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No.19752の一覧
[0] 【実験・習作】読み専が書くローゼンメイデン二次創作【完結】[黄泉真信太](2012/08/04 22:13)
[1] 序章 転生[黄泉真信太](2012/08/02 03:49)
[2] 第一部 アリス・ゲーム  第一章 胎動[黄泉真信太](2012/08/02 03:51)
[3] 第二章 薔薇屋敷[黄泉真信太](2012/08/02 03:52)
[4] 第三章 夢の人形[黄泉真信太](2012/08/02 03:54)
[5] 第四章 部外者達[黄泉間信太](2012/08/02 03:55)
[6] 第五章 起動[黄泉真信太](2012/08/02 03:57)
[7] 第六章 白い人形[黄泉真信太](2012/08/02 03:59)
[8] 第七章 ナナ[黄泉真信太](2012/08/02 04:00)
[9] 第八章 異界より[黄泉真信太](2012/08/02 04:01)
[10] 第九章 オディール[黄泉真信太](2012/08/02 04:03)
[11] 第十章 めぐ[黄泉真信太](2012/08/02 04:04)
[12] 第十一章 探し物[黄泉真信太](2012/08/02 04:06)
[13] 第十二章 酒宴[黄泉真信太](2012/08/02 04:07)
[14] 第十三章 画策[黄泉真信太](2012/08/02 04:09)
[15] 第十四章 犬死に[黄泉真信太](2012/08/02 04:11)
[16] 第十五章 黒子の退場[黄泉真信太](2012/08/02 04:13)
[17] 第十六章 帰還と旅立ち[黄泉真信太](2012/08/02 04:14)
[18] 第二部 マリオネット達の踊り  第十七章 休戦協定[黄泉真信太](2012/08/02 04:19)
[19] 第十八章 秘め事[黄泉真信太](2012/08/02 04:21)
[20] 第十九章 寄り道[黄泉真信太](2012/08/02 04:22)
[21] 第二十章 少女姉妹と姉妹人形[黄泉真信太](2012/08/02 04:24)
[22] 第二十一章 覚醒[黄泉真信太](2012/08/02 04:27)
[23] 第二十二章 不安[黄泉真信太](2012/08/02 04:29)
[24] 第二十三章 暗転[黄泉真信太](2012/08/02 04:30)
[25] 第二十四章 再会[黄泉真信太](2012/08/02 04:32)
[26] 第二十五章 逃亡[黄泉真信太](2012/08/02 04:34)
[27] 第二十六章 人形劇[黄泉真信太](2012/08/02 04:36)
[28] 第三部 至高の少女   第二十七章 帰還[黄泉真信太](2012/08/02 04:37)
[29] 第二十八章 寂しい頑固者[黄泉真信太](2012/08/02 04:39)
[30] 第二十九章 病室にて[黄泉真信太](2012/08/02 04:41)
[31] 第三十章 晩餐会[黄泉真信太](2012/08/02 04:42)
[32] 第三十一章 死の舞踏[黄泉真信太](2012/08/02 04:44)
[33] 第三十二章 旅立ち[黄泉真信太](2012/08/02 04:46)
[34] 第三十三章 大仕掛[黄泉真信太](2012/08/02 04:47)
[35] 第三十四章 至高の少女[黄泉真信太](2012/08/02 04:48)
[36]  最終章 少女達[黄泉真信太](2012/08/02 04:49)
[37] 番外編[黄泉真信太](2012/08/02 04:51)
[38] おまけ[黄泉真信太](2012/08/02 04:57)
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[19752] 第二十五章 逃亡
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c 前を表示する / 次を表示する
Date: 2012/08/02 04:34
1

 薔薇屋敷から逃げ帰って布団の中に入ったというのに、ジュンは延々と悪夢を見ているような気分だった。
 いや、夢ならまだ救いようがある。彼の脳裏にフラッシュバックしているのは、紛れもない現実にあった出来事の記憶だった。
 性質の悪い同級生に、秘めた自分の趣味を暴かれ、必死に否定したこと。それからほどなくして、彼等が自分の周囲に下衆な目を向け始めたこと。
 女子の一部が、何故か冷たい否定的な視線で彼を見るようになり、次第にそれが露骨になっていったこと。
 文化祭の直前、密かに想っていた少女が学年プリンセスに選ばれ、久しぶりに創作意欲を刺激されて、思わず課題提出用ノートに落書きをしてしまったこと。
 学校でひょんな出来事からそのことに気付き、慌てて課題ノートを切り取って鞄に忍ばせたこと。
 そうやって人目につかないようにしておいたのにもかかわらず、ある朝、その絵が黒板に張り出されていたこと。しかも、黒板には余白がないほどぎっしりと彼を否定する言葉が書き連ねられていたこと。

 そして昨日、完全に安全圏だと思っていた場所に、そのモデルの少女が──。

──どうして。なんで。何故あんなところに。

 栃沢少年と結菱老人。少女を守るように控えていた二人。
 僕達と薔薇乙女の領域だと思っていたのに、どうしてあんな場所に。誰が何故彼女を。
 栃沢なのか、結菱さんなのか。偶然なのか、それとも──

──眠ろう。夢も見ない、呼ばれても起きない、深い深い眠りに入ろう。眠れば、何も考えなくて済む。

 記憶の迷路に嵌り込み、悪寒と嘔吐感に苛まれながら、ジュンは必死に深い眠りに縋った。
 寝て起きてしまえば、忘れたことにできる。きっとまた何気ない生活に戻れる。決して彼を否定しない、痛いところに触れないで笑っていてくれる、暖かな人々に囲まれた日常に。そこでまた、時間を掛けて傷を癒し、立ち直って行けばいい。
 「普通」のレールから転げ落ちた、やや特異な趣味と能力を持った哀れな不登校の中学生であることなど、気にしないで居られる。薔薇乙女の頼りになる契約者で、誰よりも彼女達のことをよく知っている、特別ではないけれども必要な存在で居続けられる。

──だが、それは本当か?

 薔薇屋敷にもクラスメートがやって来た。桜田家であっても、誰か来ないとは限らない。柏葉も、栃沢少年もここには顔を出しているのだから。
 いや、もう逃げ場はないのだ。安全なところに後退して、ほとぼりが冷めてから何食わぬ顔で登校を再開することなどできない。
 もう、見付かってしまった。最も顔を合わせたくなかった人に。

 いつか、巴と栃沢少年に伴われて、あの少女が遣って来る。
 連れて来た二人の顔には幻滅と非難が篭っている。少女の顔には恨みと憤りが渦巻いている。
 桑田由奈は、今日起きたことを、あの日何の釈明も説明もせずにその場から消えた卑劣な逃亡者が顔を合わせただけで謝罪もせずにまた逃亡したことを、きっと周囲に尾鰭を付けて話すだろう。
 そしてクラス全体、学校全体、社会全体が、またあの黒板のように彼を否定し、拒絶する。今度は特異な趣味を持つ気味の悪い生徒としてでなく、自分のしでかしたことの責任を取ることも謝罪をすることもない、反社会的な卑劣な悪者として。
 人形ひとりの放つ脆い茨などではない、人間達が生む見えない鉄の鎖が、がっちりと繋いでしまった。一旦切れかけていた過去の記憶と現在の彼を。

 いや、それは思い過ごしだ。忘れろ。忘れてしまえ。
 誰も覚えてなんかいない。去年の文化祭の前の、小さな出来事など。覚えていたとしても、そんな小さなことで非難されるはずがない。自分は被害者であり、間違っても加害者ではないのだから。悪いのは絵を貼り出した屑どもで、絵を描いた自分ではない。
 あの少女だって苦しんでなんかいない。偶々自分の姿を描いた絵が他人へのいじめの材料に使われただけで、描いた本人を恨んだり、ましてやそれを材料に彼女自身が苛められることなどあるものか。
 そうだ、なかったんだ。なかった。見なかった。居なかった。
 眠って、眠って、厭な記憶はなかったことにしてしまえばいい。要らない記憶は眠りの底に落としてしまえ。
 自分が何をされたか、何も分からない下劣な連中からどんな屈辱を受け、何を失い、どれだけ他人に迷惑を掛けて来たか、そんなことはつまらない過去だ。思い出すな、忘れてしまえ。
 惨めな現在は変わらないとしても、惨い過去は忘れればなかったことにできる。眠れ、眠れ、何も考えずに、何も思い出さずに。
 自分がしたことのとばっちりを食って、後味が悪いだけに留まらず、泣かせたかもしれない、癒えない傷を付けてしまったかも知れない同級生のことなど、忘れればいい。見なかったことにすればいい。
 そうだ。起きた後のことなど考えなければいい。眠れ、眠って忘れてしまうのだ。何もかも。

 必死にそう思おうとしながら、一方で後悔と自責に駆られているのは、彼が周囲のことをそれなりに気にしている善良な少年だったことの証左かもしれない。ただ、それはこのときの彼にとっては悪い方にしか作用していなかった。
 とめどなく無意識の底から湧き上がる記憶と自責と後悔、それを徹底的に否定しようとする意識下の心の葛藤に彼は疲れきり、消耗し果てて、いつしか深い所に落ちて行った。
 皮肉なことに、誰の手も届かない場所に沈み込んで行くことだけは彼が望んだとおりだった。


「……ひな、いないのね……」
 ぽつりと少女は呟いた。
「おばあさまも、いない……私独りだけ……」
 浅い海底のような場所だった。呼吸ができないということはない。いや、そもそも呼吸の必要もない。これはきっと、心の一番奥底なのだ、といつしか理解するようになっていた。
 その心の底の底で、少女は何十回となく、長い映画のようなものを見続けている。今は、何回目かの上映が終わったところだった。
 恐らくそれは映画ではない。自分の記憶なのだろう。現実感のない映像の連続だったが、漠然とそんな風に理解している。
 どういう訳か、理解してからも、繰り返す映像を細部まで覚えてしまっても、上映は止むことはなかった。まるで何かを訴えかけるように、延々と同じことを繰り返しているだけだ。
「まるで、忘れてしまった私に罰を与えて、今度は忘れさせまいとしているよう……」
 小さな呟きは、誰に聞こえる訳でもない。ここに居るのは自分独りということはよく分かっている。
 赤い服の人形に、突き落とされたのだ。海の、表面に近いところから。

 その前後の経緯を、少女はよく覚えている。決して忘れてはいけないと誓っている。何に誓っているのかは分からないけれども。
 突き落とされるまで、少女はまるきり自分を忘れてしまっているような状態だった。今でも殆ど思い出してはいないけれども、そのときは本当にごく僅かのキーワードしか持っていなかった。
 少女は「ひな」を探していた。何故探していたのかは分からないが、兎に角「ひな」に傍に居て欲しかった。
 「ひな」は人形だった。動いて会話ができる人形だ。それだけは覚えていたから、少女は必死になってそれを追い求め、何体かの「ひな」と邂逅した。
 一体目の「ひな」は彼女を知らないと言い募り、茫然としている彼女を置いて去ってしまった。二体目は自分は「ひな」ではないと言い続け、「おばあさま」の使っていた棒のようなものを持った人に連れられて去って行ってしまった。
 三体目は、赤い人形だった。形はぐずぐずに崩れてしまっていたけれども、「ひな」でないとも、少女を知らないとも言わなかった。だから、少女は幽かな希望を抱き、ぐずぐずに崩れていたそれを同じように溶けかけていた自分の腕で大事に抱えて一緒に歩き回ったのだ。何処かにある出口を探して。
 今にして思えば、愚かだった。
 一体目の「ひな」は、ただ少女を知らなかっただけなのだ。二体目は、別の名前があったのだろう。
 二体とも正直だった。残酷なほど正直だったけれども、敵意はなかった。棒で払われたのも、後から考えれば止むを得ずしたことなのだろう。その証拠に、あの人はその後「おばあさま」のように何度も何度も棒を振り上げることはなかった。払っただけで、そのまま二体目の「ひな」を抱えて去って行った。
 三体目は、違っていた。何も言わずに機会を窺っていたのだろう。そして自分の体が元に戻った途端、少女を絶望させるような酷い言葉を言い放ち、彼女をこの底に突き落として逃げていった。

 その言葉と、突き落とされたときの精神的な衝撃で、少女は自分の姿を思い出した。この底に着いたときには、溶けて流れ始めていた体は白いワンピースを着た金髪の少女に戻り、同時に幾つかの言葉も思い出していた。
 幾らか理屈をつけて物事を考えられるようになったとはいえ、赤い人形にこれから復讐しようとは、少女は思わなかった。自分ではすっかり忘れてしまっているが、長い間の「おばあさま」の理不尽に見える仕打ちに対する忍耐と服従が、彼女からそういう牙を抜き取ってしまっているのかもしれない。
 ただ、もうあの人形の姿を見たくはない。もし見たら、背を向けるか何処かに行けと言ってやりたい。せめてそのくらいの拒否はしても良いと思っている。

 緞帳が下りたような気配があった。周囲から音と物が消え、既にお馴染みとなった準備が整ったことを示している。
「ああ、また……始まるのね」
 少女はその場にぺたんと腰を下ろした。上映中は動けなくなるから、わざわざ立ったりしている必要はなかった。
 こんなところに腰を長いこと下ろしていたら、普通はそれだけであちこち痛くなってくるはずだが、ここではそんなことはない。心の奥底では、全ての物理法則が外の世界と同じように働く訳ではないのだろう。
「おばあさまの幼少の頃から」
 些かうんざりした呟きが終わらないうちに、幕は上がって行く。
 少女は頬杖をついてそれを眺め始め、おや、と言いたそうな顔になり、次いで瞳を大きく見開いた。
 幕が上がって見えて来たのは、彼女が知らない映像だった。少なくとも何十回となく見続けて来た自分の記憶らしきものではなく、全く別の何かだということは、彼女にもすぐに分かった。


 どれだけ探し続けていたのか、正確なところは分からなくなっている。自分の姉妹の目から逃げながら、休息らしい休息も取らずに無意識の海の中を漂い続けていると、確たる無機の器を持っているにもかかわらず、ナナは自分を見失いそうになることが何度もあった。

──これが、わたしが『ローゼンメイデン』でないという証なのかもしれない。

 ちらりとそんなことを考え、歯痒い思いをすることも何度かあった。
 もう、自分が姉妹にカウントされないことについては拘りは持っていない。『ローゼンメイデン』の、『アリスゲーム』を勝ち上がった者に対して自分の動力源を差し出すだけの存在。それは、雪華綺晶にも通じる裏方だった。
 雪華綺晶と自分は全く異なっている。実体を持たない代わりに強大な力を有していた彼女と、実体を持っていながら誰も来ない場所に逼塞していた哀れな自分は正反対と言っても過言ではない。しかし、最後の最後に役割を持っているという点だけは共通していた。第七ドールとは、そういう役割を持たされた存在であるのかもしれない。
 それは兎も角として、ナナは自分が力を持たないことが歯痒かった。
 姉妹達を探していたときとは違った焦燥感が彼女を苛んでいる。
 『水銀燈』や『真紅』、『ローゼンメイデン』ではないが薔薇水晶といった強大な力など要らない。雪華綺晶と同じように、などとは望んでもいない。だが、せめて他のこちらの世界の薔薇乙女達のような力でも備わっていれば、もっと上手く無意識の海を渡って行けて、誰にも言わずに家出をして来たことを無駄にしないような捜索ができるような気がしている。
 もちろん、それは彼女の錯覚なのだろう。だが、芋虫のような、あるいは川の中の木屑のような無様な動きで無意識の海の中を、何処に居るのかも分からない者を求めて探し回っていると、つい歯痒くなってしまうことには変わりがなかった。

 何かが視界を過ぎったのは、そういった取り留めのない、しかし心の中には重く沈んで行く考えがまた頭の中を回り始めたときだった。
 それほど遠くないところなのに、それが視界の半ばを横断していくまで気が付かなかったのは、僅かな時間だが意識が飛んでいたのかもしれない。果てしのない捜索で、その程度にはナナは疲労していた。

──崩れた、人間の心の塊……?

 オディールかもしれない、とナナは顔を上げる。疲労は消えることはないが、やや引き込まれかけていた眠気はすっかり消えてしまっていた。
 ナナは崩れた何かの行き先を懸命に目で追いながら、疲れた体に鞭打って、自分にでき得る限りの加速でそれに向かって行った。
 歯痒いよりも先にじりじりと焦燥感を掻き立てられながら、どうにか少しずつ目指すものとの間隔を縮めて行く。
 焦燥感は強かった。
 実は、こういったものと遭遇したことが初めてという訳ではなかった。だが、それは明るい方向の話ではない。これまで出会ったモノはどれも、こちらから見る分には元が人間なのか分からないほど崩れてしまっていて、自我も殆ど残っておらず、意思の疎通さえもままならなかったからだ。崩れていないモノに出会ったことはないが、それは数が少ないせいか、そういう巡り合わせなのかはわからない。
 そして、今過ぎったモノは──悪いことに、またもや殆ど自分の姿を留めていなかった。
 それでも、ナナは諦めたくなかった。自分にどうにかできる状態かどうかは分からないが、もしオディールらしい何かが感じ取れれば、それを連れて無意識の海の渚近くに向かい、波の穏やかなところで落ち着いて話をしたかった。

 近付いて行くと、それは黒色が主体の何かだった。どろどろに溶けかけ、何処から何処までがそれなのか怪しいと思えるほどの不定形な塊になってしまっている。
 黒は服の色なのか、髪の色なのかは分からない。心理的なものがそう見えているのかもしれない。肌の色ではないだろう──黄色人種を思わせる肌色も垣間見える。
 ナナは落胆の息をついた。オディールではない。彼女は地中海的な美人ではあるけれども、例えば日本人に比べれば圧倒的に白い肌をしている。それに、金髪の色がこのモノには何処にも見当たらない。むしろ、黒髪でないかと思わせる部分もある。
「……分かりますか、聞こえますか」
 ナナはそれでも、そのどろどろした塊に尋ねてみた。
 妙な胸騒ぎがしている。何処かで出会ったことのある相手に思えるのだ。
 だが、それが誰なのかは分からない。思い過ごしかもしれないし、まだこの世界群に来る前、元居た世界群で関わった、数少ない元ミーディアム達の誰かの気配があるのかもしれない。
「……う……あ」
 それは唸り声を上げた。唸ることしかできない訳ではなく、唸りを上げるような苦しみを抱えているようだった。
 いや、抱えていた、のか。こんな風に不定形な姿のまま沈降して行くということは。
「……わたしが、『見え』ますか?」
 どの辺りに顔の造作があるのか、そもそも顔の造作が一つところに集まっているのかも分からない。取り敢えず唸りを上げている辺りに顔を寄せ、尋ねてみる。
「見え……る」
 くぐもった、聞き覚えのあるようにも思える声が伝わって来る。男性、それも多分少年の声だった。
「白い……髪の、女の子……」
 ナナははっとして自分の姿を確かめた。
 桜田家を出たときのままの恰好だった。フードまでは被っていないけれども、地味なフリースのパーカを着て、その下はごく薄い赤紫のトレーナー。足には白いスニーカーを履いたままだった。凡そ『ローゼンメイデン』には似つかわしくない、だが、自分には似合っているように思える飾り気も何もない服装だった。
 目の色が黄色いこと、全体的な大きさの二点を除けば、そこらの化粧気のない少女と言っても通じるかもしれない。
 兎も角も、視覚に相当するものは健在なようだ。ほっと息をついて、おずおずともう一つの大事な質問を試みてみる。
「あなたの名前は……?」
 そう、まずは名前だ。名前が分かれば、そこから少しずつ自分自身を思い出させよう。名前が分からなければ──

