【21時50分】
中に入ると、そこには沙耶が一人でいた。男は奥にいるようだった。薄暗い奥から苦しげな呻き声が小さく届いてくる。
「沙耶」
呼びかけても沙耶はうつむいてこちらを見ようとしない。
「ここから抜け出そう」
一歩近づく。沙耶はうつむいたまま首を左右に振ると、一歩下がった。
「さっきの事は気にしてない。幸い馬鹿みたいに頑丈になってるから、あれぐらいなんともない」
もう一歩近づく。すると沙耶はまた一歩下がる。うつむいていて表情が読み取れないのがもどかしい。
「坂崎さんも――君のお姉さんも待ってる。だからみんな一緒に抜け出そう」
もう一歩近づく。沙耶も一歩下がるが、彼女の踵が薬品棚につかえる。彼女はもう下がれない。
俺は沙耶を刺激しないようにゆっくりと近づいて呼びかけていった。しかし彼女は俺を拒むように俯いたまま、小さく震えるだけで何の返事もしない。
手を伸ばせば届く距離まで近づいて、俺は沙耶の肩に手を置いた。彼女と向き合って話をしたかった。
しかしその瞬間、耐え切れなくなったように沙耶の脚が振り上げられた。
俺は反射的に避けようとする自分の身体を抑えて、唸りを上げて迫るそれをただ見据えた。なぜか当たる気がしなかった。
脚が弧を描いて迫る。はじめ勢いのよかったそれは、近づくにつれて目に見えて勢いをなくしていき、頭を蹴り飛ばす寸前で力なく止まった。俺の目前で細い脚が、何かに抗うかのように震えている。しばらくそのままでいたが、震えが徐々に収まってくると、ぎこちなく脚が下ろされた。
俯いたままの沙耶の顔から涙が落ちるのが見えた。多分彼女には男の命令を振り切って、あと一歩踏み出すだけの力がないのだ。
俺は沙耶の肩を引いて細い身体を抱き寄せた。彼女の柔らかな身体が強張った。
「大丈夫だ」
沙耶の背を撫でる。
「何があっても君を見捨てない。必ず助け出す。だから何も恐れなくていい」
沙耶は何も答えない。
「一緒に抜け出そう」
しばらく沈黙があった。その間俺は沙耶の背を撫で続けて返事を待った。
それから沙耶は小さく頷くと、恐る恐る俺の背に腕を回して震える声で謝った。
「……ごめんなさい」
「もういいんだ」
「ごめんなさい」
沙耶は首を振って、何度も繰り返し謝った。それ以外の言葉を忘れてしまったみたいに執拗に。次第にその言葉は潤んできて、嗚咽で聞き取れなくなった。
俺は彼女のぬくもりを感じながら安堵のため息を吐いた。
「もう行こう。あまり時間がない」
沙耶は涙で赤く腫れた顔を上げて頷いた。
それから急いで研究室を出ようとしたが、研究室を出る前で沙耶の脚が止まった。
「どうかした?」
手を引いても彼女は動かない。
「もしかして、動けないのか?」
彼女はばつが悪そうに頷いた。
強く引いても、持ち上げようとしても、研究室の敷居を跨ぐ事ができない。そこには明らかに彼女の意思ではないものが働いていた。
「あの男か。あいつが君を縛り付けるんだな」
「ごめんなさい……」
俺の顔色を伺って沙耶が謝った。知らずに険悪な表情になっていたのかもしれない。
「君のせいじゃない。ここで待っていて。すぐ戻るから」
時間は21時53分。55分にはここを出ないと、おそらく間に合わないだろう。
俺を不安そうに見送る沙耶を残して足早に研究室の奥へ進んだ。
そこには、円柱状の容器が並ぶ中に白衣の男が倒れて、苦しげにもがいていた。
