御澄が急に走っていったのを、毒島は半分以上混乱した頭のまま見つめていた。
不安が胸を渦巻く。
彼女の今の言い方は、まるで二度と会えなくなる相手に当てた言葉のようで。
でも先ほどからそんな冗談を連発されていたから、御澄がバスに乗り込んでも、毒島はそこからまた御澄がいつものように「うっそぴょーん!」とかいいながら笑って出てくるのではないかと思っていた。
予想とは裏腹に御澄を乗せたバスはそのまま行ってしまって、御澄のために残ろうとしていた毒島はどうしたらいいのか分からない。
自分の望みならば分かっている。
御澄のために仕方なく残るなんていうのは本心を隠すただの言い訳で、そんな資格はないと御澄の頼みをだしにして自らの心に蓋をしていただけ。
その結果がこのありさま。きっと罰が当たったのだ。
なんて、無様なのだろう。
「あのバカ! まさか本当にやるなんて! ああもう、こんなことならあんなこと言うんじゃなかった!」
後を追いかけようとして断念した夕樹が悪態をつくのを他人事のように聞きながら、毒島はバスが走り去っていくのを呆けた顔で見送る。
どうして御澄はこんなことをしたんだろうと毒島が疑問に思っていると、走り去ったバスの方角を見ながら、小室が怪訝そうな声を上げた。
「何するつもりなんだ。二日後に出発なんだから、今バスを奪ってまで逃げる理由はないはずなのに」
井豪が御澄をかばう。
「分からないが……何か俺たちの知らない事情があるんじゃないか。彼女が自分のためだけにこんなことをするとは思えない」
「事情? どんな事情があるってのよ」
機嫌が悪そうに眉を顰めて高城が井豪に尋ねた。
「それよりもまずいよ。万が一事故でも起きて、<奴ら>が入ってきたら……」
<奴ら>の侵入を恐れる平野は、険しい顔で門の向こうを睨んでいる。
「でも、これだけ厳重に警備されてるんだし、すぐに退治されるんじゃない?」
緊張感を漂わせる平野の発言に、宮本が楽観的な答えを返した。
平野を安心させようというのか、あるいは自分が安心したいがためか。
その時だった。
遥か上空で奇妙な光の爆発が起き、少し間を置いて遠くで衝突音が響いた。
何の音だろうかと毒島はよく働かない頭で思考する。
「あれ? な、なんで?」
突然切れた通話に慌てて何度もリダイヤルを試していた鞠川先生は、やがて諦めてうんともすんとも言わなくなった携帯を小室に返す。
「小室君、携帯壊れちゃった。もしかしたら私が壊したのかも……」
ごめんねー、手を合せて謝る鞠川先生に、小室は怒るわけにもいかず不満そうな声を上げて受け取る。
戻ってきた夕樹が鞠川先生と小室のやり取りを見て、怪訝な顔をした。
「こんな時に故障? アタシの携帯は御澄が持っていっちゃったから貸せないわよ」
周りの状況を観察した高城は、あちらこちらで電子機器が故障していることによる騒ぎが起きているのを見て、硬い表情で呟く。
「……タイミングが良すぎる。まさか、御澄はこれを見越してた?」
「どうしましたか? 沙耶さん」
何事かに気付いた様子の高城に気付いた平野が高城に顔を向ける。
自分に振り向いた平野に、高城は焦りを滲ませた声音で命じた。
「あんたのは大丈夫なはずだから、そこで見張ってなさい! 絶対に門から眼を離すんじゃないわよ。いい!?」
手で門を指し示すと、高城は足早に宮本の下へ向かう。
「宮本、サイトのドットは見える?」
「え、なんで?」
「いいから早くして!」
声を荒げる高城に戸惑いながらも、宮本は言われたとおりに銃を構え、サイトを覗き込む。
奇しくも銃で狙われる形となった高城が、サイト越しの視界の中で慌てて身を翻すのが見えるが、あるはずのドットは存在しない。
「んーと……見えない」
返答を聞いた高城は、父親である壮一郎に振り向くと声を張り上げる。
「パパ、早く門を閉めた方がいい! これはただの停電じゃないわ! さっき出ていったバスが事故を起こしてたら、そこから<奴ら>が入ってきちゃう!」