「──僕の……?」

 それは、幾分明瞭な声になって問い返した。
 ナナは息を呑んだ。その気配に全く気付かないように、それはまたくぐもった発音になって言葉を続ける。
「僕の名前……思い出せない。なんだっけ……」

 ナナは茫然として、次に何を言うつもりだったかを忘れてしまっていた。
 どうしてこの人が、今こんな所に。何故、こんなにどろどろになって。
 彼女の目の前に居るのは、桜田ジュンだった。少なくとも、その声、その雰囲気は、ナナの左腕を作り直してくれた恩人としか思えないものだった。
 なんだろう、思い出せない、とぶつぶつ繰り返す不定形の塊を前にして、ナナは暫くの間、茫然と立ち尽くすことしかできなかった。


2

 些か寄り道をしてしまったため、桜田家に帰って来たのは、夜半過ぎ、というよりは明け方に近くなった頃だった。
 水銀燈は他の二人と共にジュンの現状を確かめに彼の部屋に向かったが、少年は自宅に帰るかどうかを暫く迷った末、リビングのソファを借りて眠る方を選んだ。図々しいことだとは思うが、夜道を自宅まで帰る元気が残っていなかった。
 彼等の足音や抑えた話し声程度では、のりは起き出しては来なかった。しかしリビングには「仮眠用」と走り書きしたメモを置いた毛布が用意されていて、少年は有難くそれを使わせてもらうことに決めた。
 無事に帰還できたことで安心してしまったのか、それとも寝具が一応用意されていたと知って生来の現金さが出たのか、毛布を抱えると猛烈な眠気が襲い掛かって来た。いまひっくり返ったら恐らく数分と経たない内に眠ってしまうだろう、と思いながらソファに歩み寄ると──窓際に先客が居ることに気付く。
 弱々しい月の光に照らされて、向こうを向いて革の鞄の上に座っている、蒼い衣装を着て黒い帽子を被った小さな少女。

「──蒼星石?」

 ソファの上に毛布を投げ出すように置き、彼は思わずその名を呟いた。
 ゆっくりと振り向く彼女に駆け寄り、自分でも信じられないほど機敏な──そう思っているだけかもしれないが──動作で、腕の中にその華奢な身体を引き入れてきつく──
「──お、お帰りなさい」
 その声にはっとして腕を緩め、肩を持って恐る恐る引き離す。帽子を落として唐突な動作にどぎまぎしているのは、赤銅色の髪に薄紅色と薄緑色の吊り気味の瞳を持った、昨日──日付では既に一昨日か──から彼の家に居候を始めたばかりのドールだった。
 一瞬だけ大量に分泌されたアドレナリンの濃度が急激に下がって行くのが分かった。そうか、『蒼星石』もこの部屋で眠ることになったのだろう。鞄の中には、介抱していた『翠星石』が居るのだ。
「ごめん、見間違えてた……」
 少年は手を放し、頭を下げた。混乱していたらしい『蒼星石』は、その声ではっとして視線を逸らすと、傍らに落ちてしまっていた帽子を拾った。
「アプローズと、間違えてたんですね」
 自然と敬語が出てしまっている。元々、周囲の人間に対してはそういう言葉づかいをするところを、結菱老人と少年、そして水銀燈の言い付けで無理に敬語や丁寧語を使わないようにさせていたのだから、素に戻っただけの話だった。
「うん……ほんと、悪かった。吃驚させてごめん」
 少年はばつの悪い顔でもう一度深く頭を下げた。
「仕方ないですよ。似ているんですから」
 薔薇屋敷の鏡の向こうに居た幻影を思い出して、『蒼星石』は俯いたまま首を振った。顔かたちは似ていないけれども、髪形や服装はとてもよく似ている。暗がりで後ろから見たら、間違えるのも無理はない。それは翠星石と『翠星石』を見ていても分かることだった。
「ありがと。そう言って貰えると、なんか安心する」
 とは言うものの、少年は肩を落としている。相手に対して失礼だったな、と考えて誤魔化そうとしてみるが、大きく落胆している心を否定することはできなかった。
 眠ろう、と思う。疲れがどっと出たような気分だった。たとえ数時間の仮眠でも、明日教室で居眠りをしないためにはそれが必要だ。
 のろのろとソファのところまで戻って毛布を広げ、それからふとまたドールを振り向く。あることに気が付いたからだ。
「……『蒼星石』は、眠らないのかい」
 先程のところに立ったまま、ぼんやりとこちらを見ていた『蒼星石』は、顔を上げて色の違う瞳をこちらに向けた。
「ボクは……」
 不決断に呟く。
 その言葉と躊躇いがちに視線を逸らす仕種で、少年は何かを了解してしまった。

──この子は、双子の姉さんを置いて結菱老人の家を出たことを後悔して、自分を責めている。

 たったそれだけのこと、と言うのは容易い。実際に自分の信じるところを貫いてもっと極端な行動に走った少女を知っている彼としては、元々の姉妹の合意に従って家を出た『蒼星石』の行為は、彼女達の特殊性を除けば後悔も何もする必要のないものに思えている。
 ただ、雪華綺晶の手によってある種の変化を来してしまった『翠星石』を置いて結菱邸を離れることは、『蒼星石』にとって重大な決意が要っただろうし、その決定にどうしても自信が持てないことも分かった。
 だが、眠れないからといって無理をして起き続けていることはできない。人間にとっても、恐らく彼女達にとっても。
 起きていてる間に結論の出ない自責と自問自答に囚われているのなら、尚更だ。たとえ悪夢を見ることになっても、休まなければ急速に消耗してしまう。
「鞄無しでも、一応横になっといた方が良くないかい」
 言いながら、そっと歩み寄ってその小さな手を取る。驚いたように手を引っ込め掛けるドールを、今度はその両脇に手を入れるような形でさっと抱き上げた。
 視線の高さを合わせ、何やらまた混乱しかけているのか不明瞭な発音で何かを言っている彼女に、些か草臥れているのを隠せない、しかし毒のない笑いを向ける。
「人間、寝ないとおかしくなる。『ローゼンメイデン』だって、おんなじだろ? 夜更かしはいけません」
「いえ、ボクは……」
「ああもう、眠くなってきてしょうがないや」
 少年はわざと焦れたような言い方になり、両手で彼女を抱え上げたまま、ソファの上にどさんと腰を下ろした。
 傍らに彼女をそっと下ろす。半ば呆気に取られてこちらを見詰めている彼女の鼻先に指を突きつけた。
「俺はもう寝る。お前さんももう寝る。お互い明日もあるんだからさ」
 それだけ言うと、返事も聞かずにさっさと毛布の中に潜り込む。毛布がわさわさと揺れ、『蒼星石』は思わずその上に座り込んだ。
「猫みたいだよな、『蒼星石』って……いや、蒼い子、って感じかなぁ」
 何やら分かるような分からないようなことを呟き、それからぼんやりと笑みを浮かべる。
「向こうでさ、猫が居たんだよ。オッドアイでさ。なんか翠星石みたいな目の色合いだったけど……あれは……どっちかっていうと翠星石じゃなくて……」
 何に似ていたのですか、と問い掛ける間もなかった。声が途絶えた、と思ったときには、少年は既に寝息を立てていた。
 『蒼星石』は溜息をつき、毛布の上を見回した。狭いソファの上で、少年が器用に身体を折るか何かして、彼女が腰を下ろした辺りにドール一体が横たわれるほどの場所を空けているのに気が付く。

──ありがとうございます。

 少しばかり間の抜けた気遣いだったが、今はその素朴な暖かさが胸に沁みた。『蒼星石』はひとつ頭を下げて、毛布の上で身体を丸めた。鞄の中に入っているときのような恰好だった。
 もっとも、よく知らない誰かが見れば、猫のように丸まっている、と評したかもしれない。いずれにしても、堂々と長く伸びて眠るほどの図太さは、彼女にはなかった。痩せぎすの野良猫のように身体を丸めたまま、彼女は彼の隣で目を閉じた。


「ジュン、やっぱり夢見てないなのー?」
「翠星石が鞄で眠っているのだから、大丈夫と思いたいけれど……」
 しっ、と口の前に指を立てて雛苺を制しながら、真紅は自信のない口調で呟き、ジュンの布団に手を置いた。
 かつての自分なら、もっと敏感にジュンの心の動きを感じ取れたかもしれない。自分が望んだこととはいえ、真紅の胸には残念な気持ちと後悔がじわじわと広がっていた。
 今の二人の関係は以前より遠いものになってしまっている。契約者、と言ってはいるものの、実際に真紅と雛苺が契約を結んでいる相手は翠星石であり、ジュンとは翠星石を介して繋がっているに過ぎない。
 もう少し近くに居られたら、何か別の展開があったのかもしれない。いくらゲームの進行者や裁定者が、ジュンが無意識の海を漂うことを望んでいたとしても。
 いや、そもそも自分がボディを雪華綺晶に与えるなどと言い出さなければ、こんなゲームの展開そのものがなかったかもしれない──
「──普通に夢を見ながら寝ているにしては寝息が規則正し過ぎるかもね」
 水銀燈は淡々と見たままを述べた。自分の声が真紅の内向きに落ちて行きそうな思索を止めてしまったことには気付いていない。

 本来少しは喜ぶなり興奮なりしているところだ、と他人事のように思う。
 アリスゲームの駒としては当然の反応だろう。仮にジュンが眠ったままであれば、ゲームは彼女にとって有利に進むのだから。
 逆に、彼が帰還するまでゲームの進行をまたもやお預けとするなら、逆に引き伸ばしにうんざりして然るべき状況とも言える。
 しかし、今のところどちらの感情も湧いては来なかった。何か予感のようなものがある。ジュンが単独では帰還しない、というような。

 やや疲労を感じながら、首を軽く振って続ける。
「もっとも、眠りに就いてからの時間が長ければ、深い睡眠に入っているのが普通だけど」
「それって、ジュン、朝になったら普通に起きて来れるってこと?」
 間髪入れずに雛苺が問い掛ける。縋るような言い方に、真紅は顎を引き、どう返して良いか一瞬考え込んだ。
「それは……どちらとも言えないわ」
 結局、そう告げるしかなかった。
「水銀燈……」
 雛苺は助けを求めるように黒衣の長姉を振り向く。水銀燈に助けを求めるというのはこれまでの時代ではついぞなかった光景かもしれないが、その場の誰もその点に気が付くような余裕はなかった。
 水銀燈は肩を竦め、ベッドに背を凭せ掛ける。今のところ眠気はないが、横になった方がいい頃合だった。起き続けていたら朝になる頃には酷いことになっているだろう。
「残念だけど、普通に眠っていることは望み薄だし、朝までに帰って来る訳でもないでしょう」
 ちらりと部屋の床に置かれている鞄を振り向く。翠星石のものは閉じられていた。彼女が中で眠っているのはほぼ間違いない。
「翠星石が鞄で寝てる理由は分からないけど、彼女なりに折り合いを付けたってところでしょうね。これは桜田ジュンの戦いだ、とか」
「……うー」
 雛苺は俯いて唸った。
「ずっとずっと起きないとかは、ないよね?」
「ないでしょうね……それにしても」
 水銀燈はくっくっと喉の奥で笑った。不謹慎なのは承知しているが、致し方ない。
「どういう状況か大体見当は付けてるっていうのに、現物を見るといろいろ考えるものねぇ。貴女達もマエストロのことは本人と翠星石に任せたから、あの世界に向かったのでしょうに」
 それはそうだけど、とぶつぶつ言う雛苺には取り合わず、水銀燈は畳み掛けるように付け加えた。
「まあ、最終的に悪い方には転ばないでしょうよ。貴女達にとってはね。今はご本人の意思の堅さを信じて、私達おもちゃの兵隊は眠りに就くべき時間よ。長丁場になるんだったら、貴女達は特に寝ておく必要があるから」
 それよりも、と水銀燈は一つ伸びをする。言いたいことをある程度言い終えて、眠気が漸く迫り来ていた。
「まずはオディール・フォッセーの捜索について、どうするか決めましょう。朝になったらね」
 言い捨てるようにして舞い上がり、開け放たれた窓枠に背を凭せ掛けて座る。やや不安定なねぐらだが、よもや落ちることはあるまい。
「眠らせて貰うわ。貴女達も寝ておきなさい」
 真紅と雛苺が頷く気配があったが、水銀燈はそちらを見ずに目を閉じた。何処からか人工精霊がするりと飛び出し、やや崩れた図形を描いて彼女を周回し始めた頃には、彼女はもう眠っていた。


3

「ずっと同じだ。揉まれて、流されて、突き飛ばされて……」
 不定形のモノはぶつぶつと文句を呟いた。
「何処でもいいからもっと楽な所に行きたい」
 ナナは溜息をついた。何度目の繰り返しになるだろう、と軽い自己嫌悪に陥っている。
「そうですね……」
 言っている間にも、急激な流れが彼等を襲って来る。不定形のモノはそれほど流されなかったが、ナナは不定形のモノを危うく見失うほど流れに運ばれてしまった。
 這う這うの体、というのはこのことを指すのだろう。ナナは無様に這いつくばるような恰好でモノの所まで戻った。

 彼等が大分前からずるずると動き回っているのは、海底のような場所だった。
 ナナがジュンらしきモノと出会ったのは、既に主観時間では数日以上前のことになる。客観的な時間でどの程度経過しているのかはあやふやになってしまっているが、それはさしあたってどちらにも大した問題ではなかった。
 問題なのは、彼等の位置が次第に深みに落ちて行き、いまや全くの底に行き着いてしまっていることだ。
 ナナが接触した時点ではまだそれほど深い場所ではなかったのだが、ジュンらしきモノは緩やかに沈降して行くのを止めなかった。ナナはか細い力を振り絞り、不定形のモノを抱えたり引っ張ってそれを止めようとしてみたが、相手は不快そうにしているばかりで、沈降速度も変わらないままだった。
 底に行き着いたときにどうなるのか、ナナには全く分からなかったが、意外にもナナにも相手にも、今のところはこれといった影響はない。ただもうそれ以上沈むこともなく彼等は底の上を這いずっているだけだった。

 ナナは気を取り直して身体を起こし、ジュンらしきモノに声を掛ける。同時にそれの一部分に触れた。そこだけは、どういう訳か触れられることを嫌がらないのだ。
「浅いところまで行けば、楽になりますよ」
「そればっかりだ」
 相手は相変わらず何処から出て来るのか分からない、くぐもった声で文句を言う。その声はジュンのように思えるのだが、これほど長い間行動を共にしていても、未だ確実なことは言えなかった。
「どっちが浅いところなのか、分からないじゃないか。真っ直ぐ歩けてもいないのはそっちだし……」
「……ごめんなさい」
 ナナは項垂れた。それは全くの事実だった。

 海底の流れは強く、ナナは時折先程のように流れに攫われてしまう。その都度彼女は相手とはぐれかけてしまい、戻るときにもまた流され、と繰り返して酷いときは数十分ほどの時間を費やしてしまう。
 彼女が呆気なく流されてしまうのには、蓄積した疲労も関係している。nのフィールドの中で過ごすこと自体には制限のない彼女にも休息は必要だった。
 長時間連続して探し物をした上に、沈降する彼を少しでも上に引き上げようと無駄な努力を重ねて、彼女は酷く疲れている。しかし、この場所では休むことも侭ならなかった。休息を取っている間に、何処かに吹き流されてしまうのは目に見えている。
 大事に抱えていたはずの人形も、いつの間にか失くしてしまっていた。彼を引き上げようと必死になっている間なのは間違いないと思うのだが、海底に着いたときに気がつくと、小脇に挟んでいたはずの人形は何処かに流されてしまっていた。
 一つだけ良いことがあるとすれば、それはナナが浅瀬や渚の方角を常に感知していることだ。それは彼女特有の能力などではなく、恐らくこちらの世界の薔薇乙女達であっても誰もが持っている方向感覚なのだろうが、兎も角も、行くべき方向が分かっているのは心強かった。
 渚に出れば何が変わる、ということはないのだが、少なくともこんなに流れが強く、かつ速いことはない。そういう場所でなら、ゆっくりと記憶を整理して自分の名前を思い出すこともできるのではないか。そして、できることなら休息もしたかった。

 ナナが頭を上げて進み始めると、不定形のモノもずるずると動き出した。はぐれているときに時折耐えかねたように動いて行ってしまうことはあるが、近くに居るときはナナから離れることはない。ある程度は彼女を信頼してくれているのか、そうでなくても気にかけてくれているらしい。
 その辺りも、不定形の相手がジュンだと思える理由の一つだった。言葉は時折きつく、素直ではないけれども、彼は自分より弱い者に対しては優しかったし、その優しさはどちらかと言えば自分の身に引き付けて考えてしまうからであり、間違ってもナナの姉の見せたような憐憫の情ではなかった。
 今も、彼は──彼がジュンならば、だが──ナナを自分の同類と感じて、彼女の疲れきった無様な姿を見ても、見捨てずに我慢して居てくれるのだろう。

──これじゃ、どちらが相手を救出しようとしているのか、分からない。

 そう考える度に苦い思いが込み上げて来るのだが、しかしナナは、相手の名前を自分から伝えるつもりにはなれなかった。相手がジュンだと確定できた訳ではない、というのがもちろん最大の理由ではあるのだが、彼が自分で思い出すことが重要なのだ、という思いもある。
 彼がジュンだとして、何故急にここまで自己を失ってこんな場所に辿り着いてしまったのか、あまり聡いとは言えないナナには見当もつかない。トラウマを抱えていると話には聞いているから、それが刺激されたのだろうか、と思う程度だ。
 だが、理由が何であれ、彼とオディールやナナの姉妹達とはこの場所に来てしまった原因が違う。彼女達は自分の意思でなく、雪華綺晶の力によって強引に、何を考える必要もない居心地の良い空間に幽閉され、しかも雪華綺晶の死によってその居心地の良い空間を放逐されてここに投げ込まれたのだ。
 しかしもはや、そういった芸当を行える唯一の存在である雪華綺晶は旅立ってしまった。彼は周囲からの圧力、あるいは自分自身の心に従ってここに来たに違いない。
 だとすれば、幾らこちらで名前を教えたところで意味はない。自分自身で名前を見つけようと考え、そして思い出さなければ、彼がこの場から出ることは叶わない。名前を忘れたいほどの何かがなければ、こんなところまで、それも全くの底まで沈み込むことは有り得ないのだから。