「T―204はどうした……。殺したのか?」
男は顔を上げて苦痛に歪んだ目で俺を見上げた。
「殺すはずがない」
「ならなぜ、お前は生きている」
俺はその問いに答えずに、ただ肩をすくめた。それだけで男は悟ったようだった。
「なぜ……なぜだっ! なぜ僕の命令を聞かない。なぜ僕の邪魔をする。なぜなんだ……」
地の底から続いてくるような暗い感情のこもった声で男は呟いた。答えてやる義理などどこにもなくて、俺はそれを聞き流した。
「沙耶を解放しろ」
「絶対に……するものか。あれは僕のものだ――!」
「彼女はお前のものじゃない。それにわかっているだろ、お前はもう終わりだ」
荒い息で床を蠢く男の身体は、いたるところから骨とも筋肉とも判別できない固まりが隆起し、既に人間のシルエットを留めていなかった。特にひどいのは脚だ。両脚から数多くの黒光りする触手が突き出して不気味にくねらせている。
「僕が――僕が終わるものか! なぜ僕の邪魔をする、僕は人類の未来に繋がる研究をしているのだ、うまくいけば人が死なない社会をつくることだって出来る、なぜそれを……」
「お前がどれほど高尚な研究をしていたのか、俺にはわからない。だけど、俺たちは――この街の人たちは、お前の研究のモルモットにされた。だったら抵抗する権利ぐらいあるだろ?」
「そのせいで、台無しになったのだ! 全てが無駄になったのだ! それがどれほど愚かなことかわからないのか!」
「あいにく文型でね、理系の事はよくわからない」
「ふざけるなああああああああああああああああああああああ!」
男は唾液を飛ばして汚く咆哮した。憎悪に染まった瞳が俺を睨み上げる。
俺はそれを無視して男に近づく。まじめに問答する気などはじめからなかった。時間もない。
「どうあっても、沙耶を解放する気はないみたいだな。だったら――」
男の胸倉を掴みあげて、右腕を振りかぶる。
「俺が解放する」
「ひっ――バカ、やめろっ!」
不思議と躊躇はなかった。引きつった悲鳴を上げて恐怖に顔を強張らせる男に向けて、俺は拳を振り下ろした。
「やめろおおおおおおおおおおおおおおお!」
しかし拳が男に届く前に、俺は何かに引かれて転ばされた。
「いっつ――!」
見ると、男の脚から伸びた触手が俺の足首に絡み付いていた。こいつに引き倒されたようだ。
俺は絡みつく触手を引き剥がして立ち上がった。触手にはたいして力はなく、不意を突かれなければ恐れる必要はないだろう。
顔を上げると男は手で這いずりながら逃げ出していた。
「諦めろ」
俺は行く手を遮る触手を飛び越えて、男の進路に先回りする。
「くるなあ!」
しかし着地した俺に向けて、大量の触手が一挙に繰り出された。
「くそっ」
一本一本に力はないが数が多くて鬱陶しい。身体に纏わり付き、絡み付いてくる触手を、引き剥がしつつ、引き千切りつつ処理していくが、どうにも時間がかかる。
その間にも男は這いずりながら逃げていく。こんなことで時間を失いたくなかった。
俺は触手をまとめて掴み取り、ハンマー投げのハンマーのように男を振り回して、渾身の力で投げ飛ばした。
男は情けない悲鳴を上げて宙を舞い、入り口近くに落ちて仰向けに倒れた。すぐ近くに沙耶がいた。
「ぼ、ぼぼ、ぼくを助けるんだ」
男が沙耶に向けて手を伸ばし、助けを請う。
沙耶はその手に引き寄せられるように、震える手を伸ばした。
まずい!
