草木がざわめく音と、虫の音が耳に障る。赤と青が混じった色の淡い光だけが、草原の中にポツンと佇む、年老いた屋敷を照らしている。
屋敷の窓際では、絵に描いたような美女が、ぼんやりと夜空を見上げている。その透き通るような青い瞳に映り込んだ双月はまだ重なりきってはいなかった。
「くふ、狸娘め、いつになったら事を起こすのじゃ?もう時間がないぞ?」
くっくっ、と前屈みになりながら面白そうに喉を鳴らす窓際の美女、リーゼロッテ。
「踊らされている事に気付いておる癖にあの腹芸、中々に見事、じゃが」
彼女はそこで一旦言葉を切り、ゆったりとした仕草で踊るように窓際から離れた。
「あの戯れの時の態度は不自然すぎたわの。所詮はほんの子供。まだまだ妾の女優ぶりには程遠いわ」
鏡台の前まで移動した彼女は、鏡の中に映り込んだ自らの美貌を確かめた。
実はアリアに叛意があるのは疾っくの疾うに露見していたのだった。その事を知っているのはリーゼロッテ本人だけであったが。
アリアが覚悟を決めた夜、執事室でのライヒアルトとの会話を盗み聞きされていた事まではリーゼロッテは知らない。
だが、その夜の後のアリアの態度の些細な変化をリーゼロッテは見逃さなかった。
かくれんぼなどという子供の遊戯に参加したのは、アリアが思った通り、疑いを持っていたからだ。
ただ、その疑いはアリアが想定していたよりもずっと強い物であったが。
そして、アリアがピッチフォークを手に入れようとした時の不自然な態度で、その本心が完全に透けてしまったのだった。
アリアは上手くいったとほくそ笑んでいたが、その生の大半を人間を欺く演技者として過ごしてきたリーゼロッテから見れば、自分に抵抗するための武器を得るための稚拙な演技にしか見えなかった。
だが、その叛意を知ってなお、リーゼロッテはそしらぬふりをして、武器と成りえる道具をアリアに与えた。
何故か。
この屋敷で今まで獲物とされてきた娘のうち、企みに途中で気付いた娘はたった2人だけだった。
その内1人は恐怖のあまり錯乱し、気が触れてしまい、もう1人は以前ライヒアルトが言っていた通り、絶望のあまり首を吊って自害したのである。
それは、年端もいかない無力な娘達としては極めて正常な反応だったのかもしれない。
何せ、閉じ込められた箱庭の中で、得体の知れない化物達の餌として飼われている事実を知ってしまったのだから。
しかし強者であるリーゼロッテから見れば、それは酷く“つまらない”ものに思えてしまった。その心境は死んでいる餌に興味を持てない肉食獣のようなものだ。
一方、事実に気付いてなお、理性を保ったまま抵抗を試みようとしているアリアの姿は、新鮮で興味深いものだった。
「しかしあんなもの一本で妾と戦う気か?……くふふ、いい、いいぞ!その無知、無茶、無謀!クひゃハはハは」
彼女は最早耐えきれない、といった風に天を仰ぎながら大口を開けて嗤いだす。
興味深い、といってもアリア自身にはさほど興味を覚えたわけではない。
リーゼロッテは精一杯の抵抗が何の役にも立たないものだと知った時の表情もまた最高のものではないか?と思ったのだった。
そう、リーゼロッテはアリアを舐めていた。舐め過ぎていた。
リーゼロッテは、あの晩の会話を盗み聞きされていた事は知らないため、アリアがスヴェルの晩が舞台の刻限であると言う事に気付いている事は当然知らない。
アリアがすぐに事を起こさないのは内心では怯えており、刻限を知らないため、いつ行動を起こすかの決心がつかないからだと考えていた。
あの頼りない農具を武器にして自分と真っ向から戦うつもりなのだ、と勘違いしていたのだ。
まさかアリアが逃亡のための作戦を立てて、時間をかけてその準備をしているとは考えてはいなかった。
当然と言えば当然だ。長い時を生きてきたリーゼロッテから見れば、アリアなど少々賢しいだけの小娘にすぎないのだから。そんな小娘ができる抵抗といえば、玉砕覚悟の特攻しかあるまい、と高を括っていた。
そのため、叛意を持ったアリアをすぐに殺したりするような事はせず、今か今かと、その抵抗の時を楽しみにして、泳がせていたのである。