それを聞いた壮一郎の部下が慌しく動き始める。
「外を警備している者たちを呼び戻せ!」
「無理です! 携帯が通じません!」
「全部故障だと!? くそ、誰か手が空いている者はいないか!?」
リモコンを持った部下が他の部下と怒鳴り合っているのを見て、壮一郎は命じる。
「……止むを得まい。吉岡、門を閉めろ」
「ですが、それでは外にいる者たちを見捨てることに!」
「我々は戦えぬ多くの守るべき市民を抱えているのだ。それを忘れるな」
吉岡と呼ばれた部下がハッとした顔でリモコンを操作する。
しかし、門は動かない。
「携帯だけでなくリモコンまで……。 誰か閉めろ!」
吉岡の声に応じて門を閉めに行った数人が、着々と門の前目掛けて迫りつつある<奴ら>に悲鳴のような声を上げる。
「ちくしょう、もうこんなところまで入ってきてやがる! 外の奴らは皆やられちまったのか!?」
「一人逃げてきてる奴がいるぞ! 援護してやれ!」
門を閉めようとしていた人たちが作業を中断する。
遠くにひしめく<奴ら>の前で、逃げてきたのであろう男が、腰が抜けそうな様子で足をもつらせ必死に走っていた。
男に襲いかかろうとする<奴ら>に、駆けつけた警備班が次々と銃撃を加えていく。
だが恐怖心から身体がうまく動かないのか、男の走りは迫り来る<奴ら>とタメを張る遅さで、<奴ら>を引き離すどころかだんだん距離が狭まっていく。
「ポケットの中には、──が一つ」
あわやというところで男に覆いかぶさり押し倒そうとした<奴ら>の頭を、平野が狙撃する。
見事なヘッドショット。
着弾した瞬間頭部に奇麗な弾痕を残した弾丸は、頭蓋骨内部に到達すると回転運動によって得た運動エネルギーを余すところなく開放した。
弾丸はぐちゃぐちゃに脳組織を掻き回しながら突き進み、反対側の頭蓋骨を派手に突き破って外に抜ける。
間一髪で倒れ伏す<奴ら>を確認し、平野が会心の笑みでサムズアップした。
これにはある理由がある。
ちょうど御澄が不良と相対していた時、平野は高城邸の大人たちに銃を取り上げられそうになっていた。
その時平野を誰よりも早くかばったのが小室で、小室は壮一郎と相対しても臆さず、自らの主張を貫いた。
地獄が始まってからずっと、平野が高城を守り続けてきたのだと。
銃を使って高城を守ることが、その容姿体型から蔑まれがちだった平野が見つけた、唯一誇れることだったのである。
特筆すべきは、小室が平野の気持ちに気付けていたという点だろう。そうでなければかばうことなどできない。なるほど、平野をよく見ている。
これこそが一行が小室をリーダーだと認める所以なのだ。
小室の信頼に応えるために、平野は自らが一番銃を使えるのだということを、行動することで証明してみせた。
ようやく敷地内へ辿り着いた男を収容し、門が重い音を立てて閉じられていく。
閉じ切った門に、たどり着いた<奴ら>が次々にすがり付いていくのを見て、宮本が少し安心した表情で言った。
「しばらくは、大丈夫そうね」
「いつまで持つか分からないけどね」
高城は厳しい表情を崩さない。
「おい、どういうことだよ!?」
事態についていけず騒いだのは、バスに撥ねられ、治療を受けていた不良だった。
メゾネットにいた時とは人が変わったように怪しいくらい朗らかでフレンドリーだったのだが、元の粗野な口調に戻っている。
再会した時から何か腹に一物抱えているような胡散臭さが全開だったので、大怪我を負ったというのに不良は誰にも心配されていなかった。
ギロリと胡散臭そうに不良を睨み、高城は腕組をする。
「事故の音、聞いてないの? <奴ら>は音に反応して集まってくる。集まってきた<奴ら>が次に目指すのは、人が多い分雑音を隠せないここよ」
「にしても、なんで御澄先輩はわざわざ事故を起こしたんだ? えらく急いでたみたいだったけど……」