自分の犯した失態に心臓が凍りついて、俺は即座に駆け出した。
「そ、それでいい、T―204……いや沙耶だったか、そうだたしかティーか――え?」
男がそれを口にした瞬間、沙耶の手が拳に変わった。そして俺が止める間もなく男に振り下ろされた。拳は正確に男の頭を潰し、あっけなく命を断ち切った。
「あ……沙耶……」
男は頭を完全に潰されて断続的な痙攣を繰り返している。沙耶はそれをはじめて会ったときのような感情のこもらない瞳で見下ろしていた。
俺は急に言いようのない不安に駆られて沙耶に駆け寄った。
「沙耶……」
彼女は振り返って俺を見ると悲しそうに笑った。悲しそうではあるけれど笑ったのだ。それだけで不安は影を潜めた。
「……行こう」
他に掛ける言葉は見つからず、見つかったとしてもそれを言う時間おそらくなくて、俺はそれだけ言って沙耶に手を差出した。
彼女は手を重ねるとしっかりと頷いた。
沙耶の手を引いて研究室を出た瞬間、背後から肉が引き裂かれるような生々しい音が聞こえてきた。
思わず振り返って室内を見ると、頭をなくした男の死体から、太く強大な触手が新たに伸びていた。
「嘘だろ……」
男は明らかに死んでいるというのに、ウィルスが男の身体を乗っ取ったかのように、触手が溢れ出しているのだ。
俺は踵を返して駆け出した。時間は21時55分を少し過ぎている。正直言ってかなり際どい。
数歩と走らない内に背後から肉の擦れる音が背後から届いて、触手が追って来るのを感じた。
駆けながら首だけで振り返ると、太く長い触手が廊下を埋め尽くして、驚くべき勢いで増殖し、迫ってきていた。触手はみるからに強靭だ。捕まったら簡単には抜け出せないだろう。緊張で鼓動が加速していく。
俺は顔を前に戻して走ることだけに意識を集中し、必死に脚を動かす。沙耶も俺の隣を凄まじい速さで駆ける。
しかし触手はさらに速い。脚を持たない触手は宙を駆って、俺たちを嘲笑うように追ってくる。
隣を走る沙耶が不安そうな視線を投げかけてくる。
俺にはそれに答えるだけの余裕がなかった。
俺は脚を動かすだけで精一杯だ。対して沙耶には余裕がある。俺よりも沙耶のほうが速いのだ。沙耶が隣で走っているのは、ただ俺の速さに合わせているだけで、彼女は本来なら触手に負けない速さで走ることができるはずだ。
先に行くように視線で合図をしても、彼女は首を振って答えない。俺もそれ以上続けるだけの余裕がなくて、なし崩し的にそのまま走り続けた。
角を曲がって車両基地へと続く長い直線を迎えたとき、ついに追いつかれた。
背後から繰り出される触手を、俺たちは身を傾けたり、飛び跳ねたりして避ける。しかしそうすると自然に速度が落ちて、大量の触手が俺たちを包み込むように迫ってきた。
俺は耐え切れなくなって、ついに叫んだ。
「先にいけ!」
彼女は首を振る。
「先にいくんだ!」
強く怒鳴るっても、彼女は首を振った。
くそっ、どうすればいい!
俺のせいで彼女を危険に巻き込むのは耐えられない。しかし彼女は応えてくれない。
俺は地面に這う触手を飛んで避け、前から迫る触手を半身になって避ける。既に数本の触手が俺たちを追い越していた。もう持たない。
その時、俺は触手の隙間から、車両基地に続く扉が閉まっているのを見た。
「沙耶、先にいって扉を開けてくれ!」
彼女は一瞬の迷いを見せたが、しかし俺の言葉が理に適っているのを悟ったのか渋々頷いた。
沙耶は急速に走る速さを増して、たった数歩で俺と触手を引き離した。彼女はそのまま留まることを知らずに勢いを増し、扉に辿り着くと素早くそれを開ける。
そして沙耶が振り返った瞬間、俺は周り全てを触手に囲まれて、彼女の姿を見失った。
触手が体中に絡みつき、万力のような力で締め上げて押しつぶす。身体の自由がまるで利かない。ギリギリと骨のきしむ音が身体の内から響き、肺の空気が締め出される。
ここで死ぬつもりなど毛頭なかった。
しかしその思いとは裏腹に状況は最悪で、視界全てを触手に埋め尽くされて、俺にできる事など何もなかった。体中に纏わりついた触手は、俺に指一本動かすことも許さない。肺が締め上げられて収縮し、呼吸ができない。痛みと酸欠で意識が曖昧になっていく。
死にたくない。それは確かだったが、けれどもうどうすることもできず、俺の死は決まっているように見えた。
しかし俺はその代わりに一人の少女を救えた。自己犠牲のような尊い精神は俺にはないが、生きるか死ぬかの状況の中で、俺は俺の思う正しい行動を貫くことができた。それだけは誇らしかった。
触手が仕上げに入るかのように、力強く締め上げてきた。本格的に身体が砕けていく乾いた音がやけに大きく響き、激痛が身体の芯を走った。
その中に異音が混じっていた。身体の内からではなく外からだ。よく聞くと叫び声のようなそれは、次第に音を大きくしていく。何かが近づいてきていた。
「ユウタ!」
声は俺の名前を呼んでいた。沙耶の声だった。
なぜ――!