 ナナの足が止まったのは、それから二度ばかり流れに攫われ、その度に不定形のモノにぶつぶつと文句を付けられた後だった。
 流れもないのに立ち止まったことを方向を間違ったと勘違いしたのか、彼はまた不平を述べ始める。それを、ナナは振り向いて制した。
「……何か、見えるんです。あっちに……白い何かが」
「何かも分からないのかよ、道案内の癖に」
 彼は遠慮なく言う。こういうときだけ声がクリアになるのは不思議なようでもあり、当たり前のようにも思えた。
 ナナはごめんなさいと頭を下げる。知人達、蒼星石や水銀燈なら苦笑するところだろうが、ナナの心の容量は哀れなほど小さかった。すぐに萎縮してしまうのだ。その上、疲れてもいる。
 だが、今は悄然としていて良いときではない。
「あなたと同じようなヒトかもしれません。行ってみましょう」
 ナナが、ヒト、という言葉を口にしたとき、不定形のモノがびくりと震えた。そんなようにも見えた。
「違ってたら、どうするんだよ」
 彼は言い募る。駄々を捏ねるような言い方だった。
「何度も吹っ飛ばされて時間掛かってるところに、寄り道までするつもりなのか」
 それは当然の抗議ではあった。道案内をすると言っておきながら、結果的に彼を何度も待たせているのはナナなのだから。
 だが、ナナは食い下がった。白という色が気になっている。もしかしたら、という思いがあった。
「違っていても、向こうはわたし達の進む方向です。寄り道じゃありません」
「少しずれてるじゃないか」
 彼の言葉は殆ど抗議のための抗議になりつつある。
「それに、別に他の人間なんかに会いたくない。早く穏やかなところに行きたいだけだ」
「でも……」
 ナナは言葉に詰まった。こんな単純な言い合いですら遣り込められてしまう自分が情けない、と思う。
 横合いからの流れが唐突に襲って来る。姿勢を低くしてどうにか身体が流されることだけは耐えたものの、ポニーテールが中途半端に解けかけ、髪が乱れて左目の上に掛かった。
 一息ついて、のろのろと頭を振って髪を振り払おうとしてみたが、上手く行かない。かといって地面を掴んだままの手を上げて顔を拭うだけの元気は出なかった。仕方なくそのままにして、どういう按配か顔の左半分に髪が掛かったままの恰好で不定形のモノを見詰める。
 このヒトは──彼がジュンであってもなくても──人間を怖がっている。ここまで落ちて来たのも、対人関係が原因であることは疑う余地もない。
 名前を思い出すには、彼はその恐怖と向き合わなければならないのだろう。その恐怖の原因が、どれだけ辛く厳しいものであっても。
 ならば、ここで言い合いに負けて彼の言うとおりにしてしまっては、何も進展しない。
「わたしはこんなダメな案内人ですけど」
 意外にもすらすらと言葉が出て来た。

「あそこに居る人は、あなたを待っていて、ここから先を案内してくれるかもしれません。
 もし、案内のできる人なら、わたしみたいに役立たずじゃなくて、あなたのことを守ってくれて、道を外したり間違えたりすることもないでしょう。
 だから、行ってみる価値はあると思います」

 フン、と鼻を鳴らすような声が聞こえた。
「そんなのわかりゃしない、人かどうかも分からないじゃないか」
 また言葉に押され始めているのをナナは感じた。自分は言い合いで誰かに勝てることなどないのだろう。
 他の人ならこういうときに何と言って切り抜けるのだろう、とつい考えてしまう。もちろん、ずばりと切り込む方が良いはずだ。
 暫く考えてから、ナナは言いづらいことを口にした。多分、水銀燈ならこう言うのだろう、というコメントだった。

「……怖いんですか」

 不定形のモノがぎくりと動きを止める。ナナは構わず続けた。立て続けに言わなければ、またいつものように尻すぼまりになってしまう。
「人間と会うのが、そんなに怖いんですか。同じ人間同士なのに」
「そんなことある訳ないだろ」
 やや焦ったような声で、彼は反論した。
「人間が怖いなんて、あるもんか。ただ──」
「──なら、行きましょう」
 相手の返事を皆まで聞かずに、ナナは這いつくばるのを止めて立ち上がった。言うだけ言ったからには、行動も示さなければならない。
 できる限り背中を伸ばして髪を整え、幸いにもまだ残っていたリボンでどうにかポニーテールに結い直す。そのまま、へっぴり腰になりながらも二本の足で歩き始めた。

──これで正しかったのだろうか。

 前を向いて歩きながら、一歩ごとに疲労感が募り、後悔と不安がひしひしと押し寄せて来るのを感じる。
 彼は煽るような言葉に反撥を感じているはずだ。これ以上ついて来てくれないかもしれない。愛想を尽かして何処かに行ってしまうかもしれない。
 元々、ナナに深い考えがあっての言動ではないのだ。水銀燈ならこう言い、こう振舞うのではないか、という推測のままの、言わば彼女の真似をしてみただけの行動だった。
 本物の水銀燈なら彼が本気で動かなければ追従できないほどの素早さで前に進むか、一旦置いて行ってもいいという気分で目標に向かうはずだ。それに比べれば実に情けない話だが、ナナにはこれが精一杯の虚勢だった。
 立ち上がりはしたものの泳ごうとしなかったのは押し流されるのが怖いからで、途中一度も背後を確認しなかったのは、それもやはり怖かったからだ。逆に言えば彼女のなけなしの勇気などその程度のものでしかないのだろう。
 ともあれ、今回に限って流れに攫われなかったのは彼女にとって幸いだった。流れ自体も全般的に淀んで来てはいるものの、突風のような流れが一つあれば、ナナはあっという間に流されてしまっていただろう。

 白いモノの姿がはっきりしてきたところで、ナナは漸く足を止めた。
 案の定、白いモノは人間だった。それも──

「──オディール・フォッセー……」

 鮮やかな金髪、白いワンピース、人形のような美しい顔立ちは、桜田家で見掛けたときのままのように思える。
 やっと見付けた、自分で見付けられた、という感動は、思っていたよりも小さかった。それよりも、『翠星石』や『雛苺』が言っていた不定形の状態と違うことを訝しく思う気持ちと、彼女もまたここまで沈んでしまっていたのか、という感慨のようなものが先に立っている。
「オディールさん」
 また歩き始めながら、恐る恐るナナは呼び掛けた。反応はなかった。
 自分の名前を覚えているかいないかは分からないが、同じ部屋に居もしなかったナナのことなど分かる訳がないことは理解している。それでも、近寄りながらもう一度ナナは彼女の名前を呼んだ。
 オディールは顔を上げてこちらを見る。自分の名前に反応したというよりは、音と気配に気付いたという雰囲気だった。
「だれ……?」
 ぼんやりとした言葉だった。普段あまり大きく見開かれない瞳は、今も眩しい物を見るように細められている。
 それが優しく儚いものに見えるのは、以前見た、雛苺を抱いているときの雰囲気が印象にあるからだろうか。そう、少なくとも雰囲気はあのときと同じだった。何処か夢見るような、まるで──。
「ひな……なの?」
 その優しい口許が僅かに綻び、期待と不安の入り混じった声が発せられる。
「おいで、ひな……今度は、私を苛めないひな、だよね?」
 ゆっくりと、細い二本の腕が伸ばされる。細めている目が一層細くなり、一種幻想めいた美しさを彼女に与えていた。
 オディールが何を言おうとしているのかナナには分からなかった。言葉は聞こえているが、何を言いたいのかが理解できない。
 ただ、彼女の伸ばされた手に抗えない何かを感じてしまった。
 ふらふらと、操り人形のようにそちらに歩いて行く。周囲の流れは淀んでいて、ほとんど無風と言っても良い状態だった。
 オディールはゆっくりと微笑み、その手がナナの肩に触れそうなほどに近付いて──

「──やめろっ」
 彼の鋭い声が後ろから飛んだ。今までは考えられなかったほどの明瞭な発音だった。
「何に向かって歩いて行ってるんだ! そいつはただの人形じゃないかっ」

 はっと気付いて、ナナは足を止めた。その瞬間、斜めに流れが吹き抜け、彼女の目の前にあったものを揺らした。
 ナナは声にならない溜息をついた。落胆なのか安堵なのかは分からない。
 目の前にあったのは、オディール・フォッセーの姿ではなかった。見覚えのある人形だった。
 何故こんなところにあるのかは分からないが、彼女が失くした人形が、岩のようなものに背を凭せ掛けた状態で引っ掛っていた。流れに沿ってゆらゆらと、頭部と両腕が揺れている。
 ナナは機械的な動作で人形を岩から取り上げ、きつく抱き締めるとへなへなとその場に座り込んだ。
 失くしものを見付けた、という高揚は全くなかった。何故ここにこれがあるのか、という疑問も浮かばない。ただ細い何かがぷつりと切れたような感覚があるだけだった。
 疲労感と失望がどっと押し寄せて来るのが分かる。

──そうだ、そんなに都合良く進むはずがない。

 当たり前のことを、今更のように思い知らされた気分だった。
 どちらかと言えば幻覚を見せる側の自分が、幻覚を見てしまっていたのだ。それほど疲れていたのだろう、という思いよりも、自分は所詮無力な自分でしかないのだ、といういつもの後悔と自責が、じくじくと心を蝕んでいる。
 自分はどうしていつもこうなのだろう。何も出来ないくせに、それを毎回思い知っているくせに、ほとぼりが冷めれば何か出来るような気がして動き出し、挙句に徒労でしかない行動をしてしまうのは何故なのだろう。
 今もそうだ。彼に向かうべき方向を指示し、名前を教えてやればいいだけの話ではないか。彼が名前を思い出すのに任せる、そのためのヒントを一緒に探すために渚の方に向かう、などと戯けたことを言っているお陰で、結果的に彼を何度も何度も待たせるような破目になってしまっている。
 命令されて動くことさえ侭ならないほど無力なのに、自分勝手に動こうとするからいけないのだ。いっそ何もせず、何にも手を出さずに、あの小さな世界で『真紅』の言うが侭に使役されている方がよほど何かの役に立てるのではないか。

「……どうしたんだよ」
 すぐ後ろで彼の声がする。それは先程の声とは打って変わって、またくぐもったものになっていた。
 オディールだと思っていたのが人形だったように、彼もまたジュンではないのかもしれない、と疲れた頭の何処かで考える。きっとそうだ。彼が急にこんなところにやって来るはずがないし、ぐずぐずになるほど自我を失ってしまうことも有り得ない。
 第一、自分がそういう、誰かのためになるような邂逅をするはずがない。これまでも、姉妹ひとり見付けることができていないのだから。
 ジュンは今頃、翠星石や真紅と一緒になってオディールの救出の算段を立てているか、ここのところ毎日そうしているように復学の準備に勤しんでいるに違いない。そして、時折考えているかもしれない。こんな忙しいときに、ナナは連絡もせずに何を遊んでいるのだ、と。

「おい」
 もう一度、どうしたんだ、と尋ねて来る彼に、ナナは人形を抱き締めたまま力なく首を振った。
「なんでもないです。間違えて済みませんでした……」
「全くだ。急に人形の方に進み始めたりして」
 彼は容赦なく言った。
「進む方向まで逆になったりしたら、もうお前と一緒に動くのを止めようと思ったところだぞ」
「ごめんなさい」
 ナナは背を向けて蹲ったまま頭を下げた。無作法なこととは分かっていたが、草臥れ果てて後ろを向く気力が残っていない。
 舌打ちのような、鼻を鳴らすような、なんとも言い難い雰囲気が伝わって来る。彼は苛立っているのかもしれない、と幽かに臆病の虫が騒いだが、続いて聞こえてきた言葉は意外なものだった。
「ったく……まあ、見付かってよかったな、人形は」
 人形は、という部分を殊更にゆっくり、かつはっきりと言ったのは厭味のつもりなのだろう。だが、少なくともそれは罵倒の言葉ではなかった。
「人間と人形見間違うなんてドジ過ぎだろ。……少し休めば?」
 え、と思わず声が出た。恐る恐る振り向くと、不定形の塊はすぐ近くで、彼女を覗き込むようにしていたが、ばつが悪そうにずるずると数歩分後退した。
「ここなら流れも緩いし、こ、こっちもお前に引っ張り回されて疲れてるんだよ。だから暫く休む。もう何日動きっぱなしだと思ってるんだ」
 僅かに照れが入ったような言葉に、ナナは胸の奥が暖かくなるのを感じた。
「ありがとうございます……」
 自分の了見が狭かったことを改めて感じる。
 彼がジュンかどうかなど、どうでもいいことだった。そう考えていたからこそ、彼にジュンという名前を教えずに、渚まで連れて行くことを優先したはずだ。
 今はこの人の記憶を呼び戻す手助けができればそれで良い。オディールの探索とは両立できないけれども、それは許されない寄り道かもしれないけれども、少なくとも彼は自分を見限らずに居てくれているのだし、今この場で彼を助けることができるのは自分だけなのだから。
 人形を抱く手を緩め、ナナはぺこりともう一度頭を下げると、人形の引っ掛っていた岩に背中を凭せ掛けた。
 この場所では眠るということはないけれども、こうして静かにしていれば少しずつ回復はできる。あまり長い休息になってしまうと彼は怒るだろうが、それまでは彼の言葉に甘えようと思った。


4

 目を覚ましたときにそこに居たのか、そこに来た気配に気付いて目を覚ましたのかは定かではない。兎も角、少年が目を覚ますと、彼の胸の辺りに身を乗り出している小さな人影があった。
 長い髪に緑色のドレス。横顔でも分かる、きつい印象のある瞳。『翠星石』だった。
「ん……?」
 彼が何か言いかけるのを、彼女はこちらを向き、口に指を当てて制した。そのまま、自分の居る方と逆側を指し示す。
 彼は一瞬訝しげな顔になったが、掛かっている毛布をなるべく揺らさないように注意しながら、上半身を僅かに起こして彼女の指し示す方を見遣り、ああ、と頷いた。
 彼が横たわっているソファの背凭れの側に、身体を丸めて彼女の双子の妹が眠っている。まるで人間のように、すやすやと長い寝息を立てていた。
 身体の向きだけ見れば彼にしがみつこう、寄り添おうとしているようにも見える。だが、それにしてはやや間が開いていた。そこに彼女の中途半端な位置と、それに対しての葛藤がある──などと余分な思索を巡らす少年ではなかったが、何か抱えているものがあることだけは理解していた。
 ふむ、と一つ頷き、『翠星石』をひょいと抱き上げてやや離れた所に下ろす。何をされたのか分からずに目を白黒させている相手に、しっ、と口を開かないようにというジェスチャーをやり返し、そろそろと転がるような形で毛布から抜けて床に降りた。
 中腰になりながら見てみると、ソファの上の『蒼星石』は未だ眠っているようだった。彼はよしよしと笑みを浮かべ、まだよく事情を飲み込めていない『翠星石』をまた抱き上げる。
「……顔、洗って来るから、後宜しく」
 彼女の耳元で囁いて、ソファの上、双子の妹の脇にそっと下ろす。まだ混乱したままの彼女が、それでもこくりと頷くのに笑顔を返すと、背を伸ばして抜き足差し足で部屋を出た。
 廊下に出てドアを閉め、一息つく。何故かはよく分からないが、少し緊張していたらしい。眠気も消えていた。

「随分といい恰好してみせたもんじゃないですか」
 呆れたような、多少本音も混じった声が後ろから掛けられる。振り向くと、翠星石はキッチンに向かうところだったらしく、珍しくエプロンをドレスの上から掛けていた。何か汚れそうな仕事でもするのだろうか。
「ああやって誰にでも愛想を振り撒いてるんですか? 少しは蒼星石を特別扱いしてやったらどうです」
「そんなこと言われてもなぁ……」
 少年はぼんやりと抗議しかけたが、ふと思い直したようにごめんと頭を下げる。
「昨日、結菱さんにも言われたっけ……浮気か、って」
「あの可愛い子ですね」
 むう、と言って腕を組み、ついとまたキッチンの方に向き直る。
「アンタに言ってやりたい事は山ほどありますけど、時間が惜しいです。シャワー浴びて来ていいですから、後でキッチンに手伝いに来やがれですぅ」
 お風呂はあっちですからね、と指差しながらすたすたとキッチンに入って行く後姿は、心なしか幾分大きく──小柄な少女のように──見えた。
 昨日、桑田由奈が翠星石を見ても動揺しなかったことを思い出す。彼女にも翠星石がごく普通の少女に見えていたのだろうか。
 それだけ翠星石の存在感は確かなものがある、ということだ。根無し草のような不安定な神秘の人形でなく、この現実世界にしっかりと根を張って生きている存在になりつつあるのかもしれない。
 それが至高の少女に必要な成分かどうか、といった難しいことは少年には判断できない。彼が感心しているのは別の事柄だった。

──蒼星石だけじゃない。桜田のこともあるのに、大した貫禄だよな。

 言葉にする者によっては皮肉な台詞にもなりかねないが、彼は素朴に翠星石を尊敬していた。子供子供したところもあるのに、きっちりと生活のリズムを守っている。
 もっとも、水銀燈と対抗するにはその程度の図太さが必要だということも分かっている。やや方向性は違うけれども、水銀燈もまた確実な存在感を持った少女で、冷徹というよりも非情なまでの割り切りができる人物であり、更に翠星石にとっては最後に残った敵でもある。
 やはり戦いになるのだろうか、とぼんやり考える。これだけ協力して物事に当たれる姉妹達が、何故お互いを倒してその命を受け継がなくてはならないのか、彼にはどうにも腑に落ちない部分があった。
 いや、それが──命を受け継ぐ、命を託すほどの絆というものが──必要だということは聞き知っている。憎悪をぶつけているのでなく、相手の力量を信じて託すために戦うのだ、ということも頭では分かる。しかし、何処かに釈然としないものが残るのもまた事実だった。
 首を振り、それ以上は考えないことにして、彼は着替えを入れたバッグを持ちに玄関に向かった。シャワーまで使わせて貰えるなら言うことはない。正直なところ、昨日の夕方からのあれこれで身体は大分汚れてしまっているはずだ。

 一時間ほど後、少年は時折頬を手で押さえながら、朝の道を薔薇屋敷に向かって自転車を漕いでいた。
 シャワーを浴びて来いと言われたまでは良かったものの、それからものの数分と経たない内に、脱衣所で半裸の水銀燈と鉢合わせしたのはとんだ余興だった。細い手で強かに頬を張られた跡が未だに疼いているような気がする。
 同じようなことをやらかして、同じように手酷いしっぺを食らって以来、自宅では十分注意していた。それがよりによって桜田家で彼女の姿を見てしまったのは何とも間が悪いとしか言いようがない。
 ハンドルに手を戻しながら、まぁ悪いばかりじゃないさ、と独りごちる。
 如何にも彼らしい間の抜けた事件が、朝食に並んだ一同の空気を僅かなりとも和ませたからだ。

