それからしばらくして、服が乾きある程度<奴ら>が少なくなったのを見計らい、川岸から道路に出た二人は、再び増えてきた<奴ら>をバギーで弾き飛ばしつつ走っていた。
「どうするつもりなのだ! これでは中州に逃げ込む前と同じだぞ!」
疾走するバギーの上で手摺につかまってバランスを保つ毒島に、小室は運転しつつ答える。
「次の角を曲がれば分かります!」
小室の宣言通り角を曲がったバギーの先を見て、毒島は怪訝な顔をする。
「公園?」
「別にダンボールのお家を作るわけじゃないんで安心してください!」
目論見通りになったことにホッとしつつ軽口を叩く小室は、そのまま公園の中央にある噴水目掛けてバギーを走らせていく。
そのまま噴水にバギーは飛び込み、せっかく乾かした服をまたしてもずぶ濡れにされた毒島は抗議の声を上げた。
「君は女を濡れ鼠にする趣味でもあるのか!」
「そこのバックパックからテープを取ってください!」
取り合わずに手を差し出す小室に、毒島はとっさに意図が掴めずきょとんとしつつも、探し出したテープを手渡す。
バギーのハンドルをテープで固定した小室は、毒島に得意げな顔で振り返る。
ハンドルごとアクセルを固定されたバギーは、小室が運転せずとも噴水内を走っていた。
走る際のエンジン音と水音に加え、噴水にバギーがぶつかるたびにゴンゴンと音を立てているので、かなりやかましくなっている。
<奴ら>が噴水に集まってくるのを見た毒島は、ようやく納得がいったと唇を歪める。
「そういうことか。これで<奴ら>のを気を引き、その間に私たちは脱出するわけだね」
「東側の出口からが一番近いです。あと、音が出るんでなるべく銃は使いたくないんですけど……」
お願いできますか? とバックパックを背負い銃を持った小室に暗に聞かれ、毒島はそっと木刀の代わりに新しく愛刀になった小銃兼正村田刀に手をかけた。
「なるほど」
刀の柄に手をかけて佇む毒島の姿は、いまだ静謐。自然体で立つその佇まいは、まるでこれが散歩の途中であるかのような気負いの無さ。
だがそれも、鯉口が切られるまでのことでしかない。
白刃が身を覗かせていくごとに纏う気配は鋭さを増して剣呑なものとなり、毒島の身体は戦闘態勢へと移り変わっていく。
噴水の淵に立つ毒島の足に力が篭められ、その姿が低く低くたわんでいき、力を十分に溜め込んだその瞬間。
「承知した!」
叫んだ毒島は力強く地を蹴り、身を宙に踊らせていた。
右手には抜き放たれた抜き身の刃。
見事な跳躍でホームレス姿の<奴ら>の傍に着地した毒島は、近付いてくる<奴ら>を見て怯えるのではなく、逆に好戦的な眼差しで睨みつける。
血の臭いに混じる隠し切れない特有の悪臭を嗅ぎ、それらを以て明確な敵と認識した毒島の唇がゆっくりと笑みの形に吊り上がっていく。
「臭いな。せめて髪だけでも洗ったらどうだ」
軽口を叩いた瞬間、毒島の筋肉が躍動する。
一閃。
勢い良く振るわれた村田刀は、鮮やかな軌跡でホームレス姿の<奴ら>の首もとに吸い込まれ、その首を一刀のもとに斬り飛ばしていた。
胴と分かたれた<奴ら>の首は慣性の法則に従い、勢い良く宙を飛んで噴水に落下する。
刀を振るう姿のあまりの美しさと技量の高さに、小室は声を失って毒島に見蕩れた。
得物を通して伝わった肉と骨を断つ生々しい感触に、知らず知らずのうちにうっとりとしながら、毒島は『敵』たちに語りかける。
手加減など、要らない。
食い殺したいのならば全力で掛かってくるがいい。
それでこそ、闘う悦びも一際増すというもの!
