第一話選択肢
→1.効率優先。1人で取りに行く。
2.安全優先。2人で取りに行く。
冴子は心配そうな顔をして同行を申し出てくれたが、あたしが時間が惜しいからと断ると、渋々ながら納得してくれた。
こういうのは、親友としてでも冴子に大切に想われているのが分かるので嬉しい。ちょっと心が温かくなった。冴子のためにも、冴子の命を脅かさない範囲で頑張って生き延びたいと思う。
表情を改めた冴子と、最後に言葉を交わした。
「私は剣道部の部室に行って木刀を取ってくる。別行動になるが、気を抜くな。思わぬ所に<奴ら>がいるかもしれない」
「教室棟や管理棟と比べて通路が狭いものね。出会ったら逃げられない」
「そういうことだ。万が一<奴ら>がいたら呼んでくれ。すぐに駆けつけよう」
「そっちこそ1人で無理しないでね。何かあったら呼んでよ」
冴子と別れて弓道部の部室に入る。
部室の中は昨日弓道具を片付けに来た時と全く同じ状態だった。10畳ほどの部屋の中に所狭しと物が詰め込まれており、動き辛い。
あたしは弓を取り出し、ざっと状態を確認する。
この弓はついこの間手に入れたものだ。今までは使い慣れた古い弓を使っていたのだが、いい加減年季が入っていたし主将に抜擢されたので、それを機に新しい弓を購入した。今まで使っていた弓よりも扱い辛いが、慣れてしまえばそれほど気にならない。
何より良くしなり、矢が飛ぶ。今の状況では頼りになる相棒と言えるだろう。
「……問題は矢ね」
私物としては、カーボン矢を2パックしか持ってきていない。緊急事態ということで、こっそり他人の矢をパチることにする。
金属シャフト矢を3パック、カーボン矢を3パック、遠的用のカーボン矢を2パックちょろまかす。
全て1パックに6本ずつ矢が入っているので、あたし自身の矢を合わせて全部で60本の矢を手に入れたことになる。
「これでよし、と」
早速自分のカーボン矢を私物の矢筒に12本全部入れた。あたしの矢筒は小さめだが、それでも12本くらいなら楽々入る。
頻繁に出し入れすることを考えると、あまり詰め込みすぎるのも良くないので、これくらいが懸命だろう。
矢筒を背負い、残りの矢をバッグに詰める。弓を射るには1度バッグを置かなければいけないが、仕方ない。
続いてゆがけと胸当てを探そうとしたあたしは、部室のドアの外に張り付いているモノを見つけてしまい、思わず硬直してしまった。
<奴ら>だ。上唇を喰い千切られた男子生徒の<奴ら>が、歯を剥き出しにして、覗き窓越しにこちらを焦点の合わない死んだ魚の目で見ている。
「しまった、鍵かけてない……!」
あたしはドアノブを見て、反射的に思わず叫ぶ。
弓道部の部室はドアが壊れていて、鍵をかけないと押しただけで開いてしまうのだ。
<奴ら>が部室の中に入ってきたのは、あたしが叫んだのとほぼ同時だった。
出入り口は<奴ら>に塞がれている。背後の窓から逃げようと後退ったが、物に躓きバランスを崩してしまった。
「来ないで! 来ないでってば!」
部室棟に着くまで冴子に守られてばかりいたあたしは、結局自らの手を汚してでも生き残るという覚悟が足りなかったのだろう。
実際にこうして独りきりで<奴ら>に襲われて、手元に武器があったにも関わらず、気が動転してただ逃げることしか出来なかったのだから。
だから、これは当然の結果。
何とか窓際に辿り着いて窓を開けたところで<奴ら>に捕まったあたしは、無理矢理引き倒されて首元に喰い付かれ、肉を喰い千切られた。
その瞬間は、多分絶叫したのだと思う。激痛のショックで明滅する視界の中、見慣れた部室に、首から噴出す鮮血が彩りを加えるのが見えた。
「あ、あ……!」
首元の傷口から噴水のように血が噴出していくのを反射的に手で押さえるが、それこそ慰めにすらならない。手の隙間から血が溢れ、こぼれ落ちていく。
痛みを通り越して、焼け付くように傷口が熱い。そのくせ身体は急激に血を失って、末端から冷え込んでいく。声を出そうにも首元を喰い千切られたせいで、物理的にも精神的にも掠れた声しか出ない。
遠くから冴子の声が聞こえた。普段の冷静な態度からは想像もつかない、余裕を失った冴子の声。
あたしの絶叫を聞いてこちらに来ようとしているのだろう。途中の通路で<奴ら>に絡まれたのか、冴子の切羽詰った怒号が聞こえた。
こんな時にも関わらず、あたしは不思議と幸せな気分になってしまった。時間はかかっても、冴子が助けに来てくれる。あたしのために来てくれる。それがとても嬉しかった。
残念なのは、その間にあたしの身体は<奴ら>に貪り喰われてしまうだろうから、助けは絶対に間に合わないということだ。血が一気に流れ出たせいか意識がぼんやりとしてきて、もう痛みだって遠退いてきた。それだけ死が近くなっている。
死んで<奴ら>に喰われているあたしを見て、冴子は何を思うだろうか。義理堅いから、多分仇を討ってくれるとは思う。その後はあたしの死に折り合いをつけて生きるのだろう。冴子は強いから。
──あたしが死んだら、漫画通りに話が進むのかなぁ。
腹を食い破られて自分の腸が引きずり出されるのを他人事のように見ながら、あたしは最期にそんなことを思った。
DEAD END
第二話選択肢
→1.下り階段に飛び込む。
2.廊下側に飛び退く。
あたしは反射的に、廊下の方が近かったのにも関わらず冴子と離れ離れになるのが怖くて下り階段に飛び込んでいた。
冴子とは違い、飛び込んだ勢いそのままに半ば転落する形で身体中をぶつけながら無様に転げ落ちる。
「あ……ぐ……!」
止めとばかりに背中から壁にぶつかって、一気に肺の空気が押し出され息が詰まった。
「まだだ、動け!」
焦ったような冴子の声に、痛みを堪えながら顔を向ける。
