虚無の曜日は休日であるのだが、当然学院が休みだからと言って生徒が食事をとらないという訳ではなく、今もこうして食堂に生徒が集まっていた。
だが、そんな食堂に来るにあたっても来てからというものも、何故かクライフは周囲からの微妙な視線を感じて首を傾げていた。
「クライフったら何かしたの?」
「特に覚えはないんだけど……」
隣で朝食を楽しんでいたキュルケも周囲からの視線を感じるのか、ぐるりと見回すも視線の先がクライフだと気付いたのか食事を止めないタバサの分まで尋ねるが、生憎とクライフ本人にも現状はわかっていなかった。
そんなクライフを見つつも、キュルケとしては問題点が違うのか「視線の先が私の美貌じゃないのよねぇ」と言って最後に一口分だけ残っていたワインを飲み干すと、周囲へこれみよがしに胸を反らして伸びをすると男子の視線が自身に向いたのを感じてご機嫌そうに頷いた。
「そう言えば、タバサとクライフは今日暇かしら?」
「何故」
特に今日の予定がなかったタバサが話題に食いつくが、どちらかと言えば食いついているのは話題より食事であるらしく、2人から貰ったハシバミ草のサラダを未だに食べながらキュルケに尋ねた。
「特に何か欲しい物があるわけじゃないけど、せっかく王都が近いから覗きにでも行きましょうよ」
「……行く」
今日はゆっくりと図書館に籠り、その魅力的な蔵書を読んでいこうと考えていたタバサであったが、どうせなら一緒にトリスタニアへ行って本屋も見ておきたいと考え予定を順延して頷いた。
肯定の意見を聞いて笑みを浮かべながら頷いたキュルケが言外に「あなたも当然来るでしょ?」とばかりにクライフの顔を見つめれば、予定のないクライフとしては断る理由もないので「僕も行くよ」と頷いた。
かくして彼等の休日に王都見学という予定が入ったわけだが、これには大きな落とし穴があった事に気付くのはもう少し先の事である。
予定さえ決まってしまえば後は早く、特に食後は歓談もせずに部屋へ戻りでかける準備を進めて行くが、流石に女性の準備は遅いと言われても食堂へ行く時点で9割がたの準備は整っており、こうして一番時間がかかるであろうキュルケも問題なく準備を済ませて外へ出ていた。
最後に出てきたキュルケと合流し、3人は厩舎へ向かい馬を借りるとそのままトリスタニアまでの3時間は休む間もなく走りとおしである。 如何に馬に乗り馴れていようとも、愛馬でもないその場で借りた馬と呼吸を合わせるなんて芸当ができるほど乗馬が達者でもないので、来て早々それなりに疲れていた。
事実を言えば疲れていたのはキュルケだけなのだが、とにかく馬を預けてから目についた店に入ってお茶を飲んで休みながらどこに行くか決める事になった。
「……あんたたち疲れないの?」
「平気」
「体を動かして鍛えてるからね」
出された紅茶を楽しみつつも、あまり疲れている風に見えない2人にキュルケは微妙な眼差しを向けるが、本人達からすればどうということもないらしく、もしかすると自分がおかしいのかと疑問をキュルケは抱き始めていた。
「とりあえず、何処へ行くの?」
そもそもクライフは――タバサもだが――主催者ともいえるキュルケからトリスタニアに来て明確に何処へ行くとは聞いておらず、とりあえず行動指針だけは聞いておきたかったのだ。
「そうねぇ…… 最初に言ったけど、特に用があるわけじゃないのよね。 寄るなら服屋かしら?」
本当に目的は無かったのか、少しだけ顎に手を当てて悩むような仕草をすると思いついたのか服屋を目的だと言うと、キュルケからすれば善意の笑みだがクライフからすれば企むような笑みを浮かべると、「そうね、あなたたちの服を見繕ってあげるわ」と口にした。
既にキュルケの頭の中では、クライフとタバサの様々な服装がめくるめく幻想のように浮かんでは消えているが、その大半がクライフが女装してタバサとの姉妹のような状況か、タバサが男装してクライフと兄弟のような状況なのは黙して秘めている。
「本屋に行きたい」
次の目的地としてタバサが力強く――他人からは差がわからないが――主張したのは、短くしか接していないがタバサの性格というか行動を見ていれば納得できる場所である。
目的地を出した2人の視線に促され、クライフも自分の行きたい場所を考えるが特に行きたい場所も無く、少しばかり困ったような笑みを浮かべてから「僕の予定は決まったら言うよ」とお茶を濁したのだった。
支払いを済ませてから店を出て、そしてキュルケが姉気取りで2人を引率すべく「それじゃあ、まずは服屋へ行きましょう」と口にした瞬間、遂にその落とし穴に転げ落ちてしまった。
「ねえ、タバサとクライフは服屋がどこだかご存知?」
「トリスタニアは初めて」
「僕も来たことないからなぁ……」
