私の握る大きなブラシが踊るたびに、ごろごろと気持ちよさげな声が聞こえてくる。
いつの間にかこのブラッシングは私の密かな楽しみになっていた。
ブラッシングを始めたばかりの頃は手間をかけさせるなとイラついていたのに、私も変わったものだ。
散歩で人里に行ったという日のブラッシングは大変だったけど、ごめんなさいと謝りながらも喉を鳴らすスコールの姿に思わず毒気を抜かれて笑みがこぼれた。
「よし、終わったわよ」
ぽふりと頭を一つ撫でてやると、途端に擦り寄ってきて感謝を伝えてくる。
スコールはやたらと誰かに触れていたがるから、こうして頬を寄せられるのにも慣れてしまった。
ここに来るまでの経緯を聞いているので仕方のないことだとは思うけど、仕事の途中にこれをされた時は正直困ってしまう。
今は忙しいと切り捨てるのは簡単だけど、そうした時の寂しそうな気配がもう、何とも。
そうしていつの間にかついつい甘やかすようになってしまった。
出してやる食事も段々上質な物になっていったし、それを申し訳なさそうに食べるスコールに怒ったこともある。
うん、私も変わったものだわ。
ブラシを持ったまま苦笑していると、スコールが不思議そうにこちらを見ているのに気がついた。
何でもないという意思を込めて撫でてやると、また喉を鳴らしながら擦り寄ってきた。
ちょっとグッときたのは内緒で、そっと心の宝箱へ仕舞っておこう。
顎の下をくすぐってみたり、頬の辺りの毛並みをかき混ぜてみたり。
じーっと綺麗な金色の目を覗き込んでみると、期待に揺れる感情が透けて見えるようだった。
……うん、いいかもしれない。
掃除は朝のうちに済ませているし、お嬢様たちは就寝中だし。
こうした機会はいつも突然降ってくるものだからいつも何をしようか迷ってしまうけれど、今日はそうならないようだ。
こんな遊んで欲しそうな目を向けられたら断れまい、うん、今そう決めた。
「今日はお嬢様たちも寝ている事だし、一緒に散歩に行ってみる?」
そうお誘いをかけてみると、言葉尻に繋がるかのように、即座に行きたいという意思が返ってくる。
タイムラグはコンマ数秒だろう。
こんな反応をされると嬉しくなってしまう。
「準備をするから玄関で待っていなさい」
そう言うや否や、まるで風のように走り去ってしまった。
これはこれは、急いで準備をしなければ玄関できゅんきゅん泣いていそうだ。
苦笑を伴った時間停止。
何もかもが止まった世界の中だというのに、意味も無く早足になるのを自覚しながら自室へ戻る。
このメイド服のままでもいいけれど、折角なので気分を少し変えてみよう。
クローゼットを開けて、顎へと手をやり一つ思考。
滅多に着ることのない紺のノースリーブブラウスと白のロングスカートを取り出す。
ついでに外歩きのためのブーツも用意しておく。
いそいそと着替えながら、柄にもなく気分が高揚しているのを感じた。
そういえばスコールは誰かと一緒に散歩に行くのは初めてになるのかしら。
誰かが一緒に居られる時はその傍を離れようとせず、散歩に行くのはどうしても暇だった時だけのようだし。
どうりであれほど喜んでいたわけだ。
……喜んでいるのは私も同じかしら?
