わないですよ」と口にしたので、今は家名もなにも関係なくマチルダお姉ちゃんと呼んでいた。
「随分と難しそうな本を読んでるのね」
「これはお祖父様の遠いお祖父様から編纂している本で、国軍や近衛軍の出陣記録です」
何を読んでいるのか気になったマチルダは、椅子に座って本を読むクライフの後ろに立って本を覗き込むが、書いてあるのは兵隊の数やそれぞれの武装についてで、他にも細々とその日の風向きから果ては食べた戦闘糧食についてまで明記されていた。
生憎貴族として勉強する為にハルケギニアやアルビオン、ブリミルについての歴史書を教科書として勉強をしてきたが、こういった軍事一辺倒の本は未だに読むどころかお目にかかった事すらなかった。
こうしてクライフが本を読む姿は、そのくりくりっとした目を真剣にさせて可愛いものがあるが、やはり可愛いだけで異性としてみる事はできない。 そういう点から考えても、随分とお父様も無茶な縁談を組んだものである。
「私は読んだこと無いけど、戦争の本は面白いの?」
「戦争だけじゃないですよ。 日々の訓練に関する考察や、野盗退治から反乱鎮圧まで色々あったりします」
「へぇ、そうなんだ」
軍事に関する教育は受けていないマチルダからしてみれば、野盗退治も反乱の鎮圧も人数の規模が違うだけで差がわからないが、どうにもわかる人間からしてみれば大きく違うらしい。
特に共通の話題はなかったが、マチルダが思いついた事を質問すればクライフは読書を中断し、質問に対して十分な返答をおこなっていたが途中でふと、マチルダは大きな疑問を抱いた。 まだ8歳のクライフからしてみれば縁談なんて何ぞやといったものかもしれないが、それでも未だに婚約者になった事について一切触れられず、そもそも初めて会ったというのにその辺についてなんらアクションがないのは如何なものだろうか?
確かに8歳の男の子に乙女心の機微を読み取れというのは酷かもしれないけれど、それを求めてしまうのもまだ16歳で乙女真っ盛りなので許してもらいたい。
「えっと、クライフは私についてお父様から何か言われてないの?」
「何も言われてないよ?」
小首を可愛く傾げるクライフに少しばかり胸がキュンとくるが、今はマチルダからすれば聞き逃せない言葉を聞いた。 私の聞き間違いでなければ、クライフは婚約者について何も知らない状況にあるらしい。
流石にデーンロウ家と私の家を比べたならば、デーンロウ家にとってこの縁談は正に大縁談であり、それをまかり間違っても当事者に伝えていない筈はないと思う。 場合によっては家を甘く見られたととられ、最悪の場合には破談だってあるかもしれない。
じゃあ、もしかしてもしかすると……
「――お父様に担がれたのかしら?」
「どうしたのマチルダお姉ちゃん」
不思議そうに私を見るクライフの頭を軽く撫でてから、大きく溜め息を吐いて私はクライフの隣の椅子に座った。
デーンロウ家の立場と政局が変わらなければ、2年後にクライフが10歳になるのでそれに合わせて挙式をしたいと圧力をうけた。 立場や政局というのは、どう読み取っても『デーンロウ家が敵に回らなければ』という意味であり、ここまで一方的にとはいえ取り決めがなされた以上は、破談となると大変な問題がデーンロウ家に覆い被さることになるだろう。 いや、そもそも現状でも大問題でしかないが。
とにかく、あの縁談から既に1年が経過していたが、何とかアルビオン王国の政局は小康状態に押しとどまっていた。 しかしながらそれは政治的な安定を意味せず、南部や近しい領地の親モード大公派と東部や北部を基幹とする反モード大公派が不安定な政局をつくり、皮肉にもそんな不安定な2つの派閥が政局を二分してささやかな安定を意図せずして作り上げていた。
水面下での激闘は続いているが、表だった論戦は既になりを潜めてしまっていた。 デーンロウ家には縁の無い話だが、相手に表だって噛み付くにも情報が必要であり、その情報を手にいれるには金が必要不可欠だったのだ。
東部と北部からなる寄せ集めの貴族達と、王弟でありさらには財務監督官の地位まで持ったモード大公。 元より財力には圧倒的とまでいえる差があり、反モード大公派の切り崩しも始まり流れは終息に向かっていた。 今回の政局の勝敗をあえてつけるならば、反モード大公派の惜敗か無効試合かといった形である。
だからこそ、誰もがこのままうやむやに決着がついてしまう事を心から望み、そして誰しもが潜在的な対立は残しながらも今までの政治に戻るだろうと考えていたが、アルビオンという空飛ぶ大陸は波間に浮かぶ木っ端のように、また他国から寄せた波に翻弄されていた。
「それでは、これより会議を始める。 議題は風物詩ともいえるものだが、来年のロマリアによる親善大使来訪についてである」
数年に1度の間隔ではあるが、ロマリアより外交を目的としない親善大使が送られてきた。 彼らは事実アルビオンに来ても政治的な話や通商についての話しもせず、ただただ1つの事柄を聞くためだけにロマリアより派遣されてくる。 その事柄は簡潔なもので、アルビオン王国の『聖戦についての如何』を伺いに来るのである。
「陛下、やはり聖戦とは損あって実がないもの。 やはり静観するのが良いかと」
「我々もモード大公と同意見ですな」
この内容に関しては、派閥を越えて軍備拡張を目指す武家以外から全会一致で聖戦の不参加が意見として出され、国王も当然のようにそれを受け入れてエルフとの聖戦は不参加が採択された。
やっと必要性の高いものには派閥を越えて話し合い、ぶつかるところはぶつかり正すところは正すようになって半年が経過し、このままいけば半年後にはクライフとマチルダの挙式となるところまで来て、とうとうハヴィランド宮殿の上空に政変の嵐が吹き始めていた。
ウェールズは、最近になって急に父である国王が不機嫌になり、まるで八つ当たりのように政務官に文句を言っている姿をよく見ていた。
流石に最近の国王の機嫌の悪さは目に余る領域に入りつつあるが、アルビオン王国という政治体制の頂点を窮める国王に苦言を呈する者はおらず、そもそも何に怒りを覚えているのか正確に知る者すら居ないのではないだろうか?