「む……?」
狂笑していたリーゼロッテは突如その眉をへの字に歪めて、スンッ、スンッと鼻をひくつかせる。
「なんじゃ、この臭いは……。気のせい……か?」
彼女は微かに漂ってくる異臭を感じて、私室のドアを開けて部屋の外を確認する。
リーゼロッテの私室はアリアと同じく2階部分にあるが、リーゼロッテの私室は西側、アリアの私室は東側に位置している。
ちなみに2階部分に私室があるのは、この屋敷の主という事になっている男爵(仮)と、リーゼロッテ、アリアの3人だけである。
「何やらハシバミ臭いような気がしたが……。まぁ、晩餐に出されたサラダのせいじゃろうな……。あんなまずい物を出すなといつも言っておるのに……あの失敗作め。あの油もハシバミ臭いから買い換えろと言ったのにずっとそのままじゃし……もしかして妾は下僕に嫌われとるのか?」
彼女は気の利かない料理人と使用人に悪態を突きながら、乱暴にドアを閉めると、そのままの勢いでベッドに倒れ込んで不貞寝し始めた。
彼女はその臭いだけで吐き気を催すほど、ハシバミ草が大嫌いだった。
*
ぴちゃぴちゃ。ぬちゃぬちゃ。ぬるっ。
「あぅ、濡れちゃった」
油で。服が。
リーゼロッテが独りごちていた頃、アリアはハシバミの実から抽出された食用油を布団や毛布、シーツ、カーテン、余った衣服などにたっぷりと染み込ませながら、自室の床と倉庫部屋の床に大量にばら撒いていた。
リーゼロッテが感じた異臭とはこの臭いであったのだ。
しかし、ハシバミから取れた油はそれほど強い臭いがするわけではなく、鼻先に近づけてその臭いを嗅がなければ、無臭に感じる程である。
アリアとリーゼロッテの部屋は、同じ2階にあるとはいえ、その距離はゆうに20メイルはある。ドアを隔てていることもあって、普通の人間ではその臭いに気付くはずはないのだが……。
「うげ、ロープまで油でねっとりしてる」
たっぷり時間を掛けて撒いた油は、自室の床に空けた穴から倉庫部屋にぴちゃぴちゃと滴るほどの量になっていた。
「時は満ちた、ってやつね……」
アリアは緊張した面持ちでそう呟きながら、花柄の三角巾を頭に巻きつけ、きつく結んだ。
そう、ついに作戦を決行する時が来たのだ。
全ての準備を終えたアリアの左手には部屋に備え付けてあったランプ、右手には柄の先にアルコールを染み込ませた布を巻き付けたピッチフォークが握られ、腰には1ダース程の火炎瓶もどきが靴ひもで束ねられている。
……勿論、本人は大真面目なのだが、何と言うか、その、少々奇抜というか、奇怪な出で立ちだった。
「すぅー、はぁー」
独特の衣装を身に纏ったアリアは目を閉じながらゆっくりと深呼吸して、緊張に高なる鼓動を落ちつかせる。
…………。
そこから数分間、深呼吸をした後、屈伸運動したり、背伸びしたりして、ようやく決心がついたのか、アリアはランプの灯を付けた。
「っしゃあ!」
その掛け声とともに、火事場泥棒作戦の火蓋が切られた。
アリアは火種である左手に持ったランプから、右手に握った松明代わりのピッチフォークの柄の先端に火を付ける。
ボゥ、と燃え上がった松明の火を、床にばら撒いた油を染み込ませた毛布に近づけると、程なくそれに引火した。
アリアは1箇所の出火に満足することなく、次々と別の場所から火を付けていく。
あらゆる方向から引火した炎は、布地を伝って、床、壁へと連鎖的に燃え上がっていった。
「これで終わりだッ!」
燃え盛る炎を見て若干ハイになったアリアが目をギラギラさせながらトドメとばかりに、口に火を付けた即席火炎瓶を半ダースほど次々と炎の中にぶち込んだ。
火炎瓶を投げ込んだ場所からは、大きな火柱があがり、部屋の中は火をつけた本人自身すらドン引きするほどの火力になっていく。
「ふっ!」
炎が屋敷の床や壁面に燃え広がり始めた事を確認すると、アリアは手早く1階へと飛び降りた。昇降用のロープはすでに2階で燃えている。
「さて、次はあの化物どもが気付くまでは様子見ね……」
そう、2階の自室から1階の倉庫部屋が繋がっている事はまず気付かれていない。だが、上が消し止められれば、それは露見してしまうだろう。