駆け寄ってくる冴子の視線は、あたしの頭上に向けられていた。
「へ?」
頭上を仰ぐと、冗談のように視界一杯に机が降ってきていた。
何のことはない。雪崩のように崩れたバリケードの机の一部が、壁にぶつかったり机同士でぶつかり合ったりした結果、何の因果かあたしがいる階段の方向にさらに転がり落ちてきただけだ。
問題は、それを避ける力が今のあたしにはないということ。あたし自身結構な勢いで階段から落ちたんだ。すぐに動ける状態じゃない。
身代わりになろうと、目の前に冴子が身体を滑り込ませようとしてくるのが見えた。
あたしはその行動の意味を理解した途端、冴子を力いっぱい突き飛ばしていた。
信じられないという風に目を見開いたまま安全地帯に転がる冴子と、あたしの視線が交錯する。
その時自分がどんな表情をしていたのか、あたしには分からない。
ただ一ついえるのは、廊下の方が近かったのに、あたしは独りになるのを恐れ、冴子がいるという理由だけでわざわざ遠い階段に飛び込んだということだ。
自分の失敗で冴子の命を危険には晒せない。だから、この結末はあたしの自業自得。
机は一直線にあたしの頭を直撃する。
ごき、と異様な音がして視界が真っ赤に染まるのを最後に、あたしの意識は暗転した。
DEAD END
第三話選択肢
→1.一人でも冴子を助けに行く
2.井豪たちと一緒に屋上に行く
「……ごめん。冴子が心配だから、あたしは保健室に行くよ」
「そうか。……助けられた俺が言うのも何だが、気をつけてくれ」
井豪はそう言って、麗と小室を連れて去っていった。
協力を得られなかったのは痛いけど、仕方ない。今は一人でどうやって保健室まで辿り着けるか考えないと。
……いや、どうやら考える時間はないらしい。
あたしがやってきた方角から、バリケードを乗り越えてきたのか何人もの<奴ら>の人影が見える。
今はまだ遠いけど、ぐずぐずしているとすぐに追いつかれそうだ。
「この階段を下りていくしかなさそうね……」
生き残りの一団が駆け下りていった階段を見る。
もう悲鳴が聞こえないのは無事どこかに逃げ延びたからか、それとも生存者が一人もおらず、全員<奴ら>と化したからか。
前者ならともかく、後者だったら最悪だ。
残るは屋上に行った井豪たちと同じ道しかないが、残念なことにその先にあるのは屋上に向かうための上り階段だけで、屋上に行ってしまっては何のために無理を押して一人で行くと決めたのか分からない。
保健室に行くには目の前の階段を下りるのが一番早い。危険であることには違いないが、冴子のことを考えれば多少のリスクは容認すべきだろう。
──この時、あたしは気付かないうちに決定的なミスを犯していた。
この時保健室にはまだ冴子は着いておらず、鞠川静香養護教諭だけでなく、最終的に<奴ら>に噛まれて冴子が介錯をした男子生徒が立て篭もっている最中だったのだ。
あたしは冴子の身を案ずるあまり、そのことを思い出せずに冴子が既に保健室に着いて一人で応戦していると思い込み、盲目になっていた。
ただでさえあやふやな前世の記憶だ。冴子に関する記憶なら多少はっきりしているとはいえ、その前提も冴子を一人きりにしているというあたし自身の先入観で容易に霧の中に遠退いてしまう。
急がば回れ、急いては事を仕損じる。昔から格言になるほど同じ失敗が重ねられてきているのに、あたしは気付かないうちに昔の愚者と同じ選択をしていた。
その代償を、あたしはすぐに己の命で支払うことになる。
階段を少し降りた場所では<奴ら>が群れを成してひしめいていた。下りていった生き残りのなれの果てかどうかは分からないが、事実だけがあたしの目の前にある。
到底通れるとは思えず、焦燥を募らせながら後退しているうちに、後ろからも追いついてきた<奴ら>の足音が迫ってきていた。
気が付けば元の道に入りこんでしまっている。前後を挟まれて、もう逃げ道はない。
一縷の望みに掛けて突破しようとしたが、頼みの矢はあっという間に尽きた。
顔を強張らせ、弓を抱えたまま腰が抜けて廊下の隅に座り込んだあたしに、<奴ら>がじりじりと近寄ってくる。
最初の一体を皮切りに、次々と奴らがあたしに集い、肉を食い破った。
それで、もう何も分からなくなった。
ただ熱くて、痛くて、苦しくて、のた打ち回るあたしの肉を、骨を、臓物を、<奴ら>が無遠慮に喰い付き掴み上げて引き千切り貪っていく。
その度にあたしは生きたまま刺身にされる魚のように、びくびくと痙攣した。死ぬまでの僅かな間、血を噴き上げながら奇怪なダンスを踊った。
今日は<奴ら>のパーティーです。メインディッシュは、馬鹿な女の活け作り。
ごめん、冴子。保健室には、行けそうも無い。
DEAD END
第四話選択肢
1.井豪を援護する
→2.何もせずに待つ
ここから先何があるか分からない。
あたしはこれからのために矢を温存することにした。
放水が終わるまでの間、じっと待ち続ける。
「あらかた片付いたな。行こう」
放水を止めた井豪が音頭を取った。
「起き上がってくる奴は僕と麗で相手する」
その間休憩を取っていた小室が立ち上がる。
「二人だけじゃ危険だ。俺も前に出る。心配するな、これでも俺は空手の有段者だぞ」
「前にそう言って噛まれそうになったのは何処のどいつよ」
じとーっとした半眼の麗に突っ込まれ、井豪がたじろいだ。
「ど、どうしたんだ?」
「……別に、何も」
そこでなんであたしに視線を向けてくるんですか、麗さん。
「永。麗の言う通りだ。武器が見つかるまでは無茶しない方がいい。先輩を見ていてくれよ」
あたしと麗の間に立って、小室が言う。
何か、さり気なくお荷物扱いされてる気がするんだけど、気のせい?
