1.下り階段に飛び込む。
→2.廊下側に飛び退く。
冴子のように上手く着地する自信がないあたしは、遠くの下り階段に飛び込むのを諦め、より近い廊下側に飛び退いた。
<奴ら>や机の殆どは壁に激突して止まったが、机の幾つかは衝撃で跳ね返って、あろうことか冴子がいるはずの下り階段をさらに転げ落ちていった。
「さ、冴子、大丈夫!?」
慌てて崩れ落ちてきたバリケードに近寄って階段を覗き込むと、壊れかけた机の傍に少々青い顔の冴子が立っているのが見えた。
どうやらさすがの冴子もこれには肝を冷やしたらしい。それはそうだろう。いくらなんでも、まさか机が追いかけてくるとは思うまい。あたしだったら1発目は避けられても、2発目はきっと当たっていたと思う。
青い顔の冴子はバリケードの残骸からあたしに視線を移す。
「私に怪我は無いが……君の方こそ大丈夫か?」
「あたしは平気よ。ちょっとびっくりしたけど」
「それは良かった。私も咄嗟に身体が動いたから良かったものの……避けられなかったらと思うと今でもぞっとする」
よく見れば、冴子の膝は微かに震えている。余程怖かったのだろう。冴子だって完璧じゃないから、当然だ。
あたしの視線に気付いたか、冴子が恥ずかしそうに僅かに頬を染め、膝に力を入れて震えを無理矢理押さえ込んだ。
「……みっともない所を見せてしまった。すまない」
普段見せない冴子の弱みに胸がキュンキュンしていたあたしはいささか脳が沸いていたようだ。
思っていても口には出さないようなことを言ってしまう。
「別にいいわよ。そんな冴子も可愛いわ」
言った後で、我に返って自分で照れた。
やばい、凄く恥ずかしい。さらっと何言っちゃってるんだあたしは!?
冴子が苦笑している。あれはダメな娘を見る眼だ。早く話題を変えないと。
「それよりもどうするの? さすがにこのバリケードを越えるのは勇気がいるんだけど」
というか、バリケードの下で何かがもぞもぞ動いてる。これって明らかにまだ生きてる<奴ら>がいるよね。
下手に踏み越えたら足を取られて噛み付かれるかもしれない。そしたら<奴ら>の仲間入りだ。
あたしであろうと冴子であろうと遠慮したい。
「私がそちらへ行こうか?」
「駄目! それは絶対駄目!」
思わず叫んでしまう。
あたしの剣幕に冴子が驚いている。
仕方がないじゃないか。私が冴子を危険に晒すくらいなら、私自ら渡った方がまだマシだ。
……ああああ、迷ってるうちに<奴ら>が起き上がってきた!
慌てて距離を取る。冴子の姿は見えなくなった。
前はバリケードから這い出してきた<奴ら>がいるし、来た道を引き返してもやり過ごした<奴ら>でいっぱいだ。あたし一人で無事に通り抜けられるとは思えない。
生き残るためにはバリケードが崩れた後の階段を駆け上がるしかない。結構な数がバリケードと一緒に落ちてきたみたいだし、この階よりは<奴ら>が少ないだろう。
落ちてきた<奴ら>はまだ登り階段から遠いバリケードの残骸の傍に固まっている。今走れば通り抜けられるはずだ。大丈夫、きっと大丈夫。
「冴子! ここは別行動にしよう! 集合場所は保健室で!」
「……分かった! 私はこのまま保健室に向かう。どうか生き延びてくれ!」
決断すれば私も冴子も行動は早い。
冴子の靴音が遠ざかっていくのを聞きながら、あたしも<奴ら>がいない階段を駆け上がる。
階段を登りきって振り返れば、<奴ら>はバリケードの残骸に足を取られて立ち往生したり、無理矢理渡ろうとして転んでもがいたりしていた。
「これなら背後の心配はしばらくしなくていいかな」
呟いて深呼吸する。