事態の展開に取り残されて呆けたままの毒島が気になるらしく、ちらちらと視線を向ける小室は高城に問いかける。
「アタシが知るわけないでしょ! でも彼女、携帯や車が使えなくなることを知っていたみたいね」
「まさか。そんなのどうやって予測するっていうのよ?」
門から目を離して振り向いた宮本が、高城の発言に眉をひそめる。
高城はちらりと宮本に視線を向ける。
「分からないけど、そうじゃないと御澄はすぐ対処されるのにも気付かず事故を起こしたただのマヌケってことになる。本来ならバリケードの一部が壊れたくらいじゃこんな騒ぎにはならないわ。すぐ本部に連絡が行って事態は収拾されていたでしょうね。こんなの少し考えれば誰だって分かることよ」
「そういえば、最初に事が起こった時は対応が早かったみたいだし、俺たちの時もすごかった。さすが高城の両親だな」
納得したように頷く井豪は、そのまま高城に続きを促す。
両親を褒められた高城は少し満更でもない顔をすると、表情を改めて続けた。
「実際あたしたちが助けられた時からも分かるように、ここの対応の速さは脅威的! 中央から末端まで連携が行き届いてて、大抵の事態になら対応できるようになってる」
次々と<奴ら>が増えつつある門前を見つめ、高城は険しい表情で言う。
「御澄が起こした今回の事故だって、ちゃんと携帯や車が使えていたら後手に回らずにすぐ大量の人員を事故現場に送れたはずよ。彼らが<奴ら>の進入を防いでいるうちにフォークリフトでバリケードを張り直すことだってできたはずだった」
不安そうな表情で自分の服の裾を握ってきたありすを井豪が撫で、安心させようと手を繋いで尋ねる。
「そもそもさっきの妙な光は何なんだ? あれから一斉に携帯や車が使えなくなったみたいだが……」
しばらく考え込んだ高城は、やがて顔を上げた。
「たぶん、EMP攻撃。HANE……高高度核爆発ともいうけど、主に大気圏上層で核弾頭を爆発させた時に起きる、ガンマ線が大気分子から電子を弾き出すコンプトン効果のことを指すわ。これによって電子が飛ばされると地球の磁場に捕まって、電子パルスが発生する。この電子パルスは広範囲に放射されるから、それがアンテナになり得るものから伝わって、集積回路が焼けて壊れたんだと思う」
「なら、今俺たちは……」
うっすら顔を青ざめさせて呟く井豪に、高城は頷く。
「そう。あたしたちは今、ろくに電子機器を使えない。ケータイ、コンピューターは勿論、電子制御を取り入れている自動車もダメ。この分だと発電所も落ちてると思った方がいいわ。EMP対策でも取ってれば別だけれど、そんなの政府と自衛隊のごく一部に過ぎないはずだし。御澄がこのことを知っていたのなら、わざと事故を起こしたのも納得がいく。ただ、動機が分からないのよね。こんなことして御澄に何の得があるんだか……」
「アタシ、知ってるわよ。御澄が事故を起こした理由」
夕樹の発言に、呆然としていた毒島がぴくりと反応した。
ゆっくりと顔を上げ、夕樹を見つめる。
ようやく少しずつ事態を理解してきた毒島だったが、それによってさらなる混乱に襲われていた。
御澄がこんなことをした理由が分からない。こんな事態になることが分かっているなら、バリケードを壊せばどうなるかくらい、彼女なら予想できたはずだ。
いたずらに他人を危険に晒すような、そんな最低なことをする人間ではないと思っていた。
でも今、その自信が崩れかけている。
「その理由とは、何だ」
「何アンタ。もしかして、知りたいの?」
迷い児のように覇気の無い毒島に夕樹はゆっくりと近付いていく。
「頼む。理由を知っているのなら教えてくれ。嬌は何故、こんなことをしたのだ」
毒島の前まで歩いてきた夕樹は、満面の笑みで毒島に告げた。
「なら教えてあげる。御澄ねぇ。アンタを犯すのを手伝わないとアンタを殺すって、そいつに脅されてたのよ?」
誰が誰を犯す? 誰がそれを防ぐために何をした?