「さあ……遠慮は無用だ!」
剣鬼の蹂躙が始まった。
反応も許さず、逃走も許さず、突進する毒島の進行方向にいる<奴ら>は容赦なく斬り捨てられる。
恐ろしいのは、その全てが一太刀で迷い無く行われていることだ。
毒島が刀を振るうたびに振るった数だけ、いやそれ以上に<奴ら>が斃れ、出口への道筋が真っ直ぐ形作られていく。
「すげぇ……」
後ろを進む小室の傍らで、勢いよく<奴ら>の頭が上下に分かたれ吹っ飛んでいった。
それを成した毒島はすでにそこにはおらず、前方に走り込み次の<奴ら>を屠っている。
このままなら簡単に抜けられそうだと小室が思うほどに、毒島と<奴ら>の戦いは一方的だった。
だがその快進撃が、あともう少しで出口に辿りつくというところでぴたりと止まる。
村田刀を振り上げた姿勢のまま呆然とする毒島の前には、幼い子どもが成った<奴ら>の姿。
興奮が冷め、ゆっくりと毒島の頭が冷えていく。
同時に、心の中を恐怖が覆い尽くしていった。
幼子の成れの果てを目にしながら、毒島は自問する。
今、自分は何をしていた。
<奴ら>を斬った。それは当然だ。斬らねば後ろにいる小室を守れない。
だが自分はそれを愉しんではいなかったか? あまつさえ骨と肉を断つ感触に酔い痴れ、我を忘れてはいなかったか?
高城邸で親友に肯定されたこの性格。彼女は好きだと口にしてくれた。それによって受けた被害も、全てかけがえのないものなのだと言ってくれた。
それはとても嬉しいこと。
しかし。
こうもあっさり意味もなく暴力に酔ってしまえる自分は。やはり。
「何してるんです、冴子さん!」
<奴ら>の目前で無防備に立ち竦んでいる冴子に気付いた小室が、自分に近寄ってきた<奴ら>をイサカの銃床で殴り倒し駆け出す。
「あ……」
まるで<奴ら>に怯えるただの少女のような覇気の無さで、毒島が背後から走ってくる小室に振り向いた。
それは最悪の行動だった。
自分たちから完全に目を離し隙だらけになった毒島に、子どもの<奴ら>が襲い掛かっていく。
いつもの彼女らしくない毒島の失態に、小室は焦りが募り吐き捨てる。
「どうしたってんだよ……!」
命の危険を感じてようやく我に返った冴子が振り返るが、すでに<奴ら>はとっさの動きではどうにもできないほど目前に迫っている。
どうあがいても、もう回避も防御も間に合わない。
今からではどうしようもないと毒島が悟った瞬間、彼女は険しい顔の小室によって脇に押しのけられていた。
代わりに突き出されるイサカの銃口。
銃声が鳴り響き、子どもの<奴ら>が頭の大部分を損失して倒れ伏す。
瞬間、今まで噴水を走るバギーに引き付けられていた<奴ら>が、一斉に小室たちの方に振り向いた。
一発限りでも、より大きな音が鳴った方角に反応したのだ。
「こっちです! 急いで!」
こうなればもう悠長に相手などしていられない。
小室はまだ動きが鈍い毒島の手を引き、進行方向に立ち塞がる<奴ら>に向けてイサカを発砲することで吹っ飛ばし、強引に進んでいく。
そんなことをすればさらに<奴ら>を呼び集めることになるのは言うまでもない。
「くそっ、増えてきた……!」
自分たちを取り囲むように集まってくる<奴ら>に追い立てられ、小室と毒島は予定していた合流地点への最短コースから外れていく。
「まだダメか……。まずいな、このままじゃ振り切れないぞ」
追いすがる<奴ら>たちから逃げ惑いながら、小室は立て篭もれる場所を探す。
神社の鳥居と石段を見つけ、小室は笑みを浮かべた。
「そうだ。ここなら……」
毒島の手を引き、長い石段を小室は登っていく。
石段を登りきった小室は余勢そのままに本殿に駆け込み、閂をしっかりとかけた。
御神体などが祀られている本来ならば入ってはいけない場所だが、命の危機が迫っている今はそんなことを言っていられない。
「冴子さん、いったいどうしたと──」
言いかけた小室が見たのは、御澄に置いていかれた時のように落ち込み、力なく座り込む毒島の姿だった。
すっかりしょげ返っているその姿を見て、小室はそのまま言葉を飲み込み、別の言葉をかける。
「今の装備で夜出歩くのは危険です。今日はここで朝を待ちましょう」
小室一人ではとてもではないが合流地点に辿り着けない。毒島には何としても、夜が明けるまでに立ち直ってもらわねばならなかった。
とりあえず何かないかと本殿の中を探し回る小室は、燭台と蝋燭が入った箱を見つけ顔を綻ばせる。