気持ちは急いて走り出したいところだけど、弓を抱えてる以上速くは走れないし、射を行うにはある程度時間と距離が必要だ。
慎重に行こう。こういう時こそ急がば回れ。急いては事を仕損じる。昔の人は良いことを言う。
気合を入れ直し、あたしは歩き出した。
□ □ □
再び渡り廊下を通って管理棟に出る。
そろそろこの辺りにも<奴ら>出てくるかな、と心の準備をしていたが中々出てこない。
原作を思い出す限り生徒の生き残りは教室棟にまだ多くいるようだから、<奴ら>もそちらに引き寄せられているのかもしれない。保健室に向かった冴子が心配だが、あたし独りで戻っても<奴ら>に囲まれて喰い殺されるのが目に見えているから、今すぐ助けには行けない。
「まずは、ここが安全なうちに同行してくれる生き残りを見つけなきゃ……」
階段を下りて1階下の廊下に出る。一気に下まで行きたいが、そうすると大勢の<奴ら>と鉢合わせる可能性が高い。
フラフラと歩く男の後ろ姿が見えた。
どこか見覚えのある後ろ姿だ。健康サンダルを履いている。背格好からして生徒ではない。多分教師だろう。
距離はまだ遠い。私は廊下の端で、男は中程を過ぎている。
声をかけようとして思い止まった。
男が生きている人間か、それとも<奴ら>か遠くから見る後ろ姿だけでは分からなかったからだ。
生きた人間だったら射るのは危ないし、声をかけるのは論外だ。<奴ら>だったら気付いていない私の存在をわざわざ気付かせることになる。
無視しようにも廊下は一本道だから無視できないし、幅が狭くて気付かれずに追い越すこともできない。
仕方がないので、いつでも射に移れるように矢を持ちつつ後をつけることにした。
足音で反応されないようにすり足で移動する。
男の姿が曲がり角に消えるのを見届けながら、あたしは小骨が咽喉に刺さったような違和感を覚えていた。
何かを忘れている。それが何かは分からないけれど。
「あ、そっか! 現国の……」
反射的に口を噤む。
じっとりと汗ばみながらその場に立ち尽くすが、男が引き返してくる気配はない。
良かった。うっかり声を出しちゃったけど、遠くて聞こえなかったみたいだ。
男の正体が分かったので違和感が無くなるかと思ったけど無くならなかった。むしろ一層強くなっている。
あたしの前世の記憶が確かなら、コイツに噛まれたせいで誰かが死ぬ。
確信は持てないし、死ぬのが誰かも分からない。あたしの前世の記憶は冴子のことを除いてあやふやだ。冴子に関係する事柄ならかなり正確に思い出せるけど、それ以外は霞がかったように頼りない。
記憶にある場面が本当に起こることなのか、それともあたしのあやふやな記憶が作り出した捏造なのか、判断ができない。
それでも誰かが死んでしまうというのなら、できれば助けたい。勿論、あたしと冴子の安全を脅かさない範囲でだけれど。
半信半疑のままあたしも曲がり角に近付き、用心深く向こうを覗き込む。
男の向こう側に制服を着た男女が3人いた。
男子生徒2人に、女子生徒が1人。男子生徒2人は数回見たことがある程度だが、女子生徒の方は良く知っている。
あたしは、彼女とクラスメートだったことがあった。
井豪永。
小室孝。
宮本麗。
3人の顔と名前が目の前の情景と一致して、霞がかっていた記憶の靄が取れた。
襲われる彼ら。
前世の記憶にある漫画で、井豪永は麗を助けようとして噛みつかれ、<奴ら>になる。
──間違いない。
麗がモップの柄を<奴ら>に突き込むが、<奴ら>は倒れずに麗に手を伸ばして襲い掛かろうとした。
井豪が後ろから<奴ら>に組み付いてそれを止めている。
駄目だよ。それじゃあ、君は死ぬ。