なので、誰かが上の惨状に気付いて、屋敷の人間が消火のために集まった所で下から火をかけるつもりなのだ。これならば、下から出た火が気付かれにくくなる。
アリアは天井に空いた穴からチラチラと覗く、燃え盛る地獄のような光景を見ながら、倉庫部屋の隅で息を殺して作戦が次の段階に移る時期を待つことにした。
「主様っ、大変、大変でございます!」
バン、ドアが開け放たれる。慌てて不貞寝していたリーゼロッテを叩き起こそうとするのは、庭園からアリアの部屋を監視していたメイド長だった。
彼女が異変に気付いたのは、すでに炎が燃え広がった後だった。
外から窓を見上げていた彼女は、部屋から黒い煙がもくもくと立ち上るまで、それに気付けなかった。
火災が起こっている事に気付いた彼女は、大急ぎで屋敷の中に入ったが、既にかなりの勢いで炎が燃え上がっており、自分一人ではどうしようもないと判断したため、主であるリーゼロッテの所へ駆け込んだのだった。
「……騒々しいぞっ!……ん?なんじゃこの焦げ臭いのは?」
不機嫌そうに、目覚めたリーゼロッテだったが、強烈な焦げ臭さを感じてその怒りは収まった。
メイド長はオロオロしながらも、リーゼロッテにその理由を説明する。
「そ、それが。あの小娘の部屋のあたりから火が出たようでして……どうすればいいかと」
「何だと?あの小娘、まさか自棄になって火をつけたのか?ぐうぅ、此処まで来て自害とは…………」
リーゼロッテは悠長にはぁ、と溜息を漏らし、ひどく落胆したように顔を俯けた。
「こんなことならさっさと食しておけば……。うぐぅ、あれは実に美味そうじゃったのに……あぁあっ、もう!もう!もうっ!」
「……あの、そんなことを言っている場合ではなくてですね。このままでは屋敷全体が燃えてしまうかと」
「そんなもの水でも汲んできて消せばいいじゃろうが。妾は落ち込んでおるのじゃ。そっとしておいてたもれ……」
「ですから!そんな場合ではありません!実際見て頂ければわかります!」
「分かった!分かった!全く煩いのう……はぁ」
リーゼロッテは面倒くさそうにだらりと立ち上がると、背中を押されながらのそのそと部屋の外に出る。
「う……」
その光景に、リーゼロッテは目を丸くして絶句した。
2階の廊下中に黒い煙が蔓延しつつある。
その炎は大きく燃え上がり、すでにアリアの部屋だけでなく、その周辺を飲み込みつつあった。
彼女は火事と聞いたが、それは小火程度の規模のものだと思っていた。まさかこれほどの惨事になっているとは思わなかったのだった。
「……おい、何でこんなになるまで気付かんのじゃ?」
「申し訳ありません、私も混乱しておりまして……」
「くそっ、もういい!さっさと動ける者は全員叩き起こして火を消せ!すぐじゃ!すぐ!」
「はっ!」
惨状を見て焦ったリーゼロッテがメイド長に指示を出す。
それから程なく、駆け回るメイド長によって、総勢10名の屋敷の住人が集められ、消火活動が始まった。
「ライヒアルト、お前は火に水をぶつけろ!カヤは下から火を消すのに使えそうなものを探して来い!他の者は周りの床や壁を壊して延焼を防げ!」
リーゼロッテが他の者に指示を出していく。その隣で屋敷の主であるはずの男爵(仮)は借りてきた猫のように大人しくしていた。
男爵(仮)はリーゼロッテの指示通り、先頭を切って床や壁を素手で破壊し始める。まるで化物のような膂力である。
他の者は手に持った道具を使って、炎が燃え移りそうな場所を破壊していく。カヤだけは下の階へと走って行ったが。
「凝縮《コンデンセイション》!」
老執事ライヒアルトは水の系統魔法の初歩である、【凝縮】によって水の塊を発生させると、燃え盛る炎の中心である、アリアの部屋に向けてタクト型の杖を振るった。
上流貴族の屋敷に仕える執事は、高い教養と貴族の常識を知っている事を必要とされているため、貴族出身でありながら、その地位を継げなかった者が取り立てられる事が多い。
ライヒアルトは元々、下級貴族の家の次男坊であった。そのため、系統魔法を使う事ができたのだ。
