【21時30分】
意識はある――おそらく、あると思う。
しかし、身体は少しも動かない。氷漬けにされてしまったみたいに、何をしても動こうとしない。
目も見えない。冷たい暗闇が広がっている。
音は聞こえる。細胞が蠢く音が身体の内から響いてくる。外からはなにも聞こえない。
自分の意思でできることは何一つなかった。
やがて、冷たく固まっていた身体に体温が戻ってくる。細胞が動き、熱を発する。肉体が再構築され、心臓が再起動する。体内を血液が駆け巡る音が聞こえる。忘れていたものを取り戻すように、身体の感覚が戻ってくる。
口に何かが触れた。それは柔らかく、温かい。そこから肺に空気が流れ込み、そして――。
「ガハッ、ゲホッ、ゲホッ」
俺は肺に溜まっていた何かを吐き出した。鉄臭い味が口内に広がる。
「よかった……」
まぶたを開けると、坂崎さんが目に涙を浮かべて俺の顔を覗き込んでいた。彼女の唇が瑞々しい赤で染まっている。
「あ――俺は――」
「だめです、動かないでください!」
起き上がろうとした俺を、彼女は鋭い声で制した。思わず動きを止めて状況を確認しようとするが、靄がかかったように思考が曖昧で考えが上手くまとまらない。
「今――何時ですか?」
「21時31分です。まだ時間はありますから、大丈夫です」
あれから、あまり時間はたっていなかった。あれから――そうだ――
「――沙耶は!?」
「地下にいます。モニターが見えますか?」
言われるがまま首を傾けてモニターを見ると、そこには地下研究室の映像が映し出されていた。円柱状の容器が不気味に並んでいた、あの部屋だ。
「あっ!」
画面の端に白衣の男が映った。傍らには沙耶がいる。男は一心不乱に棚を漁って薬品を取り出し、それを片っ端から自らに注射していた。
「あいつが部屋を出てから追えば間に合いますから。だから、今は身体を休めましょう。それから、沙耶を助けに行きましょう」
「……わかりました」
不承不承、同意した。
身体は少しずつ動くようになっていたが、動かす度に肉が千切れるような鋭い痛みが走る。これでは床を這いずるぐらいしかできそうになかった。
俺が身体を休めていると、坂崎さんがそっと俺の頭を持ち上げて、その下に膝を差し込んだ。膝枕だ。薄い布越しに彼女の体温が伝わってきて、俺をやさしく温める。
「あ……ありがとうございます」
彼女は少し微笑んだ。この体勢でいると、俺の顔を覗き込む彼女と自然に目が合う。なんだか照れ臭くて視線をそらすと、彼女は小さく笑った。
拙い照れ隠しを見破られたのだろうか。なんだか余計に照れ臭くなってくるが、いまさら視線を戻すわけにもいかず、そのまま視線をさまよわせる。
「あ――」
その先が、血で染まっていた。大量の血液が床を覆っていた。まず間違いなく、俺の身体から流れ出したものだろう。
「俺は――どうなるんだ……」
誰に言うでもなく自然に呟いていた。これだけの血を流して、まだ生きていることが信じられない。自分が得体の知れない入れ物に入っていみたいで、ひどく気味が悪い。
「大丈夫です」
頭上から坂崎さんの落ち着いた声が降りてくる。
「あなたの身体はもう普通の人とは違います――でも、大丈夫です」
彼女はそっと俺の頬を撫でて、幼い子供に言い聞かせるように優しく話す。
「私は不安でした。あなたが信用できる人なのか、力を得たあなたがどうなるのか、色んなことを考えました――本当に、色んなことを考えたんです」
彼女はそこで言葉を切って、俺を見つめる。切れ長の美しい目から、どこか詫びるような感情が見え隠れする。
「でも今は――私はあなたを知っています。あなたは私を助けてくれました。そして沙耶を助けようとしています。あなたは人であろうとしています。だからもう不安はありません――きっと大丈夫です」
彼女の言葉には論理的な根拠はどこにもなくて、ともすればただの感情論かもしれない。だけどそこからは、どこか懐かしい暖かさが伝わってきて、俺をやさしく包み込む。