「助けなきゃ」
八節を踏んで狙撃の体勢に入る。
丁寧に、でもできるだけ迅速に。猶予はない。彼が噛まれる前に<奴ら>を殺す。
一瞬彼に当たったらどうしようという不安が頭を過ぎったけれど、すぐに無視した。
逡巡している時間はないし、彼は冴子ではないのだ。私としては噛まれずにいてくれさえすればそれでいい。
「中れ……!」
あたしが射た矢は、過たず<奴ら>の井豪に噛み付こうとする<奴ら>の後頭部に直撃した。
よほどうまく刺さったのか、頭蓋骨を削るだけに留まらず、回りを陥没させて貫通し深く突き立っている。
ここまで綺麗に仕留められるとは考えていなかったので、思わず口笛を吹く。
井豪に矢傷を作る覚悟で二の矢を用意していたのだが、不要になったようだ。怪我をさせずに済んで良かった。
「誰だ!」
バットを握り締めていた小室が驚いた様子で振り向き、叫んでくる。
それに反応して一瞬呆然としていた井豪も我に返り、麗を抱き起こして死体に戻った<奴ら>から距離を取った後で油断なくあたしを注視する。あたしが<奴ら>かどうか確認してるのかもしれない。
麗だけが、呆けたようにあたしを見ていた。
「生きてるわよ。あたしは<奴ら>じゃない。あなたたちを助けたんだから分かるでしょ?」
彼らに近付いて、まず井豪に頭を下げた。
「ごめんね。慌てて射たけど、一歩間違えれば君に当たるところだった」
井豪が憮然とした顔でちらりとあたしの顔を見た。
「助けてくれたことは感謝する。でもどうしてこんな危ないことをしたんだ?」
「君が噛まれそうだったから。素手で<奴ら>に組み付くなんて無謀だよ。噛まれればそこで終わりなのに」
「どういうことだ?」
小室が口を挟んでくる。
あたしはそれに答えようとして、少し迷った。こればっかりは実際に目撃しないと信じて貰えないと思ったからだ。
窓に歩み寄って外を見た。ちょうど男子生徒が歩いていた。腕を噛まれているようで、左腕を押さえている。
「あれを見て」
外を歩く男子生徒を指差す。
四人で観察していると、男子生徒が突然血を吐いた。その場に倒れ、二度三度吐血した後動かなくなる。
「嘘……死んだ?」
麗が目を見開いて呟いた。
「一つ。<奴ら>に噛まれた人間は、どんなに軽傷でもすぐに死ぬ」
「そんなこと有り得るはずが……」
小室の台詞を遮って続きを言った。
「二つ。それによって死んだ人間は<奴ら>になる」
あたしたちが見守る中で、死んだはずの男子生徒が身じろぎをした。
「あっ、動き出したわ!」
「生きてるわけじゃない。ただの動く死体よ」
男子生徒は立ち上がった後、動かずに奇妙なうめき声を上げながら立ち尽くしている。
「そんな……」
絶句する麗。
茫然自失といった風の麗にあたしは言う。
「理屈に合わなくても、そういうものなんだって割り切らないと生き残れないわよ。<奴ら>はあたしたちの事情なんて鑑みてくれないもの」
会話しているあたしと麗を代わる代わる見ていた井豪が麗の傍に近寄り、袖を引いて囁く。
「今は生き残る方が先決だ。彼女の言う通りにした方がいいんじゃないか」
逃げ延びてきたらしい集団があたしたちの傍を通り過ぎ、階段を駆け下りていった。
その先で、絶叫が連鎖して上がる。
険しい顔で井豪が皆を見回した。
「こうしていても埒があかない。一先ず屋上に出て、立て篭もろう。そこで救助を待つんだ」
「立て篭もるって、そんな場所屋上にあるの?」
「天文台がある。……孝もそれでいいな?」
「ああ、構わない。多分、ここもすぐに<奴ら>でいっぱいになるだろうしな」
あたしを置いてけぼりにして計画を練っている三人に声をかける。
