何も起こらないと思っていた。
いつものように授業が始まり、いつものように友達と馬鹿な話をしながら過ごす。
そんな日常が、こんな形で崩れ去るとは、全く予想していなかった。
『全校生徒、職員に連絡します!
全校生徒、職員に連絡します!
現在校内で暴力事件が発生中です
生徒は職員の誘導に従ってただちに避難してください!!
繰り返します
校内で暴力事件が発生中で』
日常の崩壊を告げる知らせが学校中に広まったのは、飛鳥達が実験室での授業中での事だった。
既に飛鳥、健二、猛の三人の班は実験を終え、後は他の班が終わるのを待って、教師がこの実験に関する講釈をしてそれで終わりの筈だった。
暇を持て余した飛鳥達が、支給されていたマッチで、組み木を作り、キャンプファイヤーマッチverを作成し終えた時だった。
何の予告も無く、男性教論の切羽詰まったような放送が、それぞれ無駄話を興じながら、実験を進めていた生徒達の―――否、学校中の音を奪った。
し――ん、と今までの騒ぎが嘘のように静まり返る校舎内。
一瞬の静寂の後、教室内の生徒達がざわざわと辺りを見回し、何が起きたのかと手近の者達とざわめきだす。
放送は一回途切れたが、数秒後に何か堅い物を落としたような金属音が響き―――。
『ギャアアアアアアアアアアッ!』
―――絶叫が学園内に響き渡った。
『助けてくれっ! 止めてくれっ』
―――絶叫が命乞いに。
『助けっ』『ひぃっ』
―――命乞いが悲鳴に。
『痛い痛い痛い痛い!! 助けてっ死ぬっ』
―――悲鳴が断末魔に。
『ぐわああああああっ!!』
断末魔を最後に、放送は途絶えた。
再び、学園に沈黙が訪れる。しかし、今度の沈黙は、すぐに喧騒の訪れた先程の物とは違う。
学園中から音が消えてしまったのかのように錯覚するほど、重く、緊迫した、今にも爆発しそうな空気を孕んだ静寂。
ある者は愕然とし、ある者は挙動不審に周囲を見回し、ある者は近くにいる友人と視線を交わし合う。
数瞬の後、硬直から抜け出し、教室から出る事を選んだ生徒が数名、教室の出入り口から抜け出していく。
そして、学園中に恐怖と狂気に駆られた絶叫が響き渡り、我先に逃げ出さんと、教室の出入り口に生徒達が殺到する。
その顔は一様に恐怖に彩られ、理性をかなぐり捨てて外を目指す。
「…ッ!?」
他の者達同様、恐怖に染まった表情で、外へ向かって走り出そうとする猛の腕を、飛鳥が捕まえ、抑えつける。
健二の方は冷静のようで、顔を強張らせてはいるも、動き出そうとする気配は無かった。
「離せっ!? 離してよ飛鳥君! 今の放送聞いてたでしょ!? 早く、早く逃げなきゃ!」
「やばい事態ってのは分かってるから落ち付け。深呼吸してよーく気を落ち着かせてみろ」
無理矢理椅子に座らせ、肩を抑えて逃げられないようにする。猛は大柄な体格で、力もそれ相応にあるのだが、飛鳥を跳ねのけようと身を揺すっても、飛鳥はこゆるぎもしない。しばらく何とか逃げ出そうと暴れ続け、ようやく逃げ出せないと悟ったらしく、動きを止め、飛鳥の言葉に従って深呼吸しだす。それに合わせ、飛鳥は諭すように柔らかく、しかし厳しい口調で猛に話しかけた。
「落着いたな? 良いか、こういう場合大勢の人間と一緒に逃げるのはむしろ危険だ。聞こえるだろ、この騒ぎ。今の放送で学校中がパニックになって、ほとんどの生徒が同時に外を目指している。何処で何が起こってるかもしれないのに、だ。まずは落ち着いて、状況を確認する方が先だ。お前の力も必要だ。良いな?」
「……う、うん。ごめん、僕取り乱しちゃって」
「皆が逃げ出した事で雰囲気に呑まれてしまったのもあるんだろうさ。それにこの状況じゃ、落ち着いてる方がおかしいんだ。気にしなさんな」
分かってくれたらしく、落ち着きを取り戻した猛に笑いかけた。
「健二はよく逃げなかったな」
「そりゃお前、パニック中に動かないの何て常識だろうに。それに何処に何がいるのか知らんけど、此処にも化け物がいるんだし、一緒にいて守って貰った方が良いに決まってあだっ!」
にやりとむかつく笑みを浮かべる健二を、飛鳥は無言ではたいた。
「誰が化け物だ、誰が」
「お前に決まってるだろ。お前に。人間様に見えない速度で動いてる時点で十分化け物何だよ」
「……あーもう良いわ」
本人を目の前にして化け物と言いながら、その化け物に守って貰おうと堂々と口にする健二のあまりにも明け透けな態度に、飛鳥も何も言う気にならず窓の外へと目を向けた