だからこそ、アルビオン王国の皇太子として自らが動き、その理由を知る事で父王に代わってその問題を排除するか、もしくは内容次第では自分こそが家臣に代わって苦言を呈すべきだと考えて、ここハヴィランド宮殿で独自に聞き込み調査を行なっていた。
しかし、調査は難航に難航を重ねる結果となった。 この事については未だに父王は口を開いて居ないようで、直臣から重臣に限らずメイドや執事のような者にすら溢していないようである。
「この事なんだが、パリーはどう思う?」
「そうですな…… 陛下のお心など私には検討もつきませんが、ここまで隠されている以上は何かしらの思惑があるやもしれませんな」
そう、確かに国王という権力がある以上は、乱暴に言ってしまえば気に入らない部分を指摘さえすれば、政治は国をあげてそれを正すべく動き出す筈である。 それなのに、今回の件は国王以外の誰一人として知らされておらず、これは何かしらの理由なくしてはあり得ないと考えられる。
「ですが殿下、これを調べるには少々お気をつけ下さいませ。 どのような理由にせよ、陛下のお隠しになった心を調べるとなれば、野心を抱く諸候に『殿下に叛意あり』として、政治的な火種にされかねません」
「わかった。 じゃあ、気を付けて調べないとね」
パリーの心配する言葉にそうだなと頷きつつ、しかし調べるからには徹底して調査をして、苦言を出せないが故に目に見えて最近精神的な疲弊がみてとれる政務官やメイドたちの為にも、迅速に調査を開始したのだった。
ここ1週間程だが皇太子自らが調査を始め、様々な者に声をかけては国王の怒りの矛先を聞いて回ったが、分かったことは何一つなく得られたのは皇太子自らが動く物珍しさからくる悪目立ちと、国王の息子たる皇太子にすら情報がないと周囲に言い触らしただけになった。
いやまあ、確かに実際は何も分からなかった訳ではない。 得られたのはほんのの少しの情報と、そこから生まれた情報の何倍もの謎である。
例えば謎の手紙。 これは父王が叔父であるモード大公へ宛てて、ここ最近で3通もしたためられたものである。 内容は不明であり、そもそもそれをモード大公の屋敷へ配達するよう言い付けられたメイドしか書状の存在を知らず、しかも厳重に秘すようにとの言付けまでされていたようだった。
だが、調べる限りではモード大公からの返信が到着した事実は確認できず、返信を要さない書状の可能性もなきにしもあらずではあるが、流石に短期間で出された3通もの手紙が全てそうである筈は限りなく低く、調べられた少ない範囲で考察しても何通かは黙殺されていると考えられる。 如何に王弟とはいえ現国王の書状による伺いを黙殺できる謂れはなく、何かしらの理由から父王の不機嫌を買っているのかもしれない。
そして、もう1つだけ謎がある。 何処の誰かは解らないが、確実に国王の寝室へ不届き者が入ったという可能性である。
調査を進めた結果として、何人かのメイドや貴族が国王の寝室へ入った誰かを目撃していた。 僕も調査をしていて思い出したが、確かに父王の寝室へ向かう者を見定めた上で入室を許可している。
だが、一重に皆が口を揃え――例外なく僕もだが――国王の寝室へ入った者について『黒髪でローブを着た女性』という記憶しかなく、何処の誰が入ったのか知る者が居ないという恐ろしい現実だけが残っていた。 顔も名前も知らない誰かであるが、自身のか細い記憶を手繰っても覚えているのは、確かに僕はその女性に対して「彼女なら寝室へ入っても問題はない」と、何を根拠にしたのか不明な事を言っただけである。