あたしには前世の記憶がある。
記憶によれば、前世のあたしは駅のホームからうっかり線路に転落し、ちょうど入ってきていた電車に撥ねられたらしい。
減速していたとはいえ、物が物。あたしは身体をぶつ切りにされて死んでしまった。
前世の自分に言いたいことは沢山あるものの、生まれ変わった今はもう関係のないことだ。今更文句を言おうとは思わない。
ただ、そんなあたしにも一つだけ許せないことがある。それは前世のあたしが男で、どうしようもないほど女好きだったことだ。
あたしの名前は御澄嬌(みすみきょう)。
男性だった頃の記憶に引きずられ、どうしても男に恋愛感情を抱けずに、レズになってしまった女である。
□ □ □
あたしが自分の性癖を自覚したのは、小学校に上がった頃だ。
それまでも母親と入浴して何故かドキドキしたり、近所の美人な若奥様の胸や尻を何となく目で追いかけてしまったりと、片鱗があったのは認めよう。
それでも一線を越えることになった切っ掛けは、間違いなく毒島冴子と出会ったことだった。
冴子はその頃から子どもながら凛とした眼差しに、落ち着いた物腰で、小さな大和撫子とでもいうべき様相だった。
一目見てハートを撃ち抜かれたのだ。ズキューンという幻聴さえ聞いた。
その頃のあたしは前世から得た知識で、同性を恋愛の対象にすることが一般的ではないことを既に知っていたから、どうしても自分の殻に引き篭もりがちだった。
クラスメートにまともに話し掛けることが出来ず、かと言って開き直ってカミングアウトする勇気も無い。
友だちらしい友だちも作れないまま幼い恋心を持て余していたあたしの小学生の思い出は、独りぼっちで冴子を遠くから眺めていた記憶が殆どを占めている。
中学受験では悩んだ末に冴子と同じ中学校を選んだものの、状況は変わらず、それどころか一度として同じクラスにすらなれない日々が続いた。
思い余って冴子をストーキングしてしまい、痴漢や変質者の類と勘違いされ、当の冴子自身に叩きのめされそうになったこともあった。
しかもそのあたしをさらに知らない男がストーキングしていたらしく、冴子は一度別れたというのにわざわざ追いかけてきてくれて、襲われていたあたしを助けてくれた。
男に襲われたこと自体は最悪の出来事だったが、それを切っ掛けに冴子と話す回数が増え、結果的に親友と呼べる関係になれたのだから、人生何が福となるか分からない。
冴子と仲良くなったおかげか、高校に上がる頃にはあたしの他人に対する引け目はすっかり影を潜めていた。
当然の如く冴子と同じ高校に進学し、高校3年になって初めて冴子のクラスメートになり、今までよりも一緒にいる機会が増えたあたしは、これから充実した幸せな日々が始まるのだと疑いもしなかった。
そんなささやかなあたしの喜びは、よりにもよってあたしの性癖を歪めた前世の記憶によって破壊されることになる。
前世のあたしは俗に言うオタクという人種だったらしく、残っている記憶は漫画とかゲームに関することが殆どを占めている。
それによると彼はいわゆるゾンビが横行するパニックホラーものの漫画を好んで読んでいたらしく、死ぬ数日前まで学園黙示録という漫画を好んで読んでいたらしい。相当好きな漫画だったようで、十八年経った今でも、主要登場人物や印象に残った場面くらいなら、記憶から引き出すことは容易い。
その漫画に関する記憶を探ってみると、何故かあたしの知り合いと同姓同名の高校生たちが主人公であるようなのだ。