まあ、弓を抱えて矢筒を担いで、スクールバッグも持ってるから、何かあった時即座に反応できない以上、お荷物と言われても仕方ないんだけどさ。
複雑な気分。
「……分かった。確かに先輩には助けてもらった借りがある」
話が纏まり、あたしたちは走り出す。
荷物ありと無しでは走力が違う。あたしはあっという間に三人から離された。
井豪だけが気付いて、戻ってこようとするのを手で制する。
「大丈夫! あたしのことは気にしないでへぶっ!?」
走っている途中で、でっぱりなんて何も無かったのにあたしはこけた。
痛いし、恥ずかしい。思わず涙が出てくる。
あたしってこんなドジッ子キャラじゃないはずなんだけどなぁ……。
「あはは、転んじゃった」
誤魔化し笑いをしながら起き上がろうとして、井豪があたしを見たまま硬直しているのに気付いた。
「どうしたの?」
尋ねるが、井豪は驚愕の表情を浮かべているだけで、じっと一点を凝視している。
その視線を追って首を回らすと、井豪の視線はあたしの右の足首に注がれていた。
足首を青白い手が掴んでいる。
一瞬の硬直の後、その意味を理解してぞわっと身体中の毛が逆立つ。
「やっ、やだ!」
慌てて振り解こうと足をばたつかせるが、手は青痣になりそうなくらいの握力でがっちりと足首を握り締めて離さない。
それどころかあたしの身体は少しずつ井豪から離れ、手の持ち主のもとへと引き寄せられていく。
「先輩!」
井豪が慌てて駆け寄ってくるが、間に合わない。
足に感じる激痛。
「いやぁぁぁぁぁぁぁっぁっ!」
何かがごっそりと欠けたかのような喪失感と、足首から焼けるような熱さの液体が溢れ出て地面を濡らしていく感触に、自分の身に何が起きたのか嫌でも理解してしまう。
まだ死んでいなかった<奴ら>に足首を捕まれて倒され、噛まれたのだ。
「くそっ! この野郎!」
すぐさまあたしの足を掴む<奴ら>の頭を、井豪が体重をかけて何度も踏み付ける。
頭蓋骨が割れ、血と脳漿を飛び散らせて<奴ら>の頭が潰れた。
「大丈夫ですか!?」
「……あはは。もう無理みたい。噛まれちゃった」
矢をケチったことを今更になって後悔する。
出し惜しみなんかせずに安全第一に動けば良かった。そうすればこんなことにはならなかったのに。
自分の判断ミスのせいだから、誰も憎めない。
沈痛な面持ちの井豪にあたしは務めて明るく言った。
「先に行って。あたしはじきに<奴ら>になる。一緒にいたら危険だよ。あたしのことは気にしなくていいからさ」
「……すみません。恩返しにも何にもならなかった」
「いいのいいの。あ、でも冴子に会ったら伝言頼めるかな。約束守れなくてごめんねって一言伝えてくれるだけでいいから」
空元気であることがあたしでも分かる酷いレベルだったけど、それでも井豪は微かに笑ってくれた。
「伝えます。必ず」
「ん、ありがと」
こちらを振り返りながら、躊躇いがちに歩いていた井豪の姿が校舎の中に消える。
それを見届けると、あたしは歯を食い縛って痛みを堪え、立ち上がった。噛まれた足を庇いながら歩き、震える手で転んだ際に転がったスポーツバッグと弓を回収する。矢は転んだ拍子に散らばってしまったが、矢筒は固定してあったので無事だった。
びっこを引きながら、ゆっくりと校内へと続くドアを目指して歩く。井豪にはああ言ったけど。あたしは生きることを諦めるなんて嫌だった。
冴子と逢えないまま寂しく独りで死ぬなんて嫌だった。
「ゲホッ、ゴホッ」
でも現実は非情で、唐突に出てきた咳を押さえた掌には、赤い鮮血がべったりとついている。
「あは、あはは、あはははは……」
知識としては知っていても、経験してみるとあまりの理不尽さに、自分の身に起きた事ながら笑ってしまう。
どんどん吐血が酷くなって、身体中の感覚が遠退いていく。あたしはドアから数メートルも離れていない場所で、べしゃりとその場に崩れ落ちた。
「参ったなぁ……あんな近くにドアがあるのに、凄く遠い……」
屋上には<奴ら>を除いてあたしと物言わぬ躯以外何も無い。
せめて<奴ら>にならないように頭を潰して自害したかったけれど、何時の間にかそんな余力すらも無くなっている。
喧騒もどこか遠く聞こえて、あたしは静かに微笑んだ。
「……」
最期に呟いた言葉は、決して冴子には届かない。
誰にも聞き届けられずに、青い空に溶けていく。
倒れたあたしに<奴ら>が近付いていく。
後には何かが咀嚼される音のみが響くばかりだった。
DEAD END
第五話選択肢
1.石井君に射る。
→2.冴子に任せる。
あたしは結局射なかった。
冴子が決めたことだ。あたしが手出しするべきじゃない。
でも本当はそんなのは言い訳で、単に自分が手を汚すのが嫌だったのかもしれない。
嫌なことばっかり冴子に押し付けて、あたしって最低な女だ。
沈んだ気持ちを引き摺ったまま、同行者に鞠川先生を加え、矢筒に金属シャフト矢を12本補充したあたしは、冴子と一緒に<奴ら>が徘徊する校舎を往く。
職員室前では、高城を守りながら井豪と平野が奮戦していた。
あたしたちがやってきたのとは違う道からはちょうど小室と麗がやってきていて、眼が合うと頷いてくる。
「右の2匹をやる!」
「麗!」
「左を押さえるわ!」
皆が飛び出す中、あたしは弓を構えずに事態を静観していた。
わざわざあたしが何かやらなくても、これだけ人数が揃っているんだし誰かが何とかしてくれると思ったのだ。
冴子が石井君を殺してから、後悔ばかりで何でか妙にやる気が出ない。
「おー、凄い」
追い詰められた高城が工作室から持ち出してきたらしい袋から電動ドリルを取り出して、<奴ら>の額にぶっ刺している。
血と脳漿と細かい頭蓋骨の破片を浴びながら「死ね死ね死ね!」と絶叫している様は物凄く鬼気迫っていた。
……あの子は絶対怒らせないようにしよう。
あ、冴子がこっち見た。やっほー。
「嬌! 後ろだ!」
「ほえ?」
自分の担当を片付けた冴子が焦燥に満ちた顔で突っ込んでくるのを見て、あたしは疑問に思った。
冴子は何であんなに慌ててるんだろう。職員室前にいる<奴ら>は全員片付きそうなのに。
首を傾げながらも振り向く。
そこには、口を大きく開けて今にもあたしに噛み付こうとしている、あたしたちを追いかけてきた<奴ら>が──。
DEAD END
第六話選択肢
1.冴子に付き添いを頼む
→2.一人で行く
あの後皆に呆れられた。
冴子にまで呆れられて、あまつさえ「今ここでしろ」などと無茶言われた。
誰もついてきてくれそうになかったので、仕方なく皆の目を盗んでバリケードを一部崩し、廊下に出た。
今は音を立てないようにゆっくり歩いて<奴ら>をやり過ごしながらトイレに向かっている。
めっちゃ怖い。気分はスネ○クだ。ダンボールとかあればいいのに。そういえば職員室にあったな、ダンボール。
アホなことを考えながらも順調に女子トイレに辿り着き、中に入る。
一つだけある洋式の便座にはそこで誰かが死んだのか真っ赤な血がぶちまけられていたので、和式の便座がある個室に入り、音がしないように注意しながら鍵をかけた。
「ふう……」
気が緩んでついため息が漏れる。目を見開いてすぐに口を押さえるが、耳を澄ませても<奴ら>がやってくるような気配はない。
今度こそあたしは大きく息をついた。ああもう、トイレに行きたかっただけなのに凄く疲れた。
便座にしゃがみ込んでスカートとぱんつを下ろし、放尿の音を消すための習慣で先に水を流す。
大きな音を立てて水が流れ、失敗に気付く。全身の血の気が引いた。
しまった、やっちゃった!
