宛がわれた部屋に戻ったあたしは、冴子が持ってきた大量の布にしばし呆然とする。
「……こ、こんなにいっぱい着るの? 一着でいいんじゃないかなぁ」
勘違いしているあたしに冴子が苦笑した。
「何着も着て比べるわけじゃないよ。これ全てで一着だ」
「……マジで?」
思わず綺麗に畳まれた布や紐の数々をまじまじと見てしまう。
そのうちの1つを取り上げ、冴子が広げてみせた。
「これは長襦袢という。肌襦袢の上に着て着物の下に着るんだ。嬌、早速だけど服を脱いで欲しい」
驚愕の事実に呆然としていたあたしは冴子の言葉をほとんど聞き流し、最後の単語だけを辛うじて聞き取った。
脱げ? 何を? 服を。どこで? ここで。
……冴子の前で?
意識した途端恥ずかしくなって文脈を頭から吹っ飛ばしたあたしは、冴子の前でしなを作り、ベッドに座って腕で胸を隠して身を捩る。
「だっ、だめ! いきなり本番なんて早すぎるよ! そりゃあたしは凄く嬉しいけど、こういうのはまずキスからでしょ!」
眼を瞑って拒絶を表し、でも内心で押し倒されることを期待していたあたしの耳に、冴子の呆れたような声が聞こえた。
「……君は何を言っているんだ?」
眼を開けて冴子を見る。眉を顰めた表情。
「……違うの?」
眼を開けてきょとんと首を傾げたあたしを見て、冴子は深いため息をつく。
何だか呆れられてるー!?
「長襦袢を着せるためにまず肌襦袢を着なければならないから服を脱げと言っているのだ。それでどうして睦み合うことになる。第一私と嬌は女同士だぞ。あり得ん」
うん、そうだね。どんなに仲良くても女同士だもんね。分かってたけど、はっきり否定されると凹む……。
若干気落ちしてのろのろと着ている洋服を脱ぐ。これも高城のお母さんから貸してもらったものだ。やたらとフリフリがついていて正直自分に似合っているとは思えなかったが、文句を言える立場ではないので有り難く借りていた。
下着姿になってドキドキしながら冴子に向き直ると、最初に白足袋を渡された。
白足袋を履いている途中で冴子の声が飛ぶ。
「ブラも外してくれ。和装ブラをつける。胸が強調されていると綺麗に見えないから、胸の下にタオルも巻こう」
「あ、うん、分かった」
慌ててブラジャーも外す。
何だかんだ言って冴子の前で裸になる機会はほとんど無くて、落ち着かなくて妙にそわそわしてしまう。
揃って裸エプロンになって今さら恥ずかしがるのも変だけど、あの時は恥ずかしがるどころじゃなかったし。
白足袋を履いて渡された和装ブラとタオルで胸の凹凸を整え、肌襦袢を着ると、冴子が長襦袢を羽織らせてくれた。後ろ襟を抜き下前の衿と上前を合わせ、腰紐を締めたあと、冴子がもう一本でっかい腰紐みたいなものを取り上げたので、あたしは不思議になって聞く。
「それ何? 腰紐はもう締めてもらったけど」
「これは伊達締めだ。腰紐じゃない。見栄えを良くするためのものだな。着崩れを防ぐ効果がある。そもそも伊達締めとは……」
冴子は詳しく説明をしてくれたが、冴子の説明はあたしにはちんぷんかんぷんだった。あたしはおろおろしながら冴子を見る。
苦笑した冴子は説明を止め、伊達締めを締めて綺麗に結んでくれた。
長襦袢を着終えたあたしの前に冴子がキャスター付きの全身鏡を持ってくる。
「わっ、可愛い~」
桜色の生地に白抜きで桜の花が散りばめられた長襦袢は、良い生地を使っているのかいざ着てみると凄く着心地が良い。
「じゃあ、着物を羽織らせるぞ。嬌、ちょっと後ろを向いて」
「あ、はーい」
言われた通りに後ろを向いたあたしに、冴子は着物を羽織らせる。
衿先を持って背中芯で合わせ、着物の衿と衿の背の中心を一緒にクリップで留める。
手元を見つめて作業をしていた冴子があたしの顔を見た。