「少し――気が楽になりました。ありがとうございます」
「私にはこれぐらいしかできませんから――ごめんなさい。私には何も出来なくて、あなたを利用してばかりで……」
彼女は首を振って、潤んだ声で言った。目の端に溜まった涙が、溢れて零れ落ちてくる。
「いいんです。俺は俺のやりたいことをやっていますから」
彼女は口の端に笑みを浮かべようとして、だけど上手く笑えなかった。それから小さく、
「ありがとうございます」
と言った。
身体の内から細胞が蠢く音が響いてくる。24時間稼動の生産工場みたく、驚くべき勢いで身体が作り上げられていく。俺には工場長のような権限はなくて、ああしろ、こうしろ、と指示することはできない。勝手に設計された身体が、勝手に出来上がってくるのを待つだけだ。しばらくの間その音に身を任せながら、俺は沙耶のことを考えていた。
「沙耶は――どうして俺を、その……」
「攻撃したのか?」
曖昧な俺の言葉を、坂崎さんが引き継いだ。
「……はい」
「おそらく、あの男を守るように教え込まれていたのでしょう」
彼女は眉をひそめて言った。
俺は少し迷ってから言う。
「それなら沙耶を助け出そうとしても、彼女と争うことになるんじゃないですか?」
「そうかもしれません。ですが、あなたが変わらないように、沙耶もきっと変わっていません。肉体が変わっても、記憶をなくしても、沙耶のままでいると私は信じています。沙耶は強い子ですから。だから、沙耶を信じてあげてください。そして、どうか嫌わないであげてください」
彼女が真っ直ぐに俺を見つめてくる。その真摯な瞳に見据えられて、俺は深く頷いた。
「……よかった。沙耶にとってあなたは、大切な存在ですから」
「そうなんですか?」
「きっとそうです。私はあの子の姉ですから、わかるんです」
そう言って、彼女は目を細めて柔らかく微笑んだ。やはり笑顔の似合う人だと思った。短い付き合いの中でも、一見すると鋭利で冷たい顔をしている彼女が、実は表情豊かで優しい人だということがわかってきた。
少しの間その笑顔に見惚れて、それから恥ずかしくなって目を閉じた。俺は坂崎さんの鼓動を感じながら身体が出来上がるのを待ち、彼女は子供を寝かしつけるように俺の髪を撫でる。
逼迫した状況下ではあるけれど、少しずつ心に余裕が生まれてくる。余裕を持つ事は大切だ。余裕がないと視野が狭くなって思いがけないミスを犯してしまう。多分これから先は一切のミスが許されないだろう。
やがて、身体が出来上がったことを伝えてくる。「しょうがねえから前より頑丈にしといたぜ」とでもいうように、すこぶる調子がいい。以前のような嫌悪感はもう忘れていて、それを自然に受け入れることができた。
「そろそろ、いきましょう」
俺は身体を起こして言った。
「もう、大丈夫なんですか?」
「ええ。それに時間がありませんから」
時計の針は21時37分を指していた。
立ち上がって、部屋の隅に転がっていたバットを拾い上げる。バットは様々な体液がこびりついて変色し、でこぼこになっていた。こいつにはずいぶん世話になった。あと少しだけ、がんばってほしい。確かめるように右手で何度か握り締め、それから俺はごく自然に左手を差し出す。
「あ――」
沙耶がいないことを忘れて、何もないところに左手を差し出していた。慌てて引っ込めようとすると、その手を坂崎さんが握った。
「いきましょう」
彼女は悪戯っぽく笑った。
部屋を出る寸前で、坂崎さんの歩みが止まった。繋いだ手が引っ張られて、俺は部屋の中に戻される。
「どうしたんですか?」
問いかけると、彼女は壁のモニターのひとつを指差した。
そこに、巨大な人影が映っていた。巨大な人影は地下研究所の廊下を悠然と歩いている。隆起した筋肉に、鋭く伸びた左手の爪、そして剥き出しの巨大な心臓――あれはたしか、円柱状の容器に入っていた怪物だ。
「タイラントT-002型……」