 約束どおりシャワーを浴びてから手伝いに行ったときにそのことを話すと、のりと翠星石は表面だけでも笑ってくれた。翠星石は興が乗ったのか、椅子に上ったついでに彼の額をぺちんと叩いたが、特に痛くはなかったのは本気でなかった証拠だろう。
 ジュンと直接に契約している彼女が落ち着いているお陰か、真紅と雛苺も──真紅は皆の前では大抵いつも泰然としているが──ジュンが朝になっても未だに深い眠りに就いたままだということを確認しても、途方に暮れることも不安に潰されそうな表情をすることもなかった。
 尾鰭の付いた話を翠星石から聞いて雛苺は大笑いしたし、真紅は顔を顰めながらも不肖の弟子を巻き毛で一つぴしゃりとやっただけに留めてくれた。打ち据えた後で一瞬微笑んでみせたのは、彼の行動をこうなることを見越した上でのものと勘違いしたのかもしれない。
 『翠星石』と『蒼星石』もどうやら無事に朝食の席に並んでいた。抱えているものの大きさのせいか、それとも『水銀燈』が同じテーブルに着いていることに緊張を隠せなかったのか、それぞれ僅かに表情を緩めた程度だったけれども、少なくとも機嫌は悪くしなかったし、やや緊張を解いたことも間違いなかった。

 そんな朝食の光景を思い返している内に、自転車は薔薇屋敷の門前に着いていた。
 自転車をいつものように門の内側に引き込んで停める。ここからは歩きで学校に向かい、帰りに剪定の指南を受けた後で自宅まで乗って帰る予定だった。
 結菱老人に挨拶と昨晩の説明をしなくては、と玄関に足を運びかけ、思いついてちらりと腕時計に視線を向けてやれやれと息をつく。案の定、まだ老人は寝ている時間帯だった。
 報告は後回しにしよう、と建物に背を向ける。ジュンの件は翠星石が相談に行くことに期待しようと勝手に決めた。翠星石が老人に相談することよりもジュンの傍に附いていることを優先したとしても、彼自身放課後にはここに戻って来るのだから、そのときに話せば良いことだ。
 老人の寝坊は兎も角として、少年はのりに頭を下げたい気分だった。彼女が気を利かせて朝食を早めにしてくれたお陰で、まだ通勤通学の人影もまばらな時間帯に桜田家を出ることができたのだ。結果として薔薇屋敷にもスムーズに辿り着き、多少早過ぎるきらいはあるとしても、少なくとも遅刻せずに登校できる。
 黙ってそういった心配りができるのりは、神経質だが生活能力に長けていそうもないジュンには欠かせない存在なのかもしれない。もしかしたら薔薇乙女達よりも、ジュンにとって必要な存在は──。
 昨晩別れた、約五年後ののりと自分を思い出す。この世界でも、もしかしたらそういう未来があったのかもしれない。
 何やら妙な気分になって来て、少年は自分の頬をぴしゃりと叩く。よし、と自分自身に気合を入れるように声を出し、庭に異常がないかをざっと一回り見回してから門を出た。


 門扉を元どおり直して屋敷に背を向け、屈み込んで置いておいた鞄に手を伸ばしていると、歩いて来た誰かが彼の前で立ち止まる気配があった。
 おや、と顔を上げ、訝しげに瞬きながら背を伸ばす。目の前に立っていたのは、意外と言えば意外だが、よく知っているといえば知っている少女だった。
「お、桑田……おはよ」
「おはよう」
 桑田由奈はにっこりと笑った。
 相変わらず可愛いな、と少年はありきたりな、ある意味で感情の篭っていない感想を抱く。最近、どういう訳か彼の周りには美人ばかりなのだが、それでも由奈は年頃の可愛さという点では恐らく一番か二番だろう。彼女には薔薇乙女達や巴、のりといった人物達とはまた違った可愛らしさがあった。
 もっとも、彼にとって由奈の外見云々は目下の疑問とは全く関係がない。
「なんでまた、ここに?」
 彼女がここにいる理由が少年にはよく分からなかった。そもそも彼女の家はこちらの方向ではない。それは昨日自転車の後ろに乗せて行ったから知っている。
 学校に向かわずにここに来たのだとすれば、かなりの回り道になるはずだ。もちろん、それを見越して始業に間に合うように家を出てきたからこそ、今少年と顔を合わせているのだろう。
「なんか忘れ物でも……」
「ううん、特にないよ」
 由奈は大きな鉄格子の門越しに薔薇屋敷の中を覗いた。
「……まだ、結菱さんはお休みなの?」
「多分まだ寝てると思う。結構夜更かしだからなー」
 少年も釣られるように屋敷を眺め、自分の言葉に苦笑した。
 結菱老人はデリバリーの業者が朝食を置いて行く頃にならないと目を覚まさない、と蒼星石が言っていたのを思い出す。彼女という存在が居た頃でさえそうだったのだから、起こしてくれる人物が誰も居ない今朝などは、昼近くまで寝ていてもおかしくない。
 案外、『翠星石』が帰るまで起き出さないのではないか。もっとも、彼女が桜田家から早々に帰宅するかどうかは分からない。『蒼星石』の契約者探しを手伝う可能性もある。
 由奈に向き直ると、彼女は少しばかり心配そうな表情になっていた。
「いいの?」
「え、何が?」
 意味が分からずに少年がぱちぱちと瞬くと、由奈は小首を傾げた。
「結菱さんを起こしに来たんじゃないの?」
 なるほど、と少年は心中で頷いた。確かにそういう風に見えてもおかしくはない。
「俺にはちょっと無理かな……」
 少年は首を竦めた。残念ながら、少年に起こされたとなれば老人は不機嫌になるに違いない。あるいは何事もなかったような顔で二度寝を決め込むかもしれない。
「自転車置きに来たんだ。今日も放課後ここに寄るから」
「毎日なんだね、ほんとに」
 由奈はふっと微笑んだが、すぐに真顔になった。若干言い辛そうにしていたが、さほど間を置くこともなく口を開く。
「……桜田君、大丈夫かな」
「んー……」
 少年は一拍ほど間を置いた。咄嗟に何と言えば良いのか、言葉が出て来ない。

 大丈夫かどうか、というのも曖昧な言い方だが、それに対して、大丈夫だ、と胸を叩ける状態ではない。
 ジュンは今、親しい人々が手を触れることのできない深い所まで意識を沈め、夢も見ずに閉じ篭ってしまっているという。そこからいつ帰って来るのかすら定かではない。
 さりとて、駄目だ、と首を振るような状況でもない。ジュンは死んでいないし、翠星石との契約も解いていない。一旦手の届く所まで戻って来れれば、何事もなかったかのようにまた日常に戻り、再登校への道を辿ることもできるだろう。
 ある程度信用して良い事柄があるとすれば、それは、翠星石をはじめとするジュンと契約で繋がっている少女達が、誰一人彼の帰還を疑っていないことだ。彼は間違いなく目覚めはするだろう。但し、それが喜ばしいものになるか辛いものになるかは分からない。

 そして、由奈が今思い巡らしていたのはその先の事柄だ。彼女は逃げ出したジュンがどんな状況に陥っているかなど知る由もないのだから。
 帰って来たジュンが今後の身の振り方についてどう判断するのか、その結果どうなるのか。その辺りは、今のところは何一つ確実ではない。
 しかし、正直にそう申し述べてしまうのも問題だった。
 彼女は正確な答えを求めているのではないだろう。大丈夫だ、と言われて安心したいのだ。但し、それにはある程度裏付けのある言葉が続かなければならない。

 少年は一つ息を吐いた。こういう弁舌は彼の得意とするところではないが、やるしかない。
「桜田は学校に行きたがってる。もちろん普通に登校するって意味でだぜ。なら、桑田といずれ顔を合わせるのは分かってたはずだ。こんなことで一々逃げてたら駄目だ、って思ってるのはあいつ本人だと思う」
 ほら、あいつプライド高いからさ、と声を潜めると、そうなのかな、と由奈は小首を傾げた。少年はうんうんと頷いてみせる。
「ダメだダメだって思ってるから、そっちがプレッシャーになってるんだろうな。でも、あいつは一人じゃないから」
 ただ、言っている本人がそこに自信が持てないのも事実だった。

 ジュン自身が今でも周囲に支えられていることに気付けるかどうか。気付いても、その支えている人々に対してまで虚勢を張るのを止められるかどうか。
 支えている人々の更に外側に居る少年には何とも言えなかった。虚勢を張るのを止めたら止めたで、閉じ込めていた恐怖が表に出てしまい、今度こそ社会との関わりを絶ってしまうかもしれない。そのくらい脆弱で繊細なのだ、ということだけは感じ取っている。
 薔薇乙女の契約者というものは、そういった部分を少なからず持っているのだろう。
 柏葉巴や結菱老人にしても、あるいは殆ど面識はないが草笛みつにしても、案外か細い糸で辛うじて現実と繋がっているだけなのかもしれない。だから、同じような存在であるジュンと共に事業を起こして、寄り添おうとしているのか。それもまた、未熟な少年には感覚的に理解し難い部分ではある。

「……そうだね。大丈夫だよね」
 由奈はまだ釈然としない様子で彼を見上げていたが、しかし自分自身に言い聞かせるように一応は頷いてくれた。
 懐疑的な気分が顔に出てしまっていたのかもしれない、と少年は反省する。元々、彼はポーカーフェイスとは無縁だった。
 そろそろ行こうか、と通学鞄を持ち上げる。軽く頷いた由奈の隣に並んで通学路を歩き始めると、まだ彼等の通学時間には早いものの、そろそろ周囲にも人通りが増え始めていた。
 歩いてみると、晩秋の朝の空気は冷たかった。薔薇屋敷に着くまで意識していなかったのは、朝食の熱が残っていたからなのか、いい調子で自転車を漕いでいたせいなのか。
 一度は学年一番の美人とされた少女と並んで歩いているにもかかわらず、気分はなかなか高揚しない。それは由奈の方も同じように見えた。
 暫く他愛のない話を交わしながら歩いた後で、由奈は少年の顔を見上げた。
「さっきの話……」
「ん?」
 少年は瞬いた。咄嗟に何のことか分からなかった、という訳ではない。
 最初に尋ねかけた後、有耶無耶になりかけている話題があるのは常に意識していた。だが、それを尋ね直せる雰囲気ではなかったのだ。
 何処となく気分が乗らないままだったのも、それが原因の一つだった。
「私が結菱さんの家に行った理由、聞きたかったんでしょ」
「うん、聞こうとしてた」
 曖昧にぼかさず、少年は頷いた。嘘をついても仕方がないし、彼女が直接結菱老人に会いに行こうと決めたことと昨日の出来事が関連しない訳がない。
 由奈は胸に手を当てて一つ息をつき──まるでそれは真紅のような仕種に見えた──、覚悟を決めたように言った。
「私、昨日の晩帰ってからずっと考えてたの。桜田君にもう一度会ってみようか、止めた方が良いのかって。結菱さんに相談に行こうって思って、早めに出て来たんだけど……」
 由奈は言葉を一旦切った。少年は一つ瞬いて、無言で軽く頷く。由奈はやや表情を弛緩させた。
「でも、寝てるんじゃ仕方がないよね。わざわざ起こしたら失礼だもん」
 少年は前を向き、大きく伸びをするような素振りをして頭の後ろに手を組んだ。鞄をぶらぶらさせ、自分の背中を二度ばかり叩いてみる。
 いい子だな、と素直に思うのは、彼に既に心に決めた人が居るからなのか、由奈の態度が色恋を感じさせないものだからなのかは分からない。どちらにしても、例の一件では完全にとばっちりを喰っただけなのに、あれだけの態度を示されてもまだジュンのことを気に掛けるなどということは普通はないことだ。
 ジュンは気付いているのだろうか。自分の周囲にそうした善意が溢れ返っていて、なおかつそれらが概ね彼のプライドを傷付けない方向に気遣って動いてくれていることを。
 気付くことはないのかもしれない。それはそれで良い。ジュンは自分で考えているほど周囲に拒否されている訳ではないし、あらゆる点で恵まれている方だと少年には思えるのだが、何をどう取っても悪い方にばかり考えるのも、恵まれた存在の特権のようなものなのだろう。
「寝起き良くないからなぁ、あの人は」
 少年は少しばかり見当外れのようなことを言ってから、また由奈に視線を戻す。
 由奈は頷いたのか俯いたのか曖昧な仕種で前を向いた。
「結菱さん、桜田君の友達だって言ってたし、ほんとによく知ってるみたいだったから」
「そっか、確かに」
 友達というよりも同類と呼んだ方が的確なのだが、少年はそこまで細かいことを言うつもりはなかった。
「昨日もアドバイスしてくれたし……でも、無駄になっちゃった」
 由奈は独り言のような調子で言い、そのまま半歩前に出て、彼を振り向こうとはせずに尋ねる。
「栃沢君は……?」
 躊躇いがちな声音だった。ちらりと横顔を見遣ると、由奈は言葉の調子そのままの冴えない表情で斜め下を向いていた。
「どう思う? 桜田君の家まで行って、私気にしてないよ、それより忘れようって言った方がいいと思う? それとも、行かないで桜田君が学校に出て来るのを待ってた方が良いのかな?」
「んー……」
 少年はまた鞄をぱたぱたと動かした。
 ジュンの現状を話すべきなのか。話してしまえば、昨日の『翠星石』や翠星石との絡みもあって、なし崩し的に複雑怪奇な状況になっている薔薇乙女関連のことも説明せざるを得なくなるのではないだろうか。
 いや、それは兎も角として、現状を知ったとき由奈はどういう反応を示すのか。その方が問題だ。

──今日に限って早起きしててくれたら良かったのになぁ。

 建物の中まで入って確かめようともしなかったことも棚に上げて、少年は結菱老人に理不尽な注文を付けてみる。当然、逃避行動の一つであることは分かっていた。答え難いものだから、ついそちらに逃げたくなっているのだ。
 しかし、どの道老人はここには居ない。じかに名指しで意見を求められているのは少年自身だった。
 嘘は言いたくないが、到底全てを話す訳にも行かない。話術に自信のない彼にとっては難しいところだった。
 そうだな、と老人臭く一息ついてから、やや上を向いて口を開く。結局、あれこれの説明は省いて、素直に今の気持ちを言うしかないのだろう。
「俺達に、忘れて、って言ってた桑田がそこまで悩んでるんだから、お互いに忘れるってのは無理かもしれない……桜田の方では忘れられても、桑田は忘れられないと思うんだ」
 そこで一旦言葉を切り、由奈の肩をつついて脇に寄る。狭い街路にもかかわらず、自転車の一団が結構な勢いで通り過ぎて行った。何処かの高校の部活らしい、校名を縫い取ったお揃いのジャージの背中がどんどん小さくなっていく。
 何を急いでるんだか、と肩を竦めてから、少年は言葉を続けた。
「会いに行って少しでも桑田の気分が軽くなるんなら、行った方が良いと思う」
 のりの困ったような表情が脳裏を過ぎる。それでも彼女は、ジュンが臥せっているからといって無碍に追い返すようなことはしないだろう。
 翠星石や真紅の非難めいた顔も浮かんで来たが、少年はそれを頭の隅に追い遣った。彼女達には彼女達の事情があるように、クラスメートとしてのこちら側にも、相応の事情はあるのだ。
 そこまで考えて、ある人物のことを思い出す。この場の流れで自分が相談を持ちかけられているが、由奈も本来はそちらに話を持って行くべきではある。
 自分よりもジュンや薔薇乙女達に近い彼女ならどう答えるのだろう、と思いながら言葉を続ける。
「だけど、ほんとに軽くなるかどうかは分からないし、桜田の家に行ったら桑田が不快になったり悲しくなることだってあるかもしれない。俺はそっちの方が心配かな」
「それは、覚悟してるから」
 由奈は歩き出しながら、自分に言い聞かせるように言い、それから彼を見上げるようにして口調を軽くした。

「私はうんと後悔すると思う。今までだっていつもそうだったもん。
 学年プリンセスの時だって、後から凄く後悔した。断っとけば良かったー、って。
 でもね、行っても行かなくても後悔するのは同じで、後悔の量も同じくらいって思うの。私、そういうタイプだから。
 だから、私はどっちでも同じかなって。桜田君が顔合わせられるかどうか、後で落ち込んじゃったりしないか、それが心配なだけ。……できたら良い方に向いて欲しいし、私が会って良い方に向いてくれたら嬉しいけど」

 少年は眩しい物を見るときのように目を細め、そっか、と短く呟いた。実際に眩しいほど由奈の表情は晴れやかだった。
「それなら、放課後行ってみることにするかぁ」
 視線を外して斜め上を向き、いつものようなとぼけた調子で言ってみる。
 由奈がほっと息をついたのが気配で分かった。それは、少年も同行するという意思表示だったからだ。
「ただ、行くならもう一人連れて行きたいんだけど、いいかい」
「良いけど……誰?」
 訝しげに尋ねる由奈に視線を戻し、少年はやや真面目な顔になる。
「柏葉さ。多分、あいつは俺達より桜田のことをよく知ってるから」
 由奈はぱちぱちと二度ほど瞬いたが、そっか、と少年のように呟いた。


5

「オディール・フォッセーが切実に求めているのは、要するに依存できる対象。これは間違いないと見ていいわね。それが「ひな」というモノに集約されていることも」
 窓枠に座った水銀燈は横目でちらりとベッドの上のジュンを見遣った。既に朝食が済み、少年とのりは家を出てしまっているのだが、相変わらず彼が起きる気配はない。
 こんな場所で話し合いを持つのは如何なものか、と思わなくもないが、翠星石の希望とあっては致し方がない。オディールの意識を取り戻す間休戦とする、という合意は、厳密には水銀燈と翠星石の二人の間で成り立っている事柄なのだ。その一方の要求とあれば無碍にはできない。
「いっそ思い切り依存できるような相手と契約を結べば、安定するかもしれないけど」
「それには、まず契約を結べる状態にならなくては」
 真紅は息をついた。不安そうな視線を向けて来る双子のドールに気付いたのか、視線を上げて苦笑する。
「それに、彼女が元のように現実に生きられるようになっても、人形との契約よりも人間との関係を持った方が健全なのだわ」
 真紅なりに釘を刺したつもりかもしれない。『蒼星石』が契約者を探していることは彼女も知っているし、その生真面目で優しい──特定の者に対するものを除けば、という注釈が付くことも含めて──性格も暫くの間に掴んでいる。
 しかし、こちらの世界の薔薇乙女達のそれよりもかなり自由度の高い、ある意味で「軽い」部分のある『蒼星石』達の契約であっても、決して妄りに結んでよいものではない。彼女はその点に関して潔癖とは言えなくとも慎重だった。
「ま、対人関係が上手く行けば言うことはないんだけど」
 水銀燈はもう一度、今度はジュンの方に視線だけでなく顔を向けてみせた。彼も同じことだ、という意思表示だった。
「なかなか、思うように進まないのが厄介ね」
 その場の雰囲気がやや消沈してしまったのは、水銀燈のこれ見よがしな素振りを誰もが理解したということだろう。