「上前の幅はどれくらいにしようか?」
「良くわかんないから冴子に任せるよ。見苦しくなければいいや」
「そうか。分かった」
冴子が上前の幅を決め、その位置を握っていったん上前を広げ、下前を巻く。
あらかじめ決めた位置で上前を下前に合わせ、腰紐を結んだ。着物の前のだぶついた部分の皺を伸ばし、脇下の空いた部分から手を入れて弛みの部分を伸ばす。着物が腰紐に引っ掛かっていないかも冴子はきちんとチェックする。
左右の掛け衿を身体の中心で合わせ、長襦袢の衿に添って着物の下前の衿を整え、留める。背中の皺を取り脇の部分を綺麗に整え、最後に着物の伊達締めを締めた。
「余計な皺はない。背縫いもちゃんと身体の中心になっている。裾もきちんとつぼまっているし、うん。我ながら上出来だ」
あたしを色んな角度から見て仕上がりを確認した冴子は破顔一笑した。
「これで終わり?」
「いや、まだ帯を結んだりするこまごまとした作業があるよ。でもあともう少しで終わる」
ふくら雀の形に冴子が帯を締め、帯締めと帯揚げをつけた。
最後に白足袋を渡されて、それを履く。
「よし、完成だ。私も着替えてくるから少し待っていてくれ」
冴子が部屋を出る。
自分に宛がわれた部屋に冴子が着替えに行っている間、あたしは鏡に映る自分の着物姿を楽しんだ。
髪を結い上げてはいないけど、それでも着物を着たあたしの姿は、自分でいうのも何だがいつもとは違う華やかさがあった。
たまにはこういうのもいいなあ。情緒溢れてて。
鏡に映る綺麗に整えられた帯をかえりみる。冴子の薀蓄によれば寒さで羽毛を膨らませた雀が翼を広げる様に似ていてふくら雀という名前がついたそうだが、確かに何となく似ている気がする。
鏡の前でポーズを取ったり「あーれー、お代官さまご無体をー」などと口走りながらくるくる回って遊んでいると、扉がノックされた。
その場でぴたっと止まりドアに顔を向けて返事を返す。
「どうぞー」
入ってきたのは井豪だった。
「あら、井豪君」
声をかけると、部屋に入ってきた井豪はあたしの方を向いてピタリと止まる。
それきり無言。
……なんだなんだ。何か用があったんじゃないの?
「えっと、その。綺麗です。着物姿似合ってます」
しばらくして再起動した井豪に照れながら言われて、あたしは思わず動揺してしまう。
「そ、そう? ありがと」
何だか頬が熱を持ったように熱くなってくる。冴子に言われたのでもあるまいし、何でこんなただのお世辞に赤面してるんだあたしは。
ちなみにちょうどこの時、戻ってくる途中で冴子が小室を見つけて話し掛け、原作通りに同じようなことを言われて赤面していたりするのだがあたしには知る由もない。
くそ、覚えていれば意地でも邪魔をしに行ったというのに。
井豪はただ美形というだけではなく、愛嬌があって親しみの持てる顔をはにかませた。
「これから麗の様子を見に行くところだったんです。良かったら一緒に行きませんか」
「いいけど、冴子も一緒でいい?」
「構いません。毒島先輩が戻ってくるまで待たせてもらってもいいですか?」
……何だか妙なことになってきた。まあ、麗の部屋に行く途中でも冴子と景色を見ることはできるだろうし問題ないだろう。
頷くと、井豪は冴子が座っていた椅子に腰掛ける。私も井豪がいるので席に戻って大人しくすることにした。
しばし沈黙が流れる。
どうしよう。どう会話すればいいのかまったく思い浮かばない。こうして井豪と同じ部屋にいるのが妙に気恥ずかしくて、自然と顔を俯かせてしまう。
ちらりと視線を上げると井豪と眼が合った。
吃驚して慌てて視線を下げると、小動物的なあたしの反応がおかしかったのか、井豪が思わず漏らしたであろうくすりという笑い声が聞こえてくる。
さ、冴子早く来てー!
