【18時】
『アンブレラ製薬生物災害対策コールセンターの霧島です』
電話の相手は霧島さんだった。
彼女は相変わらず、落ち着いた感情のこもらない声で話す。
「ちょうどよかった、今小学校にいるんですが、ヘリが墜落してしまったんです」
『はい、救助ヘリが墜落した事はこちらでも確認しております。そのことでお電話させていただきました』
「それで、どうなるんですか?」
『大変申し上げにくいのですが、現在、市のウィルス汚染状態が予定より悪化しています。その結果、ウィルスで凶暴化したカラスによって、大型ヘリが墜落させられる事態にまでなりました。残念ですが、アンブレラ製薬生物災害対策チームは、これ以上のヘリでの救出活動は、犠牲者を増やすだけだと判断しました』
「……つまり、どういうことですか?」
『救出活動自体を断念したと判断していただいてかまいません。アンブレラ製薬が、佐藤様の脱出を手伝う事はできません』
彼女は、淡々と告げる。
死刑宣告にもとれる言葉を、平然と、何の揺らぎもなく。
「ちょっと待ってください、じゃあどうやって脱出すればいいんですか?」
『佐藤様ご自身で、脱出されるしかありません』
「そんな……そうだ、自衛隊の救助はないんですか? アンブレラが駄目でも、自衛隊なら――」
『自衛隊の救助活動が開始される見込みはありません』
「そんな……」
『大変残念な結果になりましたが、アンブレラ製薬一同、佐藤様の無事を心よりお祈り申し上げます』
彼女はマニュアルを読み上げる。
その声の中には、仕事としての義務感しか感じられない。
彼女はきわめて忠実に、任務を遂行していた。
「無事を心よりお祈り申し上げる? この事故自体、アンブレラ製薬が原因じゃないですか、なのに何で、そんな他人事みたいなことを言うんですかっ!」
俺の中で押さえ切れなくなった感情があふれ出る。
こんなことに意味がないとわかっていても、抑えることができない。
『私どもも、大変心苦しく感じ――』
「こんな事故を起こしておいて、何でそんなに無責任なんですか!これは俺一人の問題じゃないんです、俺の隣には、中学生ぐらいの少女もいます」
俺は隣にいるティーを見る。
彼女はじっと、俺を見つめていた。
あふれ出ていた感情が、波が引くみたいに俺の中に戻ってくる。
俺がしっかりしないといけなかった。
「彼女は精神的なショックで髪が真っ白になってしまっています。自分の意思で動くことも、考えることも、ほとんどできません。そんな少女に、あなた達は自力で脱出しろというんですか」
『白髪の少女がいるのですか? 佐藤様の隣に?』
「ええ、中学生ぐらいの華奢な少女です」
そこで霧島さんは沈黙した。
電話の奥から、キーボードを打つ音がかすかに聞こえる。
「霧島さん?」
俺は不審に思って声をかける。
『はい、失礼致しました。実を言いますと、佐藤様がそこから脱出する方法がひとつだけあります』
「ちょっと待ってください、脱出方法を教えてくれるのはありがたいですが、俺には全く話が見えません。どうして教えてくれるんですか?」
彼女は再び、沈黙した。
その沈黙が何を意味するのか、俺にはわからない。
考えているのだろうか、迷っているのだろうか、それ以外だろうか。
沈黙は10秒ぐらいだった。
『私には妹がいました――もう何年も前に、病気で亡くしました。佐藤さんが話す少女の特徴が、妹とよく似ていたので……。私には、その少女を見捨てることが出来ません』
「亡くなった妹さんも、白髪だったんですか?」
『はい……病気で色が抜け落ちてしまっていました』
亡くなった妹。
いかにも、取ってつけた様な理由に思える。
それをそのまま信じていいのか、俺にはわからない。
だけど彼女は、完全に自らのマニュアルの外に出ている。
それだけはわかる。
「……わかりました。とりあえず脱出方法を教えてください」
『その前に、佐藤様に知っておいてもらわなければいけないことがあります』
「何ですか?」
『先にも申し上げましたが、ウィルス汚染が予定より悪化しています。アンブレラ製薬はウィルス感染が市外にまで及ぶ可能性が非常に高いとみて、本日22時にウィルス滅菌作戦を敢行し、市を爆破します。あと4時間で佐藤様は脱出しなければなりません』
「そういう大切なことを、なんで最初に――!いや、これは霧島さんのせいじゃないですね……。取り乱してすいません」
俺は再度あふれ出しそうになった感情を押さえ込む。
アンブレラ製薬に対する不信感が、これ以上ないぐらいに高まっていた。
『こちらこそ、黙っていて申し訳ありませんでした』
「いえ、俺は気にしてませんから。説明を続けてください」