。この実験室は管理棟にあるので、教室棟の様子が一部ではあるが見える。未だ悲鳴や怒号は鳴りやまず、学園中で騒ぎが起こっているようだった。
何が起こっているか少しでも把握しようとして、窓の外に視線を向け―――凍りついた。
「飛鳥、何か見え―――」
同じく外の様子を確かめようとした健二もやって来るが、飛鳥と同じように外へと視線を向け、身体を凍りつかせた。
外は信じがたい光景で一杯であった。教室棟から飛び出していく生徒達を、次々とふらふらと歩く人間が捉え、噛みつき、喰らっている。
そしてその生徒に襲いかかっている者達は、恐るべき姿をしていた。一見姿形こそ人間だった。だが、すぐにそれは否定される。彼等が人間の筈が無い。人間であれば、生きていられる筈が無い。そう、襲いかかっている者達は、それぞれ程度の差はあれど、明らかに人間であれば死んでいなければおかしい傷を負っていた。中には、一見無傷のものいたが、人間に喰らいついている時点で人間では無い。
ある者は腹から腸が引きずり出されているのに平然とそれを引き摺り、ある者は首筋を齧り取られ、ある者は身体に穴を開け、ある者は肋骨を剥き出しに、その様に人間であれば明らかな致命傷を負っているであろう者達が、平然と闊歩し、生きている者に襲いかかっているのだ。
ある者は抱きつかれ、首筋に噛みつかれて絶命し、ある者は手や足を掴まれて引き倒され、多数のふらふら人間に喰いつかれ、至る所に喰らいつかれている。
これだけでも信じがたい光景だと言うのに、飛鳥達の前で更に信じられない出来事が起こる。
今まで襲われ、喰われていた生徒達が起き上がり、新たにやって来る生徒達を、一緒になって襲い始めたのである。
「な、何だよあれ……あ、あれ…明らかに、し、死体だよな? それが動いて人を襲って、その襲われた奴も、一緒になって他の奴に襲いかかるとか……信じられねぇよ!」
さしもの健二も眼の前の光景には平静でいられず、顔を真っ青にさせて歯をがちがちと鳴らしている。
飛鳥もこれを見て内心酷く動揺していたが、何とかそれを押し隠して平静を装う。無意識に乱れそうになる呼吸を整え、気を落ち着かせる。
「……な、何これ」
飛鳥達の様子がおかしい事に気づいた猛も、恐る恐る窓の外に視線を向けて、阿鼻叫喚の凄まじい光景に、尻餅を付いて後ずさり、胃の中の物をぶちまける。
ついさっきまで平和だった学園が、たったの数分で地獄のような光景に成り果てている。飛鳥は、祖父の言っていた不吉な予感はこれだったのだと、今理解した。
「―――これが、騒ぎの原因か」
「こ、こんなのどうしろって言うんだよ。どうする、飛鳥…。やべぇよ、こんなのありかよ…! どうすりゃいいんだよ、飛鳥!」
「落ち着け! 俺だってどうすりゃ良いかわかんねぇよ! そもそも頭脳労働はお前等二人の仕事だろ!」
「んなっ!? 何人任せにしようとしてんだ!? こういうとんでもない事態が起きた時こそお前が日々あの爺さんとやってる人外バトルの成果を出す時だろうが! この脳筋ッ!」
「人任せにしようとしてるのはお互い様だろーに! つーかそれ何て漫画!? 誰もこんな事態想定してねぇよ! それに誰が脳筋だっ!? 少なくとも成績は中の上だ!」
「はっ、主席で入学した俺様からすれば中の上何て成績じゃ赤点とかわんねぇよ! 大体お前はこないだラーメンを食いに言った時も思ったがな―――」
深刻なやり取りから脱線し、関係の無い事を罵り合う。こんな状況だと言うのに実に不毛な会話である。
それを胃の中の物を吐きだしながら、聞いていた猛だが、この二人の馬鹿なやり取りのお陰で落ち着いて来た。どうして深刻な話から家で飼っているそれぞれのペットの自慢に発展するのか、猛には極めて理解しかねたが、お陰で落ち着いた。
そして同時に、自分の何よりも大切な存在、佳代の事が気にかかる。こんな状況だ、佳代がどうしているかなど分からないし、分かった所で猛一人ではどうして良いか分からなかっただろう。でも、猛には仲間がいた。頼りない己を何時も助けてくれて、仲間と認めてくれるとても頼りになる友人達が。平静であれば、だが。
「二人共、落ち着け! 今はそんなどうでも良いやり取りをしてる場合じゃないでしょ!?」
「「どうでもよくねぇ! どちらのペットが優れているか―――」」
どうでも良い話を続けていた二人が、見事なまでにシンクロした動作で振り返り、しっかりと立ち上がっている猛の顔を見て押し黙った。