あまりの居たたまれなさに心の中で絶叫していると、あたしの祈りが通じたのかノックの音と聞きなれた「私だ。入っていいか?」という冴子の声が聞こえてきた。
親しき中にも礼儀ありという言葉を地でいく冴子に返事をすると、冴子が小室とありすを連れて入ってくる。
何処となく親しげな様子の冴子と小室を見て、あたしは心臓にナイフを突き立てられたような気がした。自然とあたしの眼は冴子と小室に釘付けになる。
動悸がうるさい。知らず呼吸が乱れているのを自覚して、すぐに深呼吸して心を落ち着かせる。
慌てちゃいけない。別に冴子と小室が一緒だったからって、冴子があたしじゃなくて小室を選んだことにはならない。たまたまばったり会って会話が弾んだだけだろう。
だいたい冴子と過ごした時間はあたしの方がはるかに長い。そう簡単に冴子が小室を選ぶとは思えない。まだ、まだ小室よりあたしの方が冴子に想われているはず。
だけど、たぶん神社での例のイベントが起きてしまったら、冴子があたしよりも小室を優先させるようになるのは決定的だ。あたしとどんなに絆を育んでいても、女である以上冴子はきっと小室に惹かれていく。冴子が異性に惹かれるのは当然で、女として何の不思議もないからだ。カミングアウトしていない以上、冴子にとってあたしはいくら親しくても女友達に過ぎない。
どんなに頑張っても、今のままのあたしでは冴子の一番にはなれないことなど、初めから分かりきっていたことだった。
「御澄先輩? どうしました?」
井豪に問い掛けられ我に返り、首を振って悲観的な考えを振り払う。
要は例のイベントさえ起こさせなければいいのだから、いざとなれば冴子の代わりにあたしが小室についていけばいい。冴子みたいに上手く刀を扱うことはできないけれど、劣化冴子くらいの働きならできるだろう。冴子を死地から遠ざけることにも繋がるから一石二鳥だ。紫藤先生はもう死んでるからバスが原因で<奴ら>をここに侵入させるようなことはないだろうし。
問題はバスが事故を起こして<奴ら>を侵入させてしまうのは分かっていても、そのまま<奴ら>を敷地内にまで侵入させてしまった理由が思い出せないということだ。
携帯で連絡すればすぐさま<奴ら>が侵入したことは伝えられるだろうから、門を補強するなりトラックとかを動かして道を塞いだり、<奴ら>の侵入を防ぐ手段などいくらでもあったはずだ。時間を稼いで高城邸のバスで脱出することは充分にできただろう。
それがどうして<奴ら>の群れの中を徒歩で突破するような羽目になったのか。
……っと、また思考の海に没頭するところだった。あたしの悪い癖だね、これは。
考え込んでいる間に三人で話が纏まっていたらしく、結局四人で麗が安静にしている部屋へ向かうことになった。
小室と一緒にいたことに気を取られて大事なことを言い忘れていたのを思い出し、あたしは満面の笑みを浮かべて冴子の着物姿を見る。
「すごく似合ってる。……きれい」
着物を着た冴子は長い黒髪が着物に映え、まさに大和撫子という呼び名が相応しい艶やかさを備えていた。
冴子は陽だまりのような微笑みを浮かべてあたしを見る。
「ありがとう。でも、嬌も似合っているよ」
胸がとくんと鳴り、頬がほんのり熱を帯びた。思わず両手で頬を押さえ、少し逡巡した後、小室がいる方とは反対側の冴子の隣に並ぶ。
そっと冴子の手を取ると、しっとりとした感触と温もりとともに、冴子が優しく手を握り返してくれるのを感じた。
だいじょうぶ。まだだいじょうぶ。
ずっと冴子の傍にいられるのなら、例え冴子が小室に惹かれていくのを間近で見せ付けられたとしても耐えられる。
いつかその微笑みがあたしに向けられるものでなくなったとしても、絶望したりなんかしない。
あたしは冴子を守りたいから守っているのであって、決してその見返りに愛してもらいたいわけじゃない。