「お。これなら暗闇ですごさなくて済みそうだ」
手持ちのライターで火を点けた蝋燭を床に置いた燭台に立てると、小室はバックパックから敷き布を取り出し広げる。
本堂の隅に隠れるように座る毒島は、作業する小室を暗い瞳で見詰めて呟いた。
「何も、尋ねないのだな」
手を止め、小室は毒島に振り返る。
返答には少し間があった。
「冴子さんがあんなふうになるなんて、よほどの理由でしょう。そりゃ気にならないって言ったら嘘になりますけど、無理に聞き出そうとは思いませんよ」
一通りの作業を終えた小室に、毒島は声をかける。
「……君には何の意味もないことだが、聴いてもらえるだろうか?」
恐る恐るかけられた毒島の問いかけに、小室は敷き布の空いたスペースを示す。
「まずはこっちに来て座ってください。そのままだと冷えますよ」
立ち上がる気力もなく手と膝を動かして近付いてきた毒島に、小室はバックパックを漁ってあるものを取り出し、差し出す。
必要なものだと思ったから持ってきたものの、他人にしかも憧れの対象であった異性に手渡すのはかなり恥ずかしかったが、小室は耐える。
怪訝な顔でそれを見る毒島に、顔を近付けそっとささやいた。
「携帯トイレでございますよ、冴子さま」
それを聞いてきょとんとした顔で小室を見上げた毒島は、小室が耳まで真っ赤にしているのに気付く。
こんな時だというのに間の抜けた行動と可愛らしい小室の反応に、毒島は思わず噴出した。
目尻に涙を浮かべ、両手で口を押さえて笑い続ける毒島に、小室は少々大げさにおどけて答える。
「笑うなんてひどいなぁ。これでも学校の時みたいに困らないようぼくなりに考えてですね」
毒島は首を横に振り、目尻に浮かんだ涙を拭う。
「違うのだ。嬉しい。嬉しいよ」
小室は毒島の顔を見てドキリとした。
口から手を離した毒島は、まるで可憐な少女のように微笑んでいた。
いつもの刀を振るって<奴ら>と戦う勇ましい姿からは、到底想像もつかない儚い姿。
やがて微笑むのをやめて下を向いた毒島は、搾り出すように声を出す。
「……思い出してしまったのだ、かつて抱いていた虞を」
<奴ら>の相手をしていた途中で毒島の様子が急変したことを思い出し、小室は自分なりに考えて原因を挙げてみる。
「小さな子の<奴ら>がいたから……とか?」
「困ったことに、そういうわけではないのだよ」
そんな理由であれば、まだどれだけ良かったかと毒島は述懐する。
「君は中州で、私と嬌が好き合っているかどうか聞いてくれたな」
「あ、あれはその!」
血迷って踏み込みすぎた質問をしていたことに小室は今更ながら気がつき、慌てる。
「いいのだ。私も嬌と同じような感情を抱いていることは否定しないよ。しかし、この気持ちを彼女に伝えようと思ったことはない。彼女が本当に私を好きだとはどうしても思えないのだ」
「でも、好きじゃなかったら冴子さんのためとはいえあんなことをするはずが……!」
その時小室の脳裏を過ぎったのは、御澄がバスを奪い高城邸のバリケードを破壊した時のこと。
本当に毒島のことが嫌いなら、自らの立場が悪くなることを承知でそんな手段を取ろうとするだろうか。
「過去に私が原因で、彼女が強姦されたことがあってもかね?」
言い募ろうとした小室は、毒島の台詞の異質さに思わず動きを止める。
黙りこんでしまった小室を見て、毒島はやはりそうだろうな、と自嘲する。
「昔……夜道で男に襲われていた少女を助けたことがある」
今でも毒島のその時の光景をありありと思い出せる。
それは、自分をつけていた少女が逃げ出したすぐ後のこと。
きっとその光景は、傍から見れば通りかかった剣道少女が正義感を発揮して少女を助けた一幕にしか見えなかっただろう。
「襲われる前に助けてやることこそ出来なかったが、代わりに携えていた木刀で男を半死半生に追い込んでやった」
女の子のピンチに颯爽と登場した、勇敢なヒーロー。
誰もがその光景を疑わなかったに違いない。
一皮剥けば、そこにどんなにおぞましい感情が作用していたとしても。
見えなければ、気付かないものにとってはそんなもの無いのと同じことだからだ。
「少々やり過ぎてしまっても、少女が私をかばってくれたこともあって、警察が私を罪に問うことはなかったよ」
警察だけでない。病院の医師たちも、少女の母親も、少女自身ですら、誰一人として毒島を責めなかった。