坂崎さんが呟いた。その呟きは、多分俺に向けられたものではなくて、本来なら誰にも聞きとめられることなく空気に溶けていく類のものだった。そうと知りながら、俺は訊いた。
「それはなんですか?」
彼女は振り返って俺を見た。
「あ――えっと、高い戦闘力と任務を遂行する知能を持った非常に強力な生物兵器です」
「ということは、あいつの任務は――」
「おそらく、私達の抹殺……」
画面の中をタイラントが進んでいく。
視線をずらしてその横のモニターを見ると、円柱状の容器が並んでいた部屋が映る。その中の一番大きな容器が空だった。容器の傍らに男が横たわり、引きつった笑みを浮かべて画面の先にいる俺たちを嘲っている。
「時間がありません、いきましょう」
と言って、坂崎さんの手を軽く引く。
「そうですね……」
彼女は不安をごまかすように笑みを浮かべた。
足早に車両基地の前まで戻ると、扉の奥から届く濃厚な気配が俺の足を止めた。
「ここで、待っていてください」
坂崎さんはそれだけで悟ったようだ。
「気をつけて……」
彼女は深く頷いた後、言った。
俺も頷いて、重い鉄の扉を開けた。
規則的に並んだコンテナの一番高い場所で、この空間全てを支配するように、そいつは待っていた。研究室で見たままの姿のそれが動いている。
これが――タイラント。非常灯の儚い光が、その姿に柔らかな陰影をつけて、薄暗い闇から浮かび上がらせる。非現実的でグロテスクなその外貌に、少しだけ目を奪われる。不思議と恐怖は感じず、それどころか親近感のようなものが胸のうちに湧いてきた。だけど俺と奴は明確に敵対していて、そこに、何かに置き去りにされたようなもの悲しさを感じる。
奴は白濁した瞳で俺を見据えると、力強く跳躍し、重い振動を響かせてコンクリートの床に降りた。
素早く時計を見る。21時41分。あまり時間がない。
俺は時間に急かされて、駆け出す。
いまさら戦闘を避けるという選択肢はない。例え避けて通れたとしても、挟み撃ちにあうのは火を見るより明らかだ。俺にできるのは、一秒でも早く、こいつを無力化すること。ただそれだけ。
コンクリートを蹴る足が急激に加速し、一瞬で間合いを詰める。明らかに、俺は以前より早くなっていた。
鋭く突き出された奴の左爪が俺のわき腹を掠めて虚しく過ぎる。俺はその攻撃に合わせてバットを振り、勢いのついた一撃を顔面に叩きつけ、確かな手ごたえを感じながらそのまま脇を駆け抜ける。一瞬遅れて、俺の背後を何かが掠め、恐ろしく暴力的な音が辺りに轟いた。
間合いをとって振り返る。
奴は左爪をコンクリートの床に叩きつけた姿勢で佇んでいた。コンクリートがガラスのようにひび割れている。
なんて威力だ。あんなもの、一度でも喰らえば動けなくなる。
いまさらになって恐怖が襲ってきた。暗く冷たい死の影が胸の内に降りてくる。
コンクリートの欠片を払って立ち上がった奴が大股で歩いてくる。2mを越える巨躯の歩みは、常人の駆け足程度はあるが、決して速くない。そして、どうやら奴は走れないようだ。逃げようと思えば、逃げられる。もちろんそんなことをするつもりはないが、俺は奴との距離を一定に保ちながら後ずさった。
少しだけ、考える時間がほしかった。
俺は奴に渾身の力を込めた一撃を浴びせたが、奴は顔面から少し血がにじんだぐらいだ。まるで効いていない。それは間違いなく今日最高の一撃で、驚くほど重い感触がバットから伝わって来たのだが――そのバットが大きくへこんでいた。むやみに攻撃しても時間と武器を消耗するだけだろう。
俺は積み重なったコンテナの合間を抜けていく。その後から、奴は一定の歩幅、一定の速さで追ってくる。はたして見えているのかわからないほど白濁した生気のない瞳は、しかし確かに俺の姿を追ってくる。
生物であるのに、その動きは機械的な作業のようで、生物らしさがまるで感じられない。ただ一点――剥き出しになって鼓動する、大きな心臓を除いて。
