→1.紫藤先生を射る
2.紫藤先生を射ない
習慣というのは不思議なものだ。
例え意識が沸騰して半ば我を失った状態であっても、身体は練習していた通りにいつもと同じ手順を踏み、あたしは最高の射を行っていた。
距離は目測で凡そ六十mほど。弓道の遠的とほぼ同じだ。
殺意を乗せた矢が、獲物へ襲い掛かる猛禽の如く<奴ら>の間を抜けて紫藤先生目掛け飛翔していく。
「……っ!」
あたしの眼は、紫藤先生が飛んでくる矢を見て眼を見開いた瞬間を捕らえていた。
肉を抉り、骨を貫く生々しい音が響く。
頭に矢を生やした紫藤先生がゆっくりと倒れ付した。
突然起きた殺人に、必死で走っていた生存者たちが急停止する。
同時にあたしの意識が現実に帰ってくる。
不思議な体験も、根拠のない意味不明な衝動に従って殺人を犯したという事実も鑑みることなく、あたしは彼らを見て反射的に叫んでいた。
「走りなさい!」
朗々と響き渡るあたしの声。
遠くから紫藤先生の遺体とバスにいるあたしを見比べている彼らに、あたしはもっと大きな声で叫んだ。
「生き残りたければ、走りなさい!」
あたしに対する恐怖より、迫る<奴ら>に対する恐怖の方が勝ったのだろう。
必死に走り出した彼らはバスに辿り着き、乗り込んでくる。
車内に漂う異様な雰囲気を無視して、あたしは鞠川先生に叫んだ。
「全員乗りました! 出してください」
「行きます!」
運転することに集中していて一連の出来事に気付いていない鞠川先生がギアを入れ、クラッチを踏んだままアクセルに足を掛ける。
「あれはもう人間じゃない……」
アクセルを踏み込み、クラッチを緩める。
「人間じゃない!」
急発進したバスは、前にいた<奴ら>を跳ね飛ばして走り出した。
前世の記憶に残る紫藤先生の台詞が、あたしの脳裏に不気味に響く。
『生き残るためにはリーダーが絶対に必要です。目的をはっきりさせ、秩序を守らせるリーダーが……』
その紫藤先生を、あたしは殺してしまった。これからどうなるのだろう。
多種多様な問題を抱えながらも、あたしたちを乗せたバスはこうして無事学校を脱出したのだった。
□ □ □
バスは人気の無い道路を走っていく。
鞠川先生の車はオートマだったようで、初めのうちは鞠川先生はマニュアル車の運転に慣れない様子で何度かバスをエンストさせていたが、今はそれもなく軽快に走っている。
あたしはついさっきまで皆に問い詰められていた。紫藤先生が足を挫いた生徒を見捨てたことを原作から思い出して、前世の記憶のことは隠して実際にその行為を見てしまったから直感的に危険だと思ってやってしまったと説明した。
信じてもらえたかどうかは定かではないが、一応今は追求は収まっている。
コンビニ発見。お菓子食べたいなぁ。
殺人の余韻が消えず震えて思うように動かない手を皆から隠してそんなことを現実逃避気味に考えていたら、鞠川先生が道路をふらふら歩いていた人影を思い切り跳ね飛ばした。
……<奴ら>だよね? 人じゃないよね?