すぐにずるっずるっと何かを引き摺るような足音と、特徴的な<奴ら>の唸り声が複数聞こえてきた。
音と声がどんどん近くなってくるのを聞いて、身体ががたがたと震え出す。
その震えを何とか押し込めて、あたしはなるべくドアの遠くに身を寄せて個室の床に座り込んだ。
来ないで、来ないで、来ないで。
祈る気持ちで息を潜める。
どこか遠かった<奴ら>の声が急にクリアになった。
……トイレの中に入ってきた!
戦慄するあたしのドア越しに、<奴ら>の唸り声が聞こえる。
ここまで来て、<奴ら>はあたしがどこにいるか分からないようだった。
気付くな、気付くな気付くな気付くな。このまま出ていって。
亀のようにじっとしてドアの外に全神経を集中させるあたしは、靴越しに足に何かが乗っかる感触を感じてふと下を見た。
──ゴキブリ。
「ひっ」
思わず生理的な嫌悪感に声を上げ、足を動かして音を立てててしまう。
外の<奴ら>の声が途絶えた。
思わずドアを凝視した瞬間、ドアが猛烈な勢いで叩かれ出し、蝶番が今にも吹っ飛びそうに軋み始める。
「やっやだ!」
慌ててドアを押さえるが、持ちこたえたのは一瞬で、すぐに蝶番が吹っ飛び<奴ら>が中に入ってきた。
その後ろでは、あたしには見えなかったが私がいないことに気付いた冴子がやってきて、トイレに入ってきていた。
「助けて! 冴子、たすけ」
あたしの助けを求める声は、頭を庇った腕を<奴ら>に噛まれ、肉を喰い千切られたことによって悲鳴に変わった。
焦燥に満ちた形相で駆け寄る冴子によって<奴ら>は頭を1匹残らず叩き潰される。
「なんて馬鹿なことをしたんだ! くそ、こんなことなら初めから私がついてやっていれば……! 物音を聞きつけて<奴ら>が集まってくる、すぐに職員室に戻るぞ!」
<奴ら>が壁になってその瞬間が見えなかったのか、冴子はあたしが噛まれたことに気付いてはいないようだった。
助けが来たことで安心し、激痛とショックでパニックになるのを逃れたあたしは、脂汗をかきながらゆっくりと首を横に振る。
「ごめん、戻れない」
「どうして……っ!?」
問い質そうとした冴子の眼が、あたしの腕に吸い寄せられる。
「嬌……君は」
あたしは肉がごっそりとなくなって血が噴出している腕を冴子に見えなくなるように庇い、微笑んだ。
死にたくなかったけれど、自分の浅はかな行動が招いた結果だから仕方ない。最後に冴子を一目見れたことで、諦めはついている。
「うん。噛まれちゃった」
冴子は眼を彷徨わせ、何か言いたそうに口を開け閉めする。やがて苦い表情で口を噤むと、視線をあたしに固定した。
あたしもまた、冴子の澄んだ瞳をじっと見つめる。あたしには冴子の言いたいことの予想がついていた。そして冴子が今から何をしようと思っているのかも。
昔は遠くから、今は隣で、ずっと冴子を見ていたのだ。こういう時に冴子が考えることくらい、手に取るように分かっている。
冴子が無言で木刀を構えたのを見て、あたしは微笑んだ。
「ありがと。やっぱり冴子はやさしいね」
きっと、冴子ならそうしてくれると思っていた。冴子の手にかかるなら本望だ。
言い残したいことはいっぱいあった。謝りたいこともいっぱいあった。でも死んだ後で冴子の重荷にはなりたくない。だから何も言わずに、ただ振り上げられる木刀を見つめる。
──ねぇ、冴子。あたしね、ずっとあなたのことが
木刀が振り下ろされた。
DEAD END
第七話選択肢
1.紫藤先生を射る
→2.紫藤先生を射ない
冴子の声がした瞬間、あたしは我に帰った。
紫藤先生を殺そうなんて、冴子のためとはいえなんてことを考えていたのだろう。
慌てて弓を下ろし、ゆっくりと時間をかけて慎重に番えていた矢を弓から抜き取る。
「嬌、早く戻れ! そこは危険だ!」
焦る冴子の声に、あたしは外に出ていたことに気付いて慌ててバスの中に戻った。
「大丈夫か?」
顔を向ければ、冴子がいつもの澄んだ眼で冴子があたしを見ていた。
「違うの。あたし、別に紫藤先生を殺そうとか、別にそんなつもりじゃ」
「……調子が悪いなら席で休んでいた方がいい」
あたしの様子に眉を寄せていた冴子は、やがてあたしの頭を撫でると背を向けて離れていく。
冴子はあたしを本気で心配していたようだった。
でもいつもと同じ冴子の瞳でも、本気で紫藤先生を殺そうとしていたあたしはそこに非難の色を見出してしまい、パニックを起こして後退る。
「きゃっ」
同時に紫藤先生たちがバスに辿り着いて、ちょうど入り口を塞いで乗車を邪魔する形になったあたしは、必死な彼らによって邪魔だとばかりに車外へと引きずり落とされた。
あたしが外に落ちたのとほぼ同時に、紫藤先生が生存者を先導してバスに乗り込ませていく。
慌てて立ち上がろうとしたあたしは、右足首に鈍い痛みを感じて再びその場に倒れこんだ。
どうやら今ので足を挫いたらしい。
「た、助けて……」
次々に乗り込んでいく生存者たちに声をかけるが、皆自分が生きることで精一杯なのかあたしに眼を向けることはあっても手を差し伸べてはくれない。
最後に紫藤先生がバスに乗り込もうとした。
あたしが落ちた瞬間を見なかったのか、冴子はあたしがいないことに気付かずに紫藤先生にこれで全員か聞いている。
まだここにいるよ! あたし乗ってない!