視覚的に漫画と現実の違いがあるので分かり難いものの、例えばあたしの親友かつ片思いの相手である冴子は、漫画に出てきた毒島冴子と容姿や性格がよく似ている。
冴子以外にも、武道を嗜んでいる好で割と仲の良かった娘が以前同学年にいて、その娘の名前が宮本麗だったりする。彼女は優等生だったにも関わらず、今年になって何故か留年させられている。
新しい麗のクラスには男前な彼女の彼氏と幼馴染がいるそうだ。その幼馴染の素行は最近あまり良くないらしく、度々授業をサボることがあるという。名前までは知らないので絶対ではないとはいえ、偶然とは言い切れない一致である。
去年の入学式の時には、新入生代表でツインテールの美少女が答辞を読み上げていた。漫画に出てくる高城沙耶を彷彿とさせる姿の少女は、今年になって小太りで眼鏡をかけたオタク風な、これまた平野コータっぽいロン毛の少年と一緒に、麗と同じクラスに組み分けされた。
ここまでくると気持ち悪いくらいだが、記憶と現実の奇妙な一致はそれだけではない。
学校の保健医がこれまた漫画に出てくる鞠川静香先生によく似た乳魔人な天然美女で、名前も同姓同名だった。
去年から繰り上がりで担任になるはずだった先生が産休で休職し、代わりに誰が担任になるのかなと思っていたら、漫画に出てくる人物とそっくりな紫藤先生になった。
ここまできてあたしはようやく事態の深刻さと危機的状況に気付いたのだが、あまりの非現実さと馬鹿馬鹿しさにその時はすぐ打ち消してしまった。
それでもいわゆる怖いもの見たさで記憶を掘り返す作業は続き、漫画での発生時期が、冴子が3年生、他の主人公組が2年生で、桜が咲き乱れていた時期だということを思い出した。
ちなみに今の季節は春真っ盛りで始業式はとうに終わっているし、実際に外で盛大に桜が咲き誇っていたりして、明らかに発生間近だといういうことが分かる。
あたしが現実でも発生時期が近付いていることに気付いたのはついさっきで、今何をしているのかといえば暢気に授業を受けているのである。
本当に起こるとは思っていないが、怖いことには変わりない。本当に起きたらと思うとぶっちゃけ泣きたかった。
まさかとは思うが、そう遠くないうちに起こると仮定するならあたしに取れる対応としては、授業が終わった後で貯金をはたいて食料を買い込み、自宅に引き篭もるくらいしか方法がない。
タイミングとしてはかなり微妙だが、事が起こるのが今日でさえなければぎりぎりまだ間に合うだろう。
結局何も起こらずに、冴子と話す際の笑い話にでもなるのならそれはそれで構わないし、それが一番良い。いざとなれば発想を転換させて、冴子の自宅に転がり込んで冴子とさらに仲良くなるチャンスにしてしまうという手もある。
唯一の家族である父親が現在外国にいる冴子は1人暮らしだから、きっと2人っきりの桃色な空間が作れる。もし本当に事が起こるのなら、吊り橋効果で冴子の心の壁も緩くなるはずだ。
あんなことやこんなことをして、なし崩しにレズの道に引き込むチャンスかもしれない。
なんてね。
所詮本気で考えていたことではない。冴子のことを考え出したのを境に、思考はどんどん逸れていく。
ニヤニヤしながら現実逃避気味の妄想に耽っていたあたしの耳に、突然放送が入った。
『全校生徒、職員に連絡します!
全校生徒、職員に連絡します!
現在校内で暴力事件が発生中です
生徒は職員の誘導に従ってただちに避難してください!!