頭の中で、断片的だった情報が猛スピードで整理されていく。
理解に至った瞬間、毒島の脳は認識を拒否した。
それくらい、示された事実は毒島にとって衝撃を伴うものだったのだ。
夕樹が指差したのは、計画をばらされたことに怒り狂いもはや狂相を隠そうともしていない不良だった。
□ □ □
聞いていた全員が、一斉に不良を凝視する。
夕樹は不良を鼻で笑うと、唇の端を吊り上げにやりと笑った。
「メゾネットで残る羽目になったのを御澄のせいだと思ってるみたいでね。わざわざ死んじゃったやつらの家族や友人を探し出してまで、復讐しようとしていたのよ」
不良から視線を外した高城が、夕樹に質問する。
「理由は分かったけど、二つ疑問があるわ。どうしてあんたがそれを知ってるの? それに御澄が誰かに助けを求めようとしなかった理由は? 助けを求めてればこんな奴の浅知恵どうとでもなったはずよ?」
「アタシが知ってるのは、こいつが元々アタシの知り合いで、電話で協力を持ちかけてきたからよ。アタシだけじゃなく、こいつにはメゾネットで死んだ奴らと親しい関係にあった人間が協力してる。毒島を人質に取られた形になって、御澄はほとんどの選択肢を削られてた。御澄も必死に解決策を考えたみたいだけど、一時間で決めろってそいつに言われちゃってて。協力者が誰かも分からなかったから、アタシが手を貸してやるまで誰にも助けを求められずにずいぶんと困ってたみたい」
もともとアタシはあいつに協力するつもりなんてこれっぽっちもなかったからねー、と夕樹はいけしゃあしゃあと不良を哂う。
ずいぶんと意気消沈した様子で毒島は俯いた。
毒島はようやく理解していた。
今思えばそれらしい不審な動きを、壮一郎との会談に乱入してきてから御澄は何度も毒島に見せていた。
いきなり毒島の好きな人間を聞いてきたり、かなり際どい質問をしてきたり、他人が聞けばまるで毒島のことを愛していると受け取られかねない質問までしている。
最後に彼女が全部冗談として流してしまったから、毒島はどことなく不自然さを感じていながら納得してしまった。御澄は普段からそういう軽口をよく口にする子だったから。
「どうして……そんなことになってるのなら言ってくれれば良かったのに」
気付けなかった自分が情けないと、毒島はうな垂れる。
「御澄のことだから、毒島の負担になりたくないとか迷惑をかけたくないとか、そんな馬鹿なことでも考えてたんじゃない? コイツがあんたたちに常時張り付いてたせいでもあるだろうけど」
「……そうか。君が頻繁に私に話しかけてきたのは、そういうことか」
夕樹の言葉に、毒島の不良を見る目が凄みを帯びた。
皆が夕樹の話を聞いている間に妻の百合子とともに武装を済ませ、事態を見守っていた壮一郎が高城に顔を向ける。
「大体の事情は分かった。だが壊れたものを直す方法はあるのか」
高城は少しの間視線を中に彷徨わせ、答えた。
「焼けた部品を変えれば動く車はあるかも。電波の影響が少なくて、壊れずに済んだ車がある可能性も……。もちろんクラシックカーは問題なく動くわ」
「すぐに確認させろ」
壮一郎は部下に命じると、向き直って高城を見下ろした。
「沙耶」
名前を呼ばれたことに驚いた表情を見せる高城は続いた言葉に息を飲む。
「仲間が起こしたこの騒ぎの中、感情に流されずよく冷静に物を見た。褒めてやる」
思いがけない賞賛の言葉に、高城は少しの間我を忘れた。
厳格な性格のこの父は、娘である自分を甘やかすことは本当に少なくて、こんな風に褒めてもらえたのは数えるほどしかなかった。