叫ぼうとした言葉は声にならなかった。
紫藤先生に顔を靴底で思い切り踏み躙られたのだ。靴底が退けられた後で、あたしは鼻血を撒き散らす折れた鼻を押さえ、痛みに悶える。
「? 紫藤先生、今のは?」
「なあに、<奴ら>がバスの近くに来ていましたので、少し処理しただけですよ」
バスに乗り込む直前、最後にあたしに顔を向け、紫藤先生は鼻で笑った。
唇がこう動いていた。
──私を殺そうとしたお返しです、御澄さん。
愕然とするあたしの目の前でバスのドアが閉まる。
<奴ら>を跳ね飛ばし、バスが発進する。
「嬌、どこだ?」
視界から消え去る直前、バスの中の冴子はあたしがいないことに気付いたのか、心配そうな顔で車内を見回していた。
エンジン音を立ててバスが遠ざかっていく。
恐る恐る振り向けば、見渡す限り<奴ら>ばかりで、学校で生きている者はあたし1人しかいないようだった。
絶望と死の恐怖に満ちた、独りきりの世界。
「……死にたくない」
痛みを堪えて何とか立ち上がる。
バスから落ちた拍子に弓も矢も手放してしまったあたしは、挫いた足を引きずりながら、<奴ら>から少しでも逃れようと歩き出す。
「嫌だ……死にたくないよ……」
怪我のせいで満足に歩けないあたしは、じわじわと詰まっていく<奴ら>との距離に怯えていた。
「助けて……誰か助けて……」
ついに、<奴ら>の手があたしの制服にかかり、押し倒す。
「冴子ぉ……」
一つを皮切りに、次々とあたしの上に<奴ら>が群がっていく。
生きたまま喰われていくあたしの悲鳴は<奴ら>の中に飲み込まれ、春空へと消えた。
惨劇が終わり<奴ら>が散った後にはただ、喰い散らかされた躯しか残らなかった。
そしてその躯すら、やがて<奴ら>になって動き出すのだ。
DEAD END
第十話選択肢
1.皆の手を借りる
→2.先に調べておく
あたしが先に安全を確認する旨を告げると、鞠川先生は焦った顔をして引き止めてきた。
「本当に大丈夫なの? 毒島さんとか呼んできた方がいいんじゃない?」
「平気です。大体これくらいでわざわざ冴子たちの手を煩わせるわけにもいきません。鞠川先生はそこで待っててください。あ、何かあったら呼んでくださいね」
心配そうな鞠川先生を置いて、門を開けてメゾネットに入っていく。
「とりあえず、部屋までの安全が確認できればいいよね」
誰とはなしに呟いて、道中鞠川先生に聞いた部屋番号を探す。
ちょっと手間取ったが、無事に見つけることができた。
留守だったからか、この部屋は窓も割られてなくて安心して眠ることもできそうだ。何よりメゾネットだから、あたしら全員が入ってもまだ余裕がありそうなのが一番良い。
ドアの前で中を確認しようか思案する。
まあ、鍵かかってるし中にまで<奴ら>が侵入しているということはなさそうだ。鞠川先生も待ってるだろうし、早く戻ろう。
そう思って踵を返す。
「……」
立ち止まり、隣の部屋で翻るカーテンを凝視した。
気のせいか、何か、おかしいような。
割れた窓から、カーテンの陰に隠れて見えるあれは……足?
「生存者かな? それとも……<奴ら>?」
確認するべきだろうか。しないで帰るべきだろうか。
逡巡した後、あたしは確認していくことにした。<奴ら>だとしても音を立てないようにゆっくり行けば大丈夫だろう。生存者だったらできれば助けてあげたいし。
カーテンの傍に恐る恐る近付く。
すぐ傍にまで来ても布一枚隔てた向こう側にいる足の主は動く気配を見せない。
やっぱり<奴ら>なのか? それとも気付いていないだけ?
そうっと、おそるおそるカーテンに手を伸ばす。
カーテンをめくろうとすると、僅かに金具が擦れて音が鳴った。
ゆっくりと、足が動く。
「あ──」
思わずその様子をカーテンに手をかけたまま凝視してしまう。
我に返って慌てて手を放そうとして、腕を掴まれた。
「いづっ──!」
まるで万力で締められたかのような痛みと圧迫感。
やばい。コイツ<奴ら>だ!
<奴ら>は物凄い力であたしを室内へと引き込もうとする。引き込まれたら、喰われる!
あたしは腰に力を入れ、<奴ら>に少しでも抵抗しようと踏ん張った。でも<奴ら>の力は強過ぎて、地面の土を抉ってあたしの足は部屋の中へと滑っていく。
「や、やだ……! 放せ放せ放せ……!」
半ば半狂乱になって抵抗するが、どんどん部屋が近付いてくる。
風でカーテンが捲れあがる。
「……あ」
最後に<奴ら>の姿を見て、あたしは部屋の中に引きずり込まれた。
液体がつまった袋を破くような音とあたしの絶叫が部屋から響く中、カーテンがどんどん赤い色に染まってまだらになっていく。
やがて声が途絶えた時、あたしの命も終わっていた。
後はただ、ゆらゆらと佇む<奴ら>の影がカーテンに映っているだけで──。
DEAD END
第十四話選択肢
→1.冴子に頼む
2.自分が上がる
最初は姿を見せなかった<奴ら>も、車を走らせるにつれて段々その姿を見せるようになった。
東坂二丁目に近付くにつれ徘徊する<奴ら>は多くなり、車は急ハンドルを繰り返して大きく揺れる。
そのたびに天井にいる組が振り落とされそうになるが、小室も麗も冴子も良く耐えている。あわやという場面もあったが、あたしは根拠もなく冴子なら大丈夫だと信じ込んでいた。
荷物と人員で重量を増して猛スピードで走る車の慣性は、時に大事故を引き起こしかねないほど強いものだということは、少し考えれば分かりきっていたことだというのに。
猿も木から落ちる、河童の川流れ、弘法にも筆の誤り。達人も時には失敗するのだということを、あたしは全く考慮に入れてはいなかったのだ。
「わっ、ここも! もう嫌!」
「じゃあそこ左! 左に曲がって!」
何回目かの急カーブ。