それどころか少女は自らの身に起こった不幸を嘆くのではなく、毒島と友達になれたと、そんな些細なことを一生の宝物を得たかのように喜び、嬉し泣きまでした。
退院した後もまるで妹のように毒島に懐き、アヒルの子どものように後ろをちょこちょことついて歩きたがった。
男に襲われたことなど、まるでただの悪い夢でしかなかったのだというように。
まさか気付いていないはずがない。それは少女自身が肯定している。毒島から逃げ出してすぐ少女は男に襲われた。少女を追いかけていた毒島は、少女が襲われた時男の声すら聞こえるような距離にいた。遅れるなど有り得ない。それほど毒島は近い場所にいた。
なのに少女が皆にした説明は、襲われる前には誰とも会っていないという、毒島の立場を保障するものだけ。
かつて毒島が御澄と初めて言葉をかわした、苦々しくも大切な思い出の一つ。
「でも、確かにやり過ぎたのは問題かもしれないけど、間に合わなかったのは別に冴子さんのせいってわけじゃ!」
「私を縛っているのは、間に合わなかったことではない」
毒島は自らを嘲笑う。
それは本当に自嘲の笑みだったのか。それともその時に感じた悦びを思い出したことによる興奮だったのか。
唇が歪み、醜い微笑みを毒島は浮かべる。
「──わざと遅らせたのだ」
ぽつりとこぼした言葉が宙に消えると、毒島は身を乗り出し小室に言葉を叩きつける。
その言葉が記憶によって反芻される快感とともに、自分自身の心をも傷付けていくと知りながら。
普段の毒島ならばあのような愚かな選択はしなかっただろう。
だがその時の毒島は、直前に少女を痴漢と間違えたことにより、自分でも知らないうちに期待していた暴力を振るう機会を失ったことになり、膨れ上がった欲求のはけ口を無意識に求めていた。
さらに言うなら、少女は毒島にとって初恋の人だった剣道部の先輩と付き合っていて、少女に対して当時の毒島は恥ずべきこととは知りつつも、心の内にわだかまる嫉妬心を消せないでいた。
どちらかだけなら、きっと毒島はすぐに飛び出すことができていた。そうできるだけの自制心が毒島にはあった。
だからきっとそれは、お互い巡り合わせが悪かったのだ。
「彼女を襲われるよりも早く助けることが出来たのに! あろうことかすぐ助けてしまっては満足に力を振るえないと私は己に言い訳し──見過ごしたのだ!」
ぎり、と毒島の手に力が篭められ、敷き布越しに床に爪が立てられる。
己に対する怒りによるものか、手には筋肉の筋が走り、指先は力を篭め過ぎて白くなっている。
「どうしようとも言い逃れが出来なくなった状況を見計らい、私は男に襲いかかった。予想通りだったよ。楽しかった。本当に楽しくてたまらなかった。男に暴力を振るったことも、被害者の少女を見捨てたことも、私にとっては全てが等しく悦楽だった」
今でもその時のことを思い返すと、毒島は思わず自分を斬り殺したくなる衝動に襲われる。
男が倒れ、凶行の余韻が覚めやらぬ中。
何の感情も映さなくなった彼女に虚ろな目で見つめられていることに気がつくまで。
当時の毒島は、彼女を見捨てたことについて、助けなかったことに対する後ろめたさ以外何も感じていなかった。
あの状況で見捨てるという行為がどういう結果を生むのか頭で理解してはいても、それが少女の心にどのような爪跡を残すのか、全く実感出来ていなかったのだ。
毒島は感情の昂ぶりとともに、声を上ずらせ身を乗り出す。
「分かるか? 小室君。これが真実のわたし。嬌が好きだと言ってくれた毒島冴子の本質なのだ。力に酔い、挙句の果てに身勝手な嫉妬で彼女を犠牲にしてしまった私が、当の彼女に好かれているなど。本当に有り得ると思うかね?」
「でも、御澄先輩は」
これだけ言ってもまだ言い縋ろうとする小室に、毒島は苦笑した。
毒島は御澄のことを親友だと思っているし、これからも御澄が許してくれる限り親友でいたいと思っているけれど、御澄の真意だけはいつもよく分からない。
あんな目に遭ったのにどうして笑っていられる。
原因を作った相手に、友達になってなどと何故頼める。
自分を見捨てた相手に、どのような理由で好意を示せる。
御澄はよく、自分が毒島を守ると口にするが、それが身の丈に合った発言でないことくらい、御澄自身すら分かっているようだった。
ならば、それは暗に毒島に自分を傷付けた責任を果たせと迫っているということではないのか?