ランクは最低のドットであるが、水メイジであった彼が全力で作りだした水球は人の背ほどもあるほど大きかった。
しかし、彼らは知らなかった。
その火災が油によって引き起こされたものだと言う事を。そして油が原因の火災に水を直接かけてはいけない事も。
「ガッ?!」
爆発。
ガンガンに熱された大量の油に大量の水。水蒸気爆発が起こるのは当然の結果である。
近くにいた何人かは、その衝撃に吹き飛ばされ、また、もう何人かは爆発によって撒きあがった炎と、飛び散った油によって大火傷を負い、廊下をのたうち回って呻き声をあげる。その中に、男爵(仮)や、メイド長の姿も含まれていた。
無事だったのは、水を放ったライヒアルト、1階に走って行ったカヤ、そして後方で指示を出していたリーゼロッテの3人だけ。
図らずも、リーゼロッテ達の消火活動はアリアの作戦の効果を助長してしまったのだ。
「ぐぅあああっ」
先頭に立っていた男爵(仮)は、完全に火達磨となって、苦しそうな叫び声をあげていた。
「こ、これは一体……?ち、治癒を」
「たわけ、死人に治癒魔法など効くか!それよりさっさと水を出して火を消してやれ!とりあえずさっきのよくわからん爆発で火は小さく……」
ライヒアルトが呻き声をあげる男爵(仮)に治癒をかけようとするが、リーゼロッテによって制された。
しかしそこで、さらにリーゼロッテ達を追い詰める知らせが、階段を慌てて走り上って来たカヤから知らされる。
「リーゼロッテ様、下からも炎が!」
「な、何じゃとっ?!どういう事……」
そこまで言ったところで、おかしい、とリーゼロッテは感じた。
(今臭いを放っているのは、床でのたうち回っている下僕達が焼ける臭いだ。あの小娘が焼ける臭いはしていたか……?)
彼女は燃え盛る炎を横目に、顎に手でさすりながら思考する。
(それに、ただ火をつけただけでここまで勢いよく燃え広がる物なのか?まさかあのハシバミの臭いは……)
そこまで思考した所で、彼女は何かに気付いたのか、ハッとした表情を見せた。
「く、くく。クひ。くヒャハははアッ!やってくれたわ、“狸娘”がッ!」
「ぬ、主様?!」
非常事態の中、突如大口を開けて愉快そうに笑いはじめたリーゼロッテに、カヤはその正気を疑った。
「小娘と思って舐め過ぎたか……。まさかまさか……こんな素晴らしい反撃をしてくるとは。カヤ、ライヒアルト。貴様らは火をなんとか消し止めろ!妾はあの狸娘を追う!」
「何を……?すでに小娘など中で焼け死んでいるのでは……」
「たわけっ、ではなぜ下から火が出るのじゃ!あの狸娘の仕業に決まっておろうが!アレはもう屋敷から逃げ出しておるに決まっておるわ!」
リーゼロッテはそう叫ぶと、爆発によってやや下火になっていたアリアの部屋の方へとふらふらと歩き出す。
「主様、何を……」
「……成程。どうやって逃げたかと思えば。狸娘、ではなく土竜娘、であったか。面白い、実に面白いぞッ!」
リーゼロッテは床に空いた穴を見下ろして、そう吐き捨てると、鼻をひくつかせながら、開かない窓を勢いよくぶち破って外に飛び出していった。
*
はぅ、はふ、はぅ、はぁ
少女の荒い息が夜の草原に響く。
アリアは草原を風のように、とはいかなかったが、全力で走っていた。
心臓が爆発しそうだ、足の感覚が無くなってきている。
アリアの体力は限界に近付いていたが、それでもなお走り続けた。止まる事は許されないのだから。
その右手にはもう火付けに使ったピッチフォークは握られておらず、灯を消したランプだけが握られていた。屋敷を出る際に捨ててきたのだ。灯りをつけていては、すぐに見つかってしまいそうだったから。
腰に巻きつけた火炎瓶も残りは2つだけ。全て使用してもよかったが、もしもの時のために取っておいていた。
燃え盛る屋敷は既に遥か後方。
アリアが勝手口から屋敷を出たのは、屋敷の住人が上に集められた直後だった。
既に走り出してから半刻近い時間が経ち、貧弱なアリアの足でも、屋敷とは相当な距離が開ける事に成功していた。
「はぁ、ふう。さすがに、もう、大丈夫、か?」
アリアは屋敷からどれだけ距離が離せたのか確認するため、首だけで後ろを振り返る。