驚愕に自分の耳を疑ったが、声はもうすぐそこまで近づいていた。聞き間違えるはずもなく、沙耶の声だ。
そして俺の目前の触手を白い手が掻き分けて、沙耶の必死な顔がそこに現れた。
「沙耶、どうして――!」
彼女はそれに答えないで、ただ一心に触手を掻き分けると、俺の身体を抱きしめて、触手の中から引き出そうとする。
しかしそうする間にも触手が沙耶の身体にも絡みついて動きを封じていく。俺も必死でもがき、触手を引き剥がそうとするが、触手は力強く絡んでいて、どうにもできなかった。
触手はいくら掻き分けても増殖し絡み付いてくる。細い手で必死に触手を掻き分けていた沙耶も、ついに捕らえられその動きを止めた。
俺と沙耶は二人一緒に巻かれて締め上げられた。
身体を絞られる苦しみの中で、俺は目前にいる沙耶に問い掛けた。
「どうして、戻ってきた」
彼女は目を伏せて「ごめんなさい」と謝った。
「責めてる、わけじゃない、ごめん」
彼女は気にしないでというように微笑んだ。
触手が勢いを増して締め上げてきて、俺は言葉を出すこともできなくなった。
悔しかった。俺は結局一人の少女を助けることができなかったのだ。ただ悔しかった。
沙耶も苦痛に呻いていた。大きな瞳からはとめどない涙が溢れ出している。しかしどういうわけか、彼女はとても満足そうに微笑んでいた。
俺には彼女の微笑みの意味がわからなかった。
沙耶はこれで満足なのだろうか。俺たち二人の前にあるのは死だけなのに彼女はそれでいいのだろうか。
そう思ったとき不意に、俺は坂崎さんの言葉を思い出した。
『沙耶にとってあなたは、大切な存在ですから』
あの時は深く考えずに軽く聞き流していた。しかし今、沙耶の表情を見て、その意味がようやく理解できたような気がする。
記憶をなくした沙耶にはほんの短い記憶しかなくて、その中で彼女にとって大切な人は俺しかいなかった。彼女は彼女を心の底から大切に思う姉の存在すら忘れている。
俺には沢山の大切な人がいる。両親や友人、親戚、世話になった先生、それから実家の犬、他にも色々。程度の差こそあるが皆が皆大切な人だ。
しかし沙耶にはそれがない。彼女にとって俺は世界でたった一人の大切な人で、彼女の世界は俺と彼女のたった二人だけで完結していた。彼女はそこから外に出ることを知らないのだ。だから彼女は、俺と一緒に死ぬことに意味を見出している。
俺は沙耶をこんな狭い世界で終わらせたくはなかった。彼女にはもっと広い世界があって、俺よりずっと彼女を大切に思っている人がいる。それを知らせてあげたかった。
しかしそれを知らせる術はもうどこにもなかった。悔しくて涙が溢れた。
「ち……く……しょう……」
渾身の力で振り絞った声も、掠れて消えていくような情けないものだった。また涙が溢れた。
沙耶は不思議そうに俺を見た。そこには穏やかな微笑が浮かんでいて、それがまた悔しかった。
時間は淡々と過ぎていて、もう触手に殺されるのが早いか、爆発に巻き込まれて死ぬのが早いかもわからない。俺にはただそれを待つだけしかできないし、例えどちらであっても大差のない死が待っている。
目の前に色濃く映る死の影をながめ、その向こうにあったはずの未来を思った。本当にあと少しだった。あと少しで俺たちは皆揃って脱出できたはずだ。なのになぜ、どうしてこんな結末を迎えることになったのだろう。しかし考えるまでもなくその答えは明らかで、俺が最後の最後でどうしようもなく役立たずだったからだ。それ以外なかった。
脳が燃え上がりそうなほど熱かった。身体はまるで動かない俺は、ただの考えることしかできず、破裂しそうなほど強烈な感情に脳を焼かれていた。怒りと、後悔と、苦悩と、無念と、言葉に言い表せないほどの感情の数々。しかしそれらの感情の行き場は、ただ涙となって流れ落ちるだけで、結局何も変わる事はなかった。それがまた脳を熱く燃やした。
気付けば脳だけじゃなく身体も灼熱感に包まれていた。熱い、どうしようもなく熱い。
「あ、あああ、ああああああ!」
出ないはずの叫びが、口から吐き出された。
死は、こんなにも熱いものなのだろうか。
わからない、熱が思考まで奪っていく。
身体の内から、音が鳴り響く。
何の音だ? 燃える音? 砕ける音?