『それでは説明させていただき――』
霧島さんがそこまで言ったとき、電話口から電子音が響いた。
アラームのような甲高い音だ。
『佐藤さん、今から市全域が完全に情報統制されます!この通話もあと数秒で切断されます!』
彼女は慌てた声で言う。
その声には、確かな感情がある。
『今から駅に向かってください!19時に必ず電話します!詳しい事はその時に説明するので、それまでに駅長室に――私を信じて――』
そこで電話は切れた。
最後はノイズ混じりで、あまり聞き取れなかった。
「19時に駅長室」
俺はそれを忘れないように呟いて、携帯をポケットにしまう。
時計を見ると18時05分だった。
小学校から駅までの距離は、マンションから小学校まできた距離より少し長いくらいだから、何事もなければ19時までに到着できるだろう。
――しかし、霧島さんを信じていいのだろうか。
亡くなった妹に似ているから見捨てることができない、という理由で俺たちを逃がそうとするのだろうか。
俺は彼女と妹の関係がどんなものだったのかわからない。
その絆がどれほど深いものだったのかわからない。
それを知らない俺は、彼女を素直に信じることができない。
仮に、彼女が嘘をついているとするなら、彼女はなぜ、ティーの話を聞いて態度を急変させたのだろう。
「君が、アンブレラ幹部の娘とか?」
俺はティーに問いかける。
ティーは首を傾げ、俺の顔を見つめる。
「ありえないよな」
俺はその考えを否定する。
もし、ティーがアンブレラ幹部の娘だとすれば、たとえ危険でもアンブレラが迎えにくるはずだ。
俺にティーを託すとは考えにくいし、アンブレラ幹部の娘だということを隠さずに告げたほうが話は上手く進んだだろう。
それに電話が途中で切れたことを考えると、霧島さんの行動は恐らく独断。
少なくともアンブレラ製薬は関与していない可能性が高い。
絶対ではないが、そう考えるのが自然だ。
――いや、電話の途中でキーボードを打つ音が聞こえたことを考えると、独断と言い切ることはできない。
彼女は電話中、誰かに連絡を取っていたのかもしれない。
何かを調べていた可能性もある。
だとすれば、誰に、なんと連絡を取っていたのだろうか。
いったい、何を調べていたのだろうか。
「ふう……」
俺は大きく息を吐いて、腰を下ろす。
これは二人の命がかかった問題だから、よく考えたほうがよさそうだ。
ティーも俺の隣に腰を下ろす。
身体が密着するぐらい近くだ。
ティーの体温が伝わって、温かい。
もしかして、彼女は寒かったのかもしれないと思って、まだ燃えているヘリに少し近づく。
彼女も同じように少し近づく。
身体は密着したままだった。
俺は考える。
霧島さんの目的が俺たちの脱出だとすれば、彼女の真意が何であれ、俺たちにとって不利益にはならないはずだ。
では、もし彼女の目的が俺たちの脱出以外だとしたら?
何らかの理由で、俺たちを罠にはめようとしているのだとしたら?
――おそらく、あまり好ましくない事態になるに違いない。
だけど、具体的にどんな目的があって、どんな罠にはめて、どう好ましくない事態になるのか、俺にはわからない。
今ある情報では、わからない事だらけだ。
仮に、霧島さんが俺たちを罠にはめようとしているとするなら、どうすれば安全に脱出できるのだろうか。
俺はいくつかの案を考える。
まずは、単純にバリケードを乗り越える案。
市外まで一番近くて、ここからだいたい6kmだ。
単純に歩いたとすれば2時間もかからないが、単純に歩けるような状況ではないだろうと思う。
この付近のゾンビの少なさを考えれば、バリケード周辺のゾンビの密度は相当なものになるはずだ。
多分、この小学校付近は台風の目みたいなものだろう。
無策でバリケードに突っ込むのはあまりに無謀だし、俺だけでなくティーも連れて行かなければならないことを考えると、かなり難しいだろう。
バスやトラックのような大型車を使ってバリケードを突破する方法も思いつくが、道路がほとんど使えないこの状況を考えると、これも難しい。
そもそも、AT限定免許しかないペーパードライバーの俺に大型車を動かすことができるのかわからない。
この案はあまり採用したくない。
次は、地上が駄目なら地下という案。
つまり、下水道を通って市外へ脱出する。
この案にはひとつメリットがあって、22時までに脱出できずに市が爆破されても、下水道にいれば生き残れるかもしれないのだ。
しかしこの案には大きな問題があって、下水道が安全ではない可能性が高いのだ。
ウィルスに感染したカラスがヘリを襲うような状況だ。