猛の顔は、先程とは違う意味で恐怖に染まっていて、見るからに焦燥感を感じているのが分かる。何をそんなに焦っている――と考えた所で、飛鳥と健二は当然、お互い共通の人物に行き着いた。
「そうだ、佳代先輩!」
「糞ッ! 失念していたッ…。教室を飛び出して無きゃ良いが……」
顔を蒼褪めさせる健二と、こんな状況とは言え、いや。こんな状況だからこそ、忘れてはならない人物の事を忘れていた事に、苛立つ飛鳥。
幾らこのような状況で動転していたとはいえ、大事な友人の大事な人で、飛鳥自身も良い人だと好意を抱いていた相手なのだ。だが、後悔している場合では無い。
一秒でも早く、佳代の安否を確かめなければ―――。
「猛、携帯で佳代先輩に連絡を! 健二、使える物を探すぞ」
「うんっ!」
「あぁっ!」
猛はすぐに携帯を取り出して佳代に電話をかけ、二人は掃除ロッカーを漁ったりしながら使える物を探す。
武器として使えそうなのは、幸い幾つかあった。モップ二本に、自在箒一本。自在箒はプラスチックで心元無いが、モップの方は金属だ。十分武器となる。
刀を教室に置いて来たのは痛いが、今は気にかけている場合では無い。武器を発見した飛鳥は少しでも動く死体に付いて情報を集めようと先程生徒達を襲っていた時の光景を思い出しながら、今下で動いている動く死体達の動きと姿を観察する。
「動きはそんなに早く無い。徒歩より少し早い程度。眼は―――見えているのか? 白濁してるがどうなんだ、あれ。あれだけ内臓物をぶちまけながら歩いてるって事は人体の急所を潰しても意味はなさそうだな…」
「つまり何をしても死なないって事か!?」
「まだ決まった訳じゃない。焼いたりすれば倒せるかもしれないし、硫酸か何かぶちまけて見ても良い。それか五体をばらばらにでもすれば流石に動けないだろ」
「ば、ばらばらって、お前……。いや、そうだな。相手は人を襲う化け物だもんな…。幾ら人の姿をしてても……。それよりも硫酸か。奥の部屋にあった筈だ」
「いや、やめとけ。持ち運びずらいし、相手にかけるにしても、やりづらい。下手にかけようとして自分にかけたら洒落になんねぇよ。通じるかどうかも分からないしな」
震えながらも覚悟を決めた表情で、奥の部屋へ向かおうとする健二を飛鳥が制止する。
戦闘に関する事なら飛鳥に一任するべき、長年の付き合いである健二は、疑う事無く飛鳥の言葉に頷いた。
「駄目だ、飛鳥君! 佳代ちゃん出ないよっ!」
「落ち着け。逃げているのか、気づかないのか、授業中だったから、鞄かロッカーに入れっぱなしにしている可能性だってある」
「そ、そうだよねッ! でもそれじゃあ尚更急がないと!」
「あぁ、分かってる。先輩が何の授業をしていたか分かるか?」
「ごめん、分からない!」
「いや、普通分かんなくて当然だ。一応聞いてみただけだ」
「おい、飛鳥! あれ!」
猛と話を続ける飛鳥に、健二が切羽詰まったように声をかける。飛鳥が話している間、少しでも情報を集めようと窓に張り付いていたのだ。
健二が指を指す方には、小柄女生徒に手を掴まれ、丁度引き倒される大柄な男子生徒の姿あった。必死にはねのけようともがいているが、逆に抑えこまれて首筋に噛みつかれてしまう。
「あ、あぁ。あいつ、確か同じ中学のレスリング部だぜ。県でも結構強かった筈だ」
「…力も尋常じゃ無いみたいだな。俺はともかく、お前等は掴まれたら振りほどくのは容易じゃ無さそうだ」
これ以上は探った所でどうしようも無さそうだし、最早留まる理由も無い。
一刻も早く佳代を探しに行かねばならなかった。
「出る前に情報をい纏めるぞ。動く速度は徒歩程度、此方をどうやって判別しているかは分からない。だから例えあいつ等が後ろを向いていても注意しろ。元々死んでるから心臓とかを潰しても意味は無さそうだ。
そして一番注意しなければいけないのは、連中の力だ。恐らく死んだ事によって痛覚とかが無くなって怪力を出せるようになっているんだろう。だから、無理して倒さず捕まらないようにする事だけ考えろ。棒で押し返すとか方法は各自で。とにかく捕まるな。あいつ等の相手はできる限り俺がする。良いな?」
飛鳥と猛はモップの柄を、健二は箒の柄を携えて、しっかりと頷いた。
それに飛鳥も頷いて答える。
「猛は俺の後ろに、殿は健二! 健二は後ろに気を配りながら付いて来い! 一瞬たりとも気を抜くなッ!」
飛鳥の声に、二人が応じるように力強く承諾の声をあげ、三人は実験室から飛び出した。
三人が目指す人物が、無事である事を祈りながら―――。