繰り返します
校内で暴力事件が発生中で』
思わず頭が真っ白になった。
バファ○ンの半分は優しさでできているというが、どうせなら世界の半分も優しさでできていて欲しかった。
起こるはずが無いと思っていたから、こんな風に暢気に構えられていたのだ。実際に起こるとか聞いてない。
せめて明日なら多少なりとも対応できたかもしれないのに、気がついた直後に有無を言わせず突入とか、イジメとしか思えない采配をやらかしてくれる。
物語には多少のご都合主義はつき物というけれど、こんなご都合主義は勘弁して欲しい。
何時の間にか放送が止んでいる。
一瞬の無音状態。
なのに空気が張り詰めている。静寂が耳に痛く感じるくらいだ。胸に手を当てると、普段なら聞こえもしない心臓の鼓動だけがやけにうるさく感じた。
緊張が緊張を呼ぶ。ちりちりとした焦燥があたしの背を駆け上がるり、悲鳴になって咽喉から迸りそうになるのを懸命に堪える。
頭の中では生存本能がしきりに警鐘を鳴らし、ニゲロニゲロと叫んでいる。
それでも事が起こるまで動けなかったのは、この世界が前世のあたしが読んでいた漫画の世界なのだと、たった今から日常が壊れるのだと、この期に及んで認めたくなかったからだろう。
当たり前だ。誰が自分が生きている現実を、知人と登場人物が同姓同名とはいえ、そう簡単に漫画の世界なのだと信じられるだろうか? 少なくとも、私はこの状況でなおまだ半信半疑だった。
僅かなハウリングの後、マイクか何かを落としたような、固い金属音が響く。
──世界が地獄に変貌する。
『ギャアアアアアアアアアアッ!』
『助けてくれっ止めてくれっ』
『助けっ』『ひぃっ』
『痛い痛い痛い痛い!!』
『助けてっ死ぬっ』
『ぐわああああああっ!!』
断末魔を最後に放送は終わった。
もう教室内で座っている人は誰もいない。不安そうに回りを見回している人もいれば、呆気に取られた顔で放送用のスピーカーを凝視している人もいる。
かくいうあたしも、先程から身体の震えを止められずにいる。歯の根も噛み合わず、ガチガチと耳障りな音を立てて鳴りっぱなしだ。
スピーカーから流れた悲鳴は、映画なんかで流れる悲鳴とは全然違った。
痛いという苦痛。
何故という混乱。
怖いという恐怖。
死にたくないという絶望。
あらゆる感情がぐちゃぐちゃに交じり合った悲鳴が、生命の消失と同時に最期の断末魔を残してぶっつりと余韻すら残さず消え失せてしまった。
そして戻ってくる、今となっては薄ら寒いほどの静寂。
理解した。どうしようもなく理解させられた。
事が起こってしまった今、もうどこにも逃げ場なんてない。日常は終わった。これから、地獄の日々が始まるのだ。
いち早く硬直状態から脱した何人かが教室を飛び出していったのを皮切りに、教室内の生徒が恐慌に狩られ、2つある出入り口に殺到する。
教室と廊下を隔てるドアは、一度に大勢の人間が行き来できるような構造にはなっていない。
群がればどうなるかは自明の理だ。
狭い出入り口はたちまち生徒で埋まる。
そこに容赦なく後続が押し寄せ、膨れ上がったかと思うと水洗トイレのように生徒たちを押し流していった。
大量の靴音に混じって、怒号や悲鳴があちらこちらから響いている。
聞こえてくる喧騒を聞く限り、パニックは学校中で起こっているようだった。
冷や汗をかきながら呆然と級友たちを見送ったあたしは、その場に残っていた冴子に、油の切れたブリキ人形のような動きで振り向く。
見なくても分かる。あたしの顔はきっと盛大に引き攣っていることだろう。
もう、漫画の世界だとか、半信半疑とか言っている場合じゃないことは分かっていたけれど、それでも否定して欲しくて隣に残っていた冴子に声をかける。
「ねえ。これ、避難訓練だよね?」
「……有り得ない。放送が真に迫っていた。それに」