ねずみが感染してもおかしくないし、ゴキブリや、水中の生物が感染していても全くおかしくない。
それに下水道は都市の汚れが集中する場所だから、ウィルスによる汚染は下水道が一番酷いと考えていいだろう。
最悪の場合、下水道に入っただけで人体に感染するかもしれない。
この案はどう考えても下策だった。
他にもいくつかの案を考えるが、どれも一か八かの博打要素の高い案で、現実的とはいえなかった。
霧島さんの案がどんなものかは知らないが、少なくとも俺が考えたものよりはマシだろうと思う。
俺は所詮、ただの大学生だ。
サバイバル経験もないし、従軍経験もない、全くの素人だ。
そんな素人がちょっと考えた程度で、まともな案が浮かんでくるとは思えない。
霧島さんがサバイバル経験があるかどうかは知らないが、少なくともウィルスに関しては俺よりよっぽど詳しいし、現在の感染状況や危険な場所とかも知っているはずだ。
もしかしたら、もっと有益な情報も知っているかもしれない。
その情報を基に考えれば、それなりに信頼できる脱出方法を考えられるはずだ。
どうせまともな手段がないのなら、たとえ罠だという可能性があったとしても、霧島さんに従うのは悪くない選択かもしれない。
「とりあえず駅に行ってみよう。そこで霧島さんの連絡を待って、それからどうするか考える。駅に着くまでにいい案が浮かんでくるかもしれないし。どうかな?」
俺はティーに尋ねる。
「……うん」
彼女は頷く。
多分よくわかっていないだろうけど、彼女は少しずつ、意味を理解していっているように
思える。
もしかしたら、俺が想像するよりずっと理解しているのかもしれない。
「よし、じゃあ着替えないとな。いくらなんでもその格好じゃまずい」
血に濡れたセーラー服では寒いだろうし、身体にへばりついて動き辛そうだ。
それに薄手だからゾンビに噛まれたらすぐに破れてしまう。
時計を見ると、18時14分だった。
19時までに駅に着くために、遅くても18時30分には学校を出たい。
途中で何かトラブルがあるかもしれないし、今はティーがいるから学校まで来た時と同じように移動することはできない。
「着替えはできる?」
俺が尋ねると、ティーは頷いた。
ほっとしたような、残念なような、少し複雑な気持ちになる。
「よし、じゃあちょっと待ってて。適当に見繕うから」
俺はそう言って、辺りに散らかる荷物から女物の服をいくつか見繕い、ティーの前に置く。
「この中から好きなのを選んでて」
ティーが頷くのを確認して、俺は再び荷物を漁る。
荷物の中からフェイスタオルと陶器の器を見つけて、水のみ場で器に水を汲んでくる。
陶器の器は結構大きくて、かなり高級な代物のようだ。
陶器のことはよくわからないが、ここまでわざわざ持ってきたんだから、一万、二万で買えるものじゃないだろう。
俺はそれをヘリの火にくべて、水を温める。
「着替えは決まった?」
俺はティーに聞く。
「……うん」
彼女は頷く。
ティーが選んだのは、この付近の私立中学校の制服だった。
グレーのブレザーに、白いブラウスに、赤いネクタイに、チェックのスカート。
冬服でそれなりに厚手だが、それでも少し薄いような気がする。
「制服、好きなの?」
「……わからない」
彼女はしばらく考えてから、そう言った。
自分がなぜそれを選んだのか、全くわからないみたいだった。
「まあいいか、でもそれだと少し薄いから、ブレザーはやめてこれにしよう」
俺はそう言って、着替えの山から黒いレザーブルゾンを引っ張り出す。
「それと、スカートの下にはこれ」
同じく、黒いタイツを出す。
「どうかな?」
と俺は訊く。
「うん」
と彼女は頷く。
「じゃあ着替える前に血を落とそう」
髪と顔の血は拭ったけれど、彼女の身体にはまだ血が付いている。
「うん」
彼女は頷く。
「服を脱いでから、このタオル身体を拭くんだ。ヘリの火で水を温めているから使うといい。俺はその間、後ろを向いて見ないようにしている。できるね?」
彼女は頷く。
俺はフェイスタオルを渡してから、少し離れて後ろを向き目を閉じる。
後ろで、彼女が服を脱ぐ音がする。
かなりよく聞こえる。
周囲が静かだから服を脱ぐ音が特別よく聞こえるのか、それとも俺のやましい心がそれを聞き取ろうとしているのか。
もしかしたらそれ以外かもしれない。
だけど、それ以外が何なのか、俺にはわからない。
彼女は制服を脱ぎ終わった。
ブラもショーツも脱いで、一糸纏わぬ姿だ。
俺は後ろを向いて目を閉じている。
それでも、彼女が今何をしているのかわかってしまう。
とてもリアルに『みえて』しまう。
彼女は陶器の器でフェイスタオルを濡らして、身体を拭く。