思わず額に汗していると、怒鳴り声が響く。
「だからよぉっ、このまま進んだって危険なだけだってば!」
振り向けば不良っぽい男子生徒が立ち上がって周りをねめつけていた。
運転している鞠川先生がこちらをバックミラーでちらちらと窺っている。
集中してください。事故ったら怖いんで。
冴子は我関せずで木刀の血を拭っているし、あたしはあたしで今は亡き紫藤先生が連れてきた生徒たちの視線が鬱陶しくてたまらない。
「だいたい何で俺らまで小室たちに付き合わなけりゃならないんだ? お前ら勝手に街に戻るって決めただけじゃんか! 寮とか学校の中で安全な場所を探せばよかったんじゃないのか!?」
トラックが事故って道路を塞いでいたので鞠川先生がハンドルを切ると、トラックの陰から乗用車が飛び出してきた。
急ブレーキがかかり、外から罵声が聞こえてくる。
「……五月蝿いなぁ」
ただでさえ紫藤先生を殺してしまったことで、自分でも分かるくらい情緒不安定になっているあたしは、外にも中にもイラッとして呟いた。
ちらりと心配そうにこちらを見てくる冴子に微笑んで何でもないと首を横に振ると、あたしはなるべく冷静さを保つよう心がけて車内でがなり立てる不良生徒に眼を向ける。
「このバスに乗り込んだのはあたしたちが最初だし、あんたたちが乗るまでの道を切り開いたのもあたしたちよ? 別に付き合えとは誰も言ってないんだから、嫌なら降りればいいじゃない」
「人殺しに言われたくねえよ! お前こそ降りろ、この犯罪者が!」
「何ですって?」
かなりカチンときた。
「このまま進んでも危ないだけだよ……さっきのコンビニとかに立て篭もった方が」
根暗そうな男子生徒が恐る恐る言う。
「今からだって遅くない! 俺は……」
あたしたちよりも先に、鞠川先生の方が限界だった。
慣れない運転で神経を擦り減らしてるっていうのに、車内はこんな状況だ。無理もない。
鞠川先生はバスを乱暴に路肩に止めると、こちらを振り返って怒鳴る。
「もういい加減にしてよ! こんなんじゃ運転なんかできない!」
見かねたのか、井豪が険しい顔で立ち上がった。
優男風な甘いマスクに反してガタイが良い井豪に気圧され、不良生徒が焦って叫ぶ。
「んだよぉっ、やろうってのか!」
「ならば君はどうしたいのだ?」
木刀を拭い終えた冴子が不良生徒に眼を向ける。
曇りの無い凛とした眼に見据えられ、不良生徒がたじろぎした。
我に返ったように慌てて小室を指差す。
「気にいらねーんだよ! こいつが気にいらねーんだ! 何なんだこいつさっきからエラそうにしやがって!」
どこからどう見ても言い掛かりです本当にありがとうございました。
いきなり因縁をつけられれば小室も黙ってられないわけで。
「何がだよ? 俺がいつお前に何か言ったよ?」
「てめえっ!」
一触即発の空気にモップの柄を手に持った麗が無言で席を立った。
つかつかと不良生徒に歩み寄ると、おもむろにモップの先で思い切り脇腹を抉る。
わーお、冷静な顔してキレてらっしゃる。
最後の自制が働いたのか、辛うじて尖った金具の部分を打ち込むのは避けたようだけど、それだけだ。
不良生徒はバスの床に倒れ込み、胃液を吐いて身悶えている。
「……最低」
倒れ付す不良生徒を見下げ、麗が絶対零度の声を出す。井豪がぽんぽんと慰めるように麗の肩を叩く。
ゼーゼーという不良生徒の呼気が響く中、車内に何ともいえない空気が流れた。
ううむ……紫藤先生のことは好きじゃなかったが、あの人のいうことは、一部だけならその通りだったかもしれないな。
あたしは立ち上がり、皆が注目するように声を張り上げた。
「みんな聞いて。人数が増えてきたし何かあるたびにこうやって意見が衝突するんじゃ、この先行き先を決めるだけでも大変だと思うの。多数決でも何でもいいから、意見を纏めるリーダーみたいなのを決めた方がいいと思うんだけど……」
真っ先にあたしに反応したのは高城だった。
「リーダーねぇ。構わないけど、候補者はどうするの? 下手したらその時点でまた揉めるわよ?」
スクールバッグから授業で使っていたノートを取り出し、あたしは白紙の部分を破った。
「とりあえず、自薦他薦どっちでもいいから、匿名で書いてみて。後で集計するから、一番多かった人が暫定的にリーダーになるってことで。あ、他人と相談するのはなしね」
腕を組んでいた冴子があたしを見る。
「もし票数が一番多かった人物が拒否したらどうなるのだ?」
「そうしたら、次に多かった人をリーダーに指名してもらうわ。それで、拒否した人にはリーダーの補助についてもらう。人望はあるってことだから、それくらいはしてもらわないと」
事態を静観していた井豪が立ち上がり、あたしがしている紙を人数分に分ける作業を手伝い始める。
「このまま立ち往生しててもいつか<奴ら>に追いつかれる。とにかくやってみよう」
こうして、『第一回リーダー決め選挙』が行われたのだった。
□ □ □
集計した投票結果は以下の通りである。
冴子……四票
井豪……三票
小室……三票
あたし…五票
その他…二票
つーことは……?