車内にいて何もできないあたしは、窓から車の後方を監視する。
だからこそ、あたしはその光景を見ることができた。
急カーブをした瞬間、天井から転がり落ちた冴子が自分でも信じられなかったのかきょとんとした表情のまま、アスファルトに叩き付けられるその一部始終を。
「毒島先輩!」
──思考が凍りついた。
「止めて! 毒島先輩が落ちたわ!」
小室と麗が静香先生に必死に何か言っている。
事態を理解した瞬間、あたしはまだ止まりきっていない車のドアを開け、外に踊り出ていた。
たった今通ってきた四つ角に、冴子が倒れていた。身を起こそうとしているが、倒れた時にどこかを強打したらしく動きがぎこちない。
その冴子に向けて、たむろしていた<奴ら>がゆらゆらとした足取りで近寄って囲んでいく。
あたしは必死に走り出した。
「静香先生、クラッチ踏んでアクセルめいっぱいふかして! クラクションも押す!」
「え? え?」
「いいから早く! 音で<奴ら>を車に引きつけるの! やらないと毒島先輩が死ぬわよ!」
高城と鞠川先生のやり取りが遠く聞こえる。
すぐにエンジン音とクラクションが重なって後方で轟き、近くにいた<奴ら>があたしの足音より大きい爆音に釣られて傍をすり抜けていった。
「麗、永! 先輩たちが戻るまで車を守るぞ! 平野、援護頼む!」
小室の声を背に、あたしは一直線に冴子を目指して駆け抜けていく。
状況を素早く理解したようで、冴子は立ち上がるのを止めその場に伏せてじっとしているようだ。
ほとんどの<奴ら>は車に引き付けられたが、数匹が冴子の回りに残っていた。
咄嗟だったのでクロスボウは持ってきていない。警棒を抜いて振りかぶる。
「冴子に……触るなああああああ!」
勢いを殺さず、目の前の<奴ら>の顔を思い切り薙ぎ払った。
柔らかい何かを潰し、固い何かをぐしゃぐしゃに砕く異様な手応えが警棒越しに手に伝わる。
顔面を陥没させた<奴ら>を蹴り倒して冴子に駆け寄った。
「大丈夫!?」
「……足を捻ってしまったようだ。危険だと言って代わっておきながら、無様な真似を晒してしまってすまない」
「いいわよそんなの! 冴子が生きてくれさえすればどうでもいいことだわ!」
すぐさま冴子を抱き起こし、肩を貸して来た道を戻る。小室たちに気を取られている<奴ら>の間を抜け、何とか車内に転がり込む。
「よし、すぐに僕たちも乗り込んでここを脱出しよう!」
手際よく小室に促され、時間稼ぎをしていた面々も車内に戻る。
ハンドルを握り締めた鞠川先生が涙眼であたしたちを振り返った。
「どこに行けばいいの!? そこら中<奴ら>だらけなのに!」
最後に乗り込んだ小室が前方を指差す。
「このまま真っ直ぐ行ってください! 他のどの道も集まってきた<奴ら>で塞がれてます!」
「真っ直ぐでいいのね!? じゃあ、飛ばすわよ!」
鞠川先生が車を発進させて急加速する。
それからは急展開の連続だった。
ワイヤーが張られた道路に突っ込みそうになり、何とか止まったは良いものの急停止した反動で麗が<奴ら>が近くにいる地面に投げ出された。
ショットガンを片手に小室がすぐさま車から飛び降りて倒れた麗に駆け寄り、<奴ら>にショットガンを撃つが上手く当たらない。
同じく車の天井から上半身を出して<奴ら>に銃撃を加え出した平野から、小室はショットガンを撃つコツを教わる。
多過ぎる<奴ら>の数に冴子が足を引き摺りながらぎこちない動きで車外に出て木刀を振るおうとしたので、あたしはすぐに外に出て冴子を車内に放り込んだ。
「この馬鹿! そんなよろよろした動きで<奴ら>と戦えるわけないでしょ! ここはあたしがやるから怪我人は引っ込んでなさい!」
警棒を振り抜いて手近な<奴ら>に叩き付けたあたしは冴子にそう怒鳴るが、冴子は脂汗をかきながら強情にもまた外に出てきた。
「もはや私たちに後はない……。今戦わずしていつ戦うというのだ!」
例え本調子ではなくてもこうなったらもう冴子は梃子でも動かない。仕方なく、あたしは冴子をフォローするように動く。
小室がショットガンを捨てて地面に這いつくばり、麗の銃を使う。
高城が車内から飛び出てショットガンを広い、落ちている弾を篭めて必死の形相で発砲する。
冴子の木刀が奪われ、手近な弾薬が無くなり、あたしたちの心が絶望に飲み込まれそうになった頃、救いの手が差し伸べられた。
騒ぎに気付いた高城の母親の百合子さんが手勢を引き連れて助けにきてくれたのだ。
彼らの援護を受けて窮地を脱したあたしたちはワイヤーの向こう側に避難する。
しかし、百合子さんの手勢が<奴ら>の掃討を始める中、冴子だけが頑としてワイヤーを乗り越えようとはしなかった。
振り返ったあたしはワイヤーを隔てて反対側にいる冴子に問い掛ける。
「もう、どうしたのよ? 早くこっちにこないと危ないよ」
「悪いがそちらへは行けない」
あたしに向けて、冴子は片手をよく見えるように突き出してきた。
「……!」
冴子の手に<奴ら>に噛まれたとおぼしき傷を見つけ、あたしは眼を見開いて絶句する。
「え、どうして……!?」
「落ちてすぐにやられた。噛まれている者を安全な場所に連れて行くわけにはいくまい」
言葉を切った冴子は寂しげに微笑む。まるで、あたしたちに後を託すかのように。
「──私はここまでだよ、嬌」
「待って、待ってよ! どうしてそんなに簡単に諦めちゃうのよ! もしかしたら冴子なら<奴ら>にならないかもしれないじゃない!」
必死に説得を試みるあたしは、助けに来てくれた百合子さんに肩を叩かれた。
振り返れば、沈痛な表情で首を横に振られる。
「残念ですが、私たちの経験上噛まれた者は皆死人と化しています。可能性がある以上、彼女の言う通り噛まれた者を通すわけにはいきません」
「そういうことだ」