冴子はこちらに視線をちらりと向け、あたしの願いをぶった切った。
窓際に歩いていって外を眺め舌打ちして、あたしに顎をしゃくる。見ろ、ということらしい。
確かに窓からなら校庭の様子が見える。普段なら無人か長閑な体育の授業風景が窺えるはずだ。光景に予測がつくのでぶっちゃけ見たくないのだが、確認しないわけにもいかない。
「うぁ」
校庭を見たあたしは絶句せざるを得なかった。
予想通り、校庭は地獄とでもいうべき惨状になっていた。
普通なら明らかに死体の仲間入りをしているはずの人間が歩き回り、生きている人を襲って喰い散らかしている。
1人の女子生徒が、状況に戸惑っているうちに死体もどきに囲まれ、貪り喰われた。
逃げ惑っていた女子生徒が、サッカーゴールの上に逃げようとして、ふくらはぎを喰い千切られて転落し、たかられて咀嚼された。
窓が閉まっているうえに距離が結構あるので、幸か不幸か鮮明な悲鳴はここまで聞こえて来ない。まるで出来の悪い映画の1シーンを目にしているかのように現実感が無かった。
それでもこれは現実に起こっていることで、外では現在進行形で多くの生徒たちが喰い殺されている。
「ちくしょう。何の悪夢よ、これは」
現実だと意識した途端気持ち悪くなり、思い出したように吐き気が込み上げてきた。せり上がってきそうになる咽喉を焼くそれを、眉を顰めつつ片手で口を押さえて必死に堪える。
「実際に起こっている以上、現状に文句を言っても始まるまい。私たちも早く逃げねばならんが……生き残るためには、武器が要るな」
こんな事態でも冴子は冷静だった。さすがに厳しい表情になっているものの、あたしが必死になって吐き気と戦っている間に自衛の手段まで考えようとしている。
その姿はとても心強いけれど、同時にその完璧さが少しだけ羨ましい。あたしには、冴子ほどの強さは精神的にも肉体的にもない。
「弓ならあるけど、部室よ。勿論矢も」
何とか気を持ち直したあたしは、口に当てた手を離して背筋を伸ばし、できるだけクールな声を装う。よりにもよって冴子の前で、何時までも無様な姿は見せていられない。やっぱり好きな人には良い格好を見せたいものだ。
「奇遇だな。私も木刀があるが、今日は生憎部室に置いている」
つまり、必要でも武器が無い。思いつく限りでも最悪の展開だった。
あまりの理不尽さに泣きたくなる。こんな展開あんまりだ。あたしなんか、冴子に比べたら一山いくらのモブキャラだってのに。
比較的自由に逃げられる校庭からしてああなのだ。前世の記憶にある漫画の通りなら、校舎内はきっと校庭以上の惨状になる。
この先で何が起こるにしても、一瞬の遅延が生きるか死ぬかの明暗を分けることになるのは想像に難くない。自衛のための武器はできるかぎり使い慣れている、手に馴染んだものを用意しておいた方がいい。
「仕方ない。取りに行こう」
冴子もあたしと同じ考えらしく、部室に行くことを決めていた。
頷こうとして、ふと掃除用具入れが目に留まる。中には掃除で使うモップが入っている。麗のような槍術の腕はあたしにはないが、冴子なら剣道の要領でそれなりに使えるかもしれない。
そう考えていると、冴子が掃除用具入れに歩み寄ってモップを取り出し、柄を取り外していた。
どうやら同じことを考えていたらしい。冴子が使うなら、ただのモップでも役に立つ。良かった、あたしの心配は杞憂だった。
「一応持っていこう。こんなものでも素手のままよりは心強い」
「その方が良さそうね」
目を見合わせて頷き合う。そのまま、冴子はあたしにもモップの柄を差し出す。
少し躊躇した。
弓以外では、ひたすら冴子をストーキングしていた中学時代に見様見真似で覚えたにわか剣道くらいしか心得がない。一応たまに冴子に付き合って鍛錬していたとはいえ、実力は冴子どころか一般の剣道部員にも劣るだろう。