そう、これがヴィンドボナであればキュルケは嬉々として馴染みの服屋からお勧めスポットまで連れて行っただろうし、ここがリュティスだったならばタバサが大好きな本屋を2人に何件も連れて行っただろうし、当然ロンディニウムならば裏道の1本1本とまではいかないがそれなりのエスコートがクライフにもできただろう。
しかし、だ。 ここは言ってしまえば3人からすれば異国の街であり、誰も知らない未知の場所だったのだ。
とにかく目的地を目指して歩くのではなく、まずは目的地を探す為に歩く事になった3人は大通りを歩き、いくていくてに見える露店や出店を覗いては目的地を探し求めて歩きまわっていた。
今は笑い疲れて困ったと言わんばかりのキュルケを先導に、次の目的地である本屋を目指して歩いているわけなのだが、タバサは微妙に満足げにクライフは影をともなって歩いていた。
服屋についてからの2人は、まずは在り来たりな服の着せ替え人形にされて幾つかの服をキュルケが見繕うと、遠慮する暇もなくプレゼントとして代金が払われて後日学院へ届けられることになっていた。
そして、その代償としてキュルケの魔の手がついに伸び、気付いたらクライフの服装がスカートになっていたのだった。 そんなクライフはタバサと並べば姉妹にしか見えず、姉妹という言葉に思う所があるのかタバサは一瞬顔を顰めるが、特に何も言わず男装も楽しんでいるようだった。
もうすんだ事だとクライフは頭を横に振ってから前を向いているが、やはり消せない過去に重い何かを感じながら本屋を探して歩いていた。
効率だけを考えれば服屋で場所を聞けば済む話だが、こうやって何も知らない場所を探すして歩くのも実は楽しかったりするのだ。
「見つけた」
本人としてはウキウキと弾んだ声音で本屋を指差すと、キュルケとクライフを気にする事なくタバサは颯爽と中へ入って行ってしまう。
遅れて2人も本屋へ入っては行くのだが、クライフは本をよく読むが所謂『読書家』ではなく読むのは出回らない事もないが出回り難い軍事関連の本であって、まあ期待薄で書棚を眺めて歩いていた。
一緒に入ったはいいが、あまり本に興味のないキュルケからすれば手持ちぶさたもいいところであり、黙々と本を探すクライフにも喜悦のオーラを振り撒いて本を探すタバサにも声がかけられず、少しばかり寂しい思いをしながらも本を手に取っては値段を見て眉間に皺を寄せていた。
だが、それもそこまで長持ちするものではない。
「ねぇタバサ…… 続きは今度にして、お昼にしましょうよ?」
「……わかった」
そんなキュルケの提案にタバサは無言の抵抗をしようとして、自身のお腹を軽く撫でると実は集中して気付かなかっただけでお腹が減っていたのか、手持ちの2冊の代金を渡すと既に一通り見終わっていたクライフも連れて昼食をとるべく貴族らしい店――ではなく、タバサのお腹の都合で平民で賑わう手頃な値段で量の多い店を店主から聞き出して向かう事になった。
本屋の店主教わった店からは既にいい香りが立ち込めていて、店に入る前から否応にもなく空腹を掻き立てられてしまう。
いったいどんな料理が食べられるのかとわくわくしながら店に入った3人が最初に見たのは、その身なりから彼等が貴族だと気付いた店員の警戒する眼差しである。 悪い意味で貴族は目立つのだ。
だが、そんなものは気にしないとばかりにキュルケは自分達が客だと伝えると、そのまま空いている席に座ってから幾つか手探りに注文を出して笑みをこぼした。
「中々活気があっていいじゃない」
店内の席は殆どが埋まっており、あちこちから喧騒と彩り豊かな料理が並んでいて涎が口に溜まってくるのがわかる程である。
既にタバサは何が来てもいいように臨戦態勢に入っていて、やたらと張り切っているタバサを見てキュルケは可愛いなぁと想いながらもそれを黙って眺めていたが、それも料理が届くまでの短い時間に過ぎなかった。
続々と届けられる料理の数々に家や食堂で食べる料理のような気品さはないが、着飾ったような美意識を気にした盛り付けではなく食欲を意識した盛り付けに目を奪われ、早速食べれば食べなれない味付けにキュルケは舌鼓を打っていた。
テーブルを埋め尽くすような料理の数々にクライフは戸惑っていたのだが、その味付けに手が止まらず着々とその総量は減らされていき、3人の記憶にこの店は深く刻まれていく。
「次はどこに行くの?」
怒涛とも言える食事を済ませてワインを軽く舐めるように飲んでいたタバサは、同じく食後のワインを飲み干していたクライフに聞いてみた。
今までの順番で言えば次の目的地を決めるのはクライフであり、決まったら教えてもらう筈が未だになんの回答も得られていなかったのだ。
「できれば、薬屋か武器屋を覗きたいかな」
「あら? どこか悪いの?」
実は病弱なのか気になったキュルケがストレートにそう聞くと、クライフは「僕は至って健康だよ」と苦笑する。
それから右手で何かを口にくわえる仕草をしてから息を吐き出してみせ、「煙草は学院じゃ揃わないからね」と言ってからまた苦笑していた。