「君で決まりだな」
冴子が笑みを浮かべて言ってくる。
「あ、あれ……?」
自分に票が集まるとはまったく思っていなかったあたしは、思わず冷や汗をかいた。
そもそも大人なのに鞠川先生に全然票が集まっていないのは何故だろう。天然で普段が頼りないからか。
「こんなの言い出しっぺに票が集まるに決まってるじゃない」
狼狽するあたしを見てにやにやと高城が笑っている。
「いいんじゃないの? 御澄さんなら三年生だし、弓道部でも部長してるんでしょ?」
一番年上であるはずの鞠川先生は運転席からこちらを振り返り、のほほんとしている。
後から来た人たちがあたしに投票するとは思えないから、どうやら主人公組メンバーの殆どがあたしに入れたらしい。
「ででででもあたしには拒否権がっ」
「私はやらんぞ。柄ではない」
指名する前に冴子に否定された。ちくしょー。
「あの、やりたくないなら俺やりましょうか……?」
苦笑して井豪が手を上げた。
三票で並んでいるのが井豪と小室だから、指名はこの二人から選ぶことになる。
前世の記憶は確かではないが、原作ではこの時点で井豪が死んでいたから、時が経つにつれて自然と小室がリーダー的存在になっていった気がする。
責任感があり実力もある冴子とよく一緒に行動するようになり、ついには神社で一泊した時に冴子の秘密を聞いて、全てを肯定してハートをがっちり掴むのだ。冴子に関係することなのではっきりと覚えている。
これを壊すには、まず冴子と小室を一緒に行動させないようにするのが一番だ。でも井豪をリーダーに指名するのはあまりよくない気がする。井豪がリーダーだと、麗がますます井豪に夢中になって小室を蔑ろにするかもしれない。そうなると、かえって小室が冴子に転がる可能性がある。麗にはぜひとも小室に振り向いてもらわないと。
そのためには井豪と麗を何とかして別れさせないといけない。麗は今の時点でもちょっと小室が気になってるみたいだから、やり方次第ではどうにかなりそうなんだけれど……。
誰かを焚きつけてみるか? 井豪は見目良し、頭良し、運動神経良しの優良物件だから、意外と乗ってくれるかもしれない。
……そういえば、後から来た中に同学年の夕樹美玖もいたような。同じクラスになったことはないけど、冴子とは違う意味で目立つ美人だから名前くらいは知っている。
暴走族とつるんでるとか、ヤクザの知り合いがいるとか黒い噂が耐えない娘だけど、今となってはそんな噂には何の意味も無いし。
まあどちらにしろ、頼むならまずは仲良くなってからだなぁ……。
いけない、つい考え込んでしまった。
「ごめん。冴子が無理なら小室君に頼みたいんだけど、いいかなぁ?」
「えっ、俺ですか?」
事態を見守っていた小室が素っ頓狂な声を上げた。
「うん。だって小室君っていざという時決断早いし結構行動力あるでしょ? 学校から脱出する時も、1人で正面玄関開けようとしてくれたし。なかなかできることじゃないと思うよ」
「それは……別に、そんなつもりじゃ。あれも結局やったのは御澄先輩だったし」
困った顔の小室は、がりがりと照れ臭そうに頭をかく。
井豪の傍にいた麗がハッとした顔をする。そしてその時のことを思い出したのだろう。井豪から顔を背けて、少し切なそうな顔をした。
あたしはそれを見ながら、小室に近付いて彼の耳に顔を寄せ、彼にしか聞こえないように耳元で囁いた。
「良いところを見せて麗を振り向かせるチャンスよ?」
小室の目が大きく見開かれる。
愕然とした顔でこちらを振り向き、あたしを見つめてくる小室に、あたしはにっこりと微笑んだ。
しばらく考えていた小室が厳しい顔で重々しく頷いたのを見て、あたしは皆を見回した。
「決定だね。リーダーは小室君で、彼をあたしが補佐するから。皆も協力してね」
さすがに後から合流した組は全員が全員賛成しているような顔ではなかったが、代案も無いようで黙っている。
「じゃあこれからどうするかだけど、小室君、決めてくれる?」
小室が答える前に、黙っていた麗が声を上げた。
「あの、ちょっといい? どこに向かうにしても、こんな大人数になると思ってなかったから、学校から持ち出してきた食料じゃ一日も持ちそうにないの。少し戻ればコンビニがあるから、そこで何か買っていった方がいいと思う」