そんな義務的な愛なんて、あたしは欲しくないのだから。
こうしてあたしは、何のために着物を着ているのかなんてすっかり忘れ去り、冴子に寄り添いながら麗の部屋へ移動するのだった。
□ □ □
麗の部屋には鞠川先生と、暇を持て余したのか椅子の1つを占領して携帯を弄っている夕樹がいた。
「あれ、夕樹? 以外ね。宮本さんと一緒にいるなんて」
「だって暇なんだもの。わたし別に本なんて読みたくないし」
あたしと夕樹のやり取りに、ベッドでうつ伏せに寝ている麗はイラッとした顔をしている。
「だったら鞠川先生の手伝いくらいしてください。ずっとそこで携帯弄ってるだけじゃないですか」
「どうしてわたしがそんな殊勝なことしなけりゃならないの?」
夕樹に鼻で笑われ、麗の額に青筋が浮かぶ。
「あなたね……」
「まあいいんじゃないか? 静香先生だって一人で充分みたいだし」
井豪が眼を向けると、鞠川先生はにっこり笑いながら首を縦に振る。
「先生のお仕事取っちゃダメぇ~」
「……ならいいですけど」
麗は不満そうに頬を膨らませ、ふて寝する。
そのまましばらく皆で雑談しているうちに、高城と平野まで部屋にやってきた。
外から聞こえてきた話し声に気付いた冴子と小室がドアを開けると、高城は小室の顔を見てホッとした顔をする。
「良かった。ここにいたんだ」
後ろで大荷物を背負い、荒い息をついている平野と高城を見比べて、小室は呆気に取られた顔をする。
「何してんだ?」
部屋に入り、見回して全員いることを確かめた高城は、そのままつかつかと部屋の中央に歩み寄る。
こちらに振り返った高城の表情は厳しい。
「小室。アタシたち一度話し合っておくべきことがあると思う」
「ありすも一緒でいいの、コータちゃん?」
荷物を置いて椅子に座った平野にありすが駆け寄る。
「もちろん! ありすちゃんもジークも仲間だからね」
平野は自身満々に親指を立てる。
嬉しそうにぱあっと笑顔を浮かべたありすに、平野はうへへと鼻息荒く笑った。
1人ベッドの上にいる麗が小室に何か暗に別のことを言いたげな顔で文句を言う。
「……何も全員ここに集まってくることないじゃない」
「お前がまともに動けないんだ。仕方ないだろ」
一気に部屋の密度が上がったことに、麗は不満そうに口をへの字にしている。
どこで調達しておいたのか、鞠川先生がバナナの皮をむきながら高城に尋ねる。
「それでどういうお話なの?」
テラスへと続くガラス張りの扉の前まで歩き、高城は腕を組む。
「話は二つよ。一つはメゾネットで彼らを助けられなかったことについて」
思わず息を飲む。
触れられたくなかった話題が出てきて、氷を入れられたように背筋が冷えていくのを感じた。
あたしの様子を横目で見た夕樹が高城に反論する。
「助けられたわたしが言うのも何だけど。生き延びるためには仕方なかったことじゃない。あいつらが死んでるって決まったわけじゃないんだし。わざわざ話し合うようなことなの?」
「反省しなきゃいけないことよ。最初に気付いていれば、車をもう一台調達してくるなり全員で逃げる方法はいくらでもあったのに、誰も気付けなかった。その結果、アタシたちは御澄先輩一人に重荷を背負わせる羽目になったわ」
振り返ってあたしをじっと見つめた高城は、腰に手を当ててあたしから視線を外さないまま話を続ける。
「それだけじゃない。ママが助けに来てくれる前、アタシたちは今までにない危機的状況に陥った。最終的に誰が誰を優先させようとするのかが浮き彫りになったのよ。それは、アタシたちの誰もが誰かのために見捨てられる可能性があるということ」
「待てよ、だけどそれは……!」
「勘違いしないで!」
口を挟んだ小室に、高城は鋭い舌鋒を向ける。
次いで、高城は顔面が蒼白になっているであろうあたしに優しく声をかけた。