「……んっ?」
黒い粒。
最初は黒い粒に見えた。
それが猛烈な勢いで、屋敷の方向から一直線にこちらに近づいてくる。
いや、あれは黒い粒ではない。髪をなびかせながら、凄まじい勢いで駆けてくる。
嘘でしょ……。あれは。
リーゼロッテ。
「はぁ、はぁ……なんでよぉっ……!」
その理不尽な走行速度と、的確すぎる察知能力に、泣き事をいいながらも、アリアは走った。
アリアは知らなかった。リーゼロッテが僅かな匂いで人間を追えることを。そして獣のようなスピードで走れることも。
アリアは、街道の方向とは明後日の方向を向いて逃げており、その距離もかなり開いていたため、内心ではもう追って来れないだろう、と思っていた。
そもそも、屋敷が今現在燃え盛っているのに、リーゼロッテ本人がこちらを優先してくる事自体が、アリアにとっては誤算だった。
(ダメだ、これじゃ確実に追いつかれる)
後ろを振り返って、更に縮まっている距離でそう思ったアリアは足を止め、追ってくるリーゼロッテに向き直ってランプの灯を付けた。
「あ゛あぁああっ!」
アリアは奇声を発しながら、火炎瓶に火を付け、もう間近に迫っている、三日月のような口をしたリーゼロッテ目がけて投げつける。
これだけの勢いで直線的に向かってくるならば、自分に向かって飛んでくる瓶は不可避のはず、と考えて。
「かっ!」
しかし、リーゼロッテが右腕を横薙ぎにしてそれを払うと、火炎瓶はあっさりとたたき落とされて、地面を焼くだけとなってしまう。
いつの間にか進行方向に回り込んだリーゼロッテが、にや、と歪んだ笑みを浮かべてアリアの前に立ち塞がっていた、
「……っ!化物……め」
アリアは観念したように、懐からナイフを取り出して両手に持ち、正面に構える。
「くっふ、追いついたぞ、アリア?成程成程、今まで行動を起こさなかったのはこんなものを作って脱走の準備をしていたためか?……くくひヒハハっ!」
割れた瓶の残骸に目をやりながら、怒りとも愉悦ともしれない表情を浮かべるリーゼロッテの瞳は深紅に染まっている。
「…………あら、こちらの本心はばれていたという事?どうやってばれたのかしら。演技には自信があったのだけれど?」
アリアは開き直ったように、ふてぶてしい態度でリーゼロッテにそう返す。
「くヒ、妾をなめるなよ、小娘。あんな稚拙な演技で妾を欺けると思うか?そういう貴様こそどうやってこちらの思惑に気付いた?」
「それを教えて私に何か得があるの、かしらッ?!」
「くっククク……この狸娘がッ!」
抉るように突きだされたナイフを、怒号とともに蹴りあげられた足が狩る。
その衝撃で手から離れたナイフは、高く高く放り出され、その行き先が見えないほど遠くへと飛ばされていった。
「そんなもので妾と戦うつもりじゃったのか?随分と舐められたの……」
「ぐっ……」
心外だ、という表情をするリーゼロッテに、獲物を失ったアリアはじりじりと後ずさる。
「くく、逃がさんよ。枝よ、伸びし森の枝よ。狸娘を捕らえよ」
リーゼロッテがそう呟くと周りに生えていた草が、意思を持った蔓のように伸び、逃げようとするアリアの足を拘束してしまった。
「う……先住、魔法、いえ精霊魔法ね。処女の血が好きなんて趣味の変態はやっぱり吸血鬼?」
「ご名答」
リーゼロッテはその問いに答えると同時に、アリアの鳩尾に拳をぶちこんだ。
「かっ、はっ……!」
「狸め。折角手に入れた妾の塒を台無しにした挙句、その軽口、万死に値するぞ。貴様は血を吸うだけでは飽き足らん……生きたまま腹腸を引きずりだしてやろうか?」
リーゼロッテはうずくまるアリアの前髪を乱暴に掴みあげて問う。
憤ったような台詞だが、何が面白いのか、リーゼロッテの表情はむしろ愉悦に満ちていた。
「冗談……そんな悪趣味な舞台はお断りよ。脚本の書き直しを要求しますわ、三流脚本家さん?」
「くく、大根役者は黙って脚本家の言う事を聞いて踊るものじゃ。この、ように、なッ!」
ぼす、という鈍い音とともに、まるでダンスを踊るかのように、アリアの体は右へ左へ激しく揺すられる。