わからない。
そして、微笑を浮かべたまま瞼を閉じた沙耶の顔が瞳に焼き付いて、意識が真っ白に燃え上がった。
気がつくとコンクリートの床に倒れていた。
絡み付いていた触手は、なぜか無残に切り裂かれあたりに転がっている。
しかしすぐに、新たな触手が俺に絡み付こうと迫ってきた。
「くっ!」
それを転がって避けると、俺は同じように床に転がっていた沙耶を抱きかかえて、立ち上がった。彼女はぐったりとして力がない。
彼女の安否を確かめる間もなく、四方から大量の触手が迫る。
くそっ!
俺は迫り来る触手に向けて、ただ右腕を振って無駄としか思えない抵抗した。もう一度捕らえられて、情けなく締め上げられる事は疑う余地もない。
その予想は裏切られた。
振り払った右腕に確かな手ごたえがあった。
触手は半ばで切り落とされて床に落ち、粘着質の液体を吹きながら跳ね回る。
「なんだ、これ……」
右腕が肥大し、指先から巨大な爪が伸びていた。これが触手を切り払ったのだ。
変化があるのは右腕だけで、それ以外はどこも変わりない。右腕だけがまるで――タイラントの腕のように変化している。
しかし思考に浸る暇もなくすぐに次の触手が迫り、俺は反射的に右腕を振った。触手が無残に宙を舞う。あれほど力強かった触手は、この腕の前にたやすく切り裂かれていった。
なにがどうしてこんな腕になったかは知らない。だが――これなら抜け出せる。
俺は左腕で沙耶をしっかりと抱えなおすと、行く手を阻む触手の海に駆け出した。
一瞬視線を腕時計に落として時間を確認する。21時58分。Gショックはひび割れ、ボロボロになっていたが、それでも正確に時を刻んでいた。
強靭な右腕を降りながら触手を切り払い、進む。触手はもう脅威ではなく、ただ五月蝿いだけの障害だった。
問題は時間だ。これだけは平等に刻まれて平等に訪れる。22時を迎えることからは逃れられない。
間に合え!
圧倒的な物量をもって時間を奪っていく触手を切り払う。
しかしいくら切り払っても触手の海は続き、永遠に抜け出せないような錯覚に陥っていく。
時計を見る。時間は21時59分を迎えようとしていた。
「くそっ!」
頭の片隅に諦めの色が浮かんで、俺はそれを振り払うために目前の触手を大きく薙ぎ払った。
その瞬間、触手の隙間から微かな光がこぼれてきた。光は瞳に眩しく映り、触手の海を抜け出す確かな予感が漂った。
「あああああああああ!」
絶叫して、光を遮る触手を切り払い、触手の海を渾身の力で駆け抜けた。
光が溢れた。
蛍光灯の光が、広大な車両基地を照らし出す。
俺はコンテナの間を抜け、執拗に追ってくる触手を引き離していく。 景色が驚くべき速さで流れて、何もかもすべてを置き去りにしていく。風を切る音が暴風のように耳元で鳴る。
そして、コンテナを抜けて開けた視界の先に列車が現れた。
「こっちです! 早く!」
車両から身を乗り出した坂崎さんが、手を振って呼んでいた。
待っていてくれた。彼女はこんなギリギリまで待っていてくれた。
俺は一気に駆け抜けて、走り出した列車に飛び乗った。
すぐに坂崎さんが隣に駆け寄ってきた。彼女は列車を追ってくる触手に見ると呆気に取られた。
「あれは――いったい」
坂崎さんの呟きには応えずに、俺は問い掛けた。
「もっと早くなりませんか!?」
「これで限界です!!」
列車は徐々に加速していくが、呆れるほど遅く感じた。
コンテナを抜けた触手が線路に迫る。
列車はようやく車両基地を抜けて、トンネルに入った。
線路いっぱいに触手が広がって迫ってくる。
列車は速くなっていたが、しかしまだ触手のほうが速い。
追いつかれる!