 考えてみれば、真紅がジュンの部屋にやって来てから既に半年以上経過している。その後雛苺が加わり、翠星石が加わり、今ではこの部屋には都合三人の少女が寝泊りするようになっている。
 彼女達に共通しているのは、ジュンから力を分けて貰うだけでなく、彼を見守ろう、復学という彼の思いを遂げさせようという意思だ。それは水銀燈が持たなかった、もしかしたら彼女達にもこれまでの時代ではさほど強くなかった意思なのかもしれない。
 この時代が最後となるから必然だったのか、ここまでの積み重ねの上に彼女達があるからなのか、あるいはジュンという人物の特殊性が齎したものなのかは分からない。
 いずれにしても、その意思にかかわらず彼女達が未だにジュン一人中学校に送り出せていないのは事実ではある。この上オディール・フォッセーの面倒まで看られるのか、と考えて自信がなくなってしまうのも当然だった。
 オディールはまた事情が違う、ということはここに居る姉妹の全てが承知してはいる。流石に彼女のケースの方がより難しい、ということはないだろう。しかし、大変な道程になるのは間違いない。

 既に契約を解かれた、それも自分達が契約した訳でもない相手にそこまで心を砕くということがお節介に過ぎないのか、最後の時代に半ば強制的に関わらせてしまった相手に対する最低限の謝罪と奉仕に当たるのか、微妙な部分でもある。ただ、これまで契約者達の後始末を付けてきた雪華綺晶が居なくなったからには、自分達が代わって後の面倒を看なくてはならない、という思いは姉妹に共通しているようだった。
 オディールに対するある種の拘りが自然に姉妹の共通認識となっていることには、雪華綺晶の世界にあった棺の中に並べられたかつての契約者達の姿を見たことが影響している。
 契約を解いた元契約者が精神的に弱ったところを捕獲し、彼等が死ぬまで糧として吸い尽くしてきた雪華綺晶に対して、彼女への敵意や憎悪ではない何かが姉妹達に生まれているのだ。オディールが彼女の恐らく最初で最後の契約者だったのも、巡り合せの妙と言うべきかもしれない。

「愚痴言ってるだけじゃ埒が明かねーです」
 翠星石は立ち上がり、淀んだ空気を押し流そうとするように強い口調で一同を見回した。最後に視線を水銀燈のところで止める。
「向こうに行って来て、何かお得意の考察の足しになるものはなかったのですか」
「あったわよ、今言った「ひな」のこととかね」
 水銀燈は窓枠に座ったまま、にやりとしながら窓外に視線を転じてみる。
 お得意の考察、というのはアリスゲームの役割分担云々に関わる厭味だろうか。それに一々反応するほど純粋ではなくなってしまっている自分が少しだけ可笑しかった。
 晩秋というよりは既に初冬に近い空は、気持ち良く青く晴れ渡っていた。まるでこの部屋の中の空気とは対照的だ、と思う。
 外を見る余裕がある自分だけが別なのだろう。他の三人は遠い近いの別はあれジュンと繋がっているのだから、それだけでも不安を感じていて当然だ。異界の産であるドール達については──彼女達には自分達とは違う苦悩がある。
 この話が終わったら、nのフィールドに出向いて『真紅』の世界を訪ね、真意を糺すべきかもしれない。気が進まないけれども。

「探しても意味がなかったのよ。探索する方法と場所が根本的に間違っていた。
 特定の対象を探して無意識の海の中を放浪しているように見えていたけど、実は違っていたってこと。
 実際の彼女は自分でもそうと思わない内に、果てしなく沈んでいく中で必死に何かに縋ろうとしていた。恐らく今ももがいている」

 それならまだ良いのだが、という願望を込めて、水銀燈は部屋の中に視線を戻した。
「その過程で出会ったのが『雛苺』であり、貴女──『翠星石』だった。でも、どちらにも結構なあしらいを受けた」
 視界の隅で『翠星石』が俯くのが見えた。
「……ごめんなさいですぅ。でも……」
 すぐに涙声になってしまうのは、この場の空気を感じ取っているからではなく、自分達のことで飽和しかけていたからだろう。
「分かっているわ、貴女のせいではない」
 真紅はドールの手に手を重ね、窓を振り仰いだ。
「貴女も少し言葉を選んで頂戴」
「そうです。無駄に回りくどい言い方しないで、いつもみたいに結論からちゃっちゃと言えってんです」
 翠星石は立ったまま口を尖らせ、ぷいと背を向けて部屋の隅に置いた魔法瓶のところに向かう。お茶を淹れるつもりになったらしい。人数分のお茶菓子まで用意してあるのは流石と言うべきだろうか。
 悪かったわね、と肩を竦めながら、水銀燈は彼女の媒介の少年と同じように、翠星石の落ち着きぶりに感心してもいる。感受性の強い翠星石は、最も強くジュンと繋がっている関係からしても、一番消沈していても不思議ではない立場なのだが。
 いや、この件はゲームのプレイヤーが用意した翠星石への試練ともなっているのだろう、と思い直す。
 水銀燈が介入しなければ双子の妹を失ってしまうはずだった彼女に、段階を踏んで改めて幾重にも困難を与えて成長を促している。希望の灯をちらつかせながら、中々そこまで行き着かせないようにする。一旦は崩されてしまった計画を大急ぎで修正したのだとしたら、それなりに見事な補填と褒めても良いかもしれない。

──ヒロインは真紅から翠星石に移ったってところかしらね。

 皮肉な笑いを喉元で噛み殺す。流石に今は表情に出してしまってはいけない状況だった。
 結論ねぇ、と鼻を鳴らしてから、陳腐だけどね、と前置きして推論の結果だけを告げる。

「彼女は意識の底に近いところに居る。無意識の海で言えば海底付近、それもかなり深いところ。行こうとしてすぐに手が届くような場所じゃないわ。
 そこのマエストロの意識が落ちているのと同じように、這い上がって来るには自分の意思がどうしても必要」

 室内に失望と落胆が広がって行くのが目に見えて分かった。
 水銀燈の推論のお粗末さに対してのものなら良いのだが、そういうことはあるまい。それぞれ似たように考えていたことがはっきりと言葉にされてしまった、という雰囲気だった。
「それじゃ、見てるだけなの? 探しに行っても絶対絶対無理なの?」
 雛苺は何かに縋ろうとするようにぐるりを見渡す。彼女も同じように考えていたが、誰かしらに良い案があることを期待していたのだろう。
「自力って言っても、オディールはもう何週間もあのままなの。もう溶け掛けてたら、帰って来れないのよ」
 一拍の間、誰も言葉を発しなかった。立っている翠星石を含めて、室内の動きも止まった。
 僅かな間ではあるが、その空白は重かった。
「……オディールを発見することも、促すこともできる存在はいるわ」
 真紅は視線を重ねた手に落とし、躊躇いがちに言った。
「無意識の海に長いこと居ても自我が崩れることを心配しなくて良い、時間の制限もない、そんな子がいる」
 でも、と視線を上げて水銀燈を見上げる。先程とは打って変わって力の篭らない視線だった。
「私達が同行することはできないし、こちらの都合だけで動かすこともできないの。私達はここで待つことしかできないし、それが私達の仕事なのだわ」

「……七番目のことなのですぅ?」
 『翠星石』は涙を目の端に浮かべたまま、真紅と水銀燈を交互に見遣った。
「ずっとnのフィールドの中に居て、そっちが居場所みたいになってるですけど……」
 真紅は伏目がちになりながら、翠星石がお茶の用意を再開した、その小さな物音に耳を傾けるような仕種をする。その動作を挟むことで間を取りたいようにも見えた。
「ええ」
 やはり逡巡するような調子で溜息のような答えを返すと、真紅は自分がまだ手を重ねている『翠星石』とその脇に膝を抱えるようにして座っている『蒼星石』を見遣る。
「オディールのことは貴女達には関りのない出来事だから。これは私達のゲームの後始末で、私達が自分で解決すべき事柄なのだわ。彼女は頼まれれば厭とは言わないでしょう。でも便利に使ってしまってはいけない──」
「──そうかしら。立っている者は親でも使え、って言うわよ」
 水銀燈はくっくっと喉の奥で笑うような声を立てた。
「その場に居る適任者に要領良く物事を依頼するのも一つの解決法でしょうに。あまり原則論にばかり拘っていたら足許を掬われるわよ」
「だからと言って、道具のように使って良いものではないわ。彼女の性格は貴女もよく分かっているはずよ」
 真紅はそこで何かに気付いたように口を噤み、また双子のドールに視線を向ける。

 『翠星石』は何故か酷く動揺している。重ねた手に震えが伝わって来るほどだった。
 真紅の言葉に何か禁忌の字句でも含まれていたかのようだった。いや、駱駝の背に乗せられた最後の藁だったのか。
 『蒼星石』が膝を崩し、そっとその肩を抱くようにしている。明らかに彼女には双子の姉の動揺の原因が分かっているようだった。
 真紅は息を呑んだ。瞬いて顔を覗き込むと、『翠星石』は微かに首を横に振って手を放し、そのまま俯いてしまう。力なく崩折れかけるのを双子の妹が支えるような形になった。
 何があったのか、と尋ねかけたとき、真紅とドール達の間を割るようにして自家製のクッキーの載った皿が差し出された。

「ここでそんな言い合いをしててもしゃーねーです」
 皿を丁寧だが素っ気無い動作で置いた翠星石は、きびきびとした動作で人数分のお茶菓子を配った。水銀燈の分だけは窓の下に置いてみせたのは、食べたいなら降りて来いという意思表示らしい。
「ナナは洗濯物もこっちに洗わせたままで、どっかに散歩に出ちまいましたからね。全く困った子です。帰って来たら一人で台所の掃除でもやらせてやるです」
 言いながら、ティーカップを置いて回る。今度も水銀燈の分は窓の下だった。それを置いて、ぐいと顎をしゃくり上げるように水銀燈を見上げる。
「それに、nのフィールドで時間制限がない人ならそこにも居るじゃねーですか。そっちはどうなんです」
「そうねぇ。ま、貴女達よりは有利だけど」
 水銀燈は首を竦める。何かこの場で真紅に深く触れさせたくない双子のドールの事情を、翠星石は知っているのだろう。
 乗ってやるから後で借りは返しなさいよ、という視線を送ると、翠星石は何を思ったのかぷいと背中を向けてしまった。
 やれやれ、と水銀燈は内心で肩を竦める。これではまるで本当に真紅と翠星石が入れ替わったようだ。アリスの元となるべき者に対して、自分はあくまで敵役という立場のままなのかもしれない。
「私じゃ到底適任とは言えないわね。無意識の海自体苦手だし、上の方でなら探し物をしたことがあるけど海底まで降りて行けた試しがないから。ナナは、本人が気付いてるかどうかは知らないけど、あの場でオディールやら桜田ジュンの心を探索するにはうってつけの人材なのよ。それに──」
 やや乱暴に水銀燈の分の紅茶を注ぐ翠星石に、図々しく手を伸ばす。翠星石は口を尖らせたが、それでもティーカップとソーサーを差し出してくれた。水銀燈は片手の手刀で心の字を切り、何をしたのか分かっていない様子の相手から有難くそれを受け取った。
「──揺れていて今ひとつ自立できていない彼女の心は、二人の心と通じるところがある。もしもナナが無意識の海に出て行ったのなら、案外三人は今頃ひとつところに落ち合っているかもしれないわよ」
 またくっくっと笑い声を立て、水銀燈は紅茶を一口含んだ。アッサム系なのか、やや渋みの強い味が口の中に広がった。


6

「行けども行けども……」
 不定形のモノはぶつぶつと不平を唱えた。
 一度は休息する時間をくれたのだが、それが長過ぎたのかもしれない。出発してから終始彼は不機嫌なままだった。
「あとどれだけ歩けばいいんだ」
「……分かりません。でも、近付いてはいます」
 ナナは努めて明るい声で答えた。

 彼は自分を全面的に嫌っている訳ではない。少なくとも幾許かの気遣いを示してくれた。
 ひょっとしたらあれは『蒼星石』と似たような、自分の本心にどうにか嘘をつこうとしている行動だったかもしれない。しかしそれならばそれで、嫌っていることを押し隠してくれた彼の気持ちに応えなければならない。
 どちらにしても、明るく振舞おう。休息の間にナナはそう決めていた。暗く落ち込んでいても事態は良い方に転がらないということは、今までのあれこれで身に沁みて分かっている。
 ならば明るく振舞ってみよう。自分には合わない態度かもしれないが、悪い方に向くことが分かっている態度よりは何倍もマシだろう。
 漸くそういった能動的な気分になることができたのも、彼のお陰なのだ。その感謝を表に出しながら、ナナは先に立っていた。

「これで何度目だ……全く」
 彼の不平は相変わらず止むことがない。しかし暴れたり何処かに行ってしまうこともまた相変わらずなかった。
 ナナが呆気なく流されるのも変わらない。だが、ナナ自身も決して彼の所に戻って行くことを止めようとはしない。
 休息したものの、疲労は万全に回復してはいないはずだ。それは実際に体感してもいる。だが、不思議なことに休息してからは疲労が蓄積して行くような気配がなくなっている。それが心の持ちようなのか、疲労に対して鈍感になってしまうほど疲れ切っているのかは分からないが、兎も角も彼にまた休息を申し出る必要がないことだけは有難かった。
「方向も近くなってることも分かるのに、距離が分からないなんておかしいだろ……って、おいっ」
 ごおっ、と音がしていると錯覚するほどの奔流が、斜め後ろから唐突に襲って来た。不定形のモノはごろごろと海底を暫く転がっただけで済んだが、ナナはそうは行かなかった。
 もう何度目になるか分からないが、またまた呆気なく持ち上げられ、そのまま流される。

 斜め前からでなくて良かった、と流されながら思う。彼が追い掛けて来てくれることはないから、どちらに流されようと同じと言えば同じではあるのだが、それでも前に進む方向に向かえることは悪くない。針路方向が一時とはいえ見えるからだ。
 そんな、半ば負け惜しみのようなことを考えながら、ナナは吹き飛ばされるような勢いで奔流に揉まれた。
 こんな状況でも腕の中の人形を放すまいと抱き締めているのは、傍から見れば滑稽な光景だろう。しかしここには多分傍から見ているような誰かも居ないだろうし、少なくとも彼には散々せせら笑われて、もう今更恥ずかしいとも思わなくなっている。
 人形を抱き締めていることが困った事態に繋がるのは、飛ばされた先だった。そのまま流れが淀み、ふわふわと漂えるとは限らないからだ。
 大抵の場合、ナナは勢いがついたまま海底に叩き付けられてしまう。両手が自由になれば受身の真似事ができそうなところを、彼女は毎回何処かしら激しく打ちつけ、その度に痛い思いをしたり服に穴が開いたり、甚だしいときは頭を擦り付けて髪がまた乱れてしまうことさえあった。
 今はもう、ナナはポニーテールすら止めて長い髪をただ靡くに任せている。頭の後ろに大きな傷──と、有体に言ってしまえば禿──があることを隠す気はなくなっていた。そういうおんぼろ人形、で良い。無力で無能な傷だらけの人形なのは事実なのだから。

 幸運なことに、今回は新たな服の綻びも、意識を失うほどの酷い衝突もなかった。ナナは海底に叩き付けられ、勢い余ってごろごろと転がったけれども、それだけで済んだ。
 取るものも取り敢えず立ち上がり、人形に被害がないのを確認してほっと一息ついてから辺りを見回す。
 大分流されてしまったのは間違いのないところだ、と思ったところで、彼女の思考は停止してしまった。視界の隅に、とんでもないものを見つけてしまったからだ。
 斜め前、丁度彼女が流されて来た方向の延長線上に、白い服と金髪姿が小さく見えている。
「また、幻覚……?」
 ナナはぽつりと呟いた。有り得ることだ。新たに疲労が蓄積していないとはいえ、彼女は自覚できるほど草臥れている。幻覚の一つや二つ見たところで不思議はなかった。
 ぱしぱし、と自分で自分の頬を叩いてみる。幻覚なら消えるはずだ、と考えたのだが、その姿はややはっきりとしただけで一向に消え失せはしなかった。
 恐る恐る、そちらに近付いてみる。
 何度見ても、こちらに背を向けているのは白い衣装に金髪の少女にしか見えなかった。

──今度は、本物……? それともまた……

 そんな疑問を拭いきれず、半信半疑でなおも距離を詰めようとしかけた瞬間、今までの無意識の海の流れとは全く違う何かがナナを襲った。抵抗することははおろか何が起きたか理解さえできない内にそれに呑まれ、彼女はその場から攫われていった。


「行って来るわ。まぁ大して長居はできないし、用件だけで戻るつもりだけど」
 不作法にも雛苺の頭にぽんと手を置いて、水銀燈は人工精霊を呼んだ。銀色の光球はいつものように何処からか湧いて出ると、雛苺に挨拶するようにその周囲をくるくると回り、まるで彼女の人工精霊のようにその脇に控える。
 最近態度がなってないわねぇ、と水銀燈は気侭なメイメイを叱るでもなくぼやき、大きな姿見に向き直る。腕を突き立てると早くも鏡の表面は波打ち始めた。
「それにしても、今日会うことにしてたとはね」
「ごめんなさいなの」
 雛苺はしょげてみせたが、本心からかどうかは分からない。むしろ重い空気の中から抜け出せて一息つけると思っていても不思議はなかった。
 二人は『雛苺』を連れに、ある精神世界に出向く予定だった。正確にはその扉の前で落ち合う手筈になっている。顔を合わせたところで『雛苺』はその精神世界に戻り、そこに居る自分の契約者の指輪に口付けして──契約を解除して──現実世界に全員で戻る。
 本来、こちらで契約者を見付けてからすべきことだったが、雛苺には巴に契約を依頼できるという目算があった。『雛苺』は自分よりも更に幼いけれども良い子だ。巴もきっと義務感でなく愛情を持って接してくれるだろう。
 むしろ両者は契約して寄り添い合う方がお互いに良いのではないか、とさえ思う。イレギュラーな形で契約を解除してしまい、さりとて契約していた雛苺と完全に繋がりを断ち切られてしまった訳でもない宙ぶらりんの状態の巴と、ゲームで潰し合う危険は去ったとはいえいきなり異郷で目覚めて環境の激変に翻弄され始めている『雛苺』には、似た部分や惹かれ合う部分もあるはずだ。
「まさかジュンがこんなことになるなんて思ってなかったの……」
「仕方のないことだわ。私達は誰も未来を予知することはできないのだから」
 真紅は雛苺の手に軽く触れ、鏡の前の二人の傍らに並んでいる双子のドールを見遣った。
「気をつけて。部外者の私が言うのも何だけれど、喧嘩は控えてね」
 双子は顔を見合わせたが、前に向き直ると揃って頷いた。
 二体がお互いと戦うこともないとは言えないが、真紅の言葉はそのことを指してはいない。昨日の夕方『翠星石』が力を絞っていたとはいえ激しい戦いをした相手は、目指す精神世界の中に居る可能性が高かった。
 真紅自身は結局詳しいことを聞かずじまいになってしまったが、何か行き違いのようなものがあったか、売り言葉に買い言葉が重なったかして戦いになったことは間違いない。彼等はもう潰し合ってお互いの動力源を奪う必要はないとされたのだから。ならば、私闘は自重すれば回避できるもののはずだ。
 本当は迎えに同行すること自体を止めさせたくもあったのだが、二体は同道することを主張した。彼等とすれば自分達の姉妹のことで他人の手を煩わせた上、自分達が知らぬ振りをしている訳にはいかないのだ。その心理も真紅には分かった。
「おじじには電話しときますから、安心して行って来やがれです」
 翠星石はにっと笑った。ジュンのことで不安が募っているだろうに、全くそういった素振りは見せない。
「ま、精々三十分の旅ですけどね。準備の時間がないから新しいお菓子とかは期待すんなです」
 やや余分な一言が合図のように、メイメイがまず鏡に飛び込んだ。行くわよ、と水銀燈が雛苺を促し、たちまちの内に彼等は鏡の中に消えて行った。