足が絡め取られているために、逃げる事も、吹き飛んで威力を殺すことすらできない。
「……っ、ぐっ、かふっ……あぅ……ぅ」
「くヒャヒふふへっへヒ、ケきャぁあああぁあああ!」
殴る。蹴る。突く。投げる。絞める。また殴る。
汗が滲む。涙が零れる。唾液が飛び散る。胃液が逆流する。血が滴る。
奇声を発しながら、狂ったように腕と足を振り回すリーゼロッテ。しかしこれでも十分手加減をしている。勿論嬲るためだけの手加減だが。
彼女が本気ならば、アリアなど一撃で死んでいる。それ程の力の差があるのだ。
「…………」
「おや、殺してしもうたか?」
リーゼロッテは動かなくなったアリアの顎先を人さし指でクイと持ちあげて呼吸を確認する。
喉が潰れかけているのか、ヒュゥ、と空気が漏れだすような弱々しいものだが、確かに呼吸は行われていた。
「ほう、まだ生きておるか。なかなかに命根性が汚いの。……ではそろそろ頂くとするか。まぁ安心せい、お前は中々に面白いからの。死んだ後は妾の正式な下僕にしてやろう」
リーゼロッテは、動かぬアリアの頸動脈に齧りつこうと大口を開けて、その艶めかしい舌をアリアの首に這わせていく。
ざしゅっ。
そして何かを突き立てる音が響いた。
「がフっ?!」
声をあげたのは、リーゼロッテ。
目を剥くリーゼロッテの喉元には鈍い輝きを放つナイフが無惨に突き刺さっている。
動けぬはずのアリアはそのナイフを握って、傷口が広がるように掻き回す。
アリアはリーゼロッテのサンドバッグにされながら、ずっとこの瞬間を狙っていた。相手が吸血鬼ならば、最後には絶対に大口を開けた間抜け面を晒して無防備になると。
懐の中に忍ばせた最後の武器である“もう一本の”ナイフはその時のために隠していたのだった。
いくら吸血鬼といえど、首を刺されて、掻き回されては死ぬしかあるまい。
「……綺麗な薔薇には刺がある、ってね?」
アリアは小さな声でそう呟くと、ふらふらしながらも、全身を使って立ちあがる。
(何とか……生き残ったけれど、かなり、まずい、かも)
いいように攻撃をうけていたアリアの体は、内臓にまでは損傷がなかったものの、所々骨にヒビが入り、全身が打撲のような状態になっていた。
正直、動くのも厳しい満身創痍の状態だ。
「痛……くぅ……」
それでも、アリアは体に鞭打って吸血鬼の骸に背を向けて歩き出す。
こんなところに留まっては居られない。屋敷から次の追手が来るかもしれないし、血塗れのまま立ち止まっていては、獣の餌になってしまうかもしれない。
(とりあえず、人の居る場所まで……それからの事は、そこに行ってから……)
その時。
「くふ、どこにいく?主を置いていくなど……」
後ろから掛けられた声。
アリアは、その声を聞いた途端、糸を切られたマリオネットのように、ぺた、と力なく尻餅をついてしまった。
尻餅をついたまま後ろを振り返ると、リーゼロッテは何もなかったようにそこに立っていた。首につけたはずの痕はどこにいったのか既に霧散している。
「は、はは……何よ、それ」
アリアはその理不尽に、乾いた笑いしか出せなかった。
「惜しかったのう……突いたのが心臓ならば妾も死ねたかもしれんぞ?」
「畜生……畜生、畜生!」
余裕綽々のリーゼロッテに対し、目にうっすらと涙を浮かべ歯噛みするアリア。
「いやはや、ここまでやれる娘だとは。本当に面白いぞ。しかしさすがにもう万策尽きたようじゃの?」
「いや、だ……私は……こんなところで……」
リーゼロッテの両腕が、アリアの肩を掴む。
「さて、ま、折角だし血は貰って置くかの……」
「うっがぁあああ!」
アリアは最後の力を込めて体をばたつかせるが、リーゼロッテの圧倒的な膂力で体を抑えつけられ、首筋にその牙を突き立てられる。
ぷち、と自分の血管が食いちぎられる音。
(こんな……こんな終わりって)
ちうちうと、血が吸い上げられる音と、それに伴う奇妙な快感。走馬灯のように『私』のつまらない人生がアリアの脳内を巡る。
(……私は……ぜったい……キレイ、な、せか、いを…………)
自らの願望、いや決意を思い浮かべた所で、アリアの意識はプツリと途切れた。
…………