首筋から肩へ、腕から手へ、拭いていく。
彼女の身体は、華奢でほっそりとしている。
胸は僅かに膨らみ、彼女の腕が動くと主張するみたいに僅かに震える。
彼女はフェイスタオルをもう一度濡らす。
脇から胸へ、腹から背中へ、拭いていく。
彼女が身体を拭く度に揺れる膨らみと、小さな突起に目が奪われる。
やがて、彼女は下半身を拭きはじめる。
小さなお尻を撫でるように拭いていく。
その度に柔らかく形を変えて、俺の目を誘う。
そして彼女は、まだ生え揃っていない、産毛みたいなそこに手を伸ばして――。
これ以上は、まずい。
これがたとえ、俺の妄想が生み出した産物だとしても、これ以上考えてはいけない。
少なくとも今は、それを避けなければいけない。
妄想なら脱出してから思う存分やるべきだ。
俺はゆっくり息を吸う。
十秒数えてから、ゆっくりと吐き出す。
俺は落ち着くことができる。
俺は空を見上げた。
日は完全に沈んでいて、明るい月が夜空に浮かんでいた。
月は、こんなに明るかっただろうかと思う。
以前見た月よりずっと明るくて、まるで昼間のようだとは言わないけれど、雨の日ぐらいの明るさはあった。
最後に見た月がいつだったかは覚えていないけど、それはここまで明るくなかったはずだ。
俺は、今日は月が特別明るい日なのかもしれないと思う。
ティーは身体を拭き終わって着替えていた。
ショーツをはいて、ブラをつけようとしている。
「ゆーた」
ティーが俺を呼んだ。
「どうした?」
俺は振り返らずに答える。
「ゆーた」
彼女はそう言って、近寄ってきた。
俺の前に背中を向けて立つ。
「うしろ」
彼女はブラのホックを指す。
どうやら上手く締められないようだった。
「あー、えっと、目開けていいか?」
さすがにホックの位置までは、妄想じゃ補いきれない。
彼女は頷く。
俺は目を開けて、彼女を見る。
彼女の身体は妄想の中の姿と変わらずに、そこにある。
白いショーツに、白いブラに、白い肌に、白い髪。
全身が真っ白だった。
ブラのホックが外れていて、雪原のような背中をさらしている。
俺はホックに手を伸ばして、締めてやる。
一瞬背中に触れた感触が、指にいつまでも残っているような気がした。
彼女はホックが締められたのを確かめると、着替えのところまで戻って、着替えを再開した。
着替えを終えたティーが戻ってきて、ぴったりと密着して隣に座った。
彼女の体温を感じる。
ついさっきまで、やましいことを妄想していたから、とても居心地が悪い。
だからといって、離れるわけにもいかない。
彼女はもしかして、人肌が恋しいのかもしれない。
心の奥では、寂しくて泣いているのかもしれないから、居心地が悪いからという理由だけで、彼女を離すことは出来ない。
時計を見ると、18時25分だった。
そろそろ出発しなければいけない。
俺は左手でティーの手を取って立ち上がり、右手にバットを持つ。
ティーの服装は、適当に見繕ったにしてはサイズも合っていたし、似合っていた。
俺はティーの手を握って歩き出した。
彼女も握り返して、歩き出した。
小学校の裏門に登って辺りを見回す。
周囲はゾンビがいない。
正門はゾンビが何体かいたたからやめておいた。
俺一人なら突破できそうだったが、ティーも一緒にいることを考えると、避けたほうがいい。
俺は門の上から、ティーに手を差し出す。
彼女はその手を――とらない。
彼女は俺の手を見て、迷っていた。
手をとりたそうで、とろうとしない。
「どうした? ほら、いくよ」
彼女は黙っている。
彼女の瞳が、俺の顔と手の間を往復する。
俺は門から降りて彼女の手をとり、また門に登った。
俺が手を引いても、彼女は登ろうとしない。
「どうしたんだ? はやくしないと――」
「――待ってる」
俺の言葉を遮って、ティーが言う。
「待ってるって、いったい何を?」
「……わからない」
彼女はそう言って俯く。
彼女がいったい何を待っているのか。
その答えはそれほど難しいものじゃないと思う。
そして、彼女が待っているものが、ここに彼女を迎えに来る事は、恐らくない。
俺の想像通りなら、それはいくら待っても、彼女の前に現れない。
「えっと……」
俺は、どうするべきか悩む。
彼女に、待ち人は来ないことを伝えるべきなのか、それとも、適当なことをいってごまかしたほうがいいか。
彼女をここに置いて行くと言う選択肢はない。
俺が悩んでいると、彼女は意外と軽い身のこなしで、門を登った。
「え、いいの?」
「……いい」
彼女はそう言って、俺を見つめる。
俺は彼女を抱えて門を飛び降り、左手に彼女の手を、右手にバットを握って、ジョギングぐらいの速さで走りだした。