「やれやれですぅ」
 翠星石はひとつ伸びをして真紅に視線を向ける。
「取り敢えず、おじじのうちに電話するとしますか。真紅はどうします?」
「そうね……」
 真紅は昨晩の寄り道を思い出していた。
 持ち帰って来たものがある。その一部を閲覧するいい機会かもしれない。時間的に、それほど多くは見ることができないが。
「私は居間に居ることにしましょう。見たいものもあるから」
「またくんくんですかぁ。よく飽きないですねぇ」
 翠星石は些かげんなりした風情でそう言うと、返事も聞かずにすたすたと廊下を歩いて行ってしまった。彼女もくんくん探偵シリーズはお気に入りではあるのだが、雛苺や真紅ほど熱狂的なファンという訳ではない。

 ジュンの部屋に戻り、自分の私物を入れた箱を苦労して引っ張り出しながら、翠星石は強い、と真紅は改めて思う。責任を持ったことで強くなったのも事実だろうが、元々芯が強いからこそ、度重なる諸々の状況に立ち向かって行けるのだろう。
 力が弱いことを自覚していながら、自分自身の気持ちの弱さの方は認めきれずに周囲に迷惑を掛けることになった真紅自身とは違っている。
 以前は、彼女は時折負の感情を怒りに変えて爆発させることで心の釣り合いを取っているのかもしれない、などと考えたものだが、最近はそれさえも少なくなってきている。心に容量というものがあるのなら、それが大きくなったと表現するのが正しいのだろう。

 実のところ彼女が内省的になるほど二人の差は大きくなかった。
 翠星石が全てを呑み込んで自分の中で消化している大人という訳ではない。確かに蒼星石とは遠くに離れてしまったが、その代わりジュンに人目も憚らず甘えて来たのだから、常に発散していることは以前と同じことだとも言える。
 今日の態度にしてもさして事情は変わらない。眠ったままのジュンを部屋に置いたままでも確りと振舞っていられるのは、蒼星石に夢で逢えたからだ。ジュンのことで膨れ上がった不安と恐れを、誰にも知られない場所で飽きるまで泣き、恨みつらみを並べ、納得の行くまで妹に甘えて発散させただけのことだ。
 真紅の方も決して度量が狭い訳ではない。むしろ、時折誰かに不器用に甘えるだけで鬱積したものを晴らし、最愛のはずのジュンを翠星石に取られたような形になっても平静に構えて居られるのだから、実際には彼女自身の方が余程大きな容量を持っていると言っても間違いではない。
 しかし、本人はそうは考えていなかった。やや自分に厳しい見方をし過ぎる傾向がある彼女は、翠星石が遥かに先に行ってしまっているように思えてならないのだ。
 もっとも、それは決して暗い思いではない。素直に自分も翠星石のようになりたいと思い、同時にそれが到底無理なことも理解している。恐らく自分は弱くて小さな内心を曝け出す勇気を持てないまま、ずっとそれを鎧で囲って生きて行くのだろう、と予想していた。
 それでも良いのだ、とも思う。容易に壊れない分厚い鎧を纏えばよいことだ。そして、小さな心が壊れそうに張り詰めたときに癒してくれる相手が近くに居れば、言うことはない。
 今のところは未だその相手を見付ける云々の段階までも行っていない。アリスゲームによって無に帰してしまい、自我を失って遠い旅に出てしまえば、永遠に見付けることはできないかもしれない。それでも、見付けたいと思ってはいる。

──見付けると約束をしたのだから。どちらが早いか、競争だと言ったのだから。

 同じように弱い心を持ち、失恋とまでも行かない思いを味わい、そして、自分達とは隔絶した多大な困難に遭いながらも前向きに生きようとしている『翠星石』と──。

 そこまで考えて、ふと先程の双子の様子を思い出す。
 『翠星石』が酷く動揺したのは、真紅の言葉が原因であることに間違いはない。だが、その何処に禁忌に触れるような内容があったというのか。
 翠星石は正確に理解しているようだった。むしろそれを追及させまいとするようなタイミングで口を挟み、話を逸らせた。

──二人で見た方が良いかもしれない。

 止めていた手を動かし、箱の底に入れておいた物を取り出す。
 他の私物を元どおりに仕舞い直して箱を元の位置に戻し、戸口まで戻ってベッドを振り返ると、ジュンは先程と変わらずに規則正しく深い呼吸を繰り返していた。その表情にも呼吸にも変化はない。
 せめて呻いたり笑みを浮かべたり、あるいは寝言の一つも言ってくれればいいのに、と思ってしまうのは我儘だろうか。
 思わずジュンの名前を呼び、愚痴にしかならない台詞を投げ掛けてみる。
「変化が何一つないのは、待つ方にしてみれば酷く不安なことなのよ。分かっていて?」
 呟くような小さな言葉に、当然のことながらジュンが反応を返すことはなかった。
 真紅は溜息をつく。ジュンに対してではない。そんな独り言を漏らしてしまう自分が酷く弱くなってしまっているような気がしたからだ。
 やはり翠星石と自分には大きな差がある。いや、彼女が強くなった分、自分は弱々しさを徐々に表に現しつつあるのかもしれない──
「──詮無いことだわ」
 頭を振り、ドアを閉めながら、それでもジュンにおやすみなさいと言わずもがなの言葉を掛けたのは、弱さなのか優しさなのか真紅自身にも分からなかった。

 常日頃よりもやや大股に廊下を歩き、自分の体には合わない階段を苦労して下りると、翠星石は丁度電話を終えて受話器を戻したところだった。
「おじじはメシの時間に間に合わなかったみたいですよ」
 腰に両手を当て、如何にも嘆かわしいと言いたげに怒ってみせる。左手に持った紙袋が軽い音を立てた。
 メシの時間、というのは、デリバリーの業者が朝食を運んで来る時間だ。蒼星石やナナが居る間、老人は業者の来る前に起きて着替えを済ませ、玄関でそれを受け取るのが日課になっていた。老人を起こしていたのが彼女達だったのは言うまでもない。
 恐らく昨日までもそうだったのだろう。『蒼星石』や『翠星石』が代わりを務め、老人を起こしていたはずだ。少なくとも、翠星石が朝食を作りに行った朝はそうしていた。

「老人の朝は早いから起こされなくとも大丈夫だ、とか何とか言ってたくせに、まだメシも喰わずに布団の中でしたよ。寝たまんま電話に出るとかだらしないにも程があるってモンです。
 しかも何て言ったと思います?
 『たまには寝坊も良いものだな。丁度良いから私のドールが帰るまでうとうとさせてもらうとしよう』
 なんて、あーもう陰険おじじのニヤケ顔が目に浮かんできやがるです! 今から出掛けて行って叩き起こしてやるですっ」

 口だけでなく、実際に彼女は真紅の脇を通って鏡の部屋に向かおうと歩き始めた。気に入らないときに鞄で窓を割って部屋に飛び込むのは彼女の十八番なのだが、今は鞄で飛んで行く手間すら惜しいらしい。
「待って」
 真紅は翠星石の袖をつまんだ。くるりと振り返る相手に微笑を返す。
「ご老人にも朝寝をしたい日もあるのでしょう。三十分もしない内に彼女達が部屋に行くのだもの、そちらに任せましょう」
「それは……」
 むう、と翠星石は口を尖らせたが、ふんと一つ大きな鼻息を吐いてから、むっつりした表情で不承不承頷いた。
「まあ、真紅がそう言うなら許してやらんでもないです。翠星石は寛大ですからね」
 真紅の微笑みは苦笑に変わる。最近翠星石が生活のリズムに口煩いときは、大抵自分が作ったものが絡んでいる。
 多分、今も元々は左手に持った袋の中身を結菱老人に持って行くつもりだったに違いない。それが、まだ朝食を食べるのはおろかベッドから動いてもいなかったことにムカっ腹を立てているのだ。如何にも彼女らしいことだった。
「その左手のお菓子をつまみながら、一緒に見て欲しいものがあるの。それに、教えて欲しいことも……」
 ジュンの部屋から持ち出してきた物を胸の辺りに持ち上げて見せ、お願いばかりになってしまうけれど良いかしら、と顔を見詰めると、翠星石はやれやれと掌を上に向けた。
「全くいつなんどきでも人遣いの荒いのは変わらないですねぇ。一体誰に似たんでしょうね」
 軽口を叩いているが、その目は真面目だった。この場に居ない誰かに関わる話だということに気付いたようだった。
「ま、いいですよ。どうせ午前中は暇ですから──特に、あの子達が帰って来るまでは」
 ありがとう、と真紅は笑みを浮かべた。やや硬い笑顔になってしまったのは、これから見るはずのものがどういう内容なのか、彼女自身にも分からないからだ。
 いや、分かっていることはある。本来このような形で覗き見ることは許されない事柄だ、ということだ。それを真紅は一人ではなく、翠星石まで巻き込んで覗こうとしている。そのことが彼女の笑顔を一層強張らせていた。

 まるで当然のように紅茶の支度をする翠星石の傍らで、真紅は手早く閲覧の準備をした。操作自体には慣れている。
「一体何なんです? 見て欲しいものって」
 訳が分からない、と言いたげに声を上げ、翠星石は真紅の隣に座った。
「真紅のことだから、てっきりご本か新聞か何かだと思ってましたのに」
「書籍ではきっと嵩張ってしまうわ。あまりにも膨大過ぎて」
 真紅はそれが入っていた、味も素っ気もない透明プラスチックのケースをテーブルの上に置く。
 翠星石の言葉に笑顔を返す余裕もなくなっていた。緊張が高まっているらしい、と他人事のように考える。
「これはある人が克明に頭脳に焼き付けていた記憶の一部──それを水銀燈がこの形で現出させ、昨日の晩彼女の契約者がそれを実体に変えたの」
 言いながらテレビのスイッチを入れる。昼前のテレフォンショッピングの番組が映ったが、真紅は躊躇なく入力をDVDプレイヤーに切り替え、画面は暗転した。
 水銀燈が現出させたのは、彼女の言葉どおりの光ディスクだった。何のラベルも付いていないディスクが、これもまた何のキャプション一つ付いていない、味も素っ気も無い透明なプラケースに入っているだけ、というのは、面倒事が嫌いな水銀燈らしいと言えば水銀燈らしい、美しさを万事に求めていた彼女らしくないと言えばそれもまた否定できない梱包だった。
「ってことはアホ人間と水銀燈がらみのアイテムですか……」
 翠星石は複雑な表情を浮かべる。無理もなかった。彼女が今のように料理に熱を上げるようになった切っ掛けの一つは、彼が手土産として持って来た初心者向けの料理の本にある。
 真紅が大衆向けの文学や、俗にSFと呼ばれる種類の小説に手を出すようになったのも、同じ時に彼が真紅にくれた文庫本が元だった。
 雛苺にと渡された七体の小さな人形は、ジュンによって薔薇乙女達によく似た姿に改造された。七体目は暫くそのままにされていたが、雛苺が自分の人形をなくしてしまった──実際は第42951世界のコリンヌの処に置いて来たのだが、知っていても誰も雛苺の言い訳を糺さなかった──ために、その代わりとして雛苺に似せた形に変えられて彼女に渡されている。
 そういった様々な切っ掛けを作ったのが彼の持ち込んだ品々ではあるのだが、反面、翠星石にとっても他の二人にとっても、少年は最後に残った大敵である水銀燈の契約者だった。少年にはそういった意図がないにしても、水銀燈が何かを狙っていても不思議はない。特に、オディールの件にどうやら目星がつきそうなこの時点では。
「ディスク一枚ってことは一時間かそこらですよね」
 翠星石は小首を傾げる。DVD化されたくんくん探偵の番組を見て、一枚に三十分番組を二本収めていることは良く知っている。録画方式やディスク容量によっては……などという無駄な知識がないだけ、彼女の理解は明快だった。
「その程度に収まる記憶って何のことなんでしょう」
「それは──」

 真紅が口を開いたとき、真っ暗なままだったテレビの画面がいきなり変化した。
 一瞬、二人は録画された番組が始まったのかと錯覚する。しかし、画面はそういう変化を齎した訳ではなかった。
 黒いままの画面の中央が波立っている。やがて同心円状の波は画面全体に及び、中心点がぐにゃりと歪んだ。
 翠星石が唖然としている脇で、真紅はやや眉を寄せてテレビを睨んだ。
「nのフィールドへの扉が……?」
「左様です、お嬢様方」
 その中心から、聞き覚えのある声が響いて来る。誰なのか、と記憶を探るまでもなく、相手はするりと姿を現した。
 まるでテレビに映った画像のように、画面の向こうで帽子を脱いで一礼する姿は、画面の大きさに合わせたものとなっているが、これがディスクに収められた映像でないことは明らかだった。映像なら声が画面の中央からではなく、画面下に設置されたスピーカーから聞こえるはずだ。いやそれよりも、タイミング良く受け答えできるはずがない。
「ラプラスの魔……」
 翠星石はちらりと真紅の顔を見、すぐに了解したという表情になって前を向く。真紅がこうなることを全く予期していなかったことを、その表情から確認したのだろう。
「わざわざこんな所に扉まで開けて何の用事ですか、それともオメーと水銀燈がつるんで何かやらかしてるってコトですか?」
「おや、これは心外ですな」
 兎頭の紳士は画面の中でくるくるとステッキ代わりの傘を回した。

「この度の訪問は黒薔薇のお嬢様と関係すると言えばしておりますが、しないと言えばそれまで。
 少なくともかの方に綿密な計画があってのことではございません。かと言って老兎の独断かと問われれば、それもまた異なるとしか申せません。
 ただ、黒薔薇のお嬢様の意図するところを挫くために参った訳でないことのみは、老兎の回らぬ口からもはっきりと申し上げられます」

 翠星石は一瞬考え込むような素振りをしたが、すぐに答えが見付かったように口を開いた。
「要するに水銀燈以外の誰かに頼まれて、水銀燈の手伝いをしようってんですね」
 まだ警戒を解いてはいないが、最初よりは幾分刺のない口調だった。
 ただ、流石に次の質問を向けた先はラプラスの魔ではなかった。隣に立った妹に向き直り、やや詰問調になって尋ねる。
「水銀燈の意図ってなんなんです? 何を見たかったんですか、真紅は」
 真紅は色の違う大きな瞳を見詰め返す。決して怒りをこちらに向けている訳ではないのだろうが、気弱な相手なら視線に怯えているかもしれない、と思わせるほど翠星石の視線は強かった。
「ナナの姉妹の過去について、水銀燈の契約した──記憶をなくす前の彼が、かつてアニメーションという形で見た彼女達の来し方よ。記憶を受け継いだ水銀燈がその部分の知識について私に光ディスクという形で分けてくれたの」
 真紅は強い視線を見返すのではなく、受け止めるつもりで答えた。喧嘩をするつもりでここに居る訳ではないのだ。
「ただ、こんなことになっているとは──少なくとも私は聞いていなかったわ」
 ちらりとテレビの画面を見遣る。ラプラスの魔はまだそこで、テレビに映っているような雰囲気のまま畳んだ傘を回していた。
 表情は窺えない。白兎の剥製の顔は、人間らしい表情というものを殆ど持たなかった。
「ラプラス。貴方がそこに居座っていてはディスクの中身を見ることはできない。貴方が水銀燈の意図を妨害するつもりがないということは、私達にそちらに行けと言っていると判断して良いのかしら」
「御意」
 ラプラスの魔は慇懃に、しかし見事に一礼してみせた。
「黒薔薇のお嬢様はごく普通に映像作品を視聴されるようにとお考えでしたが、老兎に依頼された方々は些か別の意見をお持ちでした。そして、そのためにはお嬢様方にこちらに来て頂く必要がございます」
 如何ですかな、とやや小首を傾げ、ご丁寧に片方の長い耳を折って、兎頭の紳士はこちらを赤い目で見詰めた。
 翠星石は真紅を見、真紅は頷いた。
「いいわ。行きましょう、貴方が何を依頼されたかは知らないけれど。貴方がわざわざ出張って来たということは、私達が彼女達のことを知っていた方が良いことに間違いはないのでしょうし、私達自身のためのヒントもそこに隠されているかもしれないのだから」
 翠星石が頷き、二人はそれぞれの人工精霊を召喚すると、吸い込まれるようにテレビの画面に入り込んで行った。
 画面の波が静まったときには、そこにはブランク画面のままのテレビがあるだけだった。


7

 中学校の授業は、相変わらず淡々と進んで行く。自宅でまだ臥せっているはずのジュンを、以前と同じようにじわじわと、しかし着実に置き去りにして行くかのようだった。
 少年は人差し指の上でくるりくるりとシャープペンシルを回しつつ、気の向かない授業をこなしていた。こういう日に限って体育の授業がないのは残念でならない。休み時間に友人と喋るだけでは到底足りない。身体を動かして気分転換したいところだった。
 自他共に認める冴えない少年と、学年有数の美少女であり、そのくせ浮いた噂の一つもない由奈が並んで登校した件は、何人かが──少年や由奈の親しい友人達の内数人が──悪意のない態度でそれを冷やかす程度で終わった。
 二人はそれぞれジュンについて頭を悩ませてはいたが、席に着いてからはお互い親しげに言葉を交わすでもなく過ごした。一旦教室という空間に入ってしまえば、同じ室内であっても彼等には各々の友人が居て、別の日常がある。極端に言えば登下校時だけが接点だと言えないこともなかった。
 昨日の下校時の自転車の件も、見ている者がいなかったと思えないのだが、まだ何の噂にもなっていないようだった。二年目の文化祭で所謂「本命」の学年プリンセスが選ばれたことで、由奈はそれだけ影の薄い存在になっているということだろう。
 同時に、それは桜田ジュンの存在自体もまた過去のものになりつつあることを示してもいる。決して良いことではないが、ジュンにとってはそれだけ敷居が低くなることだろう。
 但し、彼が復学すれば彼に関わった生徒達の記憶は厭でも喚起されるだろうし、彼を追い詰めた者達にとっては、同じクラスではなくなったもののまた恰好の標的が帰って来た、ということになりかねない。彼にとっては困難な道であり、周囲にとっても舵取りは難しいものになるだろう。