「別にそれが悪いことだと言ってるわけじゃないわ。毒島先輩だけを助けようとした御澄先輩を非難しているわけでもない。生き延びるために成り行きで組んだチームだもの。いずれ齟齬が出るのは当然よ」
再びあたしたちに背を向けた高城は腕を組み、背筋を伸ばして声を張り上げる。
「これを踏まえて二つ目。アタシたちがこれから先も仲間でいるかどうかよ」
話を聞きながらバナナにかぶりついていた鞠川先生が吃驚して咽喉に詰まらせ、焦ったように咳き込んだ。
ベッドの上の麗も慌てて顔を上げ、高城を見る。
「仲間って……」
答えたのは硬質な表情で話を聞いていた冴子だった。
「当然だな。我々は今諸々の問題を抱えた状態のまま、より大きく結束の強い集団に合流した形になっている。つまり……」
言葉を切った冴子に、高城が続く。
「そう、選択肢は二つきり! 飲み込まれるか」
「……別れるか。でも別れる必要なんてあるのか?」
バナナを咀嚼している鞠川先生が困惑した表情で、高城の言葉を引き継いだ小室に頷き、同意する。
ガラス張りの扉を開け放ち、テラスに飛び出た高城は、こちらに振り返り外に向けて手を振り翳した。
「ここで周りを見渡せばいいわ! それでも分からないのなら……アタシのこと名前で呼ぶ権利はナシよ!」
平野から双眼鏡を借りた小室は、テラスに出て双眼鏡を覗き込み、外の風景を眺める。
「街は……酷くなる一方だな」
あたしの眼でも、血に塗れた路上と徘徊する<奴ら>の様子を捉えることができた。
誰かの片足を引き摺る<奴ら>がいれば、死体に群がり獣のように肉や内臓を貪る<奴ら>もいる。
高城の言いたいことが、あたしにもようやく分かった。
時間が経てば経つほど、どんどん状況は悪くなる。あたしたちの当面の目的は小室と井豪と麗の家族の安否を確認することだけど、飲み込まれたらいつ出かけられるか分からない。
だってそれは、組織の一員として行動を束縛されるということだ。それが悪いことだとは言わないけれど、あたしたちの今の目的とは相容れない。
ここで働く大人は皆、何がしかの役割を与えられている。働いていないのはあたしたちみたいな子どもだけだ。だけどそれは何もしなくていいわけじゃない。庇護される対象という役割を、押し付けられているということでもある。
「手際がいいよな、親父さん。右翼のエライ人だけのことはあるよ。……お袋さんも凄いし」
外を眺めながら言った小室に、高城がこちらを向いたまま叫ぶ。
「ええ、凄いわ! それが自慢だった! 今だってそう、これだけのことをたった一日かそこらでやってのけて」
張り詰めていた声が途切れ、高城は俯く。
やがて再び紡がれた声は濡れていた。
「でも。……それができるなら、どうして」
歯を噛み締めて親に捨てられたかのような顔の高城の眼から、涙がぽろぽろと零れる。
「高城……」
思わずといった調子で声をかけた小室に、高城が振り向いて怒鳴った。
「名前で呼びなさいよ!」
「ご両親を悪く言っちゃいけない。こういう時だし、大変だったのは皆同じだし」
「いかにもママの言いそうな台詞ね!」
笑顔すら浮かべて小室の発言を嘲った高城は、大きく息を吸い込み背筋をピンと伸ばし、上を向いた。
両の拳を握り締め、悲しみを吐き出すかのように絶叫する。
「分かってる、分かってるわ、アタシの親は最高! 妙なことが起きたと分かったとたんに行動を起こして、屋敷と部下とその家族を守った! 凄いわ、凄い、本当に凄い!」
唖然とする小室に涙を堪えた笑顔で高城は振り返り、詰め寄っていく。
「もちろん娘のことを忘れたわけじゃない! むしろ一番に考えた! さすがよ! 本当に凄いわ! さすがアタシのパパとママ!」
「それくらいに……」
小室の前に立った高城は本当に嬉しいことであるかのように自分の胸に手を当てる。その眦からとめどなく涙を溢れさせながら。