狙うならそこしかないだろう。そこが弱点であることは誰の目から見ても明らかで、だから何かあるのかもしれないと、そこを狙うのを躊躇っていた。しかしいつまでもこんな変化のない追いかけっこを続けるわけにもいかない。
俺は覚悟を決めて駆け出すと、バットを身体の前に突き出すように構えた。駆ける勢いをそのままにバットを心臓に向けて突く――が、待ち構えていたかのように、正面から鋭い爪の先端が迫ってきてた。俺は攻撃を中断すると、身体を屈めてぎりぎりのところで爪をやり過ごし、脇をすり抜ける――瞬間、俺は何かに引っ張られて、速度が一瞬でゼロまで戻った。肺の空気だけがそのまま駆けていくように吐き出される。足が虚しく空を蹴る。
首だけで振り返ってみると、奴の右腕がリュックの端を掴んでいた。
俺はクレーンゲームの景品みたいに、奴の目前まで持ち上げられる。生気のない顔が冷めたく俺を見上げてくる。抜け出そうともがいても、リュックの安全ベルトがしっかりと身体に固定されていて抜け出せない。
そして身動きの取れない俺に向けて、鈍く輝く爪が突き出された。
明確な死の予感に、全身が総毛立つ。
空気を貫いて迫るそれを、俺は半ば反射的に蹴り飛ばしていた。僅かに軌道がずれる。そして、右肩を抉られ、リュックの右ベルトを切り裂かれた。鋭い痛みが走るが、大丈夫、きっと浅い。そう自分に言い聞かせる。
片方のベルトが切れた不安定な体勢で宙に吊り上げられた俺は、激しく身体をゆすって、次の一撃が来る前にリュックからすり抜けるように落ちた。
それと同時に、奴の爪がリュックを貫いた。リュックの中に入れていたノートパソコンが、プラスチックの割れる耳障りな音を立てる。
この隙を逃す手はない。俺は体勢を整えて、巨大な心臓をバットで突いた。バットは正確に心臓を突いたが、しかし貫くことはなかった。やはり先端が太すぎる。
だが、奴は心臓を押さえてよろめくように数歩後退した。間違いなく効いていた。深読みするまでもなく、心臓が弱点だったのだ。
俺は奴に連撃を浴びせて畳み掛ける。そのほとんどは頑強な腕に阻まれたが、残りは巨大な心臓を激しく打った。攻撃の合間を縫って繰り出される奴の左爪を、俺は半ば勘だけで避け、巨大な心臓を繰り返し殴る。次第に奴の反撃に力がなくなってくる。そして、ついに奴は片膝をついた。
俺はそのまま止めを刺そうと、踏み込む。
しかし、身体の内から湧き上がった何かが、それを止めた。それは、踏み込んではいけないと伝えてきた。
全身の筋肉を締め付けて踏みとどまる。コンクリートの上を嫌な音を立ててスニーカーが滑る。
そして目前を、鋭い爪が薙ぎ払った。
切り裂かれた空気が唸りを上げ、目前に構えたバットにやたら重い衝撃が走る。まるで目前の空間が巨大な斧で根こそぎ奪われたかのようだ。あと一歩踏み込んでいたら、俺の首が飛んでいた。
ぞっとしない思いで奴を見ると、最後の力を振り絞ったように、左爪を振り払ったまま静止していた。奴の白濁した瞳が俺を見上げる。それはどこか苦しそうにも見える。
今度こそ止めを刺すべく、俺はバットを振りかぶる。そこで――バットの半ばから先が消えてなくなっていることに気付いた。さっきの一撃だろうか、背筋が冷たくなる――しかしちょうどいい、これで鋭くなった。
バットを逆手に持ち直して、俺はそれを巨大な心臓目掛けて振り下ろした。
肉を貫く鈍い感触が伝わり、バットが根元まで、巨大な心臓に飲み込まれる。鼓動にあわせて何度か血液が噴出すと、奴は俺を見据えたまま静かに倒れ付した。断末魔のただの一声も上げなかった。
荒い息を整えながら、扉まで戻る。
リュックは中身がぐちゃぐちゃになっていて諦めて捨てた。
バットも捨てた。頼りになる相棒をなくして手元が寂しいが、奴の心臓に刺さったバットを抜こうとは思わなかった。半分になったバットなどあってもなくても似たようなものだし、抜いてしまうと奴が蘇って来るような気がした。いや、さすがにそれはホラー映画の見すぎか。