 柏葉巴が自分から二人を呼び出したのは昼休みに入ってからだった。
「ありがと。丁度さ、ちょっと桜田の件で話したいことがあったんだ」
 呼び出された管理棟の階段室で、少年はややトーンを落とした声で言った。この場所は少しばかり音が響き易い。
 そう、と巴は斜め下に視線を落とした。
「私も桜田君のことで、二人に聞きたいことがあったから……」
 少年は由奈と顔を見合わせる。彼だけでなく由奈にも声を掛けたのは、勘の鋭い巴が登校時の二人の様子から何かを気付いたということだろうか。
 巴は踊り場の端に行き、自分を落ち着かせようとするように片手を壁に着け、もう一方の手を胸元に当てて二人を見遣り、またすぐに視線を斜め下に向ける。常に姿勢良く背を伸ばしている彼女には珍しい仕種だった。
「栃沢君には前に言ったから、桑田さんも聞いているかもしれないけど、桜田君が学校にまた来たいって言ってるの」
 二人は無言で頷く。由奈も昨日の一件で聞いている話だが、その場に居なかった巴がそれを知っているはずもなかった。
「桜田君、勉強も一人で取り戻そうとしてるし、最近は少しずつ外出したり、図書館で勉強したり頑張ってるの。だから私ね……応援したいと思ってる」
「巴ちゃんは優しいから」
 由奈は微笑んだ。やや硬い表情なのは、昨日のあまり後味の良くない遭遇を思い出してしまうからかもしれない。
 それでも由奈は躊躇せずに言葉を続けた。
「私も応援するよ、クラスメートだもん」
 それも昨日の一件があって一晩考え抜いた末の言葉なのだろうが、面と向かっている相手である巴にとって経緯は関係なかった。
「ありがとう」
 巴は心底ほっとしたような顔になった。俯く肩に由奈が手を置き、二人の少女の間が狭くなる。
 少年は知らなかったが、二人は親友という程ではないにしてもそれなりに親しかったらしい。由奈がもう一歩歩み寄って巴の頭を撫で、巴が珍しく泣きそうな表情でありがとうと改めて言うのを聞きながら、うんうんと彼は頷いた。

 ジュンが危惧して恐らく逃げようとして──今度は家の中でなく誰の手も届かない場所まで逃げて行った事柄について、巴は実際に見聞きして分かっているはずだ。
 由奈が少なからず当惑し、落ち込んでいたこと。表向き彼女に同情する声が、実際のところはゴシップを囁く声と一つだったこと。
 学校全体から見れば大事にならなかったものの、文化祭のプリンセス選び自体は、少なくともクラスメートから見て白けた雰囲気に終始してしまったこと。
 厄介なことに、その前後の記憶は欠落が少なくない。ただ忘れているだけという可能性もあるが、今の彼が思い出せない、彼に関わる出来事も幾つか起きていたのかもしれない。
 彼の記憶は、前世とやらに関係する部分は綺麗に脱落している。水銀燈による補填と修正も完全なものではない。何か前世の出来事にも絡んで来るような──例えば自分の経験から事件の背景を推理してなにがしかの行動を起こしたというような──行為をしていたとしたら、彼には一切記憶が残っていなくても不思議はなかった。
 杞憂とは思うが、昔の自分が何か派手な行動を起こしていたとしても、記憶をなくしてしまっている彼としては既にどうすることもできない。その何かが悪い方に転んでいないことを祈るしかなかった。

 二人の少女は暫く抱き合うように身体を寄せ合っていた。流石の鈍感な少年も少しばかり居辛い雰囲気になってきたことを感じ始めた頃、巴は由奈の腕から身を離し、二、三歩後ろに退いて顔を上げた。
「ごめんね……ありがとう」
 少年は思わず真顔になってしまう。こちらを向いた巴の目と鼻の頭が赤くなっていることに気付いたからだ。実際に泣いていたのかもしれない。
 しかし、とふと疑問が浮かぶ。仲が良いのは分かったが、それほど二人は親密だっただろうか。由奈が巴を名前で呼んでいる程度に親しいのは元々分かっていたが、巴の方は苗字にさん付けだったし、それはこの場でさえ変わっていない。教室などでも然程親しい素振りは──

──いや、俺、それも覚えてないだけじゃないのか。

 先程の思案と併せ、自分の記憶が如何に心細いものかを改めて思い知ったような気分だった。自分の裏付けのなさ、薄っぺらさに気付いたとも言える。
 彼の連続した記憶は精々ここ数ヶ月だけのものだ。それ以前の記憶は穴だらけで、知らないことも多い。知らないのか、かつては知っていたのかさえ分からない。その点で現在の彼は多重人格障害のようなものだった。
 有難いことに、彼はそういった事柄で一々深刻な心境になるような性格ではなかった。記憶を失ってから暫く、今の時点よりももっと穴だらけだった頃に起きたあれこれで慣れてもいる。しかしさまざまに不便がある上に、こういう場合にその無知が疎ましいことだけは間違いなかった。

 思案していたのは殆ど一拍かそこいらの間のことだったらしい。巴の声で彼は我に返った。
「……聞きたかったのは、桜田君が学校に来たいって思っていること……」
 巴は由奈に向き直り、視線を上げてその顔を見詰めた。
「桑田さんが、桜田君が学校に来るのを許してくれるのか……不安だったから」
「許すとか許さないなんて、ないよぉ」
 由奈は微妙な表情になった。ここで笑顔になれればジュンの物語の脇役としては最高なのだが、生憎と彼女にも自分の気持ちというものがあった。
「桜田君が来たいって思って学校に来るなら、私は止められないもん。だけど──」
 苦笑を浮かべ、巴の顔を正面から見遣る。視線が交錯した。
「来て欲しいか、欲しくないかで言えば、来て欲しいかな。でもただ登校するんじゃなくて、今度はちゃんと自分と向き合って欲しい──」
 言い過ぎた、というように由奈は一旦口を閉じ、目を逸らした。
 逡巡しているのがはっきりと分かる間を置いた後、言い難いことを言おうと決意したように真顔になり、やや訝しげな表情になっている巴にまた視線を向ける。
「巴ちゃんには未だ言ってなかったけどね、私、昨日桜田君に会ったんだ。栃沢君のお知り合いの人の家で」
 半ば反射的に巴は少年の顔に視線を向けた。
 彼女には珍しい、隠そうともしない驚愕の表情に、彼は真顔のまま頷いた。
「結菱さん家に、偶々桜田が来たんだ。それで鉢合わせた」
 事実だけを伝える。巴の驚愕の表情は茫然としたものに変わったが、それでも彼女は急いで表情を引き締めて頷き、また由奈に視線を向けるだけの冷静さを保っていた。
 巴らしい、と言ってしまえば彼女が冷徹な人物だと誤解を招くだろうが、少なくとも泣いたり驚愕を露わにするよりは普段の彼女に近い反応だった。良くも悪くも感情をできる限り内側に押し留めてしまうのが巴という人物だった。
 由奈は、巴のそうした態度にむしろ安堵したようだった。
 恐らく少年よりは彼女の方が、巴の常日頃の態度についてはよく知っている。余程のことがなければ感情を剥き出しにしない、逆に言えば感情を剥き出しにしてしまうほどの衝撃をどうにか消化した、と見たのだろう。
 由奈は一つ息をつき、話を続ける。
「私、話し掛けようとしたんだけど……無理だった。話す前に、部屋に戻っちゃったんだ」
 ね、と振り返った由奈に、少年は軽く頷いた。

 もっと普通の言い方をすれば、こちらが何かを言いかける前にジュンはその場から逃げ出してしまった。
 だが、由奈は巴の前でそういう言い方をするのを遠慮したのだろう。ジュンと巴がある程度以上親しいことは、この場の巴の態度や言葉だけでも分かっているはずだ。
 巴はなんとも言えない表情を浮かべていた。妙に曖昧な由奈の言葉からジュンの反応を推測できてしまったのだろう。由奈が巴のことを少年よりもよく知っているのと同じように、巴はジュンに関しては少年やら由奈とは比較にならないほどよく人となりを熟知している。
 それこそ巴は、由奈には多分想像もつかない世界でジュンがどう動いて──活躍して──いるかも分かっているし、そちらの世界に関する限り巴とジュンは同じ立場──契約者同士──でもある。彼がどう行動したかなど、容易に推定できて当然だった。

 言葉を選んでも都合の良い誤解を引き出せることはない、ということは由奈も分かっているらしい。そのまま話を続ける。
「今日はね、放課後に桜田君の家に行ってみようかと思って。昨日のことや去年のことで、聞きたいことも言って上げたいこともあるから。……巴ちゃんに相談しようと思ってたのは、そのことなの」
「それは……」
 巴は言葉に詰まった。何とも返答のし難い話には違いない。
 ジュンは訪問を受け容れるのか。受け容れたとして、由奈の気持ちを受け取れるほどジュンは冷静で居られるのか。絶対死守されていると思い込んでいた防衛圏の内側まで踏み込んで来た彼女に恐慌に陥ってしまうのではないか。
「……そのこと、なんだけどさ」
 少年は重くなりかけている口を開いた。
 登校途中では由奈に対して曖昧にぼかしてしまったが、ジュンの現状を話すなら今だろう。二人がそれでジュンの家を訪れるのを止めても、由奈が自分の意志を曲げずに行くとしても、彼としては知っていることを教えた上で協力するのが最良のような気がしている。
 もちろん、敢えてこの機会を使うのは打算的な思惑もあった。話し上手と言えない彼が、教えてはいけない事柄まで踏み込んで言及してしまうこともあるだろう。登校したときは他に誰も居なかったが、この場であれば、口が滑りそうになれば止めてくれる存在が居る。
 ただでさえジュンの状況を聞いて心を痛めてしまうはずの巴には酷な話だろうが、彼は勝手にそのフォローを期待して話し始めた。水銀燈ではないが、使えるものは最大限に利用するという態度もときには必要なのだ。


8

「すいせーせきーい、そーせーせきっ」
 並んだ双子のドールを纏めて抱き締めようとするように、『雛苺』は左手で『蒼星石』の、右手で『翠星石』の首をそれぞれ抱えてしがみついた。
「そーせーせきがお目々覚ましたの、うれしいなのー」
「分かった、分かりましたからしがみつくなですぅ、このチビっ」
 甲高い声で憎まれ口を利きながらも顔がくしゃくしゃに歪んでいるのは、『翠星石』も短くない時間を共に過ごした姉妹の帰還を喜んでいることの現れだった。普段激しい感情を見せまいとしている『蒼星石』も、いつになく柔らかな笑顔で『雛苺』を見ている。
 ナナがこの場に居ないことは幸いだったかもしれない。彼等を再び出逢わせたのが彼等自身の力でないことなど、些細なことだった。今はこうして再会を噛み締めることで三体とも満足しているのだから。
 水銀燈はやや醒めた気分でその様を眺めた。
 彼等が演技をしていると考えるほど野暮ではない。しかし我が身に引き付けて考えたとき、水銀燈自身にこれほど再会を喜び合える姉妹がいるのか、と問われれば首を振るしかなかった。彼等と自分達姉妹の性格付けの差なのか、姉妹を常に敵として認識していることに起因する水銀燈だけの持つ距離感なのかは定かではないけれども。
 自分が歪なのは理解している。だが、紛れもない奪い合いを旨とするゲームにはそぐわない性格付けをされているドール達も、またある意味で歪なのではないか。露わになった『真紅』の仮借のなさ、『水銀燈』の『真紅』への拘りといったことも合わせて、彼女達のゲームも、自分達のゲームほど長く綿密な筋立てではないにせよ、やはり一種の出来レースだったと考えて間違いなさそうだった。
 それは兎も角、と近くに浮いている扉を見遣る。『雛苺』が今し方出て来たという精神世界に続く扉だ。『真紅』がその向こうに居るのは間違いない。
 うんうんと頻りに頷き、目尻に涙まで浮かべながらドール達を見ている雛苺に近寄り、水銀燈は声を掛ける代わりにその肩を突付いた。
 ほえ、と間の抜けた声を小さく上げて振り向く幼い妹に背後の扉を指し示す。
「挨拶だけして来るわ。すぐ戻れなかったら先に帰っていいわよ」
 それだけ言ってするりとその場を離れ、扉に向かう。背を向ける寸前、雛苺が一瞬だけ真顔になって頷くのが見えた。
 三体は水銀燈が離れたことにも気付かないように、ひたすら再会を喜び合っている。無理もあるまい。彼等にとっては欠けていたピースの最後の一つが漸く揃ったようなものなのだから。

 扉の向こうの小さな世界は、水銀燈が知識として持っている姿とは大分異なっていた。大きな窓から午後の光が降り注ぐ二間続きの豪華な部屋、という点は変わっていないのだが、そこにちんまりと独りで座って紅茶を飲んでいたはずの『真紅』の周囲には何体もの等身大の人形が並び、更にその奥には薔薇乙女達とほぼ同寸の人形の姿もあった。
 彼女が作り出した『ジュン』の姿もある。彼女の隣に寄り添い、相変わらず暖かな視線を彼女にだけ向けていた。
「……大改造したものねぇ」
 思わず呟くと、『真紅』は初めて気が付いたように無言で顔を上げ、水銀燈を見た。
「ノックは省略させて貰ったわよ」
 水銀燈は翼を畳み、『真紅』の居る部屋には入らずにそちらに声を掛ける。
「初めてお邪魔するけど、悪くない部屋ね。うちの五女にも見習わせたいところよ」
 決して暗くも狭くもないはずなのだが、何故か薄暗く、かつ酷く狭苦しい印象のある真紅の世界を思い出す。古い本の紙の臭いまでして来るようだったが、鞄の中で長い夢を育んでいる間、真紅はあの世界でじっと自分の記憶、というよりも得た知識の整理を行っていたのだろう。現実世界でも出不精の本の虫になって当然だった。
 この世界はもう少し健全、あるいは休息できそうな雰囲気があった。但し、水銀燈が居る部屋の方に限った話だが。
 『真紅』の周囲の人形達は、ラプラスの魔が作る人形達よりもまだ人形然とした、様式美というものとは少し異なるが一定の「らしさ」のようなものを持った顔貌を持っている。有体に言ってしまえば似たような顔立ちで、それがずらりと並ぶ姿は少々ぞっとしないものさえ感じさせる光景だった。
 その中心で、『真紅』はこちらを凝視している。それもまた何処か人形然とした雰囲気だった。
 いや、紛れもなく彼女は人形だ。美しく可愛らしいお人形に間違いはない。
「彼女には心の余裕があまりないように見えたわ」
 『真紅』は挨拶もせず、もう敬語も使わなかった。その言葉自体にも遠慮がなくなっている。
「貴女の存在に圧倒されているのかもしれない……」
「相変わらず買い被ってくれるわね」
 水銀燈は笑う気にもなれなかった。真紅にはせめてほとぼりが醒めるまでは小さくなって居て欲しいものだ。彼女の善意の我儘と言うべきものが、あの世界での大立ち回りを生んでしまったのだから。結果的に水銀燈の中に都合三つのローザミスティカを呼び込んだ、と思えば感謝すべきだろうが、その後始末のあれこれがまだ解決してもいないこともまた事実だった。
 目の前のドールに対しても、そもそも余裕がないのはどちらなのか、と問いたくもあるが、そこまで追い詰めるつもりはない。タイミングが悪かったとはいえ、何と言っても『真紅』の現状を招来してしまった遠因は、水銀燈の雪華綺晶に対する飢餓戦術と、名の無い人形を現実世界に引き摺り出してしまったことにあるのだから。
「あの子は頑固な芯を持ってる。敵対する私としては残念だけどね。芯が無ければ、未だにボディと魂がばらばらだったでしょうよ。呆気ないくらいあっさりと手放した自分の器に、また何事も無かったように戻って来るなんて芸当は中々出来るものじゃないわ。……美しさの欠片も無い行為だけど」
 美しさなどという言葉を口にするのはいつ以来だろうか、と思いつつ『真紅』の居室に向かって歩き出す。招かれた訳でもないのに図々しい訪問者ではあったが、『真紅』は黙ってこちらを見ているだけで、取り立てて拒否するような仕種は見せなかった。
 大きな扉を潜り、つかつかと遠慮ない歩き方でこの世界の主のようなドールのテーブルに向かう。分かってはいたものの、部屋の中の人形達が一斉に自分の方に目を向けたのを感じるのはあまり良い気分ではなかった。
 テーブルにいつの間にか用意されていた椅子に掛ける。正面に『真紅』と、その創り出した従者が並んでいた。
 『真紅』は相変わらず無表情のままであり、『ジュン』を思い切り美化したような少年も柔らかい表情を崩そうとしない。
 何度見てもまるで少女漫画の彼氏の典型のような姿だ。翠星石辺りが見れば吹き出してしまうか、逆に恰好良い男の子だと言って目を丸くするだろう。桜田ジュンも中性的で整った顔立ちの、美少年に一歩足りないといった雰囲気ではあるが、こちらは肉感的でない中にも男性らしさがある美少年とでも言うべきだろうか。
 いずれにしても、まだかなり子供子供していた上、さして良い顔とは言えない『ジュン』には程遠い容貌だった。

 ふと疑問が頭の隅を過ぎる。
 彼女は禁忌を冒して『ジュン』と愛し合ったはずだ。彼も満更好奇心と性欲だけで『真紅』を抱いた訳ではあるまい。お互いにそれなりの愛情があったからこそ交わった、全て承知した覚悟の行為だったのだ、などという綺麗事を言うつもりはない──男というものがどれだけ刹那的に女を求めるものかは自分の古い体験からよく知っている──が、好き合っていた上に契約を交わしていたことは紛れもない事実だ。
 その彼を、何故忠実にコピーしなかったのか。長い間回想と想像の中でしか出会っていなかったから歪んでしまった、と言い切るにはしっくり来ない面がある。
 顔貌だけなら、分からないでもない。だが、こんな自我を持っているのかどうかも怪しいような、微笑みかけて来るだけの木偶では、到底彼女が愛した『ジュン』とは言えまい。

 諸々の感情と思考に片がつく前に、目の前にティーカップを差し出されて思索の糸は途切れた。
 給仕をしたのは人間大の人形の内の一体だった。いつ頃かは分からないが『真紅』の昔の契約者の一人を模したものだろう。
 脇に控えたそれに、ありがとう、と感謝の意を伝えてカップを口に運ぶ。紅茶に関して煩いことでは真紅と同等なはずのドールが自分の思う侭に作り出した紅茶は、しかし細かい味に疎い水銀燈には自宅で少年が淹れた紅茶とさして変わらないようにしか思えなかった。
「ご用件は何かしら」
 つんと澄ました声は、酷く素っ気無いものに聞こえた。実際に返答次第では追い返すつもりなのかもしれない。
「『雛苺』のことなら、もう契約は解除したわ。後はあの子の好きに任せるのだから、あの子の今後についてわたしとは一切関係はないものと思って頂いて構わないことよ」
「それは有難いわね」
 有難い、とはリップサービスもよいところだった。
 仮の契約は解除するが契約者は自前で探せ、というのは中途半端な手の引き方だった。翠星石や雛苺があれこれと立ち回ったお陰で柏葉巴に契約をして貰うことはできそうな按配ではあるが、もし断られたら『雛苺』はネジを巻いてくれる人物も居ないまま放浪することになる。
 この様を見れば『真紅』にも事情があることは理解できるが、それにしても水銀燈は真紅が言ったほど好意的な見方を取れずにいる。
「ここに寄ったのは、挨拶がてら訊きたい事柄が出てきたから」
 中身が殆ど減っていないカップを置き、正面を見遣る。
「主に二つあってね。一つはこれから何をするつもりなのか。もう一つは、何故貴女が『アリス』に成ることを捨てようと考えたのか」
 場合によっては協力しないでもない、と言外に含めたつもりだった。それが相手に伝わったかどうかは、『真紅』の態度からは見て取れない。