落ち着いて考えれば一笑に付すような考えであっても、一度疑心暗鬼に陥った心は止まらない。
親友という位置にいつも御澄がいてくれたからこそ、それが目に見える戒めとなって毒島はそれ以上狂気を育まずに正常な人としてここまで来れたのだ。
けれど、いつだって本当は心の奥底で恐れていた。
同性に対するものとしては、自分が御澄に向ける情が深すぎることくらい、毒島だって承知している。だがその情愛は全て悔恨を源泉として育まれたものだ。
自らの過ちを後悔しているからこそ慈しみ、守りたいと願う。そうして生まれた感情を、果たして愛情と呼べるのか。仮に呼べるのだとしても、そこに義務感が混じってはいないと否定できるのか。
毒島が御澄に抱く愛情の中に、「彼女が望む自分であり続けなければならない」という一種の強迫観念が含まれているのと同じように、御澄が毒島に向ける愛情に、表裏一体の憎悪からくる執着心が含まれていないと誰が断言出来るだろう。
恨んでいないはずがない。毒島も女であるから、処女というものが女にとってどんなに大切なものであるかはよく知っているつもりだ。本来ならばもっと別な形で違う相手に捧げたかったろうに、毒島のせいであんな形で奪われる羽目になってしまった。
「彼女は私を守るためならば、回りに災厄を振り撒くことを厭わなかった。それこそが、今もなお彼女が心のどこかで私を恨んでいるという証明に思えてならないのだ──」
でなければ、親友を守るためとはいえどうしてたくさんの人間を犠牲にできるのか。
誰だって禁忌を犯すことを恐れる。それが正常な人間の反応というものだ。
普通の人間ならば躊躇してしまうようなことを御澄がやれてしまう理由を毒島は他に思いつかない。
それでも、慕ってくれた彼女のために傍にいたいと思っていた。
自分の醜い本性だって、押さえ込めると信じていた。
その結果が、これだ。
「噴水の前で気付かされたよ。私はあの時のまま、何一つ変われてなどいなかった。それどころか、彼女と離れただけで酷くなる一方だ」
それきり毒島は再び黙り込み、喋らなくなる。
夜が更けても毒島の心が回復する兆しは無かった。
最低限取らなければならない睡眠時間のことを考えると、このまま毒島を戦闘力として数えられないままでは、明日合流地点まで辿り着けるかどうかは非常に危うい。
多少荒療治になろうとも、約束を破ることになろうとも、毒島が抱く悩みを払拭させてやらなければいけない。
宮本や御澄を怒らせることになろうと、死んでしまうよりかはマシだ。
小室は宮本にもう一度会いたかった。確かに年頃の男であるから、他の女性に目を奪われてしまう部分が無いとはいわない。
だが本来の小室は、宮本が井豪と付き合い始めても小さい頃にした約束を忘れられないでいるほど、宮本に一途な男だ。
生きて再び宮本と巡り合うためならば、何だってしてやると小室は覚悟を決めた。
最後の手段に賭けるしかない。
毒島の手を取り、心の中で御澄に謝りながら身体を近付けていく。
初めの方こそ戸惑った様子を見せた毒島だったが、彼女にも思うところがあったのか、やがて小室と同じように身体を近付けていった。
それから先の話は小室と毒島にしか分からない。
ただ一つ確かなのは、この日を境に毒島の一番が入れ替わるような、そんな出来事が起こったのだということだけ。
□ □ □
朝になった。
出発する準備を終えた小室が恐る恐るゆっくりと本殿の扉を開けると、穏やかな葉鳴りの音と、<奴ら>が出現するまでと変わらない長閑な鳥の声が出迎える。
とりあえず目に見える範囲を確認した次第では、<奴ら>はいないようだった。
ホッとした小室は、最後の手段を試した結果後ろでスカートの位置を気にすることになった毒島に合流場所までの予定を伝えようとする。
「裏から道に出ます。みんながいる場所まで、ここからなら歩いても二十分で着きますから──」
囁くように紡がれた小室の言葉は途中で遮られた。
遮られざるを得なかった。
特徴的な亡者のような唸り声と共に、<奴ら>が正面の石段から、横の林から、次々と現れたからだ。
「なんでだよ!?」
叫んでも結果が変わらないことを理解していても、小室は叫ばずにはいられなかった。
「葉鳴りの音でなのか!? もっと大きな音が無いからか!?」
尋ねようにも周りには<奴ら>と、結局最後の手段まで使ったのにいくら手を尽くしても駄目だった毒島がいるだけ。
返事など返ってくるはずもない。
我に返った小室は、頭を冷やそうとイサカの銃床で額を打ち付ける。