扉を開けると坂崎さんが目の前にいた。彼女は俺を見るなり、
「大丈夫ですか! ケガは?」
と訊いてきた。
「ちょっとかすり傷を負いましたが、大丈夫です」
軽く右肩を押さえながら言うと、彼女はその手を押しのけて傷口を調べる。
「かすり傷とはいえませんが――今のあなたなら大丈夫でしょう」
彼女は安心したように微笑んだ。
コンテナの間を通り抜けて、Cエリアの扉の前で立ち止まる。扉には鍵がかかっていた。
「つまらない時間稼ぎです。すぐに解除します」
坂崎さんは苛立たしげに言うと、スーツの懐から手のひらサイズのデバイスを取り出し、USBケーブルで扉の脇に取り付けられたキーパットとそれを繋いで慣れた手つきで操作しはじめた。
俺にできる事は何もなさそうだった。ここは彼女に任せて、俺は武器になりそうなものを探す。この身体なら武器がなくても何とかなりそうだったが、格闘技経験などない俺には、やはり無手は心細い。何かを振り回すほうが性に合っている。
まず目に付いたのは壁際に置かれた消火器。持ち上げて振ってみるが、太くて振りにくい。持ち手の部分は直ぐに折れてしまいそうだ。それに確か消火器が破裂して近くにいた人が重傷を負った事故があった。振り回した拍子に爆発して、それで死んでしまったら笑えない。消火器は鈍器にはむいていないだろう。
それ以外に目に付くものと言えば、コンテナ、コンテナ、コンテナ……。気がめいるぐらいにコンテナばかりだ。俺はコンテナを調べてみるが、しかしコンテナには鍵がかかっていた。キーパットが取り付けられているから、坂崎さんに頼めば開けてもらえるだろうが、何が入っているかもわからないコンテナを開けるために時間を費やことはできない。
結局何の収穫もないまま、俺は坂崎さんがいる場所まで引き返そうとした。しかしその途中で立ち止まった。というより立ち止まらざるをえなかった。身体の内から何かが「おい、やばいことになったぜ」伝えてきたのだ。何がやばいことになったのか俺にはわからなかった。だから立ち止まって感覚を研ぎ澄ませてあたりを探った。
原因はすぐにわかった。現在この車両基地には、三人の人間がいたのだ。正確には、一人の人間と、俺を含む人間もどきが二人。人間もどきが一人多い。そしてその人間もどきは奴を殺した場所にいた。まさか奴がまだ生きているのだろうか。
なんともいえない嫌な感じをおぼえて、急いで坂崎さんがいる扉の前まで戻り、
「今すぐに、隠れてください」
と言った。
彼女は驚いて作業を止めると、俺の顔を見つめた。
「……わかりました、どうか気をつけて」
俺の表情からただならぬ何かを感じ取ったのだろうか、彼女は理由を聞かずにそれだけ言うと、コンテナの陰に隠れた。
俺はコンテナの合間をぬって奴を殺した場所まで進んだ。時間が迫っているこの状況で、待つという選択肢は無かった。
しかしそこには血溜まりだけが広がっていた。奴の死体は大量の血液を残して姿を消していた。だけど――近くにいる。そう伝えてくる。どうしてだかわからないが、奴は蘇ったのだ。
その場で周囲を見回してみる。何段にも積み上げられたコンテナばかりだ。濃い血の臭いに邪魔されて、奴の居場所が曖昧だ。
不意を突かれれば、一瞬で終わってしまう。奴は俺を一撃で殺す術を持っている。
俺は周囲に漂う薄暗い闇の全てから見られているような錯覚に襲われた。
知らないうちに手が汗ばんでいた。坂道を転がり落ちるように鼓動が早くなっていく。武器を持っていないこともそれに拍車をかける。消火器でもいいから持って来るべきだった。
意識して深く呼吸し、自分を落ち着かせる。確かめるように両拳を握り締める。
そして薄闇の中――傍らのコンクリートの床に、ひと際暗い影が落ちた。しかし影の主が見当たらない。影は急速に大きく、濃くなっていく。
頭上から風を切る音が聞こえた――上!?
見上げた俺の視界を、闇を切り裂いて迫る強大な爪が覆い尽くした。