それが嬉しいやらこんな状況で複雑な気持ちやらで高城が複雑な表情をしていると、門の方から一際大きな音が響く。
振り返ればいつの間に集まったのか、門の前には目を覆わんばかりの数の<奴ら>が押し合いへし合い、身体をすり減らし骨を砕きながら無理やり門を破ろうとしていた。
何人かが必死に門の補強を試みているが、この混乱した状況下ではまともに作業できず、効果は望めそうにない。
鉄でできた頑丈な門は補強する必要があるとは思えないほど重厚な佇まいを見せていたが、今や想定外の<奴ら>の圧力に悲鳴を上げ、門を固定するボルト部分が弾け飛びそうになっている。
「おい……、やばいんじゃないのか!?」
横から門を押さえていた一人が焦燥に満ちた声を上げた瞬間。
ついにボルトが外れ、まるでドミノの一番目を倒したかのように勢いよく鉄門が倒れ込んだ。
次々と邸の敷地内に侵入した<奴ら>たちは、門を押さえていた人たちに遅いかかり、手近にあった避難民のテントへと向かっていく。
逃げ遅れた不運な避難民が<奴ら>に捕まり、食い殺されていく様子を悲痛な目で見つめていた百合子が壮一郎を見る。
「あなた──」
「パパ! このままじゃ……! 一先ず引いた方がいいわ!」
高城もまた、壮一郎に邸に篭城することを提案する。
だが壮一郎は高城の提案を一蹴した。
「あの鉄門が破られた今、守って何の意味がある! 押し入られ喰われるだけだ!」
二階から邸周辺の様子を確認していた壮一郎の部下の吉岡が戻ってきて、隣家はまだ安全が確保されていることを壮一郎に伝えた。
報告を聞いた壮一郎は<奴ら>から逃げ惑いぞろぞろと邸の前まで逃げてきた避難民や部下たちに号令した。
「これより我々は敵中を突破し隣家に向かう! 戦う気概のある者は集まれ! 女子どもで生き残りたい者はその後ろに固まれ!」
お互いの顔を見合わせていた避難民たちの中から、覚悟を決めた顔で何人かが動き始めると、呼応するように次々と男たちが家族や恋人、友人たちを守るため前に出ていく。
もう自分たちの都合で親を探しにいくべき時ではないと思ったのだろう。小室もまた、彼らと同じように前に出ていこうとした。
その小室を、機先を制するように壮一郎が叱責する。
「親孝行をするのではないかな小室君! ためらわず自分の道を往くのだ!」
気迫に押され足を止めた小室は、気まずそうな顔で俯き、足を止める。
少し前、まだ邸の中にいた時に、壮一郎とかわしたやり取りを思い出した。
壮一郎の目の前で、小室は言った。
自分たちは両親を探しに行ってくる。脱出までには戻るつもりだが、もし戻ってこなければ両親の下に残ると決めたのだと思って見捨ててくれて構わないと。
本来ならば壮一郎よりも、親を探しに行く自分たちの方が遥かに危険だったはずだ。それが今では、全く逆の状況になっている。
「……はい」
小室は理解していた。
この<奴ら>の群れを徒歩で突破して隣家に向かうのは不可能に近い。
例え辿り付けたとしても極少数だろう。
そしてその中に、壮一郎や百合子が入っている保障などどこにもありはしない。
全てを承知の上で、壮一郎は避難民を保護し、部下を率いる責任ある立場につく者として、義務を果たすため行動しているのだ。
「平野君」
振り向かず前を見据えたまま、壮一郎は言葉を紡ぐ。
「娘を、頼んだぞ」
表情が見えないことがかえって言葉の重みを増し、平野は決意を決めた表情で頷いた。
「パパ! それっていったい」
何か不吉な予感を悟って高城が食い下がろうとするのを、厳しい表情の百合子が平手打ちして止める。