「水銀燈……」
 雛苺はそわそわし始めていた。水銀燈が扉を潜ってから大分時間が経過している。挨拶だけにしては長い逗留時間に思えた。
 歓待を受けて楽しく話し込んでいるとは思えない。扉の向こうで何やら密談が交わされているのは間違いないが、そちらに向かうほどの蛮勇を彼女は持ち合わせていない。
 水銀燈の話の内容が自分達姉妹に関係すること──例えば翠星石を倒すことへの協力の依頼──ならば、雛苺の立場としては無理筋でも何かしらの理屈を付けて同席するか、止め立てに入らなくてはならない。それも分かっているのだが、扉を潜ることはできなかった。

 正直なところ、雛苺は翠星石よりも水銀燈の方が勝ち残るのに適任だと考え始めている。適性がどうこうなどという高尚な話ではなく、単純にやる気の問題だった。
 蒼星石が表明した、双子の姉妹がそれぞれ三つずつのローザミスティカを間接的に支配してゲームを睨み合いで安定させる、もしくは止めてしまうという方法も話を聞いて知ってはいるが、今はもうそれは望めない。翠星石と水銀燈、どちらがアリスゲームの遂行に熱心だったか──そして今も翠星石の意志がはっきりとは見えないことを考えれば、どちらがゲームを終わらせる任に相応しいかは明らかだ。
 ゲームを終わらせることは自分達全員の死と同義ということも分かっているが、同時に蒼星石と金糸雀の現実世界への帰還も可能にする、もしかしたら他の姉妹の内何人かも同じように帰って来れるかもしれない、という希望もある。ならば態度不鮮明な自分の契約主よりも、最初から一貫して自分のやり方を貫き、ここまでゲームの音頭を取り続けて来た長姉自身が後始末をするのが筋だろう。

 そんな思惑も働いて、雛苺は扉の前で待ち続けている。
 今は三体のドールも流石に再会を喜び合うのを止め、雛苺を一歩離れて見守っている。扉を潜ろうとしないのは、彼女達の事情が働いているのだろう。
「……もう少し待ってもいい?」
 ドール達を振り向いて雛苺は尋ねる。三体それぞれの同意の動作に対して、ありがとう、と笑顔で返せたのは、まだ不安がそれほど深刻でない証だ。そう思いたかった。

 尚も暫く──体感時間では十分ほどか──扉が開くのを待っていると、『翠星石』が沈黙に耐えかねたようにぼそりと呟いた。
「昨日の晩のことですけど……」
 振り向いて見ると、長い髪のドールは現実世界で先程双子の妹がしていたように膝を抱え、視線を斜め下に向けていた。
「『真紅』と喧嘩したときのこと?」
「はいです」
 『蒼星石』の問いに頷き、『雛苺』の方に目を向ける。
「お前は何か聞いてなかったです? 『真紅』のこと……」
「う?」
 唐突に思える質問に、『雛苺』は困った顔になる。
「なんにもきいてなぃのよ」
「そうですか……」
 はあ、と溜息をついて、一層小さく丸まろうとするように膝の間に顔を埋める。
「チビチビには言わないでおこうと思ったのですね……」
 そう言いつつも、彼女は語り始めた。
「『真紅』は、もうわたし達のことなんかどうでもいいって言ったのです。『ジュン』が居ればそれでいいって……」

 『翠星石』の話は概ね、一度ほぼ全般に亙る詳細を聞いている『蒼星石』にとっては新味のないものだった。
 それでも彼女が一心に耳を傾けているのは、最初に言われた事柄が気に掛かっているからだ。昨晩は聞かなかった台詞だった。
 いや、違う。『翠星石』は聞いたという話をしなかったものの、『蒼星石』自身がじかに『真紅』の口から聞いている。

  ──わたしは……『ジュン』を幸せにすることを目的とするの。できるだけ長く、できるだけ幸せに、一緒に生きて行く。

 僅かにニュアンスが異なっているが、同じ事柄だ。但し、『翠星石』に放った言葉の方は刺々しさを含んでいたのかもしれない。
 昨晩、『翠星石』は最後に戦いとなってしまった理由を明確にしなかった。それが最初に言った台詞と関係があるのだろうか。
 俯いて『翠星石』の話を聞きながら、『蒼星石』は二つの事柄の関連を考えてみたが、結局『翠星石』の話がその場面に掛かるまで分からずじまいだった。

「──『翠星石』は断ったのです。今のジュンは、ドールのボディ作るどころの状態じゃないですから」
 漸くそこまで話して、『翠星石』は大きな溜息をついた。
「そしたら……『真紅』は言ったのです。今のわたしには『ジュン』しか居ない、『ジュン』のためなら何でもするって……」


「あなたもそうなのでしょう『翠星石』。『蒼星石』をまた自分だけのものにしたいのでしょう。あの子のためなら何だってするし、できるのではなくて? 『アリス』に成ることなど放棄できるくらい、あなたはあなたの半身を大切に慈しんで育ててきた。わたし達の目的すら放棄して」
 『真紅』の瞳は暗かった。ごく普通に喋っているだけなのだが、彼女の言葉には刺があった。

「わたしはわたしの遣り方を模索して来た。威勢が良いのは恰好だけの足手纏いの『金糸雀』も、不完全なままの可哀相な『水銀燈』でさえも、方法は拙くても『お父様』への愛情と、究極の少女を目指すという使命感は持っていた。
 でもあなた達双子は、お互いに自分達だけを見詰めて来た。
 あなたは『蒼星石』だけを溺愛して、あれほど忌み嫌っていた戦いにさえ自分から参加した。究極の少女ではなく、壊れてしまった戦闘人形上がりの愚かな妹のために」

「愚か……?」
 自分の中の何かが冷たく昏い炎を上げ始めたことを、『翠星石』は感じた。それとも、何かのリレーが繋がったよう、という表現の方が合っているだろうか。
「……『蒼星石』が、愚かだって言うのですか? 言うに事欠いて」
「愚かだけでは済まない、と言わせたいのかしら」
 『真紅』の瞳も、ますます昏さを増している。もはや澄んだブルーではなく、淀みきった沼の底のような黒く濁った色に見えてしまうのは、あながち『翠星石』の主観だけではあるまい。

「確かに、罪を犯したと言った方が適当なのだわ。
 あの子が勝手に暴走したために、『雛苺』の『ローザミスティカ』はその体を離れてしまったのだもの。
 あなたを振り切って独りで『水銀燈』に挑んで自滅したのは自業自得と言うべきだけれど、あそこでもし『水銀燈』が倒れたとしても、『雛苺』は『ローザミスティカ』を取り上げられてしまうことに変わりはない。全てはあの子のせいなのだわ。
 いいえ、それだけではないわ。偶々『水銀燈』とあんな形になったけれど、あの子は他の誰かを狙ったかもしれない。わたし達全員に宣戦布告したのだもの。
 あの場で負けて正解だったわね、あの子にとっては。不名誉にも姉妹殺しと言われなくて済んだのだから」

「……良く回る口ですね。言いたいことはそれだけですか、この高慢女」
 どす黒い何かが、自分の心を満たしてしまった。『翠星石』にはそう思えた。
 ごめんなさいです、と心の中で兎頭の紳士に詫びる。これだけは許せません。相手が、今の今まで信じて来たヤツだけに。

「『蒼星石』の悪口は許さんです。だいたい、チビチビを倒して召使みたいに使っていたのはアンタでしょうが。
 チビがああいうことになるのも、最初から知っていたはずですよね。誰がいつ倒れても、そのときは必ずチビチビも倒れてしまうことを。
 『蒼星石』が犯罪者なら、アンタはペテン師の詐欺ヤローですぅ。自分は戦わないって言ってたのも、チビを動かなくしたのが他の誰かってことにしたかったんでしょう、ホントは」

「……っ」
 ぎりっ、と歯を食いしばる音が聞こえたような気がした。だが『真紅』は口を開き、最後の止めとばかりに『翠星石』を罵倒した。

「わたしが『雛苺』を下僕としたのは、勝者の当然の権利なのだわ。
 あなたのような、機械のような双子の妹を好き勝手に、自分の理想どおりに仕立て上げる厭らしい俗物とは違う。
 自分が色を与えた可愛い操り人形を『お父様』よりも愛しているような醜いジャンクとは」

「わ、わたしは……『翠星石』は……ッ」
 今度こそ、何かが千切れた。彼女はそれを理解したが、もうラプラスに謝罪する余裕も、行動を止めるつもりもなかった。
「厭らしい俗物なんかじゃ……ジャンクなんかじゃねーですぅぅっ!」
 『翠星石』はどす黒い炎を吐き出すように、早口で人工精霊を呼び、夢の如雨露を召喚した。
 相手が一瞬硬直したところに、如雨露を振るって雨を降らせる。如雨露の雨はただの水ではない。『真紅』に掛ればただでは済まない。
 だが、水滴は『真紅』に当たる前に弾き飛ばされた。『真紅』もまた、赤い薔薇の花弁を使って風を起こし、雨を吹き払ったのだ。
 二体のドールは初めて対峙した。その間に信頼も思い遣りもない、ただ憎悪と反感だけがあることもまた、初めてと言って過言ではなかった。
「アンタはそうやっていつも、自分のことは棚に上げて高いところからみんなのこと見てたんですね」
 如雨露を突きつけるようにやや斜め上に翳しながら、『翠星石』は距離を置いて立っている『真紅』を睨みつけた。
「ずっと前から変だと思ってたんですぅ、『水銀燈』と薔薇水晶のヤツが組んだ時、アンタがいきなり戦わないって言ったときから」
 眼前の『真紅』はただ突っ立っているように見えた。唐突に出てきた、以前から疑っていたという言葉に呆然としているのか、単に『翠星石』など敵ではないと侮っているのかは分からない。
「それでも『翠星石』はアンタを信じてました。こっちに来てからの無茶な言い分も、賢い、一番辛い思いをした『真紅』が言うことだからって従って来たのですぅ。でももう分かりました。あれもこれも、全部、ぜーんぶアンタ自身のため、アンタの薄汚ねー自尊心を満足させるためにやってきたことだったってわけですね」
「薄汚い嘘吐きはどちらだと思って?」
 『真紅』は酷く冷たい口調になった。
「こちらの世界に来てから、わたしにずっと附いて回っていただけの役立たずのあなたが、どの口で賢しらな言葉を吐くのかしら。姉妹として恥ずべきことだわ」
 そのまま、くるりと踵を返す。こちらを向いて喋るまでもない、どうせお前には何も出来ないだろう、と言いたげな仕種だった。
 一瞬、その姿が限りなく尊大で傲慢に見えたのは、錯覚としか言えない。しかし『翠星石』にはそれだけで充分だった。

「わたしに唯々諾々と従ってきたのは、自分の考えを持たなかったから。べたべたとくっついてきたのは、誰でも良いから寄り掛る対象が欲しかったから。それだけのこと。
 誇り高い『ローゼンメイデン』としてあってはならない、主体性のないドールだわ。
 まるで欠陥品のあなたの妹と同じ──」

 『翠星石』は背を向けた相手に皆までは言わせなかった。
 これ以上言わせまい、と明確に思った訳ではない。気付いたときには体が動いていて、目の前の赤い服を着た悪意の塊を如雨露で突き倒していた。
 『真紅』もただ倒れはしなかった。ある程度は予期していたか、背後の足音か気配に気付いたのだろう。寸前で振り向き、手に持ったステッキで如雨露を払おうと身体を捻った。
 しかし、それは若干遅れた。剣客ものの小説風に言えば、『翠星石』の昏い怒りを込めた一撃の速さが『真紅』の反応を上回ったと表現すべきだろうか。
 いずれにしても、『真紅』は横様に芝生の上に倒れてステッキを手放し、『翠星石』は相手に馬乗りにのしかかってその眼前に如雨露を突きつけた。
「わたしのことだけなら言い合いで済ませますけど、『蒼星石』をこれ以上侮辱することは、たとえ姉妹でも許してやらんのですぅっ」
 如雨露から勢い良く雨が噴き出る。『真紅』が思わず悲鳴を上げるが、『翠星石』は容赦するつもりはなかった。その顔が爛れて崩れ、壊れてしまっても構わないとさえ考えた。それだけの力が自分の如雨露にないことが口惜しくさえあった。

「謝るです。謝りやがれですこの高慢ちきッ! 『蒼星石』は欠陥品なんかじゃ、戦闘人形なんかじゃ──」

 『真紅』が全て言い終わらない内に倒れ込んだように、『翠星石』もまた言いたいことを言い終わることはできなかった。
 眩い光が『真紅』の手の中に生まれ、薔薇の花弁が至近距離から『翠星石』の腹部に浴びせられる。『水銀燈』との戦いに多用された鋭利な刃を持った種類のものではなかったが、相手を吹き飛ばすには充分だった。
 『翠星石』は芝生の上に叩き付けられ、数回転がってから大の字に倒れた。意地でも如雨露を放さなかったのはそれだけが彼女の恃みの綱だったからだが、ごく短時間の戦いなのに何故か激しく消耗していて起き上がることさえできなかった。
「……身の程を弁えなさい、契約を結んでいてもそんなに弱いくせに」
 荒い息を吐きながら起き上がった『真紅』は傍らに落ちていたステッキを拾い、低く抑えた冷淡な声をこちらに浴びせて来た。

──ごめんなさいです、『蒼星石』……

 怒りで突き動かされたことでなく、彼女を侮辱したことを謝罪さえさせられなかったことを、『翠星石』は申し訳なく思った。
 実力の差は圧倒的なのだ、ということも身に沁みていた。今の一撃が本気だったら、自分は完全に破壊されていただろう。理由は分からないが、『真紅』は力をセーブしていた。ナナを突き飛ばしたときほどの力も込めずに『翠星石』を払い除けたのだ。
「……『蒼星石』ぃ……」
 ごめんなさい、と考える裏で、会いたい、ここに来て欲しいと『翠星石』は思った。『真紅』と戦ってくれなどという考えはない。ただ無性に寂しかった。
 彼方から『蒼星石』の声が聞こえたのは、そのときだった。


 『翠星石』の話が一段落すると、急にその場はしんと静まり返った。
 仲の良かったはずのドール達、それもミーディアムを同じくしていた二体の確執は、酷く重い雰囲気を伴っていた。

「──ジャンク、ねぇ。それなら、今はあの子自身がジャンクってことになるわね。それも踏まえての言葉ってことかしら」

 呆れたような声が聞こえた。
 話を聞いている内にドール達と同じように膝を抱えていた雛苺は、はっと顔を上げる。目の前に、いつの間にか水銀燈が居た。
「おかえりなさいなのー!」
 ぱっと抱き着くと、水銀燈は払い除けようともせず、やれやれといった調子で、ただいま、と答えた。
「待っててくれたことは有難いけど、遅くなったら先に帰れって言ったのは守らなかったのねぇ。まぁいいわ」
 至極あっさりと感謝と指摘を両立させ、しがみついている雛苺を引き離す。雛苺も照れたように笑っただけで、素直にされるままになった。

 水銀燈が話をあれこれと引き伸ばす前に、どれだけ前から聞いていたのかを有耶無耶にしてしまったことに雛苺は気付いていた。
 実際にはかなり前から近くに居たのだろうが、『翠星石』が都合三度目の説明で初めて思いの丈を吐き出し終えるのを待っていたらしい。
 例えば、話が辛い部分に差し掛かる前に姿を現し、もう言わなくていい、と抱き締め、胸の中でドールが泣き疲れるまで──いや、ドールの気の済むまで抱いていてやることもできただろう。
 話すことで詳細に思い返せば尚更辛くなることもあるのだし、自分は分かっているのだと示すことで安心もさせられる。第三者からすれば『翠星石』が語った内容は推測で補える、敢えて言えば詳細はどうでも良い事柄だったから、必ずしも全部聞く必要はなかった。昨日の晩の時点で経緯を知らされていたのだから、全く聞く必要がなかったとさえ言える。
 水銀燈の遣り方は、吐き出すだけ吐き出させてすっきりさせるという、言わば荒療治だった。一旦全部毒と忸怩たる物の双方を出しきるまでは、胸の奥に溜まったどろりとした昏い感情は消えることはない、という考え方だ。
 どちらがより良いのかは雛苺には分からない。ただ、水銀燈なりに気遣いをしているのは感じ取れた。

 雛苺の表情から何かを読み取ったのか、水銀燈はばつの悪い表情になってそろりと視線を逸らす。そういった気配りをしていることは悟られたくないのだろう。面白いことに、その辺りは彼女が長いこといがみ合ってきた真紅と似ている。
「長いこと待たせて悪かったわね。行きましょう。時間も切迫してるみたいだから」
 身を寄せ合うようにしている三体のドールの真ん中に居る『翠星石』を見遣る。
「帰ったら、結菱一葉に礼を言っておきなさい。まあ、あの老人は鈍感なところがあるし、あの姿で結構生命力は強い方らしいから、何も気付かなかった可能性もあるけど」
 え、と顔を上げるドールににやりとしてみせる。
「何を言われようとどう罵倒されようと……姉妹と別れていようと」
 ちらりと『翠星石』の隣に視線を向ける。何故か怯えたような表情を返す『蒼星石』と目が合ったが、水銀燈はやや優しい目つきになっただけだった。少なくとも雛苺からはそう見えた。
 その目のまま、水銀燈は『翠星石』に視線を戻した。
「……貴女には協力者が居る。勝手に家を出て喧嘩しても多分怒らない、寛大なミーディアムがね。まずはそこからでもいいじゃない。翠星石が──私の妹が言うみたいに、時間掛けて仲間を増やしていけばいいのよ。時間はあるんだから」
 はいです、と素直に頷く『翠星石』と、早くも三体の人工精霊を呼び出した自分の姉を眺めてから、雛苺はちらりと扉を見遣った。水銀燈が行って来た、『真紅』の世界に通じる扉だ。
 あの向こうで、水銀燈は何を聞き出して、どういう合意を得てきたのだろう。それは気にならない訳ではないが、もっと大きな思いが頭の中を占めている。
 その世界に居る存在が、ドール達の中で最も孤独なのではないだろうか。そして、更に孤独の度を深めようとしているのではないだろうか。
 完璧な存在に近い者というのは、もしかしたら酷く孤独な存在なのかもしれない。まるで、自分達の造物主のように。


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