考えてみれば私も犬……いや、狼と散歩に出るなんて初めてだし。
大きな大きなわんこもとい狼と笑いながら散歩をするなんて、幸せな家庭っぽくていいかもしれない、うん。
頬が笑みを形作るのを感じながら、外見ではわからないようにナイフを数本身につけて、クローゼットの中に仕舞われたまま殆ど使われる事のない日傘を手に取る。
軽く鏡の前で確認をすると、いつもメイド服ばかりを着ていたせいで違和感が。
おかしな格好ではないと思うけれど……まぁたまにはいいでしょう。
食堂で軽く摘む程度の食べ物を詰めたバスケットを用意して、止まった世界の中でことん、ことんと何時もより少し低めの足音を響かせながら玄関へと歩を進める。
言い方は変だけれど、私がこうして時間を止めるまでの時間は僅かなものだったはずなのに、既にスコールは玄関で座っていた。
まったく、相変わらず速い事で。
スコールの傍へと歩み寄る最後の一歩で時間停止をやめると、気づいたスコールが即座に期待の視線を向けてきた。
私がいつものメイド服ではないのに少し驚いたようだったけど、さらりと伝わってきた似合ってますという意思にやられた。
……愛いやつめっ。
「さ、それじゃあ行きましょうか」
しかしながらそんな心情を敢えて表に出さずに、するりと開かれた扉から空を仰ぐ。
夏真っ盛りの日差しと言うには少しばかり早いが、からりと晴れ渡った空から降ってくるそれは強い。
さらりと肌を撫でる風と肌を焼く日差しを感じながら、館の外へと一歩を踏み出した。
……照れてるわけじゃないわ、そう、これは甘やかしすぎてはいけないからという愛故によ。
最近、その境界が曖昧になってきてる気はするけど。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------
少し歩いた後、背に乗りますかというスコールの申し出を折角だから受け入れてみた。
私の方が散歩ではなくなってしまったけれど、まぁいいでしょう。
スコール自身は機嫌よさげに歩いていることだし。
何しろ狼が鼻歌を歌ってるくらいだもの。
これで本当は機嫌が悪かったりしたのなら、役者としてでもやっていけるでしょうね?
背中で私がそんな事を考えて苦笑している事になど気づいてもいなさそうな、重さを全く感じさせない足取りで紅魔館の前の湖を迂回し、林を抜け、草原を横切り。
当て所なく、ふらりふらりと思うが侭に歩き回る、まさに散歩。
特に目新しい何があるわけでもないのに、妙に楽しく感じた。
この足取りは当然の事として、気分の方もスコールの持つ『あらゆるものを軽くする程度の能力』の恩恵を受けているのかもしれない。
初めてこの能力の事を聞かされた時の騒動は面白かったなと思い出した。
私たちの言動がどこかおかしくなっていたのはそのせいか、とパチュリー様が言ったのに対して、きょとんとして首を傾げたスコール。
スコール自身は自分の意識した物体の重さに対してのみ効果があるものだと思っていたらしい。
ちなみにその時の自己申告は『軽くする事ができます!』のみで、双方の認識に食い違いが生まれた瞬間だった。
物だけに留まらないと知ったときに、一番驚いていたのはスコール本人……本狼?
そこからは興味を持ったパチュリー様が実験だ検証だとスコールを一日中引っ張りまわしていた。
普段は図書館で静かに本を読んでいるパチュリー様がそれ程までに『浮かれて』いたのだから、その行動がそのまま検証結果になったのはある意味皮肉だった。
そして普段殆ど動かないのに張り切ったものだから、翌日ベッドの上で筋肉痛と戦う羽目になっていたのには皆が笑った。
本人は『やられた……』なんて言いながら赤くなった顔を布団で隠そうとしていたけど。
けらけら笑いながらそんなパチュリー様の体を容赦なくつついて悶えさせるお嬢様に、それを真似してそっとつつくフラン様。
少し前の紅魔館では考えられない、そんな暖かな寸劇が繰り広げられ……く、ククッ……。
回復したパチュリー様から日光責めを頂いて、口からぷすぷすと煙を吐くお嬢様も、た、大変お可愛らしゅうございました。
駄目、あぁダメよ十六夜咲夜。
思い出し笑いなんて瀟洒じゃないわって無理無理無理。
煙を噴きながらぎゃおぎゃおとお叫びになるお嬢様の姿ったらもう、思わず部屋へお持ち帰りしてずっと愛でて居たくなるくらいに……いや待て、以下略にしておきましょう。
大丈夫、まだ慌てる時間じゃないわ。
今はそっと、軽いデコピンをされて額を押さえて笑っていらした……そんなフラン様の笑顔で穏やかな心を持つべき時!