「……何よ、それ」
あたしは両拳を握り締める。眼からぽろぽろと涙が零れていくのが分かった。
「ちくしょう……ちくしょうっ!」
涙も枯れよとばかりに泣き叫ぶ。
本当はあたしだって分かっていた。冴子は噛まれてしまったのだ。噛まれた以上、何をしても絶対に助からない。冴子の運命はもう死で定められてしまっている。
口惜しい。冴子を守れなかった。絶対に守ると決めたのに。そのために手段を選ばずに、人殺しになってまで守ろうとしたのに、こんなところでヘマをした。こんなことになるなら、あたしが上にいた方が良かった。
ぎり、と歯を噛み締める。冴子を残して行くなんてごめんだ。冴子を見捨てて生き残るなんて嫌だ。あたしの居場所はいつも冴子の隣。それ以外居場所なんて要らない。
顔を上げ、再びワイヤーを乗り越えた。
「冴子が残るならあたしも残る」
「待て、君が私に付き合う必要はない!」
狼狽する冴子にあたしはくすりと笑った。
いつも沈着冷静だった冴子が慌ててる。何だかおかしい。
傷付いた冴子の手を取り、傷口にそっと口付ける。顔を上げ、冴子の揺れる瞳を見つめた。
「昔からずっと冴子を見てたよ。友だちになってからはずっと一緒にいたよね。──だから、死ぬときも一緒。冴子が助からないなら、あたしの逃避行もここで終わり」
「小室君……頼む。嬌を、嬌を連れて行ってくれ」
冴子が弱りきった声で小室に懇願する。
それは、親友を自分の死に巻き込みたくないという冴子の悲愴な思いが伝わってくるものだった。
今までの静謐な声とは似ても似つかない、縋るような冴子の声。
結局告白はしてないし、冴子をあたしに振り向かせる機会はもう永遠に失われたけど。嬉しいな。あたしは冴子にこんなにも想われている。
だからこそ、あたしを冴子から引き剥がそうとするのは許せない。例えそれが冴子の望みだとしても。冴子だって、我慢できるだけで1人で死ぬことが寂しくないはずがないのだ。冴子の命を守ることができなかった以上、せめて冴子を最期まで孤独から守りたい。
「止めて。もし無理矢理あたしたちを引き離したら許さないよ。冴子のいない世界なんて興味ない」
語気に篭められたあたしの怒りを感じ取って、反射的に動こうとした小室の足が止まる。
もう、冴子は何も言わなかった。ただ、無言で泣いていた。涙が頬を伝い、アスファルトに小さな染みを作っている。
あたしは振り返り、百合子さんに頭を下げる。
「おばさま。介錯を頼んでもいいですか?」
「ちょっと、何言ってるのよ!」
向かってこようとした高城を百合子さんが手で押し留める。
「……決意は、固いのね?」
厳しい眼で見つめてくる百合子さんに、あたしは微笑を浮かべた。
もちろん死ぬのは怖い。本当は死にたくなんかない。だけどそれ以上に、あたしは冴子を見捨てたくない。
とうとう冴子が吐血し始めた。もう時間がない。
「冴子を<奴ら>にしたくないんです。できればあたしがしてあげたいけど、ちゃんと死なせてあげられる自信がなくて。だからお願いします」
くず折れて咳き込む冴子を支え、もう一度頭を下げると百合子さんはようやく頷いてくれた。
ワイヤーから離れたあたしたちに、先ほどまで<奴ら>に向けられていた凶器が向けられる。
意識が朦朧としてきたのか、唇の端から血を流しながらあらぬ方向を見つめている冴子を、ぎゅっと強く抱き締める。
1人になんてするもんか。ずっと傍にいるから──。
引き金が引かれる前に、あたしは皆を振り返る。
高城と麗が肩を寄せ合って泣いていた。小室と井豪は泣かずに唇を噛み締めてただあたしたちを見つめている。
あたしたちに駆け寄ろうとするありすを、平野が必死に止めていた。夕樹でさえも眼を赤くしている。何故か夕樹は誰よりも口惜しそうだった。
──ああ、今ならよく分かる。
冴子を生き延びさせるためだけに合流したけど、あたしもきっと、彼らのことが気に入っていた。少なくとも、別れを惜しむ姿を見て、似合わない感傷が湧き上がるくらいには。
最期に浮かべた笑顔は、冴子を真似したものではない、あたしだけのものだった。
「そういうわけだから、ごめんね。あたしは冴子に付き合うよ。君たちとはここでお別れ。──ばいばい」
百合子さんが引き金を引いた。
向き直って冴子の顔を見ながら迫り来る死を待つ刹那に想う。
願わくば、来世というものがあるのなら、幸多き人生を今度こそ冴子と共に歩めますように──。
DEAD END
第二十話選択肢
1.高城のお父さんに相談する
→2.事故を起こす
未だ迷いながらも、あたしはバスを奪って事故を起こすことに決めていた。
笑いたければ笑えばいい。
責めたければ責めればいい。
あたしだって良心の呵責がないわけじゃない。
それでも、あたしは大勢の赤の他人の命より、冴子一人の命の方が大事なんだ。
不良を刺激しないように外で時間を潰し、鞠川先生が電話しているタイミングを見計らい、何気ない素振りでバスに近付き、さり気なさを装って中に入る。
「君、勝手に入っちゃ駄目だよ」
中にいた人を誤魔化すためにっこり笑いつつ、隠し持ったスタンガンを押し当てる。
バランスを崩して持たれかかってきたところを外に蹴り落とした。
運転席に座り、シートベルトを締め、バスを発進させる。
外では大きな騒ぎになってるけど、今は無視。
門を出て、そのまま真っ直ぐ走らせる。
あとは停電を待つだけ。
まだ停電は来ない。
こういうこともあるさ、と焦る気持ちを落ち着かせた。
バリケードと門の中間くらいを通り過ぎる。
ちょっと遅いな。早く起きてくれないと間に合わなくなっちゃうよ。
もうすぐバリケードにぶつかる。
あとは停電を待つだけなのに。
今からでもブレーキを踏んだ方がいい?
な、何で? 何で停電が起こらないの?