麗の提案を聞いた小室は言った。
「なら僕が買い出しに行くよ。麗、ついてきてくれるか?」
「え? ……ええ、分かったわ」
「俺は行かなくていいのか?」
「永は皆を見ていてくれ。人数が多いから、先輩たちだけじゃ大変だと思う。買い出しするだけなら二人で充分だ」
ふと思いついて、あたしは後続組に目をやる。
「あ、そうだ。うちらは小室が携帯持ってるんだけど、そっちは誰か持ってる人いる? いれば小室と番号交換しといて欲しいんだけど」
「わたし持ってるわよ」
そう言って携帯を掲げたのは、夕樹美玖だった。
小室と夕樹が番号を交換する。
あたしは皆を見回した。
「じゃあ見張りはあたしと冴子と井豪でやろうか。小室たちが買い出しに行ってる間、もし<奴ら>を見つけたら夕樹に伝えて。夕樹は小室に連絡して呼び戻してちょうだい。戻ってくるまで平野はバスからあたしたちを援護。小室たちを回収しだいここを離れるわ」
黙って事態を静観していた冴子が口を開いた。
「小室君らが帰ってくるまで、バスが持ちそうにない場合はどうする」
「無ければいいとは思うけど、もし小室たちが間に合わないようだったら先に出発する。連絡を取って別の場所で落ち会いましょう」
□ □ □
バスは来た道を戻り、コンビニの前で停車する。
ちょうど<奴ら>らしき人影を跳ね飛ばした場所で、顔が潰れた死体が近くに転がっていた。
「それじゃ、行ってくるよ」
麗を連れて、小室がバスを出てコンビニに歩いていく。
あたしと冴子、井豪も降りてバスの回りに陣取った。
<奴ら>を呼び寄せないためにバスのアイドリングもストップさせているため、車の音もなく辺りは静けさに満ちている。
安全とは言えないが、学校を脱出するまでの危険に満ちた時間に比べれば、今の時間は平穏といえるものだった。
「御澄?」
「ん?」
バス内から呼びかけられて振り向くと、窓を開けて夕樹があたしを見ていた。
「あれ、どうしたの? 小室から何か連絡でもあった?」
「ううん、今のところは何も」
それきり夕樹は黙りこくっている。
なんだなんだ。いったいどうしたのさ。
「これあげる」
窓から投げられてきたものを反射的に受け取る。
「ガム?」
何の変哲も無いよくある細長い板状の小さなガムだった。
自分も食べている最中のようで、夕樹はガムを膨らませる。
「今皆に配ってんの。本当は自分だけで食べるつもりだったんだけど、わたしらのために食料買い足してくれるみたいだし、これくらいしといた方がいいかなと思って。これでも感謝してんのよ、バスに乗せてくれたの」
「成り行きだったし、別に気にすることないわよ」
「あんたが気にしなくたって、わたしは気にするの。他の皆だって同じよ。だから、気にしなくてもいいと思うわよ? 紫藤を殺したこと」
「別に、気にしてなんか……」
夕樹はバスの窓枠に肘をつき、顎を乗っけた。
「これでも見直したのよ。あんた、今まで毒島たちと同じ優等生だと思ってたけど、わたしたちみたいに結構イカレタところあるんじゃない」
それであたしは理解した。
ああ、そうか。知り合いだったわけでもないのに急に馴れ馴れしくなって妙だと思ったら、夕樹はあたしを同類認定したんだな。
「一応褒め言葉として受け取っておくよ。ガムありがとうね」
あたしが礼を返すと、夕樹はニッと笑って窓を閉めた。
包装を解いて口にガムを放り込む。噛んでいくと、口の中に爽やかな柑橘系の味が広がった。結構美味しい。
再び回りの風景を見ながら、感慨に耽る。
見た目でちょっと敬遠してたけど、夕樹ってちょっといい奴だなぁ。原作だとどんな奴だったっけ? そもそも出てたかな……。
そんなことを考えながら遠くを見ていたあたしは、ふと、バスが走っているのを見つけた。バスは時折り危なっかしく蛇行運転しながら、かなりの勢いでこちらに向かってくる。
まだしばらくかかりそうだけど、このままだとあたしらのバスに激突するかもしれない。
「何あれ……危ないな」
呟き、眼を凝らす。昔から視力には自信がある。モンゴルの遊牧民並と言われたこともあるくらいだ。