そう、心が穏やかになって笑いが……
違う笑いじゃなくて穏やかって駄目だ止まらない。
ちょ、ちょっと待ちなさいスコールって駄目、笑いすぎて息が、声が……!
…………まさか、笑いが止まらなくなって呼吸困難になるなんて……スコール、恐ろしい狼……!
ほとんど無意識で使ってる能力らしいから、制御などは考えてもいなかったらしい。
自分の背の上でくつくつと笑いながらお腹を押さえて悶える私を見て、ようやく何事か気づいたようで。
慌てて近くにあった良い具合に芝の生えている木陰で小休止。
断言しよう。
あの時であれば、たとえお嬢様がカリスマを発揮していらしても爆笑する自信があった。
笑いすぎて色々と惨状になっていた部分をなおして、持ってきていたバスケットを開く。
スコールと二人で話をしながらゆっくりと食べて、風に揺れる景色を眺めた。
私が何事も無かったかのようにしているものだから、スコールも察してくれたらしい。
帰ったら上等なお肉で夕食を用意してあげましょう。
うん、それはそれとして。
スコールの能力が無くなり落ち着いて風景を眺めなおしていて、こんな景色を見たのはいつ以来だろうかと、頭の中の冷静な部分がそんな疑問を持ち出してきた。
まだ自分の能力すら自覚していない、ただ無邪気で居られたあの頃以来?
金色に輝く小麦畑を眺めて、麦に宿るというヴァイツェンヴォルフを想像して心を躍らせた、頭の片隅に残るそんな思い出。
残念ながら目の前に広がっている光景は金色ではなく青々とした緑の草原だけれど……
そっと横目でスコールを見て、思い直した。
あちらの狼は金色の麦畑を同じく金色の尻尾を立てて走り抜ける。
ならば、緑色に輝くこちらの草原を銀色の狼がのんびり歩いているというのも中々に対比が効いていていいじゃないか。
段々と落ちていく瞼に抗わずに、スコールに背を預けてそんな事を考えていた。
自分の能力を使っているわけでもないのに、時間の流れが曖昧になっているのを感じながら、耳で、肌で世界を感じる。
さわさわと揺れる緑の音の中でふと目を開けて太陽の高さを見れば、どうやらそれほど時間は経っていないようだった。
スコールはいつからそうしていたのか、ゆらゆらと尻尾を揺らしながらじっと私を見ている。
「……レディの寝顔を眺めるのは趣味が悪いわよ?」
気だるげに軽く叩く振りをすると、器用にも前足で鼻を庇うスコール。
子犬がやれば可愛い仕草で済むのだろうけれど、これ程の巨狼がすると果てしなく間抜けな絵面ね。
思わずくすくすと笑いをこぼすと、からかわれた事に気づいたらしいスコールが拗ねるのを感じた。
狼の顔色なんてわからないし、スコール自身は何も言っていないのに、何となくわかる。
それでも私の中に焦りなんて微塵も生まれなかった。
いくら拗ねたって、いつだって頭を撫でればすぐに機嫌を直した。
それがスコールだった。
ちょっと卑怯だと自覚しながら頭を撫でてやる。
所々うっすらと黒が混じる銀色の長い毛は、日々のブラッシングの成果もあってさらさらと指通りがいい。
不機嫌そうな小さな唸り声がすぐに気持ちよさげなそれに変わった。
相変わらずだけれど、でも、それが嬉しい。
こちらの好意が相手に喜ばれれば、当然の様に嬉しいと思う。
……だからこんな小さな事でいつも喜んでくれるスコールをいつの間にか気に入ったのだろう。
でも、このくらいにしておこう。
堪能するのはいいけれど、過ぎたるは猶及ばざるが如し。
ぽふりと合図のように頭を優しく叩くと、私が何が言いたいのかを理解してもそりと起き上がる。
私よりも遥かに長生きなくせに単純で、それでいてこういった機微には聡い。
そんなちぐはぐな狼が大きな体を揺らしながら伸びをしてぐるぐると喉を鳴らした。
私も立ち上がってスカートについた草を軽く払う。
ふと視線を感じてスコールへ目をやれば、私が乗りやすいように背を傾けて待ってくれていた。
妖怪か疑わしくなるくらいに……本当に、まったく、もう。
腰掛けるように体重を預ければ、普段感じることのない独特な浮遊感と共に視線が高くなった。
二度目だけれど、再び子供のように心が躍るのを感じる。
私がしっかりと乗ったのを確認して、またあのふわりとした足取りで歩き始めた。
先の教訓を活かしたのか、こちらへの干渉をしないように心がけているのだろう。
異様な思考の欠片も浮かぶことはなく、純粋に風景を楽しむことができている。
森を抜け、また草原を横切り、人里に行きかけてきびすを返し。
スコールの背でふわふわと揺られながら、普段は見向きもしないあたりまえな景色を楽しみ続けた。
あぁ……何時の間にか、空が赤く染まり始めている。
あら?