「壮一郎さんと私には役割があるのよ、沙耶ちゃん。より多くを生き延びさせるため、共に戦ってくれる勇敢な方々の勇気を奮い立たせるために、私たちは彼らの先頭に立って率先して死人と戦わなければならない。あなたを平野君や小室くんにお預けするのが、親としての唯一の我が侭なの。たったそれだけですら、自分の娘を特別扱いしてしまったと他の方々に対して罪悪感を覚えている。お願いだからこれ以上苦しめないで!」
頬を押さえ呆然とした顔で見上げてくる高城を、百合子は強く小室たちの方へと押し出した。
「さあ、お行きなさい! 決して振り返ってはなりません!」
ありすが百合子の前へ駆け寄っていく。
「……おばちゃん」
百合子はしゃがみこみ、ありすをそっと抱きしめた。
「いい子ね。おばさんの娘もいい子なのよ。お兄ちゃんとお姉ちゃんたちのいうことをよく聞いてね」
ありすは幼いながらも今生の別れになるであろうを感じ取ったのだろう。
涙ぐみ、百合子をじっと見つめたまま頷く。
置いてかれそうになっている不良が慌てて叫ぶ。
「おい待てよ、俺も連れてってくれよ!」
近くにいた毒島が立ち止まり、振り返った。
目に浮かぶのは殺意混じりの激情。
「……君がそれを言うのか」
「毒島家御息女よ」
突然壮一郎に名前を呼ばれ我に返り、冴子は不良に一定の注意を払いながら振り向く。
「その少年はこちらで預かろう。貴女は小室君たちについていくのだ」
「会長。ですが、私は……」
毒島の表情は晴れない。
一度壮一郎の頼みを断った自分が、壮一郎たちの配慮に縋っていいものなのか、毒島は迷っていた。
「気にする必要はない。その刀で、貴女が守りたいと思う者を守ればいい」
壮一郎の言葉に、毒島はハッとした顔をする。
やがて毒島は何か吹っ切れた顔で、いつもの凛々しい表情を取り戻して壮一郎に頭を下げた。
泣いてしまいそうなのを辛うじて堪えた震える声で、高城は言う。
「パパ、ママ。大好きよ!」
未練を振り切るように、高城はハンヴィーのエンジンを調べている松戸のところへ駆け出していった。
壮一郎が部下に命じ、ダイナマイトを投げさせる。
爆発の中心付近にいた<奴ら>が吹き飛び、身体の大部分を欠損させて倒れた。
ダイナマイトの爆発音に驚いて足を止めた皆を高城が怒鳴りつける。
「何やってんの! 早く来なさいよ!」
「でも、皆の後ろに続いて逃げた方が安全じゃないですか? 高い塀ばかりだから、乗り越えるのも難しいし」
先頭を走る高城の後を追いかけながら平野が尋ねる。
「パパとママがわざわざ私たちを送り出してくれた理由が分からないの? あのハンヴィーは軍用! もし対EMP処置が施されているなら、ちょっとメンテナンスしてやればまた動くようになるわ!」
高城がハンヴィーの傍に駆け寄ると、ハンヴィーの下で作業をしていた松戸が出てくる。
「こいつの持ち主は凄いぜ。予算が削られて対EMP処置は見送られた車種なのに、自前でやってやがる!」
松戸は沙耶に気付くと立ち上がり、ニッと笑って言った。
「大体の整備は終わりました! 本音を言えばもうちょい弄くりたいですが、ひとまずこれで走れますぜ!」
自分たちのために車を整備し直してくれた松戸に、高城は尋ねた。
「ありがとう。あなたはどうするの?」
松戸は手に持ったスパナをびしっと構えて答える。
「残ります。惚れた女がみんなといますんでね」
他の皆がハンヴィーに乗り込んでいく中、松戸が残っていた高城に頭を下げた。
「沙耶お嬢様、どうかお元気で!」
「私はいつだって元気よ」
照れくさそうに高城は笑い、ハンヴィーに乗り込む。
全員を乗せたハンヴィーは、<奴ら>の大多数が壮一郎たちに引き付けられている隙をつき、高城邸を脱出した。