「……っ!」
顔が強張るのが自分でも分かった。
急いでバスに戻り、手鏡を開いて化粧を直していた夕樹に叫ぶ。
「今すぐ小室たちを呼び戻して! 前から<奴ら>満載のバスが暴走しながらこっちに向かってる! 下手するとこのバスとぶつかるよ!」
車内にいた全員がぎょっとしてあたしを見た。
我に返った夕樹が、慌てて携帯を操作し始める。
鞠川先生が急いで運転席に戻り、「えーとABC、ABC」と呟きながら発車の準備を始めた。
遅れてバスに気付いた冴子と井豪が車内に戻ってくる。
「2人はまだ戻ってないのか!?」
井豪が車内を見回し、携帯を耳に当てた夕樹に駆け寄っていった。
冴子があたしの前にやってくる。
「嬌! 前方からバスが来る!」
「あたしも見たよ。今報告して、鞠川先生が発車の準備をしてる。小室たちが戻り次第全速力で逃げるよ」
鞠川先生がこちらを振り向いて叫んだ。
「いつでも出れるわ!」
夕樹を急かしていた井豪が振り返って叫ぶ。
「待ってください! まだ麗と孝が戻ってません!」
窓から身を乗り出して前方を見ていた高城がこちらに振り返った。
「早く出ないと大惨事になるわよ!」
携帯を耳に当てている夕樹が立ち上がった。
「繋がったわ! もしもし、聞こえる!?」
『聞こえてます! 何があったんですか!?』
通話をオープンにしているようで、かなりの音量で小室の声が携帯から聞こえてきた。
「前から<奴ら>がいっぱい乗ってるバスが走ってきてるの! コントロールを失っていて、このままだと接触するわ! 逃げるから早く戻ってきて!」
『っ! すぐに戻ります! 麗、早く来い!』
震える手で携帯を畳もうとした夕樹にあたしは叫んだ。
「通話はそのままで! 小室君もよ!」
平野が窓から出していた釘打ち機を仕舞った。
「かなり近付いてきてる! 急がないと間に合わなくなるよ!」
後発組の女子生徒2人が目を閉じて両手を握り締め、ガタガタ震えている。
麗に悶絶させられた不良生徒が動揺した様子であたしの肩を掴んだ。
「おっ、おい! 大丈夫なのかよ! 小室たちなんか放っておいてさっさと逃げた方がいいんじゃないのか!?」
あたしは不良生徒を睨みつけて肩に置かれた手を振り払い、前方のバスを見る。最初の時とは違い、目を凝らさずとも車内の惨状ははっきりと見えるようになっていた。
窓ガラスに大量の血液と血の手形がこびり付いている。窓を叩きながら絶望の表情で泣いている遊び人風の男がいた。<奴ら>にあちこちを掴まれて泣き叫びながら、若い女性がそれでも必死に逃げようとしている。<奴ら>に集られ、運転手は運転どころではないようだ。
もう迷っている時間はない。これ以上待てば、あたしだけでなく冴子が危険に晒される。
一瞬の逡巡のうち、あたしは決断を下す。
「もう無理です! 鞠川先生、出してください!」
「また急発進になるわよ!」
鞠川先生がバスをUターンさせ発進させた。
『待ってください! 今外に出たところなのに──!』
夕樹の携帯から小室の焦った声が聞こえる。
結果的に、この判断で稼いだ距離があたしたちの命を救った。
マイクロバスが走り抜けた後、道路に放置されていた車に<奴ら>を乗せたバスが激突し、部品を撒き散らせながら横転したのだ。
横転したバスはガソリンに引火したのか、轟音ともにオレンジ色の炎を噴き上げて炎上した。
鞠川先生にバスを停止させ、冴子が木刀を手にドアを開けて外に出る。
「小室君、大事ないか!?」
ちょっ! 冴子! せっかくあたしが一生懸命邪魔してんのに、素でフラグ立てんな!
焦るあたしの内心など分かるはずもなく、炎の中から出てきた燃え上がる<奴ら>を見て、冴子は無言で木刀を構えた。
燃え上がるバスの向こうから、小室の声が響いてくる。
「警察で……! 東署で落ち会いましょう!」
「時間は!」
「午後5時に! 今日が無理なら、明日の同じ時間で!」
揺れる炎の間から一瞬だけ、小室の顔が見えた。
冴子がバスに戻り、ドアをしっかりと閉める。
「鞠川校医! ここはもう進めない! 戻って他の道を!」
「皆何かに掴まって! 発進します!」
再びの急加速。
バスが走り出した。