俺は沙耶を床に降ろすと、列車の後尾に駆け寄った。
「何を!?」
坂崎さんの問いに、右腕を振って答える。俺の腕にようやく気付いたのか、彼女は言葉を失った。
触手はすぐそこまで迫っていた。
俺は窓を破り、列車に絡み付こうとする触手を切り裂いた。その触手は力を無くして去っていくが、すぐ次の触手が迫り、列車に巻きつく。俺はそれを繰り返し切り払う。
やがて触手の勢いが衰えていった。いや違う。列車の速さが、触手のそれを越えたのだ。
列車はどんどん触手を引き離していき、暗いトンネルの向こうへ消し去った。
俺は安堵のため息を吐いて、背後へ振り返った。
その時、腕時計のアラームが鳴った。22時だ。
坂崎さんが不安そうな顔で俺を見る。おそらく俺も似たような顔をしている。
そして次の瞬間、鈍い振動が轟いた。トンネルが、空気が、当たり全てが揺れている。
同時に風を切るような音が、列車の後ろ、トンネルの奥から聞こえてきた。
見ると暗かったはずのトンネルの奥が、赤い光で染まっていた。赤はどんどん強く大きく広がっていき、そしてトンネルの奥から奔流のような炎が押し寄せてきた。
「嘘だろ……」
炎は速い。触手よりも、列車よりも、ずっと早い。
熱さに汗が滲んだ。
迫る炎を呆然と見ていた俺は、しかしその熱さのおかげで我に返った。
「前へ!」
振り返って坂崎さんに向かって叫んだ。同じように呆然と炎を見ていた彼女も、我に帰って前に駆け出した。
俺も沙耶を拾い上げて前に駆けるが、しかしこの列車は一両しかない。すぐに行き止まりに着いた。
壁を背に、後ろを振り返ってみると、炎は車両の後尾に辿り着いていた。
飲み込まれる!
「伏せて!」
俺は坂崎さんに向かって絶叫した。瞬時に彼女は床に伏せる。俺は彼女の脇に沙耶を降ろすと、二人に覆いかぶさった。
そして炎の奔流に飲み込まれた。
【22時】
気が付くと、列車は止まっていた。
身体が激しい疲労を訴えていたが、俺はまだ生きていた。右腕はいつのまにかもとの人間の腕に戻っていた。
ゆっくりと身体を起こして下にいる二人に呼びかけると、二人とも小さく身じろぎした。目立った外傷もない。呼吸も正常。皆無事だった。
俺は大きく深呼吸して立ち上がり、焦げた座席に腰を下ろした。焼けどになった背中が少し痛んだ。
腕時計は22時で止まっていた。あれからどれほどの時間がたったのだろうか。あたりは深い闇に包まれている。闇の向こうを見通すと、鬱蒼と茂る森だった。
ここはどこなのか、これからどうするのか、考えなくちゃならないのはわかっていたが、しかし肉体と精神の疲労で頭が回らず、俺は目を閉じて身体を休めた。
しばらくして座席が少し揺れた。見るといつの間にか目を覚ました坂崎さんが隣に座っていた。彼女は膝の上に沙耶を抱いてそっと撫でている。
坂崎さんは何も言わなかった。俺も何も言わなかった。しかし沈黙は無愛想なものではなくて、どこか心地よかった。
「どうですか?」
俺は沈黙をごく自然に破った。
坂崎さんは俺の問いの意味がわからなかったようで、不思議そうに首をかしげた。しかし俺が沙耶に視線を向けると、理解したふうに笑った。
「眠っているだけで、無事ですよ。骨の二、三本は折れてるみたいですが、でも大した怪我じゃないんです、多分沙耶にとっては」
坂崎さんは寂しそうに言った。彼女は沙耶が昔のままでないのを、ゆっくりと理解しているように見えた。そしてそれは、彼女にとって残酷なことで、俺は掛ける言葉を失った。
「お願いがあります」
坂崎さんは突然言った。
「なんですか?」
「もうすぐ、ここに組織の迎えが来ます。あなたにも一緒に来てほしいんです」
「組織って言うのは坂崎さんが所属している?」
「ええ」
「少しならいいですよ」
俺には帰る手段も見つからないし、迎えに乗せていって貰えるなら、それは楽だと思った。そのついでに沙耶のことも気になるから、少しぐらい付き合ってもいいという気持ちもあった。
しかし坂崎さんは悲しそうに、
「少しじゃないんですよ」
と言った。
「少しじゃない?」
うまく意味を飲み込めずに、俺は問い返した。
「あなたはもう、普通の人間じゃないんです」
変わらず悲しい顔で、坂崎さんは元に戻った俺の右腕を見た。
「それはよく理解してますよ、自分のことですから」
「理解してません。あなたはその意味を、少しも理解していないんです」