判断を下せなかったあたしは結局ブレーキが間に合わず、そのままバリケードを吹っ飛ばしてしまった。
幸いシートベルトやエアバッグなどが作動したおかげで大した怪我は負わなかったけれど、騒ぎに気付いた見張り役らしい高城のお父さんの部下が慌てて集まってきて、あたしはバスから引き摺り下ろされた。
部下の人はあたしが子ども、しかも女だったことに驚いたみたいだけど、それでも職務に忠実にあたしを他の部下の人に預け、携帯で応援を呼ぶ。
すぐに駆けつけた応援の人たちにより、あたしが空けたバリケードの穴は<奴ら>を呼び込むことなく塞がれた。
罪人のように左右を固められて引き立てられたあたしを待っていたのは、おかしな人間を見るような目であたしを見る冴子たちの瞳だった。
それは、まるで理解できない狂人を見る目だった。
小室も、井豪も、麗も、平野も、高城も、冴子ですら、あたしを理解できない様子で強張った表情のまま、頭が変になった異常者を見るような目で見ていた。
冴子にそんな目で見られていると自覚した瞬間、体中から血の気が引いた。
「待って。待ってよ。そんな目であたしを見ないでよ。あたし、冴子のためにやったんだよ。どうして冴子までそんな目であたしを見るの!?」
半分錯乱した状態ですがり付こうとした手は、反射的に後退った冴子によって振り払われる。冴子は自分自身がしたことなのに、自分の行動に気が付いたとたんまるで自分が傷付けられたかのように表情を歪めた。
「私のために、どうしてバスを奪ってまでバリケードを破壊する必要がある。下手をすれば<奴ら>が入ってきていたかもしれんのだぞ」
あたしは全身を恐怖でがくがく震わせながら、言い訳を試みる。
「だって、これにはちゃんとした理由があって」
だがその試みは冴子によって途中で遮られた。
「何か正当な理由があったのなら、どうして事前に相談してくれない? 私たちは親友のはずではないのか? 私はそんなに頼りにならないのか?」
言えるわけがなかった。
よりにもよってすぐ傍で不良に命を狙われていた冴子に、どうして相談できる。
そんなことをしたら、相談した時点で冴子の死が決定付けられてしまうじゃないか。
出来るわけ、ないよ。
何も言えずにいるあたしを、冴子は平手打ちする。
「……所詮君にとって私はその程度の存在というわけだな。これでは、一人で君を親友だと思い込んでいた私が馬鹿みたいではないか!」
あたしの行動に対して、冴子は本気で悲しみ、怒っていた。
そりゃそうだ。事情を知らなければ狂人の所業にしか見えない。立場が違えばあたしだってきっと同じようにしていたに違いない。
脅されていたとはいえ、何も言わずに行動に移したあたしが悪い。
それでも、冴子を傷付け、冴子に否定されたという衝撃は、あたしを錯乱状態に追いやるに充分過ぎるものだった。
「仕方ないじゃない! そうしないと冴子を守れないと思ったんだもの! あたしがどんな気持ちで行動したかも知らないうちに、勝手なこと言わないでよ!」
打たれた頬を手で押さえて泣き喚くあたしの言葉に、冴子は目を見開いて口を噤んだ。きつく眉根を寄せ、唇をかみ締め、呆然と立ち尽くしている。今にも決壊しそうなほど涙を湛えた瞳は戸惑いで揺れている。
「何を言う……! 何も言ってくれないのは、君の方ではないか!」
ショックを受けた様子で叫ぶ冴子に怒鳴り返そうとして、ふと気付く。
そういえば、不良の姿が見えない。彼はどこに行ったんだろう。
「……え?」
突然、あたしが見ている目の前で出し抜けに冴子の身体が揺れた。
冴子のわずかに開かれた口元から赤い鮮血がつつ、と垂れていく。
呆然とした顔のまま後ろを振り返ろうとして、冴子は果たせずにゆっくりと前のめりに倒れた。
その背中に広がっていく赤と、冗談みたいに背中から生えているナイフの柄。後ろから心臓のあたりを一突きされている。そのナイフが一度捻られ、一気に引き抜かれた。血飛沫が飛び、ナイフを捻ることで広げられた傷口から湯水のように血が溢れ出す。
素人目でも分かるほどの、どう考えても助かりそうもない出血量だった。
目の前で行われた一連の状況が理解できず、真っ白な思考のまま顔を上げれば、目の前で不良があたしを嘲笑っている。
自業自得だとその狂気で窪んだ目が告げていた。
誰がやったのかは言うまでもないだろう。
失敗したことを自覚する。こんなの予想してしかるべきだった。
<奴ら>がなだれ込むからこそうやむやにできるのだ。未然に防がれてしまったら、あたしがしたことの真意くらいすぐに悟られる。
これは、その報復か。
全てを理解した瞬間、あたしの心は死んだ。
身体はまだ生きている。でも心が死んだ。冴子を守れなかったあたしに、生きる価値なんてない。
笑い声が聞こえる。
不良の声か。それともあたし自身が上げているのか。
どちらでもいい。やることはどうせ一つだけだ。
復讐はしたい。でも出来ない。全てあたしが蒔いた種だから。
だからせめて、冴子の後を追うことを許してください。
この僅かな時間だけですでに物言わぬ骸になってしまっている冴子の目をそっと閉じさせ、ナイフを持つ不良の前に立つ。
ごめんね、冴子。痛かったよね。死なせちゃってごめんね。守れなくってごめんね。
寂しくないように、あたしも、そっちにいきます。
釈明はあの世でさせてね。
「殺しなさいよ。冴子が死んだこの世界で生き続けても、しょうがないわ」
不良がにやにや笑みを浮かべながら、冴子の血に塗れたナイフを喉に押し当てる。
気付いた人たちが止めようと走ってくるのを見ながら、冴子の後を追って地獄みたいなこの世に別れを告げられることを喜ぶ。
あたしのこともちゃんと殺してくれる不良に、少しだけ感謝した。
だからこそ、その言葉がどういう意味を持つのか、あたしには理解できなかった。
「嫌だね。毒島が死んだ世界で、お前は惨めに生き続けろ」
ナイフが横に引かれる。
カヒュ、と声にならない声を漏らし、不良が血飛沫を撒き散らしてその場に崩れ落ちていく。
体中を赤くまだらに染めながら、あたしは呆けていた。
どうしてあたしじゃなくて、不良が死んでるの?
その疑問の答えは、ようやく我に返って動き出した周りが出してくれた。
「なんてことだ……。復讐のためとはいえ、自殺するなんて!」
協力者だったらしい避難民のダレカが叫んでいる。
つまりはそういうことだ。
あたしの行動の真意を理解した瞬間、不良は冴子を殺すために動いていた。最初からあたしだけを生き残らせるつもりで。これがあたしが一番苦しむ方法であることを、知っていたから。
それを理解した瞬間、あたしの中であたしを辛うじて真っ当な人間として支えてきた何かの箍が外れた。
気狂いのような笑いが止まらない。
「何。何これ。何なのこれ。どうしてこんなこんなことになってるの? あたしのせい? あたしのせいなの? 自業自得なの、これ? あは、あはは、あはははは。馬鹿みたいだ、あたし。……こんなことなら、初めから殺しておけばよかった!」
衝動的に死んだ不良からナイフを奪い取り、憎しみに任せてその身体に突き立てようとする。
我に返った大人たちにナイフを取り上げられ組み伏せられたあたしが見たのは、目を閉じた状態で斃れている、血の気が引いて青ざめた冴子の死相だった。
最愛の人の死に顔が目に焼き付いた瞬間、あたしは壊れる。
それからのあたしについては語るまでもないだろう。
小室たちと残された協力者たちが語る事情を聞いた大人たちにより、死んだ冴子と不良は悲劇の存在として手厚く葬られ。
二人が死んだ元凶とされたあたしは高城の両親に憐れまれ、またあたしに同情した高城たちの願いもあり、皆が去った後も冴子がいない世界で人目に憚る存在のままひっそりと生き続け、最終的に<奴ら>に食い殺されて死んだ。
DEAD END