「ああああああああ!?」
私がこうして散歩に出ていたのは、お嬢様たちが眠りについていたので仕事がなかったから。
しかしこんな時間ともなれば間違いなく起きている事だろう。
早く戻らなければお嬢様たちのお世話が……!
「スコール、全速!紅魔館に帰るわ!!」
何が何だかわからないという思いは伝わったが今はそれどころではない。
ぐっと身をかがめて、まるで乗馬をしているかの様にスコールへ体を固定すると、戸惑いながらも速度を上げ始める。
始めこそ軽く駆ける程度だったと言うのに、いつしかまるで水で押し流されているかのように世界が滑っていく。
草原を割り、林を揺らし、あれほど長く感じた道程を一瞬で踏破していく。
ごうごうと目を開けているのも億劫な風の中で、湖の上を駆け抜けていた気がするけれど……きっと気のせいよね。
数瞬ほどの思考から抜け出すと、既に紅魔館が見え始めていた。
認識してから瞬きほどの間にその門前まで足を進めて、急停止。
その慣性に逆らわずに空を舞い、時を止めながら着地、疾走。
急いでもこの時の中では変わらないとわかっていながらも、体は止まらない。
自己新記録を樹立する勢いで着替え、そっと居間を伺う。
そこにはあってほしくなかった、わずかに口を尖らせて拗ねたご様子のお嬢様と苦笑している妹様の姿が。
あぁ……起きていらっしゃる。
不覚、不覚!!
パーフェクトメイドという肩書きの危機だ。
……お嬢様好みの砂糖、ホイップクリームたっぷりのケーキでも作ればごまかせないかしら。
ええい、ごまかせないでどうする!
ごまかせてこそのパーフェクトメイド!!
食堂に足を運び、いそいそと戸棚から取り出した新品の砂糖の袋を開ける。
仕方がない、仕方がないのよ。
それをそのまま全てボウルに注ぎ込んで、次の材料に手をかける。
私の持つ技術の全てを注ぎ込んでできたケーキを、私は決して自分の口へ運びたくなかった。
多分これ太るどころの話じゃないと思う。
女性の敵どころじゃない。
これはきっと女性の死神とか、閻魔とか、きっとその辺り。
そのケーキを切り分けて、紅茶と共にお嬢様の前にセット。
妹様の前には同じ見た目の普通のケーキと紅茶。
頭を下げた状態で流れる時の中へと戻っていく。
「申し訳ありませんお嬢様」
「随分とお楽しみだったようじゃないか、咲夜」
次の言葉を待ち構えるが、いつになってもやって来ない。
ちらりと伺えば、最早私の事などそっちのけでケーキを頬張るお嬢様の姿。
私は今、きっと凄く悪い顔をしているだろう。
しかしお嬢様……あの量の砂糖を使ったケーキをそんな風に食べますか。
私も甘いものは好きですが、さすがに胸焼けが。
お嬢様はケーキをハーフホール分綺麗に完食して紅茶を口に含んだ時にようやく私の事を思い出したらしい。
赤くなりながら文句を口になさるお嬢様は大変お可愛らしゅう御座いました。
後ほどフラン様から『咲夜も大変だね』と声をかけて頂きました。
……お嬢様、もしかして妹様と精神年齢が逆転しはじめていませんか?