「生き残っているはずがないから、即座に諦めたなんて!」
「やめろ、沙耶!」
怒鳴った小室が高城の胸座を乱暴に掴み上げる。衝撃で眼鏡が吹っ飛び、高城の身体が一瞬宙に浮き上げられた。
驚いた顔で皆が小室と高城を見つめる中、平野だけが憤怒の形相を浮かべる。
「あ……何よいきなり。でもようやく」
「お前だけじゃない、同じなんだ!」
困惑と喜びが入り混じった泣き笑いの表情を浮かべた高城に、小室は顔を近付ける。
「みんな同じなんだ。誰だって同じ思いを抱えてる」
そうなのだ。大人である以上、あたしたちの両親には子どもを優先させたくてもできないしがらみが存在する。
大人である鞠川先生を除けば、皆ある意味では両親に捨てられたと言っていい。例え両親がそう思っていなくても、事実としてあたしたちはそう受け取ってしまう。
だって思ってしまうのだ。あたしたちがこんな酷い目に遭っているのに、どうして助けに来てくれないのか、と。助けに来れないのは既に死んでいるか、他を優先させているからではないのか、と。
それを分かっているのだろう。
小室は俯き、弱々しく言葉を紡いだ。
「親が無事だと分かっているだけお前はマシだ」
誰もが神妙な顔をして小室の言葉を聞いていた。冴子も遠い父親のことを想っているのだろう。どこか遠くを見ているような顔をしている。
「……分かったわ。分かったから放して」
もう高城は泣いてはいなかった。
手を放し、小室は高城から離れる。
「悪かった」
落ちた眼鏡を拾い上げ、掛け直しながらも、名前で呼ばれたことに高城は満足げだった。
「ええ本当に。でもいいわ。さ、本題に入らないと、アタシたちは」
その時ちょうど何台もの車が入ってくるような轟音がして、あたしたちは外に眼を向ける。
平野が怪訝な顔をした。
「? あれは……?」
高城は敷地内に入ってくるたくさんの車やトラック、バイクを見て表情を引き締める。
「そう。この県の国粋右翼の首領! 正邪の割合を自分だけで決めてきた男!」
あたしは高城の視線を追い、やがて1人の男が車から降り立つのを見つけた。
遠くから服越しでも分かる、鍛え上げられた巌のような身体。抜き身の刀を思わせる、冴子よりも遥かに硬質な雰囲気。
「アタシのパパよ!」
どこか自慢げな高城の声を背に、あたしはその男と一瞬視線が絡んだ気がした。
□ □ □
メールを読み終えた夕樹は、携帯の履歴からある人物関係のメールを入念に削除した。
携帯を握り締め、にっこりと笑う。その笑顔はいつもの邪な彼女にしては珍しく、純真で邪気のない表情だった。
愛しい愛しいあの人の心を手に入れる算段がついたのだ。そのための手段も手に入った。逃げ込んだ先が、武器が豊富にあるこの屋敷だったことは彼女にとって大きな幸運だった。
何も考えてなさそうな末端の男を見繕って色仕掛けをするだけで、その男はあっさりと目的のものを渡してくれた。
武器とはいっても、<奴ら>相手には大して役に立たないもので、夕樹のような女の子が持っていてもそれほどおかしくないせいもあるだろうが。
あとは自分に疑いの眼が向かないようにするために、どう立ち回るかだけ。それさえ間違えなければ、傷心の思い人がこの手に転がり込んでくる。
うまくいけば邪魔な女を追い払えるし、生き残るために大人の庇護を得ることができる。失敗しても彼女と邪魔者の間に不和を引き起こせるし、不安定な彼女の感情を揺さ振ることができる。
どちらに転ぶにしろ、自分の目的には確実に近付けるのだ。
一時的に彼女を危険に晒してしまうことになるが、自分も同じように危機に陥るのだ。これくらいは許容範囲内だろう。
「~♪」
知らず鼻歌が口をついて出る。
夕樹は上機嫌だった。
不幸なことに、そのたくらみを知るものはまだ誰もいない。