坂崎さんの言葉には切実な響きがあった。彼女は真摯な瞳で俺を真っ直ぐ見て続けた。
「あなたはもう、普通の生活には戻れないんです。完全適応者というのはとても貴重な存在で、その価値は計り知れません。どんな手段を用いても手に入れたいという組織も沢山あります。今はまだあなたが完全適応者だと知っている者は少ないですが、しかし情報はいずれかならず漏れます。その時はあなただけじゃなく、あなたの周りの人までも不幸に巻き込まれるんです」
「俺は……それほど貴重なんですか?」
「はい」
「警察や国の保護は?」
「警察や国が、どれほど信用できますか?」
坂崎さんはそう言って、遠くのほうを見た。それはずっと遠くの過去を振り返っているように見えた。
俺は警察や国がどれほど信用できるものか知らなかったし、またどれほど信用できないものかも知らなかった。しかし彼女の言葉には、確かな実感がこもっているように思えた。
だから俺は問い返した。
「じゃあ、その組織というのは信用できるんですか?」
「信用できませんよ」
坂崎さんは間髪いれずに断言した。
「え?」
「信用できないんです。全くどうしようもなく。だけど私達の居場所はそこしかないんです。私達はもう死んだ人間ですから。探せば他にもあるでしょうが、どれもまともな組織じゃありません」
「そんなところに、俺を?」
「そんなところだからこそ、あなたに来て欲しいんです」
坂崎さんの言葉は明らかな懇願だった。
「組織に戻ったら、私も沙耶も利用されるでしょう。もちろんできる限り抵抗はするつもりです。だけど二人じゃ限界です。だからあなたに来て欲しいんです」
それから彼女は寂しそうな瞳をして、静かに付け足した。
「それに、沙耶にはあなたが必要なんです……」
ようやく俺は坂崎さんの意図が飲み込めた。そして元の生活に戻れないだろう事を実感した。
「もう、戻れないのか」
それは問いかけではなく、自分に対する言い聞かせのようなものだった。
「一緒に来てくれませんか?」
即答できなかった。
例え戻れないことがわかっていても、今の生活を捨てるという事は決断できなかった。
思い浮かべるのは、父と母と、友人と、大切な人たちのことだった。
俺はポケットに入れたままだった携帯を思い出した。
もう壊れているかもしれないと思ったそれは、液晶が少し割れていたが、しかしまだ動いていた。
メールボックスを開いて順に読んでいく。
一人一人の思い出が頭の中に浮かび上がっては消えていった。
そして、あのメールにたどり着いた。
送信者:母
件名:大丈夫ですか?
本文:事故があったみたいですが、大丈夫ですか?
無事なら返信してください。
山の中にもかかわらず電波は三本立っていた。返信することができる。
しかしどう返せばいい。無事だがもう戻れないことを伝えるのか。だけど坂崎さんの言葉を信じれば、その返信で家族を巻き込む可能性だって出てくる。
今回の事故で俺は死んだ。そうするのが、おそらく一番都合がいい。
俺はもう戻れないのだ。
掌に軽く力を入れた。ほんの少しの力で、携帯は悲痛な叫びをあげて液晶の文字が小さく割れていった。そして容易く粉々になって、掌から砕けた残骸が零れ落ちた。
「よかったんですか?」
「いいんです。俺はそんなに強くないから、ないほうがいいんです」
坂崎さんがそっと身を寄せて俺を抱きしめた。涙が一筋流れた。それをきっかけに、もう抑えることができなくなって、とめどなく溢れてきた。
「家族になりましょう。私達は世界のどこにも居場所がないんです。だからお互い身を寄せ合って、大切なものを守りましょう。はじめは傷のなめ合いかもしれません。でもそれでもいいんです。それで居場所ができるなら。そして、いつかきっと本当の家族に……」
坂崎さんの温もりと、沙耶の穏やかな寝息を近くに感じながら、遠くに無機質なヘリの音を聞いた。
―終―
【あとがき】
最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。同時に、本当に申し訳ありません。途中からとんでもなく牛歩な更新ペースになってしまいました。それでも待っていてくださった皆様に、心の底からの感謝と謝罪をさせていただきます。最後のほうは感想を返すことができませんでしたが、感想をくださった皆様には更なる感謝を。皆様のおかげでこの作品が完結できたといっても過言ではありません。