冴子のお父さんがまだ床主にいた頃はあたしを筋がいいって褒めてくれたけど、あれは単なるリップサービスだろうし。
親が弓道家だった関係で小学生の頃から弓道をやっていたから、高校でも弓道部に入ったけど、こんなことなら剣道部に入部しておけば良かったと、今更ながらに後悔してしまう。
安易に弓道部を部活に選んだ自分を心の中で罵りながらモップの柄を受け取る。いつもは軽く感じるそれが、今はやけにずっしりと重い。
ええい、もうなるようになれ。
あたしはやけくそ気味に声を張り上げた。
「それじゃあ、殺し殺されの世界へレッツゴー!」
「……軽口を叩く余裕があるのだな、君は」
毒気を抜かれた顔の冴子に、あたしは引き攣り気味の笑顔を返す。
どんなに怖くても、こんなくそったれな現実には負けられない。冴子と両思いになるまでは絶対に死ねないのだ。死んでなんかやるものか。
取り合えず部室で武器を調達したら、保健室で鞠川先生を拾い、記憶に残っている展開通りに職員室に行こう。そこで主人公組が全員集合するはずだ。
その後は抜け落ちた記憶も多いけれど、冴子が小室に惹かれていくことだけは冴子に関係することだからかはっきりと覚えている。
出来ることなら冴子と2人きりのままでいたかったけれど、あたしは彼らと合流しない選択肢を選べなかった。
漫画の展開通りなら、小室たちと合流した方が冴子が生き残る確率は高いに違いないのだ。あたしだけならまだしも、冴子の命が懸かっている以上、迂闊な選択肢は選べない。
どうしようもない二律背反。本当に業腹だ。
「ちくしょう。あたしだけで冴子を守れればなぁ」
「実力で言えば、私が君を守る方が自然だと思うが」
冴子が真面目な顔で口を挟んできた。
その通りだけど、冴子に守られてばかりというのも情けない。前世から受け継いでしまったあたしの中の男の部分が、それは嫌だと叫んでいる。
「男の誇りを守ってやるのが矜持なんでしょ? 男の子は好きな女の子を守りたいものなのよ」
「何を言っている。君は女だろうに」
「……まあ、そうなんだけどさ」
全然分かってない顔の冴子を見て、自然とため息が出る。
冴子はあたしがレズだということを知らない。今のところノーマルである冴子にとって、あたしは恋愛の対象に入らない。
そんなことは分かっている。だけど、それでもあたしは冴子が好きなのだ。例え叶わないと分かっている恋でも、両思いになりたいと思うのは間違いだろうか。
確かに冴子ならあたしを守ってくれるだろう。でも、肝心の冴子が危機に陥ったときは誰が守る。小室? 冗談じゃない。
前世の影響とはいえ、あたしは男心を持つ女。他の誰でもないあたしが守ってみせよう。……今はまだ、冴子の後ろで守られるだけの存在だけれど。
冴子と一緒に、何が何でも絶対に生き延びてやる。
スクールバッグを手に持って、もう片方の手でモップを握り締めながら、あたしは決意を胸に冴子と一緒に教室を出た。
□ □ □
パニック直後で閑散としている廊下を冴子と走る。
階段の踊り場に差し掛かった時、前方から悲鳴が聞こえた。冴子が足を止め、あたしに合図して壁を背に身を隠す。
あたしが冴子に倣うと、冴子が若干緊張した表情でそっと踊り場を覗き込む。
「……誰もいないな。先程の悲鳴は、階下からか」
一先ず見える範囲に危険がないのを確認した冴子は、階段を少し下りて手すり越しに階下を覗き込み、あたしを手招きした。
「下はかなり危険な状態になっているようだ。だが降りなければ外には出れない。どうする?」
静謐な冴子の声に、あたしはため息をつく。
下からは最初の悲鳴を皮切りに次々に悲鳴が連鎖して聞こえてきていた。もう少しすれば、水が逆流するようにこの辺りも生徒と<奴ら>で溢れ返るだろう。