「冴子さん、このまま走って逃げましょう! 今ならまだ間に合うかもしれない!」
一縷の希望に望みをかけて毒島に話しかけても、毒島はまだいつものような覇気が戻らず、反応を返さない。
それどころか、<奴ら>が近付いてきているというのに、観念した様子で目を閉じてしまう。
もはや毒島の心は数千に乱れ、自分にとって一番大切なものが何なのかも判然としない状況だった。
生きて帰ったところで、こんな身体でどんな顔をして自分を慕う少女の前に出ればいいのか。
ずっと親友でいてくれた子を、最後の最後で裏切ってしまった。
暴力に酔ったあげく、親友の心の奥底を勝手に恐れて手近な救いに逃げてしまった自分は、このまま戻っても彼女を傷付けるだけだろう。
そうなるくらいなら、いっそここで死んでしまった方がいいのではないか。
彼女だって、案外悲しまないかもしれない。
ならばやはり、死ぬべきだ。
「冴子!」
自分を呼び捨てにする声が聞こえ、毒島は顔を上げた。
誰だろう。
最上級生である己の名を呼び捨てにする相手はそう多くない。一番可能性が高いのは、やはり親友だったあの子だろうか。
考えた瞬間、心の内に歓喜が湧き上がる。
あの子が来てくれた?
しかしすぐに現実を思い出し、希望は落胆に変わる。
彼女は自分がここにいることを知らない。来れるはずがない。
だとしたら、誰?
疑問の答えはすぐに出た。
毒島の後ろに回った小室が彼女を抱き締め、その身体をかき抱いている。
「理由なら僕が与えてやる!」
それは毒島にとって、初めての経験だった。
女という己の性を嫌でも自覚させる、胸に当たる彼の手の感触。
締め付けんばかりの力が腕に篭められているせいで息が苦しい。
耳元で猛る生きたいと願う彼の叫びが強過ぎる。
何よりも、小室に胸を触られただけでただの乙女のように動悸が早くなってしまうこの身体が、心に痛かった。
「例えお前が誰に嫌われようと、生きている限りぼくはお前を好きであり続けてやる! お前を最高の女だと信じ抜いてやる!」
ガツンと頭に衝撃が走る。
そんなことを男に言われたことなど、ただの一度も無かった。
同じようなことを言ってくれたのは親友だけ。その親友も同性だ。こんな頭にハンマーを叩きつけられるかのような強烈な衝撃を伴いはしない。
彼の声を聞くたびに、この沸き起こる名状しがたい感情。
その名前を、毒島は知らない。
「だから死ぬな! 彼女に会うまで、ぼくを死なせるな! 頼む、ぼくのため、全ての罪と共に、本当のお前であり続けろ!」
叫び声が木霊する。
絶叫を聞いた瞬間、毒島は本能的に、もう何も自分の心を偽らなくていいのだと理解した。
かつて親友である彼女が言ってくれたように。
暴力に酔う己の性癖を恥じることも、親友の本心を恐れ、自分の心に蓋をすることも、もうしなくていいのだと分かった。
過去の行いに囚われ続ける必要はもうない。
全ては心の思うままに。彼がそう言ってくれた。
ならば全力で、新たなる誕生の産声を上げよう。
しばらくして、毒島はゆっくりと身体を抱き締める小室の手を取った。
「ありがとう。もう、大丈夫だ」
我に返った小室が慌てて手を離すと毒島はゆっくりと前に出て小室に振り返る。
昨日と同じ、凛々しさを失ったただの少女のような顔。
けれどその身体からは、再び立ち昇りつつある覇気がある。
「嬉しいよ。孝」
毒島は涙ぐみながら微笑んでいた。
信じられないほど気持ちは晴れやかで、気が沈んでいた時はあれほど重かった身体が嘘のよう。
今まではかすかに感じていた、身体を鈍らせる<奴ら>への恐怖すらもうない。存在しないのではなく、程よい緊張感に取って代わられたのだ。
まるで本当に生まれ変わったような高揚感を毒島は感じていた。今ならば何だって出来るような気さえする。
それは誇張ではなかった。それだけの修練を毒島は積んできた。時には一人で、時には御澄と二人で。
ならば何を恐れることがあろうか。
<奴ら>に向き直ると構えを取り、村田刀の柄を握る。
心に吹き荒れる、これから味わうであろう暴力への悦び。
今までは必死に押さえようとしてきたそれを、押さえずにあえて撒き散らす。
恥じる必要はない。
今の自分には、全てを受け止めてくれる彼がついている。
彼女に会ったら、今まで聞けなかったことを聞こう。彼女が愛を求めているというのなら、今度こそ心の赴くままに与えてやろう。
さあ、そのためにも早く始めよう。生きて彼女に、会いに行くのだ。
地を蹴り、抜刀。
他の<奴ら>は目もくれず、一直線に突き進む。
狙うは奥に離れて立っている、孤立した<奴ら>ども!