「相談しているところ悪いんだけどさ、お願いがあるんだ」
「何だよ?」
仲睦まじい様子の井豪と麗をどこか複雑な表情で見ていた小室が問い掛けてくる。
「友達とはぐれちゃったの。無事でいれば保健室を目指してると思うから、合流したいのよ。でも教室棟を一人で歩くのは不安で……良かったら一緒に行ってくれないかな?」
「じょっ、冗談だろ!? 教室棟なんて今頃<奴ら>で溢れ返ってるぞ!」
凄い剣幕で小室に怒鳴られ、あたしは少し鼻白む。
小室の言うことはもっともだ。誰だって、教室棟から逃げてきたのに赤の他人のためにもう一度教室棟に戻りたいなんて思わないだろう。それはあたしだって全力で同意する。
だけど冴子が教室棟にいるのだ。冴子はあたしなんかよりも遥かに運動神経に優れているし、頭が良く機転が利く。彼女のことだから保健室に辿り着くのは間違いないと思うけれど、それから先は分からない。
前世の記憶に残る漫画の中の冴子と現実の冴子はとても良く似ているし、こうなった以上同一存在であることを否定する要素はないが、紙に描かれているだけの漫画の中の冴子と違って、現実の冴子は生きている。息をして、きっと今も生き残ろうと戦っている。別れてからもう結構時間が経った。ずっと1人にしていると死んでしまうかもしれない。
あたしはその場で三人の前に膝をつき、額を頭に擦りつけた。無様だとか、情けないとか言ってられない。
「そんな……そこまでするの?」
呆気に取られたような、麗の声。
麗とは高校から仲良くなったから、麗はあたしが冴子と友達であることを知ってはいても、あたしが冴子に恋心を抱いているまでは知らない。
だから、この非常時に自分よりも他人のことを気にするあたしは麗にとって余程奇妙に映っただろう。
それでいい。別に理解なんて冴子以外の誰にも求めていないのだ。
「無理を承知でお願いするわ。あたしにとって、冴子は大切な友達なの。一緒に来て」
しばらくして、重苦しい口調の声がした。
「……女子に土下座なんてさせられない。顔を上げてくれ」
井豪は唇を真一文字に引き結び、眉を険しく顰めて苦々しい表情をしている。
「君は俺の命の恩人だ。俺たちもできることなら君の友達を助けたい。でも、今はそんな余裕は無いんだ。だから、行けない」
断られても不思議とショックは無かった。
あたし自身自分の要求が相当無茶であることは自覚していたし、冴子のことばかり考えて井豪たちの身に降りかかる危険を度外視していることも分かっている。
だから、「ああ、やっぱりな」と落胆しただけだった。
「そっか。そうだよね。ごめんね、無茶言って」
空笑いするあたしに距離を感じさせる口調で麗が問い掛けてくる。
「あなたはどうするの?」
麗は去年までのようにあたしのことを名前で呼んではくれなかった。
多分、留年の話題に触れられたくないのだろう。それとも詳しい事情を井豪たちに話していないのか。
ショックなんか受けていない。多分、あたしは笑えているはずだ。
「もちろん保健室に行くよ。心細いけど、これ以上時間をかけると冴子が死んじゃうかもしれないし。行きは大丈夫だったんだから、帰りもきっと何とかなるわ」
「……良かったら、俺たちと一緒に屋上に行こう。救助を待つにしても、先輩の友達を助けに行くとしても、まずは落ち着いて考える時間が必要だ。そう思わないか?」
井豪の言うことは最もだけど、あたしはそれに頷けないくらい、気が逸っている。冴子を一人にさせているのが、心配でたまらないのだ。
だから──。
1.一人でも冴子を助けに行く
2.井豪たちと一緒に屋上に行く