あたしはまだ生きている生徒たちを見捨てることに後ろめたさを感じて、若干声を小さくする。
「このまま正面玄関から出るのは難しそうだわ。1階まで下りるのは止めて渡り廊下から管理棟を回って行きましょ」
「その方が良さそうだな。後ろは任せる。背後の警戒を怠らないでくれ」
「了解。援護は任せて」
会話を終え、慎重に2人して階段を下りていく。
惨劇は主に昇降口に近い1階で起きているようで、管理棟への渡り廊下がある階を含め、1階より上の階段はまだ安全だった。
ただ、その代わりにパニックで歩けないほどの怪我を負った人が所々に倒れていて、それでも逃げようと懸命にもがいていた。
「助けなくて、いいのかな」
きっと、今頃は先程の悲鳴を上げた人も死んでいるだろう。生き残るためには仕方がないと分かってはいても、目の前でまだ生きている人すらも見捨てようとしていることに対する良心の呵責は消えない。
とはいっても、冴子に良心の呵責がないわけではないということを、彼女のために特筆しておく。自分の手がどこまで届くのか知っているだけだ。
「今は他人にかまけている余裕はないぞ。早く部室に行って武器を確保しなければ、すぐに私たちもああなってしまう」
冴子が目の前のの踊り場を指し示す。
その指先を辿ったあたしは、踊り場の光景を見て絶句した。
女子生徒がいた。だが、ただの女子生徒ではなかった。倒れた男子生徒に覆い被さって、その肉を喰い千切り咀嚼していたのだ。
「……何あれ」
思わず漏らしたあたしの乾いた声を聞きつけたのか、女子生徒が男子生徒を食べるのをやめてこちらを振り向く。
その女子生徒は片目が抉られていて無くなっていた。腹の肉が食い千切られていて、今にも腸が零れ落ちそうになっていた。
間違いなく死んでいそうな怪我なのに、ゆっくりと立ち上がって近寄ってくる様は、言い様も無く生理的な嫌悪と恐怖感を煽る。
奇妙な呻き声が一層ホラーじみていて、あたしは持っていたスクールバッグを取り落としてしまった。
モップを両手でしっかりと握り締めて恐怖を誤魔化すが、身体の震えは止まらない。このままだと二人ともあの男子生徒と同じように喰い殺されるだろう。
あたしは隣の冴子に助けを求めた。
「どどど、どうする? モモモップなんかじゃどうにかなりそうにないんだけど?」
「落ち着け。幸い私たちの方が上にいる。階段から突き落として、その隙に走り抜けよう」
こんなときでも冴子は冷静だった。落ち着いて対策を決めると、静かに呼吸を整えて女子生徒が階段を登ってくるのを待っている。
冴子がそう決めたのなら、あたしがどうこう言う理由は無い。冴子の決断がいつも正しいことは、普段から一緒にいるあたしが一番よく知っている。
だから、あたしも腹を括って、女子生徒が近付いてくるのを待った。
女子生徒は時々バランスを崩しながら、覚束ない足取りで階段を登ってくる。鼻や口の端から血を流し、死に際の恐怖と激痛で凝り固まった、絶望の表情で顔面を凍りつかせて。
ある程度まで女子生徒が登ってきたところで、冴子がモップを振るって胸を突いた。
木刀での研ぎ澄まされた一撃に比べれば凡庸なその突きは、それでも不安定な女子生徒のバランスを崩すには充分だったようだ。
中々豪快な音を立てて、女子生徒が階段を転げ落ちていく。
起き上がろうともがいているその横を、あたしは冴子と2人で走り抜けた。
それがあたしにとって<奴ら>との、初めての遭遇だった。
□ □ □
出くわした<奴ら>を冴子が似たような方法でやり過ごし、あたしたちはやっと部室棟に着くことが出来た。
さて、これから弓を取りに行くわけだけど、どうしようか。あまり時間をかけてると危険だし、手早く終わらせたいのが本音だ……。
1.効率優先。1人で取りに行く。
2.安全優先。2人で取りに行く。