太刀を振り切った瞬間、毒島は笑い声を上げていた。
「これだ!」
天高く三つの首が舞い、遅れてまだ残っていたのか<奴ら>の胴体から血が吹き上がる。
心躍る剣舞を止められない。止めようとも思わない。
両側から挟みこむように迫ってくる<奴ら>を自分により近い左から斬り、即座に反転しもう一匹を斬る。
斃れる死体には目もくれず再び駆け出し跳躍、<奴ら>の頭を踏みつけ蹴り倒しながら着地し、村田刀を逆手に持ち替え突き刺す。
骨を貫き、脳をかき回すこの痺れるような感触。
血刀を手に、ただ、衝動の命ずるまま、叫べ。
「これなのだ!」
背後から追い縋ってきた<奴ら>を振り返りざまに袈裟斬りにする。
斬らせろ。
もっと、斬らせろ。
もっと、もっと味わいたい。
欲望に任せて<奴ら>目掛けて突進し、すれ違いざまに次々と斬って捨てる。
自分がどこを目指しているかなどもはや二の次。
今はただ、<奴ら>のみを追い求める。
「たまらん!」
少々やり過ぎてしまったようで、気がつけば三匹の<奴ら>のただ中。
だが恐怖はない。
恐れるに足りない。
迫ってきた<奴ら>を前に、この程度動くまでもないと一回転。
円を描くように勢いを増し剣閃三連、全ての胴体を斬断する。
もうずっと、顔は歪んだ笑みを形作ったままだ。
性の交わりなどよりもはるかに感じるこの悦楽。これは。これは。
迸る感情に任せ、ただ叫んだ。
「濡れるッ!」
<奴ら>を斬り続けながら毒島はしみじみ思う。
どうして今の自分に嫌いだと思えるような人間がいないのかと。
残念でならなかった。
御澄に生まれ変わった自分を見て欲しかった。おぞましくも美しいこの姿を見て欲しかった。
誰よりも先に彼女に見てもらい、そして伝えたい。
これが私だ。本当の私なのだと。
そして叶うなら、彼女と共に、この欲望の渦の中に溺れてしまいたかった。
「冴子、こっちだ!」
包囲を突破した小室が叫んでいる。
もう終わりかと不満に思った毒島は、すぐに唇を吊り上げる。
<奴ら>はどこにでもいる。それら全てを斬り捨てない限り、当面の楽しみが無くなることは有り得ない。
高ぶる気を静め、小室の後を追いかけた。
前を往く小室に話しかける。
「……孝」
完全に正道から外れてしまった毒島は、剣士としても人としても、邪道に突き進むしかなくなった。
そのことに虞よりも期待を抱いていることこそが、その証拠。
心を解放する快感を知ってしまった以上、もう元の自分には戻れない。
だから。
「責任……取ってくれるね?」
少しくらい、欲張ってみてもいいと思うのだ。
彼女が自分のことをどう思っていようと、毒島は今後絶対に彼女を離さない。
同じように、彼もまた、いつか。
「望むところ!」
今はただ、果て知れぬ恋の予感に酔い痴れよう。
こうして二人は、合流地点であるショッピングモールに辿り着いた。